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異世界料理道  作者: EDA
第九十章 群像演舞~十ノ巻~
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第二話 サトゥラス伯爵家の晩餐会(上)

2024.10/6 更新分 1/1

 レイナ=ルウは、奮起していた。

 サトゥラス伯爵家から、晩餐会の厨を預かることになったのだ。

 レイナ=ルウがそういった仕事を受け持つようになってからひさしいが、どれだけ回数を重ねようとも胸中の熱情を抑えることは難しかった。


 日取りとしては黄の月の13日であり、東の王都の使節団を見送る送別の祝宴から3日後になる。サトゥラス伯爵家の第一子息たるリーハイムはその祝宴の場で今日の話を持ちかけて、翌日には三族長から了承を得られた格好であった。


 レイナ=ルウたちは屋台の商売を終えたのち、その足で城下町を目指している。

 その短い道行きで、末妹のリミ=ルウが楽しげな笑い声をあげた。


「レイナ姉、また眉のところがきゅーってなっちゃってるよー!」


 すると三姉のララ=ルウが、やれやれとばかりに肩をすくめる。


「まあ、気合を入れるのは悪いことじゃないんだろうけどさ。何も行き道から肩肘を張らなくていいんじゃない?」


「そーそー。無駄に気を張ったって、疲れるだけだからなー。狩人の仕事でだって、いかに力を抜くかが肝要だって言われてるんだぜー?」


 そんな声を投げかけてくるのは、御者台で手綱を握っている末弟のルド=ルウだ。すると最後に、長兄たるジザ=ルウも口を開いた。


「レイナは毎回そうして気迫をあらわにしながら大きな仕事を果たしているのだから、一概に否定したものではなかろう。そのように皆ではやしたてるほうが、レイナの集中を乱す結果になりかねんぞ」


「ふーん。でも、ジザ兄なんかはガキの頃から、気迫を隠すのが大の得意だったじゃん」


「それは生まれ持った気質であり、誰にとっても正しいとは限らん。俺たちはレイナの力を信じて、黙って見守るべきであろう」


「へーえ。城下町の祝宴なんかでは、ジザ兄もレイナ姉を持て余してるように見えるけどなー」


「ル、ルドはうるさいよ」


 レイナ=ルウは頬が熱くなるのを感じながら、ジザ=ルウのほうをおずおずとうかがった。

 ジザ=ルウは、落ち着き払った面持ちでレイナ=ルウを見返してくる。


「城下町の祝宴において、俺は貴族と、レイナはかまど番との交流を求めている。その違いがあるだけで、お前が間違っているわけではない。……まあ、ああいう場ではもう少し、周囲の様子に気を配る必要もあろうがな」


「……はい。気をつけます」


 家族ばかりが同乗しているため、家の騒ぎがそのまま荷車に持ち出されたような様相である。サトゥラス伯爵家で仕事を果たす際には、おおよそこの面々が出向いているのだ。実はもう1名、シン・ルウ=シンも同じ荷台に控えているのだが、彼は落ち着いた眼差しでこういった騒ぎを見守っているのが常であった。


 あとはもう1台の荷車に、手伝いの女衆と護衛の狩人が控えている。今日はそれなりに規模の大きな晩餐会であったため、総勢7名のかまど番を準備することになったのだ。それでレイナ=ルウも、いっそうの気合をかきたてられていたのだった。


 今日の仕事の取り仕切り役は、レイナ=ルウである。サトゥラス伯爵家からの依頼に関しては、いつもルウの血族のみで受け持っているのだ。第一子息のリーハイムはとりわけレイナ=ルウに目をかけてくれているのだから、その信頼を裏切るわけにはいかなかった。


