⑥玄翁亭(上)
2015.1/4 更新分 1/1
2015.1/5 誤字修正
話は、少しさかのぼる。
俺たちが《玄翁亭》を初めて訪れたのは、青の月の18日のことだった。
スン家の騒ぎが終焉を迎えた日の、翌々日である。
まだまだ世情は不安定であり、商売の手を広げるには時期尚早かとも思えたが。宿屋に料理を卸す仕事ならばあまり西の民を刺激する心配もないし、シュミラルたちのジェノス滞在も残り半月を切ってしまっていたので、敢行に踏み切ったのだ。
「ようこそ、森辺の民のアスタ。貴方をこの店に招くことがかなって、私は光栄に思っています」
わざわざ店の外に出て俺たちを出迎えてくれたのは、主人のネイルという人物だった。
店の名前からして黒ひげの老人などをイメージしていたのだが。まだ30になるならずの若いご主人だ。髪は褐色、瞳は鳶色、肌は象牙色。顔立ちはのっぺりとしており、背格好は中肉中背で、典型的な西の民といった風情である。
唯一、特徴的であると思えたのは、東の民ばりに無表情で無口そうだな、と思えたことぐらいであろうか。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。……すみません、こんな慌ただしい時間に押しかけてしまって」
現在は、中天きっかりであった。
1時間後には《南の大樹亭》に向かわなくてはならないので、リィ=スドラが到着すると同時に、俺たちはこの《玄翁亭》にやってきたのだった。
しかし、寡黙な主人はゆるゆると首を振り、「べつだん、慌ただしくはありません」と述べてきた。
「では、こちらにどうぞ。厨房までご案内いたします」
《玄翁亭》は、少し特殊な場所にあった。
石の街道ぞいではなく、そこから脇道に入った民家の立ち並ぶ一画に、実にひっそりと店をかまえていたのだ。
建物も、2階建てだが規模は小さく、看板がなければ宿屋にすら見えなかったかもしれない。
「それじゃあ、行ってきます。どうもありがとうございました、シュミラル」
ここまで案内してくれたシュミラルに、俺は頭を下げてみせた。
が、白銀の髪を有する東の王国の若者は、少しばかり悲しげに目を細めてしまう。
「アスタ。私、邪魔ですか?」
「え? いえ、そんなことはありませんが、シュミラルもお忙しい身でしょう?」
「……私、見届けたいです」
身長なんかは俺よりも頭半分ぐらいは高いし、この若さで商団の団長をつとめるようなシュミラルなのであるが。時として、妙に幼く見えるときがある。それがまさに、今だった。
「いや、シュミラルが同伴してくれたら、俺も心強いですけども……」
そう応じると、シュミラルは少し違う感じで目を細めて、こくりとうなずいた。
「見届けます」
この目の細め方は嬉しいときの細め方だ、と俺は勝手に脳内変換してしまっているが、本当のところはどうなのだろう。
何はともあれ、俺たちはぞろぞろと連れ立って《玄翁亭》に足を踏み入れることになった。
メンバーは、4名。
俺とシュミラルとヴィナ=ルウと、それに護衛役のシン=ルウという顔ぶれである。
スン家の騒ぎは一段落したが、城の人間に対してはいっそう複雑な心情を抱くことになってしまったし、2日前には暴動のような騒ぎにもなりかけたので、シン=ルウとルド=ルウだけは引き続き護衛の任務を継続する段となったのだ。
狩人の仕事は大丈夫なのか、と問うてみたところ、今はちょうどルウやルティムの集落の近辺がギバの閑散期に突入したところであるらしい。
そうして店に足を踏み込むなり、俺は「うわ」と軽く驚きの声をあげることになった。
右手側の壁、受付台のすぐ後ろ側にある扉の上のところに、巨大な動物の頭が飾られていたのである。
剥製――なのだろう。
シカのようなヤギのような、そういった動物の首から上だけが、壁からにゅっと生えのびていたのだ。
「すごいですね。これは何ていう動物なんですか?」
「これは、東の王国の領土に生息する、ギャマという獣です」
