第六話 月と太陽
2024.11/11 更新分 1/1
・今回の更新は全7話です。
マイムが溜息をこぼすと、バルシャが「どうしたんだい?」とけげんそうに問いかけてきた。
バルシャの視線に気づいていなかったマイムは、慌ててそちらを振り返る。かまど小屋の前で薪割りに励んでいたバルシャは、そのたくましい肩に鉈の柄をのせながら不敵に微笑んだ。
「おやおや、まずいところを見られたってお顔だね。何か心配ごとでもあるんなら、遠慮しないでぶちまけちまいなよ」
「い、いえ、大丈夫です。お気遣いくださり、ありがとうございます」
「いつまで経っても、あんたの堅苦しい物言いは変わらないねぇ。でも、しっかり心は通じてるって信じてるよ?」
バルシャは男のように厳つい顔立ちをした女性であるが、誰よりも優しい性根をしている。そんなバルシャに隠し事をする後ろめたさを感じつつ、マイムは頭を下げるしかなかった。
「も、もちろんバルシャは、大切な家人です。それじゃあ、あの……べ、勉強会がありますので、失礼します」
「うん。毎日毎日、ご苦労なこったね。今日も美味い晩餐を期待してるよ」
バルシャの気さくな笑顔に見守られながら、マイムは逃げるようにその場を立ち去った。
マイムは屋台の商売から戻ったばかりであり、手荷物を片付けるために自分の家のかまど小屋に立ち寄ったのだ。ルウ本家のかまど小屋では、これから勉強会が始められるところであった。
「あ、マイムも来たよー! これで全員、そろったね!」
リミ=ルウの元気な声が、マイムを出迎えてくれる。
マイムの父親であるミケルに、レイナ=ルウにララ=ルウ、それにツヴァイ=ルティムやレイやミンの女衆などもそろっている。今日はアスタが近在の氏族に手ほどきをする日取りであったため、ルウの血族だけで勉強会を執り行う予定になっていた。
「それでは、勉強会を始めましょう。ミケルにマイム、今日もよろしくお願いいたします」
誰よりも熱情をあらわにしたレイナ=ルウが、一礼してくる。勉強会の取り仕切り役はレイナ=ルウであったが、いつもミケルともどもマイムにまで敬意を払ってくれるのだ。今のマイムにとっては、そんな気遣いも心苦しい限りであった。
「それでは今日も引き続き、東の王都から届けられた香草について吟味することにしましょう。もう城下町で屋台を出す日も、目前ですからね」
「そんな目前になって、あれこれいじくる必要はないんじゃないかなぁ? 現時点でも、十分に立派な出来栄えなんだからさ」
ララ=ルウがすぐさま意見を飛ばすと、レイナ=ルウは真剣な眼差しでそちらを振り返った。
「でも、東の王都の食材が買いつけられるようになってから、もうそれなりの日が過ぎてるんだからね。森辺の屋台は城下町でもそれなりに注目を集めるはずだから、目新しい食材が使われていないと期待外れだって思われちゃうかもしれないよ?」
「うーん。目新しい食材に頼らずに立派な料理を出すのも、ひとつの手だと思うんだけど……まあいいや。料理の内容に関しては、レイナ姉に任せるのが一番だろうからね」
そうしてララ=ルウがすみやかに引き下がると、今度はツヴァイ=ルティムが声をあげた。
「でも、食材費だけは二の次にできないからネ。宿場町で出す屋台よりはゆとりがあるって言っても、加減を間違えるんじゃないヨ?」
