第七話 春を待てりて
2024.11/12 更新分 1/1
その日もユーミは、生家の宿屋である《西風亭》で仕事に勤しんでいた。
宿屋の食堂は、たいそう賑わっている。豊かなジェノスで一攫千金を狙うゴロツキどもに、もっとタチの悪い無法者、そんな無法者を恐れない東の民――雨季が明けたことにより、本格的な繁忙期が開始されたようであった。
(いや、なんだか雨季の前よりも賑わってるように感じるなぁ。それだけ、ジェノスそのものが賑わってるってことか)
一昨年よりも昨年のほうが、昨年よりも今年のほうが、明らかに客入りは増えている。場末の宿屋でこの有り様であるのだから、街道沿いの宿屋ではこれ以上の騒ぎであるのだろう。森辺の民が屋台の商売を始めて以来、ジェノスの活況は増していくいっぽうであったのだった。
(ま、ジャガルの王子様のおかげで、ジェノスの料理はいっそうの評判になったんだろうしな。稼ぎが増えたことに、文句をつけるわけにもいかないか)
ユーミがそのように考えたとき、遠からぬ場所で「いてえっ!」という声が響きわたった。
ユーミが慌てて振り返ると、ゴロツキのひとりが床に倒れ伏している。そしてそのかたわらにたたずむのは、森辺の女衆――食堂の手伝いに励んでいた、ランの本家の末妹であった。
「大丈夫ですか? もしもわたしのせいでしたら、申し訳ありません」
ランの末妹が心配げな声を投げかけると、同じ卓についていたゴロツキどもが盛大に笑い声を響かせた。
「森辺の嬢ちゃんが詫びる必要はねえだろうよ! こいつが勝手にすっころんだだけなんだからよ!」
「おうよ! あんたの尻をさわろうとして、椅子からずり落ちただけのこった!」
「それにしても、見事なかわしっぷりだったなぁ。お前さん、背中に目でもついてるのかい?」
ランの末妹はにこりと微笑みながら、「いえ」と応じた。
「でも何となく、気配を察したのです。わたしは狩人の修練など積んでいませんが、この身にはランの狩人の血が流れていますので」
「まったく、大したもんだね! そら、お前さんも、いつまで這いつくばってるんだよ!」
「あいててて」と身を起こしたゴロツキは、酒気に染まった顔でばつが悪そうに笑った。
「悪い悪い。ちょいとびっくりさせようとしただけなんだよ。狩人のあんちゃんには、黙っておいてくれよな」
「はあ。ただ、兄がこのような騒ぎを見過ごすとは思えませんが……」
ランの末妹が視線を巡らせると、遠い卓で東の民と相席をしていた次兄がすました顔で手を振った。その姿に、醜態をさらしたゴロツキは「うひい」と首をすくめる。
「ほ、本当に、悪気はなかったんだよ。もしものときには、取りなしてくれよな?」
「はあ。べつだん兄も、このていどのことで怒るとは思いませんが……ただし、未婚の男女がみだりに触れ合うのは、森辺において禁忌とされています。町のみなさんに森辺の習わしを強要することはできませんが、わたしは習わしに従うしかありませんので、どうぞ心置きくださいね」
ランの末妹はもういっぺん屈託のない笑顔を見せてから、お盆を掲げて受付台に戻ってきた。
そこでユーミと出くわすと、ランの末妹はいっそうあどけない笑みをこぼす。
「お客が転んでしまいましたが、怪我などはないようです。やっぱりお酒の入ったお客は、油断がなりませんね」
「うん。あんたもすっかり、客あしらいがさまになってきたねー」
「ありがとうございます。ユーミにそのように言っていただけるのは、誇らしい限りです」
こちらのランの末妹は、前々から屋台や食堂の仕事を手伝っていた。それで今では、これほど巧みに仕事をこなせるようになったのだ。手取り足取り仕事を教えたユーミのほうこそ、なんだか誇らしい気分であった。
「まさか森辺の娘さんが、こうまで巧みに食堂の仕事をこなせるとは思ってなかったよ。これってやっぱり、あんたならではの話なのかなー?」
「どうでしょう? でも、同じ状況に置かれたならば、誰でも同じだけ力を尽くすのではないかと思います」
