懐旧の晩餐会③~正しき道~
2025.5/25 更新分 1/1
今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
「それでみなさんは、家でどんな風に過ごしてたんで? ザッツ=スンの目をはばかって、どんより打ち沈んでたんでやすかねぇ?」
ギーズの遠慮ない問いかけに、オウラ=ルティムが「そうですね」と応じた。
「この中でもっとも年長であるのはわたしですので、まずはわたしがお答えします。ザッツ=スンが健在であった時代は、誰もがザッツ=スンを恐れて身を縮めていたかと思います」
「ふむふむ。でも、ザッツ=スンは病魔に倒れたんでやすよね?」
「はい。それがミダ・ルウ=シンが五歳になる前のことですから……長姉のヤミル=レイでも、まだ十歳を過ぎたぐらいのことでしょう。今から数えれば……十三、四年前といったところでしょうか」
「なるほどなるほど。……うん? するってえと、末の坊ちゃんはまだ二十前なんで?」
「ええ。ミダ・ルウ=シンは、今年で十七歳になったのよね?」
オウラ=ルティムに優しい眼差しを向けられて、ミダ・ルウ=シンは「うん……」と嬉しそうに頬肉を震わせる。
「いやぁ、森辺のみなさんはやたらと若く見えたりやたらと風格があったりで、どなたさんも年齢の見当をつけることもできやしませんねぇ。……で、ザッツ=スンが倒れた後は、どんな有り様だったんで?」
「しばらくは、寝所にこもったザッツ=スンの耳をはばかって大人しくしていたよ。でも……しばらくして、タガが外れちまったんだよな?」
ディガ=ドムの言葉に、ドッドも「ああ」と応じる。二人もしっかり食事を進めており、もはやザッツ=スンの幻影に怯える様子はなかった。
「ちょうどその頃に、ミギィ=スンもいなくなったからよ。俺たちもズーロ=スンも、気が大きくなってたんだろ」
「ミギィ=スン? ってのは、どなたで?」
「その頃の分家の家長だよ。ゆくゆくはそいつをヤミル=レイの伴侶にあてがって、次の族長に仕立てあげようって考えだったらしいな」
「ああ。そいつがくたばったせいで、ザッツ=スンはいっそう焦ったのかもしれねえな」
そのように語るディガ=ドムたちは、新たな脅威に立ち向かうかのように顔を引き締めている。ミギィ=スンは、幼きディガ=ドムたちに暴力を振るうような最悪な人間だったのだ。
「あとはまあ……都合の悪い話からは目を背けて、俺たちは好きなだけ堕落してたんだよ」
「ああ。ギバ狩りの仕事も果たさず、毎日遊びほうけてた。その間も、分家のみんなは苦しい思いをしてたし……もともと分家の家人だったオウラ=ルティムとテイ=スンも、しんどい立場だったんだろうな」
ドッドにおずおずと目を向けられて、オウラ=ルティムはやわらかく微笑んだ。
「わたしも、あなたがたと同様です。わたしもテイ=スンも苦しい現実から目を背けて、死人のように過ごしていたのです」
「ああ、テイ=スンってのは傀儡の劇に登場しておりやしたね。なんていうか、大悪党ザッツ=スンの狂った理念に引きずられて、殉死するしかなかったっていうか……正直に言って、俺はあのテイ=スンってお人の処遇が一番居たたまれなかったもんでさあ」
ギーズの何気ないひと言で、またその場の空気が一変した。
ミダ・ルウ=シンは目を伏せて、ツヴァイ=ルティムは唇を噛む。そしてディガ=ドムとドッドは、そんな二人を心配そうに見比べた。
「おやおや? 俺はまた、何かおかしなことを言っちまいやしたかい?」
「いえ。ただ、テイ=スンはわたしの父であったというだけです」
オウラ=ルティムの落ち着いた返答に、ギーズは再び「は?」と目を丸くした。そもそもオウラ=ルティムは傀儡の劇に登場していないので、二人の関係など知るすべもなかったのだ。
「そ、そうなんですかい? それじゃあ、末の娘さんにとっては……ザッツ=スンともども、実のじいさまってわけでやすか」
