②組立屋と荷車
2015.2/20 更新分 1/1
「アスタ、本当にアレが女の子だって気づいてなかったの?」
心底から呆れ果てた様子で、ララ=ルウはそう言った。
「どっからどう見ても普通の女の子だったじゃん! ねえ、レイナ姉?」
「うん」
「シーラ=ルウは? 気づいてたでしょ?」
「はい。男性には見えませんでしたね」
「リィ=スドラ――は、まだその時は来てなかったんだっけ」
「ええ。ですが、ちょうどわたしが到着した時に、南の民が怒った顔をして屋台の裏から出ていくところでした。もしもその人物のことを取り沙汰しているのでしたら――申し訳ありませんが、若い娘にしか見えませんでしたね」
別にリィ=スドラが申し訳なく思う必要はない。
ひたすら俺が自分の不明を恥じていればよいのだろう。
すべての仕事を終え、《キミュスの尻尾亭》に屋台を返却したのちのことである。
ゆえあって、しばらく時間をつぶさなくてはならなかった俺たちは、宿屋と宿屋の間の路地に身をひそめて、さきほどからずっと同じ問答を繰り返していた。
いや、問答というか、もはや糾弾か。
かの少年ならぬ少女が立ち去る頃にはもう中天が近くなっていたので、俺はすぐさま《玄翁亭》に向かわなくてはならなくなり、こうして糾弾される時間も取れなかったのである。
まあ、そんな時間は永久に取れなくとも、俺としてはいっこうにかまわなかったのであるが。
「ほんとに信じらんないよねー! それじゃあ殴られるのが当たり前さ! 心配しちゃって損したよ!」
「心配ぐらいはしてくれよ。罪に対する罰はもう受けてるんだから」
あれから数時間は経過しているのに、俺の左頬はまだズキズキとうずいていた。たぶん口の中も切れているから、本日の晩餐にチットを使うのはやめておこうと心に誓っておく。
「少なくとも、あたしよりは年上の女の子だったよね。うわー、自分がそんな目に合ったらって想像しただけで腹が立つなー。そんなの女衆に対する侮辱だよ侮辱」
「だからさ、宿場町に異国人の女性はいないっていう既成概念にとらわれていただけなんだよ。ララ=ルウだって、宿場町で女性のジャガル人やシム人を見かけたことはないだろう?」
「関係ないでしょ。あんなに綺麗な顔した男の子がいるはずないし」
「そうかなあ。シン=ルウとかだってかなり綺麗な顔立ちだと思うけど」
レバーブローを叩きこまれた。
本当に、踏んだり蹴ったりの1日である。
しかもそのすべてが自業自得であることが物悲しい。
「ふん! あたしはてっきり、女の子とわかってて鼻の下をのばしてるのかと思ってたよ! こーんな風に顔を近づけちゃってさあ。美味しい美味しいって料理をほめられて、アスタもまんざらでもなかったんじゃない?」
「馬鹿なことを言わないでくれよ。その段階では男だと思ってたんだから、鼻の下なんてのばしようもなかったさ」
「あ、女の子だってわかってたら鼻の下をのばしてたんだ? ふーん、アイ=ファに言いつけちゃおっかなー」
やめてくれ、そういう話をしていると、たいてい最悪のタイミングで当人が現れるものなのだから――とか考えていたら、「私が、どうしたと?」というハスキーな声音が背後から響きわたった。
どっと冷や汗をかきながら振り返ると、通りを行き交う人々を背景に、ギルルの手綱を握ったアイ=ファが凛然と立ちはだかっていた。
「待たせたな。今日はギバが狩れなかったので、少し遠い場所まで罠を仕掛けに出向くことになってしまったのだ」
「だ、大丈夫だよ! 狩りの仕事で疲れているだろうに、悪かったな?」
「大事ない。……で、鼻の下がどうしたのだ?」
「うん、鼻の下には人中という急所があって、そこを突かれると人間はひとたまりもないらしいんだよ!」
「……それは興味深い」と応じながら、アイ=ファの目はこれ以上ないぐらい不審げに細められてしまっていた。
ララ=ルウが余計なことを言い出さないうちに、俺は女衆らに「それでは本日もお疲れ様でした!」と頭を下げておくことにする。
