第八話 赤き猫と黒き深淵(一)
2024.11/13 更新分 1/1
アイ=ファがこの世に生まれ落ちたとき、世界は光に包まれているように感じられた。
きっとそれは、両親が心からアイ=ファを慈しんでくれたからなのだろう。その頃にはもう他の血族も死に絶えてしまっていたが、両親は掛け値なしの情愛をアイ=ファに注いでくれたのだった。
しかし、母親はアイ=ファが13歳の年に病魔で魂を返し、父親はその2年後にギバの牙に倒れて――アイ=ファは、独りきりになった。
なおかつ、族長筋たるスン家と悪縁を結び、ルウ家からの嫁取りを断ったアイ=ファは、すべての友をも捨て去ることになって、本当に独りきりで生きていくことになったのだった。
しかしアイ=ファは、それでかまわないと思っている。
これこそが、アイ=ファの選んだ道であったのだ。
アイ=ファは狩人として生きて、森に魂を返す。その願いを聞き入れてくれる人間が他にいないというのならば、独りきりで生きていくしかなかった。
もっとも、ルウ家の最長老たるジバ=ルウや末妹のリミ=ルウなどは、アイ=ファが思うままに生きていくことを許してくれたのだが――ルウ家からの嫁取り話を拒んだ以上、もはやあわせる顔はない。そして、スン家との諍いに巻き込まないためにも、大切な人々を遠ざける他なかった。
それでもアイ=ファは、狩人として生きたいと願ったのだ。
たとえ縁が切れてしまったとしても、友たちと過ごした大切な記憶は心に刻みつけられている。その温もりをよすがとして、アイ=ファは狩人として生きる道を選び取ったのだった。
◇
そうして、2年ほどの歳月が過ぎ去って――17歳となったアイ=ファは、ひとり黄昏刻の森を歩いていた。
今日はギバを仕留めることができなかったため、手ぶらである。それでも安全な家に辿り着くまではと、アイ=ファは油断なく歩を進めていた。
アイ=ファは父の形見たる狩人の衣を纏い、腰には大刀をさげている。
父を亡くしたばかりの頃は、この大刀を満足に使いこなすこともできなかった。それでもアイ=ファはギバ寄せの実を駆使して罠を張り、生きていくのに必要なだけのギバを捕らえて、ひたすら狩人の修練に励んだのだ。そうして半年が過ぎる頃には大きく背ものびて、大刀を振るえるだけの膂力を授かり、ついに森辺の狩人を名乗れるだけの存在に成り上がったのだった。
アイ=ファの首には、たくさんの牙と角が下げられている。
これらもすべて、アイ=ファが仕留めた収獲の証だ。人間ひとりが生きていくための糧を得るには10日に1頭のギバを狩るだけで事済んだが、アイ=ファはそれ以上の収獲を得ることができるようになっていた。
(しかし、まだまだだ。いつこの刀が折れても代わりを準備できるように、ギバ30頭分の蓄えをしなければな)
アイ=ファがそんな風に考えたとき、どこからかおかしな気配がした。
くぐもった人間の声のように聞こえたが――しかしファの家の狩り場であるこの場所から、そんな声が聞こえるはずはなかった。
(フォウやランの狩人が手傷を負って、こちらの狩り場に逃げ込んできたのか? それとも、まさか……スン家の人間か?)