主人ネイルが、静かに答える。
長く突き出た鼻面に、頭の左右から生えたバッファローのような角。頭の大きさは人間ぐらい、湾曲した角の長さはそれぞれ40センチばかりもあっただろう。毛並みは見事な漆黒で、首の脇から下側にまで立派な髭が長々と伸びている。
「東の民は、ギャマを食べます。西の王国では、なかなか食べる機会はありませんね」
言いながら、ネイルは受付台の扉を開いた。
どの宿も、そこが厨房に直結しているらしい。料理の注文もこの受付台で受け付ける、ということなのだろう。
ちなみに、奥のほうを覗いてみた限りでは、1階の食堂にお客の影は見当たらなかった。他の宿と同様に、宿泊客も日中は露天区域で軽食を食べているのだろう。
「どうぞ」という声に導かれ、俺たち4名も扉をくぐる。
店の規模に相応な、こぢんまりとした厨房だった。
大きさは、6畳ほど。奥の壁にかまどが2つ、鉄鍋もその上に載ったのが2つきり、木の壁に調理器具が掛けられているのは、まあデフォルトだ。
室の中央には作業台が据えられて、左手側の壁ぎわには食器の詰まった戸のない棚。右手側には2つの水瓶。香草や肉の匂いがしみついた、実にシンプルな造りの厨房である。
だけど、何だか雰囲気が良かった。
厨房という空間には、それを使う人間の人柄が強く現れると思う。だから俺は、それだけでこの愛想も愛嬌もない若いご主人に少しばかりの親しみを感じることができた。
「最初に条件を提示いたします」と、主人ネイルが落ち着いた声で言う。
「量は、20食から30食分。内容は、ギバの肉を使用した料理。値段は、フワノを使わずに1食が赤銅貨2枚。期間は、明後日から――明後日から、何日までにいたしましょう?」
「はい。《南の大樹亭》とも一応は青の月の最終日までと定めていますので、それと合わせていただいてもいいですか? 来月からはまた新たに契約を交わす、という形で」
「了解いたしました。期間は、明後日の20日から31日までの12日間。その期間内に都合の悪い日が生じたときは、その日の中天までにその旨をお申し付けください。連絡が中天を過ぎてしまったときは、白銅貨1枚の違約金、ということでいかがでしょう?」
「はい。それでかまいません」
「では、問題の料理の内容ですが。屋台で売っているものとは別の内容にしたい、というお話でしたか?」
「はい。《南の大樹亭》でもジャガル産のタウ油という調味料を使ってそれなりの好評をいただけたようなので、できればこちらでもシム産の食材を使い、東のお客様に気に入っていただけるような料理を目指したい、と考えています」
「なるほど。確かに昼も夜も同じ内容では、お客様としても注文のし甲斐がないでしょう。そのご提案は、こちらとしてもありがたいです」
と、言いながら、ご主人は相変わらずの無表情である。
是非にと乞われてやってきた俺たちであるが、今のところシュミラルから聞いていたような熱意などはまったくもって感じられない。
「しかし、シム産の食材ですか……シムはジャガルより遠いためか、あまり数多くの食材は流通していないのです」
それでもネイルは室の奥に向かい、食糧庫から2種類の食材を持ってきてくれた。
ひとつは、小さな布の包み。
もうひとつは、ひとかかえもありそうな大きな布の袋である。
「こちらは、乾酪です」
「かんらく?」
「ギャマの乳を乾して作られた食材です。肉に劣らぬぐらい滋養にあふれています」
それが、ララ=ルウ13歳の祝いの宴で活躍することになったギャマ・チーズとの出会いだった。
「この匂い! これはチーズですね!」
「ちーず?」
「はい。俺の故郷ではそういう名前で呼ばれていました。へーえ、この世界にも……いえ、このジェノスにもチーズなんてものが存在したんですねえ」
「乾酪は、宿場町ではほとんど出回りません。ギャマの乾酪もカロンの乾酪も、たいていは城下町で買い占められてしまいます。私は個人的につきあいのあるシムの行商人から、特別に買い付けているのです」
