再会の日①~到着~
2025.2/24 更新分 1/1
・今回の更新は全7話の予定です。
さまざまな慶事に彩られた黄の月が終わりを迎えて、緑の月がやってきた。
緑の月というのは黄の月に劣らず、俺にとって思い入れの深い月である。というよりも、俺が森辺にやってきたのは黄の月の下旬であったため、さまざまな革新がなされたのはおおよそ緑の月であったのだった。
ただしあの頃は、俺もこちらの世界の暦をまったく認識していなかった。俺がそれを認識したのは、翌月の青の月であったのだ。当時の俺はこの世界がどういった暦で運行されているかということに考えを巡らせる余地もないまま、ひと月ばかりの日々を過ごしていたのだった。
ルウ家にまつわる騒動などは、半分がた黄の月の出来事であったのだろう。リミ=ルウがファの家に押しかけてきたのも、ジバ婆さんにハンバーグをふるまったのも、俺がアイ=ファと出会ってから数日以内の出来事であったのだ。
しかし、ルウ家に初めて乗り込んだ夜にドンダ=ルウと対立して、それから和解に至るまでには、十日や半月ばかりもかかったように記憶している。俺とアイ=ファはファの家に新たなかまどを作りあげつつ料理の研鑽に励んで、万全の態勢でドンダ=ルウのもとに乗り込んだのだった。
よって、ルティムの面々と出会ったのも、シン・ルウ=シンの一家と出会ったのも、婚儀の宴料理を任されたのも、緑の月に移行してからということになる。さらには初めて宿場町に下りて、カミュア=ヨシュやミラノ=マス、ターラやドーラの親父さんなどと巡りあったのも、宿場町で屋台の商売を開始したのも、すべて緑の月であったはずであった。
ということは、シュミラル=リリンが率いる《銀の壺》やバランのおやっさん率いる建築屋と巡りあったのも、その頃ということになる。
ユーミ=ランやレビ、ベンやカーゴ、ミダ・ルウ=シンやテイ=スンといった面々は、ちょうど月の境の頃であろう。俺の感覚的には、ぎりぎり緑の月であったのではないかと思われた。
翌月の青の月には家長会議があったため、そこで俺は爆発的に交流を広げることになる。緑の月というのは、その来たるべき運命の変転に備えて助走をつけているような時期でもあったのだ。
しかしそれは、後から振り返っての感慨である。当時の俺は森辺と宿場町の両方でさまざまな人と巡りあい、目の回るような思いであったのだった。
ともあれ――緑の月というのは、俺にとって思い入れの深い月であった。
そして俺は、このたび四度目となる緑の月を迎えるのである。
森辺にやってきてから一年ほどが過ぎて、二度目の緑の月を迎えた際には、王都の監査官たちと相対することになった。その末に西方神の洗礼を受けて、ジルベを家人として迎えることになり、さらには赤き民ティアとも出会ったはずであった。
三度目の緑の月は、試食会の真っただ中だ。ダカルマス殿下とデルシェア姫がやってきたのは前月の黄の月で、数々の試食会を繰り広げている間に緑の月に突入して、優勝を果たした俺とトゥール=ディンは礼賛の祝宴で大いなる祝福を授かったのだった。
こうしてみると、やはりどの年も騒がしさにまさり劣りはない。
きっと他なる月だって、同じぐらい賑やかであったのだろう。ひと月まるまる落ち着いていた時期など、俺の記憶にはいっさい残されていなかった。
それでもなお、緑の月が印象的であるのは――おそらく、バランのおやっさんが率いる建築屋のおかげであるのだ。
王都の監査官についても試食会についても、おやっさんたちが一緒になって騒いでいる印象が心に焼きつけられている。そうである以上、それは緑の月か翌月たる青の月、あるいは復活祭の時期でしかありえないのだった。
王都の監査官の一件では、建築屋の面々も親身になって心配してくれていた。
試食会では、おやっさんやアルダスが立派な準礼装の襟もとを窮屈そうにしていた姿が印象に残されている。
斯様にして、俺にとっての緑の月というのは建築屋の人々との思い出であふれかえっており――本年も、俺は期待にわきかえることになったわけであった。