アイ=ファはいっそう心を研ぎ澄ましながら、その奇妙な気配を辿った。
周囲はどんどん薄暗くなってきたが、さりとて侵入者を放置することはできない。他の氏族の狩人が窮地にあるのならば助力が必要であろうし、スンの家人が狩り場を荒らしているのなら――この刀で、然るべき報いを与えなければならなかった。
「おーい! 誰かいないかあ!?」
と、奇妙な気配がついに言葉としての形を成す。
若い、男の声だ。悲嘆に暮れているような、癇癪を起こした幼子がわめいているような――何にせよ、森辺の狩人には似つかわしくない感情がにじんでいた。
(この方向は……私が罠を仕掛けた場所だな)
音をたてないように小走りで進むと、やがて地面にその罠が見えてきた。巨大なギバでも這い上がれように仕上げた、落とし穴の罠だ。
アイ=ファが慎重にその落とし穴を覗き込むと、穴の底に奇妙な人間がうずくまっていた。
この薄暗がりでもやたらと目につく真っ白な装束を纏った、若い男――いや、アイ=ファと同程度の年齢をした、少年である。装束は白いのに、その頭は宿場町で見かける東の民のように真っ黒であった。
いずれにせよ、森辺の民ではない。
それは黄色みがかった肌をした、町の人間であった。
町の人間が森辺の狩り場に足を踏み入れるなど、まずありえない話である。
それでアイ=ファが誰何するべく口を開きかけると、それより先に少年がまたわめき散らした。
「くそっ! 神だか悪魔だか知らねえけど、俺が何をしたってんだよ!? 俺の人生は、そんなに間違ってたってのか!? そりゃあ他人に自慢できるような死に様ではなかったかもしれないけど、こんな陰湿な罰ゲームを食らわされる覚えはねえぞ! 文句があるなら、もっと景気のいい地獄にでも突き落としてみやがれ!」
アイ=ファはひとり、眉をひそめることになった。
あくま――げーむ――じごく――いずれも聞き覚えのない言葉である。やはりこの少年は、シムの血でも混じっているのかもしれなかった。
(しかし、このように騒がしい東の民など、見た覚えもないぞ)
ともあれ、このように得体の知れない存在を放置することはできない。
アイ=ファは身を隠すのを取りやめて、声を投げかけることにした。
「……ずいぶんやかましい男だな。そんなところで何を騒いでいるのだ、お前は?」
少年は愕然とした様子で、落とし穴の淵にたたずむアイ=ファのことを見上げてきた。
荒っぽい口調とは裏腹に、ずいぶんあどけない顔立ちをしている。まあしかし、町の人間というのはゆるみきった顔をしているものであるのだ。やはりこの少年は、まぎれもなく町の人間であった。
「見ての通り、落とし穴なんぞにはまっちまったんだよ。どこの誰だか知らないけど、まったくひどい悪ふざけだよなあ」
まったく道理の通らない少年の物言いに、アイ=ファは少なからず反感をかきたてられてしまう。町の人間が勝手に狩り場に踏み込んでギバ狩りの罠に文句をつけるなど、決して許される話ではなかった。
「……これは、私が仕掛けた罠だ」
「え?」
「ギバを捕らえるための罠であったのに、人間なんかでは腹もふくれない。いったい私がどれだけの苦労をしてこの罠を仕掛けたと思っているのだ、お前は?」
アイ=ファがそのように言いつのると、少年はたちまち目を白黒させた。
ずいぶん動揺しているようであるが、それほど悪辣な人間ではないのだろう。そこはかとなく、愛嬌を感じさせる挙動であった。
「ええ? いやあ、まあ……どうもすみませんでした? あれえ? これって俺が謝る立場なのかなあ?」
「…………」
