第五話 流浪の料理人(上)
2025.10/26 更新分 1/1
プラティカは、父とともに街道を歩いていた。
父はトトスの手綱を引いており、トトスの背中には大きな荷物がくくられている。その荷物があまりにかさんでいるために、父とプラティカは自分の足で歩む他なかったのだった。
今日は朝から歩きづめであるので、プラティカはしとどに汗を流している。
プラティカは、11歳という若年であったのだ。おおよその荷物はトトスに預けることがかなったが、それでも11歳の身には安楽ならぬ道のりであった。
ここは西の王国セルヴァの版図である。
父は料理の修行のために、西の王国を放浪しているのだ。それについていきたいと願ったのはプラティカ自身であるのだから、どれだけ過酷な道のりでも弱音を吐くことは許されなかった。
ここは西の王国においてもずいぶん中央寄りの区域であるため、故郷たるゲルドに比べれば気候も温暖である。旅用の外套の下には毛皮の装束も着込んでおらず、布の装束を纏っているのみであったが、プラティカは不快なぐらいに汗をかいていた。
あまり北寄りの領地ではマヒュドラとの戦乱に巻き込まれる恐れがあるため、父は中央の区域を修行の場に選んだのだ。周囲は背の低い灌木が点在する草地であったが、北方を仰いでも氷雪に閉ざされたターレス連山は影も形もなかった。
『……疲れたか、プラティカよ? もう間もなく町に到着するはずなので、もう少しだけ辛抱してくれ』
寡黙な父が、ひさかたぶりに声をかけてくる。
プラティカは呼吸を整えながら、『大丈夫だよ』と答えてみせた。
『野宿するよりは、ましだからね。今度の町は、けっこう大きいんでしょう?』
『うむ。貴族のいない自治領区であるようだが、かなり賑わっているのだと聞き及ぶ。……そして、キミュス料理がなかなかの評判であるという話であるのだ』
キミュス――この西の王国に生息する、鳥とも獣ともつかない奇妙な生き物である。その肉質はランドルの兎に近いので、ゲルドに戻ったあかつきにも調理法を活用する道はあるという見込みであった。
父は、ゲルドでも高名な料理人であったのだ。
その腕を見込まれて、父はゲルの藩主の屋敷で働くことになった。しかしそこで、自分の未熟さを思い知らされて――それでこうして、修行の旅に出ることになったのだった。
『私はゲルドでかなう限りの力をつけたつもりでいた。しかし、それでは足りなかった。だから、私は……西の王国に活路を見出そうと思う』
そうしてゲルドを出たならば、数年がかりの旅となることだろう。
プラティカもともに旅立つか、あるいは縁の薄い血族のもとに身を寄せるか――そんな二者択一を提示されたプラティカは、迷わず前者を選んだのだった。
プラティカもまた、幼い内から厨に立っていた。母親はもっと幼い頃に失い、他には兄弟もなかったため、プラティカはひたすら父の背中を追っていたのだ。そして父もまた、熱心に調理の手ほどきを施してくれたのだった。
父は一介の料理人であった時代から、客としてさまざまな料理店を巡っていた。稼ぎのすべてをその代金にあてがって、著名な料理人の腕前を見習おうと思案していたのだ。そうして作りあげられた父の料理は、いかなる料理店で味わう品よりも見事な出来栄えであった。
そうして父は、藩主の屋敷に料理番として招かれることになったのだが――ものの数日で、自ら身を引くことになった。藩主の第一子息アルヴァッハの指摘によって、自分がどれだけ未熟であるかを思い知らされたのだという話であった。
『アルヴァッハ様は、私などよりも遥かに鋭敏な舌を持っておられる。そして、私よりも遥かに高い理想を携えてらっしゃるのだ。あのアルヴァッハ様をご満足させることができれば、それはゲルドのみならずシムで一番の――いや、大陸アムスホルンで一番の料理人を名乗ることが許されよう』
そのように語る父の瞳には、おさえようもない熱情がみなぎっていた。
それでプラティカも同じだけの熱情を胸に、ゲルドを出立することがかなったのだった。
『……見えた。あれが、目的の町であるようだな』
父の言葉にいざなわれて、プラティカは前方を透かし見た。
地平線に、赤茶けた線が走っている。しばらく進むと、それが赤煉瓦を組みあげて築いた塀であることが知れた。
