歓迎の祝宴③~星の行方~
2025.5/22 更新分 1/1
「おや……また挨拶に出向いてくれたのかい……?」
いくつかの簡易かまどを巡ったのち、俺たちはジバ婆さんのもとを訪れることにした。
場所は、儀式の火の前に準備された大きな敷物である。そこにはおもに年配の男女が座しており、俺が予想していた通りドンダ=ルウもどっしりと腰を据えていた。
「はい。族長ドンダ=ルウ、最長老ジバ=ルウ、あらためて、挨拶、いたします。本日、祝宴、招待いただき、心より、感謝しています」
敷物に膝をついたラダジッドたち三名は、奇妙な形に指先を組み合わせながら一礼する。もちろん祝宴の前にも挨拶をしているのだろうが、ドンダ=ルウとジバ婆さんには何度挨拶しても悪いことはないはずであった。
「ありがとうねぇ……でも、こんな老いぼれに気をつかう必要はないからねぇ……どうか心置きなく、祝宴を楽しんでおくれよ……」
そんな風に言ってから、ジバ婆さんは顔をくしゃくしゃにして笑った。
「その代わりに、今度は晩餐にも出向いてもらいたいもんだねぇ……あんたがたとは、ゆっくり言葉を交わしたいからさぁ……またシムの話を聞かせてもらえたら、嬉しく思うよ……」
「はい。招待、心待ち、しています」
《銀の壺》もこれから多忙な日々が始まるのであろうが、肉体労働に励む建築屋の面々よりは夜ふかしを許される立場であるのだろう。また、構成員の数が半分であれば、そのぶんフットワークも軽くなるはずであった。
「それに、アイ=ファとアスタもね……意固地な家長も、二人のことはいつでも歓迎してくれるはずだよ……」
「うるせえぞ」と、ドンダ=ルウは仏頂面で果実酒をあおる。
アイ=ファの腕を抱きすくめたリミ=ルウは、心から幸せそうに「あはは」と笑った。
「でも、アイ=ファの宴衣装を見られるのは祝宴だけだからねー! ジバ婆もじーっくり見て、心に焼きつけておかないと!」
「そうだねぇ……本当に、アイ=ファは見るたびに美しくなるようだよ……」
「そんなことはない」と、アイ=ファは気まずそうに口もとをごにょごにょとさせる。人前で賞賛されるのは望ましくないが、ジバ婆さんとリミ=ルウが相手では文句をつけることもできないのだ。そして最後には、罪なき俺の頭が小突かれることになった。
「そちらも、祝宴を楽しめているだろうか?」
と、ドンダ=ルウのかたわらに控えていたミンの家長が、落ち着いた声でラダジッドに呼びかける。アマ・ミン=ルティムの父である、質実で沈着な男衆だ。ラダジッドはそちらに向きなおり、「はい」と首肯した。
「祝宴、盛況です。心より、満足しています。……そして、賊の襲撃、影、落としていないこと、幸い、思います」
「賊の襲撃などはもう何ヶ月も前の話であるし、そもそもこちらは怪我人のひとりも出ていないからな。何にせよ、お前たちが気に病む筋合いでもなかろう」
「はい。ですが、我々、ジェノスの無事、知り得た、出立、直前ですし、ルウの集落、奇禍、知り得た、昨晩です。古い話、恐縮ですが、いまだ、心の整理、ついていない、事実です」
「ああ……あんたがたは、荷車でひと月半もかかる場所にいたんだものねぇ……そりゃあ、やきもきさせちまったんだろうよ……」
そんな風に言ってから、ジバ婆さんはふっと透徹した眼差しになった。
「ところで……東の賊で思い出したけれど……あんたがたは、ガーデルとは交流がなかったんだっけねぇ……?」
「はい。ガーデル……聞き覚え、あるような……ないような……申し訳ありません。不明です」
ラダジッドに視線を向けられた俺は、大急ぎで記憶をまさぐった。
「ええと、《銀の壺》の方々は一昨年の復活祭の前に来訪して、翌年の青の月に王都から戻ったのですから……そうですね。ガーデルとは、あまり交流を深める機会もなかったかと思われます」
