生誕の日③~祝いの晩餐~
2025.1/18 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
スドラ家の温もりを半刻ばかり満喫したのち、俺はひとり帰路を辿った。
こんな刻限にひとりで荷車を走らせるのも、おそらくは年に1度のことである。ガタゴトと荷台が揺れる音だけを聞きながら、御者台から見上げる黄昏時の天空の美しさというものも、生誕の日の思い出につけ加えていいのかもしれなかった。
ギルルはそんな感慨とも無縁な様子で、力強く道を駆けていく。
そうして南北の道から横道に入って、ファの家の母屋の明かりが視界に入ると、俺の胸にはいっそうの懐かしさがこみあげてきた。
これもまた、生誕の日にしか見ることのない光景であるのだ。
アイ=ファが晩餐の支度を整えながら、俺の帰りを待っている。それはもはや、郷愁に近い感覚を俺にもたらしてやまなかった。
逸る気持ちを抑えながら、俺は荷車を母屋の横手にまで進める。
そうすると、何とも間違えようのない芳香が鼻をついた。
これは、カレーの香りである。
帰りついた我が家から、カレーの匂いが漂っている。俺にとってはそれほどありふれたシチュエーションではないはずであったが、それでも郷愁に似た感覚がますます強まって、俺の胸をやわらかく締めつけてきた。
荷車から解放したギルルとともに、俺はことさらゆっくりと玄関口に向かう。その間も、俺の胸の高鳴りは増していくいっぽうであった。
「ただいま。帰ったよ、アイ=ファ」
俺が玄関の戸板をノックすると、「しばし待て」という凛々しい声が返ってくる。
たしか昨年も、こんなやりとりをしたはずだ。そうしてアイ=ファは宴衣装の姿で現れて、俺を仰天させたのだった。
(まあ、あれは俺がプレゼントした飾り物をつけている姿を早く見てみたいって言ってたからだもんな。婚儀の祝宴を終えたばかりだし、今年はそんなサプライズもないだろう)
そんな風に考えながら、心の片隅に期待を残してしまうのが人情というものである。
そうして閂を外された戸板が開かれると、俺の期待は思わぬ形で報われることに相成ったのだった。
「ご苦労であったな。ギルルは預かるので、履物をぬぐがいい」
アイ=ファはいつも通りの凛々しさで、俺の手からギルルの手綱をもぎ取った。
しかし俺は、アイ=ファの姿に見とれてしまっている。アイ=ファは宴衣装こそ纏っていなかったが、普段は複雑な形に結いあげている髪を首の横でひとつに結んでおり、そして左のこめかみに飾り物を光らせていたのだった。
「ど、どうしたんだ? その髪型は、珍しいよな」
「……ただ飾り物をつけるだけでは代わり映えがしないと判じただけのことだ。ことさら取り沙汰する必要はない」
アイ=ファは凛然とした面持ちのまま、ギルルのくちばしのくつわを外していく。
それでも俺が立ち尽くしていると、アイ=ファはようやく頬を赤らめてにらみつけてきた。
「履物をぬげと言ったのが、聞こえなかったのか? 祝いの晩餐が、冷めてしまうぞ」
「あ、ああ。ごめんごめん」
アイ=ファの愛しい姿から目をもぎ離して、俺は上がり框に腰を下ろした。
とたんに、ジルベが背中にすり寄ってくる。子犬たちが仕切りの中に収められているのはいつものことであったが、本日はすべての家人が広間にあげられていた。
「ギルルの重さでは床板を踏みぬきかねんし、土間のほうが自由に振る舞うことができよう。今日も1日、ご苦労であったな」
アイ=ファが長い首を撫でると、ギルルはとぼけた面持ちのまま土間に膝を折った。犬たちがいないため、普段よりものびのびくつろげるようだ。
アイ=ファがさっさときびすを返してしまったため、俺も大急ぎで革のサンダルの帯をほどいて追いかける。広間では、猟犬のブレイブとドゥルムア、黒猫のサチ、白猫のラピが思い思いにくつろいでいた。母犬のラムだけが、子犬たちを収めた仕切りのかたわらに控えた格好だ。
「なあ、どうしてみんなを広間にあげたんだ?」
「……取り立てて、理由はない。まだ誰も眠りそうになかったので、祝いの場に立ちあわせようと考えたまでだ」