「でもさー、今日はロイたちもおまねきされてるんでしょー? いつもはリミたちだけで準備してるのに、珍しいよねー」


 リミ=ルウがそのように言いたてると、事情通のララ=ルウが説明してくれた。


「セランジュの父親が、《銀星堂》の料理と食べ比べをしたいって言い出したらしいよ。どうも子爵家ぐらいだと、《銀星堂》の予約を取るのも大変みたいだねー」


「んー。ししゃくけって、なんだっけ?」


「子爵家は子爵家だよ。侯爵家や伯爵家から分かれた血筋で……森辺で言うと、眷族みたいなもんなのかな」


「ふーん。親筋よりもちっちゃな家ってこと?」


「言い方は悪いけど、ジェノスの子爵家や男爵家ってのは領地を持たない名ばかりの貴族なんだってさ。官職っていう仕事を果たすことで、立派な家を与えられるみたいだね」


 と、そういう知識ではレイナ=ルウを遥かに上回るララ=ルウである。それでララ=ルウは貴族との対話の巧みさを見込まれて、毎回こういった仕事にも同行することになったのだった。


「で、セランジュの父親が、マーデルっていう子爵家の当主――つまり家長なわけ。親筋であるサトゥラス伯爵家のリーハイムに、眷族のセランジュが嫁入りするっていう形なわけだね」


「ふーん。マーデルはサトゥラスの眷族なの?」


「いちおう、サトゥラスから分派した血筋らしいよ。ただ、トゥランやダレイムから分派した家に嫁入りしたり嫁取りしたりしてるから、森辺で言う眷族とはちょっと立場が違ってくるんだろうけどね」


「へー! ルティムとドムで血の縁を結んだみたいに? なんか、面白いねー!」


「当人たちにしてみれば、面白いどころの話じゃないみたいだよ。貴族の血の縁ってのは、森辺よりも入り組んでるみたいだからさ」


 ララ=ルウのそんな言葉に、ジザ=ルウが「ほう」と反応した。


「森辺よりも入り組んでいるとは? よければ、説明してもらいたい」


「うーんとね。たとえばマーデル子爵家がダレイム伯爵家の系列の家と婚儀を挙げると、そっちとの結びつきが深くなるでしょ? それでマーデルがダレイム寄りになるのは、サトゥラスにとって面白くないわけよ。子爵家や男爵家の人間は官職について、ジェノスのまつりごとってやつに関わってるわけだからさ。言ってみれば、如何に多くの眷族を抱えてるかで、ジェノス内の優位が左右されるわけだよ」


「ふむ……」


「だから、ここぞという場面では親筋である伯爵家と血の縁を結びなおさせて、絆を深めようとするの。今回も、そういう経緯でリーハイムとセランジュの婚儀が決まったんじゃないかな」


「へー。でも、リーハイムとセランジュはおたがい好き合ってんだろ?」


 ルド=ルウの直截的な問いかけに、ララ=ルウは「うん」とうなずいた。


「でもそれは、たまたま相性がよかったんじゃないかな。中には、好き合ってない同士で婚儀を挙げさせられることもあるみたいだよ。そういうのを、政略結婚って言うんだってさ」


「えーっ! 好きじゃないのに、婚儀を挙げるの? そんなの、楽しくないじゃん!」


 リミ=ルウがびっくりまなこで声をあげると、ララ=ルウは大人びた面持ちでまた「うん」とうなずいた。


「でも、いざ婚儀を挙げてみたら相性も悪くなかったって例もあるみたいだよ。……何にせよ、森辺よりは不自由な生き方なんだろうね」


「うむ。我々とて、血の縁を深めるために男女を見合わせることはあるが……当人が拒めば、婚儀を挙げるには至らんからな」


「あー、そんな話が許されるんなら、ヴィナ姉だってシュミラル=リリンと出会う前に婚儀を挙げることになってただろうしなー」


「うむ。ガズラン=ルティムも、また然りだな。二十歳を超えて婚儀を挙げないというのは習わしにそぐわない行いだが、そうかといって婚儀を強要することなど許されるはずもない」


「じゃ、レイナ姉もまだまだ自由に楽しめるわけかー」


 ルド=ルウの何気ない言葉に、レイナ=ルウは思わず身を縮めてしまう。レイナ=ルウはつい先ごろ、ついに二十歳になってしまったのだ。

 それでまた、ジザ=ルウのほうをおずおずとうかがうと――厳格で心優しい兄は、こっそり溜息をついている。レイナ=ルウは、心中で頭を下げることになった。


(ジザ兄、ごめんなさい。わたしは、まだ……料理のことだけを考えていたいの)


