東の王都の料理番(四)
2024.10/3 更新分 1/1
かくして、セルフォマは異国たるジェノスを目指してラオの都を出立することになった。
ラオの鍛えられたトトスを使っても、20日がかりの長旅である。
セルフォマとしては、やっぱり父や同胞たちの去就が気にかかってならなかったが、ここまで来たら死力を尽くして役目を全うするしかなかった。
(ここで失敗を犯したら、副料理長の座だってどうなるかわからないんだ。岩にかじりついてでも、やりとげてやる)
不安や焦燥の思いをそんな気概でねじ伏せて、セルフォマはトトスの車に揺られることになった。
そして、そんなセルフォマのかたわらには、カーツァなる少女の姿がある。この使節団の責任者にして彼女の養父たるリクウェルドが、そのように取り計らったのだ。ジェノスでは彼女がセルフォマの頼りであるため、少しでも心を通じ合わせておくようにと言い渡されていた。
『……私は王城で働く身となりますが、貴き身分の方々にお目見えする機会はあまりありません。礼儀の行き届かない面もあるかと思いますが、どうかご容赦ください』
セルフォマがそのように告げると、カーツァはあたふたと目を泳がせた。
『わ、私こそ、もともとは一介の武官の娘に過ぎませんので、礼儀も何もなっていません。きっとご面倒をおかけしてしまうでしょうが、どうかお許しください』
『……ですがあなたはリクウェルド様の養い子であり、王城の祝宴にも参席されていたのでしょう?』
『あ、あれはたまたまのことです。あの日はなるべく、幅広い世代の人間を集めるべしというお達しがあったようで……わたしは年若いという理由だけで、参席することになったのです』
そんな風に言ってから、カーツァは何かを懐かしむように目を細めた。
『あ、あの日のセルフォマ様の料理は、素晴らしい味わいでした。宮廷料理としての優雅さを保ちながら、下賤の身である私でも母の料理を口にしているような喜びを噛みしめることができたのです。私もリクウェルド様も、迷わずセルフォマ様の料理を選ぶことになりました』
『私は、様と呼ばれるような身分ではありません。それに、味比べの投票については内実を語らないのが礼儀であったような……』
『そ、そうでした! どうしても、あの日の喜びをお伝えしたかったので……ど、どうも申し訳ありません!』
そうしてカーツァは、またぺこぺこと頭を下げることになった。
少なくとも1年前にはもうリクウェルドに引き取られていたはずであるのに、貴族の作法はまったく身についていないようである。
(でも……あの日に授かった62票の内、2票はカーツァとリクウェルド様だったのか)
そして、高名なる貴族であるリクウェルドとリムの生まれであるカーツァの両方に満足してもらえたというのは、セルフォマにとって誇らしい限りであった。
そうしてセルフォマは奇妙な旅の道連れとともに20日間の旅程を過ごすことになったわけであるが――やはりその道は、安楽なものではなかった。
まず、立派な宿に宿泊できたのは最初の数日だけで、その後は天幕や車の中で夜を明かすことになったのだ。
ラオの都を出立した使節団の一行は、おおよそ西に直進している。南方に広がるリムの領地は通らずに、すぐさま自由国境地帯に突入したのだ。
自由国境地帯には、自由開拓民の集落しか存在しない。そして、自由国境地帯も自由開拓民も、セルフォマにとっては名前しか知らない未知なる存在だ。自由開拓民も四大神の子であることに変わりはなかったが、王国に税を納めない代わりに庇護を受けることもかなわないという、都の人間にとっては獣に等しい存在であった。
『で、でも、自由開拓民の方々はみんな優しくて、心も温かいように思います。ちょっと乱暴な面はあるかもしれませんけれど……私は、好ましく思います』
カーツァは、そんな風に語っていた。どうやら彼女の故郷では、自由開拓民との交流があったようである。
しかしセルフォマは、深く聞きほじろうとは思わなかった。故郷の話に言及すると、どうしても家族の話にまで及んでしまうためだ。カーツァはいかにも繊細な気質であるようなので、痛みをともなう話題には触れたくなかった。