「ええ、承知しています。他の屋台よりも食材費をかけていたら、立派な出来栄えになるのが当然ですからね。それで人気を得られたとしても、公平な結果とは言えないことでしょう」
すると、引き下がったばかりのララ=ルウがまた発言した。
「ひとつあたりの儲けを薄くして数をさばくのも立派な作戦だって、アスタなんかは言ってたけど……まあいいや。話が進まないから、とりあえず始めちゃおっか」
最近はこのように、レイナ=ルウとララ=ルウとツヴァイ=ルティムの意見交換から勉強会が開始されるのが常となっている。それはおそらく、この3名が異なる視点から商売に取り組んでいるためなのだろうと思われた。
(みんな、本当に立派だな。……わたしはみんなみたいに、立派な人間になれるのかなぁ)
そんな考えに至ったマイムは、ひそかに溜息を噛み殺すことになった。
「わたしが吟味したいのは、アンテラの油漬けに関してです。アンテラを油漬けにする方法に関してはセルフォマからうかがっていましたが、これまではなかなか時間を作ることができませんでしたので、早急に取り掛かりたく思います」
「ふん。香草の油漬けというのは、あまりきかぬ手法だが……アスタなどは、以前からチットの実を油に漬けたりしていたな」
ミケルがぶっきらぼうに口をはさむと、レイナ=ルウは真剣そのものの面持ちで「はい」とうなずいた。
「それでアスタにお話をうかがったところ、アスタの故郷でもアンテラに似た食材を油に漬ける作法が存在したかもしれないというお話でした」
「かもしれないとは、アスタらしくない頼りなげな物言いだな」
「はい。そのアンテラに似た食材……たしか、『とりゅふ』という名を持つ食材はずいぶん高値であったようで、アスタ自身も一度しか口にする機会がなかったそうです。ですから、『とりゅふ』の油漬けというものも、どこかで耳にはさんだ覚えがあるといったていどであったようですね」
そのように語りながら、レイナ=ルウは調理刀を取り上げた。
「まずはセルフォマの教え通りに、アンテラの油漬けを仕上げてみましょう。それほど時間はかからないはずですので、少々お待ちください」
アンテラとは、黒いまん丸の香草である。分類としては茸の仲間であるようだが、マイムの目には香草にも茸にも見えなかった。
ただそのアンテラは、複数の香草を掛け合わせたような複雑なる香りを有している。ただし、鍋で煮込んだりすると香気が薄らいでしまうため、いまひとつ使い勝手が悪かったのだった。
「これはアンテラを食材として扱うというよりは、その香りを油に移す手法であるわけですね。アンテラの香りが移った油は、熱しても香気が薄れないのだそうです」
そんな解説をはさみながら、レイナ=ルウはアンテラを細かく刻んでいく。そして、レテンの油に投じたのち、泡が立たないぐらいの低温でじっくり煮込むのだという話であった。
「そもそもシムにはレテンの油が存在しないので、別なる油が使われていたそうです。それでわたしも、つい後回しにしてしまったのですが……アンテラの香りをもっと自由に扱うことができたら、きっとさまざまな料理に活用できるはずです」
レイナ=ルウがそのように語る間に、アンテラが煮込まれた鉄鍋からはふくよかな香りがあふれかえってくる。マイムは限界まで集中して、その香りを嗅ぎ取ることに努めた。
(レテンの油の香りも混じるから、やっぱり多少は変化があるみたいだけど……どうなんだろう?)
