箸休め ~感謝の思い~
2025.6/19 更新分 1/1
・本日、書籍版の第36巻が刊行されますので、記念のショートストーリーを公開いたします。
・なお、当作は今巻から電子書籍のみの刊行となりますのでご了承くださいませ。
ドゥルクはとても満ち足りた心地で、その時間を過ごしていた。
ジェノスという地で出会った人々が、わざわざ《青き翼》のために送別の晩餐会というものを開催してくれたのである。これまでこの大陸アムスホルンでそれほど手厚い歓待を受けた経験はなかったので、喜びもひとしおであった。
なおかつ、ドゥルクのかたわらに控えた存在が、喜びの思いを倍増させてくれる。
晩餐会が始まってから、ティカトラスの息女であるヴィケッツォがずっと同行しているのだ。明日の別れを目前に控えて、ドゥルクの心はこれ以上もなく満たされていた。
ヴィケッツォは、かつてドゥルクが心を奪われた女性の息女でもある。
つまりは、ティカトラスという貴族がドゥルクを差し置いて、その女性と子を生したのだ。
まあ、その出来事そのものに文句をつけることはできない。あれだけ魅力的な女性であれば、数多くの相手から求愛されていたことだろう。ドゥルクは力及ばず敗れ去ったのだから、あとは自分が愛した女性の幸福を祈るしかなかった。
だが――ドゥルクは長らく、ティカトラスという人物を忌避していた。
それは、息女たるヴィケッツォが不遇の人生を送っていると誤認していたためである。
まず、竜神の民は外部の人間と婚儀を挙げることを許されていない。遊びの色恋を楽しむのは自由であるが、婚儀の相手は同胞のみと定められているのだ。
もちろん相手が竜神の王国に移り住み、竜神の子となるならば、その限りではないが――大陸アムスホルンの貴族であるティカトラスは、そんな気持ちも持ち合わせていなかった。むしろ、竜神の民たるその女性を大陸アムスホルンで伴侶に迎えたいと願っていたようであるのだ。
その時点で、ドゥルクは憤懣を募らせていた。
唯一の救いは、その女性がティカトラスの申し出を突っぱねたことである。その女性は竜神の王国を捨てることなく、最後まで誇り高く生きていた。
だが――不憫なのは、ヴィケッツォである。
ティカトラスも母たる女性もおたがいの故郷を捨てる気がなかったため、すべての皺寄せはヴィケッツォに向けられた。ヴィケッツォは竜神の王国において不義の子と見なされるため、王国の領土に踏み入る資格がなく、船上で生み落とされることになったのだ。
そうしてヴィケッツォはティカトラスに引き取られて、大陸アムスホルンの民として生きることになった。
そして、ティカトラスによって不遇の人生を押しつけられているのではないか――と、ドゥルクはずっとそんな憤懣を抱え込んでいたのである。
まずヴィケッツォは、いつでも男のような格好をしていた。そうして父たるティカトラスの護衛役として働かされていたのだ。ダームの港町でその姿を見かけるたびに、ドゥルクははらわたが煮えくり返るような思いであった。
遠目にも、ヴィケッツォは母親似の魅力的な娘であった。
きわめて凛々しい面立ちをしているため、武官のような格好もよく似合っている。きっと剣の腕も、そこらの剣士に負けない力量なのだろうと察せられた。
しかし――それでも、ヴィケッツォは女人であるのだ。
彼女の母親は勇敢な船乗りであったが、女性らしさには事欠かなかった。美しい黒髪をなびかせて、豪奢な織物の隙間から黒い素肌を覗かせる、蠱惑的な美貌であったのだ。それは男に負けない勇壮な姿でありながら、女人にしかありえない優美さをも備え持っていた。
然して、ヴィケッツォはいつでも男のように振る舞っている。
美しい髪もきゅうきゅうにひっつめて、窮屈そうな黒ずくめの装束を纏い、飾り物のひとつもさげていなかった。これではラキュアの男衆のほうが、よっぽど華美なぐらいであった。
しょせんティカトラスは、竜神の民の強靭な力を欲していただけなのではないのか――剣士としての才覚を持っていたヴィケッツォを便利に使っているだけなのではないのか――ドゥルクは、そんな疑念にとらわれることになった。また、ティカトラスが正式な伴侶を娶らず、側妻なるものを何人も侍らせていると聞き及び、いっそうそんな思いを募らせることになったのだった。