(私は祖父母と生き別れて、母さんは魂を返してしまったけど……でも、父さんと6人の同胞がいる。たったひとりでラオの都に引き取られたカーツァよりは、よっぽど幸せなはずだ)
リムの城下町で生まれたセルフォマにとって、戦禍で家族を亡くすというのは想像もつかない苦しみである。カーツァがどれだけ気弱げな姿をさらしていても、責める気持ちにはまったくなれなかった。
(カーツァはまだ15歳だっていう話だから……私がラオに移り住んで、2年ぐらいの頃か。そんな年ですべての家族を失うだなんて、想像がつかないよ)
セルフォマは13歳でラオに移り住み、18歳の年に母を失い、19歳で王城の料理番となって、21歳で副料理長の座を獲得した。それから1年でこのような大役を担うことになり、十分に激動の人生を送っているように自認していたが――このカーツァは、それよりも苦難に満ちた生を生きているのだろうと思われた。
(まあ、高名な貴族に引き取られたのなら、安楽な行く末が約束されてるのかもしれないけど……でも、たった15歳でこんな役目を押しつけられてるんだもんね)
カーツァは心が弱いため、たびたび表情を乱して不安や焦燥の思いをあらわにしていた。セルフォマはそんなカーツァの姿を見守りながら、決してくじけるものかと心を律することになった。
そしてその長い道中においては、カーツァともどもリクウェルドの立派な車に招かれる機会も多かった。そうして同じ車に揺られながら、東の王家とジェノスの内情について明かされることになったのである。
『本来であれば、料理番たるあなたにお伝えするような話ではありません。ですが、実情を知らなければジェノスでおかしな誤解が生じる恐れもありますため、私の裁量でお伝えすることにいたしました。くれぐれも、他言無用にてお願いいたします』
そんな前置きとともに語られた実情というのは、実に驚くべき内容であった。
そもそもは、第二王子こそが王子殺しの首謀者であると疑っていた第七王子がさらなる力を求めてジェノスを訪れたことが、発端であったらしい。そうして暗殺者の魔手はジェノスにまで及び、それを撃退したのがジェノスの人々であるのだという話であった。
そうしてジェノスの人々が暗殺者を捕縛したために、真なる首謀者が発覚した。
そしてその折には、ジェノスの人々も暗殺者の手管によって鴉の群れに襲われたらしい。
それで東の王家の人々は、ジェノスの人々に深く感謝するのと同時に、多大な迷惑をかけたことに賠償を果たさなければならなくなった――簡単にまとめると、そういう話であるようであった。
『よって我々は誠心誠意、ジェノスの方々に謝意をお伝えしなければなりません。あなたがたも東の王都の民として、くれぐれも非礼のないように身をつつしんでください』
『しょ、承知いたしました。……でも、第七王子殿下はどうしてジェノスという地を頼ることになったのでしょう? まさか、武力をお借りすることが目的だったのでしょうか?』
カーツァがおずおずと問いかけると、リクウェルドは珍しくも嘆息をこぼした。
『カーツァ。あなたの明敏さは美点に他なりませんが……我々が生きる世界において、むやみに好奇心をあらわにするのは危険なことであると思し召しください』
『も、申し訳ありません! 王子殿下が西の王国を頼るというのが、あまりに不可思議に感じられてしまったので……』
『……そうですね。誤解のないように、そちらも真実を告げておきましょう。くれぐれも、他言無用ですよ?』
そうしてリクウェルドは、驚くべき言葉を口にした。
『王子殿下がジェノスでお求めになられたのは、ひとりの料理番です。王子殿下はその料理番こそが「星無き民」であると判じて、その力を手中にしようと考えられたようです』
カーツァはきょとんと、目を丸くする。とても愛くるしい所作であったが、東の民には不適切な表情の動きであった。
『「星無き民」……というのは、王国に大いなる力を与えるという伝説の存在のことですよね? たとえば、「白き賢人ミーシャ」のような……王子殿下は、そのようなものが本当に存在すると信じてらっしゃるのでしょうか?』