マイムはこっそりミケルの様子をうかがったが、その仏頂面に変化はない。
いっぽうリミ=ルウは「んー?」と小さな鼻をひくつかせた。
「すっごくいい香りだけど、普通のアンテラとちょっと違うね! リミは、こっちのほうが好きかもー!」
「そう? レテンの油の香りもするから、細かい違いはよくわからないけど……マイムは、どう思いますか?」
いきなりレイナ=ルウに真剣な眼差しを突きつけられて、マイムは存分に慌てることになった。
「い、いえ、どうでしょう。確かに少し、香りが変化したように思いますが……油の影響なのか熱したためであるのかは、よくわかりません」
「そうですか。わたしには、さしたる変化も感じられないのですが……それは、どういう変化なのでしょう?」
マイムは返答に窮したが、レイナ=ルウの鋭い眼光にせっつかれて、おそるおそる発言することになった。
「た、確かなことは言えませんが……少しだけ、香りが丸みをおびたような……」
「そーそー! ツンとした香りがなくなったから、甘い香りが目立ってるみたい!」
リミ=ルウが即座に言葉を重ねると、レイナ=ルウは「なるほど」と考え込んだ。
「そう言われてみると、香りが少しまろやかになったかもしれない……尖った香りが薄らいで、ラマンパみたいな甘い香りのほうが前に出てきたんだね」
「うん! まだちょっと土臭いし青臭いけど、リミはこっちのほうが好きだなー!」
「うん。ただ甘いだけの香りではないからね。これなら、アンテラらしさも損なわれないかな」
そうしてアンテラの香りが最大限に引き出されたところで、かまどの火が消される。やがて油が冷めていくと、香気のほうも薄らいでいった。
「これで香りが消えてしまっていたら、意味はないんだけど……どうだろうね」
レイナ=ルウは妹たちに小皿を準備させて、冷めた油を数滴ずつ垂らしていった。かまど番の全員で、味見をするのだ。
マイムは再び集中して、数滴の油を入念に味わう。
たちまち、アンテラらしい風味がふわりと鼻に抜けていった。いくぶん角が取れて、まろやかになった香りだ。レイナ=ルウの言う通り、ラマンパに似た甘い香りと香ばしさが豊かであり、リミ=ルウの言う通り、土臭さや青臭さも残されていた。
「香りはしっかり移っているようですね。では、さらに熱しても香りが消えないかどうか確認しましょう。それから、実際に香味焼きで使ってみようと思います」
レイナ=ルウの指示で、段取りが整えられていく。現段階では、ララ=ルウにもツヴァイ=ルティムにも文句はないようであった。
熱した油にもアンテラの香りは残されていたので、すみやかに香味焼きの調理が開始される。こちらは城下町の屋台で出す料理の候補のひとつであった。
「片方は具材を焼く油に使い、もう片方はホボイの油で焼きあげた後、調味液としてまぶしてみましょう」
レイナ=ルウがぐいぐい話を進めていくので、誰も口をはさむ隙がない。
しかし、今のマイムにとっては幸いな話であった。
「んー、いい匂い! 香りだけなら、リミはこっちのほうが好きだなー!」
アンテラを漬けた油で焼かれる香味焼きの芳香に、リミ=ルウがはしゃいだ声をあげる。
そしてリミ=ルウは、笑顔でマイムに向きなおってきた。
「マイムはどう? どっちが好き?」
「え? いえ……こちらの香味焼きは、もともと素晴らしい香りでしたので……どちらが上というのは決めかねるのですが……」
「だよねー」と、ララ=ルウが気安く割り込んでくる。
「まあ、香りでお客をひきつけるのも大事だろうけど、肝心なのは味だもんね。でも、香りを移しただけの油を使って、味まで変わるもんなのかなー?」
「味と香りは、切り離して考えられるものではないからな。チットのように強い味でなくとも、これだけ香りに変化があれば味にも大きな影響が出ることだろう」
「そっかー。ミケルが言うなら、確かだね!」
そうしてララ=ルウが白い歯をこぼしたところで、2種の香味焼きが完成した。
ホボイの油で焼きあげられた分には、後からアンテラ漬けの油が掛けられる。その瞬間、温まった油がほのかな香りをあげたような気がした。
「それでは、味見をしてみましょう」
2種の香味焼きが、ひと口分ずつ取り分けられていく。
そうして2枚の小皿が同時に届けられると、おたがいの香りが入り混じってしまう。マイムは区別をつけるために、ひと皿ずつ鼻を近づけて確認することにした。
(うーん……他の香草の香りが強いから、ホボイの油とアンテラの香りがぶつかってる感じはしないけど……実際のところは、どうなんだろう?)