◇
そうして迎えた、緑の月の一日――
朝から商売の下ごしらえに励んでいた俺は、いち早く出立する城下町の当番を見送るためにかまど小屋を出ることになった。
「それじゃあ、くれぐれもよろしくお願いします。何も心配はいらないかと思いますが、何かあったらレイナ=ルウと相談してください」
「ええ、わきまえています」と冷静かつ力強く答えてくれたのは、スフィラ=ザザである。その隣では、相方のレイ=マトゥアがにこにこと笑っていた。
ついに本日から、俺が城下町の当番から外れることになったのだ。
サトゥラス伯爵家の婚儀の当日には俺とこちらの両名にガズの女衆という変則的なメンバーでルウ家の穴を埋め、その二日後にはユン=スドラとラッツの女衆に当番を任せつつ、俺は見守りの役に徹した。それで、俺が毎回出張る必要はないと判じて、本日から新たなローテーションを組むことに決めたのだった。
城下町の商売は、今後も隔日で行われる。
俺がそれに参加するのは、十日に一回ということにさせていただいた。この頃にはトゥランの商売も同程度の割合であったので、それにそろえることにしたのだ。
現時点で、城下町で売りに出しているのは『卵包みのおにぎり』であるため、調理に手間はかからない。また、城下町は治安がいいので、不測の事態も起きにくい。およそ半月という期間で七回の商売を重ねたのち、俺はそのように判じることになったわけであった。
そういった変更にともなって、俺は新たな通行証の申請を願い出ることになった。
他の四名の負担を減らすために、ガズの女衆も正規の当番に組み込みたいと思案したのだ。
幸いなことに、メルフリードもポルアースも快諾してくれた。ふたつの屋台で十名の人員というのは、かなり加減のされた人数であったのだ。ゆくゆくは、ルウ家も人員を六名に増やして、眷族のみのローテーションを組み立てる算段であった。
「それで、取り仕切り役に関してなんですが……やっぱりこれも、交代制ということにしましょう。今日の取り仕切り役はスフィラ=ザザで、次回はレイ=マトゥアということにさせていただきます」
「承知いたしました。……ですが、次の当番では別の御方との組み合わせになるのですよね?」
スフィラ=ザザの言葉に、レイ=マトゥアは「えっ」とのけぞった。
「あの、もしかしたらスフィラ=ザザは、わたしと組むことを負担に感じていらっしゃるのでしょうか? でしたら、わたしも失礼のないように身をつつしもうかと思いますが……」
「べつだん、そういうわけではありません。同じ人間とばかり組にするのはアスタの流儀ではないだろうと判じたまでです」
「それなら、よかったです! わたしはつい騒がしくしてしまうので、スフィラ=ザザに嫌われてしまったのではないかと不安になってしまいました!」
レイ=マトゥアが無邪気な笑顔を復活させると、スフィラ=ザザは曖昧な面持ちで口ごもる。彼女はザザ本家の家人としてさまざまな血族を従えていたが、素直な妹のように接してくる相手にはあまり免疫がないようであった。
「俺を除くと当番の人数は五名ですから、今日から三回目の出勤ではもう人員が入れ替わる計算になります。それに関してはきちんと表にしてお渡ししますので、よろしくお願いしますね」
「承知しました。それでは、出立いたします」
かくして、スフィラ=ザザとレイ=マトゥアと護衛役のジルベは、ファファの荷車で出立していった。
俺はかまど小屋に舞い戻り、下ごしらえを再開させる。二日前からトゥランの商売を受け持つ日取りであったので、フォウのかまど小屋における下ごしらえは今日の当番であるガズおよびアウロの女衆に任せており、こちらの常勤メンバーはユン=スドラとマルフィラ=ナハムという顔ぶれであった。
「レイ=マトゥアたちは、出立ですか。これで少しだけ、アスタの負担が減りましたね」
手際よく作業を進めながら、ユン=スドラが屈託なく笑いかけてくる。俺も仕事を再開させながら、「うん」と笑顔を返した。
