黒き太陽の子(中)
2024.10/22 更新分 1/1
浴堂で身を清めた森辺の一行は、厨に移動することになった。
浴堂を出た後にも全身をくしけずられたジルベは、身体が軽くなったような心地である。しかし、人間の手の平に余るほどの毛を除去されながら、ジルベの身を覆う黒い毛はむしろふわふわの質感でいっそう膨らんだように感じられた。
いっぽうジルベほど毛が長くないサチのほうは、つやつやと照り輝いている。そうして全身をくしけずられた心地好さの余韻にひたりながら、サチはジルベの背中でさっさと居眠りを始めたのだった。
ジルベはアイ=ファのかたわらに控えつつ、アスタたちの働きっぷりを見守っている。
今もいちおう、警護の仕事のさなかであるのだ。アイ=ファからは身を休めてよいという言葉をもらっていたが、眠くなるまではともに見守る所存であった。
厨には、さまざまな香りがあふれかえっている。
香草の強い香りは苦手であったが、肉や穀物の香りは芳しい。猫や猟犬は肉しか口にしないが、獅子犬は野菜や穀物も口にするのだ。中天には食事を出されるはずであるので、その時間が待ち遠しくてならなかった。
厨で働くのは森辺のかまど番のみであったが、見物人には異国の民も入り混じっている。南の王族デルシェアや、東の料理人セルフォマといった者たちである。しかし彼女たちはアスタの仕事に夢中であり、ジルベやサチに関心を払おうとはしなかった。最初に顔をあわせたとき、カーツァという娘が驚きの悲鳴をあげたぐらいのものだ。
なおかつ、デルシェアとセルフォマは同じ時間に留まることはなかった。南の民と東の民は、敵対の関係にあるという話であったのだ。
その理由はわからないし、ジルベにとっては無関係の話となる。ジルベにとっての敵は、家族に害をなす存在のみであるのだ。ただ、南の獣であるジルベと東の獣であるサチが同じ家族になれたことを、喜ばしく思うのみであった。
「さて、そろそろ中天かな」
そんな言葉をこぼしつつ、アスタがジルベに笑いかけてきた。
ジルベは期待をこらえかねて、「わふっ」と声をもらしてしまう。アスタはいっそう優しく笑いながら、いくつかの野菜を切り分け始めた。
「こちらの準備は終わりましたので、アスタのほうを手伝いましょうか?」
ユン=スドラの言葉に、アスタは「大丈夫だよ」と気さくに答える。
「こっちはすぐに完成するからさ。そっちの準備ができたら、運んじゃっていいよ」
「はい。それでは、あちらでお待ちしています」
半数ていどの女衆が、鉄鍋や食器を抱えて別室に移動していった。
アスタは手早く切り分けた野菜とギバ肉を鉄鍋に投じて、白い豆乳を注いだのちに、かまどの火にかける。それでいっそう、ジルベの胃袋を刺激する香りがたちのぼることになった。
「……このような場でもアスタひとりが手掛けた料理を口にできるジルベは、果報者だな」
と、アイ=ファがわざわざ身を屈めて、そんな言葉をジルベに囁きかけてくる。
九割がたは優しげな声音であったが、一割ぐらいは羨望の思いが入り混じっているように感じられる。それでジルベがアイ=ファの頬をなめると、アイ=ファは薄く微笑みながら頭を撫でてくれた。
「よし、完成だ。それじゃあ俺たちも、移動しようか」
2枚の深皿を掲げたアスタを先頭に、残りの半数も厨を出る。食事をとる場所はすぐ隣の部屋であり、その扉の前ではライエルファム=スドラが待ちかまえていた。
「セルフォマとカーツァは料理を受け取ったが、別室に移ったぞ。やはり、デルシェアと同じ部屋で休むことは避けたいようだ」
「そうですか。こればかりは、しかたありませんね」
そうして別室に踏み入ると、数刻前に別れたレイナ=ルウやトゥール=ディンたちも居揃っていた。
