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異世界料理道  作者: EDA
第八章 徒然なる日々
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⑩ルウの収穫祭(一)

2015.1/17 更新分 1/1

 青の月の27日。

 その日は、ルウの集落にて収穫の宴がとりおこなわれる予定になっていた。

 そして、それと同時に、宿場町における屋台の商売の契約が3度目の満期を迎える期日でもあった。


 営業終了後、いつものように《キミュスの尻尾亭》に屋台を返却しつつ、俺は店の主人たるミラノ=マスに御礼の言葉を申し述べてみせる。


「ミラノ=マス、このたびもお世話になりました。……あの、明日からも屋台の貸し出しをお願いしても大丈夫ですか?」


「貸せと言うのなら、こっちも商売だ。何も断る理由はない」


 屋台に損傷がないかを確認しつつ、ミラノ=マスはいつも通りの仏頂面でそう応じてくれた。


「しかし、お前さんは今後も《南の大樹亭》で仕事をするんだろう? だったらそっちで屋台を借りたほうが、いちいち行き来する手間もはぶけるんじゃないのか?」


「いえ、そのていどの手間はどうということもありませんよ。ご迷惑でなければ、今後も《キミュスの尻尾亭》のお世話になりたいと思います」


 答えながら、俺はちょっと心配になってしまう。


「でも、場所代と屋台の貸出料だけでは、ミラノ=マスにとって大した身入りにはならないのですよね? 何というか、ご迷惑をかけるばかりで心苦しいという気持ちはあります。……本当に、俺たちと関わることでミラノ=マスの立場が悪くなったりすることはないのですか?」


「いつまでもくどくどとうるさいやつだな。迷惑になるようならとっくに叩き出していると何べんも言っているだろうが」


 屋台の確認を終えたらしいミラノ=マスが、ますます不機嫌そうな面持ちで俺のほうに向き直ってくる。

レイト少年もそうだったが、スン家にまつわるあの大騒ぎを経て、ミラノ=マスに大きな変化は見られなかった。


 ただ、ほんの少しだけその眼差しからは険が取れて、ほんの少しだけ俺たちに対しての口数が多くなったような気はする。

 そのほんの少しの変化が、俺にとってどれほど嬉しかったかということは、まあ言うだけ野暮というものだろう。


(それにしても、あの騒ぎからもう10日以上も経ったんだなあ)


 そんな風に考えると、さすがに驚きを禁じ得ない。

 城の人々との会談が青の月の30日に延期されてしまった効果もあり、この10日間は本当に平穏な日々だった。


 まだジェノスの人々は森辺の民に対しての気持ちを定めかねている感じで、探るような、疑るような視線を向けてくる人たちも少なくはなかったが。表面上は平穏そのものだ。

 屋台の売り上げは140食前後で安定しているし、宿屋の料理に関しては毎日完売である。


 この平穏な日々を保持できるかどうか――まずは3日後の会談の結果を待つ他ない。


「そんなことよりも、またお前さんは休みを入れずに明日からすぐ商売を始めるのか? 普通はこの契約の切れ間に1日ぐらいは休みを入れるものだ。お前さんたちだって、べつだん金に困っているわけではなかろうが?」


 と、よく肥えた腕を胸の前で組みながら、ミラノ=マスがそのように問うてきた。


 もちろん、金には全然困っていない。商売を始めて30日、トータルの純利益は何と赤銅貨5484枚に達してしまったのである。


 赤銅貨5484枚――ギバの角と牙に換算すれば、およそ457頭分の稼ぎだ。


 それでいて、日々の生活費などはひと月で赤銅貨100枚も掛からないし、鉄板や調理刀や、それに家長への首飾りを購入して以来、高額な品にも手を出していない。食材としては高価なタウ油やチーズだって、値段は赤銅貨10枚とか20枚なのだから、たかが知れている。


 あと、明日はいよいよ注文していた荷車を受け取る期日で、その値段はこれまでで最高額の赤銅貨1200枚であったのだが――それでも、赤銅貨3700枚は手もとに残る計算だ。

