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異世界料理道  作者: EDA
第九十二章 慶祝の黄の月(下)
1582/1687

生誕の日①~苦楽~

2025.1/16 更新分 1/1

 それから2日が経過して、黄の月の24日――この俺、ファの家のアスタの生誕の日である。


 この2日間は、何事もなく過ぎ去った。時にはのんびりと、時には慌ただしく、日常という枠の中で楽しい緩急が見受けられるばかりであった。


 2日前は屋台の休業日で、ルウ家の面々は朝から宴料理の献立の選定で大わらわであったらしい。前日から泊まり込んでいたセルフォマたちも見学して、大いに身になったという話であった。


 いっぽう俺は前日に引き続き、のんびりとした心地で勉強会だ。休業日は俺個人の修練の日と定めており、なおかつレイナ=ルウたちは大忙しであったので、ユン=スドラにマルフィラ=ナハムにレイ=マトゥアにラッツの女衆という少数精鋭を招いての、ささやかながらも濃密なひとときであった。


 その翌日たる昨日からは屋台の商売が再開されて、また城下町に出店である。

 グラフ=ザザから了承の言葉をいただけたため、その日から料理と菓子の量を増やすことに相成った。料理は180食から210食、菓子は200食から260食に増量だ。


 通算4回目の出店となるその日の当番は、ラッツの女衆であった。俺よりも年長で落ち着いている彼女はレイ=マトゥアのようにはしゃぐこともなく、いつも通りの頼もしさで初めての仕事をやりとげてくれた。


 なおかつその日から、俺は彼女を常勤の当番に昇進させることに相成った。

 彼女にはトゥランの商売を開始した時点から常勤と大差ない勤務日数をお願いしていたので、そろそろ正式に昇格させるべきであろうと判断したのである。


 俺がこれまで昇格をためらっていたのは、ふたつの理由からとなる。

 ひとつは、彼女がそれなりに年長者であり、いつ婚儀を挙げて多忙になるか不明であったため。

 もうひとつは、屋台の手伝いを志願する人間が後を絶たなかったので、人手にゆとりがありすぎたためである。


 この近年でもザザおよびサウティの血族を迎え入れたため、人手にはいっそうのゆとりが出てしまった。

 しかし、城下町の商売を始めたことと、ラン家の婚儀の影響で、いささか事情が異なってきたのだ。


 まあ、それに備えてザザやサウティの血族を増員したようなものであるのだから、深刻な人手不足に陥ったわけではない。城下町の商売では2名、ラン家に関してはランの末妹が《西風亭》を手伝う関係から間遠のシフトになるだけで、それほどの影響ではなかったのだ。


 ただし、ラッツの女衆には重責を担わせている。宿場町およびトゥランの商売の取り仕切り役をお願いしたり、城下町の商売の当番をお願いしたりしているのだから、もはや彼女は屈指の功労者であるのだ。マルフィラ=ナハムなどは城下町の当番を免除されていたので、そちらに関しては上をいっているぐらいであった。


 というわけで、彼女もめでたく常勤メンバーである。

 宿場町かトゥランか城下町か、いずれかの業務には必ず参加してもらい、もちろん賃金もアップである。これまでも、責任のある業務を任せる際にはボーナスめいたものを支払っていたが、今後は高額の固定給であった。


「家長はたいそう喜んでいましたし、もちろんわたしも嬉しく思っています。どうか今後とも、よろしくお願いいたします」


 そんな言葉を告げる際も、彼女は落ち着いた笑顔であった。賑やかな家長とは異なり、本当に沈着な気質であるのだ。

 ただ沈着といっても、感情表現が乏しいわけではない。レイ=マトゥアのようにはしゃいだり、レイナ=ルウのように強烈な熱情をみなぎらせることがないというだけで、いつも温かな空気を振りまいているのだ。もっとも印象が似通っているのは、もしかしたらアマ・ミン=ルティムであるかもしれなかった。


