新たな宿場②~到着~
2025.3/18 更新分 1/1
岩場のポイントを通過してから、およそ一刻後――先頭を進む衛兵が、ついに「間もなく森を抜けます!」と告げてきた。
辺りの様相に、大きな変化はない。左右を深い森に閉ざされた、それなりの広さを持つ道だ。かつてトゥランで働かされていた北の民たちは、こんなに長々と道を切り開くことになったのだった。
トトスの車で半日がかりということは、人間の足だと倍以上の時間がかかって然りである。後半は、森の只中で野営をしながら作業を進めることになったはずだ。たとえギバが出現する恐れが少ない区域であるといっても、当時は雨季のさなかであったし――その過酷さは察するに余りあった。
(エレオ=チェルは途中でリタイアすることになったけど、他のみんなは最後まで頑張ったんだもんな。……みんな、ジャガルで楽しく暮らしてるかな)
と、俺の頭にはまた新たな想念が浮かびあがる。
森辺に道を切り開くという一大事業は俺たちにとっても決して他人事ではなかったため、随所に思い出の種が転がっているわけであった。
それからすぐに、道は下り坂になる。
これまでの道のりでも多少は勾配の変化が見受けられたが、これははっきりとした坂道だ。森辺と宿場町を繋ぐ小道と、同程度の傾斜であろうと思われた。
そして、その坂道を踏み越えると――ついに、視界が広く開けた。
ダン=ルティムなどは、「おお!」と快哉の声をあげている。森辺の狩人が森を忌避することはなかろうが、それでも二刻も森の中を駆けていたので、大いなる開放感に見舞われたのだろう。少なくとも、俺自身はそうだった。
ただしべつだん、そうまで心の安らぐ景観が待ち受けていたわけではない。
端的に言って、そこは荒野の出入り端であった。
北の側にはまだモルガの山の威容が見えており、南の側は少し行った先で雑木林にふさがれている。
そして、東の側には白茶けた荒野が広がっており――その果てに、人里の影がうかがえた。
「宿場までは、ここからトトスの速歩で四半刻の半分ほどです。水源を中心に宿場を広げたため、多少の距離が空いているわけですね」
案内役の衛兵が、トトスを進めながらそんな風に説明してくれた。
そういえば、宿場を開く前準備として、まずは井戸の発掘作業が実施されたのだ。人が根城を築くのに、まず重要であるのは水源の確保であったのだった。
「涸れる恐れのない井戸を掘りあてることができたからこそ、宿場を築くことがかなったというわけですね。新たな宿場はまだまだ粗末なものですが、それでも二百名の人間が滞在できるぐらいの規模になっています」
「二百名ですか。この場には、それほどの旅人が集まるのでしょうか?」
シュミラル=リリンの背後に陣取ったガズラン=ルティムが穏やかに呼びかけると、衛兵は気さくに「いえ」と応じた。
「宿場で働く人間と駐屯する兵士たちだけで百名ていどの人数となりますが、残りの寝床がすべて滞在客で埋め尽くされた例はないはずです。ですが、東の王都との交易が本格的に始められたならば、今以上の賑わいを期待できるでしょう」
「なるほど。あくまでも、先を見越しての拡張というわけですか」
「ええ。ジェノス侯が何より期待しているのは、西の行商人が増えることであると聞き及びます。モルガの先にも立派な宿場が存在するとあらば、新たな商売に乗り出す行商人も増えるのではないかというお考えなのでしょう」
さすれば、ジェノスも交易の都市として、いっそうの繁栄が期待できるという筋書きである。おそらくこれは、数十年の単位で計算されている一大事業であったのだった。
(でもきっと、どこの町だってそうやって少しずつ発展していったんだろうしな)
そもそもジェノスそのものも、大もとは交易のあてもない辺境の地であったのだ。
西の王都から追いやられた貴族と領民の一団が、もともと暮らしていた自由開拓民を支配下に置くとともに開拓の作業にいそしみ、南北に街道を切り開いて、ついには交易の要となりおおせた――というのが、俺の知るジェノス建立の歴史であった。