そのように語りながら、アイ=ファは常ならぬ姿勢を見せた。普段通りにあぐらをかくでもなく、宴衣装を纏ったときのように横座りになるでもなく、正座の姿勢を取ったのである。
何とはなしに、俺もつられて正座をしてしまう。
ジルベも俺の隣に腰を落ち着けて、興味深そうにアイ=ファと俺の姿を見比べた。
「それではこれより、家人アスタの生誕の祝いを始める」
きっちりと背筋をのばしたアイ=ファは、厳粛なる声音で宣言した。
「家人アスタの20度目の生誕の日を、ここに祝福する。これからも、ファの氏に恥じない人間として、健やかなる生を送ることを願う」
「はい。ファの家人として、母なる森に恥じない生を送ります」
アイ=ファはひとつうなずくと、中央の料理を迂回して俺のもとに近づいてきた。
その手には、いつの間にか立派なミゾラの花が握られている。燭台の薄明りでも鮮烈な色合いがうかがえる、黄色い花弁だ。たくさんの家人に見守られながら、アイ=ファはその花を俺の胸もとに飾りつけた。
「では、祝いの晩餐を始める」
もとの席に戻ったアイ=ファは、口の中で食前の文言を詠唱した。
俺は精一杯の気持ちを込めて、その言葉を復唱する。
「……森の恵みに感謝して、火の番をつとめた家長アイ=ファに礼をほどこし、今宵の生命を得る」
これもまた、俺の生誕の日にしか口にすることのない言葉である。
つまり俺は人生で、この言葉をまだ三回しか口にしていないということであった。
「それでは、最後の準備をする。お前は、そのまま待て」
三たび腰を上げたアイ=ファは、かまどのほうに向かっていく。俺たちの間に並べられていたのは、いずれも副菜の皿であったのだ。メインディッシュと汁物料理は、それぞれ小鍋で温められていた。
その片方の正体は、最初から知れている。この広間にも、カレーの香りがあふれかえっていたのだ。そうして俺のもとに届けられたのは、ハンバーグカレーに他ならなかった。
「……今回はタラパが使えなかったので、はんばーぐかれーを選ぶことになったのだ」
事務的な声音で告げながら、アイ=ファは汁物料理も運んでくれた。そちらはシンプルなミソ仕立てのギバ汁であるようだ。
そして副菜は、肉野菜炒めとギーゴおよびシィマの生鮮サラダだ。かまど仕事を修練する時間がないアイ=ファは毎年同じような献立であり、本年はカレーのみが目新しかった。
しかしもちろん、俺の喜びに変わるところはない。
アイ=ファが手掛けてくれるのであれば、毎年同じ献立でもまったくかまわないのだ。年に一度のお楽しみに文句をつけるいわれなど、どこにも存在しないのだった。
「では、食するがいい」
そのように告げたアイ=ファは、横座りの姿勢を取った。
一抹の緊張を覚えていた俺も、ほっとしながら足を崩す。そしてまずは、ハンバーグカレーの皿を取り上げた。
「アイ=ファがカレーを準備してくれるなんて、予想外だったよ。これはいつも以上に大変だったんじゃないか?」
「うむ。サリス・ラン=フォウにも、ずいぶんな苦労をかけてしまったな」
アイ=ファはサリス・ラン=フォウの指示に従いながら、ひとりでこれを作りあげたのだ。ファの家には干し固めたカレールーが常備されているので、それを使えば手軽に仕上げることもできたが――それでも年に一度しか調理しない身には、簡単ならぬ話であるはずであった。
しかもこれは、カレー・シャスカである。ほかほかの白米に似たシャスカの上に、とろりとしたカレーが掛けられているのだ。外見上、カレーにもシャスカにもハンバーグにも不備は見当たらなかった。
(まあ、どんな不備があったって、ひとつぶ残らず食べさせていただくけどな)
俺は木匙でハンバーグを切り分け、適量のシャスカおよびカレーごと口に運んだ。
とたんに、好ましい味わいが口内に広がっていく。
シャスカはいくぶん固めであったが、まったくもって許容範囲内だ。カレーの味も煮込み具合にも不備はなく、ハンバーグは実に力強い噛みごたえであった。
「これは、ギバ・タンのハンバーグだったんだな。すごく美味しいよ。毎年ありがとう、アイ=ファ」
