赤き猫と黒き深淵(五)
2024.11/17 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
(これまで私たちは、いくつもの転機を迎えることになった。しかし、最初の大きな転機は……やはりジバ婆にはんばーぐを振る舞った、あの夜なのであろう)
アスタの安らかな寝顔を見守りながら、アイ=ファは心中でそのようにつぶやいた。
ファの家の、寝所である。雨季もようやく明けたので、寝具や毛布は薄手のものに取り換えられていた。
その薄手の毛布を腹に掛けて、アスタは無防備な寝顔をさらしている。
脇腹のあたりがこんもり盛り上がっているのは、黒猫のサチであろう。アイ=ファも横たわったまま頬杖をついていたので、毛布の内には白猫のラピがひそんでいた。
窓の外は、まだ薄暗い。
夜は明けたが、窓から陽射しが差し込むまでにまだいくばくかの時間がかかることだろう。そのわずかな時間、アイ=ファはアスタの寝顔を見守っていた。
ジバ=ルウに『ハンバーグ』を供したあの一夜から、すでに3年近い歳月が過ぎている。
17歳であったアイ=ファは20歳になり、アスタもこの黄の月で同じ齢に追いつくのだ。その3年弱という歳月で、アイ=ファの心情とアイ=ファを取り巻く環境はさまざまな変転を迎えていた。
そしてアスタも、アイ=ファ以上の変転を遂げているはずだ。
まずアスタは、外見からして変わり果てている。あの頃は貧弱に痩せ細り、町でもなかなか見かけないぐらい生白かったが、今ではずいぶん背ものびて、顔立ちや体格も精悍になっていた。
寝顔のあどけなさなどは以前のままであるが、頬から下顎にかけての線などは男らしく引き締まり、肌もすっかり日に焼けている。もちろん森辺の男衆の逞しさとは比較にもならないが、宿場町の若衆にこれほど精強な人間はそうそういないはずだ。3年前とはもはや別人に見えるぐらい、アスタは頼もしく成長していた。
しかしそれよりも成長しているのは、やはり中身のほうであろう。
アイ=ファと出会った当時のアスタは、本当に軽妙かつ粗雑な人間であった。口のききかたも荒っぽかったし、直情的で、納得がいかないことがあると後の苦労も考えずに突っ走ってしまう向こう見ずの人間であった。
アスタは今でも軽妙な人柄であるが、粗雑な部分はずいぶん減じたように感じられる。物腰もすっかりやわらかくなって、荒っぽい声をあげることはほとんどなくなった。時おりお調子者の一面を見せることはなくもないが、それよりも穏やかで考え深げな一面のほうが際立っているように感じられた。
きっとそれは、心が安定したためであるのだろう。
あの頃はかりそめの家人であったが、今では立派なファの家の家人――まぎれもなく、森辺の民の一員であるのだ。アスタは森辺を第二の故郷と定めたことで、ついに心からの安息を得ることがかなったのだった。
(それにアスタは、ただ漫然と森辺に受け入れられたわけではない。数々の試練を乗り越えたからこそ、胸を張って森辺の民を名乗ることがかなうのだ)
何より重要であったのは、アスタの幸福と森辺の民の幸福がぴったり重ね合わせられたことであろう。
アスタは宿場町で屋台を出す際に、ひとつの指針を打ち立てた。
それは、ギバの肉に価値を与えて、すべての森辺の民に豊かな生活をもたらす――という内容であった。
それでアスタは森辺の民に明るい行く末を示すと同時に、かまど番としての生に大きな意味を持たせることがかなったのだった。
なおかつそれは、アスタひとりで思いついた話ではない。アスタは自分が宿場町で商売をすることに意義はあるのかと思い悩み、アイ=ファやガズラン=ルティムなどとさんざん意見をぶつけあったのちに、そんな指針を固めることになったのである。それでアスタは、生粋の森辺の民であるアイ=ファたちが賛同してくれるならば――と、最後の決断を下すことがかなったわけであった。
あれもまた、アスタにとっては最大の転機のひとつであったことだろう。
アスタはかまど番として生きる道に大きな意義を見出したことにより、凄まじい勢いで邁進し始めたのだ。その熱情に引きずられるようにして、森辺の集落もまたさまざまな変転を迎えることになり――そしてさらにはジェノスそのものや、西の王都やジャガルやシムにまで小さからぬ波紋をもたらしたのだった。
しかしそれは、決して平坦な道ではなかった。
この3年弱、アスタの運命は激動にまみれていたのだ。