(よくよく考えたら、それってとてつもない話だよな。マルスタインにも、ご先祖の開拓精神がしっかり受け継がれてたってことか)
俺がそんな想念に耽っている間に、人里の影が目の前に迫ってきた。
いちおうは、柵のようなもので区切られている。しかし、大人であれば簡単にまたぎ越せそうな、形ばかりの柵である。ここから先は人間の領地であると、儀式的な意味合いで立てられているのかもしれなかった。
そしてその先には、等間隔に木造りの家屋が並んでいるばかりである。
もちろん足もとは土の地面のままであるし、もっとも大きな家屋でも三階建てであるようだ。
ただし、いずれの家屋も真新しいので、それほど粗末な感じはしない。こちらの宿場が開かれてから、まだ二年は経過していないはずであった。
「まずは、責任者のもとまでご案内いたします」
最初の家屋の手前で、衛兵はトトスから降り立った。
宿場町と同様に、トトスから降りるのがルールであるのだろうか。しかし、木造りの家屋にはさまれた街路には、人っ子ひとり見受けられなかった。
「行商人はおおよそ早朝に出立しますため、この時間に滞在客はいないかもしれませんね」
「なるほど。それで、ここに来るまでの間ですれ違う人間がいなかったということは……今日のところは、シムからジェノスに向かう行商人も存在しなかったということですね」
積極的に情報を集めようと試みるのは、やはりガズラン=ルティムである。しかしジザ=ルウやダリ=サウティも、しっかり聞き耳を立てている様子であった。
「ええ。東の行商人はのきなみ雨季をさけようという考えであったようで、緑の月の頭にはこの宿場もずいぶん賑わったのだと聞きます。今はそれが、ちょうど一段落した時期であるのかもしれません」
「なるほど。それでも、少なからず人間の気配が満ちているようですが……それらはのきなみ、この宿場で働く方々であるわけですね」
「はい。駐屯部隊の兵士と住み込みの働き手たちが、それぞれ五十名ずつといったところでしょうか。詳しくは、責任者の御方にお聞きください」
五軒ほどの家屋を通りすぎたところで、衛兵は足を止めた。
そうして振り仰いだのは、北側に立ちはだかる家屋である。そちらは立派な三階建てで、両脇には二階建ての家屋が併設されていた。
「こちらは宿場の管理棟であると同時に、護民兵団の兵舎も兼ねています。ささやかながら、この宿場の心臓部といったところでありますね」
あくまで気安く語りながら、衛兵はまず右手側に併設された家屋に近づいていく。その一階が、トトスを保管するスペースであったのだ。
扉の前には革の甲冑姿の衛兵が立っており、緊張した顔で敬礼をしてくる。その人物の案内で、大切なトトスたちを預かってもらうことになった。
家屋の内には、こちらに常備されているらしいトトスたちがくつろいでいる。柵で仕切られたスペースの中で、あるいは居眠りをしており、あるいは木箱に積まれた草を食んでおり――宿場町のトトス屋と大差のない様相であった。
「森辺の方々のトトスは、こちらにどうぞ」
俺たちはもっとも奥まった場所に連れていかれて、開かれた柵の内側にトトスとともに入室した。
トトスは明朝まで使う予定もないので、手綱や鞍から解放される。そして俺は鞍の留め具に掛けられていた革の鞄を抱え込むことになった。
この宿場にどれだけの設備がそろっているかは不明な点も多かったので、かまど番のおおよそは調理器具を持参してきたのだ。ただし、鞄まで備えているのは俺とレイナ=ルウとトゥール=ディンのみで、あとはみんな丈夫そうな袋に詰め込んでいた。
すべての拘束を解かれたトトスたちは、思い思いにくつろぎ始める。
アイ=ファが優しい眼差しで「ご苦労であったな」と首を撫でると、ギルルはとぼけた顔で短く「クエッ」と鳴いてから丸くなった。
「それでは、責任者のもとにご案内いたします」
いったん建物を出たならば、今度は中央の建物に案内される。