「うん。でもまあ、これだけの力作を台無しにしちまったのは悪かった。謝るよ。謝るから、ここを出るのに手を貸してくれないか?」
「……これぐらいの高さなら、自力で登ることも可能だろう」
アイ=ファが身を引くと、慌てふためいた声が追いかけてくる。
「いや! 実は落ちた拍子に足首をひねっちまったんだよ! そんな大した怪我ではないと思うけど、自力で脱出するのは無理そうなんだ。悪いけど、力を貸してくれ」
「……知るか。勝手に野垂れ死ね」
そんな風に答えながら、アイ=ファは手近に生えのびていた樹木の1本に近づいた。都合よく、その立派な幹にフィバッハの蔓草が巻きついている。フィバッハの蔓草はとても丈夫で、町に通ずる吊り橋などにも使われているのだ。
「ちょっと! それは薄情すぎるだろ! おーい、助けてくれってば!」
少年のあわれげな声を聞きながら、アイ=ファはフィバッハの蔓草を樹木から引き剥がし、絡まっている部分を小刀で切り離した。
「おーい! 頼むよ! このままじゃ本当に飢え死にしちまうよ! 人の心があるなら戻ってこーい!」
「……やかましい男だな」
蔓草1本では不自由であろうと思い、アイ=ファは何本かの蔓草をよじり合わせた上で、その先端を落とし穴の底に投じる。そして今度は、大刀を抜いて少年の到着を待ち受けることにした。
(いかにもひ弱そうな人間だが、シムの血筋であれば毒を扱うかもしれんし……私を若い娘と侮って、不埒な真似に及ぶ恐れもあろうからな)
アイ=ファも食料や薬などを買うために、しょっちゅう宿場町に下りている。町の人間の扱いは、それなりにわきまえているつもりであった。
町の人間は、信用ならない。町の人間は傲慢かつ臆病で、森辺の民を獣でも見るような目で見るのだ。とりわけ宿場町で暮らす西の民というのは、森辺の民を忌避しているようであった。
「……とっとと上がってこい」
アイ=ファが声をかけると、樹木に巻きついた蔓草がぎしぎしと軋んだ。
しかし、足を痛めているためか、あるいは腕力が足りていないのか、いつになっても姿を現さない。それでもアイ=ファが油断なく大刀を構えていると――ようやく穴の淵から、黒い頭がひょこりと覗いた。
「あいててて……どうもありがとうな。助かったよ」
地上に這い上がった少年は草むらにへたりこみながら、アイ=ファのほうに頭を下げてくる。
その鼻先に、アイ=ファは刀の切っ先を突きつけた。
「さて。お前はいったい何者なのだ?」
少年はきょとんと目を見開いてから、慌てて後ずさった。
やはりどこか、愛嬌を感じさせる表情と所作である。
「な、何だよ? いきなり物騒なご挨拶だな! 落とし穴のことは謝るって!」
「やかましい。とっとと質問に答えろ」
少年はひとつ溜息をついてから、刀の切っ先とアイ=ファの顔を見比べた。
「その前に。ここはいったい何処なんだ? 何だか、あの世っていう雰囲気でもなさそうだけど……」
「ここは、モルガの山の麓にある、森辺だ」
「……モルガの山?」
「西の王国セルヴァの版図。地方領主ジェノスの治める地だ。……お前は、どこから来た?」
少年は困惑しきった面持ちで、やがて答えた。
「俺が生まれたのは日本という国だ。日本の千葉県。わかるかな?」
「にほん……ちばけん……?」
また意味のわからない言葉が飛び出してきた。
まあ、アイ=ファはジェノスの他に名前を知る領地もなかったが――それにしても、いかにも異国めいた言葉であった。
(しかし、東の民とはあまりに気配が異なっているし……南の民とは、似ても似つかない。西の王国の、別なる領地の生まれであろうか?)