「トゥランや城下町の仕事を任せていただけるのは誇らしい限りであるのですが、そのぶん宿場町で働く機会は減ってしまうでしょう? ですから、毎日働けることが嬉しくてなりません」


 柔和な微笑みをたたえながら、彼女はそんな風に言ってくれた。

 そんな言葉にも、彼女の誠実な人柄や確かな向上心がにじんでいるように感じられる。これまで昇進をためらっていたのが、悔まれるほどであった。


 そんな彼女の尽力もあって、増量した料理と菓子はすべて売り切ることがかなった。

 城下町における集客は、落ち着くどころか増えるいっぽうであったのだ。俺たちは希望通りの刻限のぎりぎりまで屋台を開くことがかなったが、それでも何名かのお客は品切れでお断りすることになってしまったのだった。


 と――そんな感じでこの2日間も、平和ながらも賑やかに過ぎ去っていった。

 そうして迎えた、今日である。

 この俺、ファの家のアスタが森辺にやってきてから、ついに丸三年が経過してしまったわけであった。


 もちろん俺が生まれたのは、別の日となる。故郷の暦と照らし合わせれば、その日取りを計算することもできなくはなかったが、俺はそのような手間をかける甲斐を見いだせなかった。だから、森辺にやってきた日を生誕の日に定めさせてもらったのだ。


 3年間――それは決して、短い時間ではないだろう。

 中学校や高校が修了する期間と考えれば、そんな感慨もひとしおだ。また、17歳の高校2年生が20歳の成人を迎えるのだと考えても、それは同様であろう。


 もちろん俺は何かを卒業するわけではないし、成人式を迎えるわけでもない。森辺においては15歳で成人という扱いであったし、宿場町や城下町でも大差はないように感じられた。


 ただやっぱり、20歳という区切りの年齢であるためか、感慨は尽きない。

 俺が出会った頃、すでに20歳であったのは――たしか、ヴィナ・ルウ=リリンだ。あの頃の大人っぽくて色っぽいヴィナ・ルウ=リリンに追いついたのかと思うと、いっそ信じられないほどであった。


 それはまた、出会った頃のダルム=ルウよりも年長であるという事実を示している。たしかジィ=マァムやディガ=スンあたりも、ダルム=ルウと同年代であったはずだ。今の自分があの頃の彼らよりも年長であるなどとは、なかなかに想像を絶していた。


 しかしまあ、そんな比較に意味はないのだろう。

 同い年であるアイ=ファやラウ=レイやアマ・ミン=ルティムなどを引っ張り出すのも、同様である。俺は俺なりに、年齢に相応しい自分を確立しなければならなかった。


(年下でも立派な人は、山のようにいるからな。俺も精一杯、頑張ろう)


 そんな気持ちを新たにして、俺は生誕の日に臨むことになった。

 しかしまた、生誕の日で特別であるのは、祝いの晩餐のみである。それは俺の故郷においても、同様であるはずだ。20歳にもなって朝から誕生日で浮かれる人間など、そうそういないはずであった。


 よってその日も、俺はつつがなく日常を過ごすことになった。

 アイ=ファとともに寝室で目覚めて、水場で洗い物をして、日に日に元気さを増していくユーミ=ランの姿に心を和ませつつ、ラントの川で身を清めて、薪と香草の採取を終えたら、商売の下ごしらえだ。


 トゥランの商売は、昨日からルウ家が受け持つシフトになっている。サトゥラス伯爵家の婚儀の日には肩代わりする予定であったが、今日のところは平穏なものだ。明日にはまた城下町の商売であったが、その下ごしらえをお願いするローテーションにもぬかりはないので、すでに平和な日常の枠内に収まったような感覚であった。


