第三話 黒き太陽の子(上)
2024.10/21 更新分 1/1
・今回は全7話です。
ジルベはとても安らかな心地で、ファの家の広間でくつろいでいた。
ジルベの向かいではブレイブとドゥルムアとラムもゆったりと身を伏せつつ、ちょこちょこと動き回る子犬たちの様子を見守っている。子犬たちとの接触を嫌がる黒猫のサチと白猫のラピは、それぞれ棚や木箱の上で居眠りをしていた。
子犬たちもずいぶん大きくなってきたということで、フォウの人間が留守番に呼ばれることもなくなったのだ。
なおかつ、こういった時間はすべての犬が広間でくつろげるように、汚れた足先や腹の下を清められている。広間と土間の境には木箱や革の袋などが積まれているので、子犬たちが落ちる心配はない。それで大人の犬たちはのんびりくつろぎながら、思いのままに歩き回る子犬たちの愛くるしい姿を見守ることがかなうわけであった。
現在はギバ狩りの仕事も休息の期間であるため、アイ=ファはアスタやギルルとともに宿場町に下りている。
以前はジルベとラムも数日置きに宿場町へと連れていかれていたが、子犬たちが生まれてからはそういったこともなくなり、またファの家の留守を守る日々であった。
しとしととそぼ降る雨の音を壁一枚の向こうに聞きながら、ジルベは満たされた心地である。
ジルベには番犬という役目が与えられていたが、ファの家が脅威に見舞われたことなどはこれまでに数えるぐらいしかなかったのだ。
なおかつ、その限られた機会の中でジルベが役目を全うできたことは、なかった。それは長らくジルベにとって、大いなる無念であったのだ。
まず最初にジルベが無念の思いを抱え込んだのは、このファの家にやってきてすぐのこと――赤き民のティアが姿を現した際である。
あれはファの家ではなく、フォウの家であった。アスタがティアという娘を検分するためにフォウの家まで出向いたので、ジルベも同行することになったのだ。
しかし、ティアがアスタに襲いかかったとき、ジルベには何を成すこともできなかった。ティアは矢のように素早くて、あっという間にアスタの身を捕らえてしまったのである。
幸い、アスタはティアにつかまれた咽喉もとの色合いが変わるていどで、大事には至らなかったが――ジルベが役立たずであったことは、事実である。のちのちティアが心正しき人間であると知れるまで、ジルベはずっと無念の思いを噛みしめていたのだった。
その次にやってきたのは、ゲルドの山賊というやつだ。
その際に、ジルベは呆気なく毒の吹き矢というもので眠らされてしまった。トトスのギルルもそれは同様で、アスタの身を救ったのはティアやアイ=ファたちであるという話であった。
その後は――ティアとよく似たディアという者が侵入したときも、飛蝗というやつが森辺に飛来したときも、ジルベはさしたる役に立てなかった。
ジルベはファの家でまたとなく満ち足りた生を授かることがかなったのに、何の役にも立てなかったのだ。それでジルベは申し訳ない気持ちを抱え込みながら、日々を過ごすことになったのだった。
ジルベにとってファの家というのは、三番目の故郷ということになる。
最初の故郷はジャガルの牧場で、二番目の故郷は貴族ドレッグの屋敷だ。
ジャガルの牧場で生まれたジルベは、護衛犬として育てられた。そうして1年が過ぎる頃にはドレッグに買われて、西の王国に住処を移すことになったのである。
すべての家族と引き離されたジルベは、懸命に護衛犬としての役目を果たしてきた。ドレッグというのはいささかならず高慢で短慮な人間であったが、それほど悪い主人ではなく、ジルベに何不自由のない暮らしを与えてくれた。それでジルベも心置きなく、ドレッグに忠義を尽くしたのだった。
そんなジルベが最初の失態を犯したのは、現在の主人であるアイ=ファと出会った際である。
