東の王都の料理番(六)
2024.10/5 更新分 1/1
『……カーツァには、本当に申し訳なく思っています』
試食の祝宴から、数日後――セルフォマにあてがわれたジェノス城の執務室でそのように告げると、カーツァはもじもじとしながら『い、いえ』と答えた。
『せ、先日お伝えしました通り、私なんかがみなさんのお役に立てるのは光栄なことですので……どうかセルフォマ様は、お気になさらないでください』
カーツァの言葉はありがたい限りであったが、さりとてセルフォマも申し訳なさと無縁ではいられなかった。
使節団が帰国したのちも、ジェノスに留まって食材の扱い方を学びたい――セルフォマのそんな願いは、ついにリクウェルドから了承されることになったのだ。
それはこの数日間をかけて、セルフォマがその行いの有効性を証し立てたためとなる。セルフォマが森辺の集落に通いつめてアスタたちから学んだ知識は、このたびの交易においてきわめて有用であると認められることがかなったのだ。
セルフォマとしては、望み通りの結果である。
しかしそれでも、セルフォマの巻き添えになるカーツァのことを思いやらずにはいられなかった。セルフォマは西の言葉を扱えないため、カーツァは通訳として運命をともにするしかなかったのである。
わずか15歳の身で異国に留まるというのは、いったいどれほど不安なことだろう。
しかしカーツァは涙ながらに、不満があるわけではないと語っていた。つい先日、ファの家で晩餐をともにした折に、自分がリクウェルドやセルフォマの役に立てることが嬉しいと言ってくれたのである。
ただカーツァは、自分にそのような大役が務まるのかという不安を抱いている。
そんな不安を抱かせたのが、セルフォマであるのだ。セルフォマが余計なことを言い出さなければ、カーツァは養父たるリクウェルドとともに帰路を辿ることがかなったのだった。
(本当にごめんなさい。でも……私はどうしても、そうせずにはいられないの)
セルフォマの胸中には、さまざまな思いが渦巻いている。しかし、その真ん中に燃えさかっているのは、もっと立派な料理番を目指したいという熱情であり――それを支えているのは、故郷に残してきた父たちの面影であった。
異国に赴くのは得難い経験であると、父はそんな風に言っていた。6名の同胞たちも、不安に苛まれるセルフォマを後押ししてくれた。そして、セルフォマはあらゆる困難にあらがえるだけの気概を有していると語っていたのは――硝子玉のような目をした老齢の料理長であった。
日が経つにつれて、料理長の言葉は父たちの言葉と同じぐらいの質量でセルフォマの胸にあふれかえっていた。
セルフォマの双肩には、王城の料理番の威信がかかっている――そんな風に述べていたのも、料理長である。また、もっと古い時代には、セルフォマは他なる料理番よりも倍ほどの力を尽くす必要があると言い渡されていた。
それらの言葉のすべてが、セルフォマの熱情を燃やすための薪となっている。
それでセルフォマは、ジェノスに滞在しようと決断することに相成ったのだった。
(私は必ず、大きな成果を持ち帰ってみせる。第七王子の手掛けた指南書だけでは実現できない、立派な料理をラオの王城で作りあげるんだ)
セルフォマがそんな思いを新たにしたとき、執務室の扉が叩かれた。
姿を現したのはジェノス城の侍女であり、その言葉をカーツァが通訳してくれた。
『く、傀儡の劇の準備ができたので、紅鳥宮にご案内いたします。……と、仰っています』
『ああ、もうそんな時間ですか。……わかりました。すぐにうかがいます』
セルフォマは卓上に筆を置き、敷物から腰を上げた。
本日は送別の祝宴の前日であり、セルフォマも森辺の集落に参じることなく執務を果たしている。そして、旅芸人から森辺の民にまつわる傀儡の劇を拝見する手はずになっていたのだった。
(私なんて西の言葉がわからないんだから、カーツァの苦労がかさむばかりなのにな。……でも、こればかりはしかたないか)
セルフォマは先日、ゲルドの料理番プラティカから傀儡の劇を見るべきだと言い渡されていた。どうして森辺の民がこれほどまでに調理に熱情を燃やしているのか、それを理解するべきだという主張であったのだ。