「ええ。そしてミダ・ルウ=シンも、不思議とテイ=スンには懐いていました」
「うん……ミダ・ルウに優しくしてくれたのは、オウラ=ルティムとテイ=スンだけだったんだよ……?」
そんな風に言ってから、ミダ・ルウ=シンはディガ=ドムとドッドのほうに向きなおり、ぷるぷると頬肉を震わせた。
「でも、ミダ・ルウだってずっとぼんやりして、誰にも優しくできなかったから……二人は悪くないんだよ……?」
「悪くねえことはねえよ。でも、そいつはさんざん詫びたんだから、今さら蒸し返されたって頭は下げねえぞ」
ディガ=ドムが気恥ずかしそうに笑いながら丸々とした肩を小突くと、ミダ・ルウ=シンは嬉しそうにいっそう頬肉を震わせた。
「ははあ……つくづくスン家ってのは、入り組んでるんでやすねぇ。それでみなさんは家長会議ってもんが開かれるまで、のんべんだらりと過ごしてたんでやすかい?」
「ああ。しまいには上の三人が家を出て、好き勝手に過ごしてたよ。それも、ザッツ=スンから遠ざかりたい一心だろうな」
「ああ。ザッツ=スンから一番遠ざかりたかったのは、ズーロ=スンだったんだろうけどよ」
「なるほどなるほど。で、ズーロ=スンの旦那はザッツ=スンの影に怯えつつ、それでも自堕落に過ごしてたわけでやすかい」
「ええ。祝宴の女衆のように身を飾り、果実酒ばかり口にしていました。ズーロ=スンこそ、生まれた瞬間からザッツ=スンに育てられていたのですから……誰よりも、ザッツ=スンに恐怖を覚えていたのでしょう」
オウラ=ルティムの言葉を聞きながら、俺はしみじみと息をつくことになった。
おおよそは聞いたことのある話であっても、あらためて整理されるとスン家の異常さをまざまざと思い知らされてしまうのだ。そこまで歪んだ家で生まれ育ったのならば、どれだけ道を見誤ってもしかたがないのではないかと思えるほどであった。
(それでディガ=ドムやドッドなんかは、俺やアイ=ファに手をかけようとしたんだから……本当に、ぎりぎりの崖っぷちだったんだろうな)
そんな二人が真っ当な心を取り戻せたことは、得難くてならない。
俺は、そんな感慨も噛みしめることになった。
「それじゃあ、旦那がもっと若え頃なんかは、どうだったんでやしょうねぇ?」
と、ギーズの矛先がディック=ドムに転じられる。
グラフ=ザザの代理人として参じたと称するディック=ドムは酒杯で口を湿してから、「うむ」と重々しく応じた。
「ズーロ=スンは若い時分から、気骨に欠けた人間であったらしい。ザッツ=スンが並外れた力を持つ人間であったことは確かであるので、自分の至らなさを痛感させられてしまったのだろう」
「ふうん。ズーロ=スンの旦那は、そんなに至らない人間だったんで?」
「森辺の狩人としては、いささか物足りない力量であったらしい。そして何より、意志の弱さこそがザッツ=スンを失望させたのだろうという話であったな」
「なるほどなるほど。ザッツ=スンってのは、つくづく人を見る目がなかったってことでやすねぇ」
ギーズの言葉に、ディガ=ドムやドッドたちはぎょっとした様子で振り返る。
それに気づいたギーズは、おどけた調子で肩をすくめた。
「誰に何と言われようと、俺にとってのズーロ=スンの旦那ってのは立派なお人なんでやすよ。そいつを早々に見限るような人間は、見る目がないとしか言いようはありゃしません」
「うむ……ズーロ=スンは実際に身を持ち崩したのだから、意志が弱いことに疑いはないかと思うが……そちらの言うことも、わからなくはない」
と、考え深げに目を細めながら、ディック=ドムはそう言った。
「ズーロ=スンは大罪人として森辺を追われた後に意志の力を発揮して、ギーズに立派な人間と認められたのだからな。ズーロ=スンにも、秘めたる力は存在していたが……ザッツ=スンには、それを見抜くこともできなかったということだ」
「ええ、ええ。ディック=ドムの旦那にご賛同をいただけるのは、心強いこってすねぇ」
