黒き太陽の子(下)
2024.10/23 更新分 1/1
祝宴が開始されてしばらくは、アスタたちとともに会場を巡ることが許された。
同行するのは、リミ=ルウにルド=ルウ、レイナ=ルウにガズラン=ルティムという、ジルベにとっても見慣れた面々だ。ただし、行く先々でレイナ=ルウが他者に声をかけるたびに、人数はふくれあがっていった。
アスタたちは至極楽しげに、宴料理で腹を満たしている。
夕刻にも食事をいただいたジルベとサチはそれを見守るばかりであったが、喜びの思いに変わりはなかった。
そうしていくつかの卓を巡ったのち、ついに貴族の集団に周囲を取り囲まれる。
祝宴の場では、これが通例であるのだ。ジルベは貴族との語らいを苦手にしているアイ=ファのために、何とかその場に踏み止まってみせた。
すると、貴族たちの関心はジルベとサチにも向けられてくる。
これもまた、祝宴の場においては通例だ。人間の言葉を発することができないジルベはただ相手を見返すことしかできなかったが、それでも誰もが満足そうな顔をしていた。
「獅子犬というのは、本当に勇ましいお姿ですわね。獅子の彫像にそっくりですわ」
「でも、獅子に比べたら愛くるしい面立ちです。このつぶらな瞳なんて、無垢なる赤子のようですわ」
「猫なんて、さらに愛くるしい上に優美ですこと。こちらは貴婦人さながらね」
「みなさん、猫や獅子犬よばわりは失礼じゃなくって? こちらはサチ様にジルベ様ですわよ」
そんな風にはやしたてるのは、おおよそ若き貴婦人である。というよりも、アイ=ファのもとに群れ集うのはおおよそ若き貴婦人であるのだ。若き貴公子や年配の貴族などは、アスタを取り囲むことが多かった。
ともあれ、ジルベとサチが関心を集めれば、そのぶんアイ=ファの苦労が軽減される。同じ場所にはリミ=ルウとレイナ=ルウも留まっているため、アイ=ファも普段よりは苦労していないように見受けられた。
なおかつ、ジルベ自身は貴婦人に取り囲まれることを苦にしていない。彼女たちは勲章を授かった功労者ということで、ジルベのことをもてはやしているのだ。この勲章を心から誇らしく思っているジルベにとって、彼女たちの賞賛を忌避する理由はなかった。
その中で、気の毒なのはサチである。サチは家人ならぬ相手に触れられることを嫌がる気質であるが、決して他者に牙や爪を立ててはいけないと申しつけられているのだ。ジルベの背中に陣取ったサチは、貴婦人たちの愛撫から逃げるために懸命に身をよじっているようであった。
「……申し訳ないが、サチは他者との接触を苦手にしている。こうして私が抱いておくので、背中を撫でるに留めてもらえようか?」
と、それを見かねたアイ=ファが、サチの身体をすくいあげた。
とたんに、周囲から感嘆の吐息がこぼされる。
「アイ=ファ様がサチ様を抱かれていると……なんだか、一幅の絵画のようですわ」
「ええ。どちらもお美しいから、まるで御伽噺の挿絵のようですわね」
「本当に……吟遊詩人がこの姿を目にしたら、たいそう美しい物語を紡いでくれるのじゃないかしら」
そんな具合に、多くの貴婦人がアイ=ファとサチの姿に見とれていた。
まあ、ジルベにもその気持ちはわからなくもない。なんとなく、アイ=ファとサチが寄り添う姿はしっくりと目に馴染むのだ。今日はアイ=ファが黒っぽく見える深紅の宴衣装を纏っているものだから、余計にそういう印象になるのかもしれなかった。
(そういえば、アイ=ファは猫の星だとか、誰かがそんな風に言ってたっけ)
その意味はジルベにとって理解の外であるが、目や心に映るものは判別することができる。アイ=ファとサチには、外見にも中身にもどこか似通った部分があるのだろうと思われた。
そうしてしばらく貴婦人たちのお相手をしてから、ようやくアスタたちと合流する。
