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異世界料理道  作者: EDA
第九十章 群像演舞~十ノ巻~
1561/1698

    赤き猫と黒き深淵(四)

2024.11/16 更新分 1/1

 翌日――アイ=ファはアスタとともに、ルウの集落に向かうことになった。

 リミ=ルウの側からも、アスタにかまどを預ける了承を得られたという返事が届けられたのだ。さしものドンダ=ルウも、最長老ジバ=ルウのためとあっては自分を曲げるしかなかったようであった。


 いっぽうアイ=ファも、それ相応の覚悟をもってルウの集落に向かっている。

 死に瀕しているジバ=ルウと2年以上ぶりに顔をあわせると想像しただけで、アイ=ファは膝が震えそうになってしまったが――それでもアイ=ファは、この道を選んだのだ。今日の決断がどのような結果を招こうとも、アイ=ファはすべて乗り越えてみせる覚悟であった。


(まずは、こやつの身をルウの男衆から守らなければな)


 てくてくと歩くアスタの姿を横目で盗み見ながら、アイ=ファはそのように考えた。

 一夜が明けても、アスタの様子に変わりはなかった。軽妙で、粗雑で――そして、覚悟の据わった目つきをしている。アスタはアスタで覚悟を決めて、ジバ=ルウを救うと決断を下したのだ。それこそアスタはギバ狩りに向かう狩人のごとき心持ちで、ルウ家に向かっているのかもしれなかった。


 いっぽうアイ=ファも今日の行いには覚悟を固めつつ、それ以外の部分では心が揺らいでしまっている。

 その原因は、もちろんアスタである。昨晩アイ=ファはアスタの前で真情をさらけだし、最後にはアスタの腕に抱かれながら涙をこぼすことになったのだ。これでアイ=ファが平静でいられるわけはなかった。


 しかしまた、アイ=ファとアスタが決断を下すには、おたがいの真情をさらけだすしかなかったのだ。正しい道を進むために、あれは必要な行いであったのだ、と――アイ=ファはそんな思いでもって、乱れる心をなだめるしかなかった。


(それに……ルウ家のかまどを預かるからには、アスタをファの家人として扱うしかない。もしもアスタが取り返しのつかない失敗をしたときは、私が家長として責任を取るのだ)


 最悪の場合、アイ=ファは自らの生命を差し出すことになるだろう。

 そんな覚悟を固めることで、アイ=ファもまたこれ以上もなく気迫を練りあげていたのだった。


「へえ……ここがルウ家の、総本山かあ」


 ルウの集落に到着すると、アスタは感心しきった面持ちでそんなつぶやきをもらした。

 ルウの集落には7つもの家屋があり、広場は100名の人間を収容できそうなぐらい広大である。スン家に次いで大きな氏族であるルウ家には、これだけの集落が必要なのであろうと思われた。


 時刻はちょうど中天と日没の中間ぐらいであろうから、並み居る男衆も森に入っている頃合いとなる。

 それでもアイ=ファが油断なく歩を進めていくと、もっとも大きな家屋からリミ=ルウが姿を現した。


「アイ=ファ! アスタ! ようこそルウの家に! 本当にずいぶん早かったんだねえ」


 リミ=ルウの無邪気な笑顔を目の当たりにしたアイ=ファは、また心が揺らいでしまう。

 アイ=ファはジバ=ルウを救うと決断したが、その後のことにまでは頭が回っていないのだ。今後はいったいリミ=ルウやジバ=ルウとどのような交わりを持っていくことになるのか――それを想像すると、アイ=ファの心は呆気なく揺らいでしまうのだった。


(だがそれよりも、まずはジバ婆だ。ジバ婆が生きる喜びを取り戻さない限り、その後もへったくれもない)


 そんな思いを胸に秘めながら、アイ=ファはアスタとともにルウの本家へと導かれた。

 そこで待ち受けていたのは、ルウ本家の女衆である。事前にリミ=ルウから聞き及んでいたが、ルウは本家だけで6名もの女衆を抱えていた。


 そこで小さな波乱をもたらしたのは、リミ=ルウの姉であるレイナ=ルウという女衆である。

 その名を耳にするなり。アスタが血相を変えたのだ。


「……おい、今、レイナって言ったか?」


「はい?」


 森辺では珍しい黒髪をふたつに結ったレイナ=ルウが、不思議そうに小首を傾げる。小柄だが肉づきのいい、とても容姿の整った女衆だ。アイ=ファが内心でいぶかしんでいると、やがてアスタは驚くべき言葉を口にした。