しかし、すべては誤解であった。
ヴィケッツォは自らの意志で護衛の役目を務めており、ティカトラスはむしろ娘を華麗に着飾らせることに大きな喜びを見出していたのだ。
「もちろんヴィケッツォが家で刺繍を楽しむような女人に育っても、わたしは何の文句もなかったよ! でも、ヴィケッツォが剣の腕を磨いてくれたおかげで、こうしてともに大陸中を駆け巡ることができるんだ! これは、何にも代えがたい喜びだね!」
ドゥルクとの和解が成った後、ティカトラスはそんな風に言っていた。
そうしてティカトラスは、出向いた先の祝宴でヴィケッツォを着飾らせて、自慢の種にしていたようであるのだ。それはそれで、ドゥルクの気風に合致する行いではなかったが――しかし、ティカトラスがヴィケッツォに女性としての喜びを与えようとしていることは確かであった。
そして何よりドゥルクの心を打ちのめしたのは、ティカトラスから贈られた肖像画である。
あの肖像画には、ヴィケッツォの母親の美しさが余すところなく描かれていた。
勇敢で、心正しく、美しい。そして、いささかならず頑固であり、なかなか他者に心を開こうとせず――そのぶん、時おり垣間見せる優しい表情が魅力的でならない。そんな彼女の外面と内面が、なんの過不足もなく描かれていた。
つまりティカトラスは、ドゥルクと同じ目で彼女を見て、彼女に魅了されたのだ。
それでドゥルクは、最後まで残されていたわだかまりも完全に捨て去ることがかなったのだった。
「……あの、あまりじろじろ見られると、こちらは落ち着かないのですが」
と、晩餐会の料理を食していたヴィケッツォが、ぶすっとした顔でそのように告げてくる。ドゥルクはついつい、彼女と肖像画の面影を重ねてしまっていたのだ。それはいま目の前にいるヴィケッツォに対して、非礼な行いであるはずであった。
「もうしわけありません。しつれい、しゃざいします。ゆるし、ねがいます」
ドゥルクはまだまだ大陸の言葉が覚束ないため、拙い返事をすることしかできない。すると、ヴィケッツォは小さく息をついた。
「べつだん、そうまで謝罪されるような話ではありませんが……やはり、おたがいの言葉が覚束ないというのは、もどかしいものですね」
「はい。むずかしいはなし、ギーズ、おねがいします」
「……だから、そのように他者を介在させることがもどかしいと言っているのです」
ヴィケッツォのそんな言葉は、むしろドゥルクに大きな喜びをもたらした。
「わたし、きもち、おなじです。ヴィケッツォ、おなじ、きもち、いだいたこと、うれしい、おもいます」
「……このていどのことで、そんな笑顔をさらさないでください」
と、ヴィケッツォはこらえかねた様子で苦笑をこぼした。
その目尻が吊り上がった黒い目には、優しい光が灯されている。それこそが、ドゥルクの愛した女性の面影であった。
今もヴィケッツォは男のような格好であるが、もうドゥルクの苛立ちをかきたてたりはしない。これはヴィケッツォの決断であり、父たるティカトラスとどこまでもともにありたいという想いのあらわれでもあるのだ。そこにもまた、彼女の勇敢さと情愛の深さが如実に示されていた。
そのように考えをあらためると、黒ずくめの格好をしたヴィケッツォは戦い神さながらの美しさである。
自分の心持ちひとつで、見える光景がこれほどまでに違ってくるのだ。すでに四十年を生きているドゥルクは、この齢でまた新たな真理を見出したのだった。
明日にはヴィケッツォともお別れであるが、ドゥルクも十ヶ月後には西竜海に帰る。その後は船乗りとしての生活を再開させて、故郷とダームを行き来するのだ。
ドゥルクはダームに向かうたびに、今回はヴィケッツォと会えるだろうかと胸を弾ませることになるだろう。ヴィケッツォとティカトラスは一年の半分以上を旅にあてているという話であるので、会える可能性は五分であるのだ。
しかしそれはどのような賭け事よりも、ドゥルクの胸を高鳴らせるに違いない。
異郷の屋敷に身を置きながら、ドゥルクは遥かなる海の果てにおわす竜神に感謝の思いを捧げずにはいられなかった。