プラティカは、信用の置ける人間である。そのプラティカがあれほど熱っぽく語っていたからには、きっと意味のある行いであるのだろう。それでセルフォマも、観劇を希望したのだった。
(でも、森辺の民が貧しい生活から脱するために商売を始めたって話は聞いてるんだけど……それ以上の、何があるっていうんだろう)
そんな疑念を心の片隅に抱え込みつつ、セルフォマはカーツァとともにジェノス城の回廊に足を踏み出した。
城門の手前で手渡された雨具の外套をかぶって、石造りの立派な階段をおりる。石畳の前庭に準備されていたのは、1頭引きの小さなトトス車だ。ジェノス城から小宮までは大した距離でもなかったが、毎回このように送迎されるのが通例であった。
やがて紅鳥宮に到着して、そちらの大広間に足を踏み入れると、思いも寄らないほどの人数がひしめいている。それでセルフォマが呆気に取られていると、笑顔のポルアースが「やあやあ」と近づいてきた。
『し、使節団の方々も到着しておりますよ。間もなく開演ですので、お席のほうにどうぞ。……と、仰っています』
『承知しました。……でも、ずいぶんな人数なのですね』
『は、はい。かの一座の傀儡の劇は見事な出来栄えですので、誰もが何度となく観劇を望んでしまうのです。……と、仰っています』
その場には、100名をくだらない人間がひしめいていたのだ。
前側には敷物が敷かれており、後ろ側には椅子が並べられている。そして、前側の右の端には第七王子の輿までもが据えられていた。
セルフォマとカーツァが案内されたのは、逆側の左端である。
そしてそちらは敷物が分けられており、リクウェルドやマルスタインたちが座した最前列の敷物からは10歩以上の距離があけられていた。
『も、申し訳ないのですが、お二人はお席を離させていただきました。カーツァ殿は心置きなく通訳のお役目をお果たしください。……と、仰っています』
通訳をするカーツァの声が観劇の邪魔にならないように、席が遠ざけられたのだ。
まあ、貴き身分にある面々と距離を取れるのであれば、セルフォマにとっても願ってもない話である。セルフォマは案内役のポルアースに頭を下げて、その小さな敷物に膝を折ることにした。
広間のもっとも奥まった場所には、粗末な台座が準備されている。
なんの飾り気もない、木造りの台座だ。そこで、傀儡の劇が披露されるのだろう。セルフォマが傀儡の劇などを目にするのは、リムに住まっていたころ以来――それこそ、10年ぶりぐらいになるのではないかと思われた。
(貴人のお屋敷なんかでも、芸人なんかが招かれることはあるみたいだけど……これは本当に、道端で芸を見せてる旅芸人なんだな)
その旅芸人に関しては、森辺と城下町の両方で噂を聞き及んでいる。そちらの旅芸人の責任者であるリコなる少女はジェノスで起きた騒乱とアスタの風聞を聞き及び、傀儡の劇に仕立てたいという熱情にとらわれたのだそうだ。それで領主たるマルスタインからも了承をいただいて、ジェノスの人々に当時の話を聞きあさり、立派な劇を仕立てたのだという話であった。
(ジェノスの貴族と森辺の民が手を携えて、悪い貴族や族長なんかを打倒したって話らしいけど……それでどうして、アスタが主人公になるんだろう)
しばらくして、台座の横合いに立てられていた衝立の裏から、少年と少女が現れた。
カーツァよりも年若そうな、可愛らしい男女だ。下働きの人間が前口上でも述べるのかと思いきや、その片方が責任者たるリコに他ならなかった。
『ほ、本日はこのように立派な場所にお招きいただき、心より感謝しています。まだまだ拙い腕ですが、ひとときの楽しさを味わっていただけたら望外の喜びでございます。……と、仰っています』
カーツァは律儀に、そんな前口上まで説明してくれた。
そうして幼き傀儡使いたちは舞台の裏手に回り込み、ついに『森辺のかまど番アスタ』なる傀儡の劇が始められる。
まず舞台に現れたのは、アスタとアイ=ファの傀儡だ。
物語は、二人の出会いの場面から語られて――気づけばセルフォマは、その物語の世界に心を引き込まれていた。
カーツァの言葉は傀儡の動きよりも遅れて語られるため、セルフォマの理解には小さからぬ時間差が生じる。最初はそれがもどかしくてならなかったが、しばらくすると物語に対する興味や好奇心が上回った。それぐらい、傀儡使いたちの手腕は見事であり――そして、魅力的な物語であったのだ。
