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異世界料理道  作者: EDA
第九十一章 慶祝の黄の月(上)
1564/1700

新たな商売①~出陣~

2024.12/2 更新分 2/2

・今回の更新は全7話です。

 2ヶ月にわたる雨季が正式に明けたとされたのは、黄の月の12日のことであった。

 奇しくも、ジェノスに滞在していたポワディーノ王子と使節団の面々が出立した日の、翌日という日取りである。雨季とともにやってきたポワディーノ王子は、雨季の終わりとともに故郷へと帰っていったわけであった。


 まさしく本年の雨季は、最初から最後まで東の王都にまつわる騒ぎで塗り潰されていたということになるだろう。

 ただし、物騒な話は最初の10日ほどで終結している。あとはポワディーノ王子と親交を深めながら使節団の到着を待ち受けて、使節団が到着したのちは本格的に交易の話が進められて、そうして気づけば2ヶ月が過ぎたわけである。交易に関しても多大な苦労がつきまとったのは事実であるが、建設的な未来のための苦労であれば、何も悲嘆する理由はなかった。


 そうして時を同じくして、ジェノスに滞在していた他なる客人たち――すなわち、バナーム侯爵家のアラウトおよびダーム公爵家のティカトラスも、ひとまずジェノスを離れていった。彼らは東の王都との商談を目的に滞在していたので、これ以上はジェノスに居残る理由がなかったのだ。


 とはいえ、アラウトは半月と空けずにジェノスにやってくるのが通例になっていたし、ティカトラスもまた西の王都に帰還したわけではない。ティカトラスはこの近隣の領地で趣味と実益を兼ねた漫遊を楽しみつつ、使節団の再来に合わせてジェノスに舞い戻ってくると宣言していた。


「何せわたしは食材のみならず、宝石や銀細工や織物や書物なども所望している身だからね! それに加えて、食材に関しては他の方々を優先するようにという立場を取っていたから、まだまだ話を詰める必要があるのだよ!」


 送別の祝宴の場において、ティカトラスはそのように言い放っていたものであった。

 まあ何にせよ、ひとまずはティカトラスの一行もジェノスを出立していったのだ。東の王都の料理人たるセルフォマに通訳のカーツァという2名を残して、すべての客人たちはそれぞれ旅立っていったのだった。


 さらに、西の王都の外交官フェルメスの補佐役を務めるオーグも、同じ時期に出立していた。

 そちらはジェノスを見舞った騒動を西の王に報告すると同時に、外交官としての進退をうかがうのだ。外交官の通常の任期はとっくに過ぎているのに西の王都から何の指令も下されないために、また自ら足を運ぶことになったのだった。


 外交官が交代されるというのは、俺にとって心残りな話である。フェルメスとはまだまだ絆を深める余地が残されているように思えてならないし、厳格さと実直さの権化であるオーグもまた、俺にとっては信頼すべき相手であるのだ。なおかつ、西の王都において悪い意味で注目を集めていた俺の存在を庇いだてしてくれたのはフェルメスに他ならなかったので、次の外交官はどういった人物が選ばれるのかという不安もなくはなかった。


(まあ、今からそんな心配をしたって始まらないよな。西の王都までトトス車で往復するのにふた月はかかるんだから、外交官が交代されるとしても到着するのは東の王都の使節団の第二陣より後ってことだ)


 そして、どのような事態に見舞われようとも、俺としては誰に恥じることもない生活に身を置くしかない。俺の生まれ素性にきちんとした道理が立たないことはもうどうしようもないのだから、俺は過去ではなく現在の振る舞いでもって身の潔白を示すしかないはずであった。


 かくして、ジェノスを出ていった人々に思いを馳せながら、俺たちは本来の日常に舞い戻ったわけであるが――すでに中旬に差し掛かっている黄の月だけでも、実にさまざまなイベントが控えていた。


