東の王都の料理番(三)
2024.10/2 更新分 1/1
そうしてセルフォマは、また新たな生活に身を置くことになった。
王城の副料理長として、病身の父および6名の同胞とともに暮らす日々である。
『まさか、我々6名を公邸に招くとはな。そんな無茶な申し出がまかり通るとは、本当に驚くべきことだ』
こちらの公邸に家財を移した最初の夜、最年長の同胞は今にも笑みを浮かべそうな面持ちでそのように語っていた。
いっぽう、いまだ下働きに甘んじている同胞のひとりは実際に眉をひそめながら『まったくだ』と追従した。
『お前から話を聞かされたときは、目の前が真っ暗になってしまったぞ。そのように無茶な真似をして、せっかくの副料理長の座を失っていたらどうするつもりであったのだ?』
『勝算は、なくもありませんでした。実は、別なる公邸に住まうリムの武将という御方は、子飼いと称して何名かの同胞を同じ屋敷に住まわせていたのです。その名目は、見込みのある人間を立派な武官に育てあげるため、というものでしたので……武官に許されるのでしたら料理番にも許されるのではないかと、一縷の希望をかけることになりました』
『まさしく、一縷の希望だな。そしてセルフォマは、見事にそのわずかな希望を芽吹かせてみせたということだ』
最年長の同胞はやわらかく目を細めながら、長椅子で身を休めている父のほうを振り返った。
『やはりセルフォマの器量は、あなたをも上回っているのかもしれません。親として、これほど誇らしいことは他にないのでしょうな』
『うむ……私などには、過ぎた娘だ……』
そうして父に慈愛あふれる眼差しを向けられたセルフォマは、『おやめください』と涙をこらえることになった。
『それよりも、大変なのはこれからです。みなさんはさらなる飛躍を目指すという名目で公邸に住まうことを許されたのですから、何としてでも結果を出さなければなりません。まずは、そちらのおふたりが下働きの身から脱せるように、全員で力を尽くしましょう』
そうして、セルフォマの新たな生活が幕を開いたわけであった。
副料理長の座を勝ち取ったセルフォマは、これまで以上に過酷な日々である。セルフォマは父がどれだけの激務をこなしていたか、我が身で体感するに至ったのだった。
しかし同時に、それは大きな達成感を内包するお役目でもあった。
自ら調理するばかりでなく、時には献立の選定を任されて、他なる料理番たちに指示を出しながら、貴き方々が口にするのに相応しい料理を作りあげるのだ。料理番としてこれほど責任のある仕事が他にあるのかと、セルフォマは目が眩むような心地であった。
そしてセルフォマは副料理長の座を獲得したことによって、王城のさまざまな内情を知ることにもなった。
もっとも意想外であったのは、王や王子が口にする料理を手掛ける機会はそれほど多くない、という事実である。
王は専属の料理番を抱えており、王子たちは王子領の屋敷で過ごしているため、平常ではそちらの料理を食していたのだ。王や王子が王城の料理を口にするのは、祝宴と特別な晩餐会の日に限られていたのだった。
ただし、王と王子の他にも王家に連なる人間は多数存在する。子を生した王妃は王子領の屋敷で暮らし、子を生していない王妃は王と同じ場で料理を食しているようであるが、それを除く人間はおおよそ王城で暮らしているのだ。それらの細かい素性などは一介の料理番の知るところではないが、王の弟妹やその子供たちの数多くは、王城で安楽な生を過ごしているようであった。
『もしかしたら、この世でもっとも安楽な生を過ごしているのは、そういった方々であられるのかもしれんな。王家の血筋ということで贅を尽くした生活を送れるし、王位継承権が低ければ暗殺を恐れる必要もない。その気になれば、いくらでも怠惰に過ごせそうだ』
同胞のひとりは、そんな風に言っていた。むろん、盗み聞きの心配がない公邸においてのことである。王城や道端でそのような話を口にしていたら、いつ首を刎ねられてもおかしくはなかった。