傀儡のアスタはセルフォマが知るアスタよりも、いくぶん幼げに感じられる。それに、少なからず直情的で、見ているこちらがひやひやするような場面が何度も見受けられた。
いっぽうアイ=ファも厳格な態度が際立っており、アスタに対する扱いもぞんざいだ。根っこの部分ではアスタを信頼しているようであったが、まったく気質の合わない相手との同居生活に苦労しているように感じられた。
しかし物語が進むにつれて、そんな違和感がゆっくりと解きほぐされていく。
両名の間により強固な信頼関係と情愛が育まれて、やがて心をひとつにしていく。そんなさまが、物語の裏側でしっかり進行されていたのだ。伝聞だけでこのように微細な心の移ろいが表現できるのかと、セルフォマは舌を巻く思いであった。
そんな中、物語の筋書きもどんどん進行されていく。
ファの家の家人となったアスタはまずルウの最長老に美味なる食事によって生きる喜びを思い出させて、ルウの血族からの信頼を勝ち取った。その後はルウの血族の協力のもとに宿場町で屋台の商売を開始して、少しずつ人気を博していった。そして、族長筋たるスン家に目をつけられて――そこからいよいよ、不穏な雰囲気がたちこめ始めた。
(これが、かつての族長筋スン家との対立か……)
そのスン家を打倒することで、森辺の民はジェノスの人々と絆を結びなおすことがかなったのだという。セルフォマはかつてその話をファの家で聞き及び、そこから傀儡の劇の話題に及んだのだった。
確かにスン家というのは、こちらの傀儡の劇において暴虐な存在として描かれていた。この傀儡の劇は事実をもとに作られたという話であったので、それが真実であるのだろう。そうしてアスタとアイ=ファは家長会議というものに招集されて、その場で森辺の民の進むべき道について説き――その夜に、生命を狙われたのだった。
かえすがえすも、驚くべき内容である。
そしてセルフォマは、アイ=ファの傀儡が語る言葉に胸を打たれていた。
美味なる料理は、一族に大きな力と喜びを与える。
そしてギバ肉で商売をすることがかなえば、誰も飢えることのない豊かな生活を実現させることができる。
そのためには、まずギバ肉の味わいを世に知らしめなければならない。自分たちはそれを目的にして屋台の商売を始めたのだ、と――アイ=ファは、そんな風に語っていた。
それこそが、森辺の料理人の情熱の根源であったのだ。
彼らは美味なる料理を作りあげることに、一族の存亡をかけていたのだった。
(貧しさで、赤子に乳をやることすらできない……この世界には、まだそんな場所が残されていたんだ)
リムの城下町で生まれ育ち、ラオの都に移り住んだセルフォマにとって、それは想像もつかない苦悶である。その苦悶を乗り越えるために、森辺の民には美味なる料理が必要であったのだった。
(しかもそれ以前に、血抜きの作法も知らない一族が、ジェノスの都の領内で暮らしていたなんて……それぐらい、森辺の民というのは世間と断絶していたんだ)
血抜きをしていない獣肉では臭みが強すぎるため、どのように扱っても不出来な料理になる。それで森辺の民は、美味という概念を半ば失ってしまったようであるのだ。それもまた、セルフォマにとっては想像のつかない世界であった。
(そこにアスタが現れて、血抜きの作法と美味なる食事という概念を教示した……だから第七王子は、アスタと『星無き民』を重ねることになったんだ)
『白き賢人ミーシャ』の伝承であれば、セルフォマも内容をわきまえている。東の民は600年前に王国シムを築いたが100年ていどで瓦解してしまい、他なる王国と文明の落差が生じてしまったのである。
他なる王国の民たちは石造りの城や街を築き、鋼の武器でもって敵を退けたが、東の民はそれらの文明の恩恵を自ら手放してしまった。トトスにまたがって大地を駆けて、ギャマを育てつつ、野に天幕を張って暮らした。そうして人間とトトスとギャマが生きるのに適した肥沃なる地を巡って諍いを起こし――いくつかの藩が、それで滅びを迎えたのだった。
そこに現れたのが、『白き賢人ミーシャ』である。