「そのぶん、ユン=スドラたちの負担が増しちゃうだろうからね。それもきちんと改善していくから、どうかよろしくね」
「いえ。こちらは、どうということもありません。トゥランの商売も、ずいぶん人手が潤ってきましたからね」
トゥランの商売でもどんどん研修を進めて、現在ではクルア=スン、ダゴラ、ラヴィッツ、ミームの女衆なども取り仕切り役を担えるようになっている。そうでなければ、城下町の当番を選ぶのにも苦労したことだろう。最終的にはすべてのかまど番がトゥランの取り仕切り役を務められるように育成して、城下町のほうでも屋台と人員の拡張を目指したいところであった。
「サウティやザザの血族の人たちにも、めいっぱい働いてもらってるしね。この調子なら、新しい人員の研修を進めても人手が余ることはなさそうかな」
「次はいよいよ、タムルとフェイとヴェラ、ダナとハヴィラですか。そうしたら、ついに森辺の全氏族が屋台の商売に関わることになりますね」
「うん。ただし、ルウの血族には穴があるけどね。今はまだリリンの女衆が当番を免除されているし、シンの女衆も屋台には参加してないからさ」
「ああ、なるほど。そちらは赤子の面倒や新たな集落での生活が落ち着くまで様子を見るという話でしたね」
「うん。あとは、フェイ・ベイム=ナハムがナハムに嫁入りしたから、厳密に言うとベイムの女衆は商売に関わっていないことになるね」
「ああ、そうでした。ベイムからは、人を募らないのですか?」
「そのあたりは、他の氏族との兼ね合いかな。ザザやサウティの眷族は、やっぱり家が遠いからさ。もしかしたら、ベイムのほうが早く採用されることになるかもね」
「そうですか。どのような結果になるか、楽しみなところですね」
そのように森辺の全体のことにまで視野を広げられるのも、ユン=スドラの才気のほどを示しているだろう。恥ずかしながら、彼女は俺の背中を追っていると公言してはばからないのだ。また、なるべく婚儀を遅らせてでも商売に関わりたいと願っているユン=スドラは、余人よりも大きな責任感や使命感を担っているのだろうと察せられた。
「それで今日からは、ついに緑の月ですねえ。これで宿場町の屋台も、いっそう賑わうわけですか」
と、お地蔵様のような微笑みをたたえつつ、リリ=ラヴィッツがそんな言葉を届けてきた。ラヴィッツは二名のかまど番を輩出しているため当番の日取りも半分に分けていたが、城下町での商売を開始したことによってそちらの出席率もじわりと上昇していた。
「それは、建築屋の方々のことですよね? 俺も楽しみにしています」
「あの方々がやってくるのは、半年ぶりですか。ファの家はまた手を入れるそうですし、賑やかになりそうですねえ」
言外に、ファの家は銅貨が有り余っていると指摘されているような心地であるが、それは事実であるので気を悪くする筋合いはない。また、そのていどのことで目くじらをたてていたら、リリ=ラヴィッツと絆を深めることもかなわないのだった。
(建築屋に関しては、俺が城下町の当番から外れたことを当てこすってるのかな? まあ、それも半分がた事実だから、どう思われようとかまわないけどさ)
もとより城下町の商売はなるべく他の人員に任せたいという方針であったが、建築屋の面々は二ヶ月しかジェノスに滞在しないため、俺もできるだけ宿場町の当番を担当したいという思いがあったのだ。そしてそれを後押ししてくれたのは、他ならぬユン=スドラたちであったのだった。
それでも俺は客観的な分析を心がけて、自分が城下町に出向くのは十日にいっぺんで十分であると決定した。その判断に、私情をまじえた覚えはない。俺が手掛けている商売の中でもっとも規模と意義が大きいのは宿場町の商売であろうから、自分の仕事もそちらに比重を割くべきだと判じたつもりであった。
(もちろん、個人的な思い入れも大きいけどさ。それこそ、人それぞれの話だもんな)
