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異世界料理道  作者: EDA
第九十三章 翠嵐の季節
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ファの家の増築工事②~晩餐会の下準備~

2025.2/28 更新分 1/1

 緑の月の三日――増築工事の二日目である。

 基本的には、その日も無事に過ぎ去っていった。


 特筆するべきは、その前夜に持ち上がった一件についてであろう。新たな宿場の見学という話が森辺の連絡網で回されると、あちこちの氏族から志願の声が届けられることに相成ったのだった。


 しかしその前に、まずは貴族の了承が必要となるだろう。それで俺はシェイラを通じて、それとなく意見をうかがってみたのだが――そちらでも、思いも寄らぬほどの反響がもたらされたのだった。


「あちらの宿場にはジェノスで雇った人間を派遣しているのですが、調理を得手とする人間が不足していたようであるのです。もしもそちらで手ほどきの仕事を担ってくださるのでしたら、十分な褒賞を準備するというお話であるのですが……如何なものでしょう?」


 と、中天の前に話を伝えたならば、その日の営業中にそんな返答がもたらされたのである。さすがポルアースらしい、即決即断であった。


 しかしそうまで大ごとになると、俺の一存では決められなくなってしまう。かくして、この一件は貴族と族長の間であらためて話し合うことに相成ってしまったのだった。


「ずいぶんとまた、話が転がったもんだな! まあ、アスタたちとご一緒できるなら、おやっさんも大喜びだよ!」


「だから、俺を引き合いに出すなというのに」


 その日の晩餐ではそんなやりとりが交わされて、俺の胸をひそかに温かくしてくれた。


 そうして慌ただしく、その日は過ぎ去って――緑の月の四日である。

 ファの家の増築工事が完了する予定日だ。その日はファの広場における大がかりな晩餐の会が計画されているため、昨日以上の慌ただしさであった。


 ただしその日は、六日に一度の屋台の休業日となる。

 建築屋が滞在している期間は休業日を十日ごとにしようかという案も持ち上がっているのだが、このたびはちょうどタイミングがよかったので、通常通りに休みをいただくことに決めたのだった。


 午前中は明日の商売の下ごしらえに励みつつ、建築屋の面々の昼食も準備して、午後からは晩餐の会の下準備だ。祝宴ではなくあくまで晩餐の会であったので、ゆとりをもって作業を進めることができた。


 ただこの晩餐の会は、当初の予定よりもやや大がかりな規模となっている。

 案の定というべきか否か、森辺中の氏族に晩餐の会の計画を周知したところ、これまた参席の願い出が数多く届けられたのである。


 それでもなるべく人数を絞って、けっきょく森辺の側から参席するのは四十名という人数に落ち着いた。

 建築屋の面々とスペシャルゲストのディアルとラービス、さらに昨日ジェノスに戻ってきた傀儡使いの面々を合わせれば、総勢六十五名だ。祝宴ならぬ晩餐の会であれば、十分以上の規模であった。


(でも、建築屋の人たちのためにそんなたくさんの人が参席を希望するなんて、嬉しい話だよな)


 そんな思いを胸に秘めながら、俺は調理の準備を始めることにした。

 ただし、本日参席するかまど番のすべてを収容するスペースはなかったので、一部の女衆はディンのかまど小屋でトゥール=ディンの菓子作りを手伝ってもらうことになった。


 ファのかまど小屋に集ったかまど番は、十三名となる。

 そしてその中には、ユーミ=ランも含まれていた。


「いやー、ついにアスタと一緒に働く日が来ちゃったね!」


 そのように語るユーミ=ランは、普段通りの朗らかな笑顔である。彼女は何回か下ごしらえの仕事に参加してくれたが、いずれも俺が屋台の商売に出向いている時間帯であったし、勉強会に関しても同席したのは一回きりであった。