さらに進むと、視界がどんどん赤煉瓦の色彩に染めあげられていく。左右の果てなどは見渡せないほどであるし、高さも二階建ての家屋をしのぐほどであった。
『これだけの煉瓦を積み上げるなど、生半可な労力ではあるまい。この町が豊かである何よりの証左であろう』
プラティカはいくぶん胸を高鳴らせながら、『うん』とうなずいた。
立派な町には、立派な料理が存在するに違いない。どれほど辺鄙な宿場町でも西の様式で作られた料理というだけで目新しさには事欠かなかったが、より洗練された技法を学ぶためには立派な料理が必要であるはずであった。
赤煉瓦の塀に築かれた大きな門では、大勢の人間が立ち並んでいる。
入場が許されるかどうか、人相あらためを行っているのだ。それもまた、この町が立派であるひとつの証拠であった。
プラティカと父も、その列の最後尾につく。
順番を待つ人間の中には、東の民の姿も見受けられた。行商を生業とする、ジギの草原の民たちであろう。彼らがこれだけ行き来しているならば、シムの香草が料理に使われている公算も高かった。
そうして順番を待っている間に、太陽はどんどん西に傾いていく。
このままでは、入場の前に夜を迎えてしまうのではないかと思われたが――幸い、太陽神が地平に接しようとしたところでプラティカたちの順番が巡ってきた。
「また東の民か。頭巾を取って、顔と右腕をあらわにするがいい」
門の前に立ちはだかった守衛が、横柄な調子で呼びかけてくる。褐色の髪と瞳に黄白色の肌をした、いかにも西の民らしい容貌だ。体格はがっしりしていたが、背丈は父よりも頭半分以上も低かった。
その言いつけに従って、プラティカと父が顔と右腕をあらわにすると――衛兵は、ぎょっとした様子で身をすくめた。
「なんだ、その髪の色は。まさか、お前たち……ゲルドの山賊か?」
父は赤褐色、プラティカは金褐色の髪をしていたのだ。ついでに言うならば、瞳はどちらも紫色であった。
「はい。我々、ゲルドの民です。ただし、山賊、ありません」
父が修行のために習い覚えた西の言葉で応じると、守衛は槍をかまえながら後ずさった。他の守衛たちも、すっかり色めきだっている。
「ゲルドの民とは、すなわち山賊であろうが? 山賊の他にゲルドの地を出る人間など、聞いた覚えがないぞ!」
「いえ。国境警備隊、ゲルド、出ています。西の王国、協力しています。西と東、友好国です」
「国境警備隊は、国境を守っているだけのことだ! お前たちは、何なのだ? さては……お仲間の山賊を手引きしようという魂胆か?」
「いえ。私、料理人です。修行、目的で、西の地、巡っています」
「料理人が、異国で修行だと? そんな馬鹿げた話を、信じられるものか!」
すると、プラティカたちの背後に並んでいた人物が、ひょこりと顔を覗かせた。こちらは黒い髪と瞳をした、見るからにジギの民である。
「失礼します。言葉、信じられないなら、宣誓、如何でしょうか?」
「せ、宣誓だと?」
「はい。東方神、宣誓です。宣誓の場、虚言、吐いたならば、魂、砕かれます。魂、犠牲にして、悪事、働く山賊、いない、思います」
守衛たちは困惑の表情を見交わしながら、押し黙ってしまう。
すると、その返答を待つ前に父が東方神への宣誓を行った。如何なる虚言も許されない、神聖なる誓いの言葉である。
「プラティカ、あなたも、どうぞ」
「はい。……わたし、プラティカ=ゲル=アーマァヤ、さんぞく、ちがう、ちかいます。もくてき、りょうり、しゅぎょうです」
プラティカも懸命に西の言葉を学んだが、まだまだ父よりも覚束ない。それでも死後に魂を砕かれるような言い間違いはしていないはずであった。
「宣誓、完璧です。また、山賊、子連れ、いない、思います。また、彼ら、右腕、罪人の刻印、ありません」
ジギの行商人がそのように言いつのると、まだ疑り深そうな目つきをした守衛のひとりが荒っぽく手を振った。
「もういい、入場を許す。……ただし、少しでもおかしな真似をしたら、すぐさま叩き出してやるからな」
「はい。感謝、捧げます」
守衛たちの気が変わらない内にと、プラティカたちはさっさと門をくぐった。
しかし父は街路を少し進んだところで、歩を止める。その意図を悟ったプラティカも、黙って父に従った。
しばらくして、新たな人影が門をくぐってくる。
