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異世界料理道  作者: EDA
第九十章 群像演舞~十ノ巻~
1555/1690

    流浪の料理人(下)

2025.10/27 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。

・アンケートで入賞したもう1名のエピソードは、次回の更新で公開いたします。更新再開まで少々お待ちください。

 翌朝――プラティカは、父の咳き込む気配で目覚めることになった。

 二段重ねになった寝台の上段で一夜を明かしたプラティカは、下段で眠る父の姿を覗き込む。父は身体を横にして、懸命に咳を噛み殺していた。


『父さん……大丈夫?』


『……うむ。薬が切れてしまったようだ』


 しゃがれた声で答えながら、父はのろのろと半身を起こす。そうして懐から取り出した革袋からひとつまみの薬草を口に含み、寝台をおりて、水瓶から手ですくった水を飲みくだした。


 かすかに震えていた背中が、ようやく静まっていく。

 それでプラティカが安堵の息をつくと、父は額の汗をぬぐいながら振り返ってきた。


『お前の眠りをさまたげてしまったな。まだ早いので、寝直すがいい』


『ううん。もう大丈夫だよ。……父さんこそ、本当に大丈夫?』


『うむ。この病魔とは、魂を返すまでつきあっていく他ないのだからな』


 父は、肺を病んでいるのだ。他者に伝染する類いの病魔ではなかったが、薬で苦しさを抑えることしかできない、不治の病であったのだった。


 本当は、そんな身体で長旅などするものではないのだろう。

 しかし、父はこの道を選んだし――プラティカは、父の決断を尊重したいと思っている。よって今も、心の中で父の平穏な行く末を祈ることしかできなかった。


『おや……もう朝ですか』


 と、隣の寝台の下段で身を起こした行商人も、不明瞭な声をあげた。

 行商人は子供のように目もとをこすりながら、プラティカの姿を見上げてくる。そして、その口もとに淡い笑みをたたえた。


『おはようございます。なんだかプラティカは、戸棚の上から身を乗り出した子猫のような風情ですね』


『……失礼ですが、表情が動いておいでのようですよ』


『ああ、これは失礼しました。どうも朝には、気がゆるんでしまって』


 慌てて微笑を引っ込める行商人に、プラティカのほうこそ笑ってしまいそうだった。

 その間に額の脂汗を織布でぬぐった父が、行商人のほうに向きなおる。


『まだ夜が明けたばかりのようだ。そちらの眠りをさまたげてしまって、申し訳なく思う』


『いえ。行商人にとって、時間は銅貨そのものですので。ひと息ついたら、ミザの聖堂に向かおうかと思います』


『ミザの聖堂に?』


『はい。こういう大きな町では、ミザの聖堂が東の民にとっての寄り合いの場となることが多いのです。そこで情報交換をして、行商や旅程の計画に手を入れるわけですね』


『なるほど。またあなたに、学ばされた』


 父が思案深げに腕を組むと、行商人はまた微笑を浮かべそうな面持ちで言葉を重ねた。


『よろしければ、おふたりも如何です? 人気のある食堂や屋台などの情報を集められるかもしれませんよ』


『うむ。私もそのように考えていた。道端で話を聞いて回るよりは、よほど有効な手立てであろうな』


『ええ。ジギの民にも、食にうるさい人間は少なくありませんからね。実のところ、こちらの食堂もその寄り合いで知ることになったのです』


 そういったわけで、一行はそれぞれ身支度を整えることになった。

 そうしてプラティカが髪を結いあげて、革の外套を纏ったとき――寝所の扉が、慌ただしく叩かれた。

 行商人はいぶかしげに首を傾げつつ、父のほうに向きなおる。


『なんでしょう? 宿の人間が寝所を訪れることなど、そうそうないはずなのですが』


『……用心が必要であろうか?』


『ええ。このような明け方から賊が押し入ることはないかと思いますが……いちおう、お願いいたします』


 そのように語る行商人も、外套の下で腕を動かした。おそらく、毒の武具を握りしめたのだろう。プラティカもまた、腰に下げていた毒針の柄に指先をかけた。