「ごめん。何でもない。俺の知り合いと同じ名前だったから、つい反応しちまっただけなんだ」


「まあ。わたしと同じ名前のご同胞がいらっしゃったのですか?」


 レイナ=ルウは無邪気に微笑んでいたが、アイ=ファは存分に心を乱されていた。

 名前などは、この際どうでもいい。アスタの動揺が、はっきりアイ=ファにまで伝わってきたのだ。かまど仕事に注力することで絶望の思いをねじ伏せているアスタが、レイナ=ルウの存在によって過去の記憶を刺激されてしまったのだった。


「……ファの家のアイ=ファと、この男は家人のアスタだ。今日はリミ=ルウに願われて、ルウの家のかまどを預かるために出向いてきた」


 アイ=ファはその場の流れを変えるべく、挨拶の口上を申し述べる。

 それでその場は、何事もなく収まったのだが――やがて裏手のかまど小屋に場所を移すと、またおかしな雰囲気になってきた。出会ったばかりのアスタとレイナ=ルウが、妙に親密な空気をかもし出したのだ。


 どうもレイナ=ルウという女衆は、かまど仕事に熱心であるらしい。それでリミ=ルウからアスタの存在を伝え聞いて、大きな興味を寄せているようである。

 いっぽうアスタは――やはり知人と名前が共通しているということで、レイナ=ルウに何か特別な思いを抱いているのだろうか。おかしな具合に慌てたり、そうかと思えばふいに懐かしそうな眼差しになったりと、いつも以上に腰が据わっていなかった。


(……もしや故郷のレイナという女衆は、想い人か何かであったのであろうか?)


 そんな風に考えると、アイ=ファの腹の底で熱い激情が蠢いた。

 その正体は、よくわからない。何にせよ、アスタとレイナ=ルウが親しげに語らっているさまは、アイ=ファをたいそう落ち着かない心地にさせてやまなかった。


「もしかしたら、そちらのレイナはアスタにとって大事な女性だったのですか? だからわたしのことをその名前で呼びにくいのでしょうか?」


 と、しまいにはレイナ=ルウまでもがそのような言葉を口にして、アイ=ファの動揺に拍車を掛けた。

 それでアイ=ファが、ひそかにアスタの様子をうかがっていると――アスタの背中が、小さく震えたのだった。


「……別に、そういうわけじゃないんだけどな」


 口に出しては、そのようにしか答えない。

 いったいその内側では、どれだけの苦悶が渦巻いているのか。アイ=ファは思わずアスタのもとに身を寄せそうになってしまったが――それよりも早く、レイナ=ルウがアスタの手に自分の手を重ねた。


「ごめんなさい。わたしは何か、言ってはいけないことを言ってしまったのですね。アスタにそんな悲しそうな瞳をさせてしまいました……」


「いや! そんなことないよ! 本当に全然大丈夫! ちょっと考え事をしてただけだって!」


 ことさら陽気な声で、アスタはそのように言いたてた。

 アイ=ファは胸を撫でおろすと同時に、また腹の底で何かがもぞりと蠢くのを感じる。レイナ=ルウもアスタを思いやってのことなのであろうが、未婚の男女がみだりに触れ合うのは森辺の習わしにそぐわない行いであった。


(……やはりアスタは、ルウ家で暮らすべきなのではないだろうか?)