「アイ=ファが来てくれたので、俺は荷車を買いに行ってきます。レイナ=ルウ、今日は本当に助かったよ。どうもありがとうね」
「いえ。人手を貸すのはファ家とルウ家で交わされた約定なのですから、当然のことです。……それに、わたしにとっても実りの多い1日でした」
宿屋の仕事に関しても、ララ=ルウやリィ=スドラではなく、レイナ=ルウに手伝いを頼んだのだ。屋台の商売に関してはララ=ルウたちに一日の長があっても、調理の技術はレイナ=ルウのほうが上である――という俺の見通しは完全に正しく、彼女は初日からヴィナ=ルウ以上の働きを見せてくれたのだった。
「ヴィナ姉の怪我が治るまでは、わたしがお手伝いをすることになっていますので、明日からもどうぞよろしくお願いします」
そんな風に述べるレイナ=ルウの面には、実に晴れやかな微笑が広がっていた。
技術の習得に貪欲なレイナ=ルウは、今日1日だけでもずいぶんレベルアップした気がする。こいつはうかうかしていられないな、と俺は武者震いを禁じ得ないほどだった。
「む……? 私に何か用か?」と、ふいにアイ=ファがけげんそうな声をあげた。
そうしてアイ=ファのかたわらに進み出てきた人物の姿に、俺も驚きの声をあげてしまう。
「シュミラル? いったいどうしたんですか?」
「アスタ……アスタたち、お願い、あります」
何か微妙な違和感を感じ、俺はそちらに小走りで近づいていく。
違和感の正体は、シュミラルの声だった。
いつでも沈着なシュミラルの声に、息切れの擦過音が混じっていたのだ。
近づくと、シュミラルの黒い面にうっすらと汗が浮かんでいるのが見てとれた。
「すみません……走ったので、息、切れました。アスタたち、会えて良かったです」
「どうしたんです? 何か急用ですか?」
「はい。……私、森辺、行くこと、可能ですか?」
俺は愕然とすることになった。
シュミラルの黒い瞳が、俺と、俺の背後に立ち並んだ女衆を見回していく。
「……ヴィナ=ルウ、心配です。私、会うこと、可能ですか?」
「け、怪我をしたヴィナ=ルウのお見舞いに出向きたいということですか? ……シュミラルが、森辺の集落に?」
「はい」
俺は言葉を失って、女衆らを振り返った。
ララ=ルウが少し緊迫した面持ちで、レイナ=ルウに耳打ちをしている。
レイナ=ルウは、幼げな顔に深い思慮の表情を浮かべつつ、やがて俺の横にまで足を進めてきた。
「東の人、わたしはルウ本家の次姉、レイナ=ルウという者です。あなたのおっしゃるヴィナ=ルウの、血を分けた妹ですね」
「はい。私、商団《銀の壺》団長、シュミラル=ジ=サドゥムティーノです」
「シュミラルですね。了解しました。……では、シュミラル、どうしてあなたはヴィナ=ルウを心配しているのでしょう? あなたにとって、ヴィナ=ルウは何なのですか?」
「何でもありません。ただ心配、それだけです」
「ヴィナ=ルウの友、というわけではないのですね?」
「はい。屋台の食べ物、売る、買う、それだけです。友、ありません」
「そうですか……」と、レイナ=ルウはそっと目を伏せる。
「邪な考えがない限り、森辺の集落への出入りは禁じられていません。ルウの家を訪ねることも、あなたの自由です。ただし、あなたを客人として家の中にまで招き入れるかどうか、それを決めるのはわたしたちの家長です」
「はい。わかります」
「では、家長とヴィナ=ルウにはわたしの口からあなたのお言葉を伝えておきましょう。お返事は明日、ということでよろしいですか? 家長の許しが出れば、わたしたちがルウの集落までご案内します」
「はい。ありがとうございます。私、感謝します」
シュミラルは、奇妙な形に指先を組み合わせて、レイナ=ルウに礼をした。
レイナ=ルウは、静かな面持ちのまま、ふっと微笑む。