こちらも頑丈そうな木造りであるので、立派な宿屋にでも踏み込んだような感覚だ。また、入ってすぐが酒場のごとき広間であったため、いっそう宿屋めいていた。
「こちらは、衛兵のための食堂となります。今日はどのような晩餐が出されるのか、今から楽しみでなりません」
そのように語る衛兵の案内で、俺たちは階段をのぼらされる。
二階は素通りして、目的地は三階の一室だ。衛兵が扉をノックすると、「どうぞ」という男性の声が返ってきた。
こちらもまた、広大な部屋である。
室の真ん中に大きな卓が置かれて、たくさんの椅子が準備されている。奥の壁には見慣れない地図が張りつけられており、いかにも会議室めいていた。
「ようこそ、森辺の皆様方。これだけの人数をお迎えするには、こちらの部屋しかありませんでした。殺風景で、申し訳ありません」
にこやかな顔でそのように告げてきたのは、大商人のような風体をした壮年の男性である。そのかたわらにはもう少し若い、武官のお仕着せの人物が控えていた。
壮年の男性がこの宿場の最高責任者で、武官は駐屯する兵士たちの指揮官であると紹介される。どちらもこの地に長く腰を据えており、時おり休暇や報告のためにジェノスまで戻っているとのことであった。
「このたびは当地の人間に調理の手ほどきをしてくださるそうで、心から感謝しております。わたしもすっかりこの地で暮らすことに慣れてまいりましたが、いかんせん食生活だけは充実していると言い難い様相であるのです」
二十二名もの森辺の民を前にしながら、責任者の人物は臆する様子もなかった。さすがこのような地の最高責任者を任されるだけあって、胆は据わっているようである。
「それで、本日のご予定を確認させていただきたいのですが……料理人の方々にはすぐさま調理の手ほどきを開始していただき、一部の殿方は当地の検分ということで間違いはなかったでしょうかな?」
「うむ。半数の男衆はかまど番に付き添うので、こちらの六名だけ案内を願いたい」
その六名とは、ダリ=サウティ、ゲオル=ザザ、ジザ=ルウ、ガズラン=ルティム、ダン=ルティム、シュミラル=リリンという顔ぶれであった。ラウ=レイは、ヤミル=レイのもとに留まるようである。
「では、料理人の方々も二手に分かれていただけますでしょうか? 片方はこちらの管理棟の調理場、もう片方は大食堂の調理場にて手ほどきをお願いしたく思います」
「ふむ。大食堂とは、いずこに?」
「こちらの管理棟の向かいにあるのが、滞在客のための大食堂と相成ります。宿泊の施設もそれなりの数を準備いたしましたが、その一軒ごとに食堂を設けるのはいささか手間でありましたため、今はそちらの大食堂ですべての調理を受け持っている次第です」
「なるほど。では、アスタとレイナ=ルウを取り仕切り役として、二手に分かれてもらうことにするか」
ダリ=サウティの指示に従って、俺とレイナ=ルウは組み分けを開始する。
かまど番は総勢十名であるので、五名ずつに分かれる計算だ。ルウの血族だけで四名いたので、あとはサウティ分家の末妹もそちらに加わってもらうことにした。
俺の組は、ユン=スドラ、レイ=マトゥア、トゥール=ディン、スフィラ=ザザという顔ぶれで、アイ=ファ、ゼイ=ディン、マトゥアの長兄が警護役となる。人数の都合上、ライエルファム=スドラはルウの組に加わってもらうことになったが、残る二名はルド=ルウとラウ=レイなので、なかなかに新鮮かつ心強いトリオであった。
「あとは、どちらがどちらの厨に向かいましょう?」
「そうだね。ここはやっぱり、族長筋のレイナ=ルウが管理棟のほうを受け持つべきなのかな」
そんな感じに、分担の準備は早々に終了した。
責任者の男性は、「それでは」と手を差し伸べる。
「大食堂を担当してくださる方々は、そちらの人間を案内におつけいたします。くれぐれも、粗相のないようにな」
「はいっ!」と背筋をのばしたのは、可愛らしい面立ちをした少年である。これが城下町の宮殿であれば、小姓と見まごう容姿であった。