このジェノスに連れてこられてからすぐのこと、晩餐の場で立ち並ぶ人間たちを威嚇するように命じられたジルベは、その人間たちのひとりであったアイ=ファにひとにらみされただけで尻尾を丸めることになってしまったのだ。
そのときのアイ=ファは武具を携えておらず、それどころか威嚇の姿勢を見せることもなかったが、その青く輝く目でにらまれただけでジルベは敗北を喫してしまったのである。
アイ=ファは明らかに、ジルベよりも強かった。
獣としての本能で、ジルベはそれを思い知らされてしまったのだ。
それでジルベは、しばらく失意の日々を過ごすことになったが――どういう運命の悪戯か、今度はアイ=ファを主人として迎えることに相成った。
ドレッグ立ち合いのもとでアイ=ファと再会した際、彼女は打って変わって穏やかな眼差しで、ジルベと和解したいなどと告げてきたのである。
「お前もなかなかあどけない面立ちをしているな。私の家にいるブレイブとはずいぶん造作が異なっているようだが……だけどやっぱり、同胞であるのだろう。その目の輝きは、ブレイブによく似ている」
そのように語りながら、アイ=ファは優しい眼差しでジルベを見つめてきた。
それでジルベは何を考えるいとまもなく、間近に迫ったアイ=ファの頬を舐めてしまった。
そうしてその日から、ジルベはファの家人として生きることに相成ったのだった。
アイ=ファはドレッグとも比較にならないほどの、素晴らしい主人であった。
もうひとりの主人であるアスタも、それは同様であった。アイ=ファとアスタは心正しく、ジルベを家族そのものとして扱ってくれた。先達たる猟犬のブレイブとトトスのギルルも快く迎えてくれて、ジルベは安息の地を授かるに至ったのだった。
ファの家の家人になることができて、ジルベは心から幸福である。
その後も続々と家人が増えていって、ジルベの幸福もいや増すばかりであった。
しかし、そうであるにも拘わらず、ジルベは番犬としての役目を果たすことができなくて、忸怩たる心地であったのだ。
だが――今のジルベは、小さからぬ誇りを抱くことができていた。
ジルベは敷物にうずくまったまま、サチが眠る棚のほうへと視線を移す。
その棚には、細々とした家財が詰め込まれており――そこに、赤と黒の勲章が飾られていた。
どちらの勲章も、ふた組ずつ存在する。その片方ずつが、ジルベの誇りの源であった。
ジルベはルウの集落に侵入した賊を捕らえたことで、それらの勲章を授かったのだ。
賊は毒の吹き矢の使い手であったが、ティカトラスなる貴族が準備した革の甲冑というもので身を守ることができた。そうしてジルベはティカトラスの指示通り、毒の針が設置された頭で賊に頭突きをくらわせて、生命を奪うことなく捕らえることがかなったのだった。
細かい話は不明であるが、その賊を捕らえたことで大きな災厄を退けることがかなったらしい。
また、アイ=ファもジルベの知らないところで活躍をして、同じ勲章を授かっていた。
あの卓越した力を持つアイ=ファと、同じ勲章を授かることができたのだ。それでジルベが、誇らしくないわけがなかった。
(あのときは、嬉しかったなぁ。アイ=ファもアスタも、すごく喜んでくれたもんなぁ)
ジルベがそんな思いにひたっていると、サチが細くまぶたを開いて「なう」と不満げな声をあげた。
明敏な彼女は、ジルベの心情を察したのだろう。彼女はジルベの付添として城下町に引っ張り出されたことを、実に迷惑そうにしていたのだった。
しかし彼女も内心では、ジルベの活躍を喜んでくれているような気がする。
犬と猫では、意思の疎通もままならなかったが――いつもぶっきらぼうな彼女も、その小さな身体に優しい心を備えているのだ。でなければ、アイ=ファたちがファの家人に迎えるわけがなかった。