「でも、ユーミ=ランはさすがの手際ですからね。最初から、フォウの血族では指折りのかまど番であるかと思います」


 そんな言葉を添えたのは、屋台の当番を担っているフォウの女衆である。バードゥ=フォウが強く参席を希望したため、彼女も相方として参席することがかなったのだ。


「アスタが仰っていた通り、ユーミ=ランは発想が柔軟ですし、とても目端がききます。今では、こちらが習う側です」


「いやいや! でもやっぱり、体力や腕力ではまったくかなわないからさー! 祝宴とかの長丁場では、あたしが真っ先にへたばっちゃいそうだよー!」


 そんな風に言いながら、ユーミ=ランは俺に向きなおってきた。


「今日なんかも、なかなかの長丁場だよね! ぶっ倒れる寸前までは頑張るから、どうぞよろしくねー!」


「うん。体力的に厳しくなったら、すぐに報告してね。ユーミ=ランなら、心配ないと思うけどさ」


「あはは! これがシリィ=ロウとかだったら、ぶっ倒れるまで頑張っちゃいそうだもんねー!」


 すると、遠からぬ場所で「フン」と鼻を鳴らす者がいた。ダン=ルティムの相方とされた、ツヴァイ=ルティムである。


「アタシだって、そこまで力を振り絞る筋合いはないヨ。まったく、先代家長の自分勝手につきあわされて、こっちはいい迷惑サ」


「またまたー。ヤミル=レイと一緒に働けるだけで、嬉しいんじゃないの?」


 ユーミ=ランが気安く冷やかすと、ツヴァイ=ルティムは「やかましいヨ!」と足を踏み鳴らす。族長筋の血族にも遠慮をしないユーミ=ランのおかげで、和やかな空気が保持された。


 しかしまあ、族長筋と小さき氏族のかまど番が入り乱れているため、なかなかに目新しい顔ぶれである。俺自身、ツヴァイ=ルティムと調理をともにするのはひさびさのことであったのだ。


 その他に目新しいのは、ダイの女衆やドーンの末妹あたりであろう。なおかつ、リミ=ルウとレイ=マトゥアという慣れ親しんだ両名がトゥール=ディンの手伝いを志願してこの場を離れたため、新鮮な心地がいっそう上乗せされるのかもしれなかった。


 しかしまた、いざ調理が開始されれば、誰もが頼もしい腕前である。

 ツヴァイ=ルティムとヤミル=レイは仲良くレイナ=ルウのもとで働いてもらい、ユーミ=ランはユン=スドラやフォウの女衆と同じ組になってもらう。馴染みの薄いダイの女衆とドーンの末妹はこちらで引き受けて、ラッツの女衆にサポートをお願いした。


「トゥール=ディンのもとには、四名のかまど番が参じたのですよね? それでこちらが十三名ということは……二名ばかり、かまど仕事を果たせない女衆が参席するということでしょうか?」


 と、何につけても目ざといラッツの女衆が、さりげなくそんな疑問を投げかけてくる。料理の下ごしらえに励みつつ、俺は「そうですね」と応じた。


「普段だったら男女二十名ずつという割り振りになるところですけど、リリンだけは両方とも男衆だったんです。あとはルウの最長老も含まれているので、かまど番は総勢十八名ということになりました」


「ああ、なるほど。リリンの家は、家長とシュミラル=リリンが参じるわけですか? あのおふたりは、こういった交流に意欲的な印象ですものね」


「まさしく、仰る通りです。とりわけ家長のギラン=リリンは、好奇心が旺盛であるように見受けられますからね。シュミラル=リリンは建築屋の方々とご縁が深いので招待されて、その付添人としてギラン=リリンが名乗りをあげた格好なのだろうと思います」