俺たちがガーデルと相まみえたのは、《銀の壺》の前回の来訪時の直前であったはずだ。しかしその時期はまだガーデルと大した縁を結んでおらず、そして次の青の月はもう飛蝗の騒ぎの直後であるので、ガーデルは二度目の療養の真っただ中であった。
「そうかい……それなら、いいんだよ……」
と、ジバ婆さんは垂れ下がったまぶたに目を隠す。
すると、真剣な面持ちをしたアイ=ファが身を乗り出した。
「ジバ婆は、如何なる思いでもってガーデルのことを尋ねたのであろうか?」
「うん……《銀の壺》のみんなには、ガーデルの姿がどう映るのかと思ってねぇ……ガーデルっていう人間を知るには、色んな人間の意見が必要だろうからさ……」
ジバ婆さんもまた、ガーデルとは差し向かいで語った仲であり――そして、心を通じ合わせることがかなわなかったのだ。
アイ=ファが「そうか」と身を引くと、今度は最年少の団員が不思議そうに発言した。
「私、ラダジッド、同じです。ガーデル、聞き覚え、あるですが、詳しい話、不明です」
「ガーデルは、大罪人シルエルを仕留めた功労者だ。今は、東の賊に毒矢をくらって臥している身となる」
アイ=ファが謹厳なる口調で答えると、最年少の団員はびっくりした様子で目を見開いた。
「功労者、納得です。聞き覚え、そのためです。また、飛蝗の騒ぎ、アスタのため、尽力し、負傷した、聞いています。……ですが、その人物、東の賊、被害者、知りませんでした」
「あれはガーデルがこちらの指示を聞かずに賊を追った結果であるので、あなたがたが気に病む必要はないぞ」
「うむ。そもそも東の賊そのものも、お前たちに責任のある話ではないのだからな」
ミンの家長も言葉を添えると、今度は最年長の団員が口を開いた。
「深刻、気配、感じます。ガーデル、特別、存在ですか?」
「うむ……特別といえば、きわめて特別な存在であろうな。我々は、あやつと確かな絆を結びたいと願っている」
アイ=ファがそのように答えると、ジバ婆さんが申し訳なさそうな視線を向けた。
「祝宴のさなかに、余計な話をしちまったねぇ……アイ=ファたちは、どうか祝宴を楽しんでおくれよ……」
「いや。ジバ婆もガーデルのことを気にかけてくれていることを、私は得難く思っている」
そんな風に答えてから、アイ=ファは目もとでジバ婆さんに微笑みかけた。
「とはいえ、《銀の壺》の面々には関わりのない話であろうからな。ガーデルについては、またいずれ語らせてもらいたく思う」
「ああ。まずはあちらが動き回れるようにならない限り、何も話は進まんのだからな」
そう言って、ドンダ=ルウが俺たちの姿を見回してきた。
「もう挨拶は十分であろう。客人には、思うさま祝宴を楽しんでもらいたい」
「はい。それでは、失礼いたします」
敷物にひざまずいていたラダジッドたちも身を起こし、ともにきびすを返すことになった。
そうして賑わいの中を歩きながら、ラダジッドが俺に呼びかけてくる。
「ガーデル、気になります。後日、説明、願えますか?」
「あ、はい。ラダジッドたちにも意見をうかがえたら、ありがたく思います」
しかし――ガーデルの三度目の療養は、もう三ヶ月を突破してしまったのだ。最近はお目付け役のバージもすっかり姿を見せなくなり、シェイラに病状を尋ねても何ら進展はない様子であった。
(ガーデルは、いまだに竜神の民が来訪したことも知らされてないんだろうしな。俺も早く、ガーデルと話をしたいところだけど……)
俺がそんな風に考えたとき、可愛らしい男女が前方から近づいてきた。昼間も挨拶をしたリリン分家の少年と、同じ家で暮らす十歳すぎの少女である。
「失礼します。リミ=ルウ、そろそろ菓子を出す刻限のようですよ」
「りょうかーい! それじゃあリミたちが、家の子供たちに持っていってあげるねー!」
ついに半刻の時間が過ぎて、菓子を出す刻限となったのだ。