そうしてジルベが満たされた心地で首を伏せると、身体の脇にぼすんと軽い衝撃が生じた。
首をもたげてそちらを見ると、フランペと名付けられた赤毛の子犬がジルベの脇腹に小さな頭をあてがっていた。
それに気づいたチトゥとマニエも、ちょこちょこと近づいてくる。兄妹だけで遊ぶのに飽きてきたのだろう。ジルベはフランペを弾き飛ばしてしまわないように気をつけながら身を起こし、やんちゃな子犬たちをかまってあげることにした。
ジルベがゆっくり歩を進めると、3頭の子犬たちも懸命に追いすがってくる。
ジルベがふさふさの尻尾を振りたてると、マニエが嬉しそうに跳びかかってきた。
ジルベが広間の中央で足を止めると、またフランペが前足に頭突きをしてくる。チトゥは逆の前足をしがんでいたが、その幼い牙は分厚い毛と皮にはばまれて痛みを感じることもなかった。
彼らはこうしてじゃれあうことで、生きていくために必要な力を育んでいるのだ。
ジルベも幼き頃は、牧場で兄弟たちとじゃれあっていたものである。それが必要な行いであることは、本能としてこの身に刻みつけられているのだった。
前足では的が小さかろうと思い、ジルベはまたその場に身を伏せる。
フランペはいっそうの勢いで体当たりをしてきて、チトゥはジルベの背中によじのぼらんとばかりにのしかかってきた。マニエは変わらず、尻尾に夢中だ。
そうしてジルベが穏やかななひとときを過ごしていると、やがて外から荷車が近づいてくる気配がした。
雨のせいで嗅ぎ取りにくいが、これはギルルの香りである。それに続いて、アイ=ファとアスタの香りも鼻に伝わってきた。
ジルベはいよいよ満たされた心地で、戸板が開かれるのを待ち受ける。
しばらくの後、からりと戸板が開かれて――アスタの笑顔が広間を覗き込んできた。
「ただいま。今日も何事もなかったみたいだね」
3頭の子犬にまとわりつかれたジルベは、身を伏せたまま「わふっ」と応じる。
ラムは無言のまま首を差し伸べて、アスタに頭を撫でられた。ラピは「なうう」と甘えた声をあげ、サチは横目でアスタを見やっている。猟犬としてむやみに声をあげないようにしつけられているブレイブとドゥルムアは、無言のままに瞳を輝かせていた。
「俺はこの後もかまど仕事だから、みんなはゆっくりしてていいよ。……あ、そういえば、もうじき城下町で送別の祝宴ってものが開かれるんだけどさ。またジルベが勲章の授与者として招待されちゃったから、よろしくね」
まるで人間に語りかけるかのように、アスタはそんな言葉を口にする。
そうしてジルベは「わふっ!」と喜びの声をあげ、サチは「なうう」と不満げな声をあげることになったのだった。
◇
それから数日後――ジルベはアスタから告げられていた通り、城下町を目指すことになった。
ジェノスの城下町というのは、ジルベにとってそれなりに馴染みの深い場所である。もともとジルベはジェノスにまで連れてこられた際、ドレッグの護衛犬として城下町で過ごすことになったのだ。
ただしあの頃は、楽しいことなど何もなかった。もとよりジルベは護衛犬として働くために同行したのだから、楽しさなどを求めるほうが筋違いであるのかもしれないが――それにしても、ドレッグの後をついて回るだけで仕事らしい仕事もなく、無聊をかこつことになったのだ。そのあげく、唯一の仕事の場ではアイ=ファににらまれただけで尻尾を丸めることになったので、なおさら楽しい思い出など望むべくもなかった。
しかし、今のジルベは期待に胸を弾ませている。
最初に勲章を授かった日から、こういった祝宴には何度か招待されているのだ。またあの賑やかさを味わえるのかと想像しただけで、ジルベの気持ちはわきたってやまなかったのだった。
そんなジルベの向かいでは、サチが素知らぬ顔で丸くなっている。