 金に困るどころか、この資産をどのように活用するかに思い悩む日々なのである。


 しかし、それでも俺には店を休みたくない理由が存在するのだった。


「実は、屋台の常連客である東と南の人たちが、青の月まででジェノスを離れてしまうんです。だから、それまでは休みを入れずに営業を続けようと思ったのですよ」


「東や南の連中か。……そういえば、東の民が常宿にしている宿屋でも料理を卸す仕事を始めたとか言っていたな」


「はい。《玄翁亭》という宿屋です。ご主人はネイルという方ですね」


「ああ、あの東の王国にかぶれた変わり者の店か」


 そう言ったきり、ミラノ=マスは口をつぐんでしまった。

 何やら難しげな面持ちである。

《玄翁亭》のネイルと何か確執でもあるのかと心配になってしまったが、それよりも何か他の想念に気を取られてしまったように見受けられる。


「……あの、どうかされましたか?」


 そんな風に声をかけると、ミラノ=マスはハッとした様子で我に返り、またちょっと怒った目つきで俺をにらみつけてきた。


「何でもない! 用事が済んだんならとっとと帰れ。俺にだって仕事が残っているんだからな」


「すみません。それでは明日からもよろしくお願いします」


 何だか少し気がかりだったが、ミラノ=マスはとっとと屋台の片付けを始めてしまったので、俺も引き下がるしかなかった。


 鉄板や鉄鍋や食材を抱えて、4名の女衆――ヴィナ=ルウ、シーラ=ルウ、ララ=ルウ、そしてリイ=スドラとともに、店の表側に足を向ける。

 すると、街道への出口をふさぐ格好でカミュア=ヨシュが立ちはだかっていた。


「やあ、お疲れ様。今日も美味しい軽食をありがとう、アスタ」


「ああ、どうも。ちょっとだけおひさしぶりですね」


 カミュアと顔を合わせるのは、たしかトトスの一件が丸く収まった日以来なので、3日ぶりぐらいのはずだった。その代わり、レイト少年の姿は毎日見ている気がする。


 カミュアは飄然と立ちつくしつつ、いつもの調子でにんまり笑う。


「俺もできればアスタの軽食は温かい出来立てのものをいただきたいんだけどねえ。例の会談に向けて、色々と根回しが忙しいんだよ。メルフリードはそうそう気軽に城を離れられる身分じゃないから、そのぶん俺があちこち動き回る羽目になってしまうのさ」


 会談に向けての根回し、か。

 期日の延期を申し込んできたのはサイクレウスではなくメルフリードの側であったので、きっとまた何やかんやと暗躍しているのだろう。


「それはお疲れ様ですね。その根回しが森辺の民を陥れる策謀でないことを願うばかりです」


 そんな風に述べてみせると、カミュアは心外そうに両腕を広げた。


「どうして俺たちが森辺の民を陥れなくちゃいけないのさ! 俺たちは、サイクレウスの旧悪を暴くのが目的なんだよ?」


「すみません、冗談です。最近カミュアと話していると、俺の中の人の悪さが遠慮なく表に出てしまうんですよね。反省します」


「いや、まあ、それがアスタ本来の気性だというのなら、俺にとっても喜ばしい変化ではあるのだけれども」


 そんなことを言いながら、カミュアはぼりぼりと金褐色の頭をかいた。


「まあいいや。それよりも、アスタ、君に尋ねたいことがあったんだ。……今日の《玄翁亭》の献立は、焼き物と汁物のどっちだったっけ?」


「はい? 今日は、汁物ですけれども」


 それがいったい何だというのだろう。


「そうかそうか。いや、どうもありがとう。それじゃあ今日は《玄翁亭》にしようかなあ。毎日同じ献立だったら、《南の大樹亭》と交互に通えば済む話なんだけど、これはなかなかに悩ましい問題だよ」


「え? カミュアは《玄翁亭》や《南の大樹亭》で晩餐をとってるんですか? 寝泊りしているのは《キミュスの尻尾亭》なんでしょう?」


「うん。だけど、西の料理はジェノスじゃなくても食べられるからねえ。ジェノスに滞在している間ぐらいは、アスタのギバ料理を食べたくなってしまうのが人情というものじゃないかい?」


 そう言って、カミュアはまたにんまり笑う。


「案外、俺みたいな人間は多いと思うよ? 《玄翁亭》も《南の大樹亭》も、晩餐の時間はいつも大入りだからねえ。西の民の姿も多いし、あの全員が宿泊客だとはとうてい思えない。昨日なんかは、数人だけだけど《南の大樹亭》で東の民を見かけたぐらいだしね」


「それはありがたい話ですけど――でも、カミュアは《キミュスの尻尾亭》を常宿にしているんでしょう? その、ミラノ=マスとの間に角が立ったりはしないんですか?」


「どこの食堂で晩餐をとるかは客の自由さ。そんなささいなことで目くじらを立てるほど、ミラノ=マスは狭量な人間じゃないよ。 ……それにね、こう言っちゃなんだが、《キミュスの尻尾亭》はそんなに晩餐の質が高くないんだ。ほら、ミラノ=マスは若くして奥方を亡くされているからさ。娘さんなんかもあんまりきちんと調理の手ほどきをされる機会もなかったんじゃないのかな」