「異国人であるあなたが何故そこまでヴィナ=ルウの身を案じるのかはわかりませんが、同じ家の家人として、そのご厚意には御礼の言葉を述べさせていただきたいと思います。それでは、また明日に。……アスタ、わたしたちはお先に失礼いたします」
「うん。気をつけて帰ってね」
シーラ=ルウやアマ・ミン=ルティムに比べたらずいぶん子どもっぽい印象であったレイナ=ルウであるが、ここぞというときには俺なんかよりもよっぽどきちんとした対応ができるのだな、と感心させられてしまった。
そうして女衆らは通りのほうに出ていき、その場には、俺とアイ=ファとシュミラルだけが残される。
「シュミラル。ヴィナ=ルウのお見舞いをしたいだなんて――ずいぶん思いきりましたね?」
「はい。悩みました。でも、このまま、ヴィナ=ルウ、会えない、嫌でした」
それでもやっぱり、シュミラルがそこまで思い詰めてしまうというのは、俺にとって意想外の出来事だった。
シュミラルがヴィナ=ルウになにがしかの思いを抱いているらしいということは理解しているつもりであったが。しかし自分でも言っていた通り、両者は屋台の客と売り子の関係性であるに過ぎなかったし、個人的な言葉を交わしたことも数えるぐらいしか存在しないと思う。
なおかつ、シュミラルは西の民ですらなく、3日後にはジェノスを離れてしまう立場であったのだから、その関係性に発展を望んでいるとも思えなかったのだ。
でも――もしかしたら、今でもシュミラルは関係性の発展などを望んでいるわけではないのかもしれなかった。
ただ心配だから会いに行きたい。その言葉がすべてなのではないだろうか。
理屈ではなく、ただ会いたいと――そんな感情のままに動いているだけなのかもしれない。
そんなことを考えていたら、シュミラルにひどく穏やかな眼差しで見つめられてしまった。
「アスタ、迷惑、かけません。心配、不要です」
「いや、迷惑なことは全然ありませんが――ただ、ルウの家長というのは森辺の族長であり、なおかつ、とても気性の激しい御仁でもあるのです。森辺の民と東の民では色々と考え方も異なるでしょうから、それだけは気をつけてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
すると、無言で成り行きを見守っていたアイ=ファが、俺にではなくシュミラルに声をかける。
「東の民が森辺に足を踏み入れたいなどと願い出るのは、この80年で初めてのことかもしれん。……お前はスン家の騒動の際、私にアスタを守ってほしいなどと言ってきた男だな、東の民よ。その銀色の髪には見覚えがある」
「はい。私、シュミラル=ジ=サドゥムティーノです。あなた、家長、アイ=ファですね」
「うむ。ファの家の家長アイ=ファだ。……森辺の掟に触れぬ限り、森辺の民がお前を害そうとすることはない。ただし、森辺の掟を破ればジェノスの法よりも強い罰が下されるということは覚えておけ」
「はい。わかりました」
シュミラルが、森辺の集落を訪れる――まさか、そのような日がやってくるとは夢にも思っていなかった。
嬉しいような、不安なような、何とも落ち着かない気分である。
「シュミラル。もしルウの家長の許しが出たら、明日は俺も同行させてくださいね。シュミラルのことを1番よく見知っているのは俺なのですから、そのほうが色々と都合がいいと思います」
「……アスタ、迷惑、ないですか?」
「まったくもって、迷惑ではありません。俺もヴィナ=ルウの具合は気になっていたので、ちょうどよかったぐらいです」
俺がにっこり微笑んでみせると、シュミラルも嬉しそうに目を細めた。
「それじゃあ今日は失礼しますね。これから組立屋に行って、注文しておいた荷車を引き取らなくてはならないので」
「はい。ありがとうございました。明日、また、屋台、行きます」
「こちらこそ、毎度ありがとうございます。それじゃあアイ=ファ、出発しようか」
「待て。その前に問い質しておきたいことがある」
「え?」
シュミラルとの問答はまだ終了していなかったのか、と俺はアイ=ファを振り返る。