すでに頭巾をかぶりなおしているが、先刻の行商人だ。彼は2頭のトトスに、立派な荷車を引かせていた。
『失礼。先刻の助言に、感謝する。こちらは旅に慣れていないので、あのような説得の言葉は思いつかなかった』
『いえ。異国の地において助け合うのは、当然の話です。西の地においてはジギの民でも猜疑の目を向けられることが多いので、今後もお気をつけください』
行商人はとても穏やかな声音で、そのように答えた。
髪や瞳の色ばかりではなく、ジギの民は顔立ちや体格もゲルドの民と異なっている。父はそれほど大柄ではなかったので背丈は同程度であったが、やはりジギの民のほうがほっそりとしているのだ。その面長の顔も女人のように華奢な造りで、いかにも優しげであった。
『ですが、調理の修行で西の地を巡っているという言葉には、私も驚かされました。宣誓の場で語ったからには、それが真実であるのでしょうが……そのようなことが、ありえるのですね』
『うむ。きっとゲルドでも、そのような酔狂者は我々ぐらいなのだろうと思う。もとよりゲルドの民というのは、ジギの民のように軽やかな翼は持っていないのでな。あの守衛たちが疑うのも、当然のことなのだろう』
『はい。実のところ、私もゲルドの民と相まみえたのは初めてのこととなります。ですが、風聞で聞くほど猛々しい気性はしておられないようなので、安心いたしました』
ギャマのように穏やかな眼差しで、行商人はそう言った。
『ただやっぱり、あなたがたにはゲルドの民ならではの風格というものを感じます。それはきっと、ムフルの大熊を狩る狩人ならではの迫力であるのでしょう。それでいっそう、守衛たちも警戒したのだろうと思われます』
『なるほど。私は料理人であったので、せいぜいランドルや野鳥ぐらいしか狩った経験はないのだが……この身には、長年にわたってムフルを狩ってきた猛き血が流れているのであろうしな』
『はい。そちらのお子にも同じだけの風格を感じますので、やはり血筋なのでしょう』
『うむ。プラティカは、私よりも立派なランドルを捕らえるぐらい弓の名手であるしな』
父の声がわずかに自慢げな響きを帯びたので、プラティカはひとり頬を熱くすることになった。
『初めて巡りあったゲルドの民があなたがたのような人々であったことを、得難く思っています。……ともあれ、日没が遠くありません。今日の宿は、お決まりでしょうか?』
『いや。この町に足を踏み入れるのは初めてなので、これから探すところだ。できるだけ立派な料理を出す宿を探したく思っている』
『では、私の常宿は如何でしょう? 値段の割には上等な料理を出すという評判の宿であるのです』
『料理が上等な上に安値であるのなら、何より得難く思う』
ということで、プラティカと父はその行商人の常宿を目指すことになった。
まだまだ人影の多い街路を歩きながら、プラティカは左右に視線を巡らせる。建物も街路もおおよそ赤煉瓦であるため、町全体が赤茶色をしていた。おそらく煉瓦の材料となる赤土がよく採れる地であるのだろう。それがこの町の繁栄の一歩目であったのだろうと思われた。
(私や父さんは、どこに行ってもまず山賊あつかいされちゃうもんな)
それぐらい、外界というのは物騒であるのだ。こうして町を守る塀を築けなければ、大きな繁栄を望むことも難しいのだろう。ゲルドにおいても、主要の都市は塀で守られていたが――それは半分がた、ムフルの大熊に対する用心であった。
『こちらです。宿賃は荷物の預かり代を含めて、白銅貨1枚となりますね』
街路の途中で足を止めた行商人が、そのように告げてきた。
他の建物と似たり寄ったりの、赤煉瓦の建物だ。3階建てで、入り口に大きな看板がかけられていたが、プラティカはまだ西の文字を読むことができなかった。
「失礼します。3名、宿泊、可能でしょうか?」
行商人は頭巾を外しながら、大きな両開きの扉の前に立っていた若者に呼びかける。若者はうろんげに眉をひそめたが、すぐに陽気な笑みをたたえた。
「ああ、あんたか。ずいぶんおひさしぶりだったね。それに、お連れがいるなんて珍しいじゃないか」
「はい。ご縁、あって、行動、ともにしています。3名、宿泊、可能ですか?」
「ああ。今なら、最後の4人部屋が余ってるよ。3人連れなら、親父も喜ぶだろうさ」