俺とは反対に、レイナ=ルウやララ=ルウやスフィラ=ザザなどは城下町の商売に強い関心や思い入れを抱いている。彼女たちは、できれば毎回自分が当番を担いたいと考えているようであるのだ。そんな彼女たちも私情を抑えて、均等な比率に甘んじているわけであった。
「よし、これで完了ですね。それじゃあ、積み込みを始めましょう」
下ごしらえが完了して、お次は積み込みの作業であった。
すると、薪割りに励んでいたアイ=ファが近づいてくる。その足もとでは、ブレイブとドゥルムアが尻尾を振っていた。
「出発の刻限か。バランたちには、くれぐれもよろしくな。もし打ち合わせの必要があれば、今日の晩餐に招いてもかまわんぞ」
「うん、了解。どんな感じに仕上がるか、今から楽しみだな」
俺たちは人ならぬ家人たちのために、ファの家の増築を依頼しているのだ。アイ=ファもまた凛々しい面持ちを保持したまま、「うむ」とやわらかい眼差しになっていた。
そんなアイ=ファに別れを告げて、俺たちはルウの集落に出立する。
本日はレイナ=ルウとレイの女衆が城下町の当番であるので、宿場町の取り仕切り役はララ=ルウだ。そのララ=ルウが、真剣な面持ちで近づいてきた。
「今日は、あたしをそっちに乗せてくれる? それで、アスタにちょっと相談させてほしいんだよね」
「でしたら、わたしが荷車の運転を代わりましょう」
と、気のきくユン=スドラが俺よりも早く応じてくれた。
俺はユン=スドラに手綱を託して、ララ=ルウとともに荷台に収まる。他に同乗していたのは、リリ=ラヴィッツとマルフィラ=ナハムとヴィンの女衆というラヴィッツの血族尽くしであった。
「実はさ、取り仕切り役のことで悩んでるんだよね。まだしばらくは、あたしとレイナ姉のどっちかが城下町に出向くつもりなんだけど……そうすると、空いた日は宿場町の商売を取り仕切らないといけないから、トゥランに顔を出す隙がないじゃん? トゥランのほうも落ち着いてるみたいだけど、完全に眷族まかせってのはよくないと思うんだよね」
「うん。俺もいちおう、二巡に一回の目安で顔を出すようにしているからね。期間限定なら、眷族に任せても問題ないと思うけど……ひと月やふた月もかかるようだったら、ちょっと考えるべきかな」
「やっぱり、そうだよね。それで、考えたんだけど……あたしは宿場町の取り仕切りを、マイムに任せたいんだよ」
「ああ、マイムか。そういえば、マイムはまったく取り仕切り役を担ってなかったんだっけ?」
「うん。ルウの家人に偏らないように、眷族の女衆を優先して育ててたんだよ。そっちもシンとリリンを除けば一段落しそうだから、次はマイムにお願いしたいんだよね」
ルウの眷族でもレイ、ルティム、ミン、マァム、ムファの女衆がひとりずつ大きな成長を果たして、トゥランの商売の取り仕切り役を担っているのだ。
ただその中で、レイ、ルティム、ミンの女衆は、城下町の当番と重複している。ルウの血族も、そろそろ取り仕切り役の枠を広げる時期に差し掛かったということであった。
「ここでマァムやムファの女衆に宿場町の取り仕切りまで任せたら、いっそう偏っちゃうからさ。それに、マイムはトゥランや城下町に出向くのは気が進まないみたいだから、それなら宿場町を任せたいんだよね」
「ああ、マイムとミケルはトゥランで暮らしていた頃、強盗に襲われてるんだもんね。城下町では、ミケルがサイクレウスの手下に襲われてるし……気が進まないのは、わかるような気がするよ」
「でしょ? マイムだったら調理の腕も申し分ないし、年齢もぎりぎり許しをもらえるからさ。リミなんかは、あと二年ばかりも待たないといけないしね」
ミーア・レイ母さんの方針で、取り仕切り役は十三歳を目処にという取り決めであるのだ。マイムが十三歳になるのは本年の紫の月であったが、それは森辺の家人として正式に認められた日取りであり、もともとは本年の年明けで十三歳になっている立場であった。
「マイムだったら、申し分ないと思うよ。でも、どうして俺なんかに相談したのかな?」
「ミーア・レイ母さんに話を通す前に、マイムの気持ちを確かめておきたいんだよ。それで……アスタにも、立ちあってもらえない?」