ここまでの道行きで加わった面々は姿を消しており、その代わりに髭面の男がアスタのそばに控えていた。これはたしか、リフレイアという若い貴婦人の護衛役で、ムスルという人物である。古きの時代には森辺の祝宴にやってきて、城下町の祝宴でもいつもリフレイアのそばに控えていた。
(このムスルは、アスタをさらったことがあるっていう話だったっけ)
しかしそれはジルベがファの家人になるより前の話であり、今ではアスタたちとも仲良くしている。よって、ジルベが警戒する理由はなかった。
そのムスルの案内で、森辺の一行は広間の逆の端に並べられた卓のほうに移動していく。そちらで待ちかまえていたのは、リフレイアを筆頭とする貴族たちであった。
今度はこちらの面々が、アスタたちとの同行を望んでいたのだ。アスタとアイ=ファはどこでも人気者であり、ジルベにとっては誇らしい限りであった。
そうしていくつかの卓を巡ると、また見覚えのある面々が待ちかまえている。叙勲の式典でジルベの身に勲章をつけてくれたオディフィアと、その母親であるエウリフィアだ。さらにその場には、トゥール=ディンやレム=ドムといった森辺の民も数多く居揃っていた。
トゥール=ディンの菓子をこよなく好んでいるというオディフィアは、灰色の瞳をきらきらと輝かせながらアスタと語り始める。彼女は何故だか東の民のように表情が動かないが、その目の輝きと小さな身から発せられる香りで、彼女が幸せな気分であることはまざまざと伝わってきた。
「オディフィアはアロウのくりーむがすごくすきだけど、ちょこれーとのくりーむはもともとだいすきだったし……トライプのくりーむもだいすきだから……やっぱり、じゅんばんはつけられないの」
「そうですよね。俺もそう思います」
アスタが笑顔で答えると、オディフィアは「うん」とうなずく。その拍子に、アスタの足もとに控えていたジルベと目があった。
たちまち、オディフィアの瞳がさらに明るくきらめく。彼女は初めて出会った頃から、ジルベに好意を向けていたのだ。
「ジルベとサチも、やっとあえた。……ジルベのあたまをなでてもいい?」
「うむ。ジルベもオディフィアとの再会を待ち望んでいたことであろう」
アイ=ファの優しい返答に、オディフィアがちょこちょこと進み出てくる。その小さな手が頭を撫でてきたので、ジルベも「わふっ」と喜びの思いを口にした。
ジルベは人の言葉を発することができないが、さまざまな面から人の内心をうかがうことができる。声の響きやちょっとした仕草、目の輝きに顔の表情――そしてやっぱり、香りである。このオディフィアは人形のように無表情で、口のききかたもぎこちなかったが、それ以外の面で喜びの思いを伝えてくれるのだった。
「おかしをたべおわったら、サチもだっこしていい?」
「うむ。サチもさぞかし喜ぶことであろう」
オディフィアとアイ=ファのそんなやりとには、サチが「なうう」と不満げなうなり声をあげる。きっとサチもジルベと同じぐらい人間の感情を察しているのであろうが、それよりも家人ならぬ相手を忌避する気持ちが先立つようであった。
(いや、忌避っていうのとは違うのかな。やっぱりサチは、アイ=ファに似ているのかもしれない)
アイ=ファも決して、他者を忌避しているわけではない。しかし、よほど心を通じ合わせた相手でない限り、笑顔を見せることすらためらうのだ。
それには何か、込み入った感情の流れがあるのだろう。誰もがジルベのように、簡単な世界で生きているわけではないのだ。ファの家に住むことでその事実を知ったジルベは、相手の生き方を尊重しながら自分なりに寄り添うしかなかった。
そうしてその場でも楽しく過ごしていると、やがてどこからか澄みわたった鐘の音色が聞こえてくる。
これはドレッグの屋敷に住まっていた頃から、聞き慣れた音色だ。人間はこの鐘の音色で、時間の流れを知るのである。それでついに、アスタとアイ=ファはジルベのもとを離れることになったのだった。
「我々は、ポワディーノに挨拶をしなければならない。後のことはリミ=ルウたちに託したので、決して粗相のないようにな」