そしてそれは、別なる内情の要素をも孕んだ話題であった。
暗殺――この近年では、その恐怖がラオの都にはびこっていたようなのである。
王子や重臣が暗殺されただとか、暗殺に失敗した王子が投獄されただとか、暗殺されかけた王子が正気を失って表舞台から退いただとか――この10年ばかりで、そんな恐ろしい話が何度となく繰り返されているようであった。
それは王家の権威にも関わる話であったので、市井の人間に詳細が知らされる機会はなかった。よって、すべては風聞であったが――その中には、セルフォマの人生に大きく関わる話も含まれていた。
まず、セルフォマの父を含めた10名の料理番がリム城から招聘された一件である。
それは王城で不始末を犯した料理番が数多く処断されたためと聞き及んでいたが、それもまた王子に毒の入った料理を供してしまったためであったのだ。
そして、同胞のひとりが棒叩きの刑に処されてリムに送還された一件である。
あれは、厨の香草が毒草にすりかえられていたことに気づかず、料理に使ってしまったためであった。その料理もまた、供された相手は王子であったようなのだ。
『噂によると、この10年以内でふたりの王子が身罷られて、ひとりの王子が正気を失い、ふたりの王子が投獄されたらしい。それで、7名も存在した王子も残りはふたりきりなのだそうだ』
『投獄って……それじゃあ、王子が他なる王子を暗殺したということなのですか? 兄弟同士で、そのようなことはありえないでしょう』
『噂なので、詳細はわからん。ただ、投獄されたのは叛逆罪に問われたためであり……実際に他なる王子を暗殺した王子は、今もなお健在であるという噂もあるようだな』
そんな話を聞かされた折、セルフォマは心の底から嫌悪を覚えることになった。たとえどのような理由があろうとも、血を分けた家族を害しようと目論むなど、セルフォマにとっては理解の外であったのだ。
(王子がお屋敷にこもっているというのは、幸いな話なのかもしれない。私はそんな人でなしのために、料理を作りたくないよ)
セルフォマはそのように考えたが、いざ厨に立ったならば私心を排して力を尽くすしかなかった。
王や王子の他にも、王城には大勢の人間が存在する。公邸で暮らす重臣の中にも王城で晩餐を食する人間は少なくなかったし、王城の最下層で過ごす使用人の食事を準備するのも料理番の役割であったのだ。そうして月に何度かは大きな祝宴が開かれるのだから、王城の厨が静まる日は1日だって存在しなかった。
しかしセルフォマは過酷な業務に励みながら、満ち足りた日々を過ごすことができていた。
父が病魔に倒れてしまったのは無念の限りであったが、それでも家に帰れば父や同胞と過ごすことができるのだ。セルフォマにとっては、それが何よりの幸いであったのだった。
王城における仕事は栄誉であり、またとない達成感を得ることができる。
しかし、家に待つ人間がいなかったならば、まったく立ち行かなかったことだろう。栄誉ある仕事と大切な同胞というのは、セルフォマが人生を駆けるために必要な左右の車輪に他ならなかった。
セルフォマがそんな幸せを噛みしめることがかなったのは、公邸に招いた同胞たちも同じ喜びにひたっていたからに他ならない。
ともに働き、同じ屋敷で暮らしている内に、彼らはどんどん活力をみなぎらせていき――最初の半年が過ぎた頃には、下働きの身に甘んじていた両名もこちらの厨に移ることが許されたのだった。
最年長の同胞などはめきめきと腕を上げて、次に機会が生じれば副料理長の座を狙えるのではないかと思えるほどである。
何もかもが、順調であった。
そうしてセルフォマたちの生活が、ようやく軌道に乗りかけたとき――その騒乱が巻き起こったのである。
時節としては、セルフォマが副料理長の座を担ってから1年近くが過ぎて、22歳となった年となる。
それは、正気を失って屋敷に引きこもっていた第五王子とその母たる第二王妃が王子殺しの嫌疑で投獄されるという、驚くべき騒乱であったのだった。