「そうですか。男女の組み合わせにこだわらないというのも、リリンらしい気風なのかもしれませんね」


 それを否定的にとらえている様子もなく、ラッツの女衆は穏やかな面持ちであった。

 すると、一緒に働いていたドーンの末妹も声をあげる。こちらは実に可愛らしい、ひときわ年若い女衆であった。


「それにしても、ファの家の立派な仕上がりには驚かされました! あんな立派な家を三日で完成させてしまうなんて、建築屋の方々はさすがですね!」


「うん。増築した建物には、このかまど小屋と同じように床板がないからさ。それでずいぶん作業が楽になったみたいだね」


 そして現在は、昨日までほどの騒がしさも伝わってこない。建物そのものは本日の午前中に完成して、今は母屋の壁に穴をあけて扉を設置する作業などに勤しんでいるのだ。どうしても母屋と行き来できる構造にしたいというアイ=ファの願い出がなければ、今日の中天までで完成していたのだろうと思われた。


「ラッツの家でも、犬たちが過ごすための小屋を建てることになりました。いまは何とかなっていますが、子犬たちがもっと育ったら窮屈な思いをさせてしまうことが目に見えていますので」


「サウティの家でも、丸太の準備をしていましたよ! みんな同じ頃に子犬が生まれたので、同じ時期に同じ問題に見舞われたわけですね!」


「そして数ヶ月後には、またいくつもの氏族が同じ問題に見舞われるわけですね。ダイの家でも、無事につがいになったのでしょう?」


「は、はい。子を孕んだかどうかは、まだわかりませんけれど……」


 前回の発情期では、六氏族の犬しか懐妊しなかったのだ。しかしこのたびの発情期では、残る雌犬たちがのきなみつがいとなって、懐妊の兆しを見せているようだと伝え聞いていた。


「さらに新しい雌犬を買いつけるかどうかは、次の家長会議で決められるのですよね? ドーンの猟犬にも伴侶が与えられるように祈っています!」


「ええ。猟犬が増えれば、そのぶん狩人の苦労も減じますしね。今の子犬たちが大きく育って力を添えてくれる日が、楽しみです」


 休みなく手を動かしながら、会話は弾んでいる。普段はなかなか仕事をともにする機会がないメンバーでも、やはり心配は無用なようであった。


「それじゃあ俺は、ちょっと他の組も見回ってきますね」


 頼もしいラッツの女衆に後事を託して、俺はかまどの間を巡回した。

 レイナ=ルウの組にはヤミル=レイとツヴァイ=ルティムの他に、クルア=スンも加わってもらっている。よくよく考えれば、三名ともにスンの血をひく面々であったが、今さらそのようなことを気にする人間はいないだろう。そんな確執を乗り越えて、クルア=スンはヤミル=レイやツヴァイ=ルティムと確かな絆を深めているために、俺もこういった組分けに及んだのだった。


「レイナ=ルウ、問題はないかな?」


「はい。誰もが申し分のない手腕を持っていますので」


 きりりと凛々しい面持ちで、レイナ=ルウはそんな風に答えてくれた。本日は、ルウ家が城下町で出している香味焼きも献立に加えることになったのだ。それは、城下町に足を踏み入れることができない建築屋の面々が強い興味を示していたためであった。


「クルア=スンも、ずいぶん腕を上げたようですね。ともに下ごしらえに励んでいると、成長のさまがひしひしと感じられます」


「いえ、とんでもありません」


 と、クルア=スンは恐縮している様子である。気合の入ったレイナ=ルウを前にして、本日は内気な部分を引き出されたようであった。

 いっぽうヤミル=レイとツヴァイ=ルティムはいつもの調子で、黙々と作業を進めている。おたがいにおたがいのことを思いやっているはずであるのだが、どちらもそれを表に出すようなタイプではないのだ。