相変わらず彼女は不機嫌そうな様子であったが、ジルベにしてみれば彼女の存在も心を弾ませる要因のひとつであった。祝宴の場においてはアスタやアイ=ファも何かと引き離されることが多かったが、その間もサチはジルベと行動をともにしてくれるのである。大切な家族がひとりそばにいてくれるだけで、ジルベは物寂しい思いをせずに済むのだった。
「今日も帰りは遅くなるだろうから、ジルベも今の内に身を休めておきなよ」
と、同じ荷台で揺られていたアスタが、ジルベの背中を優しく撫でてくる。
しかしジルベはこれっぽっちも眠くなかったので、「わふっ」と答えながらアスタの手の甲をなめることにした。
アスタは、とてもいい主人である。
最初にジルベの心をつかんだのはアイ=ファであったが、ジルベはすぐにアスタのことも新たな主人として敬愛することができた。とにかくアスタは穏やかな人柄であったし、アイ=ファと同様にジルベのことを大事な家族として扱ってくれたのだ。
年を重ねるにつれて、最初の故郷や家族の記憶というものはどんどん薄らいでいっている。ジルベを産んだ母親や、ともに訓練に励んでいた兄弟たちは、いったいどんな姿をしていたか――今となっては、なかなか思い出せないほどであった。
しかしもちろん、どれだけ記憶が霞みがかろうとも、それはジルベにとってかけがえのない思い出であった。わずか1年ていどであろうとも、ジルベの存在を形づくったのはその時代であったのだ。血を分けた家族たちも、訓練をつけてくれた牧場の人間たちも、ジルベにとっては大切な家族であった。
その後に長い船旅を経て移り住んだ、ドレッグの屋敷というのは――故郷というよりも、ジルベにとっての仕事場である。ドレッグは大切な主人であったが家族ではなく、ジルベは護衛犬として忠義を尽くしているに過ぎなかった。自分はこのために生まれてきたのだと、ひたすら職務に励んでいたのである。
然して、ファの家人たちは誰もが大切な家族に他ならなかった。
逆に言うと、ジルベは大好きな家族に囲まれて安穏と過ごすばかりであり、なんの役にも立っていないのではないかという無念を抱え込むことになったのやもしれないが――そんな無念も、このたびの騒動であらかた晴らされたわけであった。
(もちろん、危険なんてないほうがいいに決まってるけど……)
それでもジルベは、役目を果たすことができた。絶大なる力を持つ森辺の狩人にも務まらないような仕事を果たして、みんなの役に立つことができたのである。それはもうふた月ばかりも前の話であったが、今日の祝宴のおかげでジルベはまたその誇らしさを噛みしめることがかなったわけであった。
「ジルベはずいぶん機嫌がいいようですね! いつも以上に、目がきらきら輝いています!」
と、同じ荷台に乗っていた森辺の少女――レイ=マトゥアが、そんな風に言いだした。
アスタはまたジルベの背中を撫でながら、「うん」とうなずく。
「ジルベはわりあい、城下町の祝宴がお気に召したみたいなんだよね。それにやっぱり、勲章の意味とかも理解してるみたいな感じでさ」
「ジルベは本当に、賢いのですね! 猟犬もみんな賢いのでしょうけれど、ジルベはそれよりも人間に近しいように感じられます!」
「うん。護衛犬っていうのは人間を守るのが仕事だったから、猟犬以上に人間と密接に過ごすことになったのかもね」
それは、そうなのかもしれない――と、ジルベも思う。ジルベはジェノスに来る前から、西の王都アルグラッドという場所でさまざまな人間の営みを目にすることになったのだ。
ただし、あの頃は人間のすべてが警戒の対象であった。ジルベは主人たるドレッグを守るために、周囲の人間の様子を検分していたのである。
なおかつ、ドレッグは監査官という立場であったため、王都を離れる機会も多かった。さすがにジェノスほど遠い場所に足を向ける機会はなかったが、月に1度は別なる領地に足を向けていたのである。それでジルベも、ずいぶんさまざまな人間を目にする機会が生じたわけであった。