そんな風に語りながら、若者は背後の扉を押し開けた。
とたんに、トトスの匂いがむっと鼻をついてくる。1階は、トトスや荷車を収める倉庫であったのだ。簡単な木の柵で区切られた空間に、たくさんのトトスが待ちかまえていた。
「くれぐれも、他のトトスや荷車には近づかないようにね。あと、基本的に出立するまではここに入れられないんで、必要な手荷物はお忘れなく」
プラティカたちは奥まった場所まで連れていかれて、そこにトトスと荷車を預けることになった。そして、それぞれのトトスの焼き印が帳面に記されていく。トトスをすりかえさせないための、おたがいにとっての用心である。
「そちらさんのトトスはずいぶんなりが大きいし、羽の色も風変わりだね。何か特別なトトスなのかい?」
と、若者が好奇心をたたえて問いかけてくる。ゲルドのトトスは身体が大きく、灰褐色の羽毛をしているのだ。いっぽうジギのトトスは、おおよそ黄色みがかった羽毛をしていた。
「はい。こちら、ゲルド、生まれです。我々、同様です」
父がそのように答えると、若者はぎょっとした様子で身を引いた。
すると、行商人が穏やかな声で口をはさむ。
「彼ら、ゲルドの民ですが、山賊、ありません。東方神、宣誓したので、入場、許されたのです」
「あ、ああ、なるほど……まあ、山賊だったらこんな幼い子供を連れたりはしないよな」
「明察です。また、ゲルドの地、トトス、10日、かかります。山賊、西の地、荒らしていますが、それほど、ゲルド、離れること、ないでしょう」
「うんうん、もっともな話だな。ゲルドの民なんてお目にかかったのは初めてのことだったから、ちっとばっかり驚かされちまったよ」
そうして若者は陽気な表情を取り戻したが――まだその目の奥には、ほんの少しだけ警戒の色が残されているようであった。
ゲルドの山賊というものが、それだけの悪評を西の地にはびこらせているのである。卑劣なる山賊は強き力を持つ北や東の民をさけて西の民ばかり襲うということで、ことさら悪評を招いているのだという話であった。
「それじゃあ、こいつが預かり証だ。こいつをなくしたら手続きが面倒になるんで、くれぐれも気をつけてな。えーと、何泊をご希望だい?」
「私、三泊です」
「私、未定です。明日、相談、希望です」
「承知したよ。一泊の場合は、中天までに出ていってくんな」
そうして一行はそれぞれの手荷物を携えて、建物の外に出た。
若者はまた扉の前に立ちはだかり、プラティカと父は行商人の案内で街路を進む。建物の端に木造りの戸があり、そこが宿泊する人間の出入り口であった。
「いらっしゃい。荷物はもう預けた後かね?」
受付台に座っていた壮年の男性が、愛嬌のある笑顔を向けてくる。目もとが似ているので、きっと先刻の若者の父親であるのだろう。ただ、ゲルドではなかなか見かけないぐらい恰幅がよかった。
「はい。四人部屋、空いている、言われました」
「ああ。三階の一番奥の、左側の部屋だね。こっちの帳面に、名前と宿泊の日数をお願いするよ」
「私、未定です。明日、相談、希望です」
「それなら、とりあえず一泊と書いておくれよ。中天までに、決めておくんなさい」
プラティカは西の文字が書けないため、父に一任する。
そうして父が筆を走らせると、こちらの主人も若者とそっくりの挙動で身を引いた。
「ゲ、ゲル? あんた、ゲルドの民なのかい?」
ということで、先刻と同じやりとりが繰り返されることになった。
主人はやはり、先刻の若者と同じような目つきになる。商売人らしい陽気さの中に、ひとつまみの猜疑心を含ませた眼差しだ。それもこれも、ゲルドの山賊がもたらした弊害であった。
『あなたの連れでなかったならば、もっと疑いの目を向けられていたのだろう。重ね重ね、感謝する』
受付台の前を過ぎると、すぐに狭い階段が現れる。そこに足を踏み出しながら、父が行商人に呼びかけた。
『ただあの主人は、3人連れと聞かされた際に喜びの気持ちをにじませていたように思う。最初の若者もそのように語っていたが、彼らは何を喜んでいるのだろうか?』
『西の民には、東の民との相部屋を嫌がる人間が多いのです。東の民だけで3人うまれば都合がいい、ということなのでしょう』
『ああ、なるほど……確かにジギの民も、少なからず警戒されているのだな』