「……そうか」と、アイ=ファは息をついた。
とたんに、どこか張り詰めていた空気が解きほぐされていく。そしてアイ=ファは、とても優しい眼差しを俺に向けてきた。
「かれーは味が強いため、味見を繰り返している内に正しい味わいを見失いそうであったのだ。不備がなかったのなら、喜ばしく思う」
「不備なんて、どこにも見当たらないさ。年に一度の調理でこんな立派な料理を作れるなんて、アイ=ファは本当にすごいよ」
「ふたり分の晩餐で半日を使っていたら、なんの自慢にもならぬがな」
と、アイ=ファはあどけなく微笑んだ。
その無防備な笑顔に、俺は呆気なく心臓を射貫かれてしまう。これまでのいくぶん張り詰めていた空気が、アイ=ファの笑顔の破壊力をブーストさせたようであった。
そんな中、ファの家の人間ならぬ家人たちはそれぞれくつろいでいる。ジルベはずっと俺のかたわらで木匙の動きを見守っていたが、サチは退屈そうに大あくびをしており、他の面々も大差のない様相であった。
「ブレイブたちに、生誕の日の得難さは伝わるまいな。こればかりは、致し方がない」
「うん。こっちもブレイブたちの生誕の日を知らないもんな。子犬たちなら、わかるけど……」
「うむ。子犬たちのみ祝うのは、いささかならず公平さに欠けよう。これは人の身の習わしと定める他あるまい」
そんな言葉を交わしながら、アイ=ファもようやく木皿を取った。
きっと本年も入念な味見を繰り返して、そこそこ腹は満たされているのだろう。ハンバーグの失敗作なども、余すところなくアイ=ファの胃袋に収められているはずであるのだ。アイ=ファがこのようにゆったりと食事を進めるのも、生誕の日ならではの光景であった。
「……これでアスタをファの家に迎えてから、丸三年が経過した。ずいぶん長きの時間が過ぎ去ったものだな」
アイ=ファがいくぶん神妙な口調になって、そう言った。
俺は幸せな心地のまま、「うん」と応じる。
「今年一年だけでも、色んなことがあったよな。雨季の騒ぎを筆頭に、楽しいばかりの日々ではなかったけど……それも含めて、すごく充実した一年だったよ」
「うむ。この一年に限って言えば、災厄と称するべきは邪神教団および東の賊の騒ぎぐらいであろうな。ガーデルさえ回復していれば、すべての災厄を完全に乗り越えたと言えるところであるのだが」
俺が「ああ」と言いよどむと、アイ=ファはすぐさま身を乗り出してきた。
「どうした? 何かあったのなら、包み隠さず語るがいい」
「うん。アイ=ファにはすぐ伝えるつもりだったよ。……ほら、ガーデルに料理を差し入れたいって話をしただろう? でも、それはお断りされちゃったんだ」
アイ=ファは鋭く目を細めながら、「何故?」と短く問うてきた。
「自分には俺の料理を食べる資格はない、なんて言い張ってるみたいなんだ。やっぱりガーデルは、ずいぶん精神が不安定みたいだな」
「……なるほど、そういうことか」と、アイ=ファは目を伏せた。
「ガーデルは、アスタの料理に価値や意味を見出していない。それこそが、他なる者たちとの決定的な違いであるのだろう」
「うん、まあ、ガーデルも料理を口にすれば、美味しいって言ってくれるけど……食事そのものに、関心が薄いみたいだよな」
「うむ。あのサイクレウスでさえ、アスタの料理で心を変えることになった。ドンダ=ルウやグラフ=ザザやデイ=ラヴィッツなども、アスタの料理に――ひいては、アスタが料理に向ける熱情に、心を動かすことになったのだ」
そんな風に言ってから、アイ=ファはふっと口もとをほころばせた。
「かくいう私も、そのひとりに他ならない。だから……ガーデルと同じ喜びを分かち合えないことが、無念でならんな」
「うん。そもそもガーデルは、現世の出来事に興味を持てないって言い張ってたからな。きっと食事も、その中に含まれるんだろう」
「不幸なことだ。あのフェルメスでさえ、アスタの料理には心を動かしているのだから……私の目には、ガーデルこそがこの世でもっとも不幸な存在に見えてしまう」