しかし、森辺の民ほど風変わりで、しかも純真な人間というものは、これまでに見た覚えがない。
だからジルベは、ファの家の家人になれたことを心から喜ばしく思っていたのだった。
「さあ、城下町に到着かな?」
荷車が停止したところで、アスタがそのように声をあげた。雨よけの帳をおろしているため、外の様子はまったくわからないのだ。
荷車が動きだす様子はないと見て、アスタたちは壁に掛けていた雨具を纏う。そして、同じものをジルベにも羽織らせてくれた。ジルベは身体が大きいので、人間のための雨具をそのまま使うことができたのだ。
「ほら、サチもこっちにおいで」
アスタの腕に抱きあげられたサチの小さな身体は、雨具の胸もとに隠される。サチはひと声、「なうう」と不満げな声をあげたが、アスタの手から逃げようとはしなかった。
そうして荷車の外に出てみると、まぎれもなく城下町の入り口である城門が立ちはだかっている。
荷車がとめられたのは架け橋よりも手前の位置であり、そこには大勢の森辺の民がたたずんでいた。今回の祝宴では、50名以上の森辺の民が招待されているという話であったのだ。
案内役たる武官の取り仕切りで、この場に参上した森辺の民の人数と氏名があらためられる。そうして片っ端から大きな車に移されて、それで架け橋を渡ることになった。
御者役を果たしていたアイ=ファとも合流して、ジルベはますます上機嫌である。
トトスのギルルはこれから帰る時間まで、ずっと城門の近くの小屋に預けられるようであったが――まあ、他のトトスたちも一緒であるし、ギルルは呑気な気性であるので、孤独感に苛まれることもないのだろう。
しばらくして、車は目的の地に到着する。
ジルベも以前に足を運んだ覚えがある、紅鳥宮という小宮だ。再び雨具を着込んで車を降りて、小宮の入り口をくぐったならば雨具を脱ぐ。せわしない限りであったが、これもまた人間にとって必要な習わしであるようであった。
森辺の男衆の過半数は別の小宮に連れていかれたため、こちらに居残った総勢は30名ていどとなる。その顔ぶれでまず案内されるのは、浴堂という場所であった。
「では、またのちほどな」
ここで、人間の男女は別々の扉をくぐる。
ジルベは雄犬であるが、何故か女衆の側だ。しかし、アイ=ファとアスタのどちらかがいてくれれば、ジルベの側に不満はなかった。
女衆だけで20名はいたので、脱衣の間という場所はなかなかの混雑っぷりである。その中で、アイ=ファたちはすみやかに装束を脱ぎ捨てていった。
浴堂とは要するに、身を清める場所であるのだ。ジルベとしては水浴びのほうが好ましく思っていたが、これも城下町の作法であるならば従うしかなかった。
「うむ? サチはどこに逃げたのだ?」
と、褐色の裸身をあらわにしたアイ=ファがけげんそうにジルベのほうを見やってくる。ジルベのたてがみにうずもれていたはずのサチが、いつの間にか姿を消していたのだ。
その香りを辿ったジルベは、頭上に視線を向ける。
石造りの壁の高い位置に物置の棚が組まれており、サチはそこに身をひそませていたのだ。ジルベの視線を追ったアイ=ファは、こらえかねたように苦笑をこぼした。
「性懲りのないやつだ。飛び上がるのも面倒なので、さっさと下りてくるがいい」
サチは「なうう」と不満げな声をあげながら、せめてもの反抗とばかりにアイ=ファの顔面に跳びかかった。
しかしサチに顔面を踏まれる前に、アイ=ファは左右からその胴体をつかまえてしまう。いかにサチが俊敏でも、アイ=ファを出し抜くことはできなかった。
「人間ならぬ身であっても、厨や祝宴の場に足を踏み入れるには身を清めるしかないのだ。お前もいい加減に、あきらめをつけるがいい」