『はい。東の民は毒の武具を扱うということで、のきなみ警戒されています。ですが、そのおかげで単身の長旅が可能なのですから、嘆くよりも喜ぶべきかと思われます』
行商人の返答に、父は小さく息をついた。
『あなたからは、学ぶことが多い。これまでジギの行商人と親しくしてこなかった自分の不明さを、恥ずかしく思う』
『はい。何かわけあって、ジギの行商人を避けていたのですか?』
『いや。調理の修練にばかり目がいって、他者との交流に気が向かなかっただけのことだ。……安全な旅のためにも、心を入れ替えなければな』
すると、行商人は父のほうを向いて、微笑むように目を細めた。
『あなたはそれほどまでの熱情でもって、調理の修練に励んでいるのですね。機会があれば、是非その手腕を味わわさせていただきたいものです』
『私はいまだ修練のさなかであるので、あなたを満足させることは難しいだろう。……しかし、機会さえあれば、恩義に報いたく思う』
父がそのように答えたところで、三階に到着した。
赤煉瓦の通路が長くのびており、左右にたくさんの扉が設置されている。もっとも奥まった場所まで歩を進めて、左側がプラティカたちの部屋であった。
部屋ももちろん赤煉瓦造りで、二段重ねの寝台が左右に設置されている。あとは小さな戸棚と大きな水瓶が置かれているぐらいの、ごく簡素な設備であった。
『身を清めたら、食堂に向かいましょう。食堂は、二階です』
戸棚に準備されていた織布を水瓶の水にひたして、顔や手の先をぬぐう。朝から歩きづめであったプラティカは、顔の汗と砂塵をぬぐうだけで生き返るような心地であった。
『こちらの扉には鍵もありませんので、手荷物も持参するべきでしょう。寝室における盗難に関しては、すべて自己責任となりますので。眠る際のみ、内側からかんぬきを掛けることが可能です』
『うむ。このように立派な宿でも、宿場町の安宿と大きな変わりはないようだな』
『ええ。ですが、トトスや荷車の保管に関しては信頼できます。でなければ、私も安らかに眠れませんので』
そんな言葉を交わしながら部屋を出て、一行は階段に舞い戻った。
さきほどは素通りした扉を開けて、二階の食堂に足を踏み入れる。そろそろ日も暮れきった頃合いであるので、食堂は大層な賑わいを見せていた。
ざっと見た感じ、他に東の民の姿は見当たらない。黄白色や黄褐色の肌をした西の旅人たちが酒杯を掲げながら、さまざまな料理を楽しんでいた。
その賑わいの隙間をすりぬけるようにして、一行は奥まった場所の卓を目指す。そこに腰を落ち着けると、若い娘が小走りで近づいてきた。
「いらっしゃい。ご注文は?」
「果実酒、ラマム割り。キミュス、香味焼き。汁物料理、お願いします」
そんな風に答えてから、行商人は父のほうを振り返った。
『こちらの食堂で評判なのは、キミュスの香味焼きです。カロンの煮込み料理も悪くないのですが、カロンは2日ほどかかる牧場から仕入れた塩漬け肉ですので、あまり新鮮ではありません』
『なるほど。汁物料理は、1種類のみだろうか?』
『はい。日によって、内容は変わります。おおよそ川魚か野鳥の肉などが使われています。また、焼いたフワノは汁物料理の添え物として出されます。……ああ、プラティカはまだ幼いので、肉料理か汁物料理のどちらかを半人前にしてもいいかもしれませんね』
『いや。プラティカであれば、一人前で問題はないように思う』
それはその通りであったが、初対面の人間の前で大喰らい呼ばわりされたような心地で、プラティカはまた頬を熱くすることになった。
「では、キミュス、香味焼き、カロン、煮込み料理、一人前。汁物料理、二人前、お願いします。……茶、存在しますか?」
「酒じゃなくって、茶ですか? まあ、チャッチの茶ぐらいなら、お出しできると思いますよ」
「では、二人前、お願いします」
若い娘は帳面をつけるでもなく、立ち去っていった。
その後ろ姿を見送ってから、行商人が父を振り返る。
『そういえば、頭巾を外さないのは素性を隠すためでしょうか? こちらの食堂では、むしろ不審に思われるかもしれません』
『そうであろうか? 宿場町では酔漢に絡まれることになったので、目立つ頭を隠すべきかと考えたのだが』
『こういう人相あらためのある町では、むしろ堂々と振る舞うほうが得策であるように思います。東の民に絡むほど荒くれた人間は、そうそういないでしょうからね』