 果たして、かんぬきを外した行商人が扉を開くと――そこで待ち受けていたのは、革の甲冑を纏った衛兵たちである。その背後には、青い顔をした主人の姿もあった。


「なるほど、確かにゲルドの民であるようだ。……そちらの両名、領主様がじきじきに素性をあらためる。無駄な抵抗はせず、同行するがいい」


「……素性、あらためる、とは? 我々、入場、認められています」


「その守衛の判断に間違いはないか、領主様が吟味するのだ。まずは外套を脱いで、毒の武具を受け渡すがいい」


 そのように言い放ってから、衛兵のひとりが行商人をねめつけた。


「お前は、その両名の連れだそうだな。……お前も、連行する。くれぐれも、おかしな考えを起こすのではないぞ」


「待つ、願います。そちら、我々、無関係です。そちら、ジギ、行商人です」


「それを判ずるのは、領主様となる。逆らうならば、縄でくくって連行するぞ」


 毒の武具を扱う東の民は、ひとりで10名の兵士を相手取れるとされている。

 しかしそれも、状況によるだろう。せまい部屋で、入り口を固められていたら、逃げ出すことは困難である。そして、この宿屋から逃げることができたとしても、トトスと荷物は倉庫に預けたままであるし、門にはさらなる守衛が待ちかまえているはずであった。


「……わかりました。従います」


 父は紫色の瞳を鋭く瞬かせながら、プラティカのほうを振り返ってきた。


『プラティカも、従うのだ。どのような疑いをかけられても、神に宣誓すれば信じてもらうことができよう。……恩義あるあなたに迷惑をかけてしまうことを、心から申し訳なく思う』


『いえ、お気になさらず。あなたがたが無事に解放されるか、私も自分の目で見届けなければ気がすみませんので』


「東の言葉で、密談するな! 縄でくくられたいのか?」


 プラティカは憤懣の思いを噛み殺しながら、外套を脱ぎ捨てることになった。

 しかしこれももとを正せば、ゲルドの山賊の悪名が原因であるのだ。外界において、ゲルドの民はこうまで警戒されているのだった。


 そうして外套と毒の武具を手放した一行は、衛兵たちに囲まれて宿屋を出る。街道には立派なトトスの車が待ちかまえており、数名の衛兵とともに乗車するように命じられた。


(なんて横暴な領主だろう。それにここは自治領区なんだから、貴族なんかはいないはずだし……貴族に管理を任された人間が、貴族きどりで偉ぶってるんだ)


 考えれば考えるほど、プラティカの憤懣はつのっていく。

 すると、同乗していた衛兵のひとりが怯えたランドルのように身を震わせた。


「こやつはこのような幼子のくせに、なんと物騒な目つきをするのだ。やはりこやつらは、悪名高いゲルドの山賊なのではなかろうか?」


「それを判ずるのは、領主様だ。我々は、領主様のお言葉に従っていればいい」


 もうひとりの衛兵も、警戒しきった面持ちで剣の柄を握りしめている。

 父にそっと肩を叩かれたプラティカは、臆病な衛兵たちを怯えさせないようにまぶたを閉ざしておくことにした。


 しばらくして、車は目的の地に到着する。

 そちらもまた赤煉瓦の屋敷であったが、プラティカたちが宿泊した宿屋の3倍ほどもありそうな規模であり、周囲には背の高い塀が張り巡らされていた。


 衛兵たちに四方を囲まれて、一行は屋敷の内に連行されていく。

 けばけばしい装飾品が目立つ回廊を通り抜けて、両開きの立派な扉をくぐると、そこに領主たる人物が待ち受けていた。


「ほう。そやつらがゲルドの民か。確かに風聞で聞く通りの風体であるようだな」


 いかにも尊大な調子で、その人物はそう言った。

 宿屋の主人の倍ぐらいも肥え太っており、胸もとや手首に銀の飾り物を光らせている。黄白色をした下ぶくれの顔にはふてぶてしい笑みが浮かべられていたが、この男自身には何の武力もないのだろうと察せられた。


「その赤や金色の髪は、マヒュドラと交わった証であるのだろう。まったくもって、忌々しいことだ。……うむ? そちらの者は、何なのだ? ゲルドの民は、そちらの2名なのであろう?」


「はい。こちらの者はジギの行商人であるようですが、ゲルドの者たちと同じ寝室で身を休めていた連れとなります。おそらく門番からの報告にあった、入場に口添えをした行商人であるのでしょう」