 唐突に、そんな思いまでもがわきおこってくる。

 しかしすべては、ジバ=ルウを救ってからのことである。そうしてアイ=ファは得体の知れない激情に蓋をして、アスタたちの働きを見守ることにした。


 するとそこに、新たな女衆がやってくる。さきほど紹介された6名の中で、もっとも年を食った女衆だ。それはリミ=ルウの祖母にして家長ドンダ=ルウの母にあたる、ティト・ミン=ルウなる女衆であった。


「お待たせしましたね。わたしもお手伝いいたしますよ。……おお、これは立派なギバの足だ」


 そのように語りながら、ティト・ミン=ルウはにこやかな顔をアイ=ファに向けてきた。


「ファの家のアイ=ファ。あなたはひとりでファの家を守っていると聞いたけれど、それじゃあこのギバもあなたが仕留めたものなのかい?」


「……ああ。そうだ」


「大したもんだねえ。しかもファの家は他の家とも血の繋がりが絶えてしまったのだろう? あなたみたいな女衆が何者の力も借りずにひとりで家を守っているなんて、わたしには想像もつかない生き方だよ」


「……べつだん、どうということはない。父は私にギバの狩り方を教えてくれた。森辺で生きるすべを教えてくれた。何者の力を借りずとも、私は生きていくことができる」


「生きて、そして死んでいくのかい?」


 ティト・ミン=ルウは、どこか透き通った微笑みをたたえる。

 彼女はその名前が示す通り、ジバ=ルウの子ではなく、ジバ=ルウの子の伴侶であるはずであったが――その目に灯された光は、わずかながらにジバ=ルウと似ていた。


「女衆が《ギバ狩り》をしていたら、子を生すこともできないじゃないか? ひとりで生きて、ひとりで死んで、そしてファの家は絶える。……あなたはそれで満足なのかい、ファの家のアイ=ファ?」


「……そうして絶えた家は、これまでに森辺でいくらでもあった。どの家もがルウの家のように力を持てるわけではないのだ」


「はて? 力とは何だろうね? わたしやレイナやリミなんかは、とうていギバなんて狩ることはできないよ? いやいや、男衆の中にだって、ひとりでギバを狩れるような人間はそうそういないだろうね。そう考えたら、あなたほどの力を持った人間など、そうそういないってことになるんじゃないのかい?」


「それは……」


「だけど、ファの血は潰えて、ルウの血は遺る。それはいったい何故なのか……なんてことを考えてみたら、もしかしたらファの血も潰えずに遺るかもしれないよ?」


 この女衆は、いったい何を語っているのか――アイ=ファは突如として、崖の淵にでも立たされたような心地であった。


(まさか、ファの強き力を子に遺せ、と……つまり、私に婚儀を挙げて子を生せなどと言いたてているのか?)


 アイ=ファはまた、思わぬ煩悶を抱えることになってしまった。

 まだルウの集落に到着してから半刻も過ぎていないのに、この始末である。どうもルウ家の女衆というのは、誰もが一筋縄ではいかないようであった。


 そうしてその後も、きわめて賑やかにかまど仕事が進められていき――日没が近づくと、ついに男衆が森から戻ってきた。

 家長ドンダ=ルウと、3名の息子たちである。

 去年の家長会議でドンダ=ルウと次兄のダルム=ルウを遠目にうかがう機会はあったが、まともに顔をあわせるのは2年ぶりのこととなる。アイ=ファは飢えたギバを迎え撃つような心地で、それらの面々と相対することになった。


「よお、ファの家のアイ=ファ。貴様の父親がくたばって以来だから、ざっと2年ぶりか。ひさびさのご対面だってのに、挨拶が聞こえねえなあ?」


 それこそギバさながらの迫力で、ドンダ=ルウがそのように言いたてる。

 アイ=ファはアスタを庇える位置まで歩を進めて、言葉を返した。


「ファの家の家長アイ=ファだ。今日はリミ=ルウに願われて、家人アスタとともに、ルウの家のかまどを預かるために訪れた」


「ふん。相変わらず可愛げのない餓鬼だ。そんな尖った目をしてなけりゃあ、母親譲りの別嬪なのになあ」


 ドンダ=ルウの魁偉な顔が、アイ=ファの眼前にぐっと近づけられる。

 アイ=ファは相応に緊張を強いられたが――背中が震えることはなかった。


「男衆の真似事をして、ギバの角なんてぶら下げてよ。どんなに尖っても貴様はか弱い女衆なんだってことをまだ理解できてねえのか、ええ、ファの家のアイ=ファ?」


「……私はファの家の家長として、家を守っていく。それは2年前にも告げたはずだ」


「ハッ! どうだい、ダルムよ? こうなったらいっそのこと、貴様がファの家に婿入りしてやるか? そうすればファの家も絶えずに済むだろう。それには貴様が家のかまどを守って餓鬼を育てなくちゃあならなくなるだろうがな!」