どこからともなく現れたミーシャは、故郷を追われたラオの民に煉瓦や鋼の武器を精製する技術を伝えて、ゲルドやドゥラの軍勢を退けた。そうしてラオはシムの第二王朝を建立して、すべての藩に同じ知識を授けて、王国シムの支配者と認められたのだった。
一国を成したミーシャに比べれば、アスタの起こした変革はごくささやかなものであろう。
ただその辿った道は、ミーシャとよく似通っていたし――そして、森辺の民にしてみれば、アスタはミーシャにも引けを取らない希望の星そのものだと感じられるはずであった。
(森辺の民にしてみれば、第二の王国を築いたようなものなんだ。だから森辺の女衆はあんなにも熱情を燃やして……美味なる料理を手掛けることに、またとない誇りを抱くことができるんだ)
セルフォマがそんな感慨に見舞われている間に、劇の舞台ではスン家の大罪人が糾弾されて、新たな三氏族が族長筋となり――第一幕が終了した。
『く、傀儡の劇の衣装を交換しますので少々お待ちください。……と、仰っています』
カーツァはくたびれ果てた様子でそのように告げてから、敷物に準備された茶を初めて口にした。彼女は傀儡使いの少女リコと同じだけの言葉を語っていたし、しかも西の言葉を東の言葉に変換するという手間までかけていたのだ。そんな時間が四半刻も続いただけで、甚大なる疲弊に見舞われるはずであった。
『カーツァのおかげで、過不足なく劇の内容を理解することがかないました。お手数をおかけしますが、引き続きよろしくお願いいたします』
『は、はい。これが、私のお役目ですので』
と、カーツァはむしろ嬉しそうに瞳を輝かせながら、そのように言ってくれた。
そうして、第二幕の開始である。そちらは、『トゥラン伯爵家の章』と銘打たれていた。
しかしその序盤で描かれたのは、またもやスン家との戦いだ。
大罪人として捕縛されていた先代家長のザッツ=スンと家人のテイ=スンが脱走して、新たな災厄をもたらす――そんな不穏なる内容で、物語は進められていった。
セルフォマがファの家で耳にしたのが、このザッツ=スンという人物の名である。
ザッツ=スンは森辺の民の行く末を憂えるあまりに道を踏み外してしまったのではないかという話であったが――その恐ろしさは、セルフォマが想定していた以上であった。ザッツ=スンが再び捕縛されて、宿場町の街道で怨嗟の言葉を撒き散らす場面などでは、背筋が悪寒に震えてしまった。カーツァの可愛らしい声でこの有り様であるのだから、実際の現場ではどれほどの恐ろしさであったのか――そんなものは、想像したくもなかった。
しかしセルフォマは、それで森辺の民の業というものを思い知ることができた。
外界の存在と真っ当な絆を結び損なった森辺の民は、80余年という歳月をかけてこれほどの確執を育てることになったのだ。それが、アスタの到来によって均衡が崩されて――希望の光が届かなかった暗がりから、怨霊のように恨みの念が現出したような様相であった。
そののちにはザッツ=スンの遺志を継承したテイ=スンが、アスタたちの働く屋台を襲撃する。
家長会議の夜に続いて、アスタは二度までも生命の危険にさらされたのだ。それもまた、セルフォマには想像し難い運命の変転であった。
ただテイ=スンは森辺の狩人の刀に斬り伏せられながら、最後は残された同胞たちに希望の思いを託したようである。
その場面を語る際、カーツァは涙声になっていた。
そしてそこからが、ついにトゥラン伯爵家との戦いであった。
先代当主のサイクレウスに、その実弟にして護民兵団団長のシルエルというのが、次なる敵である。そのサイクレウスが森辺の民との調停を受け持つ立場であったため、ザッツ=スンは外界の存在に対する憎悪が深まり、道を踏み外してしまったのではないかという話であった。
そしてその対決の前に、アスタはサイクレウスの娘に誘拐されてしまう。
そちらの場面は喜劇のように描かれていたが、現実においては喜劇どころの話ではなかったことだろう。アスタの運命はどれだけの変転にまみれているのかと、セルフォマは呆れ返ってしまった。
アイ=ファの尽力でアスタが救い出されたのち、いよいよサイクレウスおよびシルエルとの対決の場面に至る。
その会談の場では、シルエルの命令で矢を射かけられることになった。アスタにとっては、4度目の生命の危機である。