そんな疑念を抱きながら、アイ=ファはよくよく少年の姿を検分した。
髪と瞳は黒色で、肌は黄白色。その身を真っ白な装束に包み、足の先には奇妙な形状をした履物を履いている。手足も胴体もほっそりとしていて、いかにも柔弱な外見であった。
黒い髪は長くも短くもなく、あちこち毛先が跳ねている。ぱちぱちとまばたく目はどこか子供のように幼げで、線が細い顔立ちであるためか女衆のように可愛らしく見えた。
やはり町の人間らしく、武力などはまったく持ち合わせていないようだ。アイ=ファであれば、片腕でひねりつぶせそうなところであった。
ただし、白い装束の懐がやや膨らんでおり、いかにも刃物を隠し持っていそうな風情である。それでもこのような少年に負ける気はしなかったが、やはり用心は必要であった。
(それにしても……奇妙なやつだ)
アイ=ファが検分している間、少年のほうもこちらを検分していた。もう鼻先に突きつけられた刀の存在など忘れてしまったかのように、アイ=ファのことをじろじろと見回しているのである。
その黒い瞳には、さまざまな感情が見え隠れしている。
不安や焦燥、賞賛や驚嘆――この状況で何を賞賛しているのかは、さっぱりわからない。
そしてさらにその奥には、暗い陰りが感じられた。
何か、とてつもなく悲しそうな――そしてそれを懸命にねじ伏せようとしているような、悲壮な陰りである。そこはかとなく愛嬌があって、物言いなどは粗雑であったが、少年はその裏側に何か大きな傷を隠しているように感じられた。
(きっとこやつも、ただのうつけではないのだろう。しかし、この先どうしたものか……)
アイ=ファがそのように考えたとき、「ぐう」とおかしな音が鳴った。
地面にへたりこんだ少年が、腹を鳴らしたのだ。アイ=ファは思わず、構えていた刀の切っ先を揺らしてしまった。
「何だ。どういうつもりだ、お前は?」
「いや、どういうつもりって……腹が減ってきただけだよ」
少年が大慌てで自分の腹を抱え込むと、さらに「ぎゅるる」と異音が鳴り響く。
その光景に背中を撫でられたような感触を覚えて、アイ=ファは眉のあたりに力を込めることになった。
「おい、ふざけるな。私を馬鹿にしているのか?」
「ふざけてねえよ。生理現象なんだからしかたないだろ? お前がやたらと美味そうな匂いをプンプンさせてるもんだから、俺の胃袋が反応しちまっただけだよ」
「何のことだ? 私は食糧など持っていないし、今日だってお前のせいで収穫ゼロだ」
「ああ、だから、落とし穴を台無しにしちまったことは謝るけど……」
少年の言葉に、「ぎゅごわー!」という盛大な腹の音が重ねられる。
アイ=ファはいよいよ心を乱されて、肩を震わせてしまった。
腹の音が珍妙なばかりでなく、少年の慌てた顔があまりに滑稽で――なおかつ、妙に愛くるしかったのだ。
「とりあえず、お前さんの縄張りを荒らすつもりなんて、これっぽっちもなかったんだよ。何が何だかわからないまま、こんな場所に放り出されて、俺も困ってたとこなんだ。文句があるなら、すぐに出ていくから……」
少年は必死に言いつのるが、それも腹の音にさえぎられてしまう。
まるでギバの咆哮のような腹の虫だ。それが少年と一緒になって、アイ=ファに語りかけているかのようであった。
アイ=ファはどうしようもない衝動をこらえながら、少年の姿から目をそらす。
しかし、少年の声と腹の虫が追いすがってきた。
「……どうしたんだ?」
「ぐぎゅるる?」
「おい? 身体の具合でも悪いのかよ?」
「ぐぎゅる? ぐぎゅるぎゅる?」
そこまでが、アイ=ファの限界であった。
腹の底に押し込めていた衝動が咽喉を伝って、「ぷっ」と吐き出される。
それをこらえようとすると、涙がにじんでしまった。
「もういい……喋るな……」
「いや、喋るなって言われてもさ……」
「ぎゅる。ぐぎゅるぐぎゅるぎゅるぎゅる」
アイ=ファは刀を杖にしてへたりこみ、「ぷははははっ!」と大声で笑ってしまった。