「《銀の壺》、乾酪、売りました」
シュミラルの言葉に、ネイルはうっそりとうなずく。
誰も彼もが沈着で、無表情だ。
ちなみにこちらの側でもシン=ルウはけっこう寡黙で表情も動かさないタイプなので、出番のないヴィナ=ルウはさっきから退屈そうに栗色の髪先を弄っている。
「シム本国では一般的な食材であるギャマの乾酪ですが、西の王国では数が出回らないため、どうしても値段が張ってしまいます。そして、品数自体が少ないのですから、あまり商売用の料理には向きませんね。私も自分が食するために購入しているようなものなのです」
「高額なのですか? いかほどです?」
「この大きさで、赤銅貨20枚です」
なるほど。直径15センチ、厚さ5センチといったぐらいの大きさだから、これでその値段はなかなかの贅沢品である。下手に使うと、原価率がはねあがってしまうかもしれない。
「だけど、チーズは魅力的だなあ。俺が個人的に購入させていただくことはできませんか?」
「このひとかたまりでしたら、お譲りしましょう。お味見をしてみますか?」
「是非に!」
火を通さないギャマのチーズは、塩味の強いカマンベールチーズのような、まろやかでコクのある味わいだった。
「いやあこれは美味しいですね! 是非購入させていただきたいと思います! ……シン=ルウたちも味見してみるかい?」
ふたりは関心なさそうに首を横に振った。
贅沢品には興味をひかれない質実なる森辺の民なのである。
「それじゃあ、こちらは……?」
「こちらは、チットの実です」
袋の口をほどいてみると、中には真っ赤な大豆のようなシロモノがぎっしりと詰め込まれていた。
いかにも辛そうな色合いだし、刺激臭もなかなかのものだ。
これは、香辛料であるに違いない。この匂いから察するに、赤唐辛子のようなものなのだろう。
「辛そうですねえ。シム人は、辛い味がお好みなのですか?」
「はい。チットの実、大事です」と、今度はシュミラルが答えてくれる。
「ギャマの肉、臭み、強いです。ギバ肉より、強いです。だから、私たち、ギャマとチットの実、食べます。……あと、チット漬け、好物です」
「チット漬け? 肉をチットに漬けるのですか?」
「いえ。漬ける、野菜です」
シュミラルの言葉を、ネイルが引き継ぐ。
「チット漬けとは、ティノなどの野菜を塩やチットで漬けた料理です」
「へえ。美味しそうですね」
ネイルはひとつうなずいてから、また食糧庫へと消えていく。
そうして次に現れたとき、主人の手には小さな木皿が携えられていた。
真っ赤な漬けダレに染まったティノが、ふた口ぶんほどそこには載せられている。
ティノとは、キャベツによく似た野菜である。
ほとんど白に近いぐらいの淡いグリーンをしたティノがほどよい大きさに刻まれて、そこに赤いチットのタレがからめられ、さらには刻んだニラのように濃い緑色をした小さな野菜がまぶされていた。
その外見も、酸味がかった辛そうな匂いも、俺にはまるきりキムチそのもののように見えた。
「香りもいいですね。チットとミャームーと……それに、魚醤か何かを使っているんですか?」
「ぎょしょう? ……チット漬けには、マルの塩漬けを使っています」
「マル?」
「河川で採れる、殻のある小さな生き物です。西の民は、マルの塩漬けを酒の友にしています。私の店では、チット漬けの材料にしています」
あくまでも淡々と、ネイルは語る。
「シムの食材は、なかなかこのジェノスでは手に入りません。ですから私は、西の食材を使ってチット漬けの味を再現させてみたのです。……一晩ティノを塩漬けにして、それからチットと、マルの塩漬けと、ミャームーと、刻んだベベの葉と、すりおろしたラマムの実をあわせた漬け汁に漬け込むのです」
知らない食材名のオンパレードだ。
きっと町の野菜屋などで実物を目にしたことはあるのだろうが、いかんせんまだ名前を覚えきれていない。名前どころか味を確認していない野菜も多いし、俺もまだまだ勉強中の身なのである。
