サトゥラス伯爵家の婚儀⑤~入場~
2025.2/7 更新分 1/1
しばらくして、森辺の一行は婚儀の会場であるエイラの神殿へと案内されることになった。
38名に2頭という大所帯であるため、4台ものトトス車が準備されている。宴衣装の姿でトトス車に乗り込むのは初めての体験であったので、なんとも新鮮な心地であった。
他なる面々は、おおよそ平常心であるようだ。ただ一部の元気なメンバーたちが、はしゃいだ姿を見せているばかりであった。
ルウの血族は、ジザ=ルウとレイナ=ルウ、ルド=ルウとリミ=ルウ、シン・ルウ=シンとララ=ルウ、ジーダとマイム、ラウ=レイとヤミル=レイ、ガズラン=ルティムとルティム分家の女衆、ジィ=マァムとミンの女衆、シュミラル=リリンとムファの女衆という顔ぶれになる。
本日は普段よりも多少の人数制限があったため、名指しで招待されたジィ=マァムとシュミラル=リリンに他なる眷族の女衆をあてがって、すべての眷族を網羅したようであった。
ザザの血族は、ゲオル=ザザとスフィラ=ザザ、トゥール=ディンとゼイ=ディン、ディック=ドムとモルン・ルティム=ドム、ディガ=ドムとレム=ドムの8名。サウティの血族は、ダリ=サウティと伴侶のミル・フェイ=サウティ、ヴェラの若き家長とその伴侶の4名となる。
婚儀の祝宴には伴侶を同伴させるのがもっとも望ましいと聞き及び、ひさびさにミル・フェイ=サウティが引っ張り出されることになったのだ。最近の常連であったサウティ分家の末妹は、宿場町でギバの丸焼きをふるまう仕事の取り仕切り役として奮起しているはずであった。
そして小さき氏族からは、俺とアイ=ファ、ライエルファム=スドラとユン=スドラ、ジョウ=ランとユーミ=ラン、ラヴィッツの長兄とマルフィラ=ナハム、ガズの長兄とレイ=マトゥアの10名だ。
ガズラン=ルティムが推察していた通り、女衆の宴衣装は2つのパターンに分けられていた。ジェノスで一般的な宴衣装か、セルヴァ伝統の宴衣装という2種である。和装に似た宴衣装やシム風およびジャガル風の宴衣装が持ち出されることはなく、飾り物の類いも普段に比べればつつましい質量であった。
しかしやっぱり森辺の女衆の華やかさに変わるところはないし、男衆の勇壮さもまた然りである。飾り物の少なさに目が慣れると、普段との差異もまったく気にならなくなった。
「それでは、このまま入場口にご案内いたします」
エイラの神殿に到着したのちは、はりきった顔をしたシェイラの案内で回廊を突き進むことになった。
エイラの神殿――婚姻を司る月の女神、エイラを祀る神殿である。かつてはポワディーノ王子が冥神ギリ・グゥの神殿にたてこもっていたものだが、俺たちがエイラの神殿に足を踏み入れるのはこれが初めてのことであった。
外観や内装は白鳥宮と大きな変わりはなく、どこもかしこも白い石造りである。ただやっぱり白鳥宮ほど華美な装飾は施されておらず、婚儀の式場に相応しい厳粛さと清廉さが備わっているように感じられた。
それに、白鳥宮と比べると回廊もやや控えめな規模であり、部屋の数も限られているように見受けられる。本日の参席者が250名とされたのは、こちらの神殿の規模に合わせた結果であるのかもしれなかった。
(もし会場がいつも通りの紅鳥宮だったら、それこそ300名級の祝宴になっていたのかもな)
俺がそんな想念を思い浮かべている間に、大きな扉をくぐらされた。
調度らしい調度もない部屋で、奥の面にも扉が設置されている。きっと大広間に直結する控えの間であるのだろう。その場には、どこか懐かしく感じられる甘い香りが漂っていた。
「んー? これって、バナームでも嗅がされた気がするなー」
ルド=ルウが何気なくつぶやくと、アイ=ファの腕を抱きすくめていたリミ=ルウが「うん!」と反応した。
「リーハイムが、わざわざ同じ香草を取り寄せたんだってよー! お昼のときに、デルシェアがそう言ってたの!」
「わざわざ? ……ああ、そうか。この香草は涼しい土地にしか育たないため、ジェノスの近辺で見かけることはないという話であったな」
「へー! アイ=ファはそんな話、どこで聞いたの?」
「バナームにおける婚儀の日に、ザッシュマあたりがそのように語っていたのだ。たしか、月神エイラを象徴する……月香草なる香草であるとのことであったな」