『第七王子殿下は、いまだ10歳の若年であられるのです。それで暗殺の不安をも抱えておられていたのなら、お心を乱して道理に反する行動に出ても不思議はありますまい。……カーツァ。余人の耳のあるところで、決してそのように不敬な言葉を口にしてはいけませんよ?』
『は、はい! 申し訳ありません!』
ぺこぺこと頭を下げるカーツァを横目に、セルフォマは呆れ返っていた。『星無き民』も『白き賢人ミーシャ』も、セルフォマにとっては御伽噺の存在であったのだ。王子たる身分にある人間がそんなものにすがろうなどというのは、確かに信じ難い話であった。
(まあ、10歳の幼子だったら、しかたないか。それにしても……料理番が『星無き民』だなんて、突拍子もない話だなぁ)
一介の料理番が、どのようにして王国に大いなる力を与えるというのか。熟練の吟遊詩人でも、そんな伝承をひねりだすのは困難の極みなのではないかと思われた。
そんな具合に、道中の日々は流れ過ぎていき――
王都を出立してから21日目に、使節団はジェノスに到着することになった。
セルフォマにとっては、初めて足を踏み入れる異国の地である。
セルフォマはいよいよ背筋をのばしながら、おのれの運命に立ち向かうことになった。
(言葉すら通じない、西の王国……しかもここには、南の民もたくさん行き来してるんだ。何があっても慌てないように、ずっと気を引き締めておかないとな)
リムの都とラオの都しか知らないセルフォマは、もちろん仇敵たる南の民と遭遇した経験もない。そちらに対する警戒に関しては、道中でもさんざん聞き及んでいた。
何せジェノスの都には、ジャガルの王子の娘などというものが滞在しているという話であったのだ。西の地において東と南の民が争うのは大きな禁忌であるとのことで、セルフォマはくれぐれも身をつつしむようにと言い渡されていた。
(しかもその娘は、調理の技術を学ぶために滞在しているなんていう話だもんね。王家の人間が調理を学ぶなんて、とんだ道楽だ)
そんな思いを胸中に秘めながら、セルフォマはついに西の地に降り立った。
少し前からずっと雨天が続いているため、使節団の人間は誰もが革の外套を纏っている。この辺りの地域は、ちょうど雨季という時節のさなかにあるそうであるのだ。それでずいぶん気温も下がっているのだという話であったが、ラオと比べても特別に寒いという感覚はなかった。
灰色に陰った空の下には、巨大な城が立ちはだかっている。足もとの地面も背後の城壁も目の前の城も、すべてが立派な石造りだ。ラオの王城はもちろんリムの城と比べてもささやかな規模であったが、辺境区域の侯爵領と思えば立派なたたずまいであった。
そうしてセルフォマがカーツァとともにリクウェルドのかたわらに控えていると、やがて数名の武官を引き連れた西の人間が笑顔で近づいてきた。
実のところ、セルフォマは西の民というものもほとんど見かけた覚えがない。風聞で聞く通り、西の民というのは男性であってもセルフォマていどの背丈で、乾酪のように黄色がかった肌をしており――その人物に限っては、ころころと丸っこい身体つきをしていた。
その人物は屈託のない笑顔で、ぺらぺらと何かを喋っている。
しかし、セルフォマには聞き取ることができない、西の言葉だ。ときおり『ジェノス』だとか『トトス』だとかいう聞き馴染みのある単語も入り混じったが、その発音も微妙にシムとは異なっていた。
『……え、遠路はるばる、お疲れ様です。僕はジェノスの外務官補佐役のポルアースと申します。20日間にも及ぶ長旅で、さぞかしお疲れのことでしょう。トトスと車はあちらにご案内しますので、みなさんは城内にてごゆるりと身をおやすめください。……と、仰っています』
と、カーツァがさっそく通訳係としての役目を果たしてくれた。
しかしその声が、いつにも増して弱々しい。セルフォマがそちらを振り返ると、カーツァはいくぶん虚ろな眼差しで頼りなく上体を揺らしていた。
『どうしたのですか、カーツァ? 体調が思わしくないのでしょうか?』