「アスタ、ひとつご提案があるのですが」


 と、商売前の下ごしらえのさなかに声をかけてきたのは、ユン=スドラであった。


「黄の月いっぱいで、城下町の当番はおおよそ二巡しますよね? ラッツの彼女だけはあぶれてしまいますが、彼女であれば心配はないでしょう。ですから、明日から黄の月の終わりまで様子を見ていただいて……それで問題がなければ、わたしたちに城下町の商売をおまかせくださいませんか?」


 そのように語るユン=スドラは、ずいぶん真剣な眼差しになっていた。


「城下町の商売をまかせてほしいっていうのは、俺ぬきの顔ぶれで現場に出向きたいっていうことかな? それに関しては、確かに黄の月いっぱいの様子を見てから判断するっていう方針だったけど……」


「はい。せかすようで、申し訳ありません。もう日が迫っていますので、アスタのお考えを確認しておきたかったのです」


「俺の考えは、何も変わってないけどさ。でも、ユン=スドラはどうしてそんなに意気込んでいるのかな?」


「それは……」と、ユン=スドラは言いよどんでしまう。

 すると、おひさまのように笑うレイ=マトゥアが横から首をのばしてきた。


「それは、緑の月になったら《銀の壺》や建築屋の方々がやってくるからです! それらの方々はアスタと懇意にしているのですから、アスタが宿場町の屋台にいなかったら残念がると思います!」


 俺は、きょとんとしてしまった。

 いっぽうユン=スドラは、ほんのり頬を赤らめている。


「わたしなどが差し出口をはさんで、本当に申し訳ありません。ただ、みなさんが残念がる姿を目にするのは忍びないですし……」


「それに何より、アスタだって残念でしょうしね! どちらの方々も、ごく限られた期間しかジェノスに滞在しないのですから!」


 俺が周囲を見回すと、ラッツの女衆もやわらかな笑顔でうなずいている。最後の1名であるスフィラ=ザザは不在であったが、残る3名で意見は統一されているようであった。


「まいったなあ。みんなそんなに、俺のことを気にしてくれていたんだね」


「当たり前じゃないですか! まあ、言いだしっぺはユン=スドラですけれど!」


「よ、余計なことは言わなくていいです」と、ユン=スドラはいっそう頬を赤らめる。その優しい心づかいに、俺は胸がいっぱいになってしまった。


「みんな、ありがとう。もちろん俺は、そんな個人的な事情で妥協したりはしないけど……みんなだったら安心してまかせられるんじゃないかって、ひそかに期待していたよ」


「はい! その期待に応えられるように、次の当番を頑張ります! アスタはそれを見届けて、公正に判断してください!」


 彼女たちもまた、俺に妥協を求めているわけではないのだ。それが感じ取れるからこそ、俺の胸も満たされてしまうわけであった。


(森辺の民っていうのは、本当に強くて優しいよな)


 俺がそんな感慨に見舞われたのは、やはり生誕の日であるためなのだろうか。俺は自分が森辺の民の一員になれた喜びを、朝から何回も噛みしめていたのだった。


「それじゃあ俺も、心して見届けさせていただくよ。……ただひとつ補足させてもらうと、《銀の壺》がやってくる日取りは確定していないから、そのつもりでね」


「あれ? そうでしたっけ? 《銀の壺》の方々は雨季の時期を避けるだろうという話でしたので、黄の月が終わったらすぐにいらっしゃるのかと思っていました!」


《銀の壺》は一年に及ぶ行商が一段落すると、半年間ほど故郷で身を休めるというサイクルで活動している。その計算でいくと、今回はちょうど朱の月や黄の月にぶちあたるスケジュールになるので、雨季を避けるために旅程を組みなおすだろうという話であったのだ。であれば、雨季がもつれこむ恐れのない緑の月を狙って参じる可能性が、もっとも高いわけであった。


「ただね、そうやって出立の日時をひと月やふた月もずらすと、生活が苦しくなっちゃうだろう? その期間は手近な場所で行商をして稼ぎを得るから、そちらの仕事の都合次第で出立の日時がいっそうずれこむかもしれない。……って、シュミラル=リリンが言ってたんだよね」