「うむ。何せ俺も、ザッツ=スンに見限られたディガ=ドムとドッドを家人として迎え入れた身であるからな。どのように立派な刀でも、手入れを間違えれば錆びつくばかりであろう」
「そうですね」と、ガズラン=ルティムもひさびさに発言した。
「こちらでも、ミダ・ルウ=シンは勇者や勇士になり得る強さを発揮しています。それは本人が正しく生きたいと決意したからこその力なのでしょうが……けっきょくザッツ=スンは、家族を正しく導くことができなかったということなのでしょう」
「うむ。悪辣さばかりが取り沙汰されるミギィ=スンなどという者を次代の族長と見なしていたことからも、それは明白であろうな。ザッツ=スンは目先の力にばかりとらわれて、人を育てることをおろそかにしていたのだろうと察せられる」
そんな風に言ってから、ジザ=ルウはギーズに向きなおった。
「ただし、ザッツ=スンもかつては正しき人間であったのだろう。であれば、ザッツ=スンもズーロ=スンと同じようなものであるのだ」
「へい? そいつは、どういう意味なんで?」
「森辺の民はこのモルガの森辺に移り住んでから、ジェノスの民と正しき絆を結ぶことがかなわなかった。それで、苦しき生を歩むことになり……ザッツ=スンは、その間違った運命をくつがえすために力を求めたのだ。そういった話は、傀儡の劇でも語られていよう?」
「ええ、ええ。確かに、聞いておりやすよ。だから俺も、テイ=スンってお人が不憫だったんでさあね」
「それはテイ=スンが、ザッツ=スンに間違った運命を強いられたためであろう。しかしザッツ=スンも、八十年前から続く間違った運命に翻弄された身であるということだ。ザッツ=スンは決して悪の根源などではなく、運命の歪みに引きずられたひとりなのであろうと思う」
ジザ=ルウのそんな言葉に、俺は心から感服させられた。
すると、俺の視線に気づいたジザ=ルウが「何か?」と声を飛ばしてくる。
「あ、いえ。ジザ=ルウがそんな風に考えておられるとは思っていなかったので……でも、すごく納得のいくお話だと思います」
「そうか。俺はおそらく最長老ジバと語らう機会が多いので、こういった考えを身につけることがかなったのだろう。最長老ジバはザッツ=スンより前の族長を知る、数少ないひとりであるからな」
ジバ婆さんはかつてルウの家長であったため、家長会議にも参席していたのである。その時代には、ザッツ=スンの父親が族長を務めていたのだった。
「ザッツ=スンは、突如として生まれ落ちた悪人なのではない。森辺の民が抱えた歪みと苦悩の中で身を持ち崩した、中途のひとりに過ぎないのだ。そうしてザッツ=スンは並外れた力を持っていたがゆえに、多くの人間を間違った運命に引きずり込んでしまったのであろうな」
「……なるほどね。確かに俺もザッツ=スンはおっかなくてしかたがなかったけど、悪人だと思ったことは一度もねえよ」
と、ディガ=ドムが引き締まった面持ちで発言した。
「弱い人間をいたぶって喜んでいたのはザッツ=スンじゃなく、ミギィ=スンだ。ザッツ=スンは、どっちかっていうと……弱い人間を腹立たしく思ってたんだろうな」
「うむ。そしてザッツ=スンは、悪辣な真似に及ぶミギィ=スンを許していた。それもまた、力を求める余りに目を曇らせていたのだろう。最後には盗賊としての悪行に手を染めたのだから、ザッツ=スンとて罪の重さに変わりはないのだろうが……森辺の民がザッツ=スンひとりに罪を押しつけることは許されんのだ」
「ええ。ザッツ=スンもまた族長であるからこそ、森辺の民の歪みと苦悩を一身に背負うことになったのでしょうからね。ザッツ=スンひとりに罪を負わせては、我々も同じ過ちを繰り返す恐れがあるのでしょう」
そんな風に言ってから、ガズラン=ルティムはギーズに微笑みかけた。
「……と、ついザッツ=スンの話になってしまいましたが、これもズーロ=スンという人間を語るには避けられないことなのだと思われます」