「うん。だから、なんとかしてあげたいよな。バージもポルアースも、今は時期を見てほしいって言ってたみたいだからさ。もうちょっとだけ時間を置いて、また何か考えようと思うよ」
「うむ。あちらが心を閉ざしてしまったのならば、こちらから歩み寄る他あるまい。私からも族長たちを通して、貴族たちに言葉を届けるとしよう」
そう言って、アイ=ファは伏せていた目を俺に向けてきた。
その青い瞳は、まったく曇っていない。むしろアイ=ファは、大きな試練を前にして昂揚しているかのようであった。
(試練っていうのは言い過ぎかもしれないけど……それぐらい、ガーデルっていうのは難しい相手だからな)
しかし、アイ=ファであれば決してあきらめることはないだろう。クルア=スンのもたらした予言とは関係なく、アイ=ファにはそれだけの力と気概が備わっているのだ。アイ=ファがこうと決めたならば、ガーデルがどれだけ強固に心を閉ざそうとも、最後には強引に押し開かれるのではないかと思われた。
「……あとはおおよそ、貴き身分にある客人たちに振り回された記憶ばかりが残されているな」
アイ=ファは気を取り直したように、言葉を重ねた。
俺は肉野菜炒めに手をのばしながら、「うん」と応じる。
「去年の生誕の日の少し前に、初めてダカルマス殿下たちをお迎えしたんだもんな。それでその少し後に、邪神教団の騒ぎが持ち上がったわけか」
「うむ。それで家長会議が月の終わりまで移されることになったのだから、青の月であることに間違いはあるまい」
「その後は、しばらくバタバタだったもんな。でも、レビとテリア=マスはその頃に婚儀を挙げたはずだし、復活祭の前にはバナームまで出向くことになったもんな。おめでたい話にも事欠かなかったわけだ」
「うむ。その間には、鎮魂祭などというものも開かれたぞ。それも、客人の起こした騒ぎのひとつだな」
「ああ、鎮魂祭は黒の月だったっけ。それもずいぶん、懐かしい話だな」
たしか昨年も、こうして一年の出来事を振り返っていたのだ。
楽しい思い出もあれば、つらかった思い出もある。しかし最初に言った通り、すべてが俺に充足の思いをもたらしてくれていた。
(その中で唯一終わっていないのが、ガーデルの一件ってことなんだろう)
それはこれからの一年で、乗り越えていくしかない。
そうしたら、この切ない気持ちも別の形に昇華させることができるはずだ。そのために、俺たちは力を尽くさなければならないのだった。
「……それで、充実した一年の締めくくりは、ユーミ=ランたちの婚儀になるわけだな。それで来年には、リーハイムたちの婚儀から思い出話が開始されることになりそうだ」
俺がそのように告げると、アイ=ファは一拍置いてから「……そうだな」と応じた。
「この一年だけでも、数多くの者たちが婚儀を挙げている」
「うん。レビとテリア=マスから始まって、ウェルハイドとコーリア、フォウとヴェラ、モラ=ナハムとフェイ・ベイム=ナハム、ユーミ=ランとジョウ=ラン――たった一年で、五回も招待されたんだな」
「うむ。同じ年頃の知人が多ければ、それが自然な話なのであろうな」
そんな言葉を最後に、アイ=ファは口をつぐんでしまった。
べつだん、気詰まりな沈黙ではない。ただ少しだけ、空気が変わったように感じられる。素晴らしい晩餐で心と腹を満たしながら、俺もなんとなく気軽に口を開けられない心持ちであった。
(アイ=ファは、どうしたんだろう? もしかしたら……まだ婚儀を挙げられないことを気にしてるのかな)
俺自身、生誕の日には婚儀のことを考えてしまう。それは2年前の生誕の日に、アイ=ファからいつか婚儀を挙げてほしいと願われたためであった。
いつかアイ=ファが狩人としての仕事をつとめあげたならば、俺の伴侶に迎えてほしい――アイ=ファは澄みわたった眼差しで、そんな風に語っていたのだ。そのときに交わした指切りの温もりとともに、俺にとっては忘れられない記憶であった。
(そりゃあアイ=ファと婚儀を挙げられたら、幸せすぎてどうにかなっちゃいそうだけど……俺は、せかすつもりはない。そんなことは、わかってくれてるはずだよな?)