◇
『どうやら昔年にふたりの王子を暗殺したのは、その両名であったらしい。それで疑いの目をそらすために、正気を失ったなどという芝居を演じていたのだそうだ』
公邸の一室にて、耳の早い同胞がさっそくそんな情報をもたらしてくれた。
『しかもその両名はすべての疑いが第二王子に向くように仕向けつつ、残る第七王子や王陛下にまで魔手をのばそうと目論んでいたようだぞ。まったく、恐るべき話だな』
『……恐ろしいというよりも、おぞましいです。そんな人間が王子としてのさばっていたなんて、信じられません』
セルフォマがそのように応じると、その同胞は表情を乱さぬまま肩をすくめた。
『まあ、このような騒ぎが起きるのも、王家ならではなのやもしれん。そもそもは第二王妃が我が子を玉座につけるために、そのような陰謀を計画したようであるのだからな。王妃にとっては他の王妃が生んだ王子など、血の縁も存在しない邪魔者に過ぎないのだろう』
『噂や風聞と言いながら、このたびはずいぶん細かな話にまで言及されているのだな』
最年長の同胞がうろんげに問いかけると、耳の早い同胞は気安く『うむ』と応じた。
『どうも今回は、醜聞を隠すよりも迅速な解決というものを重んじたようだ。何せ、ふたりの王子殺しという大罪であるからな。第五王子の屋敷には何千という兵が突撃したようだから、それでは人の口に戸を立てることもままなるまい』
『そうか。まあ、東の王国としては一大事だが……料理番たる我々には関わりなきことだ。何が起きようとも心を乱さず、日々のお役目を果たすしかあるまい』
最年長の同胞はそのように語っていたし、セルフォマも同様の心境であった。
だが――真実は違っていた。その騒乱は、セルフォマの運命にも大きく関わっていたのである。
セルフォマがその真実を知ったのは、騒乱の風聞を耳にしてから数日後のことであった。ひさびさに料理長に呼び出されて、ふたりきりで語らうことになったのだ。
『このたび、西の王国のジェノスという地に、賠償の品として食材を送り届けることになりました。その選定を、あなたにお任せいたします』
セルフォマには、その言葉の意味が一片たりとも理解できなかった。
『お、お待ちください。西の王国に、賠償の品というのは……いったい何のお話なのでしょうか? 私は西の王国のことなど、何ひとつわきまえていないのですが……』
『現在そのジェノスなる地には、第七王子殿下が身を寄せておられます。そうしてジェノスの方々の協力を仰いで、叛逆者の大罪を明るみにしたという話であるのです。その騒乱の余波がジェノスにまで及んだため、賠償の品を準備する必要が生じたということですね』
そうして詳細をうかがってみても、セルフォマの混乱は深まるばかりであった。
第七王子が西の王国に出向いているなどというのは初耳であったし、こちらの騒乱がどのような形で西の王国に迷惑をかけたのかも、遠きジェノスの人間がどのような形で騒乱の解決に貢献したのかも、まったく想像がつかない。ジェノスという領地の名は、耳にした覚えがなくもなかったが――それはラオの王城でも非常に希少とされている、ママリアの果実酒や酢といった食材の原産地という知識でしかなかった。
『どうやらジェノスの立場ある方々は、東の王都との交易を望んでおられるようです。その中でも、ひときわ食材に大きな関心を寄せているというお話でありましたが……まあ、特別仕立てのトトスに車を引かせても、ラオの都からジェノスまでは片道20日がかりであるそうです。ラオが陸路でそれほどの大規模な交易を結んだ例はありませんので、実現は難しいことでしょう』
セルフォマの驚きなど知らぬ顔で、老齢の料理長は粛々と言葉を重ねた。
『ただし、交易が実現する可能性も皆無なわけではありません。そのために、こちらも国家間の交易に相応しい質量の食材を準備しなければならないのです。たとえ賠償の品として受け渡すのみに終わったとしても、質量に不備があれば王家の恥になってしまいますため、くれぐれも手抜かりは許されません』