アイ=ファの言葉を聞いている内に、俺も記憶が蘇ってきた。確かにバナームにおける婚儀でも、入場前に集まる控えの間がこの香りで満たされていたのだ。
「あの日は、リーハイムも同席してたもんな。それで、バナームの婚儀を見習ったわけか」
「うん! リーハイムは、あの婚儀にすっごくカンメーを受けたんだって! 他にも色々と手本にしてるみたいだよー!」
バナームというのは500年もの歴史を有する、古都であったのだ。よって、新興のジェノスには伝わっていない古来の儀式が重んじられているのだろう。リーハイムなどは、きっと現代っ子の部類なのであろうが――それで逆に、魅了される部分があったのかもしれなかった。
(まあ何にせよ、セランジュのために頑張ったんだろうな)
そんな考えにひたりながら、俺は侍女たちの指示によって整列した。本日は俺も一般の招待客にすぎないので、森辺の序列に従って後半の順番だ。それでも小さき氏族の中では先頭の位置であったが、族長筋だけで半数以上が占められているのだった。
「それでは、入場を開始いたします」
人の列の向こう側で大きな扉が開かれて、2名ずつ広間に導かれていく。
やはり先頭は、ルウの血族だ。普段は族長のダリ=サウティがトップを飾っているが、本日はレイナ=ルウの存在が重んじられているのだろう。俺は美麗なるアイ=ファとともに、しばらく入場のさまを見守ることになった。
俺たちの足もとではジルベがそわそわと身を揺すっており、そのたてがみに半ばうずまったサチは大あくびをもらしている。真紅と玉虫色の織物を重ね掛けしたジルベは勇壮で、赤いリボンを首につけられたサチは可愛らしい。またこの4名で入場できるのは、俺としても大きな喜びであった。
「……確かにこれは、バナームの祝宴を模しているようだな」
列が短くなっていくと、アイ=ファがそんなつぶやきをこぼした。
「まあ、ジェノスの貴族の婚儀に参じるのは初めてであるので、どこまでバナームを模しているのかは判然としないが……お前は夜目がきかないのだから、足もとに気をつけるのだぞ?」
「夜目?」と俺は反問したが、アイ=ファの答えを聞くよりも先に納得した。間近に迫ってきた扉の向こう側が、普段よりもずいぶん薄暗かったのだ。
(そうか。バナームの婚儀なんて、最初はずいぶん照明がしぼられてたもんな)
月香草に続いて、また懐かしい記憶が刺激される。バナームの婚儀は黒の月の話であったので、もう7ヶ月以上も昔日になるのだ。しかしまた、俺にとっては人生で二度目の遠出であったので、さまざまな記憶がしっかりと心に刻みつけられていた。
サウティおよびザザの血族の入場が終了したならば、ついにファの家の順番である。
小姓の澄みわたった声とともに、俺たちは薄暗い大広間に踏み入った。
「ファの家長アイ=ファ様、家人アスタ様、同じくジルベ様、サチ様、ご入場です」
薄暗い大広間には、すでに熱気がたちこめている。そして、不揃いな拍手とこらえきれない感嘆の声が出迎えてくれた。
感嘆の声をあげているのは、きっと貴族ならぬ立場にある招待客だろう。拍手が不揃いに聞こえるのも、きっとそういった人々が昂揚の思いを制御しかねているのだ。もちろん城下町らしい上品さを重視していない俺たちが、そんな歓迎を忌避する理由はなかった。
壁にはいくつかの灯篭が掲げられているため、薄暗くても足もとに困るほどではない。そしてそれだけの薄明りがあれば、人々がアイ=ファの美麗なる姿を見誤ることもないだろう。貴婦人さながらのつつましさでしずしずと前進するアイ=ファの美しさは、すぐ隣を歩く俺がもっともよくわきまえていた。
なおかつこの薄暗さだと、黒い毛並みをしたジルベの姿がぼんやりかすんで、普段以上の迫力が生じるのかもしれない。驚嘆の声の何割かは、ジルベに向けられたものであるようであった。
そんな熱気を左右から浴びながら進んでいくと、やがて見慣れた面々の姿が前方に浮かびあがってくる。そして、数々の同胞よりも先に「おお」と呼びかけてくる者があった。
「アスタ殿にアイ=ファ殿、おひさしぶりでございます。また皆様にご挨拶をすることができて、望外の喜びでございますよ」