『い、いえ、大丈夫です。どうぞお気になさらないでください』
カーツァはそのように語っていたが、明らかに普通の様子ではない。
すると、リクウェルドが会話の切れ目でさりげなくカーツァに向きなおった。
『カーツァは、熱でも出してしまったのでしょうか? 明日に備えて、今日は身を休めなさい』
『い、いえ、大丈夫です。これぐらいのことで、お役目を二の次にするわけには……』
『あなたとセルフォマのお力を借りるのは、早くても明日以降のことになるでしょう。そちらで十全に力を振るえるように、身を休めなさい。これは、使節団の責任者としての命令です』
そうしてカーツァの身はリクウェルドが連れてきた従者の手に託されて、別室に案内されることになった。
セルフォマはリクウェルドとともに、巨大な城門へと歩を進める。同行するのは書記官なる人物と、深い紫色の外套と面布で人相を隠した2名――これは、第二王子の臣下であった。
にこにこと笑うポルアースの案内で、一行はジェノス城の奥深くへと導かれていく。その道中で、リクウェルドはそっとセルフォマに囁きかけてきた。
『不自由をかけますが、あなたはこのままご同行ください。必要があれば、私が通訳の役目を果たしますので』
『はい。こちらこそ、お手数をかけて申し訳ありません』
『不始末を犯したのはカーツァなのですから、あなたが詫びる必要はありません』
リクウェルドの作法は完璧であるために、内心がまったくうかがえない。
カーツァの不始末に対して、どのような気持ちを抱いているのか――セルフォマとしては、いささか気にかかるところであった。
(あまりカーツァを怒らないであげてほしいけど……私なんかが差し出口をきく立場じゃないもんな)
そうしてセルフォマは内心を押し隠しながら、両開きの扉をくぐることになり――そして、仰天することになった。
そこは謁見の間と思しき部屋であり、敷物に西の貴族たちが座している。
そして別の敷物には、東の民の少年と黒豹が座しており――その少年も周囲の従者たちも、みんな藍色の面布で素顔を隠していたのだ。
(まさか……これが、第七王子殿下なの?)
セルフォマたちが歩を進めていくと、西の貴族たちは礼儀を示すために腰を上げた。
しかし、少年だけは座したままである。そしてリクウェルドたち4名が恭しげに膝を折ったため、セルフォマも慌てて後に続くことになった。
だが、その少年が西の言葉で何か告げると、リクウェルドたちはすみやかに身を起こす。事情がわからないセルフォマは、ひたすらそれに従うしかなかった。
その後は、ジェノスの貴族たちと西の言葉が交わされる。
それでセルフォマたちは、いったんそちらの部屋を出ることに相成った。
『我々はこれから別室にて、王陛下のお言葉をジェノスの方々にお伝えすることになります。そして数刻の後には森辺の方々をお招きして謝意をお伝えすることになる手はずですので、あなたはそれまで控えの間でお待ちください』
『承知いたしました。……あの、さっきのあの御方は……』
『はい。第七王子ポワディーノ殿下であられます。ジェノスの方々に礼を尽くすため、ああして貴き御身を人目にさらしておいでなのでしょう』
やはり、それが真実であったのだ。
雲の上の存在たる王家の人間を目の当たりにして、セルフォマは今さら背筋を震わせることになってしまった。
(まさか王子が、あんな無造作に自分の姿をさらすなんて……やっぱり、幼いせいで道理をわきまえていないのかなぁ)
セルフォマはそんな風に考えたが、すぐさま自分の浅慮を思い知らされることになった。二刻ばかりも漫然と過ごして、再び謁見の間に呼び出されると、また第七王子が敷物で待ち受けており――そして、その威厳と風格を真っ向から浴びせかけてきたのである。
『其方が王城の副料理長、セルフォマであるな。女人たる身で、足労であった。世話をかけるが、東と西の正しき絆のために力を尽くしてもらいたい』
セルフォマに向けられたのはそんな尋常な挨拶の言葉のみであったが、その沈着なる声音には王子らしい威厳が満ちあふれている。そして、先刻よりも間近から相対すると、その小さくてほっそりとした身からも重々しい威厳の気配が感じられてならなかったのだった。