アイ=ファに抱えられたサチは、いよいよ不機嫌そうな眼差しをジルベのほうに送ってくる。
ジルベは精一杯の謝意を込めて、「ばうっ」と声をかけておくことにした。
そうして大勢の女衆とともに、ジルベも浴堂に足を踏み入れる。
そちらは白くて温かな蒸気にあふれかえった空間だ。香草の苦い香りがいささかならずジルベの鼻を刺激してくるが、我慢がきかないほどではなかった。
20名からの女衆は、思い思いに褐色の裸身を織布でぬぐっている。
それを横目に、ジルベとアイ=ファは浴堂の奥に歩を進めた。そちらで準備されていたのは、たっぷりとぬるま湯が注がれた木の桶である。その脇には、大きな櫛も準備されていた。
「わーい! リミも手伝ってあげるねー!」
と、アイ=ファの友たるリミ=ルウがちょこちょこと駆け寄ってくる。アイ=ファは優しい眼差しになりながら、「では、ジルベのほうを頼む」と応じた。
すでに数回目の浴堂であるジルベは、木の桶のかたわらに座り込む。するとリミ=ルウが大きな櫛を手に取って、ジルベの背中をくしけずり始めた。
「わー! 今日もいっぱい抜けるねー! こんなに抜けてもふさふさのままだから、不思議だよねー!」
リミ=ルウは嬉々として、ジルベの背中をくしけずり続けた。
ジルベやサチの毛が料理に混入したら一大事であるため、厨に入る前にこうした手間がかけられることになったのだ。また、櫛を毛の奥まで差し込むことで、地肌の汚れを落とす効果もあるのだという話であった。
リミ=ルウは幼子であるが、森辺の女衆であるため力が強い。しかし、ジルベの身を傷つけないように注意を払ってくれているので、実に心地好い力加減であった。
櫛が抜けた毛でいっぱいになってしまったら、かたわらの桶でゆすいで払いのける。リミ=ルウは以前にも手伝ってくれたので、手慣れたものであった。
いっぽうサチも床におろされて、アイ=ファの手で背中をくしけずられていたが――そのさなか、曖昧な声音で「うなあ」と鳴いた。サチは蒸気で身が湿ることを嫌っているが、この櫛で身を清められることは心地好く思っているようであるのだ。そんな相反する感情が、彼女に不明瞭な声をあげさせるのだった。
「犬や猫は、そのようにして身を清めるのですか。これは、なかなかの手間ですね」
と、女衆のひとりがアイ=ファに呼びかける。それはクルア=スンという、銀灰色の不思議な色合いの瞳をした娘であった。
「うむ。森辺では気にしたこともないが、やはり貴族が食する宴料理に獣の毛が入ってしまうのは望ましくないようだな」
「それはもちろん、そうなのでしょうね。でも、アイ=ファも身を清めないといけないのでしょう? 侍女の方々の手を借りることはできないのですか?」
「それは、こちらの側から断ったのだ。とりわけサチは、家人ならぬ相手に触れられることを嫌がるのでな」
「まあ……アイ=ファは、情が深いのですね」
アイ=ファは苦笑をこらえているような面持ちで、クルア=スンのほうを振り返った。
「人間ならずとも、家人は家人であろう? スンの家では、猟犬を家人と認めておらぬのであろうか?」
「いえ、もちろん猟犬も家人に他なりませんけれど……そうですね。猟犬に水浴びをさせるのは男衆の役割ですので、わたしの知らないところでは家長たちがそうして猟犬の面倒を見ているのかもしれません」
そう言って、クルア=スンはふわりと微笑んだ。
「では……わたしは自分の始末を終えていますので、今の内にアイ=ファの髪を清めましょうか?」
「うむ? クルア=スンが私の世話を焼く理由はなかろう?」
「でも、身を清めるのに時間がかかれば、調理の時間が削られることになります。アスタを手伝う身としては、これも立派な仕事なのではないでしょうか?」
アイ=ファはいくぶんうろんげにクルア=スンの姿を見やってから、「好きにしろ」と言い捨てた。