 ドンダ=ルウは身を起こしながら、雷鳴のごとき笑い声を響かせた。

 2年前に嫁取りの話を断った際にも、こうまで真っ向から激情をぶつけられた覚えはない。この2年間で、ドンダ=ルウはいっそうの憤懣をつのらせたようであった。


(だが……私もあの頃とは、違う)


 2年前のアイ=ファは15歳で、まだ見習い狩人に過ぎなかった。重い大刀をまともに扱うこともできず、森でも父親の手伝いをしているのみであったのだ。

 しかしそれからの2年間で、アイ=ファは成長した。危険な『贄狩り』の作法でギバをおびき寄せ、何十頭もの収獲をあげてきたのだ。よって、ドンダ=ルウの前でも毅然と胸を張ることができた。


 そしてアイ=ファはドンダ=ルウたちと相対したことで、自分の成長を実感することになった。

 尋常ならざる力を持つドンダ=ルウはさておくとして、その3名の子供たちであれば打ち倒すことができるのではないか、と――アイ=ファは狩人としての眼力でもって、そのように見て取ったのであった。


(長兄には、いささか得体の知れない力を感じる。しかし、次兄と末弟ならば……おそらく、狩人の力比べで勝利するのは、私であろう)


 そしてさらにもう何年かすれば、ドンダ=ルウに追いつくこともできるかもしれない。

 それはすなわち、父親のギル=ファをも超えるという意味である。

 そのように考えると、アイ=ファの総身には熱い力がみなぎってやまなかった。


(やはり私は、狩人であるのだ。一生をかけてでも、これこそが正しい道であったのだということを母なる森に証明してみせよう)


 そのとき、ティト・ミン=ルウの透き通った笑顔がちらりと脳裏をよぎったが――アイ=ファは全身にみなぎる活力でもって、それを打ち払うことになったのだった。


                 ◇


 そして――日没である。

 ルウ本家の広間には、アスタたちが作りあげた晩餐が並べられている。それを囲んで座しながら、アイ=ファは懸命に自分を律していた。


 家人のほとんどは広間に座しているが、レイナ=ルウの姿はない。

 レイナ=ルウは、寝所で身を休めているジバ=ルウを迎えに行ったのだ。

 そうしてレイナ=ルウに手を取られたジバ=ルウが姿を現すと、鋭く引き締めたアイ=ファの心があえなく砕けてしまいそうだった。


(ジバ婆……あんなに痩せ細ってしまって……)


 もとよりジバ=ルウは、幼子のように小さな体躯をしていた。それがこの2年余りで、さらに縮んでしまったようであった。

 しかし何より変わり果てたのは、その眼差しと顔つきである。

 その皺深い顔には如何なる表情もたたえられておらず、ほとんどまぶたに隠されている目にもいっさいの光が感じられなかった。


 ジバ=ルウは肉体ばかりでなく、心のほうが弱ってしまったのだ。

 リミ=ルウが語っていたその言葉を、アイ=ファは自分の目で見届けることになった。どれほど老いても元気であったジバ=ルウが、今では生まれたての赤子よりも力なく見えてしまった。


「ふん。ようやくそろったな」


 不敵につぶやくドンダ=ルウのかたわらに、ジバ=ルウは小さく震えながら膝を折る。

 下座のアイ=ファの正面にあたる位置だが、その虚ろな目がこちらに向けられた様子はない。アイ=ファは平静を取りつくろいながら、ひそかに拳を握り込むことになった。


 これもまた、アイ=ファが選んだ道であるのだ。

 アイ=ファは病身のジバ=ルウに寄り添うのではなく、縁を切る道を選んだ。ダルム=ルウと婚儀を挙げて、ルウの家人としてジバ=ルウのもとに参ずるという道を打ち捨てて、独りきりで狩人として生きる道を選んだのである。今この胸中に荒れ狂う痛みと苦しさこそが、アイ=ファの決断に対する答えであったのだった。


(もはやジバ婆が、私を友として認めることはないだろう。でも、せめて……生きる喜びを取り戻してほしい)