俺たちはリリンの少年少女とともに分家のかまど小屋まで出向き、そこからいくつもの木箱を持ち出すことになった。
「それじゃあこちらは、広場にお出ししますね」
「うん! ありがとー! 二人も、いーっぱい食べてねー!」
少年少女は「はい」と微笑み、家人であるシュミラル=リリンにも笑顔を向けてから、木箱を抱えて立ち去っていった。
俺たちの目指す先は、ルウ本家の母屋である。ルウ本家がもっとも大きいので、そちらに五歳未満の幼子が集められているのだ。
「リミだよー。男衆もいるけど、開けても大丈夫?」
リミ=ルウが玄関の戸板をノックしてから呼びかけると、すぐに「はい」という声が返ってきた。
リミ=ルウとアイ=ファが木箱を運んでいたので、俺が代理として戸板を引き開ける。するとまずは、ルウ家の犬たちが出迎えてくれた。猟犬と伴侶と三頭の子犬という、それなりの大所帯だ。彼らが土間でくつろぐために、トトスは別の家に集められていた。
「お待たせー。祝宴のお菓子だよー」
赤子の眠りをさまたげないように、リミ=ルウが声量を抑えつつ福音を告げる。すでに数多くの幼子たちが瞳を輝かせており、その内の一名はコタ=ルウであった。
「やあ、コタ=ルウ。今日も寝ないで頑張ってたんだね」
コタ=ルウはにこやかな面持ちで、「うん」とうなずく。思わず頭を撫でずにはいられないぐらい、可愛らしい笑顔であった。
ちなみに本日集っているのは、ルウとリリンの幼子のみである。他の眷族の幼子たちは各自の家で過ごしているはずであるが、リリンだけは《銀の壺》との関係性を鑑みてすべての家人が招集されているのだ。リリン本家の幼き長姉もあどけない笑顔をさらしながら、シュミラル=リリンの足もとにひしとしがみついていた。
「お待たせしました。菓子、お食べください」
「うん。シュミラルも?」
「はい。ともに、いただきます」
シュミラル=リリンは優しく微笑みながら、長姉の小さな身を両手ですくいあげた。
そうして目指す先は、愛する伴侶と我が子のもとである。ヴィナ・ルウ=リリンはゆったりと微笑みながら愛娘の眠る草籠を揺らしており、その左右ではサティ・レイ=ルウやシーラ=ルウやリリン分家の女衆も同じ行いに及んでいた。
「お疲れ様ねぇ……みんな、祝宴を楽しんでいるかしら……?」
「はい。誰もが、満ち足りている、思います」
そんな風に答えてから、シュミラル=リリンはラダジッドたちを差し招いた。
そちらと一緒に、俺とアイ=ファも進み出る。祝宴の前にも多少は挨拶をさせてもらったが、まだまだまったく語り足りていなかった。
「みんなも、お疲れ様……エヴァは眠ってしまっているけれど、寝顔だけでも見てもらえるかしら……?」
言われるまでもなく、ラダジッドたちは我先にと草籠を覗き込んでいく。俺はその肩越しに拝見させていただいた。
藍の月の半ばに生まれたエヴァ=リリンは、もう生後七ヶ月だ。今はぐっすり眠っているが、もうひとりでおすわりができるぐらい成長を果たしていた。
他の赤子よりも肌の色が濃く、髪の色は父親から受け継いだ白銀だ。母親とそっくりの色合いをした瞳は、まぶたに隠されていた。
齢を重ねるごとに、エヴァ=リリンは父母の両方に似てきたように感じられる。端整な顔立ちはヴィナ・ルウ=リリンに似ているが、切れ長の目はシュミラル=リリンそっくりであるのだ。ゆくゆくはどのような子供に育つのか、今から楽しみでならなかった。
「……エヴァ=リリン、愛らしさ、極致です」
と、ラダジッドは感じ入ったように息をつく。
最年少の団員などは、ひそかに鼻をすすっていた。シュミラル=リリンの子が無事に生まれたことを、彼らがどれだけ喜んでいるのか――その心情は、察するに余りあった。
「ありがとう……おかげさまで、エヴァはすこやかに育っているわぁ……」
「はい。森辺の血、東の血、大きな力、与えるでしょう。エヴァ=リリン、成長、楽しみです」