(王子に非礼があったら、首を刎ねられておしまいだ。死力を尽くして、身をつつしまないと)
そんな決意を胸に、セルフォマもまた敷物に膝を折った。
第七王子はもちろん敷物を分けられており、斜めの向かいには西の貴族たちが座している。そして、三角形を描く形で配置されたもう一辺の敷物だけが無人であった。
『これから、森辺の方々があちらにいらっしゃるそうです。どうも森辺の民というのは自由開拓民とも趣の異なる特別な存在であるようですので、あなたは心を乱さずにお過ごしください』
隣に座したリクウェルドが、小声でそのように告げてきた。
第七王子が着目した料理番というのが、森辺の民という一族であったようなのだ。それはジェノスの領民でありながら山麓の森で暮らすという、謎めいた一族であるとのことであった。
(そんな一族の料理番が『星無き民』あつかいされるなんて、ますますわけがわからないな)
ともあれ、森辺の民というのも騒乱を収めるために、大きく貢献したらしい。第七王子から勲章を授かった人間の半数ていどは、森辺の民であるとの話であったのだ。はからずも使節団の一員に組み込まれたセルフォマとしては、せいいっぱい礼を尽くすしかなかった。
それからしばらくののち、森辺の民の到着が告げられて――やがてポルアースなる貴族の案内でもって、それらの面々が姿を現した。
それでまた、セルフォマは愕然としてしまう。
それは、一種異様な迫力と存在感を備え持つ人々であったのだ。
彼らの大半は、西の民とも思えない浅黒い肌をしていた。
妙に立派な朱色の肩掛けを羽織っているが、その下は粗末な装束だ。足に巻きつけた革の履物も存分に古びており、とうてい城に足を踏み入れられるような風体ではなかった。
しかし、身に纏っているものなど、些細な話である。
彼らはまるで、野獣の群れのように生命力をみなぎらせていた。
8名中の5名は東の民にも負けない上背で、しかも岩塊のように頑強な体格をしている。とりわけ黒褐色の髪をたてがみのようになびかせた人物と奇妙な丸い帽子をかぶった人物は面相も野獣じみており、シムではあまり見られない立派な髭をたくわえていた。
だが、セルフォマがひときわ目を引かれたのは、その中でただひとりの女人である。
彼女は黄金と銀を溶かし込んだように美しい金褐色の髪と宝石のごとき青い瞳をしており、その面立ちもきわめて端麗であったが――周囲の大男たちに負けないぐらいの迫力をかもし出していた。
もう1名、すらりとした体躯をした若者はそれらの面々に比べるとまだしも大人しげであったが、それでも若き狼という風格だ。
また、それだけの気迫と生命力を匂いたたせつつ、誰もが静謐な雰囲気を保持している。それがまた、むやみに吠えない野生の獣を彷彿とさせるのである。
そして――ただひとり、雰囲気が違っている人間がまぎれこんでいた。
いや、雰囲気そのものに大きな違いはないのだが、その人物だけ妙にやわらかなたたずまいなのである。なおかつ、ひとりだけ肌の色合いが淡いために、そういう印象になるのかもしれなかった。
彼はまるで東の民のように、漆黒の髪と瞳をしていた。
肌は黄白色だが、よく日に焼けている。いかにも優しげな面立ちであるが、現在は引き締まった表情をしており、セルフォマたちに検分の視線を走らせていた。
年齢は、セルフォマよりもやや若いぐらいであろうか。
背丈は、セルフォマと同程度である。西の民の男性としては、それなりの上背なのだろうと思われた。
ジェノスの貴族たちに比べれば十分に野性味にあふれているが、森辺の民の中にあっては柔和で人間がましい姿である。
ただその黒い瞳には、周囲の者たちに負けない意志の力が感じられる。
その奇妙な若者こそが、第七王子に『星無き民』と見なされた料理人――森辺の民、ファの家のアスタであったのだった。
◇
使節団がジェノスに到着して、3日目のことである。
その日がついに、セルフォマの出番であった。ジェノスの料理人を一堂に集めて、東の王都から運び込んだ食材の扱い方を指南するのだ。