「……やっぱり人の悪さでは、あなたにはかないそうにありませんね、カミュア=ヨシュ」


 俺はだいぶん血圧が上がりかけていたが、何とか踏み留まることができた。

 こういうときのカミュアを相手にするには、冷静さが不可欠なのだ、きっと。


「それで? もしかしたら、あなたは《キミュスの尻尾亭》にも料理を卸せばいい、そうしてミラノ=マスや娘さんにも調理の手ほどきをしてあげればいい、と俺をそそのかしているわけですか、カミュア=ヨシュ?」


「別にアスタをそそのかしているつもりはないよ。ただ、《キミュスの尻尾亭》でもギバ料理が食べられるようになれば、わざわざ他の宿屋に出向く必要もなくなるから楽でいいなあとは思っていたけれども」


「……まだ城の人たちとどういう縁を結べるかもわからないこの状況で、ミラノ=マスをむやみに巻き込むような真似をするつもりはありませんよ、俺は」


「おや。それじゃあ《玄翁亭》や《南の大樹亭》のご主人たちを巻き込むことになっても胸は痛まない、ということなのかな?」


「あの人たちとミラノ=マスでは立場が違うでしょう。ミラノ=マスは、10年前の事件の関係者なんですから」


 くつくつと煮えたちそうになる頭を冷ましつつ、俺は言葉を重ねてみせる。


「ミラノ=マスに御恩を返したいという気持ちはありますが、まずは3日後の会談を終えてからです。……あの、まさかとは思いますけど、サイクレウスという人物をやりこめるために、ミラノ=マスを危険な立場に立たせるようなことはないでしょうね?」


「俺がそこまで冷酷非情な人間に見えるかい? そもそも俺はミラノ=マスやレイトの無念を晴らしてあげたいという気持ちもあってサイクレウスやスン家に目をつけたのだから、そんな本末転倒になるような真似はしないよ。……ここだけの話、《キミュスの尻尾亭》には3名ほど《守護人》に滞在してもらっている。万が一にもサイクレウスの毒牙が及ばないように、俺はこれでもなけなしの神経をすり減らしているんだよ?」


「だから、軽口を叩く前にそういう大事な話をしてくださいよ。やっぱりミラノ=マスは、多少なりとも危うい立場になってしまうんですか? もしかしたら、俺は屋台の契約を《南の大樹亭》とかに移したほうがいいのですかね?」


「いやいやいや、今さらサイクレウスがミラノ=マスに目をつけることはないよ。確かにミラノ=マスは10年前の事件の関係者だけれども、奥方の兄上が握りしめていたという森辺の民の首飾りなんかも、事件の証拠として当時の衛兵たちに渡してしまっているわけだしね。……というか、ミラノ=マスに証人としての価値があるなら、その時点でメルフリードがサイクレウスの罪を暴いていたさ」


「だったら、どうして《守護人》なんかに警護を頼んでいるんですか? 危険がないなら、そんな用心も必要ないはずじゃないですか?」


「それはあくまで万全を期したかっただけさ。俺だって、万が一にもミラノ=マスの身に何かあったら、こんな風に笑ってはいられなくなってしまうからねえ」


 笑顔のほうはすっとぼけた感じのまま、カミュアの紫色の瞳がふわりと霞んで感情を隠してしまう。


「だから、アスタは何も心配することなく、思うままに振る舞うといいさ。《キミュスの尻尾亭》でもギバ料理が食べられるようになったら、俺はとても嬉しいよ?」


「そんなのは、カミュアにとって都合がいいだけじゃないですか。そもそもミラノ=マスだって、俺なんかに料理の手ほどきを受ける気持ちはないでしょう」


「どうだろうね? まあミラノ=マスにそういう気持ちがあったところで、自分からそれを切り出せるような気性ではない、というのは確かだろうね」


 そんなことを言われてしまうと、さきほどのミラノ=マスの突然の沈黙がいっそう気になってきてしまった。

 あれは――何か自分の気持ちを押し殺しているような表情に見えたりはしなかっただろうか?