「ええ、ええ。興味深く拝聴しておりやすよ。森辺の方々がそれだけ重い運命を背負っていたから、族長なんかに生まれついちまったズーロ=スンの旦那も押し潰されることになったってわけでやすねぇ」
副菜の凝り豆サラダをついばみながら、ギーズはにっと前歯を剥き出しにした。
「それに、安心しやしたよ。森辺の方々がザッツ=スンさえ責めようとしないんなら、ズーロ=スンの旦那を責めることもないでしょうからねぇ」
「うむ? 我々が、ズーロ=スンを責めるとは?」
「苦役の刑をやりとげたら、ズーロ=スンの旦那は森辺に帰ってくるんでしょう? それで旦那に居場所はあるのかってのが、俺は気になってしかたがなかったんでさあね」
すると、ディック=ドムが「大事ない」と応じた。
「もとより森辺において、罪を贖った人間を責める習わしはない。ズーロ=スンが十年に及ぶ苦役の刑というものをやり遂げたならば、誰もが森辺の同胞として迎え入れるはずだ」
「そうですかい。そいつは、何よりのこってすねぇ」
と、ギーズは心から嬉しそうに目を細めた。
すると、ドッドがいくぶんもじもじしながら声をあげる。
「それじゃあさ、そろそろそっちの話も聞かせてもらえねえもんかな? ズーロ=スンは、そっちでどんな風に過ごしてたんだい?」
「へい。家族らしい繋がりがなくても、やっぱり気になりやすかい?」
「そりゃあそうだろう。あのズーロ=スンが大勢の人間を助けたって聞かされたときも、俺たちは仰天しちまったんだからよ。そんな話、昔のズーロ=スンからはまったく想像もつかねえからな」
ドッドの言葉に、ディガ=ドムも深くうなずいている。ミダ・ルウ=シンはぷるぷると頬を震わせており、オウラ=ルティムはじっとギーズを見つめていた。
「そうでやすかい。みなさんが旦那の身を案じてくださってるんなら、ありがてえこってすねぇ」
気安い態度を崩さずに、ギーズはそのように言いつのった。
「まあ、旦那の様子はさっき語った通りでやすよ。ぱっと見は腑抜けた面でやすが、目ん玉の奥にだけ執念の火がちろちろ燃えているような、そんなお人でありやした」
「……ズーロ=スンは罪を贖うために、きちんと働いていたのかい?」
「ええ、ええ。最初の内はちょいと動いただけでへたばっておりやしたが、ひと月も経った頃にはとんでもねえ馬鹿力を振るっておりやしたよ。旦那を小馬鹿にしてた連中もすっかり震えあがっちまって、そっからはちょっかいをかけられることもありゃしませんでした」
「……それじゃあ最初の頃は、おかしなちょっかいをかけられてたのかい?」
「いえいえ。たいていの人間は気味悪がって、近づこうともしやしませんでした。刑場送りになる大罪人なんてのはどいつもこいつも筋金入りでやすが、そんな連中でも気味が悪いと思うぐらい、ズーロ=スンの旦那は並々ならぬお人だったんでやすよ」
俺が知るズーロ=スンは長年にわたる自堕落な生活がたたって、潰れたヒキガエルのような容姿をしていた。そんな人間が切迫した目つきでがむしゃらに働いていたならば、確かに薄気味が悪いぐらいの迫力であるのだろう。
「しかし、ギーズはそんなズーロ=スンに目をかけることになったのだな?」
アイ=ファがひさびさに発言すると、ギーズはチーズを盗み食いするネズミのような顔で笑った。
「俺もたいがい偏屈なもんで、奇妙な人間に心をひかれちまうんでさあね。ここだけの話、そうじゃなかったら竜神の民と懇意になりてえなんて考えやしないんでしょう」
「そうか。それで、ズーロ=スンが心情を打ち明けるぐらい交流が深まったのだな」
「まあ、そいつも俺が無理やり聞きほじっただけでやすけどねぇ。なんてうるせえネズミ野郎だと、旦那のほうはげんなりしてたこってしょう」
そう言って、ギーズはくつくつと笑った。
「でも、旦那はそんな俺のことまで、生命を張って助けてくれやした。俺以外にも十人以上の人間が救われて、最後には自分が大岩に押し潰されちまったんでさあね」