クルア=スンは静謐な微笑みをたたえながらアイ=ファの背後に回り込み、金褐色の髪に手をかける。やがて革紐がほどかれて、長い髪が腰まで流れ落ちた。
クルア=スンは別なる櫛でもって、アイ=ファの髪をくしけずっていく。
すると、ジルベの面倒を見ていたリミ=ルウが「いいなー!」と声を張り上げた。
「次はリミが、アイ=ファの髪をきれーにしてあげるねー! それでリミは、アイ=ファにきれーにしてもらうの!」
「次の機会にな」とアイ=ファは優しく微笑みつつ、サチの手入れにいそしんだ。
それからしばらく、沈黙が落ちて――アイ=ファがふいに、「それで?」と声をあげた。
「クルア=スンは、何用があって私に近づいてきたのであろうか?」
「……やっぱりアイ=ファには、悟られてしまいましたか」
「お前が自ら私に近づくことは、そうそうなかったからな。それに、何かしらの懸念を抱いていることは、ひと目でわかる」
「はい。懸念というほどのことではないのですが……実は、アリシュナのことなのです」
と、アイ=ファの美しい髪をくしけずりながら、クルア=スンはそのように答えた。
「明日でようやく、東の王都の方々はジェノスを出立されます。セルフォマやカーツァはしばらく居残るという話でしたが、貴族ならぬ身であればアリシュナを忌避する気持ちは薄いことでしょう。今後、アリシュナがアスタと親しくすることを許していただけますでしょうか?」
「……許すとは? あやつは以前からアスタと親しくしていたし、私の許しなど必要あるまい」
「いえ、ですから……使節団の方々の滞在が想定よりも長引いたために、アリシュナもいささか寂寥感にとらわれてしまったようであるのです。その反動でアスタに甘えてしまうと、アイ=ファの不興を買うのではないかと……アリシュナは、そんな懸念を抱えているご様子でした」
静謐な表情を保ったまま、クルア=スンはそのように言いつのった。
「ですが、アリシュナはアスタに恋情を抱いているわけではありませんし、アスタの特別な出自だけを理由に執着しているわけではありません。波乱に満ちた運命に見舞われながら懸命に生きているアスタのことを、ひとりの人間として敬愛しているのです。ですから、アスタの家族たるアイ=ファとも正しい絆を結びたいと願っているのです」
「……べつだん、あやつの真情を疑ったことはない。ただ、あやつの物言いが時として私を苛立たせるだけのことだ」
と、アイ=ファは嘆息をこぼしつつ苦笑を浮かべた。
「それよりも、クルア=スンのほうこそずいぶんあやつと絆が深まったようだな。それこそ、家人を案じているかのようではないか」
「はい。アリシュナはわたしにとって恩人であり、師であり……そして、大切な友ですので」
クルア=スンもまた、どこか透き通った微笑みをたたえる。
アイ=ファは「そうか」と肩をすくめた。
「何にせよ、あやつがアスタと絆を深めることに文句をつける気はないし、腹立たしいことがあれば叱りつける。これまで通り、私はそのように振る舞うしかなかろう」
「はい。きっとそれが、アイ=ファとアリシュナの絆なのでしょうね。差し出口をきいてしまって、申し訳ありません」
「べつだん、詫びる必要はない。どうせあやつも気ままに振る舞うのであろうから、クルア=スンが気を揉む必要はないように思うぞ」
「はい。アリシュナは、猫のような御方ですからね」
クルア=スンは本来の可憐な表情に戻って、くすりと微笑んだ。
人間と言葉を交わすすべのないジルベは、黙って見守るばかりである。
また、犬が言葉を交わすすべを持たないために、人間は容易く真情をさらすのだろう。これまでも、ジルベはさまざまな地で人間たちの真情を垣間見てきたのだ。そしてやっぱり、そういった真情がもっとも好ましく思えるのは、アイ=ファを筆頭とする森辺の民であったのだった。