「なるほど。罪人を庇えば、同じ罪人だ。そやつにも、同じだけの裁きを下さなければな」


「待つ、願います」と、父が静かに声をあげた。


「我々、料理人です。山賊、ありません。東方神、宣誓、行いました」


「ふん。我々が知るのは、ジギにおける宣誓の作法だけだ。ゲルドで作法が異なっていれば、その偽りの言葉が東方神のもとに届けられることもあるまい。となると、魂を砕かれる心配もなく、虚言を吐き放題ということだな」


「宣誓の作法、相違、ありません。東の王国、作法、統一です」


「それを確かめるすべが、我々の側にはないということだ。よって、入念に吟味しなければな」


 胸もとの銀細工をいじりながら、領主たる男はにやにやと笑った。

 立場の弱い人間をなぶることに、悦に入っているのだろう。このように下劣な人間は、ゲルドでも見かけたことはない。どうしてそんな人間に見下されなければならないのかと、プラティカは深甚なる怒りを噛みしめることになった。


「聞くところによると、お前は料理人を名乗っているそうだな。たかだか料理人が修行のために異国の地を巡るなど、まったく馬鹿げた言い草だ。……お前が料理人だと言い張るのなら、その腕前を披露してもらおうか」


「腕前? ……西の地、東の食材、わずかです。腕前、十全、発揮すること、困難です」


「ではやはり、身分を偽って我が領地に足を踏み入れたとして、裁きを下す他あるまいな。谷底で赤土を掘る苦役の刑を3年、といったところであろうかな」


 思わず怒声を張り上げそうになったプラティカは、新たな人間の気配を感知して横合いを振り返った。

 別室に通じる扉が細く開かれて、ふたつの瞳が覗いている。まるで、木陰にひそむランドルのような風情であった。


「うむ? 吟味の最中に何を脇見をしておるのだ? 言っておくが、若い娘といえども罪人は罪人――」


 プラティカの視線を追った領主は、仰天した様子でのけぞった。


「お、お前たち! そんなところで、何をしておるのだ! 執務室には近づかぬように、きつく言いつけたであろうが!」


「ぼくたちは、かくれんぼをしてたんだよ」


 扉が大きく開かれて、そこにひそんでいた者たちの姿をあらわにした。

 西の王国の、幼子たちだ。女児のほうは10歳ていど、男児のほうは5歳ていどという見当であったが――西の地に足を踏み入れてから日の浅いプラティカには、あまり確たることも言えなかった。


「い、いいから、大人しくしておれ! この者たちは、危険な罪人であるのだぞ!」


「衛兵さんがいるのに、危険なの? それに、そっちの人は女の子でしょう?」


 年長の女児のほうが、好奇心を剥き出しにしてプラティカのことを見つめている。いかにも上等そうな装束を纏っていたが、実に純朴そうな面立ちであった。


「シムの女の子なんて、初めて見たなぁ。きりっとしていて、すごく素敵。それに、髪がすごく綺麗だから、結わっているのがもったいないわ」


「いや、だから……」


「その人たちが、料理を作ってくれるの? それなら、わたしも食べてみたい」


 すると、男児のほうも「ぼくも!」と声を張り上げた。

 領主はすっかり慌てふためいて、高慢な態度も消し飛んでしまっている。どうにも信じ難いところであるが、この純真そうな幼子たちが領主の愛児であるようであった。


「……それでは、腕前、披露します」


 と、父がふいに厳粛なる声をあげた。

 領主は泡を食いながら、こちらに向きなおってくる。


「な、なに? 腕前が、どうしたと?」


「料理人、腕前、披露して、身の証、立てます。厨、何処でしょう?」


 領主は何か口走ろうとしたが、それよりも先に男児のほうが「わーい!」と声をあげた。


「どんなりょうりだろう! すごくたのしみ!」


「うん、楽しみだね。わたしたちが、厨まで案内しましょうか?」


「ば、馬鹿を申すな! ……もうよい! その者たちを、厨に連れていけ!」


 領主がそのようにわめき散らすと、衛兵のひとりが「はあ……」と不明瞭な声をあげた。


「では本当に、この者たちに料理を作らせるので?」


「……こうなったからには、しかたあるまい。ただし! おかしな真似をせぬように、十分な人数に見張らせるのだ! 一刻以内に、我々を満足させられるような品を準備するがいい!」