 まず何より重要であるのは、2件の婚儀についてであろう。

 この黄の月には、ユーミとジョウ=ラン、リーハイムとセランジュの婚儀が予定されているのである。


 そして森辺の民としては、城下町で屋台を出す話を計画していたし――俺個人の話で言えば、生誕の日が待ち受けている。俺は森辺の集落に住みついてから丸3年が経過して、ついに20歳になってしまうのだった。


 17歳の高校2年生であった俺が、20歳になってしまうのである。

 それは俺の故郷においても、けっこうな歳月であるはずだし――俺は第二の故郷である森辺において、いっそう濃密な時間を過ごしたつもりであった。


 しかしまた、感傷にひたるのは生誕の日の当日だけで十分であろう。

 まずは、目の前のイベントにひとつずつ注力していくしかない。俺はこれまでも、そのようにして3年弱を過ごしてきたのだ。このさき何歳になろうとも、俺は同じ調子でこの新たな人生を駆け抜けるつもりであった。


                 ◇


 そうして数々の下準備に追われながら、数日ばかりの日が過ぎ去って――黄の月の17日である。

 ユーミとジョウ=ラン、リーハイムとセランジュの婚儀の日取りも、ついに決定された。そして本日はそれに先立ってやってきた、城下町で屋台を出す初日であった。


「よいか? くれぐれも、ひとりで行動するのではないぞ? 城下町がどれだけ安全と言われていようとも、先日の騒ぎでは東の賊に侵入されることになったのだからな」


 俺が出立の準備を整えていると、アイ=ファが真剣きわまりない面持ちでそのように告げてきた。

 今日という日を迎えるまでに、何度同じような言葉を耳にしたかもわからない。しかしすべては俺の身を案じてのことなのだから、もちろん俺はアイ=ファの優しさを嬉しく思うばかりであった。


「うん、わかってるよ。こんなに頼もしい護衛役がいるんだから、何も心配はいらないさ」


 俺がそのように答えると、足もとのジルベがふさふさの尻尾を振りたてながら「わふっ」と力強い声をあげた。アイ=ファがドンダ=ルウを通じてジェノスの貴族と交渉したところ、危急の事態が生じない限りは決して荷車の外に出さないという約定のもとに、ジルベを同行させる許可が得られたのだった。


「……ジルベよ、お前の力を信じているぞ」


 アイ=ファが膝を折り、真剣な面持ちでたてがみを撫でると、ジルベもまた張り切った面持ちで「ばうっ」と答えた。


 休息の期間であったアイ=ファは雨季が明けると同時に狩人の仕事を再開させていたし、城下町の商売はこれから永続的に続けられる予定であったので、自らが護衛役を担うことは断念せざるを得なかったのだ。


 もちろん城下町というのはこのジェノスにおいてもっとも安全な区域であるはずであるし、東の賊が侵入したのはきわめてイレギュラーな例であろう。少なくとも、無法者が自由に闊歩する宿場町よりはよほど安全であるはずであった。


 なおかつ森辺の民はそれなりの時間をかけてジェノスの貴族たちと絆を深めてきたので、もはや悪い貴族にちょっかいをかけられるという恐れを抱く必要もないことだろう。城下町の祝宴で顔をあわせるジェノスの貴族というのはみんな森辺の民に対して友好的であるし、かつてのトゥラン伯爵家のように悪心をもって近づいてくる貴族はいないはずだとポルアースも保証してくれた。


 しかしそれでも心配せずにいられないのが、アイ=ファなのである。

 そしてその根底には、俺がかつてリフレイアにさらわれたという忌まわしき記憶が存在する。俺もまた、城下町の治安を信用しながら、決して油断するつもりはなかった。


「それじゃあ、出発するよ。……ユン=スドラ、レイ=マトゥアにもよろしく伝えておいてね」


 俺がかまど小屋の内に呼びかけると、ユン=スドラは朗らかな笑顔の奥に熱情をみなぎらせながら「はい!」と力強く応じてくれた。本日は、ユン=スドラとレイ=マトゥアにそれぞれ宿場町とトゥランの商売の取り仕切りをお願いすることになったのだ。今ごろフォウの集落では、レイ=マトゥアが下ごしらえの指揮を取ってくれているはずであった。