しかしアイ=ファが少しでも気にしているのならば、やはりきちんと言葉で確認しておくべきだろう。
そんな風に考えた俺が、いざ口を開こうとした瞬間――静かに食事を進めていたアイ=ファが、物凄い勢いで顔を上げた。
「……いかん。大事なことを、失念していた」
そのように口走るなり、アイ=ファは黒豹のようなしなやかさで身を起こし、かまどのほうに立ち去っていく。俺がぽかんとしていると、やがてアイ=ファは小さなお盆を手に舞い戻ってきた。
そのお盆にのせられていたのは、硝子の酒杯と果実酒の土瓶である。
まったく同じ形状をした、ふたつの硝子の酒杯――これは《銀の壺》と初めての別れを遂げる際、シュミラル=リリンから贈られた品であった。そしてその後は『アムスホルンの寝返り』で家が倒壊した際、ティアが命がけで救い出してくれた品だ。俺たちにとってはきわめて思い出深い品であるのに、どうして今日に限って使用されていないのだろうと、俺もいささか不思議に思っていたのである。
それらを敷物におろしながら、アイ=ファは力のある眼差しを俺に向けてきた。
「アスタはかねがね、二十歳になるまで酒は口にしないと語っていたな。つまりは、この夜から酒を口にできるということであろう?」
「ああ、うん。それはその通りだけど……アイ=ファは何を、そんなに意気込んでるんだ?」
「べつだん、意気込んでなどはいない。ただ――」
と、アイ=ファは凛々しい顔のままもじもじとした。
「……私は、お前と酒を酌み交わせる日を、楽しみにしていたのだ。私には、家人と酒を酌み交わす機会がなかったのでな」
「ああ、なるほど。親父さんが亡くなるまで、アイ=ファはお酒を飲んでいなかったのか?」
「父が魂を返したとき、私は見習い狩人の身であったのだぞ? たとえ15歳になっていようとも、見習い狩人の身で酒など口にするものではない。余所の氏族のことは知らんが、ファの家ではそれが習わしだ」
毅然と言い放ちながら、アイ=ファはまだもじもじとしている。
「……しかし、森辺の民のすべてが酒を口にするわけではない。お前が拒むというのなら、私も無理強いすることはできんが……」
「いや、べつに拒んだりはしないけど……そんなに俺とお酒を酌み交わすことを、楽しみにしてくれてたのか?」
「うむ。ファの家は貧しかったし、身体の弱い母はほとんど果実酒を口にしなかった。それで父も、家人の生誕の日ぐらいにしか果実酒を口にしようとしなかったのだが……いつか私と酒を酌み交わせる日を楽しみにしていると、かねがねそのように語っていたのだ」
しかしアイ=ファの父親はそんな望みをかなえることもできないまま、魂を返すことになった。そうしてアイ=ファは一人前の狩人となったのちも、ひとりで果実酒を口にすることになったのだ。
それでアイ=ファは、俺が二十歳になる今日という日を心待ちにしてくれていたわけである。
すべての疑念が氷解して、俺の胸は温かいもので満たされた。
「わかったよ。でも、いきなりがぶがぶ飲むのは危ないだろうから、ちびちび試させてくれよな?」
「無論だ。酒も過ぎれば、毒となろう」
そんな風に応じながら、アイ=ファは瞳を輝かせた。俺の胸は、温かくなるいっぽうである。
そうしてアイ=ファの手で真っ赤な果実酒が注がれた酒杯が、俺に手渡される。
どうやらジェノスでもっとも一般的な、赤ママリアの果実酒であるようだ。調理では何度となく活用してきた品であるが、酒杯でいただくのは初めての体験であった。
「では、アスタの生誕の日を、あらためて祝福する」
アイ=ファは自分の酒杯を高く掲げて、口もとに運んだ。
その間も、青い瞳がきらきらと輝きながら俺の一挙手一投足を見守っている。俺は愛おしさのあまりに胸苦しいぐらいであったが、ともあれアイ=ファの期待に応えなければならなかった。