ジェノス城から貴賓館なる屋敷に身を移されたセルフォマは、控えの間で落ち着かない時間を過ごしている。
貴人とは別室であるため、セルフォマのそばにいるのはカーツァのみだ。カーツァは昨晩ようやく復調したとのことで、今はひたすら恐縮しまくっていた。
『き、昨日も一昨日もお役目を果たせなくて、本当に申し訳ありませんでした。これからは、死力を尽くして励みますので……ど、どうかお許しください』
『20日もかかる長旅であったのですから、体調を崩してもおかしなことはありません。それに、私のお役目は今日からが本番ですので、昨日まではカーツァのお力を頼る場面もありませんでした』
そのように答えつつ、セルフォマはずっと気にかかっていたことを問い質した。
『それよりも、そちらは大丈夫でしたか? リクウェルド様に、叱責されたりはしませんでしたか?』
『は、はい。昨日も一昨日も、リクウェルド様には身をいたわっていただいて……こんな不始末ばかりの私に、もったいないことです』
と、カーツァは黒い頬に血の気をのぼらせつつ、うつむいてしまう。それが今にも微笑みをこぼしそうな所作であったため、セルフォマはほっと息をついた。
(傍目にはわかりにくいけど、きちんと家族としての情愛が育まれてるんだな。余計な差し出口をしなくて、よかった)
そのとき、控えの間の扉が外から叩かれた。
ついに指南の開始かとセルフォマは意気込んだが、姿を現したのはゲルドの料理番プラティカであった。
『失礼いたします。私もみなさんとご一緒に入室するようにと申しつけられましたので、しばしお席を拝借いたします』
プラティカは、恭しげに一礼する。
しかしその身には、森辺の民に負けないぐらいの気迫がにじんでいた。
『そうですか。こちらこそ、よろしくお願いいたします。……カーツァとは、初対面でしょうか? カーツァ、こちらはゲルの藩主のお屋敷で料理番として働く、プラティカです。昨日までは何かと私に同行して、通訳のお役目を果たしてくださったのですよ』
『そ、そうだったのですか! ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした! 私はセルフォマ様の通訳として同行した、カーツァ=リム=エスクトゥと申します!』
『私はプラティカ=ゲル=アーマァヤと申します。同じ東の民が異郷の地で手を携えるのは、当然のことでしょう。みなさんのお役に立てて、喜ばしく思っています』
言葉の内容は殊勝であるが、やはりその紫色の瞳には鋭く激しい気迫の炎が宿されている。
ゲルドの民というのは雪山でムフルの大熊を狩る、勇猛なる一族であるのだ。ラオとの戦いに敗れたゲルドの民は、そうして北方の辺境で新たな力を育むことになったのだった。
ただこのプラティカは女人であり、ごく若年の頃に故郷を離れたという話であったので、実際に大熊を狩っていたわけではないのだろう。それでも彼女の身には、狩人としての血が流れており――そして彼女は、料理番としての使命に意欲を燃えさからせていたのだった。
(まさか、ゲルドの料理番までジェノスに滞在していたなんて……このジェノスっていうのは、いったい何なんだろう?)
ゲルの藩主の料理番ということは、リム城の料理番と同じような立場であるのだろう。そんな人間が異国に滞在して、調理の勉強に励んでいるというのだ。
そしてこのプラティカは、ジャガルの姫たるデルシェアについても語っていた。デルシェアというのは王家の人間でありながら卓越した腕を持つ料理人であり、王子たる父親を説き伏せてジェノスに滞在する資格を勝ち取ったのだという話であった。
(それで、あのファの家のアスタというのは、大陸の外で腕を磨いた凄腕の料理人、か……それがどれほどの腕なのかはわからないけど、少なくともプラティカやデルシェアが心を奪われるぐらいの力量ではあるわけだ)
本日は、そのファの家のアスタも来場する。
2日ぶりにあの奇妙な若者と相対して、セルフォマが食材の扱い方を指南するのだ。そのように考えると、セルフォマの胸には得も言われぬ熱情がわきたったのだった。