「同じ状況?」
「はい。ユーミはこれから、ランの家人になるのですからね。血族のために力を尽くすのは、森辺の民として当然のことです」
そのような話を語る際にも、彼女は屈託のない笑顔である。
無事に雨季が明けたので、いよいよユーミとジョウ=ランの婚儀についても本格的に日取りが決定されようとしているのだ。ユーミとしては、ただ笑っていられるような状況ではなかった。
(でも、こんな風に力を添えてくれるんだから……森辺の民ってのは、本当に親切だよなぁ)
ランの末妹が食堂の仕事を手伝っているのは、いずれユーミが森辺に嫁入りしたならば人手不足になると見越してのことである。またそれ以前には、町の人間と理解を深めるという意味合いもあって、彼女は屋台や食堂の手伝いに励んでいたのだった。
ユーミがジョウ=ランと婚儀を挙げたならば、もちろん森辺で暮らすことになる。いずれは実家の宿屋を手伝えるような環境が整えられる可能性もなくはないが、まずは森辺における生活を最優先にしなければならなかったし――早々に子でも孕んでしまったならば、もはや宿場町に下りることもままならなくなるのだ。
それもあって、ランの末妹はこうして食堂の仕事に励んでいる。
ユーミがラン家に嫁いだのちも、人手が足りない折にはこうして仕事を手伝おうという話になっているのだ。そのために、見届け役の男衆まで同行しているのであった。
「アスタの屋台でお休みをいただけば、日中に家の仕事を片付けることはできますしね。男衆も夜には体が空いているのですから、どうということもありません」
ランの末妹はそのように語っていたが、いずれにせよ前代未聞の話であるのだろう。そもそも宿場町の人間が森辺に嫁入りするという話からして前代未聞であるのだから、それが当然の話であった。
以前はアスタたちも《キミュスの尻尾亭》の仕事を手伝っていたが、あれは主人のミラノ=マスが負傷したためだ。しかしこのたびのラン家の行いは期限なども決められておらず、すべてが手探りの状態であったのだった。
「本当はジョウ=ランも休息の期間にこちらの仕事を手伝おうという意気込みだったのですけれど、今年は雨季に重なってしまい、気の毒な限りでした。雨季でお客が少ないと、ジョウ=ランが手伝う余地もなくなってしまいますものね」
「うん。まあ、あいつはそれでも数日にいっぺんは顔を出してたけどね」
「ジョウ=ランは、毎日でも宿場町に下りようという意気込みであったのですよ。まあ、半分がたはユーミ会いたさなのでしょうけれどね」
と、ランの末妹はくすくすと笑う。彼女は本家でジョウ=ランは分家であるため、従兄弟だか何だかの関係であるのだ。ランには真面目でつつましい人間が多い印象であったが、彼女はこの気さくさを買われて抜擢されたのだろうと思われた。
彼女はユーミよりも若年で、実に愛くるしい面立ちをしている。森辺の習わしで織物を纏い、肌の露出を控えていたが、実はなかなか肉感的な肢体をしているのだ。森辺の女衆のおおよそは魅力的な容姿をしているので、それが酔漢どもの悪戯心を刺激するわけであった。
かくいうユーミも色香には不足していないし、周囲からは口さえ開かなければけっこうな美人だと評されている。よって、酔漢に絡まれる厄介さは骨身にしみており、それで彼女の客あしらいに感心していたのだった。
(だけど、森辺の娘さんたちは色っぽいだけじゃないからなぁ)
老若男女を問わず、森辺の民というのは誰もが特別な存在感を有している。それこそが、過酷な森辺で育まれてきた力であるのだろう。このランの末妹も森辺の集落ではべつだん目立つ存在でもなかったが、こうしてひとりでいると明らかに異彩を放っていた。
森辺の女衆は腕力に秀でているし、目も耳も鼻もいい。それで容姿にも優れているし、人によってはたいそうな色香であるし、たいていは純真かつ強靭な中身を有しているし――ユーミなどは、どこを取っても太刀打ちできそうになかった。