赤ママリアの果実酒は、赤ワインに似た味わいをしている。アルコール度数も、きっと同程度であるのだろう。
俺は酒杯をゆっくり傾けて、まずは舌先で刺激の度合いを確認する。
遥かな昔に味見をしたときと、同じ香りと味わいだ。甘みは強いが、酸味も強い。そしてその何割かは、アルコールの刺激であるのだろう。
俺はしっかり咽喉をしめながら、大さじ一杯分ていどの果実酒を口に含んだ。
そうして口内を刺激に慣れさせてから、少しずつ咽喉の奥に通していく。
とたんに咽喉が熱くなったが、むせかえるほどではなかった。
そうして俺はゆっくりと、大さじ一杯分の果実酒を飲みくだし――「ふう」と息をついた。
「これが、果実酒の本当の味か。……煮詰めると甘みが際立つけど、やっぱり酸味も強いんだな」
「いかにも、かまど番らしい寸評だな」
アイ=ファはこらえかねたように、口もとをほころばせた。
「私が初めて果実酒を口にしたのは、自らの手でギバを仕留めて、その牙と角を銅貨にかえた日だ。これで見習いの身ではなくなったのだと、自分に褒美を与えたわけだな。しかし、生まれて初めて口にした果実酒は、決して美味とは思えなかった。父や母は何が楽しくて果実酒を口にしていたのかと、不思議に思ったほどだ」
「うん。まあ確かに、俺もそこまで美味しいとは思えなかったよ」
「そうであろう。果実酒を美味と感じるには、あるていどの日数が必要となるのだ」
そう言って、アイ=ファはいっそう無邪気に微笑んだ。
「酒気が身体に馴染めば、お前も果実酒を美味と感じるようになるやもしれん。それを見守れることを、得難く思う」
俺の胸がぐんぐん熱くなっていくのは、果たしてアルコールの影響であるのか、はたまたアイ=ファの笑顔の効果であるのか――それも判然としないまま、俺は再び同じ量の果実酒を口にした。
「では、食事も進めるがいい。酒ばかりを口にしていたら、悪酔いしてしまおうからな。初日たる今日は、その酒杯の分だけで留めるのだぞ?」
「承知いたしましたよ、家長殿。そっちも、ほどほどにな」
アイ=ファは俺と暮らすようになってから果実酒を口にする機会が減って、ずいぶんアルコールの耐性が下がったようであるのだ。俺が参席した2度目の家長会議において幸せそうに酔いつぶれていた姿は、今でもくっきりと脳裏に焼きつけられていた。
そうして俺はちびちびと果実酒を口にしながら、残りの料理を楽しんでいったが――酒杯の残りがわずかになると、心身の変調が知覚できた。胸の熱さが顔のほうにまでのぼってきて、頭の中身がふわふわと揺れ始めたのだ。
「うむ? ずいぶん顔が赤くなっているぞ。調子がすぐれなければ、そのあたりで止めておくがいい」
「いや。どうせあとひと口だから、こいつは全部いただくよ」
そうしてすべての料理を食べ終えると同時に、酒杯の中身も空になった。
俺は奇妙な浮遊感にとらわれたが、気分が悪いことはない。どちらかといえば、楽しい気分である。ただ、顔は火のように熱くなっていた。
「ううむ。アスタは肌の色合いが淡いので、血色が目立つのであろうか? 念のため、水で冷やすこととしよう。お前は、そのまま動かずに待っているのだぞ」
アイ=ファは食器を片付けながら、水瓶の水で濡らして絞った織布を届けてくれた。
俺がそれを受け取ろうとすると、その腕をかいくぐって俺の顔に織布を押し当ててくる。その冷たさが、なんとも心地好かった。
「ああ、気持ちいいなぁ。いっそう幸せな気分だよ」
「うむ。頭の中身は、それほど浮ついていないようだな」
俺の顔に織布を押し当てたまま、アイ=ファはにこりと微笑んだ。
その笑顔に、俺の胸はますます熱くなっていく。こればかりは、止める手段もないのだろうと思われた。
「では、お前が眠ってしまわぬ内に、これを渡しておこう」