 たとえ婚儀を挙げようとも、屋台の商売を続けることはできる。しかしまた、子を授かったらそういうわけにもいかなくなるのだ。かつては同じ取り仕切り役であったシーラ=ルウの去就を見守ることで、レイナ=ルウはその事実を痛感させられたのだった。


(ヴィナ姉やアマ・ミン=ルティム、それにリィ=スドラだって、子を授かったから身を引くことになったし……最近はそれを見越して、若い娘ばかりが屋台の商売に加わるようになったもんね)


 それらの面々が身を引いたために、レイナ=ルウは屋台の商売に取り組む血族の中で2番目の年長者となってしまった。レイナ=ルウよりも年長であるのは、複雑な来歴が原因でいまだに婚儀を挙げていないヤミル=レイただひとりであるのだ。また、一時的に屋台を手伝っていたオウラ=ルティムも、アマ・ミン=ルティムの子が生まれた影響で身を引いてしまったのだった。


 ファの家を補佐する氏族まで勘定に入れれば、もう何名かは年長者がいるのであろうが、それも些末な話である。とにかくルウの血族においては、レイナ=ルウがもっとも古くからアスタに手ほどきを受けてきたひとりであり、こうして重要な仕事を受け持つ立場となったのだった。


 レイナ=ルウはこの立場を、かけがえのないものだと考えている。きっと立場というのは、人間を形づくるための重要な要素であるのだ。

 族長としての立場に立ったドンダ=ルウや、次期の族長と見なされているジザ=ルウは、その立場に相応しい器量を身につけようと尽力して、いっそう立派な人間に育ったのだろう。レイナ=ルウはその事実を何より誇らしく思っており、そして自分も見習いたいと痛切に願っていたのだった。


(わたしがリミぐらい若かったら、こんな風に思い悩むこともなかったんだろうけど……でもそれじゃあ、取り仕切り役には選ばれなかっただろうしなぁ。そう考えると、トゥール=ディンは本当にすごいなぁ)


 そうしてレイナ=ルウが溜息をつくと、ララ=ルウが顔を寄せてきた。


「さっきはつい茶化しちゃったけど、かまど仕事に関してはレイナ姉が頼りだからさ。あたしやリミの言葉なんて気にしないで、今日もしゃかりきに頑張っちゃってよ」


「え? あ、ううん、別にそのことで思い悩んでたわけじゃ――」


 レイナ=ルウがそのように言いかけると、ララ=ルウはみなまで言うなとばかりに片目をつぶってきた。

 きっと鋭敏なるララ=ルウは、レイナ=ルウの心情などお見通しであるのだろう。しかし、どれだけ声をひそませても狩人の耳はごまかせないので、婚儀については触れなかったのだ。妹の気づかいをありがたく思いながら、レイナ=ルウは微笑みを返すことになった。


「さー、城下町に到着だぜー。みんな、準備しておけよー?」


 ルド=ルウのそんな言葉とともに、荷車が動きを止めた。

 レイナ=ルウたちが荷台を降りると、目の前に跳ね橋がかかっている。それを踏み越えて、まずは入場の手続きであった。


 城下町の祝宴に招かれるときなどは、おおよそ立派なトトス車で移送される。しかしここ最近、サトゥラス伯爵家で仕事を受け持つ際には、事前に渡された通行証を使って入場するようになっていた。それはジザ=ルウがなるべく森辺の民を特別扱いしないでほしいと願い出て、サトゥラス伯爵家の側がそれを了承した結果であった。


「大した距離じゃねーけど、やっぱ自分でトトスを走らせるほうがおもしれーよなー」


「うんうん! 普段はあんまり、城下町の様子を見物できないもんねー!」


 ルド=ルウやリミ=ルウは、こういった扱いに喜びをあらわにしている。

 いっぽうレイナ=ルウなどは、車で迎えにきてもらったほうが面倒も少なくていいという考えであったが――やっぱりかまど仕事にしか興味がないのかと呆れられそうであったので、何も語らずにいた。


 城門の手前で通行証を提示したならば、あらためて荷車に乗り込んで目的の場所を目指す。

 今日の会場は、市街地に存在するサトゥラス伯爵家の私邸だ。すでに何度も通っている場所であるので、ルド=ルウの手綱さばきに不安なところはない。そしてリミ=ルウは御者台の脇から身を乗り出して、城下町の見物を満喫していた。