まず、ジバ=ルウに『ハンバーグ』を供した後、アスタはドンダ=ルウと対決することになった。自慢の料理を毒よばわりされたことが我慢ならず、なんとかドンダ=ルウに文句をつけられることのない料理を作りあげようと奮起することになったのだ。
それもまた、今のアスタからは考えられない行いである。今のアスタであれば、無念の思いや悔しさを原動力にするのではなく、その優しい気性でもって、他者に満足してもらえるような料理を目指そうとするはずであった。
(今でもこやつは、自分が負けず嫌いだと言い張っているからな。それを自覚した上で、他者とぶつからないように配慮しているのだ)
なおかつ、当時のアスタも決してドンダ=ルウを屈服させようなどとは考えず、森辺の民とは如何なる存在であるのかと考え抜いた末に、解決の道を辿ることがかなった。だからこそ、アスタはルウの血族と手を携えることがかない――アイ=ファもまた、ジバ=ルウやリミ=ルウと絆を結びなおすことがかなったのだった。
しかしその後も、アスタの生は苦難の連続であった。
ドンダ=ルウとの確執を乗り越えて、ルティムとミンの婚儀の祝宴のかまどを預かったのちには、いよいよ宿場町で屋台を出すことになったわけだが――それがスン家の目をひく原因となり、家長会議の夜にはアイ=ファともども生命の危険にさらされることになったのだった。
さらにその後もドムの集落を脱走したテイ=スンに襲われて、何とかその苦難を乗り越えたかと思ったら、今度はトゥラン伯爵家との戦いである。スン家とトゥラン伯爵家は裏で繋がっていたため、それは避けようのない道であったのだ。
なおかつ、その騒動とは直接関係のないところで、アスタはリフレイアにかどわかされることになった。アスタと引き離された5日間は、アイ=ファにとっても忘れようのない苦悶の日々であった。
そちらの騒乱を乗り越えて、ジェノスの貴族たちと新たな絆を結びなおしたならば、城下町の民を巻き込んでの料理合戦だ。またそれは、町でギバ肉を売ってすべての同胞に豊かな暮らしを与えようという、過酷な戦いの側面でもあった。
そうして雨季には『アムスホルンの息吹』に見舞われ、今度はアスタひとりが生命の危機にさらされることになった。
あのときのアスタの弱り果てた姿を思い出すと、アイ=ファは今でも胸が痛くなってしまう。しかしアスタはあの試練を乗り越えたことにより、この大陸アムスホルンで生きていく資格を授かったのだった。
そうして最初の1年が過ぎる頃には王都の監査官を迎えることになったし、そのすぐ後には聖域の民たるティアと出会い、その直後には2回目の家長会議、さらには『アムスホルンの寝返り』である。アスタはひたすらかまど仕事に邁進しつつ、それだけの騒ぎに見舞われていたのだった。
さらには大罪人シルエルが率いる《颶風党》を相手取り、その後には王都の外交官フェルメスを迎えることになった。あとは傀儡使いのリコたちによって、傀儡の劇の主人公に祀りあげられて――それでようやく、2度目の復活祭となる。
2年目の年が明けたならば、すぐさまモルガの聖域に乗り込んで、赤き民の族長会議だ。ティアとの別れは、アイ=ファにとっても最大の試練のひとつであった。
その後はゲルドの貴人と南の王都の使節団を迎えることになり、そちらが一段落したかと思ったら、雨季には邪神教団の襲撃だ。
邪神教団を退けたならば、今度はジャガルの王子ダカルマスとその息女デルシェアの来訪である。
そこで行われた数々の試食会によって、アスタはジェノスで一番の料理人と認められたのだった。
そんな慶事の後には、邪神教団の再来という災厄が勃発する。
それを解決したのは森辺の狩人を含む討伐部隊の面々であったが、アイ=ファは森辺の狩人として、アスタは森辺のかまど番として、それぞれ元の生活を取り戻すために力を尽くした。またそれは、飛蝗の襲来によって傷ついたジェノスそのものを復興させようという行いに他ならなかった。
その後もティカトラスという珍客を迎えたり、バナームにまで出向いてウェルハイドの婚儀のかまどを預かったりと、騒ぎの種は尽きなかった。
それでようやく3度目の復活祭と年明けを迎えて――今度はアルヴァッハにダカルマスにティカトラスという三者が一堂に会することに相成った。
そこでまた数々の祝宴をやり遂げたならば、東の王家にまつわる騒乱である。
ざっと数えあげただけで、これだけの変転であった。
わずか3年足らずの間にそれだけの変転に見舞われる人間など、そうそういないことだろう。その数奇な運命こそが、アスタを大きく成長させたのだった。