そのように答えてから、ラダジッドはシュミラル=リリンのほうを振り返った。
「半年、離別、苦しいでしょうが、東の行商人、宿命です。シュミラル=リリン、乗り越えられること、祈っています」
「はい。ラダジッドたち、離別、さらなる長さです。私、弱音、吐けません」
シュミラル=リリンよりも年長であるラダジッドは、故郷に複数の子供を待たせているのだ。それに、シュミラル=リリンの離別は半年であるが、ラダジッドたちの離別は十一ヶ月にも及ぶのだった。
(森辺に街道が切り開かれたから、一年が十一ヶ月に短縮されたんだっけ。でも……十分に長いよなぁ)
そんな感慨を噛みしめながら、俺は他の草籠にも視線を巡らせた。
エヴァ=リリンと同じ日に生まれたドンティ=ルウも、すやすやと寝入っている。男児たる彼は、すでにエヴァ=リリンよりもずいぶん大きくなっていた。
そして七ヶ月ほど年長であるルディ=ルウはすでに一歳を過ぎているため、さらに大きい。しかし誰もが、まだまだお人形のようにちまちまとしていた。
「かわいいねー。早くみんなで遊べるようになるといいなー」
リミ=ルウも、どこかうっとりとした目で赤子たちの寝顔を見守っている。弱冠十一歳のリミ=ルウも、この場においては俺たちの側であった。
「じゃ、みんなもお菓子を食べよーよ。コタも、待ちくたびれちゃってるからさ」
「あら。遠慮しないで、食べていいのよ?」
サティ・レイ=ルウが笑顔を向けると、コタ=ルウはぷるぷると首を横に振った。
シュミラル=リリンに抱かれたリリンの長姉も、もじもじと身を揺すっている。みんな、大切な家族と一緒に菓子を口にする瞬間を心待ちにしていたのだ。それに気づいたラダジッドが、「申し訳ありません」と一礼した。
「幼子、我慢、強いてしまい、忸怩たる心地です。どうぞ、召し上がりください」
「うん。みんな一緒にね」
にっこり笑うリミ=ルウとともに、俺も配膳を手伝うことにした。
本日の菓子は、大福もちとロールケーキだ。ただし、色々な味わいを楽しめるように、きわめて小ぶりに仕上げられている。小さくすればするほど作り手の苦労はかさむはずだが、リミ=ルウがそのような苦労を惜しむわけがなかった。
「味は、三種類ずつあるからねー。大人はひとり二個ずつ食べても大丈夫だよー」
俺たちの周囲では、すでに幼子や母親たちがほくほく顔で菓子をつまんでいる。そのさまに胸を温かくしながら、俺も小さな大福もちをつまみあげた。
直径四センチていどの、本当にちんまりとした大福もちである。表皮は綺麗な桜色で、手がべたつかないようにポイタンの粉が振られていた。
それを丸ごと口に投じると、まずはキイチゴめいた香りがふわりと広がる。この赤みは、アロウの色彩であったのだ。
しかしもっちりとした生地を噛み破ると、新たな甘みと風味が生まれる。普通のあんことはまったく異なる、独特の風味であった。
「これは……タウのあんこに、花油も使っているのかな?」
「うん。まぜたら、すっごく美味しかったんだー。あんまり花油を多くすると、にちゃにちゃになっちゃうけどねー」
タウは大豆に似た食材であるため、独特の香ばしさを有している。そしてジュエの花油も独自の香ばしさを持っているため、それが相乗効果をもたらしていた。
甘みは、干し柿に似たマトラによるものだろう。それがまた、花油の甘い香りでこれまでと異なる味わいに変じている。とても優しい味わいでありながら、リミ=ルウのセンスが輝くひと品であった。
「味わい、素晴らしいです。菓子のみ、腹、満たしたい、欲求、駆られます」
最年少の団員が早口でまくしたてると、リミ=ルウは「あはは」と笑った。
「そんなことしたら、森辺では怒られちゃうよー。美味しいお菓子が、毒になっちゃうからねー」
「はい。すでに、料理、食しているので、心配、無用です」