「そうなんですかー! せっかくだったら、《建築屋》の方々と一緒にお迎えしたいところですよねー!」


「うん。さすがに、青の月までには来てくれるんじゃないかな。森辺に切り開かれた街道のおかげで旅程はずいぶん楽になったっていう話だし、そんな何ヶ月も遅れないように思うよ。……って、これもシュミラル=リリンの受け売りだけどね」


 それに、《銀の壺》の面々も建築屋の人々との再会を望んでいるのではないか――シュミラル=リリンはそんな風にも言っていたが、あくまで内緒話の範疇であった。神を移したシュミラル=リリンはともかく、《銀の壺》と建築屋は敵対国の関係にあるのだから、あまりおおっぴらに仲良くすることは許されないのだ。


「何にせよ、楽しみなところですね。建築屋の方々が来訪することは、もう決定されているのでしょう?」


 ラッツの女衆の問いかけに、俺は「ええ」と笑顔を返す。


「そちらはジャガルの行商人が代理人として、《南の大樹亭》に長期滞在の予約をお願いしていますからね。緑の月の1日で、確定です」


 それから2ヶ月、青の月の終わりまで、建築屋の面々はジェノスに滞在してくれるのだ。言うまでもなく、俺の胸にも期待感がわきたっていた。


 そしてその前に、まずはサトゥラス伯爵家の婚儀――そして本日は、俺の生誕の日である。楽しい緑の月の前に、黄の月もまだまだ楽しい盛りであったのだった。


 そんな具合に朝から温かい気持ちを抱きつつ、俺たちは下ごしらえを完了させた。

 そうしてかまど小屋を出ると、すでにアイ=ファが狩人の衣を纏って出立の準備を整えている。今日は早めに森に出て罠を仕掛けた場所だけを巡り、午後の時間は祝いの晩餐の調理に費やす予定であるのだ。そんなアイ=ファの姿が、また俺の胸を幸福感で満たしてくれた。


「そちらも、出立の刻限か。くれぐれも、油断なきようにな」


「うん、アイ=ファもな。ブレイブもドゥルムアも、気をつけて」


 むやみに鳴かない猟犬たちは、無言のままに尻尾を振っている。そしてアイ=ファも人前でやわらかな表情をこぼすことなく、凛然たる面持ちで立ち去っていった。


 留守番はジルベとラム、3頭の子犬たち、そしてサチとラピである。最後に玄関口を除いてみると、日増しに大きくなっていく子犬たちがキャンキャンと吠えながら見送ってくれた。


 俺はギルルの手綱を取って、いざ出発である。

 城下町の商売は休業日、トゥランの商売はルウ家の当番であるので、俺たちが為すのは宿場町の屋台のみだ。城下町の商売はちょうどトゥランの商売をファの家が受け持つサイクルの初日から始められたので、俺たちが宿場町の屋台に専念するというのは実に8日ぶりのことであった。


(なんだか、すごく気楽に思えちゃうな。気をぬかないように、心を引き締めよう)


 よりにもよって生誕の日に大失敗などしてしまったら、毎年思い出して頭を抱え込む恐れもあることだろう。今日はとりわけ、楽しい思い出だけで一日を満たしたいところであった。


 まずはルウの集落に向かい、そちらの当番である面々と合流する。トゥランの商売は眷族の女衆に任せて、屋台の取り仕切り役はララ=ルウだ。リミ=ルウも屋台の当番に組み込まれており、居残り組の取り仕切り役はレイナ=ルウであった。


「明日の下ごしらえが終わったら、すぐさま宴料理の段取りの確認だってさ。アスタのおかげで、レイナ姉はまた火がついちゃったみたいだね」


 顔をあわせるなり、ララ=ルウはそんな風に言っていた。どうやらレイナ=ルウは3日前の勉強会で開発したマ・ティノやマトラの新たな使い道というものに感銘を受けて、それを婚儀の祝宴で供したいと奮起しているようであった。