ジルベは「わふっ」と鳴いて、アイ=ファの言いつけに応じた。
アイ=ファにアスタ、それにガズラン=ルティムも人混みの向こうに消えていく。レイナ=ルウは少し離れた場所で貴族たちと語らっているので、ジルベのそばにいるのはリミ=ルウとルド=ルウだ。そして、オディフィアとエウリフィアも遠からぬ位置でトゥール=ディンたちと語らっていた。
そこに、新たな一団が近づいてくる。
この場の誰よりもけばけばしい身なりをした貴族に、アイ=ファと同じような宴衣装を纏った女性、そしてやたらと背が高い白装束の男性――ティカトラスとヴィケッツォとデギオンである。その後から、ラウ=レイとヤミル=レイも姿を現した。
「おやおや? ようやくアイ=ファの姿を発見したと思ったのに、どこに行ってしまったんだろう?」
ティカトラスがきょろきょろと周囲を見回すと、レム=ドムが皮肉っぽい笑顔で答えた。
「アイ=ファだったら、王子に挨拶に出向いたわよ。今日はつくづく、縁がないようね」
「おお、なんたることだ! しかし、会えない時間が長ければ長いほど、わたしの熱情は高まるばかりだよ!」
ティカトラスはへこたれた様子もなく、からからと笑う。
そしてその明るく輝く目が、ジルベを見下ろしてきた。
「ああ、ジルベとサチはこちらに居残っていたのだね! 愛しきアイ=ファと引き離されてしまったもの同士、仲良くしようじゃないか!」
背中のサチはそっぽを向いたようだが、ジルベは「ばうっ」と答えてみせた。
すると、リミ=ルウがぴょこんと身を乗り出してくる。
「ジルベは、嬉しそうだねー! ティカトラスに会いたかったの?」
ジルベはことさら、ティカトラスに会いたかったわけではない。しかしジルベが大いなる誇りを抱くことができたのは、革の甲冑を準備したティカトラスのおかげであるのだ。ジルベにとって、ティカトラスは大恩ある相手であった。
ただもちろん、それがなくともティカトラスは好ましく思っている相手のひとりである。ティカトラスはとにかくいつでも楽しい心持ちを全開にしているので、それがジルベの内にも呼応するのだ。少しばかりけたたましいことに目をつぶれば、どこにも不満のない相手であった。
(一緒に町を巡ったときも、楽しかったもんな)
革の甲冑を準備する際には、ジルベも革細工屋という場所に連れていかれたのだ。ジルベがファの家人の付添なしに森辺を出るというのはそうそうありえない話であったので、強く印象に残されていた。
革細工屋の職人はおっかなびっくりジルベの身体の大きさを計測して、革の甲冑を仕立ててくれた。ティカトラスはそのさまを、ずっと笑顔で見守っていたのだ。これで森辺のみんなの役に立てるかもしれないと聞かされていたジルベもまた、浮き立った気持ちで職人の働きを眺めていたのだった。
「君たちの礼装はひさびさに見たけれど、やっぱりこよなく似合っているね! 勇壮なる騎士とたおやかな貴婦人さながらじゃないか!」
ティカトラスが甲高い笑い声をあげると、菓子をつまんでいたラウ=レイがいぶかしげな面持ちで振り返った。
「ティカトラスよ、お前はずいぶんはしゃいでいるようだな。お前は若い娘ばかりでなく、犬や猫も好んでいるのか?」
「ひとつ訂正させていただくと、わたしは若い女人ばかりに魅了されるわけではないよ! 齢を重ねた女人にも、熟れきった果実のごとき魅力が備わっているのだからね!」
いっそう愉快そうに笑いながら、ティカトラスはそう言った。
「それで、なんだっけ? ああ、犬や猫に関してか! もちろんわたしは、美しき姿と魂を持つ獣も、こよなく好ましく思っているよ! こちらのジルベやサチなどは、絵画や彫刻に仕立てたいほどの美しさであるからね!」
「そうか。まあ、そやつらもれっきとした森辺の家人であるからな。見くびる気持ちがないなら、幸いなことだ」