何はともあれ、今は目の前に差し出されたチット漬けだ。
そいつを一口いただいてみると――予想を裏切らない辛さと酸味が口の中に広がった。
複雑かつ刺激的、かつ芳醇な香りと味だ。
ミャームーの強い香りと、動物性タンパクの旨味が、食欲を増進させてくれる。
しっかりと漬けこまれたティノはしんなりと柔らかくなり、白菜にも負けない絶妙な噛みごたえである。
辛いことには、かなり辛い。
あまり食べすぎると、舌が痛くなってしまいそうだ。
だけど、後味はわりとすっきりしている。
俺の知るキムチに劣る出来栄えではない。
それに、「酸味」という味わいも、実にひさかたぶりだ。
「いかがですか? 西の民でも、好む人はこの辛さを好みます」
「美味しいですね。俺も大好きです! ……だけどこれも、けっこう値の張る料理になってしまうのでしょうか?」
「いえ。チット漬けはあくまで添え物ですので。それほど大量に食べたがるお客様もいませんし。この小さな木皿にたっぷり載せて、赤銅貨を半分です」
「なるほど……このチット漬けを肉にからめたり、鍋に入れたりはしないのですか?」
「チットではなく、チット漬けをですか? 東の民でも、そのような食べ方はしないと思いますが」
「そうですか。そのような食べ方はあまり歓迎されませんかね?」
この質問は、シュミラルに向けたものだ。
シュミラルは、静かに首を横に振る。
「その食べ方、不思議です。でも、興味あります」
「そうですか」
ならば、豚キムチやキムチ鍋の方向性で考えてみようかなあと、俺は思案を巡らせた。
安易に過ぎるかもしれないが、このたびの仕事において、俺はあるひとつの制限を自分に課しているのだった。
すなわち、「調理時間の制限」である。
まさかこんな早い段階で別の宿屋から注文を受けるとは思っていなかったので、俺は《南の大樹亭》の献立を『ギバの角煮』にしてしまった。
そのチョイス自体に後悔はないのだが。いかんせんあの料理は作るのにずいぶん時間がかかってしまうのである。
現時点でも2時間半。作業になれてきても、なかなか2時間を切ることはないだろう。
で、宿場町における屋台の営業時間は、準備や片付けも含めて、およそ6時間半なのだ。
これ以上、宿屋での調理に長い時間をかけてしまうと、そのうち屋台の商売に参加できなくなってしまうかもしれない。
これはもう俺個人の好みの話になってしまうが、お客さんと直接やりとりのできる屋台の商売を、完全に女衆まかせにしてしまうのは、少なからずさびしいのである。
なので、《玄翁亭》においては、なるべく調理に時間のかからない献立を考案したい、というのが、俺の今回の裏の命題なのだった。
「では、もしもチット漬けを使った献立を考案できたら、その料理で使う分のチット漬けを《玄翁亭》から購入することは可能でしょうか?」
「はあ。私が作ったチット漬けを貴方が購入し、そのチット漬けを使った料理を私が貴方から購入する、ということですか。それはずいぶん面白い話ですね」
「お気に召さなければ、生のチットを使った料理を考案しますが」
「いえ。私のチット漬けがより多くのお客様に味わっていただけるならば、それは私にとっても大きな喜びです。そして、チット漬けを使った料理というものに、私は強い興味を覚えます」
そんな風にのたまいながら、やっぱり《玄翁亭》の主人は徹底して無表情のままだった。
◇
「ということで、新しい料理を考案してみたんだ!」
その日の夜、俺はさっそくアイ=ファに試食をお願いすることになった。
豚キムチならぬ『ギバ・チット』と、キムチ鍋ならぬ『チット鍋』である。
真っ赤な肉料理と真っ赤な汁物を前に、アイ=ファはきわめて複雑そうなお顔になってしまっている。
「アスタ、ひとつだけ言わせてもらおう」
「うん。何だい、アイ=ファ?」