(それでどうして、あいつはあたしなんかに惚れちまったのかなぁ)
婚儀を目前に控えながら、ユーミはそんな疑念を募らせていた。
ジョウ=ランは、森辺においてもたいそうな力を持つ狩人であるのだ。まだ若年であるものの、収穫祭の力比べでもけっこうな活躍を見せていたし、おまけに容姿も整っているため、あちこちの女衆から嫁入りや婿取りを願われていたらしい。それでどうしてユーミと婚儀を挙げることになったのか、考えれば考えるほど奇妙に感じられてしまった。
(もちろんジョウ=ランは変わり者だから、あたしとなんかと気が合ったんだろうけど……それにしたって、婚儀だもんなぁ。どう考えたって、もっと立派な娘さんがいたろうになぁ)
ユーミがそんな思いに沈んでいると、ランの末妹が「どうしたのですか?」と顔を覗き込んできた。
「あ、いや、なんでもないよ。……って、こんな風に内心を隠すのも、森辺ではよくないことだよね」
「それはまあ、隠し事などはしないに越したことはないですね。かといって、あらゆる同胞にすべての真情を打ち明ける必要はありません。それでは毎日、騒がしくてたまらなくなってしまいますからね」
ランの末妹は可笑しそうに笑いながら、そう言った。
「そういった話は、嫁入りしてから学んでいくしかないでしょう。何も焦る必要はありませんので、ユーミはユーミらしく過ごせるように心がければ十分だと思います」
「って、そんな器の大きさを見せつけられると、こっちはますます気が引けちゃうけどね」
ユーミがおどけて答えると、ランの末妹は楽しそうに「あはは」と笑い声をあげる。そんな頃合いで、厨の扉から母親のシルが顔を覗かせた。
「あんたたち、何をのんびりしてるんだい? 焼き物の料理が仕上がったから、さっさと運んでおくれよ」
そうしてユーミとランの末妹は、戦場に舞い戻り――その夜も、最後まで慌ただしく過ごすことになったのだった。
◇
「やれやれ。今日も復活祭みたいな騒ぎだったねぇ」
シルがあらためてそんなつぶやきをこぼしたのは、食堂のお客が一掃されて仕事の終わりが見えてきた頃合いであった。
宿を取っていたお客たちはそれぞれの寝室に戻り、どこからともなくやってきたお客たちは貧民窟の暗がりの向こうに消えていった。そうしてユーミとランの末妹がふたりがかりで客席を片付けてから厨に顔を出してみると、そちらもちょうど皿洗いを終えたところであった。
「ランのおふたりも、お疲れさん。寝る前に、残り物で腹を満たしておくかい?」
「ありがとうございます。でも、どうぞシルたちがお先に召しあがってください」
「あたしらは仕事中につまんでるから、もう十分だよ。ユーミは、どうするね?」
「お、煮込み料理も余ってるんだね。あたしは、それだけいただいていこうかな」
ということで、厨の片隅に追いやられていた椅子が持ち出されて、深夜の食事が始められる。ユーミはギバ肉の豆乳煮込み、ランの兄妹はカレースープだ。シルは笑顔でそのさまを見守り、ユーミの父親であるサムスは窓際で煙草をふかしていた。
「今日もずいぶん遅くなっちまったけど、あんたがたも元気そうだね。以前は仕事が終わるなり、ころっと眠そうな顔になってたのにさ」
シルの言葉に、ランの末妹は「はい」と愛想よく応じる。
「森辺では、これほど遅くまで起きていることはありませんからね。でも、ようやく身体が馴染んできたようです」
「頼もしいねえ。でもそうすると、今度は早起きが難しくなっちまうんじゃないのかい?」
「いえ。夜遅くまで働くと疲れますので、眠りがいっそう深くなるようです。今のところ、集落でも寝坊をして叱られたことはありません」
「ますます頼もしいこった。……あんたなんかは、どうなんだい? ギバ狩りの仕事に支障が出ちまったら、一大事だろう?」
「うむ。しかし森に入るのは中天になってからなので、どうということはない。家の仕事は、女衆がしっかりこなしてくれているのでな」