「見くびるだなんて、とんでもない! 勲一等を授かったジルベだって、この場では立派な主役のひとりさ!」
そのように語るティカトラスやヴィケッツォも、いくぶん小ぶりの勲章をさげている。ヴィケッツォのほうはよくわからないが、ティカトラスはジルベに甲冑を準備した功績が認められて、勲章を授かることになったのだ。恩人たるティカトラスと同じ誇りを分かち合うことができて、ジルベとしても喜ばしい限りであった。
「……だけどわたしは、これまでジルベの勇壮な姿に心を奪われることはなかった。ジルベが勲章を授かったその日から、心を躍らされるようになったのだが……その理由が、ようやくわかったよ」
と、ティカトラスはにこにこと笑いながら、ジルベを見下ろしてきた。
「ジルベは西の象徴たる獅子に似た姿をしており、東の象徴たる黒い色をしている。そんな君が西と東の勲章をさげていることで、愉快な調和が生じているのだよ。勲章を授かった人間は他にも多数存在するし、わたしやヴィケッツォもそのひとりであるわけだが、今日この場でその勲章がもっとも似合っているのは君に違いないよ、ジルベ」
「……そういえば、西の王都の兵士たちも、これ見よがしに獅子の紋章を掲げていたわね」
と、硝子の酒杯を手にしたヤミル=レイが、そんな言葉を投げかけてくる。
そちらを振り返りながら、ティカトラスは子供のように「うん!」とうなずいた。
「もとより西方神は火を司る火神であるし、獅子のたてがみというのは燃えさかる炎さながらであるだろう? だからきっと、獅子が西の象徴に祀りあげられたのじゃないかな。いっぽう東方神は冥神ギリ・グゥや運命神ミザを従えていることからもわかる通り、死と魂の導きを司る神でもある。それで弔いの色たる黒色が象徴とされたのだろうね」
「ふうん。それで、このジルベがあなたの琴線に触れたということかしら?」
「そう! 南の生まれであるジルベが西と東の象徴をあわせもっており、このたびは西と東の絆を結びなおすために大役を果たした! わたしに吟遊詩人の素養があったならば、何か気のきいた歌でもこしらえていたところであろうね!」
「いちいちややこしいことを考えるやつだ。そんな御託を並べずとも、こやつの立派さに変わりはあるまいよ」
そんな風に言ってから、ラウ=レイはにっとジルベに笑いかけてきた。
「何にせよ、お前のおかげで早急に災厄を退けることがかなったのだ。俺はずっとヤミルの身を案じていたので、お前に感謝しているぞ」
ティカトラスのまわりくどい賞賛も、ラウ=レイの率直な賞賛も、ジルベにとっては等しく誇らしい。そんな思いでもって、ジルベは「ばうっ」と答えてみせた。
「おや、こちらはずいぶん賑やかなことだな」
と、また新たな一団がやってくる。
それはジェノスの領主たるマルスタインと、オディフィアの父たるメルフリード、王都の外交官フェルメス――そして、東の王都の一団であった。
「これはこれは、リクウェルド殿! さあさあ、トゥール=ディンの力作をご賞味ください!」
と、ティカトラスが派手派手しい装束の袖をなびかせながら、卓上の菓子を指し示す。やたらと背の高い東の民が、いっさい表情を動かさないまま「ええ」と応じた。
「こちらは外見からして、素晴らしい菓子であるようです。我々の持ち込んだノマが、またとなく美しく仕上げられておりますね」
「わたしもあちらの卓でいただきましたが、外見に相応しい味わいでありましたよ! このノマも、西の王都に持ち帰らせていただきたいところでありますね!」
ティカトラスがどれだけ騒いでも、リクウェルドと呼ばれた東の民は完璧なまでの無表情だ。そのなめらかな声音からも、折り目正しい挙動からも、感情を感じ取ることはできなかった。
だが――ジルベは嗅覚からも、人の感情をうかがうことができる。
このように楽しい祝宴の場にありながら、リクウェルドはまったく楽しげな香りを放っていなかった。その長身からこぼれおちるのは、不安、焦燥、寂寥感――いずれも、負の感情に他ならなかった。