「お前のかまど番としての腕前は十分にわきまえているつもりであるが。しかし――私には、これらの料理が腐っているように感じられてしまうのだ」
「ああ、それはやっぱりそうなんだろうなあ。……だけどこれは大丈夫! 腐敗と発酵は別物なんだよ。果実酒なんかが酸っぱいのと一緒で、身体に悪いことは絶対にないから!」
「……お前がそう言うのなら、確かなのであろうな」
そんな風に言いながらも、アイ=ファはなかなか器に手を伸ばそうとしない。
外見的には、問題ないはずだ。赤いといえばタラパのほうがよっぽど赤いのだから、やっぱり気になるのは酸味の強い香りのほうなのだろう。
出来栄えは、なかなかのものだと自負している。
『ギバ・チット』のほうは、ロースを使用。
チット漬けの他にタウ油を隠し味にして、ミャームーを少しばかり増量させていただいた。一緒に炒めた野菜は、薄切りにしたアリアと短冊切りにしたプラだ。
プラは、ピーマンに似た苦味のある野菜である。
チット漬けに混入されたニラモドキのベベの葉とともに、鮮やかなグリーンで彩りを添えてくれている。
いっぽう、『チット鍋』には肩肉とモモ肉を使用。
こちらは隠し味ではなく味の支柱ぐらいのニュアンスでタウ油を使っており、いっそうのコクを与えることができた。
一緒に煮込んだ野菜は、アリアとティノだ。
白菜や豆腐や糸こんにゃくの代用品を発見できていないのが残念なところだが。それでもギバ肉からしっかり出汁の出たスープはチットの辛さとも相性が抜群で、俺などはさっきからよだれが止まらない状態である。
「……だけどまあ、森辺の民が濃すぎる味を好まないというのはさんざん思い知らされているし、辛さや酸っぱさというものにもきっと免疫がないだろう。普通の焼き肉とスープもちゃんと準備してあるから、これはあくまで試食品ってことでさ。一口だけでもつまんでみてくれないかな?」
「…………」
「あ、いや、そこまで気が進まなかったら、無理に食べなくてもいいんだけど……」
「……誰も食べぬとは言っておらん」
アイ=ファは決然と『チット鍋』の木皿に手を伸ばした。
が、間近で匂いを嗅いだだけで、その凛々しい眉が力なく下がってしまう。
「お、おい、無理しなくていいってば! もともと試食品は1食分ずつしか作ってないから、アイ=ファが無理なら俺が全部片付ける!」
「大丈夫だと言っているであろうが!」
アイ=ファは再び眉を吊り上げて、木匙をつかみ取る。
そうして、真っ赤なスープとともにギバ肉をひと切れ口の中に投じ――
すべての表情を、消し去った。
「……どうだ?」
アイ=ファは無言で、木皿を置いた。
無表情のまま、その口が肉を咀嚼していく。
大丈夫かな、とハラハラしながら見守っていると、やがてアイ=ファは指1本でくいくいと俺を差し招いてきた。
アイ=ファにしてはぞんざいな呼び方だなあとか思いつつ、膝立ちで身体を寄せてみると――シャープなスイングで、後頭部をひっぱたかれた。
「痛いよ! 何も殴らなくったって――」
文句を言いかけて、口をつぐむ。
アイ=ファの様子が、一変していた。
すなわち――アイ=ファは両手で口をふさぎ、涙目で、顔を真っ赤にして、座ったまま両足をジタバタさせ始めていたのだった。
「痛い! 熱い! 口の中に火がついたかのようだ! いったい何というものを食べさせるのだ、お前は!」
「あ、いや、ごめん……」
「ごめんで済むか!」
アイ=ファは涙目のまま立ち上がり、かまどの脇に置かれた水瓶のほうへと飛んでいった。
「あ、アイ=ファ、たぶん水を飲んでも辛さはひかないと思うぞ?」
唐辛子系の辛さを中和するには、ラッシーのような乳酸飲料がベストと聞いたことがある。
あと、俺の実体験としては熱いお茶が有効だった。冗談混じりで作ったハバネロチャーハンが恐しい辛さであったとき、幼馴染の玲奈のすすめで熱いお茶をがぶ飲みしたところ、嘘のように口内の火事が収まったのだ。
で――冷たい水というのは、有効どころか辛さを増幅させる効果すらあるのである。
