赤き猫と黒き深淵(二)
2024.11/14 更新分 1/1
謎の少年アスタをファの家に迎えて、2日目――アイ=ファはさっそく、自分の判断を後悔することになった。
こともあろうに、寝ぼけたアスタがアイ=ファの首に噛みついてきたのだ。しっかり気を張っていたアイ=ファでも回避できなかったほど、それは想定外の行動であった。
アスタいわく、何かを食べる夢を見ていたので、美味そうな匂いを発していたアイ=ファにうっかり噛みついてしまったのだろう、とのことである。
怒り心頭したアイ=ファは、再び刀を手を取ることになった。
それでもアスタを殺めずに済んだのは――こんな馬鹿馬鹿しい理由でファの家を血で汚しては、両親に顔向けができないと思い至ったためとなる。今にして思えば、アスタを落とし穴から救い出したのがそもそもの間違いであったのかもしれなかった。
どうしてこのアスタという少年は、こうまでアイ=ファの心をかき乱すのか。
他者と交流するのも2年ぶりであったアイ=ファには、あまりに荷が重い相手であった。
そうしてアスタの頭を小刀の柄で小突き回したのち、朝の仕事に励んでいると、アスタがまたわけのわからないことを言い出した。
「今晩から、俺に夕食を作らせてもらえないか?」
アスタは、そのように告げてきたのである。
その顔は飄然としていたが、目には真剣な光がちらついている。そういえば、アスタは故郷で『料理人』などというものを生業にしていたのだと言い張っていたのだった。
料理人とは料理を手掛ける人間、つまりはかまど番ということであろう。
どうしてそのようなものが生業になるのか、アイ=ファには意味がわからなかったが――宿場町では、屋台で料理を売っている人間が多数存在する。何にせよ、アスタは町の人間であったのであろうから、ああいった手合いと同類なのだろうと納得するしかなかった。
しかしまた、森辺の民にとっての食事というのは、生きるための手段である。美味かろうと不味かろうと、生きていくには食事が必要であるのだ。
ギバを狩り、その肉を喰らい、牙や角や毛皮を売って塩や野菜を買い求めて、肉だけでは足りない滋養を補う。それを達成することが肝要であり、美味いだの不味いだのと取り沙汰することに如何なる意義も見出すことはできなかった。
たとえば、腐りかけたギバ肉は異臭を放ち、きわめて不快な味わいである。
それを食して、腹を壊せば間違った行いであり、何事もなく健やかに生きられるのならば正しい行いであるのだ。腐りかけた肉は不味いからといって口にせず、飢えて力を失うようであれば、それもまた間違った行いであった。
どれだけ美味であろうとも滋養がなければ無意味であり、どれだけ不味くとも滋養があれば有意である。肝要なのは、その一点であろう。
よってアイ=ファはさして悩むこともなく、アスタの申し出を受け入れた。
ギバ肉とアリアとポイタンを煮込むことなど、誰にでもできるのだ。それらの食材を無駄にするような真似をしなければ、何がどうでもかまわない。おかしな熱情をたたえたアスタの申し出を突っぱねる理由は、アイ=ファの側に存在しなかった。
そうしてその後は朝の仕事として、薪やピコの葉を採取するために森の端へと足を向けたのだが――そこで思わぬ奇禍に見舞われることになった。
ラントの川で、マダラマの大蛇に襲われることになったのだ。
マダラマの大蛇は、モルガの山を統べる三獣のひとつである。
外界の人間はモルガの山に触れず、モルガの三獣は外界に触れない――それは絶対の約定であるはずなのに、マダラマが森の端に姿を現して、アイ=ファに牙を剥いたのだった。
おそらくそのマダラマは、他なる獣に敗れて川に逃げ込むことになったのだろう。そうして瀕死の状態であったため、うかうかと川に流されてしまったのだ。
普段のアイ=ファであれば、刀のひと振りで片付いていた話である。