マイムが考え込んでいる間に、他の面々は味見を進めている。
マイムも慌ててそれに続いたが、やはり香りから感じられる印象と大きな差はなかった。レイナ=ルウが苦心して完成させた香味焼きの味に、アンテラの香りがただ上から乗せられたという仕上がりだ。調和を乱していない代わりに、新たな魅力が加えられたという感じもしなかった。
そして、アンテラ漬けの油で焼きあげたほうに関しては――ただ後からまぶしただけの品よりも、アンテラの香気が強いように感じられる。香りがしっかり具材に馴染んで、新たな味わいを生み出しているのだ。ただその代わりに、レイナ=ルウが完成させた調和がわずかに揺らいでいるように感じられた。
「それぞれ違いがあるのは、確かですね。わたしは、アンテラ漬けの油で焼きあげたほうが好ましく思うのですが……ミケルはどう思われますか?」
「うむ。後からまぶした品も悪くはないが、いくぶん香りが馴染んでいないようだな。これならいっそ、細かく削ったアンテラをまぶしたほうが香りを楽しめるかもしれん。……ただ、それはすでに試した後であったな」
「はい。アンテラそのものを使ってもあまり効果的ではないようなので、取りやめることになりました。アンテラを使うなら、もともとの香草の配合から見直すべきなのでしょうね」
そのように答えてから、レイナ=ルウはマイムに向きなおってきた。
「では、マイムはどのように思われますか?」
「え? いえ、わたしは……と、父さんと同じ意見です」
マイムの覚束ない返答に、レイナ=ルウは眉をひそめた。
「そうですか。それなら、かまわないのですが……マイムはどこか、調子でも悪いのですか?」
「い、いえ。そんなことはないのですけれど……」
「本当に? どうか無理だけはなさらないでくださいね?」
鋭く引き締まっていたレイナ=ルウの顔が、とたんに心配そうな表情を浮かべる。料理に関しては怖いぐらいに真剣なレイナ=ルウであるが、心根の優しさは妹たちと同様であるのだ。そして、その心優しき妹たちも心配そうに顔を寄せてきた。
「マイムだけは、毎日屋台に出てるんだもんね。マイムの料理は屋台の要だけど、売る人間は誰でもかまわないんだからさ。そろそろ誰かと交代してもらう?」
「うんうん! 最近マイムは、ちょっぴり元気がないもんねー!」
マイムは慌てて、「いえ!」と首を振ることになった。
「わ、わたしは本当に大丈夫です! 屋台の商売も、まったく問題ありません!」
「本当に? 誰に任せたって、マイムの自慢の料理を焦げつかせたりはしないはずだよ?」
「だ、大丈夫です。屋台の商売は、とても大事な仕事ですので……」
マイムがうろたえた顔をしているためか、みんな表情を曇らせたままである。
それでマイムは申し訳なさを抱え込みながら、また溜息を噛み殺すことになったのだった。
◇
その日の、夜である。
晩餐の時間、元気にしゃべっているのはバルシャひとりであった。
まあ、ジーダやミケルは寡黙であるので、いつも通りと言えばいつも通りのことだ。しかし、マイムがうまく相槌を打てなかったために、バルシャが空回りをしているような様相で――マイムはまた申し訳ない気持ちを抱え込むことになった。
「それにしても、今日の料理も絶品だねぇ。さすが、マイムの腕は確かだよ」
バルシャにそんな言葉を投げかけられても、マイムは曖昧に微笑むことしかできない。
すると、ジーダが横目で母親をにらみつけた。
「ミケルは、余所の家のかまど仕事を手伝っているそうだな。それでお前は、マイムひとりに晩餐の支度を押しつけているのか?」
「たった4人の晩餐ぐらいは、マイムひとりでちょちょいと作りあげてくれるからね。あたしはミケルのほうを手伝ってたんだけど、何か文句でもあるのかい?」
「……かまど仕事のことは、よくわからん。それは適切な配置なのか?」
ジーダに視線を向けられたミケルは、「そうだな」と首肯した。
「どちらかといえば、人手が足りないのはこちらのほうだ。俺などは鉄鍋を運ぶこともままならんので、バルシャの助力はありがたく思っている」