ランの次兄もきわめて穏やかな物腰で、そのように答えた。妹ほど朗らかではないものの、落ち着いていて人好きのする若衆だ。ユーミが婚儀を挙げたならば、この両名も血族になるわけであった。
「今日はシムのお客と話が弾んでるようだったね。ああいう連中と、どんな話で盛り上がってるんだい?」
「おおよそは、他なる領地やシムについてなどだな。同じ西の王国でも奇妙な地は山ほどあるようだし、シムの話も興味深くてならない」
「そうかい。東の民には意外におしゃべり好きが多いんで、あちらさんも楽しんでたろうと思うよ」
「うむ。こちらも東の王家にまつわる騒ぎやシュミラル=リリンについてなど、語る話はいくらでもあったからな。顔はまったく動かさないまま、とても熱心に聞いていたように思う」
「うんうん。まったく、兄妹そろって客あしらいが上手いもんだね。いっそ、あんたのことも雇いたいほどだよ」
シルが冗談口を叩くと末妹のほうが楽しげに笑い、次兄もゆったりと口もとをほころばせる。数を重ねるごとに、シルとこちらの兄妹の親睦は深まっているようであった。
そんな中、ユーミの父親であるサムスだけは、ひとり他人顔で煙草をふかしている。宿屋の主人でありながら、サムスは誰に対しても不愛想であるのだ。この期に及んで、婚儀に反対することはなかろうが――ユーミとしては、いささかならず気になるところであった。
「食べ終わったら、先に休んでおくれよ。こいつは、今日の給金だよ」
「ありがとうございます。……あの、やっぱりユーミが婚儀を挙げた後も、わたしは給金をいただいて働く立場のままなのでしょうか? 血族となったあかつきには、給金をいただくいわれもなくなるのではないかと思うのですが……」
「あたしは親戚連中に手伝いを頼むときでも、きちんと給金を払ってるよ。というか、このユーミだって駄賃なしに働くことはありえないからねぇ」
「ふん。遊ぶ時間を削って手伝ってるんだから、当然の話でしょ」
いつもの調子で気安く応じてから、ユーミは慌てて末妹のほうを振り返る。
しかしそちらは「そうですか」と、屈託のない笑みを広げていた。
「それが宿場町の作法なのでしたら、まずはわたしたちが慣れる他ありませんね。それに、ルウ家も屋台の商売では血族で富を分け合っているはずですので……宿場町における労働というのは、きっとそれが正しい形であるのでしょう」
「そりゃそうさ。給金を出さなきゃ、こっちだって気軽に手伝いを頼むこともできなくなっちまうからね」
「承知いたしました。では、失礼いたします。……ユーミとサムスも、また明日」
「うん。おやすみー」
ランの兄妹は一礼して、厨を出ていった。彼らはこのまま宿屋で夜を明かし、朝一番で森辺に戻るのだ。末妹はそちらでもすぐさま朝の仕事が待ち受けているのであろうから、本当に大した体力であった。
「じゃ、あたしももう寝るよ。寝坊したら、起こしてね」
夜食で使った食器を片付けてからユーミも厨を出ていこうとすると、サムスに「待て」と呼び止められた。
ユーミが振り返ると、サムスは仏頂面で立ち尽くしている。そうして火の消えたかまどに煙管の灰を捨ててから、どかりと椅子に座り込んだ。
「……ちょっと話がある。お前も、ここに座れ」
「えー? こんな遅くに、なんなのさ? 明日だって、屋台の仕込みがあるんだよ?」
「……いいから、座れ」
ユーミは頭をかきながら、しぶしぶ父親の言葉に従った。
ここ最近は身をつつしんでいるので、説教をくらう覚えはない。であれば、用向きはただひとつであろう。傭兵あがりで厳つい風貌をしたサムスは、首の脇の古傷を指先でかきながら、重々しい声音で言った。
「お前の婚儀も、もう目の前のはずだな。……それで、どうなんだ?」
「……どうなんだって、何がさ?」
「……そんなことは、自分で考えろ」
斯様にして、婚儀の話ではなかなか率直になれない父と娘なのである。
そこで場を取り成すのは、当然のように母の仕事であった。