しかし森辺の狩人の活躍によって大事には至らず、トゥラン伯爵家の大罪人は捕縛される。そこに、ジェノスの領主も登場した。
森辺の民とジェノスの貴族は絆を結びなおすために、親睦の晩餐会を開催する。サイクレウスの娘に幽閉されていた期間を除けば、これがアスタの城下町における初仕事であったようであった。
そちらの晩餐会は滞りなく終了したが、物語はまだ終わらない。
晩餐会の後、アスタは病魔に倒れたサイクレウスのために料理を振る舞うことになったのだ。
サイクレウスは改心して、シルエルの悪行と残された逆賊の居場所を告白したのち、娘と最後の時間を過ごすことが許される。
そのさまを見届けて、アスタたちは森辺に帰り――それで、第二幕の終了であった。
カーツァは、はらはらと涙をこぼしてしまっている。
きっとサイクレウスやその娘――リフレイアに思いを馳せているのだろう。劇中では名前を伏せられていたが、セルフォマたちは晩餐会でも試食の祝宴でも、トゥラン伯爵家の若き当主たるリフレイアを紹介されていたのだった。
(かつてはアスタを誘拐したリフレイアが心を入れ替えて、今は伯爵家の再興に尽力しているんだ)
それはきっと、アスタがサイクレウスに料理を供することを了承したためであるのだろう。
そのように考えたとき、セルフォマの背筋に得も言われぬ感覚が走り抜けた。
アスタの力が、ついに貴族のもとまで届いたのだ。
第一幕においては森辺の集落と、せいぜい宿場町までであったが――アスタの存在を巡ってさまざまな人間が動いたことで、ジェノスの歴史までもが変動した。有力貴族の失脚というのは、それだけの一大事であったはずだ。アスタは剣を振るうこともないまま、ジェノスの歴史に大きな痕跡を残したのだった。
(そうして現在のアスタはジェノスで一番の料理人と認められて、たびたび城下町に招かれている……ゲルドや南の王都との交易、そして今回の交易に関しても、アスタは一番の功労者なんだ)
つまり、それは――ゲルドやラオリムや南の王都にまで、アスタの力が届いているということなのではないだろうか。
そんな風に考えると、セルフォマの心は千々に乱れてしまうのだった。
そうして広間では、ついに第三幕が開始される。
現在のところの最終章、『《颶風党》の章』である。
それは、苦役の刑場から脱走した大罪人シルエルがジェノスに――最終的には、アスタに毒牙をのばすという内容であった。
その際にシルエルが引き連れていたのが、ゲルドの大罪人たちである。ゲルドの山賊が西の地において捕縛されたため、シルエルと同じ刑場に送還されていたのだ。そして、同郷の人間が甚大なる災厄をもたらしたということで、のちのちゲルドの貴人が謝罪をするためにジェノスを訪れて――それをきっかけに、食材の交易やプラティカの滞在が始まったわけであった。
(だから、やっぱり……アスタの力が、ゲルドにまで及んでいるんだ)
そしてセルフォマはもう一点、聞き捨てならない風聞を耳にはさんでいた。
こちらの劇に登場する、ファの家の不可思議な同居人――これが、モルガの山に住まう聖域の民であるというのだ。
その風聞をセルフォマにもたらしたのは、プラティカである。
プラティカはその聖域の民と出くわしていないようであったが、アイ=ファたちから詳細をうかがったのだという話であった。
その事実が、またセルフォマの胸を騒がせた。
アスタは王国の貴人ばかりでなく、聖域の民とも縁を結んでいたのである。
聖域の民とは、大神アムスホルンの目覚めを夢見て山野に隠れひそんでいる一族となる。
この世に魔力が蘇ったならば、聖域の民だけが魔術の文明を復興できる――シムには、そのように伝えられているのだ。
魔術の文明が滅んで600年以上が過ぎ去っているのだから、セルフォマにとってはそれも御伽噺の類いであるとしか思えない。
しかし、そのような伝承が存在することは事実であるし、聖域の民は実在するのだ。
もしもこの先、本当に大神アムスホルンが目覚めて、聖域の民が魔術の文明を復興させて、そこに少しでもアスタの意思が反映されていたならば――それは、『白き賢人ミーシャ』を凌駕するほどの影響力と言えるのではないだろうか?