「ほら見たことかい。偉そうにする前に、まずは事実を確認するこったね」
「何も偉そうなどにはしていないし、こうしてミケルに確認を取ったではないか。お前こそ、いちいち余計な口を叩くな」
ジーダがいくぶん子供っぽい顔になって文句をつけると、バルシャは愉快げに笑い声あげる。ジーダとミケルが会話に加わったことによって、ようやく晩餐らしい和やかさが生まれたようであった。
(わたしは、本当に駄目だなぁ……)
そうしてマイムがミケルの横顔を盗み見ると、たちまち勘付かれてしまった。
「なんだ? 言いたいことがあるなら、さっさと言うがいい」
「あ、ううん……きょ、今日の晩餐はどうだろう?」
「どうもこうも、文句はない。ギバ肉と魚介の食材を掛け合わせる手際も、だいぶんこなれてきたようだな」
「ほ、本当に?」とマイムが身を乗り出すと、ミケルはうろんげに眉をひそめた。
「何をそのように危ぶんでいるのだ。本当に、調子でも崩しているのか?」
「あ、ううん。そんなことはないんだけど……」
そうしてマイムがうつむくと、せっかくの和やかな空気がまたどこかに行ってしまった。
その後は口数も少なく食事が進められて、すべての料理が片付いたところでバルシャが「さて」と腰を上げる。
「あたしはちょいとダルム=ルウの家にまで出向いて、赤ん坊の様子を見てこようかね。たまには、ミケルも一緒にどうだい?」
「……そうだな。今日の晩餐に不備がなかったか、いちおう確認しておくか」
ミケルが迷う様子もなく腰を上げたので、マイムは慌てることになった。
「と、父さんも行っちゃうの? それじゃあ、わたしも一緒に……」
「マイムは、うちの不愛想な家長の面倒をお願いするよ。ひとりで取り残されたら、物寂しさで泣き伏しちまうかもしれないからね」
ジーダが「誰がだ」と怒った声をあげる中、バルシャは笑いながら家を出ていってしまった。ミケルもそれに続いたので、広い広間にマイムとジーダのふたりきりである。ここ最近では、あまり見られない状況であった。
もちろんマイムは、ジーダのことを誰より敬愛している。ルウの血族になる前から同じ家で暮らしていたジーダは、もうずいぶん前からかけがえのない存在であるのだ。ミケルに輪をかけてぶっきらぼうなジーダであるが、マイムはそれも含めて彼のことを慈しんでいた。
だが――今のマイムは、あまり普通の状態ではない。
それでマイムがなすすべもなく目を伏せていると、ジーダがとても静かな声で「どうしたのだ?」と問うてきた。
「確かに最近、マイムは元気がないようだ。べつだん調子を崩しているようには見えないが……何か思い悩んでいることでもあるのか?」
マイムは、答えることができなかった。
ジーダは、静かな声で語り続ける。
「もちろん俺などに打ち明けたところで、何も解決はしないのだろうが……ひとりで抱え込んでいては、気がふさぐばかりだろう。決して他人に吹聴したりはしないので、よければ話してもらいたい」
「…………」
「……そうか。まあ、ミケルたちにも話せないような話であれば、俺などに打ち明けることはできまいな」
ジーダの声がわずかに寂しげな響きを帯びたため、マイムは慌てて顔をあげることになった。
ジーダはいつも通りの静かな面持ちで、マイムのことをじっと見つめている。真っ赤な髪に黄色みがかった瞳で、とても精悍なのに、まだどこか幼い部分を残した――マイムにとって、誰よりも好ましく思える姿である。
もしもジーダに嫌われてしまったならば、マイムはどうしようもない悲嘆に見舞われることだろう。
そんな危機感にとらわれて、マイムはようよう口を開くことになった。
「た、確かにわたしは、思い悩んでいることがあります。でもそれは、解決のすべもない悩みで……だからこれまで、誰にも話すことができなかったのです」
「そうなのか。やはりマイムは、何か思い悩んでいたのだな」
とたんに、ジーダの目が鋭い光をたたえた。