そうして矢継ぎ早に次なる大福もちをつまみあげた団員は、その体勢のままフリーズした。
「んー? どーしたの?」
「はい。一気、食べる、惜しいので、余韻、楽しんでいます」
「あはは。なんだかあなたは、幼子みたいだねー」
「羞恥、限りです」と応じたのは、本人ではなくラダジッドであった。
「ですが、気持ち、理解、可能です。それだけ、こちら、美味です。リミ=ルウ、手腕、見事です」
「リミなんて、まだまだだよー。トゥール=ディンなんて、次から次に新しいお菓子を考案しちゃうんだから」
それを悔しがる様子もなく、リミ=ルウももにゅもにゅと大福もちを頬張った。森辺の女衆の数多くがそうであるように、リミ=ルウも他者と腕を競う気の薄い性分であるのだ。今この場にいる面々の満足そうな姿だけで、リミ=ルウの心は満たされているはずであった。
「おー、やっぱりここだったかー」
と、ふいに背後の戸板が開かれて、ルド=ルウの声が響きわたった。
そして、カレーの香りが室内にあふれかえる。ルド=ルウは、大皿の料理を抱えていた。
「なんだ、ルドかー。戸板を開ける前に、声をかけなきゃダメでしょー?」
「どーせ菓子を食ってる頃合いだろーなと思ったんだよ。ほら、ヴィナ姉、アスタの料理を持ってきてやったぜー」
それは、俺が仕上げた料理であったのだ。ヴィナ・ルウ=リリンは嬉しそうな表情を覗かせつつ、周囲の幼子たちを申し訳なさそうに見回した。
「本当に、運んできてくれたのねぇ……でも、自分たちだけ宴料理を口にするのは、なんだか申し訳ないわぁ……」
「だから、この時間を狙ったんだよ。今ならこいつらも、菓子に夢中だしなー」
そう言って、ルド=ルウも室内に視線を巡らせた。
「ま、どっちみち、こいつは辛くて、お前らにはまだ食えねーよ。五歳になるまで、辛抱するこったなー」
コタ=ルウが率先して「うん」と応じると、他の幼子たちもそれぞれ笑顔でうなずいた。きっとまだ、カレーの香りに食欲中枢を刺激される年代ではないのだろう。ルド=ルウの言う通り、五歳未満の幼子が食するには刺激が強すぎる味わいであるはずであった。
「ヴィナ姉も、もっとちょいちょい広場に出りゃあいいのによー。こんだけ人数がいたら、交代でどうにかできるだろー?」
「うん……でもやっぱり、なかなか赤ん坊のそばを離れる気持ちにはなれないのよぉ……」
ヴィナ・ルウ=リリンはやわらかく微笑みながら、眠る愛し子の髪にそっと手を触れた。
ルド=ルウは「ふーん」と応じながら、菓子の隣に料理の大皿を配置する。
「ま、好きにすりゃいーさ。たっぷり持ってきたから、よかったらラダジッドたちも食ってくれよ」
「はい。ルド=ルウ、親切、感謝いたします」
ラダジッドは折り目正しく一礼していたが、最年少の団員は手もとの大福もちと大皿の料理をせわしなく見比べていた。
「両方、魅惑的です。どちら、食するか、判断、つきません」
「あはは。それでは、交互に召しあがったらどうでしょう? 塩気のある料理と甘い菓子を交互に食するのも、なかなかおつなものですよ」
それもまた、祝宴のひとつの楽しみ方だろう。俺自身、数々の祝宴に参席したことによって、間に甘い菓子を食することに抵抗がなくなっていた。
そんなわけで、俺が作りあげた料理も小皿に取り分けられていく。
俺が本日準備したのは、麻婆凝り豆カレーである。レイナ=ルウもいくつかのカレー料理を考案していたため、そちらと印象がかぶらないアレンジ料理を仕上げた次第であった。
おもにゲルドから届けられた食材で完成度が急上昇した麻婆料理に、カレーのスパイスでさらなる彩りを添えようという意欲作だ。麻婆もカレーのスパイスもこれまで通りのレシピであり、ただ分量の加減だけで理想の味わいを求めることがかなった。