「ようこそいらっしゃいました。本日は、何卒よろしくお願いいたします」


 やがて屋敷に到着すると、大勢の侍女や小姓に出迎えられることになった。

 かつてトゥラン伯爵家の私邸であった貴賓館にも負けないぐらい、立派な屋敷である。家屋の規模はあちらのほうがまさっているのかもしれないが、サトゥラス伯爵家の屋敷はジェノス城や小宮に負けないぐらい豪奢に飾りたてられているのだった。


「それではまず、浴堂にご案内いたします」


 と、そういう段取りは普段と変わらない。貴族の食事を手掛ける人間は、厨に入る前に身を清めなければならないのだ。

 浴堂は男女で分けられているため、それぞれ侍女と小姓の案内で足を踏み入れる。女衆は7名、ルウ本家の三姉妹に、レイ、ルティム、マァム、ムファの女衆という顔ぶれで、男衆は5名、ルウ本家の兄弟にシン・ルウ=シン、マァムとムファの男衆という顔ぶれであった。


「ほ、本当に、何から何まで石造りなのですね。宿場町を出てから、四半刻ていどしか経っていないのに……なんだか、別の世界にまぎれこんでしまったような心地です」


 脱衣の間で森辺の装束を脱ぎながら、ムファの女衆がそんな感慨をこぼした。彼女はこれが、城下町における初めての仕事であったのだ。


「そうですよね。わたしもいまだに、城下町の様相には慣れません。でも……森辺も城下町も、同じジェノスの地なのです。何も恐れる必要はないのですよ」


 そんな風に答えたのは、マァムの女衆である。彼女も城下町における仕事の経験はごく少なかったが、その代わりにバナームへの遠征には同行したことがある身であった。

 それはひとえに、ウェルハイドの婚儀の参席者にマァム本家の長兄たるジィ=マァムが選出されたからに他ならない。祝宴の相方は同じ家の人間が相応しかろうということで、彼女も同行を余儀なくされたのだ。


 ただそれ以降、彼女はかまど番としてめきめき腕を上げ始めた。余所の領地で貴族の婚儀の宴料理を手掛けたという経験が、彼女に自信や自負を与えたようであるのだ。そうして現在では、屋台の商売の下ごしらえや、トゥランの商売の取り仕切り役を任せられるぐらいに成長を果たしていたのだった。


(それもきっと、立場が人を育てたっていうことなんだろうな)


 そんな教訓を得たレイナ=ルウは、このたびの仕事にムファの女衆を組み込んだ。血族にはまだマイムやヤミル=レイやミンの女衆など有望なかまど番が居揃っているが、あえて経験の浅い彼女に成長の機会を与えたのだ。


 本音を言えば、こういう際にはもっとも腕の立つかまど番で布陣をそろえたい。現在であれば、レイナ=ルウ、マイム、リミ=ルウ、レイの女衆、ミンの女衆、ララ=ルウ、ヤミル=レイという順番になることだろう。しかし、同じ人間ばかりを使っていたら、他の人間が成長する機会が奪われてしまうし――そして、どれだけの成長を果たしたとしても、子を生せば身を引くことになってしまうのだ。それならば、なるべく数多くのかまど番を育てて、行く末に備えるべきであるはずであった。


(まあ、そんなのはみんなアスタやララの受け売りだけど……数多くのかまど番を育てるのに越したことはないもんね)


 そんな思いをひそかに抱きながら、レイナ=ルウは白い蒸気があふれかえる浴堂へと足を踏み入れた。

 リミ=ルウは「わーい!」とはしゃいでおり、ムファの女衆はおっかなびっくりである。そしてレイナ=ルウは、ひとり厳粛な心地であった。


 もう2年以上も前から城下町に通っているレイナ=ルウは、この浴堂で何度身を清めたかもわからない。

 しかしまた、身を清めた後にはいつも調理の仕事が待ち受けているのだ。それでレイナ=ルウは、熱い蒸気を浴びると心が鋭く引き締まるのが通例になっていたのだった。


(狩人は森に入る前に身を清めるから自然に気持ちが引き締まるって、ダルム兄が言ってたっけ。それと同じような話なのかな)