しかしそれはマイムのことを思っての真剣さであり、さらにその奥にはジーダらしい優しさが灯されているように感じられた。
「しかも、解決のすべがない悩みであるのか。それは、どういった内容なのだ?」
「い、いえ……それを話しても、ジーダを困らせてしまうだけでしょうし……」
「家人の苦労をともに背負うのが、家長の役割だ。……そうでなくとも、マイムがひとりで思い悩んでいるのを放っておくことはできんぞ」
と、ジーダの鋭い眼光に、いっそうの優しい輝きが入り混じる。
それだけで、マイムは泣き伏してしまいそうだった。
「それにさっきも語った通り、ひとりで悩んでも気がふさぐだけだ。俺などでは何の力にもなれないだろうが、少しぐらいはマイムの苦労を肩代わりできるかもしれんぞ」
「……ありがとうございます、ジーダ」
マイムは涙をこらえながら、覚悟を固めた。
こんなに自分のことを思いやってくれているジーダの優しさを踏みにじることは許されない。そんな思いに従って、マイムはこれまで誰にも語ってこんなかった真情を打ち明けた。
「実は、わたしは……料理人としての力を失ってしまったようなのです」
「なに?」と、ジーダは眉をひそめた。
「それはいったい、どういうことなのだ? 今日の晩餐もこれまでとまったく変わらない、見事な出来栄えだったぞ」
「あ、ありがとうございます。でもそれは、作り慣れている料理だからで……たとえば城下町のヴァルカスなどであれば、料理の不備に気づくのかもしれません」
「ふむ……やっぱり、よくわからんな。いったい何をもって、マイムはかまど番としての力を失ったなどと判じたのだ?」
マイムはひとつ深呼吸してから、ついにその言葉を口にした。
「それは……味覚です。わたしの舌は、もう以前の鋭敏さを失ってしまったようなのです」
ジーダは口をつぐみ、とても真剣で、とても優しい眼差しを向けてくる。
その眼差しに傷ついた心をなだめられながら、マイムはさらに言いつのった。
「最初はわたしも、体調を崩したのかと考えていました。だけど他には調子が悪いところもありませんし、もうひと月ばかりも同じ状態であるのです。わたしは……料理人としての力を失ってしまったのです」
「……ふむ。幼い頃から修練を積んでいたマイムは、アスタをも上回る舌の鋭さを有していると評されていたのだったな。その力が、失われてしまったということか?」
「はい。もとより幼子は、大人よりも鋭敏な舌を持っています。だから幼子は大人よりも、辛みや苦みや酸味を苦手にしているのです。ですが、成長するにつれて、舌の感覚は鈍っていき……さまざまな味を楽しむことができるようになるのと同時に、細かな味の違いを判別することが難しくなってしまうのです」
いったん真情を打ち明けると、マイムの口からはさまざまな言葉があふれかえった。
このひと月余り、心の中で行き場をなくしていた思いの奔流である。マイムはほとんど熱に浮かされているような心地で、言葉を重ねていった。
「かねてより、ヴァルカスからはその点を指摘されていたのです。幼子というのはみんな味覚が鋭いので、この先わたしたちがどうなるかはわからない、と。……ヴァルカスの言う通り、わたしは齢を重ねたことで鋭い味覚を失ってしまいました。同じ齢のトゥール=ディンは、今でもあんなに立派な菓子を作りあげているのに……わたしはもう、以前のように腕を振るうことはできなくなってしまったのです」
そんな言葉を口にするなり、マイムの目から涙があふれかえった。
トゥール=ディンと同じ道を進むことができなくなってしまった、悲嘆の思いである。マイムは心優しいトゥール=ディンのことを、ずっと昔から大切に思っていたのだった。
「なるほど、トゥール=ディンか。……そのトゥール=ディンは、マイムのように鋭い舌を持っているのか?」
ジーダの思わぬ言葉に、マイムは「え?」と口ごもる。
ジーダは真剣で優しい眼差しをしたまま、とても静謐な表情であった。