「うむ。それで魂を返さなかったことを、我々も得難く思っている」
「ええ、ええ。普通は大罪人がどんな目にあったって、まともな手当なんざ期待できねえんでやしょうがね。旦那は立派な行いが認められて、手厚い看護を受けられたそうで。そんな風聞を耳にしたときには、俺も胸を撫でおろしたもんでさあ」
「ふむ。ギーズはズーロ=スンと再会できぬまま、刑場を出たのだという話であったな」
「俺はちょうどあと数日でお役目御免って頃合いだったんで、歩けるようになると同時に刑場をおん出されることになったんでさあ。あれで死んでたら死んでも死にきれねえところでやすから、ズーロ=スンの旦那には心から感謝してるんでやすよ」
ズーロ=スンの言葉に、ディガ=ドムやドッドは落ち着かなげに身を揺する。ズーロ=スンとは複雑な親子関係であったため、なかなかに気持ちの置き場所が定まらないのだろう。
そんな中、ミダ・ルウ=シンはぷるぷると頬肉を震わせていた。
「ズーロ=スンが正しいことをして、ミダ・ルウは嬉しいんだよ……? ミダ・ルウは、早くズーロ=スンに会いたいんだよ……?」
「へへえ。旦那のことをあんまり覚えてなくっても、そんな風に言っていただけるんで?」
「うん……ディガ=ドムたちと仲良くなれたとき、ミダ・ルウはすごく嬉しかったから……ズーロ=スンとも、仲良くなりたいんだよ……?」
「へん。仲がいいったって、年に何回も会うことはねえけどな」
ディガ=ドムは照れ臭そうに笑いながら、ミダ・ルウ=シンのぱんぱんに張ったお腹を小突いた。
「だけどまあ、俺もズーロ=スンには会いてえと思ってるよ。ズーロ=スンが戻ってくるのは……あと七年ぐらいかかるんだっけか?」
「ああ。それまでは、俺たちも死に物狂いで生き残らねえとな」
「あと七年ですか……十年というのは果てしない長さに感じられましたが、もう三年も経つのですね」
「フン。灰の月になるまでは、三年経ったとは言えないけどネ」
そんな言葉が飛び交う中、ヤミル=レイだけが口をつぐんでいる。
すると、大量のピザを頬張っていたラウ=レイがそのなめらかな肩を揺さぶった。
「お前は、どうなのだ? ズーロ=スンを恨む気持ちはないのだろう?」
「……うるさいわね。気安く身に触れないでちょうだい」
「いいから、答えろ。お前はズーロ=スンのことを、どう思っているのだ?」
ラウ=レイの言葉に多くの人々が振り返ると、ヤミル=レイはその視線を振り払うようにそっぽを向いた。
「今さら、どう思うも何もないわよ。ズーロ=スンは無能な父親で、今は血の縁すら絶たれているのですからね。わたしにとっては、まごうことなき他人だわ」
「しかし、罪を贖えば森辺の同胞だぞ」
「……だったら、他の連中と同じように扱うだけよ」
ヤミル=レイは冷然としたポーカーフェイスであったが、ラウ=レイは満足したように白い歯をこぼした。
「それなら、それでいい。ズーロ=スンを家人として迎えるのは、スン家の連中であるからな。あやつらならば、ズーロ=スンを粗末に扱うこともあるまい」
「新しいスン本家の家長ってのも、ご立派そうなお人でやしたねぇ。あれなら、俺もひと安心でさあ」
そう言って、ギーズはにんまり笑った。
「それでもって、七年後にはズーロ=スンの旦那にも傀儡の劇を見せてやってほしいもんでさあね。まさか自分が傀儡の劇に登場してるなんざ、旦那は夢にも思ってねえでしょう」
「確かにな! ズーロ=スンがどんな顔をするのか、見ものだな!」
「ええ、ええ。その頃までに俺がくたばってなかったら、竜神の王国でこっそり祝杯をあげさせていただきやすよ」
ギーズがそのように告げたとき、ひさびさのリミ=ルウが「じゃじゃーん」と登場した。
「お菓子を持ってきたよー! ……ねえねえ、アイ=ファたちはまだお話が終わらないの?」
「うむ。どうであろうかな?」
アイ=ファに視線を向けられたギーズは、「へへ」と笑った。
「まだまだ旦那を肴に酒を楽しみてえところでやすが、込み入った話は終わったんじゃねえですかねぇ」