 何にせよ、レイナ=ルウの心はどんどん鋭く研ぎ澄まされていった。

 今日のように取り仕切り役を担う日は、その影響も顕著である。アスタのもとで働く際にも気を張ることに変わりはなかったが、すべての責任が自分の肩にかかっているのだと思えば、それも当然の話であった。


「……レイナ=ルウは、まだ婚儀を挙げる予定はないのですか?」


 と、ふいにそのように問うてきたのは、マァムの女衆である。

 これからの仕事に気を向けていたレイナ=ルウが無言のまま小首を傾げると、マァムの女衆は慌てた様子で「あ、いえ」と言いつのる。


「別に、おかしな意味ではないのです。ただ、レイナ=ルウぐらい美しい女衆がいまだに婚儀を挙げていないのが、不思議に思えてしまったので……」


「あー、レイナ姉は少しばっかり背がちっこいけど顔の造作は整ってるし、胸や尻なんてヴィナ姉に負けないぐらい張ってるもんねー」


 蒸気の中で肩をすくめながら、ララ=ルウはそう言った。そのように語るララ=ルウはレイナ=ルウよりも拳ひとつぶんは背が高く、グリギの若木のようにしなやかな体躯をしている。


「ヴィナ姉は、もっとばばーんってしてるけどねー! でも、レイナ姉がヴィナ姉ぐらいの背丈だったら、おんなじぐらいばばーんってしそう!」


「そうそう。今の背丈だったら、これがめいっぱいでしょ。男衆から見たら、さぞかし色っぽいんだろうなーと思うよ」


 レイナ=ルウは上手い返事も思いつかなかったので、「そう」とだけ答えておいた。

 するとララ=ルウが、大人びた顔で笑う。


「レイナ姉が婚儀を挙げるには、かまど仕事より魅力的な相手を見つけないといけないんだもんね。そいつはずいぶん難儀な話になりそうだけど……まあ、好きにすればいいと思うよ。あたしは、陰から見守ってるからさ」


 男衆の耳がないためか、ララ=ルウもこのたびはそんな風に告げてきた。

 ララ=ルウもまた、貴族との交流やかまど仕事の取り仕切りのために、シン・ルウ=シンとの婚儀を見合わせている立場なのである。

 好いた相手が存在するぶん、レイナ=ルウとは比較にならない覚悟を背負っているのだろう。それを心得ているレイナ=ルウは、精一杯の思いを込めて「ありがとう」と答えた。


 そうして身を清めたならば、脱衣の間に舞い戻って調理着という白い装束に袖を通す。

 以前はこちらの装束も胸もとが窮屈でたまらなかったのだが、それを見かねた城下町の面々がひと回り大きな装束の丈を詰めてくれたのだ。それでも森辺の装束よりは窮屈であるが、その窮屈さがいっそうレイナ=ルウの気持ちを引き締める効果を生んでいた。


 初めて調理着を纏うムファの女衆は、やはり落ち着かなげな顔をしている。

 そして、リミ=ルウのほうに目をやった彼女は、きょとんと目を丸くした。


「あれ……リミ=ルウだけ、装束が違っているのですね」


「うん! リミはまだちっちゃいから、この装束なの!」


 リミ=ルウが纏っているのは、侍女のお仕着せという装束である。そして最近は調理に取り組む際のみ、赤茶けた髪を頭の天辺で結っている。ほわほわと揺れる毛先が何かの尻尾のようで、とても可愛らしかった。


「よー、やっと出てきたかー。女衆は、いっつも時間がかかるよなー」


 もとの回廊に出ると、すでに5名の男衆が立ち並んでいた。

 その姿に、ムファの女衆はまた目を丸くする。


「そ、それが武官のお仕着せという装束ですか。噂では聞いていましたが……じ、実に雄々しい姿なのですね」


「そうかー? こんな格好だと、暴れにくくてしかたなさそうだけどなー」


 ルド=ルウは気安く応じているが、ムファの女衆はわずかに頬を染めている。レイナ=ルウにとってはやんちゃな弟であるが、ルド=ルウも年頃の男衆であるのだ。血族の間でも、ルド=ルウに懸想する女衆は少なくないはずであった。