「まさか、レイナ=ルウがああまで奮起するとは思わなかったよ。まあ、レイナ=ルウだったらきっちり仕上げて、婚儀に間に合わせるんじゃないかな」


「苦労するのは、それを手伝わされるあたしたちだね。ま、献立に関してはレイナ姉に任せるしかないけどさ」


 ララ=ルウはべつだん深刻ぶることなく、肩をすくめた。レイナ=ルウの熱情に引っ張り回されるのは今に始まったことではないので、手慣れたものなのだろう。俺としても、心強い限りであった。


 そうしてルウ家の面々と合流して宿場町に下りたならば、《キミュスの尻尾亭》で屋台の借り受けである。受付台で待ち受けていたミラノ=マスは、不愛想な眼差しでじろりとにらみつけてきた。


「今日はお前さんも、こっちの組か。……《西風亭》のはねっかえりは、元気にやっておるのか?」


「はい。俺は毎日のように顔をあわせていますけれど、すこぶる元気なようですよ。初日なんかはずいぶん遠慮している様子でしたけれど、もうすっかりこれまで通りのユーミ=ランです」


「ふん。森辺の面々も苦労しそうなところだな。宿場町の民がまるごと愛想を尽かされないように祈るばかりだ」


「あはは。ユーミ=ランに限ってそんな恐れはありませんし、今さら宿場町の方々に愛想を尽かす理由はありません。現にミラノ=マスだって、こんなに尊敬すべきお人柄なのですからね」


「やかましいわ」と苦笑して、ミラノ=マスは虫でも払うように手を振った。

 ミラノ=マスに追い払われた俺たちは、その足で裏の倉庫へと向かう。たいていはレビたちがそこで待機しているので、受付に顔を見せるのはおおよそ挨拶のためであるのだ。本日も、レビとラーズは倉庫の前で歓談していた。


「ああ、来たな。それじゃあ、出発だ」


 レビの手で開かれた倉庫からありったけの屋台を引っ張り出して、いざ露店区域に進軍である。

 何もかもがいつも通りの光景であるが、俺の胸は深く満たされている。今日のような特別な日には、平和な日常がいっそう輝かしく感じられてならなかった。


「……レビたちが屋台を始めて、もう2年ぐらいは経つんだっけ?」


 道中で俺がそのように呼びかけると、レビは不思議そうに「んー?」と小首を傾げた。


「そんなにはっきり覚えちゃいないけど、それぐらいは経つんじゃないかな。俺たちが屋台の商売を始めたのは、あれだよ。ルティムの家長さんの子が生まれた前後ぐらいだな」


「ああ、それじゃあ白の月の終わりぐらいだね。……レビにとっては、それが印象的な出来事だったのかな?」


「そりゃ、まあな。家長さんと特別なつきあいがあったわけじゃないけど、森辺の赤ん坊が聖堂で洗礼を受けるってのは、やっぱりそれなりの大ごとだろうって思ったからよ」


 ガズラン=ルティムとアマ・ミン=ルティムの子であるゼディアス=ルティムは、すべての森辺の民が西方神の洗礼を受けたのち、初めて森辺に生誕した赤子だったのである。そうして彼も大事に守られながら宿場町の聖堂にまで連れていかれて、同じ洗礼を受けることになったのだった。