しかしまずいことに、アイ=ファは身を清めているさなかであった。岩の向こうにたたずむアスタや森の様相にばかり注意を向けて、川を流されてきたマダラマの接近に気づくことが遅れてしまったのだ。
裸身で身を清めていたアイ=ファは刀を手に取ることもできないまま、マダラマに五体を絡め取られてしまった。
瀕死とはいえ、モルガの三獣である。即時に生命を奪われることにはならなかったが、アイ=ファはまったく身動きを取ることができなくなってしまった。
それを救ってくれたのは、アスタである。
脆弱なるアスタがマダラマごとアイ=ファを川べりに引きずりあげて、手近な岩塊でマダラマを殴りつけ、アイ=ファの身を救い出してくれたのだ。
一歩まちがえば、アスタも魂を返していたところであろう。
だからアイ=ファも「近づくな」と警告したのに、アスタは蛮勇をふるってマダラマを退けてみせたのだった。
そうして息をつく間もなくギバまで襲いかかってきたために、そちらはアイ=ファが一刀のもとに斬り捨てることになった。
そのギバが、今宵の晩餐に使われることになったのである。
そこでアスタが、また奇妙な行動に出た。
このように巨大なギバは後ろ足をもいで帰れば十分であるのに、「そんなの、勿体なさすぎるだろ!」と言い張ったのだ。
さらにアスタは、アイ=ファが見知らぬ手順でギバをさばき始めた。
まずは首に小刀を刺して血を抜いたかと思うと、至極慎重な手つきで内臓を抜き始めたのである。
ギバの内臓など腹をかっさばいて引っ張り出せば済む話であるのに、アスタはまるで壊れ物でも扱うかのように、ひとつずつ丁寧に内臓を取り出していた。アイ=ファもかつて父親から、ギバの胴体を喰らう際には必ず内臓を抜いて捨てるようにと言い渡されていたが、これほど慎重に扱うようにと習った覚えはなかったし――ましてや、ギバの息のある内に血を抜くべしなどという話は、耳にした覚えもなかった。
「あのなあ、肉の臭みってのは、血の臭みなんだ。しっかり血抜きすれば、ギバの肉だってそうそう臭くはならないはずなんだぞ?」
アスタは、そんな風に言っていた。
まあ、アイ=ファにとっては些末な話である。よって、アスタの判断に任せることにした。
そうしてその後は、血と内臓を抜いたギバを家まで持ち帰り――アスタがひとりで皮剥ぎと解体の作業に取り組むことになったのだった。
邪魔立てをする気はないが、手伝うつもりもない。実はアイ=ファもマダラマとの戦いによってずいぶん疲弊していたので、身を休めながらアスタの行いを見守ることにした。
アスタはなかなか器用な手つきで、ギバの毛皮を剥いでいく。
アスタの腕力などはたかが知れているのだから、すべては器用さの賜物であろう。そして、その汗に濡れた横顔には思わぬ熱情がたたえられていた。
しかしやっぱり体力が不足しているため、ギバの半身の皮を剥ぐだけで二刻ばかりもかかっている。そこで小休止を入れたアスタは、ひどく充足した面持ちであり――アイ=ファはつい言葉をかけずにはいられなかった。
「……お前はずいぶん手先が器用なのだな、アスタ」
「ああ。まあ料理に関してだけはな」
「それに、ずいぶん真剣なのだな」
「ああ。まあ料理に関してだけはな」
「……そんな厄介な手順など踏まずとも、ギバの肉など煮れば食える。どうしてそのように余計な仕事で、そこまで真剣になれるのだ?」
アスタは憤慨するかと思いきや、きわめて穏やかな面持ちでアイ=ファを振り返ってきた。
「俺は、美味い飯を食ったり食わせたりするのが好きなだけだよ」
それが、アスタの返答であった。
やはりアイ=ファには、理解が及ばない。そして、理解できないことが、落ち着かない心地であった。
(その熱情を真っ当なものに向ければ、大きな仕事を果たすこともできように……どうして無駄なことに、熱情を傾けるのだ?)