 しかしそれもまた、調理の仕事を目の前にしたレイナ=ルウには些末な話である。

 レイナ=ルウは粛然たる心地で、本日の仕事場に向かうことになった。


「よう、お疲れさん。今日も面倒な仕事を引き受けてくれて、感謝してるよ」


 そうして厨に向かうと、リーハイム本人が笑顔で待ちかまえていた。

 さらに、2名の女性がひっそりと控えている。シムの王城の副料理長セルフォマと、通訳のカーツァである。東の王都の使節団がジェノスを出立したのちも、彼女たちは余念なく調理の勉強に励んでいた。


「事前に伝えておいた通り、またこのおふたりが見学を願い出てるからさ。この屋敷の厨もそこまで狭くはないだろうから、よろしく頼むよ」


「承知しました。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 レイナ=ルウが一礼すると、リーハイムは「ああ」と屈託なく笑った。

 彼がこうまで気兼ねのない姿をさらすようになったのは、いったいいつからであっただろうか。出会った当初はレイナ=ルウにつきまとい、贈り物を固辞されたのちはあからさまに険悪な態度を取り、その行いをたしなめられたのちには悄然として、やがておずおずと手を差し伸べてきて――そして気づけば、こんなにも朗らかな笑みを浮かべるようになった。レイナ=ルウにとって、これほど関係性が変転した相手は他に見当たらないぐらいであった。


 しかし、レイナ=ルウに責任のある仕事を任せてくれるのは、いつも彼であったのだ。

 しかも彼は決して下心ではなく、レイナ=ルウの腕を見込んで仕事を任せたいのだと宣言していた。そしてついには、いずれやってくる婚儀の祝宴の宴料理を任せたいとまで言ってくれたのだった。


 レイナ=ルウにかまど番としての誇りを最初に与えてくれたのはアスタであり、その後もさまざなま人間がレイナ=ルウを力づけてくれたが――料理を食べる側の人間としてレイナ=ルウに最大の誇りを与えてくれたのは、このリーハイムであるのだ。レイナ=ルウにとっては恩人と似て異なる、きわめて特殊かつ特別な存在であった。


「それじゃあ俺は、引っ込むけど……実は、セランジュのご家族がもう客間に居揃っててさ。ぜひ森辺の面々と言葉を交わしたいって言うんだよ。世話をかけるけど、ジザ=ルウにお願いできるかい?」


「うむ。かまど仕事を見守るのに、5名もの男衆は不要であろうからな。俺でよければ、いくらでも語らせていただこう」


 そのように応じながら、ジザ=ルウは糸のように細い目で残りの男衆を見回す。その視線の意味を悟って、ララ=ルウが声をあげた。


「ここはやっぱり、シン・ルウ=シンじゃない? 何せシン・ルウ=シンは三代前の剣王なんだから、たいていの貴族のお人らには喜んでもらえると思うよ」


「うむ。やはり、そうであろうな。では、こちらはルドに頼んだぞ」


「へいへい。立ちん棒は、なれっこだからなー」


 そうしてジザ=ルウとシン・ルウ=シンは、リーハイムとともに立ち去っていった。

 残るは7名のかまど番に3名の狩人、そして見学者のセルフォマおよびカーツァだ。セルフォマが東の言葉で何か語ると、カーツァがわたわたと慌てながらそれを通訳した。


「きょ、今日もお世話になります。決してお邪魔はしませんので、何卒よろしくお願いいたします。……と、仰っています」


「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 セルフォマたちは昨日も一昨日も森辺でかまど仕事の見学に励んでいたが、本日はこちらの見学を選んだのだ。

 まあ、森辺における平常の勉強会よりも、城下町における晩餐会の調理を見学したほうが実りが大きいと判じたのであろうが――それでも、アスタやトゥール=ディンではなくレイナ=ルウの手腕を見学しようと思いたったのだ。それもまた、レイナ=ルウにとってはひとつの小さからぬ誇らしさを抱かせてやまない出来事であったのだった。

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