 そうしてプラティカたちは、早々に執務室という部屋から追い出されることになった。

 赤煉瓦の回廊を歩かされながら、プラティカは父の顔を見上げやる。


『父さん、大丈夫なの? 西の食材なんて、まだほとんど扱ったこともないのに……』


『うむ。あの幼子たちのおかげで、光明が見えた。あとは、こちらの厨の設備しだいだな』


 衛兵たちも毒気を抜かれてしまったのか、東の言葉で語らっても文句をつけられることはなかった。

 それをいいことに、プラティカはさらに言葉を重ねる。


『……あのさ、あの子供たちは、領主の子供なのかなぁ?』


『うむ。どうやら、そのようだな』


『それじゃあの子供たちも、いずれ父親みたいに高慢な人間になっちゃうのかなぁ?』


 父は静謐な無表情を保ったまま、『さてな』と言い捨てた。


『そのような話を、我々が案ずる必要はあるまい。ただ言えるのは……親は父親だけではない、ということだ。お前とて、母親がいたからこそ、こうまで立派に育ったのだからな』


『それはそうだろうけど、私は父さんを見習って生きてきたんだよ。あの子供たちには、父親を見習ってほしくないなぁ』


『……その優しさも、母親の血筋であるのだろう』


 父は無表情のまま、プラティカの頭にぽんと手を置いた。

 幼子のように扱われた気分で、プラティカは頬を熱くしてしまう。この場にはジギの行商人もいるので、なおさらであった。


「ここが、厨だ。おかしなものを携えていないか、もういっぺん身をあらためさせてもらうぞ」


 厨に到着したならば、衛兵たちが3名の身を無遠慮にまさぐってくる。

 すると、父の身をあらためていた衛兵が血相を変えて革袋を取り上げた。薬草が封入された革袋である。


「なんだ、これは! 貴様、毒草を隠し持っていたな!」


『それは毒草じゃなくて、薬草だよ! 嘘だと思うなら、私が口にしてあげるよ!』


 プラティカが怒りの声をあげると、こちらの衛兵が青い顔で剣の柄に手をかけた。

 父はプラティカに『騒ぐな』と言い置いてから、衛兵に向きなおる。


「そちら、薬草です。危険、ありませんが、調理、不要ですので、お預かりください」


『父さん! 大事な薬草を、こんな連中に預けるなんて――!』


『騒ぐな。朝方に飲んだのだから、夜までは必要ない。それまでに、自由の身になればいいだけのことだ』


 きっと父のほうが、正しいのだろう。プラティカは奥歯を噛み鳴らしながら、憤懣の思いを呑み下すしかなかった。


 そうして薬草を取り上げられたのちには、厨で身を解放される。

 やはりこちらも赤煉瓦で埋め尽くされた、広々とした厨だ。作業台は木造りで、棚にはさまざまな調理器具や食器が並べられている。その奥側に赤煉瓦の窯を見出した父は、満足そうに首肯した。


『設備に不足はない。あとは、食材だな』


 厨には6名もの衛兵が足を踏み入れて、こちらの挙動を見張っている。その内のひとりに案内を乞うて、食料庫に向かうことになった。

 そちらで待ちかまえているのは、まだまだプラティカたちにとって馴染みの薄い西の食材だ。名前もあやふやな数々の野菜に、壺に収められた塩漬け肉、わずかばかりの香草に、得体の知れない調味料――父は鋭い眼差しで、それらのすべてを見渡していった。


『……やはり、これしか道はないようだ』


 父はいくつかの食材を取り分けて、プラティカに託してきた。

 その内容は、キミュスの卵、フワノの粉、カロンの乳、花蜜、そしてラマムなる果実である。

 何もかも、ゲルドには存在しない食材である。花蜜も、花の種類は違っているので風味が異なっているはずであった。


『これしか食材を使わないの? つまり……料理じゃなくて、菓子を作るつもりなんだね?』


『うむ。あの高慢なる領主に難癖をつけられては、如何なる料理を供しても無駄に終わるやもしれん。であれば、幼子たちに狙いをつけるべきであろう』


 父は花蜜を手の甲に垂らして味と香りを確かめつつ、そう言った。


『また、馴染みのない野菜を使いこなすには長きの修練が必要になるが、卵や乳や花蜜であれば応用がきく。問題は、このフワノという穀物だが……水で練って焼きあげるという調理法は聞き及んでいるからな。なんとか自分なりに使いこなす他あるまい』