 ちなみに、3つの組で出立の時間はそれぞれ異なっている。もっとも移動に時間がかかる城下町の組が最初に出立して、その次が宿場町の組、そして最後が中天から商売を始めるトゥランの組だ。城下町に向かう俺は、宿場町を担当するユン=スドラたちよりも半刻ほど早い出立であった。


 そうして本日、俺の相方に選出されたのは――紆余曲折を経て、ザザの末妹たるスフィラ=ザザである。

 すでに町用のショールとヴェールを纏ったスフィラ=ザザは、引き締まった面持ちで一礼してきた。


「本日のわたしは、アスタの助手という立場になります。どうか無用の遠慮なく、指示を下してください」


「はい。どうぞよろしくお願いします」


 すると、スフィラ=ザザをファの家まで送り届けてくれたトゥール=ディンも、もじもじしながら頭を下げてきた。


「わ、わたしばかりが楽をしてしまって、どうも申し訳ありません。くれぐれも、よろしくお願いいたします」


「トゥール=ディンは、十分に重責を果たしたじゃないか。胸を張って、吉報を待っていておくれよ」


 俺が笑いかけると、トゥール=ディンも「はい」と口もとをほころばせた。

 紆余曲折の最たるは、トゥール=ディンの菓子に関してである。何せトゥール=ディンはかつての試食会でジェノスで一番の菓子職人と認められた身であるため、城下町で屋台を出すことを熱望されていたのだ。


 ただそれと同時に、今回の一件には通行証の問題がつきまとった。

 このたび森辺の民は、ジェノスの貴族から正式に認可を受けて、城下町で屋台を出すのである。それはこれまでの実績を認められてのことであり、つまりは城下町で商売をしている他の行商人たちとまったく同じ立場であったのだった。


 そうなると、通行証の発行には人数制限というものが生じる。

 のべつまくなしに通行証を発行してしまっては、それこそジェノスの威信に関わるのだ。森辺の民は貴族に優遇されているのではなく、他の行商人と対等な立場であると示すために、そこは公平に取り扱ってもらわなくてはならなかった。


 そうして通行証の人数制限に関しては、三族長と貴族の間で入念に話が詰められて――その末に、通行証の発行は11名までと定められた。

 10名はかまど番、1名は護衛役である。ジルベはその人数に含まれず、さしあたっての護衛役に任命されたのは世慣れているバルシャであった。


 あとは10名のかまど番が、交代制で屋台の商売に励むことになる。

 そうなると、ルウとディンとファで3台の屋台を出すのはいささか難しいのではないかという話に落ち着いたのだった。


「まず大前提として、いきなり3台もの屋台を出すのは性急であるかもしれないですからね。いずれ商売が軌道にのったら、3台目の出店と人員の増員を考えてみては如何でしょう?」


 ポルアースがそのように提案して、三族長が了承した次第である。

 そこで、トゥール=ディンの菓子は委託販売という形を取ることになった。ルウとファの屋台でそれぞれ料理を売るかたわらで、作り置きの菓子を販売することに決められたのだ。


 もともとトゥール=ディンは城下町で商売することを見越して他なる血族の研修を進めていたわけであるが、下ごしえらの仕事がかさむことに変わりはないし、いずれは自らも屋台を出す事態に発展する可能性もあるのだから、無駄になることはないだろう。それに、トゥール=ディンが城下町の商売のために考案した菓子の数多くは作り置きが可能な品であったため、至極順当に話がまとめられたのだった。