それらの面々は卓につき、何名かの人間が鉄鍋から取り分けた食事を配っている。はしゃいだ声をあげているのは、デルシェアだ。
「あ、アスタ様にアイ=ファ様も、おつかれさまー! こっちの席が空いてるよー!」
デルシェアの声に導かれて、アスタたちもそちらに向かっていく。そうして腰をおろす前に、アスタはふた組の深皿を床に置いた。
「ジルベとサチも、お疲れ様。また祝宴の前に食事を準備するから、それまではこれでしのいでおくれよ」
サチの深皿には小さく切り分けて茹であげられたギバ肉が、ジルベの深皿にはさまざまな食材を煮込んだ料理が盛られている。それを見下ろしたデルシェアが、「おいしそー!」と声を張り上げた。
「ジルベの食事も美味しそうだね! わたしまで食べたくなっちゃうなー!」
「あはは。でも、調味料を使ってないから、人間には味気なく感じられると思いますよ」
「うーん! そうとは思えないほど、美味しそうな見た目だね! これって、どういう内容なの?」
「そんな手が込んでいるわけじゃありませんよ。細かく刻んだチャッチやトライプやネルッサなんかをギバ肉と一緒に豆乳で煮込んで、焼きポイタンを添えただけのことです」
「でも、3種も野菜を使ってるんだ? なかなか豪勢だねー!」
「獅子犬はアリアを食べても大丈夫だって話でしたけど、やっぱり香味野菜は香りが強くて好ましくないようでしたから、他の野菜で滋養をとってもらうことにしたんです」
そんな風に答えてから、アスタはジルベを振り返ってきた。
「ジルベはトライプも好物みたいだけど、それを扱えるのはあと半月ぐらいだからね。心残りのないように味わっておくれよ」
ジルベは「わふっ」と答えてから、待望の食事に口をつけた。
トライプというのは雨季にしか育たないという、朱色の野菜である。甘みが豊かで、とても美味であるのだ。
人間は、こういった食事に調味料や香草といったものでさらに強い味をつけているらしい。しかし、犬は味覚が鈍いために調味料などは無用の長物であるし、汗をかかないために人間ほど塩気は必要ないとのことである。そして香りの強い香草などは、まったく口にする気にもなれなかった。
いっぽうサチは、ただ茹であげただけのギバ肉をかつかつと食している。
犬には犬の、猫には猫の、人間には人間の、それぞれ相応しい食事があるのだ。たとえ同じものを食せなくとも、同じ場で喜びを分かち合えればジルベは満足であった。
「ジルベもサチも、美味しそうに食べてるねー! 犬や猫にも高い評価をもらえるなんて、アスタ様はさすがだなー!」
デルシェアが、そのように言葉を重ねてくる。厨でジルベたちにかまうことができなかった分を、取り返そうとしているかのようだ。
ジルベはこのデルシェアやディアルといったジャガルの少女たちを、好ましく思っている。だいぶん記憶は霞みがかっているが、ジルベが生まれた牧場にもこういう元気な娘がいて、世話を焼いてくれていたのだ。それにやっぱりジャガルで生まれたジルベにとっては、南の民のことが親しみやすく感じられるようであった。
(まあ、東の民が嫌いなわけじゃないけどね)
ドレッグの護衛犬であった時代、東の民は毒を扱うので要注意と言い聞かされていた。しかしジェノスに移り住んで以降、アスタのそばに寄ってくる東の民は、いずれも好ましい人間であるように感じられた。
(もちろん、悪人たちは例外だけどさ)
かつてジルベを毒の吹き矢で眠らせたのは、ゲルドの山賊という東の民であったのだ。
また、2ヶ月ほど前にジルベが捕らえた賊も東の民で、やはり毒の吹き矢を使っていた。革の甲冑がなければ、ジルベはまたひどい目にあっていたはずであった。