 俺は小さく息をついて、カミュアのふわふわとした視線を視線で弾き返す。


「とにかく、すべては3日後の会談が無事に済んでからです。どのみち青の月が終わるまでは、俺も仕事の手は広げられませんし」


「うんうん。すべてが良い方向に向かうように、俺も微力を尽くさせていただくよ。……あ、できれば《守護人》の話は内密にしておいてもらえるかな? それがミラノ=マスの耳に入ってしまうと、余計なお世話だとか何とか言って彼らが叩き出されてしまうかもしれないからね」


 そう言って、カミュア=ヨシュははっきりとした感情を現さぬまま笑い続けたのだった。


             ◇


「ああもう! アスタがいつまでも無駄口を叩いてるから、すっかり遅くなっちゃったじゃん!」


 左右を潅木にはさまれた森辺への道をたどりつつ、ララ=ルウがぷりぷりと怒っている。


 馬の尻尾みたいに揺れるその赤い髪を眺めながら、「別に、普段とそれほど変わらない時間だろう?」と、俺は応じてみせる。


「何もない日ならかまわないけど! 今日は収穫の宴じゃん! たぶんそろそろ眷族の男衆が集まって、力比べを始めてる頃合いだよ!」


「へえ。こんなに明るい内から宴が始まってるのかい?」


「宴は日が暮れてから! それまでに力比べを終わらせておかないと、いつまでも晩餐が始められないでしょ!? まったく、何にもわかってないんだから!」


 確かに俺には、何ひとつわかっていない。どうやら収穫の宴とやらは、あるていど大きな氏族でしか催されていないらしく、アイ=ファに聞いても何の情報も得ることはできなかったのだ。


 まあ、俺が依頼されたのは、その力比べの優勝者に振る舞われる晩餐の準備だけなので、何がどうでもかまわなかったのだが。それにしても、ララ=ルウはどうしてこんなに急いで集落に戻ろうとしているのだろう。


「……収穫の祝宴の力比べっていうのは、男衆の晴れ舞台だからねぇ。未婚の女衆にとっては、婿を選ぶための大事な儀でもあるのよぉ……?」


 と、食材をメインに担いだヴィナ=ルウが、こっそり耳打ちしてくれる。

 だけど、やっぱり俺の疑問は解消されなかった。


「でも、ララ=ルウはまだ13歳だから、婚儀は許されていないんですよね? だったら関係なくないですか?」


「そこまではわからないわぁ……誰か気になる男衆でもいるんじゃなぁい……?」


 気になる男衆がいれば、その晴れ舞台は見ておきたいところか。

 それでようやく、合点がいった。俺の鈍さも、大概なものだ。


「あの、いちおう確認しておきますけど、かまど番たるこの俺がそんな舞台に引っ張りだされることはないですよね?」


「うぅん……? それはまあ、宴に招かれた身なんだから、アスタが望めば参加はできるだろうけどぉ……」


「望みません望みません」


 森辺の男集に俺なんかが勝てる道理は、1ナノグラムも存在はしない。それがどのような競技であれ、俺がいい勝負をできるのはせいぜいレイナ=ルウやララ=ルウまでであろう。正直なところ、ヴィナ=ルウが相手でも体力勝負で勝てる気はしないのだ。


「そんなことより、ねぇ、アスタ……あなたって、あんなにあの男と仲が悪かったかしらぁ……?」


「え? あの男って、カミュアのことですか? べつだん、仲が悪いわけではないですけれども」


「そうなのぉ……? でも、ずいぶん怒った顔をしていたじゃなぁい……?」


 ポーカーフェイスを気取っていたつもりなのに、見え透いてしまっていたか。

 まあいい。それは表に出すべき感情でもあるのだ。


「まあ、多少は苛立つ場面もありましたからね。でも、そういうときに自分の考えや気持ちを隠して用心するんじゃなく、カミュアとはなるべく本音でぶつかりあっていこうと決めたんです。そうじゃないと、あのすっとぼけた御仁の本音も引き出すことは難しいんだろうなと思えてしまったので」


「ふぅん……? 何だか難儀な話ねぇ……」


 大して関心もなさそうな様子で、ヴィナ=ルウは色っぽく肩をすくめる。

 そうして4、50分ばかりもかけて傾斜の強い土の道を踏破し、俺たちは森辺に帰りついた。


 少しだけ広くなった道を北に向かって歩いていくと、すぐにルウの集落が見えてくる。その手前でリィ=スドラとは別れを告げ、彼女が抱えていた食材を受け取り、がやがやと常ならぬ賑わいを見せる大広場へと足を踏み込んで――