「ダイの女衆にも、手抜かりはありませんか? 彼女もそれなりに、成長できていると思うのですが」


 レイナ=ルウが声をひそめてそのように問い質してきたので、俺は本心から「うん」とうなずいた。


「他のみんなと比べても、遜色はないよ。彼女は屋台の当番じゃない日も、ルウやルティムとかの家で修練を積んでいるんだよね?」


「はい。レェンは家の仕事が忙しく、あまり勉強会にも参加できないため、そのぶん親筋たる彼女が奮起しているようです」


 ダイはルウと近所なので、レイナ=ルウを筆頭とするルウの血族が面倒を見ているのだ。それでレイナ=ルウはこの場において、俺とおたがいの生徒を預け合っているような心境であるのかもしれなかった。


(まいったな。そんな気は、さらさらなかったんだけどな)


 俺はそのように思ったが、これもレイナ=ルウがそれだけ熱心にかまど番の育成に励んでいる証拠であるのだと、好意的にとらえることにした。


 そうして最後の組の作業場に足を向けると、そちらはひときわ賑やかである。フォウの血族の三名にマルフィラ=ナハムとダゴラの女衆を加えた、もっとも大人数の編成であったが――誰もが気心の知れた間柄である上に、ユーミ=ランの社交性が相乗効果を生み出している様子であった。


「やあ。こっちは盛り上がってるようだね」


「はい。仕事をおろそかにはしていませんので、どうぞご安心ください」


「あはは。ユン=スドラが班長なんだから、何も心配していないよ」


「そーそー! 心配なのは、あたしぐらいだねー!」


 嫁入りから半月ていどが経過して、ユーミ=ランもますます気安く振る舞えるようになったようだ。だけどやっぱり婚儀を挙げた人間としての落ち着きも随所に垣間見えていたので、頼もしい限りであった。


「こちらはマルフィラ=ナハムのおかげで、順調すぎるぐらい順調です。そちらはアスタが見回るのでしたら、マルフィラ=ナハムに移ってもらってはどうでしょうか?」


「いや、こっちも順調に進んでるからね。下ごしらえが終わったら人員を動かすことになるだろうから、今はそのままお願いするよ」


「承知しました。もう四半刻もかからずに、野菜の切り分けは完了するかと思います」


 すると、ユーミ=ランがまた「うーん!」と元気な声をあげた。


「アスタはそうやって、十人以上のかまど番を見回ってるのかー! やっぱ、大変そうだねー!」


「いやいや。みんなしっかりしてるから、何も大変なことはないよ。これが祝宴なんかだと、あちこちのかまど小屋を巡ったりすることにもなるから、多少は苦労がかかるけどね」


「なるほどー! 大変そうだけど、楽しそうだなー! 祝宴が開かれる日が、楽しみだよ!」


 そこで、表から「ばうっ」というジルベの声が聞こえてきた。

 これは警戒をうながす声ではなく、喜びの思いの発露である。それで俺がかまど小屋の外を除くと、巨大なギバを背負ったアイ=ファが立ちはだかっていた。


「うわ、さっき森に入ったばかりなのに、もうギバを仕留めたのか。どうも、お疲れ様」


「うむ。これは、罠にかかっていた分だ。帰りがけに仕留めたギバは、これから持ち運ぶ」


 もはやアイ=ファは、一日に複数のギバを狩るほうが当たり前になっている。なおかつ、おおよそは血抜きにも成功しているのだ。雨季が明けて以降、アイ=ファは狩人として絶好調なようであった。


(本当に、アイ=ファはすごいんだな)


 俺は感服の思いを胸にアイ=ファへと笑いかけてから、自分の仕事場に舞い戻った。

 アイ=ファが狩人としての力を示したならば、俺はかまど番としての力を示さなければならない。アイ=ファに相応しい家人でありたいというのが、俺にとっては昔日からの重要な原動力であったのだった。


 そうしてその後も、作業は順調に進められていき――下りの五の刻に達したところで、シュミラル=リリンとギラン=リリンがやってきた。本日、リリンの家はたまたま休息の日であったので、ディアルとラービスを迎えに行く役目を引き受けてくれたのだ。