「いえ、それは……あれだけの菓子を作りあげることができるのですから、もちろん味覚だって鋭いのでしょうが……ヴァルカスやマルフィラ=ナハムほど、特別な域ではないのだろうと思います」
「ああ、マルフィラ=ナハムという女衆は、かまど番の間でしょっちゅう騒がれているようだな。きっとそのマルフィラ=ナハムやヴァルカスなる者こそ、異能のかまど番であるのだろう。……しかし、ジェノスで一番のかまど番と認められたアスタやトゥール=ディンには、そのような異能も備わっていないはずだ」
そのように語りながら、ジーダは少しだけ声に力を込めた。
「ただしアスタは、特別な生い立ちをしている。アスタの故郷にはさまざまな食材が存在したため、どれほど目新しい食材が現れても他者より早く使いこなせるのだと、そんな風に申し述べていたはずだ。では、アスタはそういう特別な知識を携えているだけで、他に取り柄はないのだろうか?」
「い、いえ。アスタはそんな、不出来な料理人ではありません。たとえ目新しい食材を使っていなくとも、アスタの料理はあれだけ見事なのですから……」
「では、レイナ=ルウはどうだろうか? レイナ=ルウがとりわけ鋭敏な舌の力を持っているなどとは、聞いた覚えもないのだが」
「……はい。レイナ=ルウも、ヴァルカスやマルフィラ=ナハムほど鋭敏な舌は持っていないはずです。でも……」
「森辺で一番のかまど番とされているのはアスタであり、それに続くのはレイナ=ルウとトゥール=ディンのはずだ。その3名がとりわけ鋭敏な舌を持っていないというのなら、何も嘆く必要はないのではないだろうか?」
そう言って、ジーダはぐっと身を乗り出した。
「俺から見ても、アスタたち3名の力は突出しているように感じられる。そして、アスタたちに共通しているのは鋭敏な舌などではなく、かまど仕事に対する熱情だ。そして……マイムだって、アスタたちに負けない熱情を携えているはずではないか」
「で、でも、わたしは……」
「うむ、わかっている。もともと持っていた力が失われるというのは、無念の限りだろう。俺だって片方の目や腕を失ってしまったら、これまで通りの力を振るうこともできなくなってしまうだろうからな」
「そ、そんな恐ろしいことは言わないでください!」
マイムが思わず悲鳴まじりの声をあげると、ジーダは「悪かった」と口もとをほころばせた。
ジーダが滅多に見せることのない、優しい笑顔である。その笑顔をしっかり見届けるために、マイムは目もとを濡らす涙を打ち払った。
「しかし俺はどれほどの手傷を負おうとも、決して狩人として生きることをあきらめたりはしないだろう。それはマイムも、同じことであるはずだ。鋭敏な舌を失ってしまったというのなら、持ち前の熱情で乗り越える他あるまい」
「……はい。そうするしかない、とは思っているのですけれど……」
「うむ。マイムはなまじ優れた力を持っていたがゆえに、それが失われた痛みもひとしおなのだろうな」
優しい微笑みをたたえたまま、ジーダはそう言った。
「それでひとつ、思い出したことがある。俺はマイムやトゥール=ディンと出会った頃、まるで月と太陽のようだと思っていたのだ」
「つ、月と太陽ですか?」
「うむ。ふたりは同い年という話であったし、背格好も似通っていた。ついでに言うと、ふたりそろって髪をふたつに結っているしな。それでいっぽうはいつもひっそりと身をひそめており、もういっぽうは輝くような活力で仕事を果たしていたから、月と太陽のように感じられたのだろうと思う」
確かにトゥール=ディンは、青白い月のようにつつましい少女であった。とてもはかなげで、とても自信なさげで――そして、とても優しかったのだった。
「トゥール=ディンは相変わらずひかえめな気性であるようだが、いまやジェノスで一番のかまど番と認められたひとりだ。貴族からのおぼえもめでたく、しょっちゅう城下町に招かれているしな。今では立派な太陽と呼べることだろう」
「それで……さしたる力もふるえないわたしは、月のようだということですか?」