それは俺たちがバナームに向かう際に立ち寄った、ムドナという自治領区の当主であった。
本日も、同伴させているのは伴侶でなく若い娘さんだ。彼らはジェノスの祝宴にも何度か招待されていたが、やはりバナームの婚儀を思い出させる存在であった。
「ああ、アイ=ファ様……本日も、なんとお美しい姿なのでしょう」
娘さんは、さっそく熱い眼差しをアイ=ファに向けてくる。同性が相手では文句をつけることもできないため、アイ=ファは無表情に目礼を返した。
「今日は確かに、貴族ならぬ客人もずいぶん招待されているようだ。まあ、我々にとっては望ましい話であろうな」
ダリ=サウティがそんな声をあげると、ムドナの当主は笑顔でそちらに向きなおった。
「ジェノスにおけるサトゥラス伯爵家は、宿場町を統括するお立場であられますからな。貴き方々との交流と同じぐらい、市井の人間との交流も重んじてくださっているのでしょう。まったくもって、ありがたい限りでございますな」
「うむ。我々も、それは同様だ。さまざまな相手と同じ喜びを分かち合えれば、嬉しく思う」
今日は伴侶のミル・フェイ=サウティを同伴させているためか、ダリ=サウティも普段以上の風格である。そしてやっぱりこの薄暗さが、俺にも常と異なる昂揚をもたらしていた。
近場で語る分には何の支障もないが、数メートル先を見渡すのは難しいぐらい照明は抑えられている。そうして淡い燭台の光にちらちらと照らし出されるのは、立派な宴衣装の人影だ。他に特別な仕掛けがなかろうとも、それだけで幻想的な雰囲気が演出されていた。
「いやー、今日は最初っから、ずいぶん趣が違ってるねー」
と、森辺の陣営で最後に入場したユーミ=ランとジョウ=ランも、ようやく到着した。
ユーミ=ランは他の数多くの女衆と同じく、セルヴァ伝統の宴衣装である。彼女は自前の宴衣装を持っているが、森辺の同胞と足並みをそろえるために、あえて持参しなかったのだ。
セルヴァ伝統の宴衣装というのは、きわめて薄手の織物で仕立てられた長衣と、袖なしで丈の長い上衣という組み合わせである。本日は飾り物が少ないのでなかなかにシックな印象であるが、長衣にも上衣にも瀟洒な刺繍が施されているため、とても優雅かつ上品に見える。また、生地の薄さがボディラインをあらわにするので、ヴィナ・ルウ=リリンに次ぐぐらい卓越したプロポーションを有するユーミ=ランは女性らしい魅力にも不自由していなかった。
ただやはり、髪がばっさりと短いためか、落ち着いた雰囲気も加算される。
本日招待された女衆の中で既婚であるのは、ユーミ=ランとモルン・ルティム=ドム、ミル・フェイ=サウティとヴェラの家長の伴侶のみであろう。ユーミ=ランも、見ようによってはそちらのグループに分類できそうなぐらいの落ち着きが感じられた。
「おや? そちらは……アスタ殿の妹君か何かであられましょうかな?」
ムドナの当主が不思議そうに声をあげると、その娘さんが腕を引っ張った。
「アスタ様に妹君など存在しないことは、傀儡の劇で知っているでしょう? でも……確かに他の方々とは、ご様子が違うみたい」
「んー? 今のって、ひょっとしたらあたしのこと? いやー、アスタの妹あつかいされるなんて光栄だけど、なーんか申し訳ないなー」
ユーミ=ランは陽気に笑いながら、ムドナの父娘に向きなおった。
「あたしはこのジョウ=ランの連れ合いで、ユーミ=ランってもんだよ。つい先日、森辺に嫁入りすることになったの。生まれは、ジェノスの宿場町だよ」
「ほほう。ついにジェノスの宿場町からも、森辺に嫁入りされる御方が現れたのですか。それは、おめでたきお話でございますな」
と、ムドナの当主は驚くのではなく喜色をあらわにした。
「心より、祝福の言葉を捧げさせていただきますぞ。わたくしは自治領区ムドナの管理を任されておる者で、こちらは末の娘と相成ります」
「ムドナ? ってことは、えーっと……ベヘットの先にある立派な宿場町だったっけ?」
「左様でございますな。以前にジェノスの皆様方がバナーム侯爵家の婚儀にお招きされた際、道中の我が屋敷でお世話をする栄誉に授かったのです」
「あー、アレね。なるほどなるほど、懐かしいなぁ。バナームの貴族様も、あたしらとおんなじように――」