 ただし、たとえ委託販売でもトゥール=ディンの菓子が城下町で売られることに変わりはないので、親筋たるザザの家も他人顔はしていられない。

 そこで、10名の販売員の中にスフィラ=ザザ組み込まれることになったわけであった。


 ちなみに、10名の中でファの屋台を担当するのは半数の5名であり、スフィラ=ザザはこちらのメンバーに組み込まれている。残りは、俺、ユン=スドラ、レイ=マトゥア、ラッツの女衆という顔ぶれで、この内の2名ずつが交代で仕事を受け持つわけであった。


 ゆくゆくは、顔ぶれを入れ替えることになるかもしれない。貴族の側も、上限が11名であれば通行証の再発行に問題はないと請け負ってくれた。


 そうして記念すべき商売の初日は、族長筋の顔を立てるという意味もあって、スフィラ=ザザが選出されることになったわけである。

 トゥール=ディンの菓子の販売も受け持つという大役を負ったスフィラ=ザザは、クールな面持ちを保持しながら静かに気迫をほとばしらせているように思えてならなかった。


「それじゃあ、行ってくるよ。アイ=ファも、くれぐれも気をつけてな」


「うむ。無事な帰りを待っているぞ」


 アイ=ファは最後に余人の目を盗んで俺の手をぎゅっと握りしめてから、荷車の出立を見送ってくれた。

 俺とジルベとスフィラ=ザザの3名連れで荷車を走らせるというのは、なかなかに新鮮な心持ちだ。しかしそんな道行きは四半刻ていどで終わりを告げて、ルウの集落ではレイナ=ルウとレイの女衆とバルシャが待ちかまえていた。


「よう、ジルベ。今日から、よろしくね」


 男性用の装束に革の胸あてと長剣という装備に身を包んだバルシャが、勇ましい笑顔で荷台のジルベに呼びかける。ジルベも元気に、「わふっ」と応じた。


「それじゃあ、御者役はあたしが受け持つよ。そのほうが、周囲を警戒しやすいんでね」


「そうですか。それじゃあ、お願いします」


 俺はバルシャにギルルの手綱を託して、荷台に移動した。

 レイナ=ルウとレイの女衆も乗り込んで、準備は万端である。2台の屋台で売りに出す料理と菓子も積み重ねられて、なかなかの質量であった。


「いよいよですね。何も不備がないように、最後まで気を抜かずに力を尽くしましょう」


 当然のように、レイナ=ルウはスフィラ=ザザを上回るほどの気迫である。レイナ=ルウは城下町で屋台を出すことに、誰より熱意を燃やしていたのだ。


 ただし、宿場町と城下町とトゥランで商売を掛け持ちするというのはなかなかの負担であるので、城下町での商売は隔日で行おうと取り決めていた。宿場町では屋台の貸し出しも10日でいくらと決められていたが、城下町ではどのような日取りでも柔軟に対応できるという話であったのだ。


「それにしても、3日後にはついにユーミって娘っ子が婚儀を挙げるんだろう? ずいぶんせわしない日取りで、大がかりな商売に手をつけたもんだね」


 バルシャが荷車を発進させながらそんな声をあげると、レイナ=ルウは凛々しい面持ちのまま「ええ」と応じた。


「ですが、その後にはリーハイムの婚儀も控えていますし、緑の月に入ったならば《銀の壺》や建築屋の方々がジェノスにやってきます。さらにその後には東の王都の使節団、その次には西の王都の新たな外交官がやってくるのでしょうし……どのような時期でも慌ただしいことに変わりはありませんので、これ以上先延ばしにする意味はないかと思われます」