「そ、それでは、ご案内いたします。こちらにどうぞ」
さすがに小姓ほど私心を滅するすべは学んでいないらしく、いかにも緊張した面持ちをしている。そんな少年に案内されて、俺たちは会議室めいた部屋を出た。
「……そちらは、どういう身分の人間なのであろうか?」
階段を下る道行きでマトゥアの長兄が語りかけると、先頭を進んでいた少年は「はいっ!」と上ずった声で応じた。
「ぼ、僕は隊長殿の従士となります! このようなお役目を果たすのは初めてのこととなりますが、粗相のないように励みます!」
「隊長殿とは、さきほどの武官のことだな。従士というのは、如何なる身分であるのだろう?」
「じゅ、従士とは、主人の世話をしながら剣士としての鍛練に励む身となります! 僕も、武官を志しておりますので!」
「なるほど。貴族というわけではないのであろうか?」
「き、貴族だなんて、とんでもありません! 僕は城下町の一領民にすぎません!」
それでもやっぱり、城下町の民ではあったわけである。それに、名のある武官のもとで働いているということは、それなりに良家の出であるのだろう。道理で、気品のある顔立ちをしているわけであった。
「そうか。しかし俺たちも、ただの狩人とかまど番にすぎん。そうまでかしこまる必要はないように思うぞ」
温和な気性をしたマトゥアの長兄がそのように言いつのると、従士の少年は「いえ!」といっそうしゃっちょこばった。
「も、森辺の方々の武勇の数々は、僕も聞き及んでおりますので! 闘技会で名を馳せるに留まらず、雨季の騒乱では何名もの方々が勲章を授かったのだと聞き及びますし……それに今では、兵団の方々に剣の指南までされているではないですか!」
「なるほど。いずれも、俺には無縁の話だが……ゲオル=ザザなどは、闘技会でそれなりの結果を出したという話であったな」
「えっ! ま、まさか、ゲオル=ザザ殿もご同行されているのでしょうか?」
少年が顔を紅潮させると、マトゥアの長兄はゆったりとした面持ちで「うむ」と応じた。
「さきほど、ギバの毛皮を頭からかぶった男衆がいたであろう。あれがザザの末弟、ゲオル=ザザだ」
「と、闘技会で第四位の座を獲得されたゲオル=ザザ殿が、このような地にまでいらしていたのですか! そ、そのようなことは、想像もしておりませんでした!」
そのようにはしゃぐ少年は、まるで恋する乙女のごとき微笑ましさであった。
(闘技会で優勝したシン・ルウ=シンが居合わせてたら、ひっくり返ってたんじゃなかろうか)
しかしララ=ルウが姉と妹に出番を譲ったため、シン・ルウ=シンは参じていない。ララ=ルウも新たな宿場にはそれなり以上の関心を抱いている様子であったが、城下町での催しで優先してもらうために自制したようであるのだ。今頃は、明日の商売のために下ごしらえの取り仕切りに励んでいるはずであった。
「あの、それじゃあもしかして……そちらは兵団の方々に剣の指南をされていた、レム=ドム殿なのでしょうか?」
と、少年は階段を下り終えたところで、期待に輝く瞳をアイ=ファに向けてくる。
アイ=ファは凛然とした面持ちで、「いや」と応じた。
「レム=ドムは、同行していない。私はファの家長、アイ=ファという者だ」
「ア、アイ=ファ殿!? それでは、かの騒乱で勲一等を授かった英雄ではありませんか!」
「英雄などとは、大仰に過ぎる。私はたまさかポワディーノのそばに控えていたので、数多くの鴉を相手取ることになっただけだ」
少年にどれほど熱い眼差しを向けられても、アイ=ファのクールな面持ちに変化はない。それが余計に、少年を陶然とさせたようであった。
そうして管理棟を後にした俺たちは、街路をはさんで向かい側にそびえたつ大食堂へと歩を進める。
こちらも三階建てであり、規模そのものは管理棟に負けていない。そして、入ってすぐが食堂という造りも、管理棟と同一であった。
詰め込めば、百名以上も収容できそうなスペースである。