「それなら、あと三ヶ月ぐらいで丸二年っていうことだね。……その期間、色々あったよね」


「なんだよ、いきなり? これから仕事だってのに、思い出話にふけろうってのか?」


「あはは。今日は俺の生誕の日だから、なんでも感慨深く思えちゃうんだよね」


 俺の返答に、レビは「へえ」と笑った。


「俺たちには、まったくピンとこないけどな。ひとりで太陽神の滅落と再生を迎える気分だってんなら、なかなか難儀な話だよな」


「うん。浮かれないように気を引き締めるのが、なかなかの苦労だよ」


「仕事が始まれば、嫌でも引き締まるさ。……アスタは、そういうやつだからな」


 そう言って、レビはまた笑ってくれた。

 彼と出会ったのはユーミ=ランと同時期であったが、親交が深まったのは最初の復活祭の前後であろう。森辺の祝宴にお招きする際にようやく名前を知って、彼が《キミュスの尻尾亭》で働き始めたことによっていっそう親交が深まり――そして、今に至るのである。そうして2年近くも一緒に屋台の商売に励んでいるのだから、俺にとっては宿場町でも指折りで大切な相手であった。


(ラーズが失踪したときには、どうなることかと思ったけど……それがきっかけで、レビたちも屋台を始めることになったんだもんな。ラーズを助けてくれたザッシュマには、本当に感謝だ)


 そのザッシュマはカミュア=ヨシュとともにジェノスを出て、もう3日になる。今頃は、別の領地で荒っぽい仕事に励んでいるさなかであろうか。

 雨季の終わりにジェノスを出たポワディーノ王子や使節団の一行は、まだ帰路を辿っているさなかであるはずだ。いっぽうアルヴァッハやダカルマス殿下たちは、とっくに故郷に帰りついている頃であり――なんだか、何もかもが懐かしく感じられてしまった。


(城下町の商売も一段落して、トゥランの商売もルウ家に引き継いでもらったから、俺もようやくひと息つけたってところなのかな)


 そこに生誕の日が到来して、やたらと情動を揺さぶられてしまうのだろうか。

 何にせよ、思い出にひたる楽しみは夜まで保留して、今は仕事に集中しなければならなかった。


「それじゃあ、今日もよろしくお願いします」


 露店区域の所定のスペースに到着したならば、そんな号令とともに屋台の準備を開始する。

 屋台の責任者は俺、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、ラッツの女衆、青空食堂の責任者はレイ=マトゥアだ。やはり城下町とトゥランの商売がないと、オーバースペックなぐらいに人材が潤っていた。


 それでも決して気を抜くことなく、俺たちは準備を進めていく。俺の担当は日替わり献立の『ギバの揚げ焼き』で、相方はクルア=スンだ。クルア=スンは本日も過不足なく働いてくれていたが、ひさびさに玉虫色のヴェールで目もとを覆っていた。


(ってことは、ちょっと調子が悪いんだろうな)


 星見の力に目覚めてしまったクルア=スンはアリシュナのもとで制御のすべを学んでいるが、今でも調子を崩すと勝手に他者の星が見えてしまうそうであるのだ。それを緩和させるのに、きらきらと輝く織物で視界にフィルターをかけるのが有効であるのだという話であり――《ギャムレイの一座》に入団したチル=リムなどは、常日頃から同じ細工で星見の力を制御していたのだった。


 ただそういう日でも、クルア=スンがつらそうな様子を見せることはない。調子を崩すというよりは、バイオリズムの如何によって左右されるのだろう。俺にはまったく理解が及ばないが、占星師というのは月の満ち欠けにも強い影響を受けるのだと聞き及んでいた。


(それでも本人が苦にしていないなら、何よりだ)


 星読みというのはシムにおいてごく一般的な術式であるが、星見というのは魔術の類いであるらしい。それはもちろん他者の星――他者の運命が勝手に見えてしまうなどというのは、決して普通の話ではないのだろう。俺が知る限り、そんな真似ができるのはアリシュナとクルア=スンと《ギャムレイの一座》の占星師ライラノス、およびその弟子となったチル=リムの4名のみであった。


 四大王国において魔術は何よりの禁忌であるし、そもそも現在は大地の魔力が枯渇しているという。大地に再び魔力が満ちたとき、大神アムスホルンが目覚めて魔術の文明が復興する――フェルメスなどは、そのように語っていたのである。