「みんな、おつかれー! ユーミ=ランは、ちょっとひさしぶりー!」


 大きく開かれたままであった戸板の向こう側から、ディアルが元気な声を響かせる。それでもかまどの間に踏み入ってこないのは、家人の許しが必要であることをわきまえているためである。ディアルももはや、森辺の常連という風格であった。


「やあ、そっちも元気そうだね。立派な晩餐ができあがるはずだから、楽しみに待っててよ」


 ユーミ=ランが力強い笑顔で答えると、ディアルは「んー?」と小首を傾げた。


「ユーミ=ランは、どうしたの? なんだかずいぶん、気合の入った顔になってるみたいだけど」


「いやー、中天から仕事に励んで、身体はくたくたなんだけどさー。そのぶん、頭が冴えてきたみたいなんだよねー」


 いわゆる、アドレナリンが放出されている状態であるのだろうか。間に小休止をはさんでも、やっぱりユーミ=ランはそれなり以上に疲弊した様子であり――それがこの一刻ぐらいで、さしたる理由もなく復活してきたのだった。


「あはは! さすが、ユーミ=ランだねー! これはますます、期待させられちゃうなー!」


 ディアルは安心したように笑いつつ、俺のほうに向きなおってきた。


「アスタも、おつかれー! ちょっと今日は、お邪魔すると窮屈な感じになっちゃうかなー?」


「そうだね。よかったら、入り口のところに敷物でも敷こうか? ルウのかまど小屋では、そうやって見物されることがときどきあるんだよね」


「うん! みんなとおしゃべりできるなら、僕はなんでもかまわないよー!」


 ということで、俺は区切りのいいところで作業の手を止めて、かまど小屋の外に出ることにした。

 そちらでは、シュミラル=リリンとギラン=リリンも笑顔で待ちかまえている。俺は真心を込めて、「どうも」と頭を下げた。


「お迎えの役目を引き受けてくださって、ありがとうございます。せっかくの休息の日だったのに、申し訳ありません」


「いえ。日中、休めたので、心、満たされています」


 と、シュミラル=リリンはいっそう優しげに微笑む。もちろん自由な時間は、すべて愛する伴侶や我が子のもとに留まっていたのだろう。


「俺はディアルたちと顔をあわせるのも、ずいぶんひさびさであったのでな。ここまで参じる間にも、存分に語らうことができたぞ」


 シュミラル=リリンに劣らず温厚なギラン=リリンも、とてもやわらかい笑顔である。俺自身、彼に会うのは少しひさびさであった。


「シュミラル=リリンはユーミ=ランの婚儀にも招待されてたけど、あの日はあんまりおしゃべりできなかったもんねー! でも、あの赤ちゃんの可愛さは忘れられないよー!」


 ディアルも、屈託なく笑っている。シュミラル=リリンとは古いつきあいであるし、すでに東の民ではなくなったので、思うぞんぶん親睦を深めることがかなったのだ。


(ふたりが最初に出会ったのは、まだトゥラン伯爵家の騒ぎが落ち着く前のことなんだもんな。本当に懐かしいや)


 そんな思い出を噛みしめながら、俺は食料庫に仕舞い込まれていた敷物を引っ張り出して、かまどの間の入り口付近に広げた。


「そういえば、アイ=ファはまだ森であるのか?」


「はい。今日はもう二頭もギバを狩っているのに、まだ時間があるからと出かけてしまいました」


「なんと、二頭もか。さすがは、アイ=ファだな」


 ギラン=リリンは気さくに笑っていたが、その四半刻の後には驚嘆することになった。アイ=ファがまた巨大なギバを背負って帰還して、さらにもう一頭のギバを森に残していると告げてきたのだ。