と、ユーミ=ランはそこで口をつぐんだ。
バナーム侯爵家のウェルハイドも、ユーミ=ランたちと同じように――ティカトラスのいない隙をついて、婚儀を挙げることになったのだ。しかし、事情を知らない人間にわざわざ喧伝するような話ではなかった。
「……まあとにかく、祝福の言葉をありがとう。あたしは森辺の新参者だけど、よかったらよろしくね」
「はい。宿場町から森辺に嫁入りするだなんて、素敵です。よろしければ、どうか馴れ初めなどをお聞かせください」
と、娘さんのほうはきらきらと瞳を輝かせている。
ジェノスの外で暮らす人間のほうが、ユーミ=ランの嫁入りに関して気軽に考えることができるのだろう。ユーミ=ランはむしろそれを喜んでいるような面持ちで、「うん」とうなずいた。
「こっちこそ、仲良くさせてもらえたら嬉しいよ。でもまあ、それは後のお楽しみだね」
ユーミ=ランのそんな言葉に応じるように、次なる参席者の入場が開始された。
貴族の中でも、とりわけ身分の高い面々である。
ただし、新郎新婦の親族はすでに入場しているらしく、ジェノスの伯爵家はダレイムとトゥランのみであった。ただ本日は、ダバッグ伯爵家の当主と伴侶という常ならぬ大物も招待されていた。
その後には外来の貴族であるバナーム侯爵家のアラウトおよび西の王都のフェルメスが続き、さらにはジェノス侯爵家とジャガルの王女デルシェア姫だ。
ユーミ=ランたちの婚儀では自重を余儀なくされたデルシェア姫も、このたびはもちろん主賓の一角として招待されていたのである。きっと異国の王族を婚儀に招待するというのは、貴族にとって大きな誉れなのだろうと察せられた。
しかしデルシェア姫は偉ぶることなく、にこにこと笑いながら入場する。
たくさんの侍女と武官を従えたその姿に変わるところはなかったが――ただ一点、普段は黄色や金色を基調にしている宴衣装が、淡い朱色に変じている。そういえば、白や黄色の宴衣装を好むリフレイアも、本日は淡い水色の宴衣装であったのだ。女性の招待客が白や黄色の宴衣装をさけるという習わしは、それなり以上に徹底されているようであった。
(そういえば、アラウトも普段は真っ赤な宴衣装だけど、今日は紫色だったな)
赤は西方神、黄色は南方神を象徴する色合いでもあるのだ。南の王家たるデルシェア姫がその黄色をさけるぐらい、婚儀の習わしが重んじられているわけであった。
ともあれ、デルシェア姫が入場したからには、これで250名からの参席者も勢ぞろいしたのだろう。東の客人たるプラティカやセルフォマたちは、先に入場を果たしたのだろうと察せられた。
そうして人々が次の展開を待ち受けるべく声をひそめると、それに応じるように小姓の高らかな声が響きわたった。
「本日の参席者様は、以上となります。続きまして……本日ご成婚されるおふたかた、サトゥラス伯爵家の第一子息リーハイム様、マーデル子爵家の第一息女セランジュ様、ご入場です」
それと同時に、大広間が驚嘆の声に包まれた。
薄黒い大広間を真っ二つに引き裂くように、眩い光が灯されたのだ。
入場口から最奥部の檀上まで続く道に侍女がずらりと立ち並び、いっせいに灯篭に火を灯したのである。
然るのちに、侍女たちはそっと膝をつき――輝ける花道に、新郎と新婦が登場した。
リーハイムは真紅、セランジュは純白の宴衣装である。
そしてどちらも、全身に金色の刺繍が施されている。それが灯篭の光を浴びて炎のようにきらめくさまは――まさしく、ウェルハイドとコーフィアの婚儀の再現であった。
また、花婿が儀礼用の立派な槍を携え、花嫁が銀色の聖杯を抱えているのも、かつて見た光景である。
それはウェルハイドたちの婚儀を手本にしたのか、ジェノスのもともとの伝統であったのか――俺たちに判ずるすべはなかったが、ともあれバナーム侯爵家の婚儀に劣らない勇壮さと美麗さであった。
リーハイムもセランジュも頭に黄金色の冠をかぶっており、それがまた燃えさかる炎のように輝いている。
リーハイムは厳しく引き締まった表情、セランジュはゆったりとした面持ちだ。
そうしてふたりは、壇上に向かってゆっくりと歩を進めていく。その姿に、やがて盛大な拍手が届けられた。
(……そういえば、バナームでは広間のど真ん中でかがり火が焚かれてたっけ)