白米に似たシャスカがなくとも物足りなくないように、豆腐に似た凝り豆やズッキーニに似たチャンもふんだんに盛り込んでいる。それらで辛みを中和しながら食すれば、単品でも不満は出ないものと自負していた。
「あー、そっちの端にらーゆってやつをぶっかけておいたから、東の人らはそっちを食ってくれよなー」
「そうそう。アイ=ファやリミ=ルウには辛すぎるだろうから、気をつけてね」
強い辛みを好む東の方々のために、後掛けのラー油も準備していたのだ。それはハバネロに似たギラ=イラを駆使した特別仕立てであるため、辛みに弱くない俺でも分量を間違えると痛い目を見るほどであった。
「ああ、やっぱり美味しいわねぇ……かれーの料理は、どうしたってアスタにかなわないわぁ……」
ヴィナ・ルウ=リリンは片方の頬に手をやりながら、嫣然と微笑んだ。
その隣では、シーラ=ルウも感じ入ったように息をついている。
「本当ですね。香草の料理を口にするのはひさびさですので、余計に鮮烈に感じられます」
「赤ん坊にお乳をあげる間は、香草の摂取を控えないといけませんもんね。みなさんに今日の料理を召しあがっていただくことができて、俺も嬉しいです」
そんな風に答えながら、俺はサティ・レイ=ルウのほうを振り返った。
「そういえば、サティ・レイ=ルウは召し上がらないのですか?」
「ええ。わたしはさっき広場に出て、アスタの料理もいただいていたんです。ヴィナ・ルウ=リリンたちはすぐに戻ってしまったので、口にできなかったわけですね」
「そーそー。だから、俺がこうして運んできてやったんだよ」
ルド=ルウはすました顔で、ロールケーキを口に放り込んでいる。
シュミラル=リリンと婚儀を挙げるまでは、ヴィナ・ルウ=リリンも同じ家で暮らす家族であったのだ。ルド=ルウもサティ・レイ=ルウも何気なく語らっているが、家族としての変わらぬ絆を感じさせるには十分な一幕であった。
そうしてしばらく語らっていると、周囲の幼子たちがあくびをこぼし始める。お腹が満ちて、睡魔が舞い降りてきたのだろう。寝かしつけのお邪魔にならないように、俺たちは料理と菓子を食べ終えたところで腰を上げることにした。
「よかったら、リリンの晩餐にもお招きさせてねぇ……他のみんなも、まだまだ語り足りないでしょうから……」
「はい。厚意、感謝します」
ヴィナ・ルウ=リリンたちの笑顔に見送られて、俺たちは玄関を出た。
まだ祝宴が開始されてから一刻も経っていないので、宴はまだまだたけなわだ。広場には、変わらぬ熱気が渦巻いていた。
「じゃ、お次は舞やら歌やらだなー。俺は横笛の準備があるから、また後でなー」
一緒に母屋を出たルド=ルウは、人混みの向こうに消えていく。
いっぽうリミ=ルウは、笑顔でアイ=ファの腕を抱きすくめた。
「今日はみんなで踊る舞だけだからねー! アイ=ファも一緒に踊ろうねー!」
「うむ。私などは、ともに練り歩くだけだがな」
リミ=ルウに優しく微笑みかけてから、アイ=ファはやおら表情を引き締めた。
「ではその前に、ひとついいだろうか? 祝宴の場に戻る前に、うかがいたい話があったのだ」
アイ=ファが鋭い視線を向けたのは、最年長の団員であった。
最年長の団員は静謐なる無表情で、「はい」とうなずく。
「先刻、何か、気配、感じました。星読み、まつわる、話でしょうか?」
「うむ。星読みに重きを置かぬ私が占星師たるあなたに話をうかがうというのは、筋違いなのであろうが……以前に語らったときも、私はあなたの言葉に深く感じ入ることになったのだ」
「シュミラル=リリン、友、頼られる、喜び、限りです」
最年長の団員は、あくまで穏やかなたたずまいである。
彼のこういった気性もまた、アイ=ファにとっては好ましく思えるのだろう。また、アリシュナなどは星読みの力が際立ちすぎているため、迂闊に相談もできないという内情が存在するのだった。