「ま、レイナ=ルウは雨季が明けるのを、じりじりしながら待ってたんだもんね。べつだん文句をつけてるわけじゃないんで、せいぜい励んでおくれよ」


「はい。護衛役を引き受けてくださったバルシャにも、感謝しています」


「あたしこそ、城下町では無法者あつかいされそうだけどね。衛兵なんぞを呼ばれないように、めいっぱい身をつつしむとするよ」


 そう言って、バルシャは豪放なる笑い声をあげた。

 これまでバルシャが城下町に足を踏み入れたのは、トゥラン伯爵家との対決だの王都の監査官からの召喚だの、剣呑なシチュエーションがほとんどであったのだ。さらに言うならば、トゥラン伯爵家と対決したのちには《赤髭党》の残党として捕縛されたわけであるが――その罪が恩赦されたからこそ、バルシャはこうしてルウの家人として健やかに生きていくことがかなったのだった。


(そういえば、バルシャたちが森辺の家人になるときにも、ジェノスの貴族と面談することになったんだっけ。バルシャもずいぶん、激動の人生を送ってるよな)


 俺がそんな想念にひたっていると、レイナ=ルウが「アスタ」と身を乗り出してきた。


「けっきょくこちらは、わたしとララが交代で取り仕切り役を受け持つことになりました。そちらはしばらく、アスタが毎回城下町まで出向くのですよね?」


「うん。ゆくゆくは俺ぬきで問題ないように回していきたいけど、まずは責任者の俺がしっかり仕事の内容を把握しないといけないからね。少なくとも、黄の月いっぱいは俺が受け持つつもりだよ」


「そうですか。1日置きの商売でどのように客足が変動していくか、きちんと見定められるのはアスタだけとなります。お手数をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします」


「うん、任せておくれよ。まずは今日の商売で、完売できるかどうかだね」


「……今日は料理の数を控えているのですから、これで売れ残るようなことがあれば抜本的な見直しが必要になるでしょうね」


 と、レイナ=ルウはいっそうの気迫をあらわにする。

 料理の分量に関しても、紆余曲折を経ることになったのだ。結論から言うと、本日の俺たちは一食分の三分の一にあたる料理をそれぞれ150食分ずつ準備していた。


 宿場町の屋台においては、半人前で売りに出すのがスタンダードとなっている。こちらは複数の屋台を出しているので、なるべくさまざまな料理を楽しんでほしいという思いから、そんな形に落ち着いたわけである。

 まあ、女性や幼子や老人などであればもっと少量で満足できるだろうし、人並み以上の食欲を持つ人々あれば3種以上の料理を買い求めることになるわけであるが――ともあれ、ジェノスの平均的な成人男性が2種の料理で満足できるぐらいの目安でもって、料理を売りに出しているのだった。


 それに対して城下町で売りに出す料理は、一食分の三分の一という風変わりな分量に定めることになった。

 これも根底にあるのは、さまざまな品を楽しんでほしいという思いである。もっとも理想的であるのはファとルウの料理をひと品ずつ食した後にトゥール=ディンの菓子でしめくくるという形であるが、そうでなくともひと品のサイズは小さめに仕上げたほうが新規のお客も手をのばしやすいのではないかと思案した結果であった。


「貴族の間でも、必ずや使いの人間を出して買いつけると仰る御方が数多く見受けられたようですね。……ただし、それらの言葉がすべて真情からのものであったのか、わたしには見定めることができませんでした」


 スフィラ=ザザが毅然たる面持ちで声をあげると、レイナ=ルウは「そうですね」と深くうなずいた。


「確かに祝宴などでは、わたしたちの屋台に関心を寄せる方々が少なくありませんでした。ただ、貴族が屋台の食事を買いつけるというのは、あまり普通のことではないようですし……貴族には貴族の社交術というものがありますため、すべての言葉をそのままの意味で受け止めるのは不相応であるとララが言っていました」


「はい。それを虚言と切り捨てるのは、きっと早計であるのでしょう。祝宴では気が大きくなって、つい軽はずみな約定を交わしてしまうこともままあるのだと、広い心で受け止めるべきかと思います」