東の王都の他なる面々は、べつだんそのような香りを発していない。この場においてただひとり、リクウェルドだけが負の感情を抱え込んでいるのだ。
(だけど……さっきも、これに似た香りを嗅いだ気がする)
そうしてジルベが思い悩んでいる間も、貴族たちは言葉を交わしながら菓子を食している。ヤミル=レイに襟首を引っ張られたラウ=レイは、貴族ではなくレム=ドムたちと語らっていた。
「わたしの目的は銀細工や織物などの装飾品でありましたが、やはり食材を二の次にすることはできません! もちろんジェノスや近隣の領地を優先していただき、ゆとりが生じたのちに食材の交易もお願いいたします!」
「承知いたしました。品によっては、遠からずお届けできるかと思われます。とはいえ、我々がお届けできるのはこのジェノスまでですが」
「ジェノスからアルグラッドまでの手配はこちらで進めておりますので、問題ありません! まずは次なる荷物の到着が楽しみな限りでありますよ!」
「はい。西の王都との交易も実現すれば、王陛下もいっそうご満足でありましょう」
そのように答えたとき、リクウェルドの目が鋭く閃いた。
ジルベはすぐさま、その視線を追いかける。その先にたたずんでいたのは、宴衣装を纏ったプラティカであった。
「……失礼。プラティカでありましたか」
「はい。セルフォマ、見間違えましたか?」
「ええ。こちらに参席している東の民は、ごく限られておりますので」
リクウェルドのそんな言葉が、ジルベにひとつの解答をもたらした。
リクウェルドと同じ負の感情の香りをこぼしていたのは、セルフォマとともにいたカーツァであったのだ。彼女たちとは、貴婦人の群れに取り囲まれるまで同行していたのだった。
(……そうか。カーツァとリクウェルドは、家族なんだっけ)
そして彼らは明日の朝、別れを果たすことになる。最低でもひと月以上は、別々の場所で暮らすことになるのだ。不安や焦燥に、寂寥感――それらのすべてに、説明がつくようだった。
(ふたりに血の繋がりはないって話だったけど……ぼくだって、ファの家のみんなとは血の繋がりなんてないもんね)
しかしもしもファの家の家人たちとひと月以上も引き離されることになったならば、ジルベはどのような思いを抱え込むことになるだろう。
そのように考えたジルベは、断固たる意志でもってリクウェルドのもとに身を寄せることにした。
「……私に何かご用事でしょうか?」
リクウェルドは、感情の読めない目つきでジルベを見下ろしてくる。
彼はこのように内心を包み隠すことが巧みであるため、余計に感情が体内にわだかまってしまうのではないだろうか。カーツァも同じ香りを纏っていたが、より濃密な香りを放っているのはリクウェルドのほうであった。
「ふむ? 何やら、リクウェルド殿の身を案じているような様子でありますな」
目ざといティカトラスがそのように取りなしてくれたが、リクウェルドの挙動に変わりはない。
よくよく考えれば、さして親しくもないジルベが身を寄せたところで、リクウェルドの心が和むわけもないのだ。それを察したジルベは早急に身をひるがえして、リミ=ルウの宴衣装の裾を引っ張ることにした。
「どーしたの、ジルベ? ……もしかして、おしっこ?」
そのように囁きかけてくるリミ=ルウに、ジルベは「ばうっ」と答えてみせる。
リミ=ルウはジルベの瞳を覗き込んでから、にこりと笑った。
「誰かに会いたいの? うん、わかったよ! ルドー、ジルベが誰かを探したいって!」
「あん? しかたねーなー。おい、レム=ドム。わりーけど、レイナ姉がひとりでひょこひょこ動かねーように見張っておいてもらえるかー?」
そうして親切な兄妹に付き添われながら、ジルベは広間を突き進むことになった。
ジルベの背中では、サチが「くわあ……」とあくびをもらしている。そして、ちょこちょこと小走りでついてくるリミ=ルウがジルベに笑いかけてきた。