そんなアイ=ファの内心も知らず、アスタは作業を再開させた。
長い時間をかけてギバの首を落としたかと思うと、残されていた半身の皮剥ぎに取り掛かり、それが終了したならば四肢の解体である。
作業を進めていく過程で、アスタの瞳はどんどん輝きを増していく。
いつでも決して消えることのなかった失意の陰りまでもが、そのきらめきにかき消されたかのようだ。
そんなアスタの横顔を眺めていると、アイ=ファの心までもが安らいでいく。
まあ――たとえ昨日出会ったばかりの相手だとしても、悲しげな目つきをしているよりは楽しげな目つきをしているほうが、望ましいことだろう。アイ=ファは何だか、たわいもない遊戯に耽る幼子の姿でも見守っているような心地で長きの時間を過ごすことになったのだった。
◇
すべての作業を終えた後、アスタは泥のように眠りこけた。
その間に、アイ=ファはギバの毛皮から脂を削ぎ取り、骨ガラを谷底に捨てて、下敷きに使った戸板を水で清めた。
脂を削いだ毛皮に関しては――いつも通り、フォウの集落にこっそり打ち捨てることにした。
蝋燭を作るには脂が必要であるため、アイ=ファもギバを捕らえた際にはいつも毛皮を剥いでいる。余分な肉はそのまま森に置き去りにして、後ろ足と毛皮だけを持ち帰っていたのだ。そしてアイ=ファは毛皮をなめすすべを習っていなかったため、いつもひそかにフォウの集落に送り届けていたのだった。
父が生きていた時代には、きちんと正面からフォウの者たちに毛皮を受け渡していた。フォウの家はファの家よりも貧しかったので、たいそう喜ばれていたものである。
そして父を失った現在はあらゆる相手と縁を切る必要があったので、こうしてこっそり集落まで届けている。たとえ縁を切ろうとも、フォウの人々が飢えで苦しむのは忍びなかったし――今ではアイ=ファの幼馴染である女衆も、フォウの家に嫁入りしていたのだった。
(こんなていどで、サリス=ランの――いや、サリス・ラン=フォウへの贖いを果たすことはできまいがな)
アイ=ファは幼馴染の説得を振り切って、狩人として生きる道を選んだ。さらにその前には、彼女が婚儀を挙げる予定であった男衆がアイ=ファに懸想するという、忌まわしき事態も起きていたのだ。
よってアイ=ファは、サリス・ラン=フォウとの絆も断ち切った。
どうせスン家と悪縁を結んだからには、すべての相手と縁を切るしかなかったのだ。その寸前に関係がこじれて、アイ=ファがサリス・ラン=フォウに嫌われていたのなら――むしろ、望ましいぐらいの話であった。
(たとえどれだけ嫌われようとも、サリス・ラン=フォウは私にとって大切な友であった。この先、二度と口をきく機会がなかろうとも……私を支えてくれているのは、家族や友の存在であるのだ)
そうしてアイ=ファがファの家に帰りついたのは、ちょうど日が没した頃合いである。
広間に横たわったアスタは、まだ呑気な寝顔をさらしている。思わず口もとがゆるみそうになるのを自制しながらかまどに火を焚いていると、その物音でアスタが目覚めたようであった。
「ようやく起きたか。まだ目覚めぬようなら水でもかけてやろうかと思っていたところだぞ」
「ひでえこと言うなあ。……俺は何時間ぐらい眠ってたんだ?」
何時間とは――何刻という意味であろうか?
何にせよ、アイ=ファは刻限など気にしていなかったので、答えようはない。かまどに薪を追加しながら、もっと実のある話を口にすることにした。
「ギバの残骸は谷に捨てて、戸板は適当に洗っておいた。……いい加減に腹が空いたぞ、私は」
「了解。それじゃあ今度は、俺が働く番だな」
アスタは無邪気な笑顔をさらしてから、いそいそと食糧庫のほうに向かっていく。
まるきり、我が物顔である。しかしアイ=ファは腹が立つこともなく――その代わりに、腹の内側をくすぐられるような心地であった。
やがてアスタは、ギバ肉とアリアとポイタンを手に戻ってくる。
ゴヌモキの葉にのせられたギバの足肉はまだ鮮やかな色合いをしており、アスタが懸命にさばいたギバの肉であることが知れた。
「さて。野菜はこの数がノルマなんだよな?」
『のるま』とは、どういう意味か――面倒であったので、アイ=ファは「肉ばかり食っていては死ぬぞ」とだけ答えた。
アスタはひとつうなずいて、自前の刀を取り上げる。
妙に刀身が薄い、よく手入れのされた小刀である。アスタはその刀を救おうとしたために生命を落としたのだと語っていた。
「そうだ。肝心なことを聞いてなかったぜ。なあ、アイ=ファ。この家には他に食材とか調味料ってもんは存在しないのか?」
そんなアスタの問いかけに、アイ=ファは小首を傾げてみせる。
「ギバとアリアとポイタンを食していれば、さしあたって病にかかる心配はない」
「うん。だけどお前って、それ以外の匂いもプンプンさせてるじゃないか? 花だか果実だか香草だかわかんないけど、まだ何かしら取り扱ってるものがあるんだろ?」
アスタの無遠慮な物言いに、アイ=ファの頬が熱くなった。甘い香りというのは、おそらくギバ寄せの実のことなのであろうが――髪や肌にしみついたギバ寄せの実の香りは、もはやアイ=ファの香りも同然であるのだ。
「アスタ。昨日から言おう言おうと思っていたが。私の匂いがどうとか、おかしな言葉を口にするのは、やめろ」
「いいじゃん、別に。いい匂いがするっていう褒め言葉なんだからさ」
「……それで食われそうになるのでは身がもたんわ!」
アイ=ファはアスタに噛みつかれた箇所に手の平をあてがいながら立ち上がり、食糧庫から塩と果実酒を運び込んだ。