「それにしても、犬や猫まで祝宴にお招きされるなんて、楽しい話だよねー! わたしも故郷に戻ったら、真似しちゃおっかなー!」
「あはは。毛が落ちないように処置するのが、なかなかの手間みたいですけどね。でも、ジルベも喜んでくれているみたいなんで、俺も嬉しいです」
アスタがそのように答えると、食事を終えたサチが「なうう」と鳴いて不満の意を表明した。
アスタは「ごめんごめん」と笑いながら、腕をのばしてサチの咽喉もとを撫でる。
「付添のサチも、大変だよね。でも、城下町ではサチも大人気だから、俺は誇らしく思ってるよ」
サチは知ったことばかりに、「なうう」と鳴き続ける。ただし、咽喉を撫でられる心地好さに目を細めていた。
そうしてアスタたちも食事を終えたならば、厨に戻って仕事の再開である。
ファの家でも宿場町の屋台でも城下町の厨でも、アスタはずっとこうして働き続けているのだ。そうしてアスタが作りあげた料理が大勢の人間を喜ばせているというのだから、ジルベは誇らしい限りであった。
実のところ、食事にそこまでの手間をかけるというのは、ジルベにとって理解の及ばない話である。食事など、生きていくのに必要な滋養を摂取できればいいのだから、そうまで手間をかける意義を見いだせなかったのだ。
ただしジルベは、アスタが作る食事が美味であると認識している。
牧場やドレッグの屋敷で出されていた食事よりも、明らかに好ましい味わいであるのだ。獅子犬の食事などは食材を切って煮込むだけのものであるのだから、それで違いが生じることが不思議なほどであった。
しかし、アスタの作る食事は美味しい。それは、厳然たる事実である。
たとえばドレッグの屋敷で出されていた食事は、おおよそフワノの粉を溶かし込んだ煮汁であった。いちいちフワノを水で練って焼きあげたりはせず、そのまま煮汁に溶かしていたのだ。
それを不味いと思ったことは、一度としてない。穀物というのは獅子犬に必要な滋養であるのだから、ジルベの身が欲しているのだ。ドレッグの屋敷の厨番も、牧場の人間からそういう話を聴取した上で、ジルベの食事を準備していたのだった。
然して、アスタはどんなに忙しい際でも、ジルベの食事にフワノやポイタンの粉を使ったりはしない。焼きポイタンの余りがないときはわざわざ水に溶いて焼きあげてから、煮汁に加えてくれたのだ。
「どうせ煮汁に入れたらふやけちゃうけど、人間だったら絶対こっちのほうが美味しいって思うはずだからね。ジルベもそう思ってくれることを願うばかりだよ」
いつだったか、戸板の外で警護の役目を果たしていたジルベが聞いているとも知らず、アスタはそのように語っていた。
きっとそういう心づかいが、ジルベの食事を美味しく仕上げているのだ。ジルベには理解できないが、きっと肉や野菜の切り方や熱の入れ方などにも、アスタなりの工夫が凝らされているのではないかと思われた。
それぐらい、アスタは優しい人間なのである。
だからジルベは、アスタに絶対の信頼を寄せているのだった。
(だから他の人間たちも、アスタの料理を食べたがるんだ。アスタは本当に、立派だな)
そんな想念を思い浮かべながら、ジルベは午後の時間を過ごすことになった。
途中で居眠りもしてしまったが、目を覚ましたのちもアスタたちは懸命に働いている。アイ=ファは身じろぎもしないまま、アスタの姿をじっと見守っていた。
そうして数刻ばかりの時間が過ぎて、ジルベとサチに2度目の食事が与えられたのち――ようやく料理の完成である。
汗だくの顔で笑うアスタたちの姿を見やりながら、ジルベも誇らしさでいっぱいであった。
「では、浴堂にご案内いたします」
侍女の案内で、森辺の一行は再び浴堂に連れていかれる。
人間は汗をかくので、仕事の後にも身を清めなければならないのだ。ジルベとサチはもののついでで、さらに入念に全身の毛をくしけずられるばかりであった。