「もちろんあたしらだって、もうあんたを嫁に出す覚悟は固まってるよ。こんな何ヶ月も猶予をいただいて、今さらぐちぐち言ったりはしないさ。……ただ、最近のあんたは浮かれてる風でもないし、それどころか難しい顔をしてるほうが多いぐらいだからさ。きちんと話を聞いておきたいんだよ」
サムスの隣に腰を下ろしながら、シルはそう言った。
とても穏やかで、優しげな面持ちだ。ふいに母親にそんな顔を見せつけられると、ユーミも思わず胸が詰まってしまった。
「言うまでもなく、森辺に嫁入りなんてのは御大層な話だからねぇ。あんたが呑気に浮かれてないことは、あたしたちも心強く思ってるよ。町の人間が、森辺で暮らすなんて……そりゃあ想像もつかない苦労が山積みなんだろうしねぇ」
「……うん。でも、手本を示してくれる人は、いっぱいいるからね」
実のところ、町の生まれで森辺の家人に迎えられる人間は、ユーミで7人目であるのだ。
アスタ、シュミラル=リリン、マイム、ミケル、ジーダ、バルシャ――すでにそれだけの人間が、町生まれの森辺の民として立派に暮らしているのである。最近のユーミはそれらの面々と顔をあわせるたびに、森辺で暮らす心得を教示してもらっているのだった。
ただ一点、ユーミが彼らと異なるのは――婚儀を理由に森辺の家人になる、ということである。シュミラル=リリンもまずは森辺の家人となり、その力を認められてから、ヴィナ・ルウ=リリンと結ばれたのだった。
「でも、そんな娘っ子の身で森辺に嫁入りするのは、あんたが初めてだろ? だったら手本を示してくれる人もいないし、色々と不安に思って当然だよ」
とても穏やかな表情のまま、シルはそのように言いつのった。
ユーミはひとつ頭を振って、「いや」と答える。
「それこそ、数ヶ月も――いや、ジョウ=ランとこういう話が持ち上がってから、もう1年以上も経ってるんだから、あたしだって覚悟は固まってるよ。森辺での生活は大変だろうし、あたしなんかに務まるのかって不安もあるけど……そんな泣き言は、通用しないからね。務まろうが務まるまいが、あたしは死ぬ気で頑張るだけさ」
「うんうん。立派なこったねぇ。あたしなんかはこの人を婿に迎える立場だったから、大した苦労もなくってさ。あんたの手本になってやれなくて、ずっと心苦しく思ってたんだよ」
「何を言ってんのさ。母さんこそ、親父を迎えるまでは女手ひとつで頑張ってたんでしょ? あたしにとっては、自慢の母さんだよ」
ユーミは目頭が熱くなってしまったが、決して涙はこぼすまいと気合を入れなおした。
「それに母さんたちは、こんなとんでもない話を了承してくれたじゃん。ひとり娘が、森辺に嫁入りするなんて……あたしは森辺のみんなと友達づきあいしてたから、どうってことないけどさ。そうじゃなかったら、ひっくり返ってたと思うよ」
「あたしだって、あんたのいない場所でひっくり返ってたさ。でもまあ、一番大事なのは、あんたの気持ちだしね。森辺って言っても、いちおう同じジェノスなんだから……ダバッグやらベヘットやらに嫁入りするなんて話よりは、よっぽど気楽さ」
「あはは。ダバッグはともかく、ベヘットなんてこっちより寂れた宿場町じゃん。まあ、そんなの噂で聞くだけだけどさ」
ユーミが力ずくで笑うと、シルも可笑しそうに笑ってくれた。
すると、ひとり仏頂面のサムスが声をあげる。
「何をへらへら笑ってやがる。こっちがこれだけ心を砕いても、お前はそうやってそっぽを向くのか?」
「はあ? なんの話さ? 親父なんて、むっつり黙りこくってただけじゃん」
「……覚悟が据わってるってんなら、どうしてお前はそうまでしみったれた顔をしてやがるんだよ? そんなざまで、本当にやっていけるのか?」
ユーミは一瞬かちんときたが、父親の言葉に情理を認めて、矛先を引っ込めることになった。
「そりゃあまあ、あたしだって色々と考えてるんだよ。でも、森辺で暮らすことを思い悩んでるわけじゃない。さっきも言った通り、そんなのは死ぬ気で頑張るだけさ」