(まかさ、アスタは本当に……本当に、『星無き民』だというの? アスタはこの世界を正しく導くための、神の御使いということなの?)
カーツァの声を聞き、傀儡の躍動を見守りながら、セルフォマはこの身から魂が離れてしまったような心地であった。
そんなセルフォマの身と心が、突如としてわきおこった歓声と拍手によって脅かされる。
傀儡の劇が終了して、貴族たちが祝福を捧げているのだ。
セルフォマは思考もまとまらないまま、自らも手を打ち鳴らした。
そうしてぼんやりカーツァのほうを振り返ると、そちらは滂沱たる涙を流している。そしてセルフォマの視線に気づくと、カーツァは東の作法も忘れた様子で弱々しく微笑んだ。
『と、とても素晴らしい劇でしたね……それに、アスタ様やアイ=ファ様がこんな運命の変転を乗り越えていただなんて……なんだか、信じられないぐらいです』
カーツァの言葉を聞きながら、セルフォマはそっとまぶたを閉ざした。
そして、自分の心の奥深くに視線を定める。乱れに乱れた頃の奥底には、情念の炎がちろちろと燃えていた。
(アスタは本当に、『星無き民』なのかもしれない……一介の料理人でありながら、世界を動かす力を持つ存在なのかもしれない……でも……私は、私なんだ)
セルフォマは、凡庸な人間である。
これまでは、どうして自分ばかりがこれほどの運命の変転に見舞われるのかと思ったこともなくはないが――それもまた、セルフォマがごく狭い世界で生きていたためであった。
カーツァは何年も前にすべての家族を失って、たったひとりでラオの都に引き取られた。
プラティカもまた数年前に最後の家族である父親を失い、13歳という若年でゲルの藩主の料理番という立場を勝ち取り、現在はジェノスでひとり修行に励んでいる。
劇中で語られていたが、アイ=ファもごく若い頃に両親を失って、アスタと巡りあうまでは孤独に過ごしていたらしい。
そうでなくとも、森辺の民は誰もが激動の人生を送っていたのだろう。かつては飢えに苦しんで、今はそれを乗り越えるために尽力して――彼らはまだまだ、豊かな生活を勝ち取るために戦っているさなかであるのだ。
人は誰でも、自らの物語を持っている。
他者の物語では端役であっても、自らの物語では主役であるのだ。
であれば――セルフォマは、自らの物語で主役らしく振る舞うしかなかった。
(私は、ラオの王城の副料理長……それも最年少で、たったひとりの女人だ。アスタに比べれば、それもちっぽけな肩書きなんだろうけど……これが、私の物語なんだ)
セルフォマはアスタのもとで学び、より充実した交易の実現を目指すとともに、料理人としての修練に励む。そしてラオに帰ったならば、また父や6名の同胞と手を携えて、立派な料理を作りあげる――それがセルフォマの、セルフォマだけの、たったひとつの物語であった。
その物語を全うするために、すべての力を振り絞ろう。
そんな思いを胸に秘めながら、セルフォマはカーツァの手を取った。
『私が大役を果たすためには、あなたの力が必要です。ひと月以上も異国に滞在するというのは、大変なご苦労でしょうが……どうか力をお貸しください、カーツァ』
『は、はい。セルフォマ様のお力になれることを、心から誇らしく思います』
カーツァは涙声で、そんな風に言ってくれた。
その間も、大広間にはまだ歓声と拍手が鳴り響いている。
あらためて、セルフォマもその輪に加わった。
(アスタが本当に、『星無き民』だとしても……アスタが人の子であることに変わりはない。私は料理人としてのアスタに一歩でも近づけるように、力を尽くすんだ)
きっと明日の送別の祝宴では、またアスタが驚くべき手腕を発揮させるだろう。
それを想像すると、心の奥底でちろちろと燃えていた情念の炎が総身にくまなく行き渡り、セルフォマにまたとない活力を与えてくれたのだった。