アイ=ファがそんな風に笑ったのは――この2年間で、初めてのことであった。
どうしてこれしきのことが、こんなに愉快に感じられてしまうのか。
アイ=ファにはまったく見当がつかなかったが、とにかく心をくすぐられてならないのである。
そうして、その衝動がつむじ風のように吹き抜けていくと――その後には、同じだけの質量を備えた羞恥と屈辱の思いが残されていたのだった。
「……殺す」
「何でだよ!」
アイ=ファがあらためて刀を突きつけると、少年はへたり込んだまま後ずさった。
しかし背後には落とし穴が口を開けているので、逃げ場はない。アイ=ファは頬が火のように熱くなるのを感じながら、少年を追い詰めた。
アイ=ファは2年間も独りきりで過ごしてきたのに、こんな初対面の人間に感情をさらけだしてしまったのだ。アイ=ファはそれこそ、裸身を覗かれたような心地であった。
「こんな恥をかかされたのは生まれて初めてだ。……絶対に殺す」
「俺の無作法な胃袋がお前の自尊心をいたく傷つけてしまったのなら、謝ろう! すべては腹ぺこなのがいけないんだ! そういえば、今日は昼から何も食べてなかったし!」
少年は両手を上げながら、そのように言いつのった。
「俺は本当に困ってるんだよ! ここがどういう場所なのか、どうして俺がこんな場所に来ちまったのか、何が何だかわからないことだらけなんだ! この土地の常識や決まりごともわからないし、この先どうやって生きていけばいいのかもわからない! これでお前に殺されちまったら、俺はいったい何のために……」
と――そこで少年は唇を噛んだ。
懸命にねじ伏せていた悲嘆の思いが、その華奢な身体からあふれかえる。
そして少年は、一心にアイ=ファを見つめてきた。
その目は涙こそ浮かべていなかったが、絶大なる悲しみに陰っている。
アイ=ファは――このような悲しみに暮れる人間を目にしたのは、これが初めてのことであった。
「……お前の言っていることは、さっぱりわからない。お前は、石の都の住人ではないのか?」
「石の都? さっきも言ったけど、俺の故郷は日本ていう国だよ」
「……そんな名前の国は知らない。とりあえず、西の王国の民ではないのだな」
アイ=ファは悩み抜いた末、刀を下ろした。
アイ=ファの心にはさまざまな感情がせめぎあい、何をどうするべきかも判断がつかない。ただ、この奇妙な少年を放っておくことはできなかった。
「……もう少し、お前の話を聞かせてもらう。私の住処に来い。それが嫌なら、ここで殺して、埋めていく」
「……俺みたいに得体の知れない人間を、自分の家にお招きしてくれるってのか?」
「夜が近いのだ。この場でこれ以上お前と問答している猶予はない。……火の準備もなく森で夜を迎えたら、死ぬぞ」
アイ=ファが地面に落としていた鞘を拾い上げて刀を収めると、少年は片足をかばいながら身を起こした。
「わかった。そっちの指示に従うよ。……そういえば、自己紹介がまだだったな。俺は、津留見明日太ってもんだ」
また奇妙な言葉が放たれた。
人の名前とも思えぬ、奇妙な響きである。アイ=ファがそれを繰り返そうとすると、舌がもつれてしまった。
「とぅる……みゃーすた?」
「いや。津留見明日太」
「ちゅるみゅぁすた……」
「うん。呼びにくかったら、明日太でいいよ。お前の名前は何ていうんだ?」
アイ=ファはひと呼吸おいてから、「……アイ=ファ」と答えた。
少年は悲嘆の思いを奥底に隠しつつ、どこか和んだ目つきでアイ=ファの顔を見返している。
かくして――アイ=ファは謎の少年アスタと邂逅を果たしたのだった。
◇
その後も、アイ=ファの疑念は深まるいっぽうであった。
どれだけ言葉を交わしても、このアスタという少年の底が見えてこないのである。
アスタは、ひどくさまざまな顔を持っていた。そしてそれが女衆の纏う宴衣装の織物のように、ひっきりなしに色を変えていくのである。
ファの家への帰り道でスンの長兄ディガ=スンと出くわした際には、すぐさま愛想を振りまこうとした。