 真剣な面持ちで語らう両名のかたわらで、レイの女衆はゆったりと微笑んでいる。いまやレイナ=ルウの右腕といっても過言でない、優れた腕を持つかまど番だ。そうして俺の視線に気づいたそちらの女衆は、珍しくも俺の耳もとに口を寄せてきた。


「ララ=ルウとスフィラ=ザザが顔をあわせるとこういう問答になるのがお馴染みになってきましたが、今日はレイナ=ルウがその役割を果たしているようですね。わたしなどは貴族との交流もなかなか覚束ないので、頼もしい限りです」


「確かにね。でも、そんな意見が出るっていうことは、君も貴族との交流の大切さと難しさを理解してるってことだからね。ララ=ルウが聞いたら、頼もしく思うんじゃないかな」


「いえ。わたしなどは、かまど仕事を果たすだけで精一杯です」


 そう言って、レイの女衆はにこりと微笑んだ。

 レイの家人も猛々しい人間ばかりではないという、彼女は生きた見本である。レイの家人と言えばラウ=レイとそのご家族が真っ先に思い浮かぶ俺にしてみれば、大きく印象を一変させる存在であった。


「レイナ=ルウとララ=ルウが交代で取り仕切り役を担うってことは、君が連続で助手を務めることになるのかな?」


「はい。とりあえず、今回と次回はわたしが受け持つことになりました。そののちは、ルティム、ミンと、顔ぶれを入れ替えていくそうです」


「なるほど。その一番槍に任命されるっていうのも、信頼されている証だね」


「とんでもありません。一番の苦労を担っているのは、やっぱりルウの方々ですからね」


 すると、喧々諤々と語らっていたレイナ=ルウが、勢いよくこちらに向きなおってきた。


「そちらでは、何を語らっておられるのですか? 必要があれば、わたしにもお聞かせ願いたく思います」


「いやいや。人員の回し方について聞いていただけだよ。……レイナ=ルウは、本当に気合があふれまくってるね」


「はい。わたしはこの日を、心待ちにしていましたので」


 やはり、間に雨季をはさんだことで、レイナ=ルウはいっそう熱情を溜め込むことになったのだろう。そもそもは茶の月の頭にアルヴァッハやダカルマス殿下たちを迎える関係から、城下町での商売は先送りにされていたのだ。それも含めれば、レイナ=ルウは3ヶ月以上も悶々としていたわけであった。


「宿場町に到着したよ。城下町まで、もうひと息だね」


 バルシャのそんな言葉とともに、荷車の速度が落とされた。

 俺はいつもの習慣で、御者台の脇から往来の様子をうかがう。雨季の間は御者台との間にも帳をおろすため、この習慣も封印されていたのだ。


 雨季が明けてから5日が過ぎて、往来にはかつての活気が蘇っている。

 雨季と平常では、ジェノスを訪れる行商人の数も倍以上は違っているのだ。雨季というのはジェノスを含むごく一部の地域にのみ訪れる現象であるため、行商人も雨季の時期には別なる区域で商売に励んでいるのだった。


 人々の表情は明るいし、何だか雨季の前よりも賑わっているように感じられる。

 ジェノスは年々、来訪する人間が増加しているようだというもっぱらの評判であるのだ。そこにギバ料理の存在が少しでも関わっているのなら、俺としても誇らしい限りであった。


「まあ、森辺とトゥラン伯爵家の悪党どもが一網打尽にされたってのもでかいんだろうけどさ。そんなのはもう3年近くも前の話なんだから、今は南の王子様が巻き起こした騒ぎのほうが、よっぽど影響してるんだろうと思うよ」


 ギルルの手綱を引きながら、バルシャがそんな言葉を投げかけてきた。

 確かにダカルマス殿下が開催した試食会を契機に、来訪者の数はまたぐんと上昇したような印象であったのだ。とりわけジャガルの行商人は増加している印象であったし、試食会にエントリーされた8軒の宿屋などはあからさまに客入りが増えたとの話であった。