 そして俺は、驚愕に打ちのめされることになった。


 想像以上の人数が、ルウの集落には詰めかけている。ルウの眷族100余名の、半分以上は集まっているだろう。


 その大半が、若い衆である。男も女も同じぐらいの数であるが、老人や子どもの姿はあまり見られない。そんな人々が、広場に人垣を作って、しきりに歓声をあげているのだが――


 その中心で、天を衝くような大男を相手に、アイ=ファが激闘を繰り広げていたのである。


「な、何をしてるんだ、アイ=ファ!」


 そんな俺のわめき声も、人々の歓声にかき消されてしまう。

 人々は、アイ=ファたちの闘うさまに熱狂し、歓呼の声をあげていたのだ。


 どちらも、素手である。

 腰には刀を下げておらず、毛皮のマントも纏ってはいない。

 だが、それゆえに、俺にはアイ=ファが空前絶後の窮地に立たされているように見えてしまった。


 相手の男は、上背だけならミダにも劣らぬぐらいの巨漢である。身長は2メートル近く、体重だって100キロを下らないだろう。手足が長く、分厚い胸板をした、筋骨隆々の大男だ。


 そんな恐ろしげな大男が、猿臂を伸ばしてアイ=ファにつかみかかろうとしている。


 もちろん卓越した身体能力を有するアイ=ファであるから、そう簡単につかまったりはしないが、右に左に男の指先を回避するばかりで、反撃に転じようとはしない。いかにアイ=ファでも、このような体格差の相手に素手で立ち向かうことは不可能であるはずだ。


「何なんですか、これは! どうして誰もこんな騒ぎを収めようとしないんですか!?」


「えぇ……だって、狩人の力比べを邪魔するわけにはいかないでしょぉ……?」


 ヴィナ=ルウが、きょとんとした顔で俺を振り返る。


「力比べ? これが力比べだって言うんですか? こんなの、ただの喧嘩じゃないですか! だいたい、どうしてアイ=ファがそんなものに参加してるんです!?」


「そんなの、わたしは知らないわよぉ……何にせよ、相手を傷つけるのは強い禁忌だから、心配はいらないわぁ……」


 相手を傷つけるのは、禁忌?

 だとしても、あの大男は灰色熊のように両腕を振り回しながら、がむしゃらにアイ=ファを追い回している。あの腕が身体にぶつかるだけで、人間の骨など容易く砕けてしまいそうではないか。


「こんなの、俺には見てられません! 止めさせていただきます!」


「あら、駄目よぉ……」と、ヴィナ=ルウが言いかけたとき、ひときわ大きな歓声が森を揺るがした。


 慌てて目を転じた俺は、思わずその手の鉄板を取り落としそうになる。

 後方に跳びすさったアイ=ファが、地面のちょっとした窪みに足を取られて、ぐらりとよろめいてしまったのだ。


 すかさず大男は地面を蹴って、アイ=ファに肉迫する。

 万事休すである。

 大男と比べてはあまりに華奢でほっそりとしたアイ=ファの身体が、ダンプカーに撥ねられるみたいに吹き飛ばされる姿を幻視し、俺は絶望の声をあげそうになった。


 が――

 大きく体勢を崩したアイ=ファは、無理にこらえようとはせず、半分倒れかかりながら、そのしなやかな右足を高々と振りかざした。


 その爪先が、突進してきた大男の肩口に触れる。

 そのままアイ=ファは大男の突進力をも利用して、さらなる後方へと跳躍してのけた。

 しかもただ跳躍するのではなく、アイ=ファは空中で身体をのけぞらし、右の手の平を一瞬だけ地面につき、いわゆるバク転――後方倒立回転跳びをきめて、見事に着地したのだった。