(アスタの成長に比べれば、私の成長など微々たるものであろうな)
しかしアイ=ファも、さまざまな変化と成長を迎えている。
それはまた、アスタに相応しい人間を目指した結果でもあった。
(私はいまだに、他者との交流を苦手にしている。しかし、アスタにだけは……ようやく真情をさらすことができるようになったのだ)
そうしてアイ=ファは、アスタを失いたくないと強く願い――それを自覚したことで、さらなる力を身につけることがかなった。以前はいつ森に朽ちても後悔はないという覚悟のもとに過ごしていたが、今は1日でも長くアスタとともに生きていきたいと念じているのである。
きっと3年前のアイ=ファにとっては、もはや失うものもないという状況こそが強さの根源であったのだろう。
今はその逆で、数々の大切な存在がアイ=ファに力を与えてくれている。アスタの存在のみならず、アスタのおかげで絆を結びなおすことができた友たちや、新たな家人たちの存在が、アイ=ファにまたとない活力を授けてくれたのだった。
だからアイ=ファは、アスタのことを何よりも愛おしく思っていたし――アスタもまた、同じ気持ちを抱いてくれている。そして、そんなおたがいの真情をさらけだすことができるぐらい、アイ=ファとアスタは確かな絆を結ぶことがかなったのだった。
(だから、あとは……私の気持ちひとつであるのだ)
かつてのアスタの生誕の日に、アイ=ファたちはいずれ婚儀を挙げようと約定を交わしている。いつかアイ=ファが狩人としての役目を全うしたならば、刀を置いて、アスタの伴侶となる――それが、ふたりだけが知る神聖な約定であった。
今この瞬間、アイ=ファが狩人としての生を打ち捨てれば、アスタと添い遂げることがかなうのだ。
言ってみれば、アイ=ファはその蠱惑的な思いをいつも胸の片隅に抱え込みながら、狩人としての仕事に励んでいるようなものであった。
(そうしてついに、おたがいが20歳になってしまう。アスタは何年でも待つと言ってくれたが、いつまでもアスタの温情に甘えるわけにはいかないし、私自身、アスタと新たな幸福をつかみたいという気持ちを抱いている。……だが……)
アイ=ファの中に、たったひとつだけ不確かな思いが残されている。
それは――アスタが時おり目にする、悪夢についての思いであった。
アイ=ファとアスタは別々の寝具に身を横たえているが、今もしっかりと手を握り合っている。
それは、アスタが悪夢に見舞われた際、アイ=ファの身に触れていたために悪夢の様相が変化したと申し述べていたためであった。
森辺の民として生きていくと決断したアスタは、すべての絶望から脱したように見える。
しかし、悪夢から目覚めた際には、いつも恐怖と絶望の眼差しになっていたのである。
アスタにも、その正体はわからないらしい。
しかしアイ=ファは、その正体に察しがついていた。
アスタが見せる恐怖と絶望の眼差しは、かつてアスタが垣間見せていた悲嘆の陰りと同質のものであったのだ。
アスタはかつて懸命に、悲嘆の思いをねじ伏せていた。あれはきっと、森辺の狩人にも負けない気力の賜物であったのだろうと思う。どれだけ軽妙に振る舞おうとも、アスタはそれだけ強靭な人間であったのだ。
しかし悪夢の内においては、アスタが強靭な気力を振り絞る余地もなく――その内に抱える恐怖と絶望に呑み込まれてしまうのだ。
逆に言えば、アスタはそれだけの恐怖と絶望を抱えながら、悲嘆の陰りしか表に出していなかったわけである。それでアイ=ファは、いっそうアスタの強靭さを思い知ることがかなったのだった。
そして現在、アスタは決して気力を振り絞って恐怖と絶望の思いに耐え忍んでいるわけではない。アスタがそのような苦悶を抱えていたならば、自分にだけは打ち明けてくれるはずだとアイ=ファは信じていた。
よって、恐怖と絶望の思いは悪夢の到来を待ち受けながら、ずっとアスタの内に眠っているのである。
そして、その恐怖と絶望の根源というのは――失ってしまった故郷や家族や友に対する思いであるはずであった。
すべてを失ってしまった絶望と、もう2度と本来の人生を取り戻すことはできないという恐怖が、アスタの心の奥深くに残されている。
その事実こそが、アイ=ファに最後の決断をくだすことをためらわせているのだった。
(悪夢から目覚めた際、アスタはいつも私のおかげでもう大丈夫だと言ってくれた。だが……)
それでもなお、アスタは心の奥底に恐怖と絶望の思いを眠らせている。