するとアスタは、たちまち喜色をあらわにする。アイ=ファは腹が立ってならなかったが、同時に腹の中をくすぐられているような感覚も残されていた。
アスタも、正直な人間ではあるのだろう。少なくとも、アイ=ファのように内心を隠そうとする素振りは見られない。ただ唯一、心の奥底に秘められた悲嘆の思いだけは表に出さないようにと苦心している様子であるが――こうしてかまど仕事に励んでいる際には、自然に負の感情を忘れられるようであった。
(……それほどに、こやつはかまど仕事に夢中であるのだな)
だからアイ=ファも、アスタの邪魔立てをしようという気にはなれないのだろう。
だが、しばらくアスタと言葉を交わしていると、そんな思いが根底からくつがえされそうになってしまった。
「……腹が減ったぞ。いつになったら食えるのだ?」
「んー? 目安としては、60分から90分……昨日の3倍から4倍ぐらいの時間を予定してるけど」
60ぷんや90ぷんという言葉の意味はわからなかったが、昨日の3倍から4倍ということは一刻以上の時間である。
アイ=ファが思わず溜息をつくと、アスタはとても申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんな。俺も腹ぺこなんだけどさ。……これだったら、解体作業の後、すぐに調理を始めちまっても良かったかもな」
「……お前に休めと言ったのは私だし、お前に食事の準備をまかせると言ったのも私だ。お前が責任を感じる必要はない」
アイ=ファがそのように答えると、アスタは何か可笑しそうに目を細めた。
いったい何がおかしいのかと、アイ=ファは腹が立つ。しかしまた、それには腹の中をくすぐられるような感覚がともなった。
そうしてまさしく一刻以上が過ぎ去った後――ようやく食事が完成した。
ギバの足肉とアリアを煮込んで、塩やピコの葉を加えただけの食事である。なおかつ、ポイタンを入れると台無しになってしまうため、それは肉とアリアを食べ終えたのちにあらためて煮込むなどと言いたてていた。
「正直言って、これは試作品第一号だからな。俺としても自信満々ってわけにはいかない。こいつを土台にして今後はさらに研鑽を重ねるつもりなので、まあ、率直な感想を聞かせてくれよ」
「……美味いだの不味いだの、そのようなことはどうでもいい。そんな私に感想など求めても、無益だ」
「わかったわかった。……それじゃあ、いただきます!」
子供のようにはしゃいでいるアスタを前に、アイ=ファは小声で食前の文言を唱えた。
食前の文言とは、母なる森と食事を手掛けたかまど番に感謝を捧げる儀式である。多大な苦労を背負ったアスタに敬意を払いつつ、それを本人に伝える気持ちにはなれなかった。
そうしてアイ=ファは、何の気もなしに煮汁をすすり――そして、打ちのめされることになった。
アイ=ファは慌ててアスタのほうをうかがったが、あちらはあちらで真剣な面持ちで食事を進めている。アイ=ファはほっと安堵の息をつきながら、あらためてギバの肉を口に運んだ。
とたんに、先刻の衝撃が倍する勢いで押し寄せてくる。
ギバ肉の味が、とても心地好かったのだ。
ギバ肉らしい味や香りが、口や鼻の中で跳ね回っている。
しかしそこからひとつの香りだけが消えており、それがアイ=ファを打ちのめしたのだった。
血抜きをすると臭みが消えると、アスタは何度も言い張っていた。
であれば、消えた香りこそが臭みというものであったのだ。
アイ=ファはその存在が消え去ったことによって、初めてその存在を認識したような心地であった。生きるために必要な糧の中で、あの香りだけが不要なものであり、不快な存在であった――その事実が、一瞬にして理解できてしまったのである。
アイ=ファは騒ぐ心臓をなだめながら、さらにギバ肉とアリアを食して、煮汁をすすりこむ。
その煮汁にも、肉とアリアの風味が溶け込んでいた。
まるで活力そのものが、アイ=ファの五体にしみいっていくかのようである。
マダラマと生命を賭して戦い、大きく損なわれたアイ=ファの生命力が、これらの食事で満たされていくような心地であった。
肉は普段よりもやわらかく、塩やピコの葉の風味が強い。
それも、普段より長きの時間をかけて煮込み、後から塩やピコの葉を加えたためであるのだろう。
アスタが食事にかけていた余分な手間は、すべてこのためであったのだ。
瞬く間に一杯目をたいらげたアイ=ファは、かまどに置かれていた鉄鍋から二杯目の煮汁をよそって、席に戻った。
すると、アスタが不安げな声で呼びかけてきた。
「なあ、どうかな? 俺としては、けっこう上出来だと思うんだけど」
アイ=ファは煮汁をひと口すすってから、答えた。
「何がだ? ……私に感想など求めても無益だと言っただろう」
「いやあ、それはそうなのかもしれないけど……」
アスタはたいそう落ち着かなさそうな様子で、身を揺すっていた。
その目には、怯えた子供のような光がたたえられている。いったい何を怯えているのかとアイ=ファがいぶかっていると、アスタは同じ調子で言葉を重ねた。
「あ、あのさあ、俺が調理に長々と時間をかけたのは、その、もしかしたら、無意味だったかな……?」
アイ=ファは眉をひそめつつ、アスタの顔から手もとの煮汁へと視線を移した。
そして、自分の心と相対する。このように不安げな眼差しを向けられては、アイ=ファも適当にやりすごすことができなかった。
(もしや、こやつは……自分の仕事が無意味であると断じられることを恐れているのであろうか?)