『こ、国家間の交易に相応しい質量の食材というのも、私には見当がつかないのですが……』
『参考までに、ドゥラとの交易によって売買している食材の一覧表を準備いたしました。ドゥラとは海路によって交易しておりますので、量はこの一割で十分であるとのことです』
そうして手渡された書面を目にして、セルフォマはまた愕然とした。それはたとえ一割でも、何十台もの車が必要になる量であったのだ。
『ドゥラとの交易で使われている食材は日持ちにも問題ありませんので、その一覧の中から選出する形となります。ただし、この短い期間で十分な量を準備できるかどうか、調査が必要です。それも含めて、あなたに選定をお任せいたします』
『いえ、ですが――』
『そしてジェノスに食材を送り届けるからには、正しい扱い方を指南する必要が生じます。あなたには、そのお役目も担っていただきます』
今度こそ、セルフォマは雷に打たれるような衝撃を受けることになった。
『お、お待ちください。私にジェノスという地まで出向けというお達しなのでしょうか? そちらは片道で20日もかかるほど遠方の地であるのでしょう?』
『ええ。副料理長の身分にある人間がひと月以上も王城を離れるなど、通常ではありえない話ですが……王命とあらば、否やもございません。あなたの留守は残された人間で支えますので、どうぞ心配なく出立の準備をお整えください』
そうして料理長が部屋を出ていこうとしたので、セルフォマは懸命に引き留めることになった。
『お待ちください! どうして私が、そのようなお役目を担わなければならないのですか? あなたは……あなたはそれほどまでに、リムの民を疎んでらっしゃるのですか?』
料理長はゆっくりと振り返り、硝子玉のような目でセルフォマを見据えてきた。
『……私がそのような私心で、あなたを排斥するような人間であるとお考えなのでしょうか?』
『私だって、そうではないと信じたいです! それなら、どうして私なのですか? 数ある料理番の中から私を選んだ理由を、お聞かせください!』
『理由は、複数存在します。まずは王命によって、ジェノスに礼節を示すために立場のある人間を準備せよと申しつけられましたので、副料理長の中から選ぶ他ありませんでした』
料理長は如何なる感情も排した声音で、そのように言いつのった。
『それでまず、5名の副料理長の中から2名を除外いたしました。その片方は私と同程度の老齢であり、もう片方は腰を痛めておりますため、異国への長旅には耐えられないと判断した次第です』
『では、残る3名の中から、なぜ私を?』
『それはあなたが3名の中でもっとも食材に詳しく、あらゆる困難にあらがえるだけの気概を有していると判断したためとなります』
セルフォマはしばし言葉を失ってから、慌てて言いつのった。
『わ、私はこれほどの若輩者です。そんな私がもっとも食材に詳しいことなど、ありえないでしょう?』
『ですが、それが事実です。おそらくあなたはリムの民でありながら副料理長の座を獲得しようなどという遠大な夢を抱いていたため、誰よりも熱心に学ぶことになったのでしょう。あなたの知識および執念は、他者の追随を許しません』
『で、ですが……』
『また、もしも交易が実現するようでしたら、ジェノスにおいては多大な苦労を背負うことになるでしょう。言葉も通じない異国の地において、まったく見知らぬ食材を検分し、王都ラオにとって実りのある交易を実現しなければならないのです。リムから移り住んだあなたには、まだしも異郷で困難に立ち向かえる資質が備わっているはずです。このように例のない難題を乗り越えるには、あなたこそが適任であると判断いたしました』
そう言って、料理長は身をひるがえした。
『あなたの双肩には、ラオの王城の料理番の威信がかかっているのです。そのように心得て、懸命に励みなさい。……食材の選定は、3日後の中天までにお願いいたします』