「つまり、今日だけで四頭ものギバを仕留めたということか? それは……なんとも、呆れた話だな」


「うむ。すべては、母なる森の導きであろう」


 アイ=ファは凛然と答えてから、目礼をした。


「ただ、今からそのギバを運ぶとなると、日没までに処置するのも難しくなる。申し訳ないのだが、こちらのギバの始末を願えるであろうか? 礼として、二頭分の毛皮を捧げたく思う」


「礼なら、一頭分が相応であろう。二頭目を運ぶのにも助力が必要であれば、話は別だが」


「こちらに、助力は必要ない。では、よろしく願う」


 巨大なギバをギラン=リリンに受け渡して、アイ=ファは颯爽と立ち去っていく。その背中を見送ってから、ギラン=リリンはかまどの間を覗き込んできた。


「アスタよ。アイ=ファが四頭ものギバを収獲するのは、当たり前の話であるのか?」


「いえ。四頭すべての血抜きに成功するというのは、滅多にある話ではありません」


「では、これが初めての話ではないし、血抜きのことを考えなければ四頭も珍しくはないということか?」


「そうですね。血抜きに失敗したギバは肉を持ち帰らないので、俺も完全には把握できていないのですが……月に何度かはあるように思います」


「大したものだ」と、ギラン=リリンは笑い皺を深めた。


「少し見ない間に、アイ=ファはずいぶん力をつけたように見える。アスタともども、大したものだ」


 リーハイムたちの婚儀の日には、ライエルファム=スドラも同じような感慨をこぼしていたのだ。それだけアイ=ファが、凄まじい力を発揮しているのだった。


(俺も、負けてられないや)


 そうして俺は調理のラストスパートで、さらに奮起することになった。

 その間に、表のほうはどんどん賑やかになっていく。本日の招待客が、続々とやってきたのだ。その何名かは、わざわざかまどの間にまで挨拶に来てくれた。


「アスタ、本日はお招きくださり、ありがとうございます」


 と、傀儡使いのリコも戸板の外から、あどけない笑顔を届けてくれた。


「うん。みんな、リコたちの劇を楽しみにしてるからさ。晩餐を始めて一刻ぐらいしたら、お願いできるかな?」


「承知しました。みなさんのお邪魔にならないように、出番までは大人しくしていますね」


「いやいや。傀儡の劇だけじゃなく、リコたちとのおしゃべりを楽しみにしてる人も多いんだからさ。どうかみんなの期待に応えておくれよ」


「ありがとうございます。アスタのお気遣いに、感謝いたします」


 リコはいっそう屈託のない笑顔を覗かせてから、引っ込んでいった。

 かつてリコたちは『森辺のかまど番アスタ』の改修版を披露するためにネルウィアまで出向いた身であるのだから、建築屋の面々とはぞんぶんにご縁が深まっているのだ。また、これまでは風聞で伝え聞くしかなかった《颶風党》の騒乱が傀儡の劇に仕立てられたと聞き及び、建築屋の面々は期待にはちきれんばかりになっていたのだった。


(あの第三幕にはティアが登場するから、俺やアイ=ファはどうしても涙腺を刺激されちゃうけど……その反面、ティアと再会できたような喜びだって味わえるからな)


 リコからプレゼントされたティアの人形は、割れ物と一緒に食料庫に保管している。工事のどさくさで万が一にも破損や紛失してはならじと思い、そのように取り計らったのだ。


(それに、おやっさんやアルダスたちは、ファの家の晩餐でティアに出くわしてるからな。あのティアが、どんなに力を尽くして俺を守ってくれたか……それを傀儡の劇で見届けてもらえるのは、嬉しい限りだ)


 そうして俺はティアのおかげで、またあれこれ情感を揺さぶられつつ作業を進め――そうして日没の四半刻ほど前に、すべての料理を仕上げることに相成ったのだった。

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― 新着の感想 ―
血抜きに失敗したギバの肉も、なんとかそこそこ美味しく食べられるようにする調理技術は、あれからどうなったんだろうか? 態々ギーズやムントのエサにすることもなくないかな?
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