その瞬間、強い力で下顎をつかまれた。
往来にて、アイ=ファがぐっと顔を寄せてくる。
「……その傷はいったい何なのだ、アスタ?」
「き、傷? 傷なんてどこにもついていないだろう?」
「ごまかすな。唇の端が切れているし、左の頬が赤くなっている。それは何者かに殴られた跡であろう?」
アイ=ファの瞳は爛々と燃えさかり、それにつれて、俺の下顎もぎりぎりと軋んでいく。
「どうしてそのような傷を負うことになった? お前はまた私の目の届かぬところで何か無茶な真似をしでかしたのか、アスタよ?」
「痛い痛い! 顎が砕ける! 何も無茶なんてしてないよ! ちょっとした行き違いがあって、その末にこつんと小突かれただけだ!」
顎は痛いし、アイ=ファの顔は近すぎる。
今日の俺に、この距離は刺激が強すぎた。
昨晩――さまざまな思いに胸の中をかき回されながら、俺はアイ=ファの身体を力まかせに抱きすくめてしまった。そのときの熱いぬくもりと目のくらむような感覚は、とうてい半日ぐらいで忘れられるようなものではなかったのである。
アイ=ファはきゅっと口もとを引き結び、俺の下顎を解放してから、足を蹴りつけてきた。
そうして、いつものようにぷいっとそっぽを向いてしまったその顔が、ほんの少しだけ赤くなっているようにも見えたのだが、それを確認する余力はなかった。
いや――余力というか、そのようなものを確認してしまったら、俺もつられて顔を真っ赤にする羽目になるような気がしてならなかったのだ。
まだまだ人通りの多い昼下がりの往来で、そんな気恥ずかしい真似は避けたい。
「そ、それでは失礼いたします! シュミラル、また明日に!」
「はい」と、うなずくシュミラルは、何だかやたらと優しげな眼差しをしていた。
優しげで、何かをとても喜んでいるような――なおかつ、何かを祝福するかのような、それはものすごく慈愛に満ちみちた眼差しだった。
その結果として、俺はけっきょく羞恥心を誘発されてしまい、頬に血をのぼらせることになってしまったのだった。
◇
組立屋と呼ばれる木工職人の店は、宿場町の南方にあった。
天井の高い平屋の建物で、さまざまな木材がそこら中に積み重ねられており、店というよりは工房といったほうが正しいのかもしれない。
その、木屑の匂いが充満した埃っぽい工房で、俺は感嘆の声をあげることになった。
「へえ! こいつは立派なものですね!」
工房の奥からゴロゴロと引っ張ってこられた、巨大な荷車。
それは、感嘆に値する代物だった。
「まあ、1頭引きの荷車としては1番大きいし、1番頑丈なやつだからな。無茶な扱いをしなければ、5年や10年は使えるはずだ」
組立屋の主人は、いかにも職人気質らしい頑固そうな壮年の男性だった。
年の頃は40前後、身長は俺ぐらいだが厚みのある体格をしており、肌の色は黄褐色。布の腰巻と革のサンダルを履いているだけで、あとは裸身だ。
周囲では、同じような格好をした西の民たちが、ノコギリで木材を切ったり、それを組み合わせたり、金属の部品を打ち込んだりしている。どうやらこの工房では荷車ばかりでなく、戸棚や机や椅子などといった木工家具の作製も請け負っているらしい。
「ただし、月にいっぺんは車輪の点検に来ることだ。道の真ん中で立ち往生してもかまわないってんなら、まあ話は別だがな」
「月に1度ですね? わかりました。ありがとうございます」
「……礼を言われる筋合いはない。後で文句を言われないように正しい扱い方を伝えているだけだ」
組立屋の主人は、不精に伸びた褐色の髭を引っ張りながら、ぶっきらぼうに言い捨てる。
どうも森辺の民に対してはあまりいい感情を抱いていないご様子だが、商売は商売と割り切ろうとしているその仏頂面は、少し前のミラノ=マスを彷彿とさせるので、むしろ俺には親しみやすいぐらいだった。
ともあれ、荷車である。
荷車というか、形状は幌馬車そのものだ。