「以前、アスタ、悪夢にまつわる相談、記憶しています。アスタ、悪夢、見ましたか?」
「うむ。まさしく、そういった話となる。……アスタはポワディーノたちがやってくる前夜、悪夢に見舞われてしまったのだ」
アイ=ファは真剣そのものの眼差しで、そのように言いつのった。
「あなたは以前、邪神教団は大きく星図を乱すために、アスタも影響を受けるのだろうと語っていた。しかしポワディーノたちは、邪神教団と関わりを持つ存在ではない。それでも悪夢に見舞われたのは……やはり、ポワディーノたちも大きく星図を乱す存在であったためなのであろうか?」
「はい。シムの王子殿下、運命、大きく、動かす力、備えているでしょう。なおかつ、目的、アスタだったなら、影響、甚大です。以前、語りましたが、アスタ、星、持たないゆえに、独自、影響、受けるのです」
たしかそのとき、この人物は運命を川にたとえていた。星は小石のようなものであり、運命の急流に流されるが、『星無き民』の黒き深淵は何が起きようとも揺るがない大樹のようなものであり、その運命の急流を満身に受け止めることになる――といった内容であったはずであった。
「……そうか。邪神教団ならずとも、大きな力を持つ存在であれば、アスタに影響を与えるということだな」
「はい。こちら、好奇心、尋ねますが……竜神の民、来訪により、悪夢、見舞われなかったのでしょうか?」
「うむ。あやつらもなかなかにジェノスを騒がせているが、アスタが悪夢に見舞われることはなかった」
「そうですか。やはり、災厄こそ、大きな影響、生じるのでしょう。竜神の民、正しき心、持っている、証かもしれません」
そのように言ってから、最年長の団員は澄みわたった眼差しでアイ=ファを見つめた。
「これも、以前、語りましたが……黒き深淵、もっとも近い場所、輝く、あなた、猫の星です。如何なる災厄、近づこうとも、あなたたち、乗り越える、可能でしょう」
「うむ。私は星読みを重んじていないが……あなたの言葉は、とても心強く思う。だからこうして、すがってしまうのやもしれんな」
アイ=ファがほのかに羞恥の気配をにじませると、最年長の団員は優しい眼差しで「いえ」と応じた。
「最初、語った通り、あなた、頼られる、喜び、限りです。そして、あなたたち、健やかな運命、辿ること、心より、願っています」
「うむ。あなたの厚意と誠心に、深く感謝する。そして、まだひと月ばかりも先の話であるが、道中の無事を祈っているぞ」
アイ=ファがそのように答えたとき、どこからともなく横笛の音が高らかに鳴らされた。
ずっといい子にしていたリミ=ルウが、満面の笑みでアイ=ファの腕を抱きすくめる。
「舞の時間だねー! お話が終わったんなら、一緒に踊ろ―!」
「そうだな」と、アイ=ファはリミ=ルウの頭にぽんと手を置いた。
ラダジッドたちも踊りの輪に加わるべく、列をなして儀式の火に近づいていく。その道行きで、俺はアイ=ファに「ありがとうな」と囁きかけた。
「……何がだ? お前に礼を言われる筋合いはないぞ」
「でも、俺のことを心配して、あんな話をしてくれたんじゃないか」
「家長が家人の身を案じるのは、当然のことであろうが」
アイ=ファは目もとで微笑みながら、俺の頭を優しく小突いた。
俺も満たされた心地で、「うん」とうなずく。
アイ=ファは星読みの力を重んじていないが、俺の悪夢に関してだけは誰よりも気にかけてくれているのだ。だから占星師の団員と、どうしても語りたかったのだろう。
だけどやっぱり、この先の運命を占ってもらおうとはしない。どのような苦難が訪れようとも、俺たちは自力で乗り越えようという覚悟であった。
(アイ=ファと一緒なら、どんな苦難だって怖くはないさ)
そんな思いを込めながら、俺はアイ=ファに笑いかけ――そうして、祝宴のさらなる熱気に身を投じることに相成ったのだった。