「それじゃあどうして、あんたは浮かない顔をしてるんだい?」
シルもまた、表情をあらためて身を乗り出してくる。
こんな話を口にするのは、まったくもってユーミの流儀ではなかったが――さりとて、婚儀を目前に心配してくれている両親の思いを二の次にすることはできなかった。
「……あたし、そんなに浮かない顔をしてるかなぁ? 自分では、そんなつもりもないんだけど……」
「あんたにしては、沈んでるように思うよ。何にせよ、婚儀にまつわる話なんだろう? もう日がないんだから、そんな心配事はとっとと片付けておかなきゃいけないよ。じゃなきゃ、相手さんにも失礼だからね」
「うん、まあ……そのジョウ=ランのことなんだけど……」
ユーミがそのように言いかけると、サムスがたちまち眉を逆立てた。
「あいつがどうした? まさか、他の娘に手を出したんじゃなかろうな?」
「はあ? そんなわけないじゃん! あいつのことを、何だと思ってるのさ?」
「……ああいう優男は、信用ならん。森辺でも、ずいぶん若い娘どもにもてはやされていたようだしな」
サムスのそんな言葉が、ユーミをぐっと詰まらせた。
「……そうなんだよね、それなのに、ジョウ=ランはどうしてあたしなんかを選んだんだろう?」
「……なんだと?」
「ジョウ=ランって見栄えはいいし、子供みたいに素直だし……まあ、ときどきそれが腹立たしいんだけど、でもやっぱ、すごく優しくて、可愛いやつじゃん? それで、いざとなったら頼もしいし……あんなやつ、なかなかいないと思うんだよね」
「…………」
「いっぽうあたしなんて、ご覧の通りの不出来な人間だからさ。どうしてあいつがあたしなんかと婚儀を挙げる気になったんだろうって……今さらながら、不思議に思えてきちゃったんだよね」
「……なんだそりゃ」と、サムスは深々と溜息をついた。
「そんなもん、ただの惚気話じゃねえか。そんな話で、余計な世話をかけさせやがって」
「ど、どこが惚気話なのさ! あたしはあたしなりに、思い悩んでるんだよ!」
ユーミが頬を熱くしながら声を張り上げると、シルもどこか苦笑をこらえているような面持ちで発言した。
「まあ、婚儀の相手が魅力的に思えてならないってのは、めでたいことだねぇ。あたしも孫を抱く日が楽しみになってきたよ」
「か、母さんまで、何なのさ! あたし、そんなおかしなこと言ってる?」
「おかしなことではないんだろうけど……きっとあっちも、おんなじ風に思ってるだろうさ。それだけおたがい、心をひかれあってるってこったろうねぇ」
そうしてユーミの心をいっそうかき乱しながら、シルはにこりと微笑んだ。
「あんただって立派に育ったんだから、何も心配はいらないさ。それこそあんたたちは、長い長い時間をかけておたがいのことを見定めてきたんだろう? その末に、婚儀を挙げることになったんだから……自分とジョウ=ランの目を信じな。あんたたちは、最高に似合いのふたりだよ」
「ふん。馬鹿らしくて、聞いてられんな。浮かれて婚儀を台無しにするなよ、この馬鹿娘」
サムスがとっとと腰を上げたので、ユーミはその頑丈そうな背中に織布を投げつけることになった。
「誰が浮かれてるんだよ、馬鹿親父! あんたなんて、婚儀に呼んでやらないからね!」
「まあまあ。今のは、おたがいさまだよ」
ついに苦笑を浮かべた母親に、ユーミは「なんでだよー!」とわめき散らす。
婚儀を目前にして、この騒ぎである。ユーミは羞恥で全身を火照らせながら、ジョウ=ランのとぼけた笑顔を思い浮かべることになった。
(あいつは今ごろ、呑気な顔で寝てるんだろうな……それとも……あいつもあたしみたいに、思い悩んだりするのかなぁ)
そんな風に考えると、ますます身体が熱くなってしまう。
そうしてユーミは何の解決も得られないまま、その夜を終えて――その後も婚儀を目前にした人間だけが抱える不安と焦燥と昂揚を胸に、落ち着かない日々を過ごすことになったのだった。