四角い本体に4つの車輪が取りつけられ、屋根には大きな布の幌がかぶせられている。
サイズとしては、長さ4メートル、横幅2メートル、高さ2・5メートルといったところか。
前面には簡素な御者台が設置されており、トトスにつなぐための長い棒状の板が2本、伸びている。
布の幌はアーチ状になっており、中のほうを覗いてみると、肋骨のように湾曲した8本の木の梁で支えられていた。
基本的には木造りであるが、要所要所には金属も使われている。車輪の軸と本体の間にはさまれたV字型の鉄の板は、もしかしたらサスペンションなのだろうか。とても簡素な造りの中に、職人の工夫と、そして機能美が感じられる。
宿場町でもしょっちゅう見かけることのある、荷車である。
しかしこれほど間近でじっくりと見るのは初めてのことであったし、新品でぴかぴかなのが、また感動だ。
俺のかたわらに立ったアイ=ファのほうも、さっきから好奇心や感嘆の念を抑えきれぬ感じで少し目を大きくしていた。
「近くで見ると、これほど大きなものなのですね。これは最大で何人まで乗れるんでしたっけ?」
「御者台の1人を除いて、5人から6人ていどだな。ただし、3人以上乗せるときは、速歩までで抑えておくことだ。無茶をすると、トトスのほうが潰れることになる」
それならまあ、鉄鍋や食材の重量まで合わせて、4名の女衆を乗せることも可能だろう。この荷車だけで100キロ以上はありそうなのに、トトスの力とは大したものだ。
「……で、これが腹帯だ。自分たちで調節できるように、付け方をよく覚えておけ。使いこむとだんだん革が伸びてきて、たるんでしまうからな」
言いながら、親父さんはギルルの丸っこい胴体に革の帯を巻きつけ始めた。
されるがままのギルルの顔を、親父さんは少しいぶかしそうに見上げる。
「ふん。どんなに大人しいトトスでも、初めて腹帯を着けるときぐらいは嫌がる素振りを見せるもんなんだが――もしかしたら、こいつはこれまでも荷車を引かされていたトトスなのか?」
「あ、はい、きちんと確認はできていませんが、そのはずです」
商団を偽装したカミュアたちのもとから逃げたトトス、という出自が正しいのならば、その際には荷車を引かされていたはずだ。発見時に腹帯とやらを着けていなかったのは、森の中をさまよっている間に外れてしまったか――あるいはトトスがギバに突き殺される前にと、カミュアあたりが帯を切って解放してやったためなのだろう。
その腹帯の左右に取りつけられた金具に荷車から伸びた2本の棒をかませて締めあげると、そこには宿場町でもお馴染みの、荷車引きのトトスの姿が現出した。
ギルルはとぼけた顔のままだが、これはなかなかに勇壮な姿である。
アイ=ファがひそかに誇らしげな面持ちになっていることも、俺は見逃したりはしなかった。
「あとは、革鞭だな。御者台からではトトスに足が届かないから、蹴る代わりにこいつで叩くんだ」
と、親父さんがその言葉通りの品物を俺に差し出してくる。
鞭と言っても、紐状のそれではない。競馬の選手が使うような棒状のものだ。
グリギか何かの木に、革を張った作りなのだろう。太さは2センチほど、長さは1メートルぐらいもあり、先端部には小さなへら状のものがひっついている。
「……何だそれは? まさかそのようなものでギルルを叩くわけではあるまいな、アスタ?」
と、アイ=ファが少しおっかない顔つきで俺に寄ってくる。
革鞭のしなり具合を確認しつつ、俺は「え?」と、そちらを振り返った。
「うん、まあ、叩かせてもらうつもりだよ。いま一緒に説明を聞いていただろう? 足でギルルを蹴る代わりなんだよ」
「叩かれたら、ギルルが痛がるであろうが?」
アイ=ファの眉が、いよいよ剣呑な感じに吊り上がっていく。
「いや、だから、足で蹴る代わりなんだから、足で蹴る以上の痛みはないよ! ね、そうですよね?」
当たり前だと言わんばかりに、親父さんもうなずいている。