飲んでいる間は中和されるのだが、その冷たさが引いてしまうと、いっそうの辛さが口の中に広がってしまう。
理屈のほうはよくわからないが、唐辛子の辛さは水に溶けにくい成分である、とか、口の中が洗われていっそう鮮烈に辛さを感じてしまう、とか、諸説は色々あるようだ。
ということで。
愛しき家長がどんな顛末を迎えたかというと。
柄杓で何杯もの水を飲み、ふーっと脱力したのも束の間――すぐにまた口もとをおさえてジタバタと足踏みをし始めたのだった。
「ア、アイ=ファ、こっちの普通のスープを飲んでみろ! 少し熱いけど、ギバの脂が辛さを洗い流してくれるかもしれない!」
アイ=ファはすごいスピードで舞い戻ってきた。
が、俺の差し出すスープの木皿には目もくれず、涙目のまま、バシバシと頭を叩いてくる。
十分に手加減はしてくれているのかもしれないが、それでも狩人の腕力である。何回か、目玉の奥で火花が散った。
数十秒後。
そこには、床にへたりこんでぜいぜいと息をつく家長の姿と、軽い脳震盪を起こして壁にもたれかかるかまど番の姿があった。
「……料理を食べて死ぬかと思ったのは初めてだ」
「……心の底からすみませんでした」
さらに数十秒の回復時間を置いてから、俺たちは晩餐を再開させた。
「森辺の民にチットの辛さは厳禁ってことだな。アイ=ファの献身的な行動によって、数多くの森辺の民が救われたのかもしれない。……まあ、俺以外にこんなものを森辺に持ち込む人間もいないんだろうけど」
「ふん!」
「いや、本当に悪かったよ。ほら! お前のための肉とスープだぞ!」
こちらは定番の果実酒ソースをからめたロース肉の厚切りステーキである。スープも、タウ油を使った優しい味わいだ。
で、俺の前に並ぶのは、真っ赤な『ギバ・チット』と、真っ赤な『チット鍋』である。
(……まさか本当に自分ひとりで食べる羽目になるとはなあ)
『ミャームー焼き』や『ギバの角煮』でも、味の濃さゆえに駄目だしをくらったことはあるが、完全にギブアップというのはこの夜が初めてだ。
チットづくしの晩餐にいくぶんへこたれつつ、それ以上に、俺はアイ=ファに自分の料理を拒絶されたのが物悲しくなってしまっていた。
(まあ、いい勉強になったと思うしかないな。今後、試作品はもう少し控えめの分量で作ることにしよう)
そんなことを考えながら、俺は『チット鍋』の汁をすする。
辛い。
しかし、美味い。
やはりタウ油を使ったのは大成功のようだ。辛いし熱いしで口の中は大変だが、そんなに尖った辛さではなく、まろやかな旨味も十分に感じられる。
チット漬けで使われていたティノはくたくたのへにょへにょで、後から入れた生ティノのほうはさくりとほどよい噛みごたえを残している。同じ食材でもまるきり別物の食感で、おたがいがおたがいの存在を引き立て合っているかのようではないか。
アリアもどっさり投入したのだが、半分がたは溶けてしまっている。が、それがまたスープに深みを与えてくれているのだろう。本当に、栄養価の高さだけではなく優秀な食材である。
で、肝心のギバ肉も、普段通りに80分ばかりも煮込んであるので、固めの部位である肩肉もモモ肉も食べごろの柔らかさである。
この煮込み時間だけは短縮できなかったので、『ギバ・チット』でなくこちらが採用された際は、少しばかり制限時間をオーバーしてしまうかもしれない。
(うーん、どっちがご主人のお気に召すかなあ。俺としては、甲乙つけがたいんだけど)
焼きポイタンで口内を少し休めてから、俺は『ギバ・チット』の木皿を取った。
こちらも素材を活かしたシンプルな料理である。
ミャームーとタウ油で味の調節はしたものの、基本的にはギバ肉とチット漬けをあわせて炒めただけのことだ。
『ギバの角煮』と『ミャームー焼き』で大量のバラ肉を使用しているため、この『ギバ・チット』ではロースを使うことにした。