大きな仕事をやりとげたかまど番たちは、誰もが満ち足りた面持ちをしている。
また、祝宴に対する期待というものも存在するのだろうか。朝方よりも、さらに浮き立った雰囲気である。そして、そういう空気はジルベにも小さからぬ影響をもたらすのが常であった。
「きっと今日の祝宴でも、数多くの貴族が挨拶を求めてくることであろう。ジルベたちがともにいてくれることを、心強く思っているぞ」
ジルベの背中をくしけずりながら、アイ=ファはそのように語っていた。どうもアイ=ファは、縁の薄い人間と語らうのが苦手なようであるのだ。
しかしジルベは、大勢の人間に囲まれることを苦にしていない。祝宴で出会う人々はみんな浮き立った雰囲気であるので、ジルベの心も弾むいっぽうであるのだ。さらにアイ=ファのお役にも立てるのであれば、なおさら喜ばしい話であった。
「ジルベとサチも、貴族のみんなに大人気だもんねー! オディフィアとか、きっと大喜びだよー!」
そんな風に語りながら、リミ=ルウは鼻歌まじりにアイ=ファの髪をくしけずっている。朝方に話していた機会が、さっそく巡ってきたのだ。いち早く処置を終えたサチは、さっさと出ようとばかりにクルクルと咽喉を鳴らしていた。
「よし、これで十分であろう。早急に支度を済ませて、男衆と合流しなければな」
ぽんと背中を叩かれたジルベは、アイ=ファとともに浴堂を出た。
すると今度は、大きな織布で全身をぬぐわれる。こういう際にも、アイ=ファは家人の世話を優先するのだ。アイ=ファの裸身は蒸気で湿って、きらきらと美しく輝いていた。
「本当に情が深いことね。あなたこそ、さっさと身体をぬぐいなさいな。立派な衣装が手ぐすねを引いて待っているわよ」
と、レム=ドムが笑いを含んだ声を投げかけてくる。彼女は先に身を清めていたが、護衛の役を手伝うために居残っていたのだ。
レム=ドムは男衆と同じ白い装束を纏い、その胸もとに小さめの勲章を光らせている。彼女もアイ=ファと同じように、何らかの功績をあげることになったのだという話であった。
「そちらの武官のお仕着せというものは着るのに手間がかからないため、急ぐ必要はあるまい。どうせ他の女衆は、さらに時間がかかるのであろうからな」
「それじゃあ、今ここで賊に襲われたらどうするのよ? その色香あふるる裸身で立ち向かうつもりかしら?」
「その際は、この織布を身に巻きつけるだけで事足りよう」
やはりアイ=ファは、そんな話を念頭に置きながら行動しているのだ。裸身を隠す理由はよくわからなかったが、アイ=ファが立派であることは理解できた。
「まったくアイ=ファは、抜け目がないわね。でも一点だけ、見込みが甘かったようよ」
「うむ? なんの話であろうか?」
「それを知りたいなら、さっさと身支度を済ませることね」
レム=ドムは、にやにやと笑っている。そちらを横目でねめつけてから、アイ=ファは手早く自らの身を織布でぬぐった。
そうしてアイ=ファが新しい下帯をしめて白いふわふわとした装束を羽織ったのちに隣室へと移動すると、そちらではすでに大勢の女衆が着替えを始めている。城下町の祝宴に参ずるには、城下町の宴衣装というものを身につけなければならないのだ。女衆だけで20名以上の人数であるため、なかなかの賑わいであった。
「お待ちしておりました、アイ=ファ様。さあ、こちらにどうぞ」
その部屋の奥のほうで、見覚えのある娘が待ちかまえていた。ジルベが宿場町に下りていた時代にもしょっちゅう見かけた顔で、城下町の祝宴ではいつも貴族のそばに控えている。ダレイム伯爵家の侍女、シェイラなる娘であった。
「またシェイラが参じていたのか。そちらも、主人たちの世話があろう?」