「ジルベは、人探しが得意だもんねー! お目当ての人は、どこにいるのかなー!」
この場には200名以上の人間が集っているため、特定の相手の香りを辿ることも簡単ではない。それでもジルベが嗅覚を研ぎ澄まして、人混みの間をすりぬけていくと――遠く離れた卓のそばに、目的の人物がいた。
「ああ、リミ=ルウにルド=ルウ。またお会いしましたね」
まずはユン=スドラが、朗らかな笑顔を向けてくる。
しかしジルベの目的は、その正面にたたずんでいるセルフォマ――の、隣にひっそりと控えているカーツァであった。
ジルベがのしのしと近づいていくと、気弱なカーツァは不安げに身を引いてしまう。
ただその前から、彼女は不安と焦燥と寂寥感の香りを漂わせている。それはやっぱり、リクウェルドと同一のものであった。
「ジルベが探してたのは、カーツァなんだね! それで、カーツァとどうしたいの?」
人の言葉を話せぬジルベは、ただリクウェルドがいる方向に視線を巡らせた。
明敏なるリミ=ルウは、「そっか」と微笑む。
「カーツァをあっちに連れていきたいんだね? ねえねえ、カーツァ、一緒に向こうに来てもらえない?」
「え? え? で、でも私は、セルフォマ様のおそばに控えていないといけませんし……それに、案内もなく貴き方々の集う卓に身を寄せることはかないません」
「あ、そっか! リミたちも、あっちに戻っちゃいけいないのかなー?」
「考えなしに動くから、そーなるんだよ。ったく、しかたねーなー」
ぐるりと視線を巡らせたルド=ルウが、人垣の向こうに手を振った。
「おーい! わりーけど、こっちに来てもらえるかー?」
やがてやってきたのは、ジルベにとって馴染みのない男性であった。まだそれほどの年は食っておらず、秀でた額に赤黒い古傷が残されている。そのがっしりとした身に纏っているのは、ルド=ルウと同じような白装束であった。
「ルウ本家の末弟、ルド=ルウ殿ですね。小官に何か御用でしょうか?」
「あー、あんたもいちおー貴族なんだろ? 世話をかけるけど、俺たちをあっちの卓に案内してくれねーかなー? 貴族に招かれねーと、俺たちはあっちに近づけねーんだよ」
「それは承知していますが、何を目的として貴賓の席に向かうおつもりなのでしょうか?」
「俺たちもさっきまであっちにいたんだけど、こいつらを迎えに来るために離れちまったんだよ」
その男性は、表情を動かさないままカーツァたちのほうを振り返る。
「そちらは東の王都の方々ですね。迎えとは、どなたの申し出で?」
「あえて言うなら、このジルベだなー」
ジルベのほうを向いたその人物は、わずかに目を細める。あまり表情は動かないが、ずいぶん驚いているようだ。
「小官には、いまひとつ理解が及ばないのですが……まあ、森辺の方々の実直さを疑うことは許されないのでしょうね」
「あー、わりーけど頼まれてくれよ。あっちにはレム=ドムもいるから、あんただって悪い気はしねーだろ?」
「迂闊にレム=ドム殿に近づくと、わたしは礼を失してしまう恐れがあるのですが……しかし本日はレム=ドム殿も、武官の礼服であられましたね。承知いたしました。みなさんを、あちらにご案内いたしましょう」
ということで、いまだ名も知れぬその人物がジルベたちをもとの卓まで案内してくれた。
東の言葉で事情を伝えられたセルフォマは完全なる無表情であるが、カーツァはしきりに目を泳がせている。そうして目的の場所が近づくと、カーツァはいっそう慌てふためいた。
「あ、あちらには、使節団の方々がいらっしゃいます。確たる用事もなしに近づくことは、避けたく思うのですが……」
「わりーけど、文句だったらジルベに頼むわ。俺たちは、ジルベに従ってるだけだからなー」
そうしてそちらの卓に到着すると、鋭い眼差しで歓談の場を見守っていたメルフリードが灰色の目をこちらに向けてきた。