ロースはもともと柔らかめの部位であるし、スジの多い肩寄りの部位には事前に包丁を入れておいたので、焼き料理にも最適のはずだ。
どっさりと入れたアリアとともに、チットまみれのギバ肉を口の中に放り込む。
適度な噛みごたえだ。
問題なく、美味い。
チット漬けの強烈な辛さに負けないギバ肉の存在感が素晴らしい。
ときたま混入するピーマンモドキことプラの苦味が、小にくいアクセントである。
岩塩とピコの葉と、あとはミャームーと果実酒ぐらいしか調味料は存在しなかったファの家であるのに、数日前にはタウ油を獲得し、今日はチットという香辛料を得た。
いきなり味のバリエーションが激増し、俺の舌や胃袋は少しばかりびっくりしてしまっているかもしれない。
だけど、幸せだなあ――と、俺はしみじみ思ってしまった。
「ん? どうした、アイ=ファ?」
気づくと、アイ=ファが俺のチョッキのすそを引っ張っていた。
何だかまたちょっぴりおっかない顔つきになってしまっている。
「……お前のそれを、よこせ」
「それって、この『ギバ・チット』のことか? これだって『チット鍋』に劣らぬ辛さだぞ?」
「しかし、私はまだその料理を食べていない」
「いや、だから、そんな無理して食べなくてもいいってば」
「……いいから、よこせ」
フーッとうなる山猫のように鼻の頭にしわを寄せる。
しかたないので、俺は木皿を差し出してみせた。
「頼むから、辛いからって殴らないでくれよ?」
「やかましい」と言い捨てて、アイ=ファは親の仇のように『ギバ・チット』をにらみつける。
そして――赤く染まった肉片を、木匙で口の中にかきこんだ。
咀嚼しながら、早くもじんわり涙を浮かべている。
が、さっきのように暴れたりはせず、タウ油仕立ての『ギバ・スープ』を一口すする。
さらにポイタンを食してから、アイ=ファは涙目のまま、「そっちのそいつもよこせ」と言い放った。
「ええ? 『チット鍋』もか? そこまで自分をいじめる必要はないだろう?」
「……やかましいと言っている」
問答無用とばかりに、『チット鍋』の木皿も強奪されてしまう。
数秒ほどためらったのち、アイ=ファはそいつも食べてしまった。
もはや瞳はうるうるである。
「お、おい、アイ=ファ、大丈夫か?」
「……大事ない」と、アイ=ファは手の甲で目もとをぬぐった。
まるで小さな子どもみたいだ。
「よし。半分は私が食べる。お前もこちらの分を半分食べろ」
「えええええ? いくらなんでも、それは無茶だろ! 無理しなくってもいいってば!」
「無理などしていない。食べたいから食べたいと言っているのだ」
そんなことを言いながら、口直しとばかりに焼きポイタンをかじっているので、説得力はゼロである。
アイ=ファに拒絶されたのは悲しかったが、無理をさせるのは本意ではない。
「……何だその顔は? 食べたいと言っているのに食べさせてくれぬのか?」
「いや、だけど……」
「本当に食べたいのだ。食べると口の中が痛くて涙が出てくるぐらいなのに、不思議と食べたくなってしまう。まるで悪い魔法でもかけられたかのようだ」
言いながら、アイ=ファはまた『ギバ・チット』のほうを一口食べた。
これはもしかしたら――俺に気などを使っているわけではなく、辛さの習慣性にはまってしまっただけなのだろうか。
「痛い。……アスタよ、私の唇は腫れあがったりしていないか?」
と、いきなり目の前に顔を寄せられてきた。
色艶のいい桜色の唇が、少し濡れて光っている。
「……いつも通りの素敵な唇です」
こめかみを、ひっぱたかれた。
「だいたい、お前がやたらと美味そうに食べているから、余計に私も食べたくなってしまうのだ! まったく厄介な料理を作りおって」
「それでも本当に美味しいと思ってくれているのなら、俺は嬉しいよ」
「美味いのかどうかは正直わからん。ただ、無性に食べたくなってしまうのだ」
そうしてアイ=ファは『チット鍋』をすすり、涙目になりながら「だけどやっぱり痛い……」と、つぶやいた。