 そうすれば、あとはリミ=ルウたちが支えてくれるはずだ。

 そんな思いを頼りにしながら、アイ=ファはドンダ=ルウが食前の文言を唱える重々しい声を聞いた。


 その後は、無言のままに食事が進められる。

 アイ=ファたちはリミ=ルウの要望によって出向いてきたが、他なる家の人間が晩餐を手掛けるというのは森辺の習わしにそぐわない行いであるのだ。かまど仕事のさなかには賑やかであった女衆も、今ではドンダ=ルウを筆頭とする男衆の目を気にしてしんと静まりかえっていた。


 アスタはせわしなく視線を巡らせながら、自分が手掛けた料理を口にしている。

 アイ=ファは目を伏せながら、ひたすらジバ=ルウの様子をうかがっていたが――ジバ=ルウはレイナ=ルウの手で食事を届けられても、なかなか口を開こうとしなかった。


 その間に、アイ=ファはアスタの仕事の成果を確認している。

 アスタが『ハンバーグ』と呼ぶ奇妙な料理は、昨晩よりもさらに素晴らしい出来栄えであった。ルウ家のかまど小屋にはたくさんの鉄鍋とかまどがそろっていたため、アスタもいっそう見事な手際を披露することがかなったのだ。


 このような際でも、アスタの料理はアイ=ファを幸福な心地にしてくれる。

 だからリミ=ルウは、この料理をジバ=ルウにも食べさせたいと願い――アスタとアイ=ファも、その願いをかなえようと決断したのである。


(このような食事ひとつで、生きる喜びを取り戻すことはできないのかもしれない。しかしこの食事には、ジバ婆に元気になってほしいという皆の気持ちが込められているのだ)


 アイ=ファがそのように考えたとき、リミ=ルウが「あ……」と小さく声をあげた。ジバ=ルウが、ついに木匙の食事を口にしたのである。


「ほら、おいしいでしょ? まだまだたくさんあるからね?」


 レイナ=ルウが優しい声で告げながら、ちぎったポイタンを煮汁に混ぜ込む。そして、煮汁でふやかしたポイタンをすくいあげて、再びジバ=ルウの口に運んだ。


「それじゃあ次は、アリアにしようか? これも柔らかくておいしいよ?」


 ジバ=ルウに与える食事の順番も、アスタが考案したのである。その教えの通りに、レイナ=ルウは木匙を動かし続けた。


「おいしいね? それじゃあちょっとお肉も食べてみようか? このお肉も、とっても柔らかいんだよ」


 レイナ=ルウが、ついに『ハンバーグ』に手をかけた。

 小さく切り分けられた『ハンバーグ』が煮汁にひたされて、ジバ=ルウの口に運ばれていく。


 アイ=ファは一心にジバ=ルウの姿を見つめていたが、他にも多くの家人たちが同じ行いに及んでいることを気配で察していた。

 そうして大勢の人間が見守る中、ジバ=ルウは『ハンバーグ』を口にして――ついに初めて言葉を発したのだった。


「なんて美味しい肉だろう……これは本当に、ギバの肉なのかい……?」


 とても弱々しい、枯れ果てた声音である。

 しかしその内には、アイ=ファが知る通りのジバ=ルウらしい温もりが残されている。

 それだけで目頭が熱くなったアイ=ファは、きつくまぶたを閉ざすことになった。


「うん。ギバの肉だよ。おいしいでしょう? もっと食べようね」


 レイナ=ルウも、涙声になってしまっている。

 アイ=ファは黒く閉ざされた世界の中で、アスタがせわしなく身を揺すっているのを感じていた。


「それじゃあ、お肉だけ食べてみようか? この赤いのは果実酒の蜜で、とっても甘くておいしいんだよ」


 アイ=ファがまぶたを閉ざしている間も、ジバ=ルウの食事は進められている。

 そしてまた、ジバ=ルウのやわらかい声が響きわたった。


「本当に美味しい……美味しいよ……ギバがこんなに美味しいだなんて……」


「こんなものの、どこが美味いんだ? こんなグズグズに腐り果てたような肉は、人間の食い物じゃねえッ!」


 と、雷鳴のごとき怒号がジバ=ルウの声をかき消した。

 アイ=ファはぐっと奥歯を噛んでから、まぶたを開いて正面を見据える。

 ドンダ=ルウは早くも食事を終えた様子で、土瓶の果実酒を豪快にあおっていた。


「果実酒なんざかけてやがるから、甘たるくて仕方がねえし、アリアも腐ってるみてえにぐしゃぐしゃだ! おい! こいつはギバの足だけじゃなく、肩だか背中だかの肉まで使っているとか抜かしていたなあ?」