 よって、クルア=スンたちは先祖返りか何かであるのだろう。

 かつてはすべての人間が、魔術の文明に身を置いていたのだ。それで大地の魔力が枯渇したとき、一部の人間が聖域にこもり、残る人間が石と鋼の四大王国を築いた――それが、俺の知る建国の物語であった。


 石と鋼の文明に身を置いている限り、人間は魔術を行使することができないらしい。

 それでも大地のわずかな魔力に感応して、古きの力に目覚めてしまった先祖返り――クルア=スンたちはそういう身の上なのだろうと、俺はそんな風に解釈していた。


(占星師のアリシュナたちはともかく、クルア=スンやチル=リムは好きでそんな力に目覚めたわけじゃないんだからな。どうか思い悩まずに、楽しい日々を送ってほしいもんだ)


 そんな想念を胸の片隅に抱えつつ、俺は屋台の商売をスタートさせた。

 とたんに、待ち受けていた人々が屋台に殺到する。城下町では望むべくもない、粗野なる熱気だ。俺の故郷に雰囲気が近いのは城下町であるが、いまや俺にとって慣れ親しんでいるのはこの猛々しい活力であった。


 そうして朝一番のラッシュが終了すると、多少ばかりは息をつくことができる。

 プラティカたちがやってきたのは、そんなタイミングであった。


「ああ、どうも。みなさん、お疲れ様です」


「はい。先日、お世話、かけました」


 彼女たちは3日前から森辺の見学を再開させたが、いきなりペースが乱れてしまったのだ。本来であれば宿泊した翌朝は屋台の下ごしらえを見物したのちに城下町へと戻って身を清めて、学んだことを帳面に整理したのち、また屋台に向かうというサイクルであったが、一昨日は婚儀の祝宴の献立を考案するレイナ=ルウの奮闘を夕刻ぐらいまで見守って、日没前に城下町へと戻っていったのだった。


 そうして昨日は一日休みを取って、今日からまた見学の再開だ。

 本日は、またルウ家のかまど小屋でレイナ=ルウの奮闘を見守るらしい。屋台の料理を食したのちは、こちらの終業を待たずに森辺へと向かう手はずになっていた。


「今日の日替わり献立は、『ギバの揚げ焼き』です。プラティカやニコラは食べ飽きているかもしれませんが、如何です?」


「屋台の料理、食べ飽きる、ありません。……そして、その前、ニコラ、話、あります」


 プラティカが身体を斜めにすると、仏頂面をしたニコラが進み出てきた。


「……ポルアース様から、ご伝言を承りました。お時間は取らせませんので、余人の耳がないところで少々よろしいでしょうか?」


「はい。では、裏のほうにどうぞ」


 普段は侍女のシェイラがその役目を授かっているが、屋台におもむくニコラが肩代わりすることになったのだろう。屋台の調理はクルア=スンに任せて、俺は屋台の裏でニコラと向かい合うことになった。


「どうしました? サトゥラス伯爵家の婚儀にまつわるお話でしたら、ルウ家の方々もお呼びしましょうか?」


「いえ。そちらとは、無関係です。……先日の、アスタ様のお申し出に対するご返答をお伝えいたします」


 俺からの申し出――それは、ガーデルに見舞いの料理を差し入れたいという一件であった。昨日はバージも姿を現さなかったので、俺は『ギバ・カレー』をアリシュナに届けてくれているシェイラに相談を持ち掛けていたのだ。