「うむ。あとはディック=ドムとガズラン=ルティムに任せればいいのではないだろうか?」
「俺は、ヤミルとともにあるぞ!」
「では、俺とファの両名は席を外すとしよう」
ジザ=ルウの呼びかけで、俺とアイ=ファも腰をあげることになった。
そうしてアイ=ファはリミ=ルウに腕を捕獲され、別なる敷物に連行されていく。そちらでは、ジバ婆さんやドンダ=ルウたちがマドともう一名の若い団員を相手取っていた。
「家長ドンダ。おおよその話は終わったようですので、ガズラン=ルティムとディック=ドムに後事を託しました」
ジザ=ルウは、報告のために席を立ったのだろう。それを横目に、俺たちはジバ婆さんやコタ=ルウの正面に腰を下ろした。ちょうどそこに、三名分のスペースが空けられていたのだ。
「さっきまで、ララとシン・ルウが座ってたんだよー! アイ=ファたちを呼びたかったから、どいてもらったの!」
アイ=ファは「そうか」とリミ=ルウの頭を撫で、俺は周囲に視線を巡らせる。ララ=ルウたちは、ダリ=サウティと同席している団長ドゥルクのもとに腰を落ち着けていた。
端のほうの敷物では、レイナ=ルウがプラティカたちと輪を作っている。きっと熱心に調理の話を論じ合っているのだろう。ザザの血族の面々は、他なる《青き翼》の団員たちと席を同じくしていた。
「アイ=ファ、アスタ、おつかれさまです。ギーズ、どうでしたか?」
鉄灰色の髪をした若き団員マドが、にこにこと笑いながら問うてくる。祝宴の場で力の差を見せつけられて以来、マドはいっそうアイ=ファに尊敬の思いを抱いたようであった。
「うむ。何も問題はなかった。ギーズは心より、ズーロ=スンのことを思いやっているようだな」
「はい。わたし、くわしいはなし、しりません。ですが、ギーズ、いのちのおんじん、だいじです。かんしゃ、たくさんです」
「うむ。きっとギーズとズーロ=スンが出会ったのは、正しき運命であったのだろう。私も、得難く思っている」
すると、ジバ婆さんが「そうかい……」と微笑んだ。
「そいつは、何よりだったねぇ……どんな話をしてきたのか、あたしもあとでじっくり聞かせていただくよ……」
「うむ。ちょうど今、ジザ=ルウがドンダ=ルウに語っているようだぞ」
「うん……でも今は、アイ=ファと語らいたいからねぇ……」
ジバ婆さんに真っ直ぐな情愛を向けられて、アイ=ファはくすぐったそうに目もとで微笑む。するとリミ=ルウが満面の笑みで、アイ=ファの腕を抱きすくめた。
「それじゃあ、お菓子を食べながらおしゃべりしよー! ほらほら、アスタたちが作ってくれたお菓子だよー!」
こちらの敷物にも、すでに菓子の大皿が並べられている。綺麗な焼き色のついたどら焼きと、スティック型の煎餅だ。こちらも複数の味付けが存在するため、ひとつひとつは小ぶりに仕上げられていた。
「ジバ婆はあんこのお菓子が好きだから、どらやきを準備してくれたんだってー! やっぱりトゥール=ディンは、優しいよねー!」
「うん。それは俺も、全面的に賛同するよ」
リミ=ルウに笑顔で答えながら、俺はどらやきを口にした。
確かにブレの実のあんこが封入されているが、それ以外にも生クリームと寒天のごときノマも使われている。そして、生クリームにはマンゴーのごときエラン、ノマにはサクランボのごときマホタリの果汁が加えられて、噛むごとに新鮮な味わいをもたらした。
「トゥール=ディンは、さすがだね。ジバ=ルウは、如何ですか?」
「うん……あんまり美味しくて、びっくりしちまったよ……トゥール=ディンってのは、本当に大したもんだねぇ……」
「あとでトゥール=ディンも呼んであげよーねー! きっと喜ぶよー!」
リミ=ルウもコタ=ルウも、笑顔でどら焼きを頬張っている。
そして俺のかたわらでは、煎餅から先に口をつけたアイ=ファが驚嘆に目を見開いていた。
「このせんべいは……ずいぶん甘いのだな」