「マイムは、それが不満であるのか? 月神エイラは太陽神アルスの伴侶であり、どちらが上ということもないはずだぞ。……それに、月のようであったトゥール=ディンがどれだけ魅力的であったかは、マイムのほうがよほどわきまえているはずだ」
「…………」
「以前のマイムはアスタよりも鋭敏な舌を持ち、幼い頃からミケルに手ほどきされていたということで、若年ながらも凄まじい力を持つかまど番だともてはやされていたはずだ。きっとそれが、太陽のごとき輝きを生んでいたのだろう。……俺にも思い当たることがないではないしな」
「……思い当たること、ですか?」
「うむ。自慢たらしく聞こえなければいいのだが、俺はルウの集落で暮らし始めた時分、とてつもない力を持つ狩人だともてはやされていたのだ。何せ、ルウの血族の力比べで8名の勇者に選ばれていたのだからな。今にして思うと、あれだけの顔ぶれの中で勝ち抜けたことが不思議に思えるほどだ」
何かを懐かしむように、ジーダは目を細めた。
「今では闘技の力比べで8名に残ることも難しいし、得意の的当てでもルド=ルウやシン・ルウ=シンに後れを取っている。傍から見れば、月のようにひっそり感じられることだろう。べつだん俺は、それでまったくかまわないと考えているが……かといって、さらなる成長をあきらめたわけではないぞ。誰よりも多くのギバを狩り、真なる勇者になりたいと願っている。きっとマイムもそのように願っているからこそ、無念の思いに打ちひしがれているのだろうな」
「…………」
「今の苦しさは、きっとさらなる成長を迎えるための試練であるのだ。鋭敏な舌を失ったというのならば、内なる熱情で立ち向かうしかない。お前はそれで、アスタやレイナ=ルウやトゥール=ディンにも負けないかまど番を目指せるはずだ、マイム」
そう言って、ジーダはまた優しい微笑をこぼした。
「いっぽう俺の目標は、ルド=ルウやシン・ルウ=シンに、ドンダ=ルウやジザ=ルウなどであるからな。おたがい、難儀な相手ばかりだが……ともあれ、力を尽くすしかあるまい」
「……はい。ありがとうございます、ジーダ」
マイムは新たにこぼれた涙をぬぐいながら、何とか笑ってみせた。
「どんなに思い悩んだって、鋭敏な舌が戻ってくるわけではないのに……わたしは他者の評価ばかりを気にして、自ら道をふさいでしまっていました。これからは、力を尽くすとお約束します」
「うむ。それでこそ、マイムだな。……マイムと家族になれたことを、心から得難く思っている」
優しい笑顔でそんな風に言ってから、ジーダはふいに慌てた顔をした。
「ミケルたちが、戻ってきたようだ。……家人には真情を打ち明けるべきだろうが、俺が語った話はあまり明け透けに語るのではないぞ?」
マイムは涙をぬぐいながら、「あはは」と笑うことになった。
心に穿たれた空洞が、ジーダの温もりで満たされているのを感じる。失われたものが戻ることはありえないが、もう明日からは溜息をつかずにすむだろう。マイムはその事実を、確信していた。
(わたしこそ、ジーダの家族になれたことを心から感謝しています。ありがとうございます、ジーダ)
マイムはいまだ、13歳。料理人としては、まだ卵の殻をくっつけた雛鳥に過ぎないのだ。同い年のトゥール=ディンが躍進を果たしたことで、マイムは目が眩んでいたのかもしれなかった。
(まずは、家族のみんなに喜んでもらえるように……それから、町の人たちにも喜んでもらえるように、頑張ろう。それが、森辺のかまど番なんだ)
マイムがそんな思いにひたっていると、ジーダがいっそう慌てた顔で「おい」と呼びかけてきた。
「せかして悪いが、とりあえずその涙をぬぐってもらえないか? お前がそんな顔をさらしていたら、馬鹿な母親に何を言われるかわからんからな」
そのように語りながら、ジーダは織布を差し出している。
それを受け取ったマイムの指先に、ジーダの手がちょんと触れて――それがまた、マイムにいっそうの温もりを与えてくれたのだった。