アスタは、すべてを失った。しかし、かまど仕事に励んでいる際だけは、その悲嘆を忘れたかのように瞳を輝かせていたのだ。
きっとアスタは絶望の思いを振り切って、仕事に邁進しているのだろう。
きっと――今のアイ=ファと、同じように。
(ギバ狩りの仕事に意味がないなどと断じられたら、私は生きていくことができるだろうか?)
答えは、否である。
もしも明日からギバ狩りの仕事を免除されて、森の恵みを好きなだけ喰らうといいなどと言い渡されたならば――アイ=ファは絶望の底に突き落とされてしまうはずであった。
アイ=ファは自らの意志で、すべての友との絆を断ち切った。それもひとえに、森辺の狩人として生きていくためであったのだ。その決断が、アイ=ファが過ごしてきた孤独な2年間が、まったくの無意味であったならば、アイ=ファは生きていく意味を完全に見失ってしまうはずであった。
(こやつもまた、それほどの思いでもって、かまど仕事に取り組んでいるというのか?)
アイ=ファには、わからない。
よって――アイ=ファも真情をさらすしかないようであった。
「……私にとって、食事に、美味いも不味いもない。食事とは、生きるための手段なのだ」
「……ああ」
「そんな私に、味の感想などを求められても、困る。私はそんなものを語る言葉を持ちあわせていない」
「ああ。そうなんだろうな」
「だけど、はっきりわかるのは……」
アイ=ファは顔を上げて、正面からアスタの顔を見つめた。
アスタはまだ子供のように不安げな顔をしている。
まるで、アイ=ファの言葉ですべての運命が決せられるとでも思い込んでいるかのようだ。
やはりアイ=ファは、真情を打ち明けるしかないようであった。
「……美味い、というのは、こういうことなのだな」
決して言葉を飾ることなく、アイ=ファは心に浮かんだ言葉をそのままアスタに投げかけた。
「食べる、という行為自体が、楽しくて……心地好くて……幸福な、気持ちになる。これが、美味いものを食べる、ということか」
アスタは何か衝撃を受けた様子で、固まってしまっている。
アイ=ファの真情は、伝わっているのだろうか?
しかしアイ=ファも、十分に混乱しているのだ。今はその混乱した思いを、そのまま言葉にするしかなかった。
「お前が料理などというものに情熱を傾けて、馬鹿みたいに真剣になる理由は、わかった。……わかったと、思う。本当はわかっていないのかもしれないが、少なくとも、お前の行動を否定しようという気持ちにはなれない」
「アイ=ファ……」
「語るべき言葉が見つからないのだ。これ以上は説明できない。だけど、お前は正しいことをしたのだと思っている」
そのように語ると同時に、アイ=ファの口もとがついほころんでしまった。
アスタが、頑是ない幼子のような顔になってしまっていたのだ。
「だから、そんな悲しそうな顔をするな。この料理は、美味い」
アスタはひとつうなずいて、おもむろに食事を再開させた。
アイ=ファもまた、無言のままに煮汁をすする。
そうしてちらりと、アスタのほうをうかがうと――つい先刻まで泣きそうな顔をしていたアスタが、狩人のごとき気迫で奮起の思いをあらわにしていた。
(……本当に、腰の据わらぬ男だな)
そうしてアイ=ファは再び表情を崩してしまったが、幸いアスタはまったく気づいていないようであった。