と、アイ=ファは織布を引っ込めて、別なるものを差し出してきた。
綺麗な刺繍の入った、小さなきんちゃく袋である。見るからに、値の張りそうな品であった。
「今年も贈り物を準備してくれたのか? なんだか、申し訳ないなぁ」
「お前とて、私の生誕の日に贈り物を準備しているではないか。何も遠慮の必要はない」
アイ=ファは優しい面持ちで、俺の手にきんちゃく袋を握らせた。
いったい何が入っているのか、見当もつかない。俺はそれを確認する前に、「ありがとう」と告げることにした。
「それじゃあ、ありがたく頂戴するよ。開けてもいいか?」
「うむ。袋に入ったままでは、使いようがあるまい?」
アイ=ファの至極もっともな言葉にうながされて、俺はきんちゃく袋の中身を手の平に落とした。
その正体は――黄色い石の、飾り物である。
蜂蜜のようになめらかで一点の曇りもない、綺麗な宝石だ。石の大きさは親指の爪ていどで、銀の盤にはめ込まれており、紐を通せる環がつけられていた。
「これは……首飾りか何かだよな?」
「うむ。そのていどの大きさであれば、今の首飾りに加えても邪魔にはなるまい?」
俺の首には、黒い石の首飾りがつけられている。これは昨年の生誕の日にいただいた、アイ=ファからのプレゼントであるのだ。二年連続で首飾りを贈られるというのは、なかなかに意想外であった。
「ありがとう。大事に使わせていただくよ。でも……俺はこんなに立派な首飾りをいただいたのに、どうしてまた同じものを選んでくれたんだろう?」
「それは……お前が、黄の月の生まれであるからだ」
アイ=ファは自分の胸もとに手を置きながら、そう言った。
そこに輝くのは、俺が贈った青い石の首飾りである。
「お前は私の瞳の色に合わせて、この首飾りを贈ってくれた。だから私も同じように、その黒い石の首飾りを贈ったのだ」
「うん。アイ=ファが飾り物を贈ってくれるなんて想像してなかったから、俺はすごく嬉しかったよ」
「うむ。しかし……ティカトラスは、いつもお前に黒い宴衣装を準備している。それが前々から、私は気に食わなかったのだ」
とても優しい表情のまま、アイ=ファはそのように言いつのった。
「あやつは不可思議な眼力でもって、他者の生まれ月を言い当てることができる。まあ実際に言い当てるわけではないのだが、あやつの準備する宴衣装はことごとく着る人間の生まれ月と合致しているのだから、そのように判ずるしかあるまい」
「うん。アイ=ファだけは、色とりどりの宴衣装を贈られているけどな」
「茶化すな。……しかしお前は生まれ月と異なる、黒い宴衣装を準備されている。それはあやつが、お前を『星無き民』と見なしているためなのであろう」
「うん。『星無き民』と見なしているというか……ティカトラスには、俺の魂が黒く見えるっていうことなんだろうな」
ティカトラスは、相手の魂の色合いに従って宴衣装を準備していると公言しているのだ。そうして俺に準備されたのは、黒い宴衣装――星なき深淵の、漆黒であったわけであった。
「しかしお前は『星無き民』である前に、森辺の民たるファの家のアスタだ。その身に相応しいのは、黒ではなく黄色であろう。むろん、そちらの首飾りは瞳の色に合わせているのだから、私は何も悔いていないが……ティカトラスの準備した宴衣装と同じ色合いであることが、不本意であったのだ」
「なるほど。それでこの、黄色い石の首飾りを準備してくれたわけか」
納得のいった俺は、心からの笑顔をアイ=ファに届けた。
「ありがとう。アイ=ファの思いも含めて、すごく嬉しいよ。さっそく、つけさせてもらうな」
そうして俺は首の後ろに手を回して、銀のチェーンの留め具を外そうと試みたが――やはりずいぶん酔っているのか、いつまでたっても外すことができなかった。
「指がまともに動かぬのか? きっとお前は、それほど酒に強くないのであろうな」