「え? どうして、俺が?」
「マイムって、ちょっと繊細なところもあるじゃん? 最近は元気になったけど、雨季が明けてしばらくはちょっと調子を崩しててさ。できるだけ、慎重に話を進めたいんだよ」
ララ=ルウは真剣な面持ちで、身を乗り出した。
「あたしは本家の人間だから、あたしだけだとマイムは自分の気持ちを抑え込んじゃうかもしれないからね。余所の立場であるアスタも立ちあってくれたほうが、マイムも話しやすいと思うんだ」
「へえ。ララ=ルウとマイムは仲良しだから、そんな心配はいらないように思えちゃうけどね」
「これは、仲の良さとは関係ないんだよ。マイムは真面目だから、森辺の習わしに逆らっちゃいけないって気持ちが強すぎるのさ」
やっぱり俺にはピンとこなかったが、それでも多少は鑑みることができた。ララ=ルウの背後には、族長のドンダ=ルウや長兄のジザ=ルウも控えているのである。それだけで、本家の人間に恐れ入る理由は十分であるのかもしれなかった。
「なるほど。とりあえず、了承したよ。でも、ララ=ルウがそんな風に気を使うってことは……マイムが取り仕切り役を嫌がるんじゃないかっていう考えなのかな?」
「うん。マイムはもともと遠慮がちだし、最近は自信なさげな態度が目についてたからさ。まあ、いまはすっかり元気なんだけどね。元気がないままだったら、取り仕切り役をお願いするどころの話じゃなかったよ」
それは俺にとって、意想外の話である。雨季が明けてからは俺も慌ただしく過ごしていたので、マイムと個人的な交流を深める機会も不足していたのだ。
また、勉強会の際にもマイムはミケルと別の組に振り分けられることが多かったし――ここ最近は、俺個人の修練の日にも欠席することが多かったのだった。
(マイムが調子を崩していたのに気づいてあげられなかったなんて、薄情な話だな。今回は、しっかり面倒を見てあげよう)
俺がそんな思いを新たにしたところで、荷車は宿場町に到着した。
ララ=ルウは腰を上げながら、ずっと無言であったリリ=ラヴィッツたちに視線を巡らせる。
「それじゃあ、この話は商売の後でね。……それまでは、他言無用でお願いできるかな?」
「ええ。わたしたちが関与するような話ではありませんからねえ」
リリ=ラヴィッツはお地蔵様のように微笑み、マルフィラ=ナハムはせわしなくうなずき、ヴィンの女衆はそっと目礼をする。どれだけ気心が知れようとも、ラヴィッツの血族が族長筋の意向を二の次にする恐れはないはずであった。
俺はララ=ルウと一緒に荷台を降りて、徒歩で《キミュスの尻尾亭》までの道を辿る。
リーハイムとセランジュの婚儀から三日が過ぎて、宿場町もすっかり平常モードである。ただしその平常は、日に日に熱気を増しているように感じられた。
少なくとも、一年前よりは格段に賑やかであるのだろう。宿場町の活気は増していくいっぽうであったが、ダカルマス殿下が開催した試食会を機に、それがさらに加速したようであるのだ。
かつてポルアースが夢想していたように、ジェノスは美食の町であるというイメージが定着したのだろうか。
ジェノスには、さまざまな領地の食材があふれかえっており――そして唯一、ギバ料理を口にできる地であるのだ。ダカルマス殿下やアルヴァッハは個人的にギバの干し肉や腸詰肉を買い求めていたが、それが市場に出回る可能性はごく低いはずであった。
(あの頃は、ポルアースの遠大すぎる計画に半分がた呆れていたもんだけど……まさかこうまで、順調に話が進むとはな)
しかし、たとえどれだけ順調であっても、その裏側にはさまざまな苦労が山積みにされている。食材の流通に関してはポルアースたち貴族が、食材の扱い方に関しては俺たち料理人が、それぞれ小さからぬ苦労を負ってきたのだ。その末にこれだけの活気が実現したのだと思えば、感慨もひとしおであった。
そうして《キミュスの尻尾亭》で屋台を借り受けて、レビたちと合流したならば、再び街道を北上する。