 そうして厨に舞い戻り、木造りの作業台に食材を並べていると、行商人がひさかたぶりに口を開いた。


『私は、どうしましょう? 料理など、鉄鍋で肉や野菜を煮込むぐらいの経験しか持ち合わせていませんので、なんのお役にも立てなそうです』


『うむ。あなたには、味見の役をお願いしたく思っている。きっとあなたのほうが、西の民の好みというものをわきまえていようからな』


『味見ですか。あなたの手腕を味わえるのでしたら、役得ですね』


 行商人の呑気な物言いが、プラティカのささくれだった気持ちを多少なりとも安らがせてくれた。

 いっぽう父は、怖いほど真剣な眼差しで食材と向き合っている。やがてその手が、キミュスの卵をつかみ取った。


『やはりトトスの卵と比べると、殻もきわめて脆いようだ。握り潰してしまわないように、注意が必要だな。……プラティカよ、これらの卵の殻を割り、黄身と白身を取り分けるのだ』


 プラティカは『はい』と答えて、父の言葉に従った。

 キミュスの卵料理はもう何度も口にしているが、生鮮の卵に触れるのは初めてのことである。確かにこの卵は殻が薄くて、作業台に落としただけでも割れてしまいそうだった。


 また、カロンの乳はギャマの乳に比べると風味が淡いが、甘やかな香りだけは際立っている。菓子には使いやすそうな風味であった。


 花蜜にも、やはり嗅ぎなれない風味が入り混じっている。しかし甘みに不足はないし、決して不快な風味ではなかった。


 果実のラマムは、やはりまったく馴染みのない味わいだ。甘みと同じぐらい酸味も強くて、実に清涼なる味わいであった。


 そして、フワノは――西の王国の穀物である。このフワノこそ、シムのシャスカとはまったく勝手が違っていた。


(こんな粉が水でこねると生地になるなんて、不思議な性質だ。それに、焼いたフワノはすごくパサパサしていて味気ないし……これをどうやって使いこなすつもりなんだろう)


 プラティカが今日まで味わってきたのは、平たく焼きあげられたフワノばかりだ。おおよそは料理の添え物か、あるいは生地の上に具材をのせて焼きあげる料理として扱われていた。


『卵の処置は終わったか? では、こちらの器具で攪拌するのだ。白身は泡立つぐらい、入念にな』


 プラティカは、ひたすら父の言いつけに従う。

 その間に、父はフワノをカロンの乳で溶き、味や香りの確認に勤しんでいた。一刻という限りのある時間の中で、父は最善の菓子を作りあげなければならないのだ。西の地におもむいて以来、このような試練に見舞われるのは初めてのことであった。


 だが――父の長身には、剣士のごとき気迫がみなぎっている。

 ひさびさに厨に立って、料理人としての闘志を燃やしているのだろう。ともすれば、プラティカはその凛々しい姿に見とれてしまいそうだった。


(父さんなら、きっと理想の菓子を作りあげる。私も父さんを見習って、立派な料理人を目指すんだ)


 そうしてプラティカもまた、ひさびさに父とともに厨に立つ喜びを噛みしめることになったのだった。


                ◇


 それから、およそ一刻の後――父とプラティカと行商人は、別なる一室に連行されることになった。

 ここはおそらく、家族のための食堂であるのだろう。先刻の執務室と同じようにけばけばしく装飾されており、巨大な卓には領主と女児と男児だけが座していた。


「さて。それでは、其方の腕前とやらを拝見させていただこうか」


 領主は取りすました面持ちで、そのように言いたてた。きっと普段は家族の前で、そのように取りつくろっているのだろう。いっぽうふたりの幼子たちは、期待に瞳を輝かせていた。