裏を返すと、現時点でこの宿場にそれ以上の滞在客が訪れることはない、ということなのだろう。ジェノスには数多くの東の行商人が訪れるが、百名以上の人数でいっぺんにやってくることはありえなかった。
(唯一の例外は、ポワディーノ王子のご一行か。だけどまあ、王子もこの食堂には足を踏み入れてないんだろうな)
それどころか、宿泊の施設も利用していないのではないだろうか。当時のポワディーノ王子は暗殺を警戒していたので、道中でもずっと立派なトトス車の中に閉じこもっていたのだろうと察せられた。
「に、二階と三階は、この宿場で働く人々が宿泊する施設になっています。厨は、こちらです」
たくさんの円卓と椅子が並べられた食堂を突っ切って、俺たちは奥側の扉にいざなわれる。その向こう側が厨であり、六名ばかりの人間が待ち受けていた。
大食堂がけっこうな規模であったので、厨の広さも申し分ない。壁際には四つのかまどばかりでなく、立派な石窯も設置されており、戸棚にはたくさんの食器と調理器具が並べられていた。
「ほう。こちらのかまど番は、みな男衆であるのか」
ゼイ=ディンが意外そうな声をあげると、少年が「はいっ!」と応じた。
「や、やはりこのような地で女人を働かせるのは、色々と不都合がありましたので……管理棟でも大食堂でも、調理を受け持つのはのきなみ男性となります」
ゼイ=ディンは「なるほど」と納得する。
すると今度は、アイ=ファが「うむ?」と声をあげた。
「お前は……そうか、お前もこの地で働いているのだという話であったな」
「へ、へい。まさか、こんな場で森辺のみなさんと顔をあわせることになるとは思っていやせんでした」
と、炊事係のひとりが恐縮しきった声をあげる。
そちらを振り返った俺は、思わず「あっ」と驚きの声をあげることになった。それは昔日の復活祭において、俺の携えた銅貨をくすねようとした男性であったのだ。
「ど、どうもおひさしぶりです。あなたは建築の仕事を担っていると聞いていましたが……かまど仕事まで受け持っているんですか?」
「へい。今はそっちの仕事も一段落したもんで、こんな畑違いの仕事に駆り出されることになっちまったんです」
その男性は、照れ臭そうに笑いながらそう言った。
今では身なりもきちんと整えているが、かつては無法者の世界に片足を突っ込んでいた人物なのである。そんな人物が前掛けをつけて厨にたたずんでいるというのは、なかなかに物珍しい光景であった。
「ダンロなんかは、畑の仕事に励んでるんですがね。俺は、こっちに回されちまいました。お恥ずかしい限りです」
「恥ずかしい? 森辺においては女衆がかまど仕事を受け持つものと定められているが、町ではそのような習わしもなかろう。宿場町にも城下町にも男のかまど番はいくらでもいるのだから、何も恥じ入る理由はあるまい」
厳粛な面持ちでそう告げてから、アイ=ファは眼差しをやわらげた。
「ともあれ、息災なようで何よりだ。このような場で巡りあったのも、西方神の導きであろう。アスタの手ほどきで、いっそうの手腕を身につけられるように願っている」
その人物は、かしこまった面持ちで「へい」と首肯した。
人混みで俺の銅貨をくすね取ろうとした彼は、アイ=ファとサチの活躍で取り押さえられることになった。そして、宿場町の若衆たるダンロのはからいで、心を入れ替えることになったのだ。
(もともとこの人は、森辺の民に反感を持ってたんだもんな)
しかし彼はダンロに説教されたのち、『森辺のかまど番アスタ』を目にして、後悔の涙を流したのだと聞いている。それで世をすねるのをやめて、真っ当に働き始めたのだ。この新たな宿場の建立にあたっては、最初期から土木の作業に参加していたはずであった。
「こいつはもともと、森辺のお人らとご縁があったそうだね。まったく、心強いこった」
と、体格のいい男性がそのように発言した。こちらも荒事を得意にしていそうな、なかなかの強面である。
「俺たちもこいつと同様に、力仕事を受け持つ人足だったんだがね。巡りめぐって、こんな役目を授かっちまったんだ。料理が不出来だって文句をつけられてるみたいだが、こっちは素人なんだから当然の話だわな」