それを解消しない限り、アスタが真なる幸福をつかみとることはできないのではないか――と、アイ=ファはそんな風に考えていた。
では、自分はどのように振る舞うべきであるのか。
今こそ狩人としての生を打ち捨てて、アスタと添い遂げるべきであるのか。
それとも今は狩人としての力を備えたまま、アスタのそばに控えているべきであるのか。
アイ=ファは、そんな疑念を抱え込んでいたのだった。
(かつて《ギャムレイの一座》のナチャラは、アスタが抱えている恐怖の正体を探ろうとした。あのように得体の知れないまじないなど、できれば信じたくはないのだが……)
しかし、ナチャラのまじないにかけられたアスタは、悪夢に見舞われたときと同じ恐怖の眼差しになっていたのである。それではアイ=ファも、ナチャラのまじないの結果を二の次にすることはできなかった。
それで得られた恐怖の正体は、謎の人間である。
顔も素性もわからない。アスタの頭には、ただ右の頬が焼けただれているという覚束ない記憶しか残されていなかった。
しかし何にせよ、アスタはすべてを失ったことに絶望しているだけであるはずなのに、そこに何者かが関わっているようであるのだ。
もしかしたら――その人間を討ち倒せば、アスタは内なる絶望を乗り越えることがかなうのだろうか。
そんな風に考えると、アイ=ファは刀を置いて狩人としての力を手放す決断も下せなくなってしまうのだった。
(……お前の悪夢の中に身を投じることがかなえば、私がそやつを叩きのめしてくれるのにな)
そんな思いを胸に秘めながら、アイ=ファはアスタの手をぎゅっと握りしめた。
その力加減がまずかったらしく、アスタが「ううん……」と不満げな声をあげる。
アイ=ファは慌てて力をゆるめたが、アスタのまぶたがゆっくりと持ちあげられて、無垢なる眼差しをこちらに向けてきた。
「ああ……おはよう、アイ=ファ……今日も先を越されちゃったな……」
寝起きの放埓な顔で、アスタはあどけなく微笑んだ。
それだけで、アイ=ファの心は幸福な温もりにくるまれてしまう。最前までの深刻な思いはどうしたのだと、アイ=ファは苦笑でも浮かべたい気持ちであった。
「あれ……どうしたんだ、アイ=ファ……? なんか、朝からご機嫌ななめだな……」
「そのようなことはない。ただ、おのれの至らなさを恥じ入っていただけだ」
「アイ=ファが至らない人間だったら、俺なんかどうなっちゃうんだよ……ふわーあ」
アスタは遠慮なく、大あくびをする。
心の片隅に暗い疑念を抱えつつ、やはりアイ=ファは幸福な心地であった。
アイ=ファは、アスタを愛している。
肝要なのは、その一点であった。
たとえアスタがどれだけの絶望を抱えていようとも、ともに乗り越えてみせる――そんな思いを込めて、アイ=ファはアスタに微笑みかけた。
「……アスタよ。お前がどのような苦難に見舞われようとも、私は必ずお前のそばにある。お前も私もすべての力を振り絞って、すこやかなる行く末をつかみとるのだ」
「え? な、なんだよ、いきなり……? アイ=ファもまだ寝ぼけてるのか……?」
「さて、どうであろうな」と応じつつ、アイ=ファはアスタのもとに顔を寄せた。
びっくりまなこになったアスタの顔が、ぐんぐん間近に迫ってくる。
アイ=ファは体内に生じた衝動を全身全霊で抑え込みながら、アスタの鼻に自分の鼻をちょんとぶつけて、身を引いた。
「さて。それでは、朝の仕事に取り掛かるか」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。俺の心をかき乱すだけかき乱して、それはないだろう?」
「それは、おたがいさまの話であるしな」
アイ=ファは毛布を跳ねのけて、白猫のラピを踏み潰してしまわないように気をつけながら、身を起こした。
そしてアイ=ファは、いまだにアスタの手を握りしめている。それで無理やり上体を引きあげられたアスタは、文句をつけるべきか迷うように口もとをほころばせた。
(私とお前がともにあれば、どのような苦難も恐れる必要はない。私たちは、そうして今日まで生き抜いてきたのだからな)
アイ=ファがそのように考えたとき、ついに窓から暁光が差し込んできた。
まだ寝具から立ち上がろうとしないアスタの姿が、清浄なる光に包まれて――まるで、天に祝福を授かっているかのようである。
そんなアスタの姿を目に焼きつけてから、アイ=ファはまた新たな日に足を踏み出すために、まずは髪を結いあげることにした。