しかしアイ=ファがディガ=スンの悪行について語ると、血相を変えて怒り始めた。ディガ=スンのせいでアイ=ファが肩身のせまい思いをするのは理不尽であるなどと言って、黒い瞳に瞋恚の炎を燃やしたのだった。
それからファの家に到着した折には好奇心を剥き出しにして、そうかと思えば子供のように不安そうな顔も覗かせて、食事の準備をすると告げたならばすぐさま期待に瞳を輝かせて、食事を口にしたならば「不味い!」とわめきたてて――あまりにせわしなく感情が動くものだから、アイ=ファのほうこそ落ち着かない気分であった。
しかしまた、どれほど目まぐるしく感情を動かそうとも、その根底にはふたつの揺るぎないものが残されていた。
すべてを失ってしまった人間の失意と――それを跳ね返そうとする気概である。
アスタが語った素性というのは、きわめて信じ難い話であった。彼は父が大事にしていた刀を救うために火の海に飛び込んで、絶命してしまい、そして気づいたらモルガの森に倒れていたという話であったのだ。
そのように世界の道理から外れた話は、とうてい信ずることができない。
しかしまた、アスタ自身もその事実を自覚していた。よって、自分は気がふれているのかもしれないとも言っていたのだった。
ただ同時に、自分は自分の正気を信じているとも言っていた。どれだけ道理から外れていようとも、自分が過ごしてきた17年間に嘘はないと、そのように語っていたのだ。
それもまた、アスタの内の相反する情念の要因でもあった。
アスタは自分が正気を失っているのかもしれないと危ぶみつつ、絶対にそんなことはないと懸命にあらがっていたのだ。
アスタは本来の世界で生命を失い、まったく見知らぬ世界に飛ばされることになった。もとの世界に戻るすべもないのだから、もはや家族にも友にも会うことはできない。アスタが語るのは、そんな救いのない話であるのに――アスタはそれこそが絶対の真実であるはずだと、そのように念じていたのだった。
そんな救いのない話を事実だと言い張るぐらいならば、いっそ自分は正気でないと認めるほうが、よっぽど安楽なのではないだろうか?
アイ=ファはそのように考えたが、すぐに自分の間違いを思い知らされた。どれだけ苦しくても、どれだけ悲しくても、自分は自分の信じた道を生きるしかない――アイ=ファとて、そんな思いでこの2年間を過ごしてきたのである。
アスタはすべてを受け入れた上で、自分の道を進もうとしていた。自分の判断で火の海に飛び込んだアスタは、故郷と家族と友を失った絶望をも受け入れた上で、自分にとっての正しき道を探していたのだ。それがアスタの内に存在する、悲嘆と奮起の正体であった。
だからアイ=ファは、アスタを信じた。
死んだ人間が別の世界でよみがえるなどという、そんな道理から外れた話を信じたわけではない。アスタがそんな話を信じているということを、信じたのだ。
アスタは正気を失っているのかもしれないが、少なくとも虚言は吐いていない。アスタの瞳からこぼれ落ちる情念は、まじりけのない本物であった。よって、アスタが抱えている悲嘆と奮起の思いに嘘はないと、アイ=ファはそのように判じたのだった。
(私もまた、すべての家族と友を失った身だが……こうしてモルガの森に身を置いて、森辺の狩人として生きていくことができている。しかしこやつは、故郷までをも失ってしまったのだ)
それでもアスタは絶望に打ち沈むこともなく、懸命に生きている。その目の奥に悲嘆の陰りをちらつかせながら、自分らしく軽妙に、時にはおどけた姿をも見せていたのだ。どうしてそれほどの絶望を抱え込みながら飄々としていられるのかと、いっそ不思議に思えるほどであった。
ともあれ――アスタは、奇妙な人間であった。
だからアイ=ファも、無造作に放り出すことはできなかったのだろう。それでアイ=ファはアスタをあわれむ気持ちとあやしむ気持ちを等分に抱えながら、しばらくファの家で預かろうという思いに至ることになったわけであった。