「うん。食後の菓子として相応しいように、甘みを足したんだってさ。でも、さすがの配合だよな」
俺は好奇心を抑えられず、自分が担当した煎餅だけは味見をさせてもらったのだ。干しキキとミャンで梅シソ風に仕上げられた煎餅も、ミソと花蜜で仕上げられた煎餅も、しっかり塩気がききながら甘みも申し分なく、煎餅の新たな魅力が引き出されていた。
「これだったら、煎餅好きのアイ=ファにも文句はないんじゃないか?」
「うむ。これほど見事な品に、文句などはつけられまい。掛け値なしに、美味であるように思う」
そんな風に語りながら、アイ=ファは俺の耳にそっと唇を寄せてきた。
「……しかし、せんべいはお前がもっとも得意にする菓子であるはずだ。トゥール=ディンに負けぬように、奮起せよ」
俺がきょとんとしながら振り返ると、アイ=ファはすました面持ちで俺の脇腹を小突いてから新たな煎餅をかじった。
リミ=ルウは対抗心とも無縁なようだが、アイ=ファはそうではないらしい。俺は頭をかきながら、強大なるライバルたる煎餅を口に運ぶことにした。
「それにしても……アイ=ファたちは、満足そうな顔をしているねぇ……ギーズとの語らいが、そんなに楽しかったのかい……?」
ジバ婆さんの問いかけに、アイ=ファは「そうだな」と即答した。
「まあ、楽しいというわけではないが、満足はいった。もっとも感服させらられたのは、ジザ=ルウの言葉であったがな。ジザ=ルウは、ジバ婆の思いをしっかり受け止めたようだぞ」
「ふうん……あたしは何も、大したことを語った覚えはないけどねぇ……」
「そのようなことはあるまい。やはり、ザッツ=スンの父を知るジバ婆の言葉は、我々にとって重要であるのだ」
「うん……サウティの長老は、年をくってから家長会議に顔を出すようになったって話だから……そんな古い話を知っているのは、あたしとラー=ルティムぐらいなのかもしれないねぇ……」
と、ジバ婆さんは遠くを眺めるように目をすがめた。
「ザッツ=スンの父親は、本当に立派な族長だったからさ……立派な父親を追い求める内に、ザッツ=スンは道を間違えちまったのかもしれないねぇ……」
「うむ。子を正しく導くというのは、決して生易しい話ではないのであろうな。……私とて、あれだけ立派な両親を持ちながら道に迷ってしまったのだから、決してザッツ=スンやズーロ=スンばかりを責めることはできん」
「それはあたしも、おんなじことさ……アイ=ファと一緒に正しい道に戻れたことを、何より嬉しく思っているよ……」
ジバ婆さんは遠い目をするのをやめて、アイ=ファに微笑みかけた。
アイ=ファもまた口もとをほころばせ、リミ=ルウは無邪気に笑いながらアイ=ファの肩に身を寄せる。アイ=ファとジバ婆さんはかつて縁が切れかかってしまったが、リミ=ルウの尽力によって再び固く結び合わされたのだった。
(アイ=ファはすべての人間と縁を切ろうとして、ジバ婆さんは森辺の暮らしに幸せを見いだせなくなった。それは確かに、道を踏み外したと言えるんだろうな)
しかし、アイ=ファとジバ婆さんはそれぞれ正しい道に立ち戻り、こうしてともに笑うことができるようになった。リミ=ルウの尽力に手を添えることができた俺は、それを何より得難いと感じていた。
そして――ズーロ=スンも、きっと同様であるのだ。
ザッツ=スンとテイ=スンは罪を贖う前に魂を返すことになってしまったが、ズーロ=スンは生き延びることができた。あと七年と少しの苦難を乗り越えれば、森辺に戻ってくることがかなうのだった。
(ズーロ=スンが戻ってきたら、きっとかつての家族たちと笑い合うことができるさ。だから、どうか……母なる森よ、森の外で力を尽くしているズーロ=スンを見守ってあげてください)
俺は自然に、そんな風に祈ることができた。
その間も、広場には熱気と活力があふれかえっている。今日この場に立ちあえたことを心から嬉しく思いながら、俺は新たな菓子に手をのばすことにした。