「ええ。ですが、ポルアース様のおはからいでアイ=ファ様のお手伝いをするように申しつけられております」
白い薄物ひとつを纏ったアイ=ファの姿を、シェイラはうっとりと見つめ返す。人間の世界において、アイ=ファはきわめて美しい容姿であるとされているのだ。ジルベに理解できるのはアイ=ファの心の美しさのみであるが、それが外見にも反映されているのならば何よりの話であった。
「さあ、どうぞ。こちらが、本日の御召し物です」
と、シェイラが竿に掛けられていた赤黒い織物を手に取る。
その姿に、アイ=ファが「待て」と鋭い声をあげた。
「今日は、持参した勲章を預けている。であれば、私もレム=ドムと同様に武官の礼服というものであるはずであろう?」
「いえ。こちらは勲章にあわせて仕立てられた、新たな宴衣装であるそうです。東と西の様式が混在する、とても素敵な御召し物であるようですよ」
アイ=ファが言葉を失うと、レム=ドムがくすくすと忍び笑いをもらす。たちまちアイ=ファは、そちらを鋭くねめつけた。
「レム=ドムよ、お前はこの話を知った上で、私をからかっていたのだな」
「そんな怖い目でにらまないでよ。わたしがそれを知ったのは、アイ=ファたちが身を清めている間のことよ。そちらの娘がずいぶん浮かれた様子で浴堂にやってきたから、ひまつぶしに話をうかがったというわけね」
レム=ドムは不敵に笑いながら、肩をすくめた。
「それに、武官のお仕着せが準備されているというのは、アイ=ファの勝手な思い込みでしょう? ティカトラスが、あなたの想定を上回ったというだけの話だわ」
「……やはりこれは、ティカトラスが準備した品であるのだな」
「それ以外に、こんな真似をする人間はいないでしょうよ。まあ、ポルアースの母親も森辺の女衆を美しく着飾らせたくてたまらないようだけれど、ティカトラスがいる間は世話を焼く隙もないのでしょうね」
アイ=ファは溜息をつきながら、湿り気をおびている頭をひっかき回した。
何にせよ、準備された宴衣装は身に纏わなければならないのだろう。ジルベは精一杯の思いを込めて、アイ=ファの足に身をすりつけておくことにした。
その後はシェイラの手によって、アイ=ファの姿が美しく飾られていく。
まあその美しさというものも、ジルベには理解の外であるのだが――こちらの宴衣装は生地そのものがうっすらと照り輝いているし、飾り物の輝きは目に眩しいほどである。こういう姿が美しいとされていることは、ジルベもこれまでの祝宴でわきまえていた。
そして祝宴の場においては、ジルベとサチにも身を飾る義務が発生する。
ジルベは赤い織物を背中に掛けられて、さらにきらきらと輝く半透明の織物を重ねられる。どちらも勲章とともに授けられた品で、普段はファの家の棚に飾られているのだ。その織物の端を首の下で合わせて勲章で留めるというのが、ジルベの正装であった。
いっぽうサチは細長い真紅の織物を首に巻かれて、咽喉もとで結い合わせるのみである。たったそれだけの処置でも、サチはずいぶん不本意そうな目つきをしていた。
「わあ、アイ=ファはまた新しい宴衣装なんだねー! すっごく綺麗だし、すっごく似合ってると思うよー!」
宴衣装を纏ったリミ=ルウが元気に言いたてると、アイ=ファはサチと同じような目つきで「そうか」と嘆息をこぼした。どれだけ不本意でも、罪もない友に八つ当たりをするようなアイ=ファではないのだ。
アイ=ファは左半分だけ金褐色の長い髪を垂らしているので、そちらも飾り物のようにきらめいている。全身に巻きつけられた織物は黒に近い深紅で、その上から七色にきらめく肩掛けを羽織った格好だ。そして、その織物の上から、左肩にふたつの勲章が留められていた。