「ああ、そちらのお話でしたか。誰にどう話を通せばいいのかわからなかったので、シェイラにご相談をさせていただいたのですが……如何でしたか?」


「はい。結論から申しますと、しばらく時期を見ていただきたいとのことです」


「時期を見る……今はまだ、差し控えるべきであるということですね?」


「はい。ガーデル様は、屋台の料理も口にされなかったそうです。自分にアスタ様の料理を口にする資格はない――と、そのように仰っていたそうです」


 俺は、いささかならず打ちのめされることになった。


「そ、それはあまりに大仰な物言いです。資格がないなんて、そんなことは――」


「はい。ガーデル様はお気が弱って、正常な判断力をなくしているのだろうというお話でした。ですから、それが落ち着くまで時期を見ていただきたいとのことです」


 そんな風に言いながら、ニコラは仏頂面のままもじもじとした。


「わたしは伝言のお役目を果たしているだけの身ですので、何も差し出口をきく立場にありませんが……どうか、お気を落とさないでください。病床にある人間は、つい弱音を吐いてしまうものであるのです」


「……はい。ニコラにまでご心配をかけてしまって、申し訳ありません。俺なんかを心配してくださって、ありがとうございます」


「べ、べつだん謝礼や謝罪には及びません」


 と、ニコラはいっそうもじもじしてしまう。

 ガーデルに拒絶された悲しみが、その微笑ましさで多少なりとも慰められるような心地であった。


 そうして俺は屋台に戻り、ニコラは料理を購入していたプラティカたちと合流する。

 その後も後続のお客を相手にして、そちらの仕事も一段落すると、クルア=スンがひそめた声で呼びかけてきた。


「……申し訳ありません。聞き耳を立てていたわけではないのですが、ニコラとのやりとりが耳に入ってしまいました。ガーデルは、そうまでふさぎこんでしまっているのですね」


「ああ、うん。そうみたいだね。これは森辺で周知するべき話だろうから、何も謝る必要はないよ」


「はい……ですが、わたしは後悔しています。アリシュナにあれほどお世話になりながら、わたしはガーデルの運命に干渉してしまいました」


 ガーデルに破滅の相が浮かんでいると見て取ったのは、クルア=スンであったのだ。

 俺は「そんなことないよ」と、精一杯の思いで笑ってみせた。


「他者の運命を勝手に読み解くっていうのは、占星師の禁忌なんだろうけどさ。そういうアリシュナだってちょくちょく口をすべらせてるんだから、クルア=スンも気にすることはないさ」


「ですが、言葉は人を縛ります。わたしの迂闊な言葉は、むしろガーデルよりもアスタたちを縛ってしまったのではないでしょうか?」


 確かに俺たちは、ガーデルを破滅から救いたいと願っている。

 そして、ガーデルを救うのは赤き猫の星――アイ=ファなのではないかとされていたのだった。


「いや。クルア=スンの言葉がなくっても、俺たちはガーデルを放っておけなかったよ。大罪人のシルエルを仕留めたガーデルは、俺たちにとって大恩人なんだからね。ガーデルの運命がその一件をきっかけにして乱れてしまったんなら、俺たちは全力で支えになりたいって思うよ」


「そう……ですね」と、クルア=スンはうつむいた。

 その神秘的な銀灰色の瞳は玉虫色のヴェールに隠されて、どんな輝きを宿しているのかもわからない。ただクルア=スンの横顔は、それこそ託宣を下す巫女のように静謐な表情を浮かべていた。


(……やっぱり楽しい思い出だけで一日を満たしたいなんて、虫のいい話だったな)


 楽しいだけの人生などは、ありえない。さまざまな苦労を乗り越えるからこそ、楽しい時間が光り輝くのだ。今のこの切ない気分もいつか幸福な結果に結びつけられるように、俺は力を尽くすつもりであった。

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世界に魔力が満ちたらアムスホルンが目覚めるのか、アムスホルンか目覚めたら世界に魔力が満ちるのか? 前者だと、大陸に魔力の源泉たる何かしらが封印されててそれが時限的に発動するのか、惑星の外から魔力を伴っ…
アスタの人生は激動多いですから、振り返ると感懐深いになりますね。 カーデルさんの思考が理解できながら、やはり周りの戸惑いと焦りもよく分かると思います。こういう場合どう心を解くべきでしょうね。
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