『そうか。本当に、あなたからは学ぶばかりだ。できれば、食事の代金ぐらいはこちらで受け持ちたいところなのだが……』
『お気持ちだけで、けっこうです。修行中の身では、銅貨を稼ぐのもひと苦労なのでしょうしね』
今のところ、父はゲルドで蓄えた銅貨だけを頼りに旅を続けている。それで何年も放浪するのは不可能なので、いずれは銅貨を稼ぐ手段を確立しなければならなかった。
「お待ちどおさま。まずは飲み物と……あっ」
と、お盆を運んできた娘が、立ちすくむ。プラティカと父の髪の色に気づいたのだろう。燭台の頼りない輝きでも、プラティカの金褐色の髪はひときわ目立つはずであった。
「し、失礼しました。飲み物と、汁物料理です」
娘は強張った笑みをたたえつつ、卓にそれらの品を並べていった。
プラティカはすみやかに、汁物料理に注目する。うっすらと褐色がかった煮汁から、嗅ぎなれない香草の香りが漂っていた。
『今日は川魚のようですね。あとは、ペペが使われているようです。……ペペはご存じでしょうか?』
『いや。西の地の香草であろうか?』
『はい。香草か、あるいは香味野菜に区分されるのでしょうか。料理人ならぬ私には、判別が難しいところです。ともあれ、これだけ大量に使われていても、香りはこのていどです』
行商人の説明を聞きながら、父は木匙で具材をすくいあげた。緑色の細長い野菜である。
『では、これがペペであろうか?』
『はい。シムにはあまり見られない味わいですが、私は好ましく思っています』
父はひとつうなずいて、そのひと切れのペペを口にした。
プラティカも慌てて、それにならう。ペペはどっさり使われていたので、探し出すのに困ることはなかった。
それを口にしてみると、苦い香りが鼻に抜けていく。
しかし、煮汁の塩気と相まって、悪くない味わいである。それに、ひと切れかじっても強い刺激はなかったので、どちらかといえば香味野菜に区分するべきではないかと思われた。
父は『なるほど』とつぶやきながら、煮汁をすすりこむ。
プラティカもそれを真似ると、煮汁には魚介の風味が豊かであった。川魚が具材として使われているばかりでなく、燻製魚の出汁も使われているのではないかと思われた。
(でも、あとは塩気しか感じられない。ペペという香味野菜の風味が豊かだから、いちおう料理としては成立しているけれど……やっぱりちょっと、物足りないな)
しかし、そこで話を終わらせてしまったら、何の修行にもならない。
それでプラティカが思い悩んでいると、父は食事を進めながら問うてきた。
『プラティカは、どう思う?』
『うん……私だったら、まずチットかイラを使って……あとは実際に入れてからの話になるけど、シシやナフアなんかも合うんじゃないかな』
『チットやイラは、いささか安易であるかもしれんな。それにこちらの料理においては、魚介の味をしっかり組み立てた上で香草を加えるべきであるように思う。魚醤か貝醬のどちらかを使って、それに調和する香草を考案するべきではなかろうか?』
『そうなのかな。魚醤や貝醬を使ったら、もとの料理の味わいが消されちゃいそうだけど……』
『いや。このペペというのはなかなか力強い香りであるので、魚醤や貝醬を加えても負けることはあるまい。そこで生じる味わいに調和するように、香草を選別するべきであろう』
すると、行商人がゆったりと声をあげた。
『失礼します。それも、修練の一環なのでしょうか?』
『うむ。西の食材のみで作られた料理は、ゲルドで再現することもかなわない。如何に応用の道を探すかが、舌と発想の修練になろう』
『これは私が想像していた以上に、過酷な道であるようです。……プラティカなどはまだ幼いのに、立派ですね』
『いえ。私なんか、父の足もとにも及びません。今も、自分の未熟さを思い知らされることになりました』
プラティカが肩を落とすと、父が厳格なる眼差しを向けてきた。
『おのれの未熟さを知ることこそが、第一歩なのだ。そら、次の料理が来たようだぞ』
強張った笑みを浮かべた娘が、新たな皿を卓に並べていく。
そうしてプラティカは、キミュスの香味焼きとカロンの煮込み料理を口にして――また自分の未熟さをさらけだすことになったのだった。