アイ=ファは「ふむ」とうなずきながら、俺のほうに視線を向けてくる。ここからは、かまど番の領分であると判じたのだろう。俺は心して、そちらに応対した。
「ジェノスの貴族の方々から、事情はうかがっています。当初は調理を生業にする方々が派遣されていたようですが、なかなか根付かなかったようですね」
「ああ。まともな腕を持つ人間だったら、町のほうが稼げるんだろうしな。誰も好きこのんで、こんな辺鄙な地に居座ろうとはしねえさ」
すると、別なる男性も「そうそう」と声をあげた。こちらは小柄で骨張った体格をしているが、いかにも世慣れていてしぶとそうな印象であった。
「ま、俺らみたいに食い詰めた人間には、ただで寝泊まりできるだけで大助かりだからよ。こんなつまんねえ仕事でも賃金は悪かねえし、なんとかおん出されないように手ほどきを願いたいもんだね」
そんな言葉を耳にするなり、アイ=ファがぴくりと肩を震わせた。おそらくは、かまど仕事を見下していると受け取ったのだろう。森辺の民にとって、かまど仕事というのは家人の健やかな生を支える大切な仕事であったし――さらにこの近年では、それ以上の意味や価値も認められたはずであった。
(だったら、この人たちにもその意味や価値を理解してもらうだけさ)
そんな思いを込めてアイ=ファにうなずきかけてから、俺は六名の男性たちに向きなおった。
「それじゃあ、今日はよろしくお願いします。ところで、炊事係はこれで総勢なんですか?」
「ああ。もう何人かは、交代で仕事を受け持ってるけどよ。今はみんな、畑に出てるよ」
「そうですか。それじゃあそちらの方々には、みなさんを通じて学んでもらう他ありませんね。今日一日で可能な限りの手ほどきをできるように、心がけます」
幸いなことに、炊事係の面々も俺を侮る気配はないようである。ただ、森辺の民にはあまり免疫がないようで、顔見知りの御仁を除く五名はアイ=ファたち狩人のほうを怖々とうかがっていた。
「最初に確認させていただきますが、こちらで受け持っているのは滞在客と、こちらに住まっている方々の食事なのですよね?」
「ああ。ただ、兵士どもやお偉いさんは、あっちの管理棟で食事を済ませてる。あとはのきなみ、こっちの大食堂だな」
「そうそう。中天になったら、畑に出ていた連中が腹を空かせて舞い戻ってくるぜ」
どうやらこの場のリーダー格は体格のいい男性で、小柄な男性は補佐役のごときポジションであるらしい。他なる四名は、この両名に遠慮をして口をつぐんでいるようであった。
「それじゃあ、そちらの食事の準備と同時進行で、手ほどきを進めていきましょう。献立の予定などはあったのですか?」
「献立も何も、昼は肉や野菜をまとめて煮込むだけのこったよ。あとは、焼いたポイタンを添えるぐらいだな」
「そうそう。ま、夜だって似たようなもんだけどよ」
そういった言葉の端々から、彼らの調理に対する姿勢はおおよそ理解できたような気がした。
これも仕事であるからには、手を抜く気はない。しかし畑違いの業務であることは事実であるし、いずれ土木や建築の作業が再開されればそちらに戻るのだから、ことさら成長しようという気概もない――といったところであろうか。
(これはちょっと、普段と勝手が違ってるみたいだな)
これまで森辺の民に手ほどきを願ってきたのは、みんな飽くなき向上心を携えた人々であったのだ。たとえば宿屋の関係者なども、調理で後れを取ったならば宿の評判に関わるということで、みんな必死であったのだった。
(それならこっちも、臨機応変に対応しないとな)
そんな思いを胸に、俺は左右に立ち並ぶ森辺のかまど番たちへと視線を巡らせた。
そちらはそちらで、普段と変わるところはない。相手の態度がどうであれ、自分たちは自分たちの仕事を果たすのみ――という意気込みだ。その熱情に背中を支えられながら、俺は本日の仕事に取りかかることに相成ったのだった。