次に立ち寄るのは、《南の大樹亭》だ。俺たちはもう一年以上も前から《キミュスの尻尾亭》の屋台を借り尽くしていたので、不足分は《南の大樹亭》からレンタルしているのである。
ただし、契約上の混乱を避けるために、《南の大樹亭》から屋台を借りているのはのきなみルウ家である。
しかしその日は俺も素通りする気持ちになれず、ララ=ルウとともに受付台までおもむくことになった。
「おや、アスタがご一緒とは、珍しいですねぇ。主人はもう屋台の商売を始めておりますよ」
受付台でにこにこと笑っていたのは、ナウディスの伴侶だ。西の民でありながら南の民のように小柄で肉付きのいい、とても柔和な女性であった。
「はい。取り立てて用事があったわけではないのですが……建築屋の方々の予約に、変更はありませんよね?」
「ええ。ですが、到着するのは中天を過ぎてからでしょうねぇ」
「そうですよね。みなさんが到着したら、よろしくお伝えください」
俺が頭をかいていると、ララ=ルウが「あはは」と笑い声をあげた。
「あの人らがからむと、アスタも子供に戻っちゃうよねー。まあ、楽しみなのはわかるけどさ」
「うん。何せ、半年ぶりだからね」
しかし、おやっさんたちが毎年復活祭にまで来てくれるようになったからこそ、半年で済んでいるのである。本来であれば、建築屋の面々がジェノスを訪れるのは年に一回のことであったのだった。
(最初の年は、復活祭に来なかったから……俺がお迎えするのは、これが六度目ってことになるのか)
なおかつ、仕事で滞在するのは二ヶ月きっかりだが、復活祭では十日ていどしか滞在しない。そして、初年度は緑の月の終わり頃から屋台を開いたとすると――俺が建築屋の面々とともに過ごしたのは、合計で半年弱という計算になるはずであった。
三年余りの歳月の中の、半年弱――それを長いと見るか短いと見るかは人それぞれであろうが、何にせよ俺は今日という日を心待ちにしていたのだった。
「鍋を焦がして、バランたちをガッカリさせないようにね? ま、アスタだったらそんな心配はいらないだろうけどさ」
そんなララ=ルウの忠言にまた頭をかきながら、俺は露店区域を目指すことになった。
行き道ではドーラの親父さんとターラにも挨拶をして、所定のスペースに到着したならば屋台の準備に集中する。本日の日替わり献立は、『ギバ肉のミソ煮込み』であった。
これはリーハイムとセランジュの婚儀の日、ルウの屋台を肩代わりした際にも披露した料理である。圧力鍋のおかげでもって、こちらは『ギバの角煮』さながらの味わいを目指すことがかなったのだ。言うまでもなく、建築屋の面々が『ギバの角煮』をこよなく愛しているがために、こちらの料理を本日の日替わり献立に選出したのだった。
ユン=スドラの仕切る屋台では『ギバまん』と『ケル焼き』、マルフィラ=ナハムの屋台では『ミートソースのパスタ』、ヤミル=レイの屋台では『ギバの玉焼き』が準備されていく。こちらは通常通りのローテーションであるが、半年ぶりとなる建築屋の面々には喜んでもらえるだろうか。俺はララ=ルウに評された通り、子供のように胸を弾ませてしまっていた。
しかし――朝一番のラッシュを乗り越えて、しばしの安息を過ごしたのちに中天のラッシュを迎えても、バランのおやっさんたちは姿を見せなかった。
南方の宿場町からジェノスまでは半日の距離であるため、建築屋の面々はいつも中天を過ぎた頃に到着するのだ。しかし本日は中天のラッシュを終えて下りの一の刻に至っても、あの賑やかな面々は姿を現さなかったのだった。
「どうしたのでしょう? 一刻も遅れるのは、少々心配ですね」
と、隣の屋台で働いていたユン=スドラも、いくぶん眉を下げている。
俺などは、もう冷や汗が止まらない。この世界において、旅には危険がつきまとうのだ。遠きネルウィアからやってくるおやっさんたちも、いつも護衛を雇っているのだった。
(でも、そこまで大きな危険はない道のりだから、おやっさんたちも毎年ジェノスに来てくれているんだし……いったい、どうしたんだろう? トトスや荷車に、何かあったとか……?)