 何にせよ、宿場町が賑わうのはありがたい限りである。

 そして今後は、城下町が賑わうこともありがたく思う立場になるのだ。俺はいよいよジェノスそのものと深く結びつくことができたような心持ちで、感慨もひとしおであった。


 そうして徒歩で宿場町の街道を抜けたならば、あらためて城下町の城門を目指す。城門まではものの数分であったし、人の通りも絶えないため、やはり無法者に襲われる危険はごく少ないはずであった。


 やがて城門に辿り着いたならば、通行証を提示して入場である。

 俺にとっては、実にひさびさの手続きだ。いっぽうレイナ=ルウたちは雨季が明けてすぐにサトゥラス伯爵家の晩餐会の厨を預かっており、その際にも正規の手続きで入場を果たしたのだという話であった。


「それではいちおう、荷車の内部もあらためさせていただきます」


 受付所のそばに控えていた衛兵のひとりが、荷車に近づいてくる。荷車に通行証を持っていない人間を忍ばせていないか、確認が必要となるのだ。

 ジルベの存在については俺の通行証の備考欄に記載されているはずであるので、何も心配する必要はない。

 しかしそうして心の準備をしておきながら、衛兵たる若者は荷台を覗き込むなり「うわっ」と身をのけぞらせた。


「いや、失礼。こちらがジェノス侯爵家と東の王家から勲章を授かったという、かの獅子犬なる犬なのですね。さすが、ご立派な姿です」


 ジルベは、なんのなんのとばかりに「わふっ」と答えた。

 そうして荷台の検分が済んだならば、いざ出発である。


「さて。ここから先は、アスタに案内をお願いするよ」


 再び御者台に乗り込みながら、バルシャが俺に呼びかけてくる。正式な手順で入場したからには、自前の荷車で目的地を目指す必要があるわけであった。


「はい。まずはこの立派な街路に沿って、北上してください。商店の区域に入る道には看板がかかっているはずなので、俺が注意して見ておきますね」


「頼んだよ。あたしもあんまり、文字を読むのは得意じゃないからさ」


 出自はマサラの狩人であり、そのあと盗賊団に身を投じたバルシャは、文字の読み書きがあまり得意でないらしい。それでも盗賊団の時代にあちこちの領地を巡って、多少ながらは習得の機会があったのだという話であった。


 いっぽう俺も調理にかまけて、文字の習得はほとんどはかどっていない。ジェノス城に提出する帳簿をつけるのに必要な文字だけを、集中的に学んだ格好だ。このたびの商売で必要な文字に関しては、ミケルからあらためて教わった身であった。


 そんな記憶を頼りに目を凝らしていると、何本目かの交差点で商店区域を示す看板が見えてくる。

 俺の指示でバルシャがギルルの手綱を操作すると、街並みはいっそう賑わってきた。立派な身なりをした人々が石の街路を行き交う、城下町の市井の賑わいだ。俺がこの光景を目にするのも、実にひさびさのことであった。


 そうしてしばらく荷車を走らせると、大きな広場が見えてくる。

 俺たちが初めて自分たちの足で城下町を歩いた際にも立ち寄った、大きな広場――そして、今日からは俺たちの仕事場である。熱情の発露をレイナ=ルウにおまかせしていた俺も、自然に気持ちが引き締まってきた。


 ついに森辺の民が、城下町で商売を行うのである。

 これまでさんざん祝宴の準備を任されてきたのだから、何を今さらと思われるかもしれないが――貴族の依頼で宴料理を作りあげるのと町なかで商売をするのでは、やはり心持ちがまったく異なっていたのだった。

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― 新着の感想 ―
宿場町とトゥランの責任者が城下町メンバーになってます
必要な文字だけを、と言うことは、セルヴァの文字は英語等の様な表音文字ではなく、中国語の様な表語文字で成り立っているということでしょうか?
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