 前掛けをつけた侍女たちの手で、父が手掛けた菓子が並べられていく。そうして、銀色の丸い蓋が取り除かれると、幼子たちが「うわあ」と感嘆の声をあげた。


「何これ! こんなの、初めて見た!」


「うん! どんなあじがするんだろう?」


 父が準備したのは、ゲルドにおいて『冬の終わり』と称される菓子であった。

 丸くて平たい生地の上に、不定形の白い生地がこんもりと盛られている。平たい生地はフワノの粉に卵の黄身とカロンの乳と花蜜を練り合わせたもので、白い生地は泡立てた白身にラマムの果汁を加えたものだ。


 泡立てた白身はふわふわとした質感で成形もままならないため、土台の生地に盛りつけた上で窯焼きにするという調理法が使われている。それで溶け崩れた雪の塊のような見栄えになるため、『冬の終わり』という名が与えられたわけであった。


 ただし、土台に生地をもちいるというのは、ゲルドにおいて決して主流ではない。普通は鉄板に白身の生地を盛って、そのまま窯の余熱で仕上げるのだ。しかし、西の王国においてはフワノが菓子に使われることが多いと聞き及ぶので、父は即興でこのような仕上がりを目指したのだった。


「ふん。実に不格好な代物だな。よくもこのような腕前で、料理人を名乗ったものだ」


 領主はそのように言っていたが、その菓子を口にするなり愕然とした。

 幼子たちは、「おいしー!」という声を合唱させる。


「上の白い部分はさくさくしていて、とても不思議な食感ね! こんなお菓子、食べたことがないわ!」


「うん! ラマムのかおりがふわあってして、すごくおいしー!」


 プラティカは懸命に無表情を保ったまま、安堵の息をつく。

 すると、女児のほうが輝く瞳でプラティカを見つめてきた。


「これ、あなたも手伝ったのでしょう? まだお若いのに、すごいのね! あなた、おいくつなの?」


「……わたし、11さいです」


「えっ! そんなに背が高くて大人っぽいのに、わたしと同い年なの?」


 東の民が西の民よりも長身であるのは、当然のことである。しかしそれ以前に、西の民はころころと表情を動かすために、幼く見えるのではないかと思われた。


「すごいなぁ。わたしなんて、厨に立ったこともないのに……あなたもお父さんも、立派な料理人だよ!」


「こ、こら。軽はずみなことを言うものではない。こやつらは身分を偽って悪事をたくらんでいるという嫌疑がかけられているのだぞ」


 領主が慌てて声をあげると、女児はきょとんと小首を傾げた。


「この御方たちは、料理人を名乗っていたのでしょう? この立派な菓子が、その証拠になったのじゃない?」


「……ふん。いささか風変わりな仕上がりではあるが、シムでは当たり前の話なのかもしれん。見た目などは、たいそう不細工であったしな」


 領主な傲慢な物言いに、プラティカはまた激怒してしまった。


「わたしのちち、ゲルのはんしゅ、りょうりばんでした。ゲルド、ゆびおり、りょうりにん、しょうこです」


 父が『騒ぐな』と声をあげたが、このたびはプラティカも止められなかった。父の手腕を小馬鹿にされることだけは、どうしても我慢がならなかったのだ。


「きょげん、おもうなら、トトス、はしらせて、かくにん、おねがいします。かならず、うたがい、なくなります。ゲル、はんしゅ、だいいちしそく、アルヴァッハさま、ちちのな、わすれていない、しんじています」


「は、藩主? ゲルの藩主だと? まさか、そんなことがあるはずは……」


「わたし、プラティカ=ゲル=アーマァヤ、きょげん、はいていないこと、とうほうしん、ちかいます」


 プラティカが東方神に宣誓すると、領主は真っ青になってしまった。

 いっぽう女児はまだきょとんとしており、男児は笑顔で菓子を頬張っている。


「藩主って、シムに7人しかいないのでしょう? それで、ラオの藩主は国王であり、次に偉いのが6人の藩主なのよね?」


「……はい。それで、あっている、おもいます」


「それじゃあ、お父様よりうんと偉いってことだ。そんな御方の料理番に偉そうにしてしまうなんて、本当に困ったお父様ね」


 と、女児はふいに大人びた顔になって溜息をついた。


「ごめんなさい。お母様が病魔で倒れてから、お父様はこんなに偏屈になってしまったの。もともと偉ぶる人ではあったんだけど、こんなに意地悪になってしまって……でも、決して無実の人を刑場に送ったりするような人じゃないから、あなたたちを困らせて楽しんでいただけなの。色々と失礼なことを言ってしまって、ごめんなさい」