ずいぶんな昔、ジェノスに向かっていたバナームの使節団のトトスが毒虫か何かにやられて、到着が大幅に遅れたことがあったように記憶している。それに類する不測の事態にでも見舞われてしまったのだろうか?
そうして俺が気を揉んでいる内に、さらに半刻ばかりが過ぎてしまう。
終業時間まで残り半刻で、料理の品切れも間近に迫ってきた。それで俺が、いよいよ切羽詰まった心地に陥ったとき――その声が響きわたったのだった。
「おお、やってたやってた! おやっさん、なんとか間に合ったみたいだぞ!」
それだけで、俺は膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
それはまぎれもなく、建築屋の副棟梁たるアルダスの胴間声であったのである。
「いやあ、ひさしぶりだな、アスタ! すっかり遅くなっちまったよ!」
声に続いて、豪放な笑みをたたえた髭面が屋台を覗き込んでくる。さらに、髭面の面々がどやどやと寄り集まってきて――その中に、おやっさんやメイトンの顔も含まれていた。
「確かに、いつになく遅い到着でしたね。何かあったのではないかと、心配していました」
俺よりも早く、ユン=スドラが安堵をにじませた声で応じる。
アルダスは「悪い悪い!」と頑丈そうな歯を見せた。
「実は、崖くずれで道がふさがれちまってたんだよ! 普通は手近な町まで助けを呼びにいくところなんだが、それじゃあ日が暮れちまうからな! 七人がかりで、岩やら何やらを片付けることになったんだよ!」
「ああ、おかげで腹ぺこさ! アスタたちの料理が売り切れてなくて、よかったよ!」
メイトンも笑顔で言葉を重ねると、別なる男性が肩をすくめた。
「俺たちなんかはひと足先に到着したから、宿屋でおやっさんたちを待ってたんだけどよ。これでアスタたちの料理を食いっぱぐれてたら、泣くに泣けないところだったぜ」
「まったくだな! まあ、間に合ったんだからよしとしようぜ!」
それは、西の地を放浪しているメンバーたちであった。ネルウィアからやってくるのは七名で、残りの十三名はジェノスでの仕事を終えた後も西の領地のあちこちに出向いて、毎年この時期におやっさんたちと合流しているという話であったのだ。
ともあれ――総勢二十名となる建築屋の面々が、笑顔で屋台を取り囲んでいる。
それで俺が胸を詰まらせていると、仏頂面のおやっさんがようやく口を開いた。
「なんだ、その顔は? まさか、泣いているのではなかろうな?」
「嫌だなぁ。心配させるおやっさんたちが悪いんですよ」
俺は目もとににじんだものを手の甲でぬぐってから、精一杯の笑顔を届けてみせた。
「到着が遅いから、品切れ目前ですよ。こちらの料理なんて、二十名分も余っているかどうかあやしいところですね」
「そいつはまずいや! 挨拶は後にして、さっさと料理を食わせてくれ!」
アルダスの号令で、他の面々は他の屋台に散っていった。
俺の屋台の前には、アルダスとおやっさんだけが居残っている。そのふたりに向かって、俺はもういっぺん笑いかけておくことにした。
「とにかく、ご無事で何よりです。また二ヶ月間、よろしくお願いします」
おやっさんは、「ああ」としか言わなかったが――その緑色の瞳には、とてもやわらかい光が灯されていたのだった。