 歓声が、いよいよ激しく大気をかき回す。


 大男は怒号をほとばしらせ、また頭からアイ=ファに突っ込んだ。

 6、7メートルもかせいだ距離が、あっという間に詰められてしまう。


 今度こそ、大男の手がアイ=ファの身体を捕らえそうになった。

 しかし、そのごつい指先が腕のあたりに触れる寸前、アイ=ファの姿がふっとかき消えた。


 下側に、沈みこんだのだ。

 沈みこみながら、アイ=ファは右足を真横に伸ばし、後ろざまに旋回させた。


 カンフーアクションさながらの、水面蹴りだ。

 ななめ後方からアイ=ファの右かかとに右足首を刈り取られて、大男は背中からぶっ倒れる。


 アイ=ファは素早く身を起こし、男も慌てて上体をあげる。

 それと同時に、「それまで!」という鋭い声が沸騰した大気を寸断した。


「ファの家のアイ=ファの勝利である。マァムの家のジイ=マァムは退くべし」


 威厳に満ちたその声に、拍手と喝采がかぶさってくる。

 大男は、無念の咆哮をあげて、両腕の拳を地面に叩きつけた。


「すごーい! ジイ=マァムをやっつけちゃった! ジイ=マァムは、ダルム兄といい勝負ができるぐらいの勇者なんだよ?」


 そんな風にはしゃいだ声をあげたのは、ララ=ルウだった。

 鉄板を抱えたままへたりこみそうになりつつ、俺は何とか踏みこたえる。


 すると――万雷の歓声をその一身にあびながら、アイ=ファが俺たちのほうに近づいてきた。


「ようやく帰ったか。遅かったな、アスタ」


「お、遅かったじゃないよ! 何をやってるんだ、お前は!?」


「何を騒いでいるのだ。狩人の力比べであろうが?」


 あれだけの激闘を繰り広げておきながら、アイ=ファは汗のひとつもかいてはいなかった。


「収穫の宴などというものは聞いたこともなかったが、狩人の力比べならば幼き頃からたしなんでいた。父ギルに比べれば、どうという相手でもなかったな」


「だからって! 好きこのんでそんな危ない真似をすることはないだろう? 俺たちは客人の身分なんだから!」


「私から好きこのんで相手をしたわけではない。挑まれたから、相手をしただけだ」


 と、アイ=ファは不満そうに唇をとがらせかけた。

 が、ララ=ルウたちの視線に気づいて、威厳のある表情をキープする。


「それにしても、ジイ=マァムを退けるとは驚きでした。あなたは本当に力のある狩人なのですね、アイ=ファ」


 とりなすようにそう言ったのは、ララ=ルウとともに鉄鍋を運搬していたシーラ=ルウだった。


「アスタ、狩人の力比べは闘技の会とも呼ばれていますが、決して相手を傷つけてはいけないという決まりがあるのです。そうして無手で力と技を競い合い、相手の胴体を地面につけさせたほうが勝者となるわけですね。……わたしも男衆が猛る姿を見るのは少し苦手なのですが、でも、決して危険な争いではないのですよ?」


 いつでも落ち着いているシーラ=ルウの声音には、多分に鎮静の効能があるようだった。


 動揺した心情にひきずられる格好でアイ=ファを責めてしまっていた俺は、少し反省してタオルごしに頭をかく。


「それじゃあまあ、いきなり怒鳴りつけたのは悪かったよ。……でも、この後は俺の手伝いをしてくれるんだろう? それとも、まだその闘技会ってやつに参加したいのか?」


「だから、みずから望んで参加したわけではないと言っているだろうが? あのジイ=マァムという男衆は、女衆などに狩人の仕事はつとまらん、などと言いながら、私に挑みかかってきたのだ。そうまで言われては引き下がることもできぬから、狩人としての力を示してみせただけのことだ」


 言いながら、アイ=ファはひとつ肩をすくめた。


「約束通り、今日はかまど番の仕事を手伝おう。家から運んできたギバは、あちらに吊るしておいたぞ」


「え? 今日もギバを狩れたのか? 2日連続じゃないか」


「狩れるときは、いくらでも狩れる。べつだん《贄狩り》をしたわけではないぞ?」


 先手を打つように、アイ=ファはそう言った。

 どうやら怪我が完治して、心身ともに絶好調のようだ。

 頼もしすぎて、溜息を禁じえない。


「わかった。ありがとう。それじゃあさっそく準備を始めようか」


「うむ」と、厳粛な面持ちでうなずいてから、アイ=ファはそっと俺のほうに顔を寄せてきた。

 ヴィナ=ルウたちからはその表情が死角になるように、ごくさりげなく立ち位置を変えながら、である。


「お前は本当に心配性なのだな、アスタ。あのていどの男衆に遅れを取る私ではないのだぞ?」


「ああ、それはそうなのかもしれないけどさ……」


「みなまで言うな。私の身を案じてくれているお前を責めるつもりはない。ただ私にも、ひさびさに力比べに興じてみたいという気持ちがあったのでな。それでいっそう断る気にはなれなかったのだ。――許せ」


 そう言って、吐息がかかるぐらいの距離で、アイ=ファは楽しそうに白い歯を見せた。


 こんな笑顔を見せられて、あれこれ文句をつける気になどなれるものかと、俺はもう1度溜息をついておくことにした。

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