「ロギン、いったい何事であろうか?」
「はい。ジルベ殿の要請に従って、こちらの方々をご案内いたしました」
「ジルベ殿の……要請?」
メルフリードもまた、うろんげに目を細める。その間に、他なる面々もこちらに向きなおってきた。
「おや、セルフォマにカーツァか。いま、ジルベの要請と聞こえたような気がするのだが……」
マルスタインの問いかけに、ルド=ルウは「あー」と気安く応じる。
「よくわかんねーけど、こいつらをこっちに連れてきたかったみてーだなー。で、俺たちだけじゃ戻れねーから、ロギンに案内をお願いしたんだよ」
「それは律儀なことだね。奔放さで知られるルド=ルウも、やはり実直な森辺の民ということか」
「そーゆー取り決めなんだから、破ることはできねーだろ? ジザ兄だって、うるせーしよー」
ルド=ルウたちがそのように語らっている間に、ジルベはリクウェルドのもとに身を寄せた。
ジルベの意図を察したリミ=ルウが、カーツァとセルフォマを引き連れて後を追ってくる。カーツァはせわしなく目を泳がせて、リクウェルドは完璧な無表情であったが――ただ、寂寥感の香りはどちらもはっきりと薄らいでいた。
「セルフォマにカーツァ、どうしました? 私に何か、ご用事でも?」
「あ、いえ、その……わ、私にも、さっぱり事情がわからなくて……」
すると、リミ=ルウが「ごめんなさーい!」と頭を下げた。
「リミにもよくわかんないけど、ジルベはみんなと一緒にいたいみたいなの! ……です! ちょっとでいいから、一緒にいてくれない? ……ですか?」
すると、まだこの場に居座っていたティカトラスがからからと高笑いをあげた。
「森辺の民は獣の心情をも察するそうですが、さすがに細かな内容までは読み取れないようですな! まあ、犬たるジルベもまぎれもなく森辺の家人であるのですから、悪心を抱いていることはありますまい!」
「そうですね。きっと何か、彼なりの事情があってのことなのでしょう」
フェルメスもゆったりと微笑みながら言葉を添えると、リクウェルドは迷うように視線を巡らせて――その末に、小さく息をついた。彼には珍しい感情表現である。
「承知いたしました。そちらのジルベは黒鷹章を授かった功労者であられますので、私もその勲功に敬意を表しましょう」
「さすがリクウェルド殿は、寛大であられますな。では、ひさかたぶりにセルフォマたちの働きぶりを拝見させていただきましょうか。きっとセルフォマも、トゥール=ディンに菓子の感想を伝えたかったところでありましょうしね」
そうしてその場の面々は大きな輪を作り、それぞれ菓子に手をのばすことになった。
ジルベが一歩さがった場所に控えていると、リミ=ルウが隣にしゃがみこんでくる。そしてその小さな口が、ジルベの耳に囁きかけてきた。
「カーツァとリクウェルドも、きっと喜んでるよ。祝宴の後は一緒に過ごすって言ってたけど、今だって一緒にいたかったんだろうしね」
家族であれば、それが当然の話である。
なおかつジルベは、ことさら親切を働いたつもりもない。ジルベの喜びというのは周囲の空気に呼応するものであるので、それを乱す負の感情を取り除きたいと願ったのみであった。
菓子を食べたセルフォマは東の言葉で何かを語り、カーツァがそれを通訳している。
それを見守るリクウェルドは、やっぱり完全なる無表情であったが――しかし、その長身から発せられる不安や焦燥や寂寥感の香りは、時間を追うごとに薄らいでいった。カーツァのほうも、もちろん同様である。
「ジルベはえらいねー。きっとアイ=ファたちも、ほめてくれるよー」
リミ=ルウの小さな手が、ジルベの頭を撫でてくる。
そんな行く末を想像したジルベは、喜びの思いをこらえかねて「わふっ」と声をあげることになった。
その間も、リクウェルドとカーツァが発していた負の感情の香りは、風にさらわれるように溶けていき――祝宴の場は、再び喜びの思いで満たされたのだった。