その仏頂面に変化はないが、森辺の民たるアイ=ファの憤慨にどのような気持ちを抱いているのだろうかと、俺はちょっとひやひやしてしまう。
「痛がるぐらい強く叩いたら、トトスが暴走してしまうだろうさ。足で蹴るときと同じ場所を、同じ力加減で叩け。こいつらにはこんな立派な羽毛が生えてるんだから、それなら痛くもかゆくもないだろう」
そんな風に説明しながら、親父さんはギルルの尻を手の平で叩いた。
その目が、またいぶかしそうに細められる。
「おい。このトトスには焼き印を押していないのか?」
「焼き印? ……ああ、はい、押していませんね」
そういえば、トトスには所有者の証しとして焼き印を押す風習があるのだとカミュアが言っていたような気がする。
「焼き印がないと、盗まれたときに自分のトトスだと証しを立てることもできなくなっちまうぞ? ……まあ、森辺の民の持ち物に手を出す輩なんぞはいないんだろうが、トトス屋に行けば赤銅貨5枚で済む話だ。今からでも押しておけ」
「……焼き印とは、何だ?」と、今度はその声にまで不穏な響きが混じり始めるアイ=ファである。
「や、焼き印ってのは、焼いた鉄で印を焼きつけることだよ。そうすれば、他のトトスとギルルを見間違えることもなくなるだろう?」
アイ=ファの怒りが親父さんに向いてしまったら大変にまずいので、俺は大急ぎで答えをかっさらってみせた。
とたんに、アイ=ファは「駄目だ!」と、わめき散らす。
「そのような真似をしなくても、私がギルルを見間違えることはない! 焼き印など、私は絶対に許さぬぞ!」
何度も名前を呼ばれたせいか、ギルルが不思議そうに長い首を伸ばしてアイ=ファのほうに顔を寄せ始める。
すかさずアイ=ファはその大きな頭を両手で抱きすくめて、怒りと悲しみのまぜこぜとなった眼光を俺に突きつけてきた。
「……許さぬぞ?」
俺は嘆息をこらえつつ、親父さんに向き直る。
「あの、このトトスは前の持ち主も焼き印を押さずに使っていたようなのですが、それは別にジェノスの法に触れるような行為ではないのですかね?」
「そんなもんは、持ち主の自由だ。逃げられたり盗まれたりしたときに、自分が損をするだけだからな。……ただし、手綱や腹帯なんかにわかりやすい目印をつけておくのは、他のトトス乗りに対する礼儀だ。普段は焼き印なんかじゃじゃなく、そういう飾り物で自分と人様のトトスを見分けるものだからな」
「目印ですか。なるほど」
うなずいてから、アイ=ファを振り返ると、我が女主人はいそいそと皮マントの内側をまさぐっているところであった。
そこから取り出されたのは、角と牙を連ね合わせた、お馴染みの首飾りである。
俺が商売を始めて以来、アイ=ファの収穫した角と牙はまったく銅貨に換える必要がなくなってしまった。それらのすべてを首にかけるのはあまりに邪魔であったため、余剰分はマントの内ポケットに収納されることになっていたのだ。
で、アイ=ファはそこから3本の角と牙を取り外すと、新たな革紐でそれを繋ぎ、ギルルの首に巻きつけ始めた。
なるほど――狩人が家人の健やかな生を願って贈るという、アレか。
ギルルの性別は不明だが、ファの家の一員であることに相違はないので、まあなかなか気のきいた贈り物ではあるかもしれない。
アイ=ファは満足そうにギルルの首をなでてから、えっへんとばかりに胸をそらしてきた。
「これでよいのだな? ……焼き印など許さぬぞ、私は」
「わかったってば。文句はないよ。うすうす気づいてはいたけれど、お前ってけっこう身内には過保護だよな、アイ=ファ」
「やかましい」と応じながら、それでも危地を回避できたことに安堵した表情で、アイ=ファはぽんぽんとギルルの首を叩く。
「……おかしな連中だな、まったく」と、親父さんがつぶやいた。
その声の響きにちょっと驚いて、振り返ると――親父さんは、褐色の髪をかき回しながら、苦笑していた。