しかしあれは屋根に特殊な設備を備えているからこそ、可能な演出であったのだ。さすがにそこまでは見習うことができなかったため、この炎の花道ともいうべき演出が考案されたのかもしれなかった。
たくさんの灯篭が灯されたため、その光が届かないスペースはいっそう闇が深くなっている。それで花道を進むふたりの姿が、いっそう華々しく照らし出されているのだ。
バナーム城は建物そのものが500年という歳月を経ており、歴史の重さを匂いたたせていた。そして広間の真ん中にかがり火を焚くという演出が、森辺の祝宴さながらの荒々しい生命力を想起させたのだ。
それに比べれば、やはり文明国らしい洗練された雰囲気が強かったが――ただ、勇壮さと美麗さのほどにまさり劣りはなかった。
いつになく厳しい顔をしたリーハイムも、まるで別人であるかのようだ。
そんなリーハイムとセランジュに向かって、俺も惜しみなく拍手を届けることにした。
やがて両名が壇の階段に足をかけると、今度は壇上がまばゆい輝きに包まれる。
歓声と拍手の中、新郎新婦は輝ける舞台に立ち並んだ。
ふたりの背後には、月神エイラの神像が据えられている。
真っ直ぐの髪を足もとまで長くのばした、美しくも気品のある女神の像だ。ちょうど大きさは人間と変わらないぐらいであったが、1メートルばかりもある台座の上に立ちはだかっているため、遥かな高みから下界を静かに見下ろしている格好であった。
そちらの神像は大理石のように艶々と照り輝く純白の石で造られているようだが、今は赤い炎にくっきりと照らし出されている。
それでもなお、月神エイラは青白い月光に照らされているような冴えざえとした美しさであり、まだまだこちらの世界の神々に慣れ親しんでいるとは言い難い俺を厳粛な心地にさせてくれた。
やがて誰かに命令されたかのように、歓声と拍手が静まっていく。
すると、壁際に控えていたらしいたくさんの人影がしゃりしゃりと金属的な音を鳴らしながら、壇の前に進み出た。いずれも黄色い肩掛けを羽織った、女官のようである。
10名以上に及ぶ女官たちが鈴の鳴り物を鳴らしながら、壇上にあがっていく。その最後尾を進む老女は、ひときわ立派な肩掛けを纏っていた。
女官はリーハイムたちの左右に立ち並び、老女は壇の中央でこちらに向きなおる。
その顔は、エイラの神像に負けないほど穏やかで、静謐である。きっとこの老女が、エイラの神殿の司祭長なのだろう。司祭長はそのままひっそりと立ち尽くし、女官たちがリーハイムたちから槍と聖杯を受け取る姿を静かに見守っていた。
徒手となったリーハイムとセランジュは、おたがいの姿に向き合いながら膝を折って、頭を垂れる。
司祭長は真紅の槍を受け取って、聖杯の口に穂先をひたした。
これもまた、バナームで見た光景である。
しかし、その厳粛さに俺は胸を打たれていた。
司祭長は舞でも踊るような優雅な仕草で、真紅の槍をゆったりと振りかざす。
穂先を濡らした水滴が花嫁と花婿の頭上に降り注ぎ、透明の輝きを閃かせた。
司祭長は槍を侍女に手渡すと、両腕を胸の前で交差させる。
リーハイムとセランジュは身を起こし、それぞれ自分の冠に手をかけた。
まずはリーハイムが、セランジェの頭に自分の冠をかぶせなおす。
セランジェは恭しげに一礼してから、自らの冠をリーハイムにかぶせた。
「……現世では決して交わることのない日輪と月輪が、いま両者の内で交わりました。月神エイラとその伴侶たる太陽神アリルの名のもとに、サトゥラス伯爵家のリーハイムとマーデル子爵家のセランジュは、伴侶として魂を結び合わされたのです」
司祭長の落ち着いた声が、静まりかえった大広間に響きわたった。
「魂を返すその日まで、今日の喜びと幸福を忘れませぬよう……月神エイラは、いつでもあなたがたを見守っております」
リーハイムとセランジュはそれぞれ小さくうなずいてから、俺たちのほうに向きなおってきた。
女官たちがいっせいに鈴を鳴らすと、堰を切ったような拍手がそれに続く。俺もまた、背中を突き飛ばされたような心地でそれにならうことになった。
司祭長と女官たちはエイラの神像に頭を垂れてから、しずしずと壇を下りていく。
壇上には花嫁と花婿だけが残されて、万雷の拍手が両名を祝福した。