ジルベと同じ、赤い勲章と黒い勲章である。
ひさかたぶりにアイ=ファと同じ勲章を身につけることができて、ジルベは感無量であった。
「本当に、目の覚めるようなお美しさですわ……それではわたくしは、主人のもとに戻らせていただきます」
アイ=ファの姿を目に焼きつけてから、シェイラは早々に立ち去っていった。
すべての女衆の身支度が終わるのを待って、こちらも回廊に足を踏み出す。そちらですれ違う侍女や小姓たちは、森辺の女衆の美しさに驚嘆している様子であった。
そうして控えの間という場所に到着したならば、今度はアスタが驚嘆の思いをあらわにする。
アスタもアイ=ファと同じような格好であるのだが、心から感服している様子だ。それぐらい、アイ=ファの姿は見事なのだろうと思われた。
そんなアスタと語らっている内に、アイ=ファの不満そうな気配は見る見る解きほぐされていく。ふたりは誰よりも確かな絆で結ばれている上に、このたびはアスタが適切な言葉でアイ=ファの心情をなだめたようだ。ふたりが幸せそうに見つめ合う姿を見上げながら、ジルベも幸せな心地であった。
「それでは、会場にご案内いたします」
女衆が腰を落ち着けるいとまも与えず、今度は祝宴の場に案内される。
いよいよ祝宴が開始されるのだ。つんと取りすましたサチを背中に乗せながら、ジルベはいっそう胸を高鳴らせることになった。
扉の前で長い列を作らされて、ふたりずつ入場していく。ファの家人は、おおよそ真ん中の辺りだ。ジルベがそわそわ身を揺すっていると、背中のサチが迷惑そうに「なう」と鳴いた。
ドレッグの屋敷に住まっていた頃も、晩餐会などにはしょっちゅう引っ張り出されていた。そうして晩餐会の参席者を驚かせることが、ドレッグの楽しみであったのだ。
しかし、100人や200人も人間が集まる祝宴の場に招かれるのは、このジェノスに来てからが初めてとなる。叙勲の式典に始まり、ダレイム伯爵邸における慰労の晩餐会、甘い香りであふれかえっていた『麗風の会』、アルヴァッハやダカルマスといった面々を見送る送別の祝宴――それらはいずれも楽しい思い出として、ジルベの心に刻みつけられていた。
「ファの家長アイ=ファ様。ファの家人アスタ様。同じく、ジルベ様、サチ様。ご入場です」
そんな声に導かれて、ジルベたちもついに祝宴の場に足を踏み入れた。
とたんに、熱いざわめきがわきおこる。その場にはすでに200名からの人間が詰めかけており、ファの家人の入場を見守っていたのだった。
おおよその人間は、アイ=ファの美しさに感服しているのだろう。
ただ、ジルベも数多くの視線を感じている。獅子犬はジャガルや西の王都ぐらいにしかいないようなので、ジェノスにおいては物珍しい存在であるのだ。
そして、ジルベに送られる眼差しにも、感服の思いが込められているように感じられる。
ジルベはただ物珍しいというだけではなく、勲章を授かった功労者であるのだ。そうだからこそ、獣の身でありながら祝宴に招かれているわけであった。
ジルベは、幸福な心地である。
ジルベはようやくファの家の役に立てたことを誇らしく思っていたし、その行いが他なる人々の安息にも繋がっていたというのなら、喜びの思いもひとしおであった。
そしてジルベのかたわらには、アスタとアイ=ファの姿がある。
アイ=ファはジルベと同じ勲章を授かった功労者であるし、アスタはこの祝宴で大きな仕事を果たした立場となる。その3名が居揃っているからこそ、会場にはこれほどの熱気がわきたっているのではないかと思われた。
ファの家人であることが、誇らしい。
ジルベはそんな思いを胸に秘めながら、熱いざわめきに包まれた祝宴の場を闊歩することに相成ったのだった。