「荒くれ者みたいに凄んだかと思えば、子どもみたいにわめき散らしたり、本当にわかりづらい連中だよ、森辺の民ってのは。……なあ、お前さんたちはこの宿場町で屋台を開いてるんだろう? 俺は1日のほとんどを店の中で過ごしている生活だが、噂ぐらいなら聞いてるぜ?」
「え?」
「この前は、城の人間まで巻き込んで刃傷沙汰になったそうじゃないか。たしか、大罪を犯した森辺の民が、同じ森辺の民に斬り伏せられたんだったか?」
俺は思わず言葉を失ってしまう。
そんな俺に、親父さんは探るような視線を向けてきた。
「今まで森辺の民は、城の人間に罪を許されてきた。町中で騒ぎを起こそうが、屋台を壊そうが――それどころか、人を殺めても罪には問われないっていう評判だった。それでいきなりこの前の騒ぎだからな。もしかしたら、お前さんたちは城の人間に見限られちまったのか?」
「見限られる、という言葉は正しくないと思いますね。ただ、森辺の民だってれっきとした西の民なのですから、西の王国の法をきちんと守るべき、という正常な姿に立ち戻りつつあるだけなんだと思います」
まさかいきなりそのような問答を持ちかけられるとは思っていなかったので、俺の返事はずいぶんたどたどしいものになってしまった。
「ふうん。……お前さんたちに、都の法を守る心づもりなんてものがあるのか?」
「ありますよ! というか、都の法を破っていた森辺の民はごく少数で、今はその全員が処断されたか、処断を待つ身になっているんです!」
ザッツ=スンとテイ=スンは、すでにいない。
ズーロ=スンは、ディガやドッドとともに虜囚の身である。
そして、その他の人々は――
「あ……だけど、モルガの森の恵みを荒らすという罪に関しては、どれほどの罰を与えるべきか、城の人たちと審議をする予定になっています。彼らは元の族長の命令に従わされていただけなので、俺たちは穏便に済ませたいと思っているのですが……」
「森の恵み? ああ、そんな法もあったっけな。そんなもんは、森辺の民のためだけに作られた法だろう。町の人間は、ギバなんぞのいる森には最初から近づけもしないからな」
面倒くさそうに言いながら、親父さんが分厚い手の平を振る。
「だから、そんな話はどうでもいい。重要なのは、城の連中との関係だよ。町の人間は、城の人間には逆らえない。城の人間が白と言えば、黒いものも白くなっちまう。……それでも城の人間はめったに石塀の外に出てきたりはしないから、べつだん俺たちの生活に関わりはないがね。問題なのは、城の人間にすべてを許されていながら町の中を闊歩する連中――つまりは、森辺の民ってことだ」
気づくと、アイ=ファが俺のすぐ横に立っていた。
親父さんは、いくぶん警戒心の増した目つきで、アイ=ファの姿を上から下まで眺め回す。
「これまで組立屋なんざに顔を出す森辺の民はいなかった。だからこうして森辺の民とまともに口をきくのは、俺にとっては生まれて初めてのことだ。……なあ、森辺の民ってのは、いったい何なんだろうな?」
「何――と問われても、森辺の民は森辺の民だとしか答えようがない。モルガの森辺に住み、ギバを狩る、それが私たち森辺の民に与えられた仕事だ」
「ふうん。ずいぶん堅苦しい挨拶だな。さっきの取り乱し様とは大違いだ」
親父さんの言葉に、アイ=ファは口をへの字にしてしまう。
その子どもっぽい表情に、親父さんはまたにやりと笑う。
「まあ、俺みたいに人間づきあいの少ない男には、それも大して関係ない話だがな。大通りに店をかまえてしょっちゅう森辺の民と顔を突き合わせている連中には、また別の感想もあるんだろうが――とりあえず、俺は自分の商売相手が大嘘つきなんかではないってことを祈るばかりだ」
「はい。俺たちも今後の行動で身の潔白を証し立てていくしかないと思っていますよ」
「だったら都の法に従って、商品の代価を支払ってもらおうか。前金の白銅貨50枚を差し引いて、残りは白銅貨70枚と、革鞭と腹帯の代金が白銅貨7枚、しめて白銅貨77枚だぜ、森辺のお客人」
そう言って、親父さんは愉快そうに白い歯を見せた。