 どうやらドンダ=ルウは、心底から『ハンバーグ』が気に入らなかったようである。

 しかしアイ=ファは多少の緊張を強いられながらも、そこまでの怒りを覚えることにはならなかった。ドンダ=ルウがどう思おうとも、重要であるのはジバ=ルウの心情であったのだ。


「ギバの胴体なんぞを喰らうのは、腐肉喰らいのムントだけだッ! 俺様は森のけだものじゃねえッ! 人間だッ! 誇り高き森辺の狩人なんだ! その俺様にムントと同じものを食わせるなんざあ、いったいどういう了見なんだよ!?」


 止める人間もないまま、ドンダ=ルウは怒りの言葉をまくしたてる。

 すると――ジバ=ルウがゆっくりと、ドンダ=ルウのほうに向きなおった。


「ぎゃんぎゃんと喧しい子だねえ。……それじゃあ家長を継ぐ前と一緒じゃないかい……?」


 ジバ=ルウの声が、いっそうの精彩を帯びている。

 アイ=ファはむしろ、その事実に背中を震わせてしまった。


「……これがムントの食べ物だったら、ムントのほうが人間より上等ってことになってしまうねえ……まあ案外、森ではそれが真実なのかもしれないけどさ……でも、お前がそう考えているなら、それはそれでかまわないんだよ、家長のドンダ。何を正しいと思うかは、人間それぞれの自由なんだから……この婆にとっては、この肉が正しいってことなのさ……」


「すごい……ジバ婆が、昔みたいに元気に喋ってる……」


 リミ=ルウが、呆然とした声でつぶやく。

 ほとんどまぶたに隠されたジバ=ルウの目が、今度はそちらに向けられた。


「これはリミも一緒に作ってくれたんだってねえ。……すごく美味しいよ。ありがとうねえ、リミ……」


 リミ=ルウは「ううん!」と首を振ってから、泣き声を呑み込むかのように『ハンバーグ』を口に詰め込んだ。

 ジバ=ルウはしばらく無言でその姿を見守ってから、「アイ=ファ……そこにいるのかい?」と、つぶやいた。


「悪いんだけど、婆はもうすっかり目も弱くなっちまったんだよ。こんな暗がりじゃ何も見えやしない……いるなら、こっちに来て顔を見せてくれないかい……?」


 アイ=ファは、動くことができなかった。

 すると、隣のアスタが「おい」と肘で脇腹を小突いてくる。

 まったく気持ちの定まらないアイ=ファはアスタの顔をにらみつけ、その手首をひっつかんでから、ジバ=ルウのもとに参じることになった。


 間近で見ると、ジバ=ルウの小ささがいっそうあらわになる。

 以前よりも、ひと回りは小さくなってしまったのではないだろうか。

 だが――それ以外は、すべてアイ=ファが知る通りのジバ=ルウであった。


 先刻まではあんなに虚ろであった瞳に、温かな光が宿されている。

 アイ=ファが大好きであった、ジバ=ルウの眼差しだ。

 その皺深い顔にも、とても優しい微笑みがたたえられていた。


「ジバ=ルウ。……ファの家の、アイ=ファだ。こっちのは、家人のアスタ」


 アイ=ファがすべての感情を押し隠した声でそのように告げると、ジバ=ルウはこちらに指先をのばしてきた。


「ああ……ひさしぶりだねえ……いったい何年ぶりだろう……ずっとあんたに会いたかったんだよ、アイ=ファ……」


 ジバ=ルウの痩せ細った指先が、アイ=ファの頬に触れてくる。

 その指先にも、アイ=ファが知る通りの温もりが宿されていた。

 そして――その優しい言葉が、鋭く引き締めたアイ=ファの心にゆるゆるとしみこんでいったのだった。

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