 女児は椅子から立ち上がり、プラティカたちに深々と頭を下げてきた。

 その姿に、今度は男児がきょとんとする。


「ねえさまは、どうしてあやまってるの?」


「またお父様が、罪なきお人たちにご迷惑をかけてしまったの。あなたも領主の嫡子として、謝罪を申し上げなさい」


「うん。……とうさまが、ごめんなさい」


 男児も立ち上がり、ぴょこんと頭を下げる。

 しかし、頭を上げると、その顔にはあどけない笑みがたたえられていた。


「あと、おいしーおかしをありがとー! かあさまにもたべさせてあげたいんだけど、まだあまってる?」


「……はい。家族の数、不明でしたので、いくつか、余分、存在します」


「わーい! きっとかあさまもよろこぶよ!」


 にこにこと笑う男児にひとつうなずきかけてから、父は領主に向きなおった。


「疑い、晴れたなら、帰参、許されますか? 中天まで、宿屋、戻る必要、あるのです」


「はいっ!」と、領主も上ずった声をあげながら身を起こした。


「そ、それでは衛兵に送らせましょう。こ、このたびは、とんだご迷惑をおかけしてしまって……」


「……この町、立派です。町、相応しい、立派な領主、期待しています」


 それだけ言って、父は身をひるがえした。

 プラティカもそれを追おうとすると、女児が慌てて声をあげる。


「本当にごめんなさい! それに、ありがとう! それに……さようなら」


 プラティカは女児のほうを振り返り、一礼した。


「あなた、よきかぜ、ふきますように。……はは、かいふく、いのっています」


 女児があどけない笑みを浮かべるのを見届けてから、プラティカは食堂を出た。

 回廊では、眉を下げた衛兵たちが立ち並んでいる。その手から外套と武具と薬の袋を受け取って、3人は屋敷の出口を目指した。


『いや、まさかゲルの藩主の料理番とは、お見それしました。どうして最初に、その身分をお伝えしなかったのです?』


 行商人がそのように問うてくると、父は溜息まじりに答えた。


『私はわずか数日限りで身を引くことになったので、何も誇れるような立場ではない。そもそも偉いのは藩主であって、私は一介の料理番に過ぎないのだしな』


『なるほど。ですが、その経歴に相応しい腕前でありましたよ。あなたはまさしく、ゲルドで屈指の料理人であるのでしょう。そんな御方の菓子を口にすることができて、いい土産話ができました』


 父は曖昧な感じにうなずいてから、プラティカのほうに向きなおってきた。

 その口が開かれるより早く、プラティカは『ごめんなさい』と頭を下げる。


『……お前は、何を謝っているのだ?』


『だって……父さんが身分をひけらかしたくないことは知ってるから……』


『それでもお前が声をあげたからこそ、早急に自由の身となれたのだ。私こそ、頑迷さのあまりにお前まで危うい立場に立たせてしまったことを、反省している』


 そう言って、父はまたぽんとプラティカの頭に手を置いてきた。

 その顔は、やはり如何なる感情も浮かべていなかったが――ただその瞳には、常にないほど優しい光がたたえられていた。


『それにお前は、私の誇りのために怒ってくれたのだ。さっきは領主に偉そうなことを言ってしまったが、私も立派な父親を目指さなくてはな』


『と、父さんは立派だよ。だから私は、父さんと一緒にいたいんだよ?』


『うむ。お前の期待を裏切らぬように、力を尽くすと約束しよう』


 プラティカは口もとがほころびそうになるのを懸命にこらえながら、『うん』とうなずいた。


 そうしてプラティカは、その後も父とともに西の王国を巡り――2年後に父が病魔で魂を返すまで、過酷ながらも満ち足りた生を過ごすことになったのだった。

本日、新作を公開いたしました。

ドラゴンと一緒にキャンプを楽しむ、日常ファンタジーです。

ご興味をもたれた御方は、よろしくお願いいたします。


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