そう言って、アイ=ファが俺の首筋に手を回してきた。
ただしアイ=ファは俺の真正面に陣取ったままであるので、吐息がかかるぐらいおたがいの顔が接近している。それで俺が心臓を騒がせている間に、首飾りは外された。
「どれ、そちらも貸してみるがいい」
アイ=ファの手が黄色い石の飾り物をつまみあげて、小さな環にチェーンを通した。
小さな飾り物が、チェーンの真ん中でこつんとぶつかる。どちらもつつましいサイズであるので、重ねづけをしても派手派手しくはならないようだ。
そしてアイ=ファは、再び俺に接近してきた。
俺の身にはいっさい触れないまま、ただ距離だけが近い。そうして首飾りは、無事に装着できたようだが――アイ=ファはそのまま、俺から離れようとしなかった。
「……アスタよ。最後に、ひとつだけ伝えておきたいことがある」
「う、うん。なんだろう?」
「私はお前がもたらした美味なる料理のおかげもあって、さらなる力を身につけることができた。この三年間で、私は驚くほどの力を我が物にすることがかなったのだ」
予想外の言葉を聞かされて、俺はきょとんとしてしまう。
アイ=ファは慈愛のあふれかえった眼差しで俺の瞳を見つめながら、さらに言いつのった。
「あくまで、私の見立てだが……今の私であれば、ドンダ=ルウやグラフ=ザザ、ディック=ドムにも後れを取ることはないだろう。それはすなわち、森辺でもっとも力のある狩人であるということなのだ」
「そ、そうなのか。それは、すごいな」
「うむ。それはつまり、私が父ギルを超えたという事実をも示している。父ギルは、きわめて力のある狩人であったが……ドンダ=ルウは、それ以上の力であるはずだからな」
アイ=ファの眼差しと甘い香りが、俺の心臓をどんどん圧迫してくる。
だけど俺は懸命に、アイ=ファの言葉に耳をすませた。
「私はその事実を、何より得難く思っている。父を超えるというのは、私の目標でもあったのでな。狩人として生きると決意した私は……ついに、ひとつの目標に達したのだ」
「う、うん……」
「……しかし私には、新たな目的が生まれてしまった。それは、お前を守り抜くことだ」
「ま、守り抜く? いったい、何から?」
「さて、いったい、何からであるのであろうな」
謎めいた言葉を語りながら、アイ=ファはふっと微笑んだ。
「だから私は、それまで狩人として生きると決めた。お前を守る役割を余人に託して、もしもお前を失ってしまったら……私は自らをくびり殺しても晴れない無念を抱えてしまおうからな。私の力はギバを狩る力であると同時に、お前を守る力でもあるのだ」
「う、うん。よくわからないけど……アイ=ファが俺の身を案じてくれていることは、よくわかったよ」
酒気のせいか、俺は考えがまとまらない。
ただ、こんなに優しい眼差しで語るアイ=ファの言葉は、すべて正しいのだと信じることができた。
「何にせよ、俺はアイ=ファの決断を尊重するよ。アイ=ファはアイ=ファの思うままに、生きてくれ。俺は、そういうアイ=ファに心をひかれたんだからさ」
アイ=ファは「うむ」と微笑んだ。
そして三たび、俺の首筋に手を回し――その唇を、俺の額に触れさせたのだった。
「私は、お前を愛している。お前の身は、私が必ず守ってみせよう」
果実酒の効能も相まって、俺は何だか夢でも見ているような心地であった。
しかし、このアイ=ファの温もりは決して夢ではない。狩人として生きると宣言しながら、アイ=ファは全身全霊で俺に思いを伝えてくれたのだった。
初めて口にした果実酒の味も、アイ=ファの言葉も、温もりも、俺は魂を返すその日まで忘れることはないだろう。
そうして俺は、また心の一番奥深くに忘れられない幸福な記憶を刻みつけられて――ファの家で迎える三度目の生誕の日を終えることになったのだった。