かくして、セルフォマの運命はまた大きな変転を迎えることになってしまったのだった。
◇
『それはまた、ずいぶんな難題を持ちかけられたものだが……しかし、料理長の仰る通り、王命とあっては逆らうこともできまいよ……』
その夜、セルフォマがおさまりのつかない激情をぶちまけると、父はとても穏やかな声音でそのように語った。
『でも! 王命を受けたのは、料理長だよ! 私は料理長の一存で、そんなとんでもない仕事を押しつけられることになったんだよ!』
『それを言うなら、料理長とて王陛下じきじきにお言葉を賜ったわけではあるまい……まずは王陛下から宰相に、宰相から別なる重臣に……そこからさらに数名を経て、料理長に命令が届けられたのではなかろうかな……』
『同じことだよ! やっぱり、料理長は……リムの人間が疎ましいだけなんじゃないかなぁ?』
『お前がそのように考えるのは……おそらく、自分を低く見積もっているためなのであろうな……』
そう言って、父はすっかりしなびてしまった手でセルフォマの手を握ってきた。
『聞け、セルフォマよ……もしもお前が不始末を犯したならば、その責任を担うのは料理長であるのだ……お前は料理長に信頼されているからこそ、大役を担わされたのだ……』
『でも……あの人は、何を考えているのかさっぱりわからないし……』
『そうであろうか……あのお方は、何ひとつ心を偽らずに過ごしているように見受けられるぞ……お前とて、リムの民を王城の厨に迎えるのは不本意だと言い渡されているのであろう……?』
『うん、だから――』
『それでもあの御方は、出自よりも実績を重んじている……ご自身はリムの民を疎んでいようとも、力のある人間には相応の仕事を任せるべきであると決めているのだ……そうでなければ、私やお前が副料理長に選ばれることなど、ありえないのだからな……』
『でも、それは……味比べの勝負の結果でしょう?』
『しかし、お前を候補者に選んだのは料理長だ……そして、今回もな……』
父の手が、弱々しく力を込めてきた。
『それに……料理長が仰っていた通り、王城の副料理長がひと月以上もかけて異国におもむくことなど、通常ではありえん……お前は、他の誰にも望むべくもない経験を積むことができるのだ……異国におもむき、異国の食材に触れて、異国の料理人の手際を拝見する……それはきっと、お前の大きな糧になるだろう……代われるものなら、私が代わりたいほどだぞ……』
セルフォマは唇を噛みながら、父の手を握り返した。
『でも……私がそんなに長い間、王城を離れてしまって……他のみんなは大丈夫かなぁ? それに、父さんだって……』
『お前が不在にして腑抜けるようであったら、私があやつらの尻を叩いてやろう……どれほど落ちぶれても、杖を振るうぐらいはできるのだからな……』
そう言って、父はふいに口もとをほころばせた。
『だからお前は、心配なく大役を果たすがいい……他の者たちとともに、お前の帰りを待っているぞ……』
『うん……父さん、表情が乱れちゃってるよ?』
『うむ……お前があまりに、頑是ない顔をしていたのでな……』
そうしてセルフォマも表情を乱しながら、父の痩せた胸に取りすがることになったのだった。
◇
それから、4日後――セルフォマは、王城の厨ならぬ場所に足を向けることになった。
外務官の執務室なる部屋である。衛兵の案内でそちらまで出向くと、外務官たる壮年の男性と正体の知れない少女がたたずんでいた。
『あなたが副料理長の、セルフォマ=リム=フォンドゥラですね。私は次席外務官のリクウェルド=ラオ=バラストラと申します』
その人物はわざわざ敷物から腰を上げて、挨拶をしてくれた。
これほど高い身分にあるからには、確実に名のある貴族であろう。その顔は完璧なまでに無表情であり、至極なめらかな声音と口調が印象的であった。
『昨日、あなたが提出した書面を拝見いたしました。ジェノスに送り届ける食材は、これで問題ないようですね。あなたの迅速かつ的確な手際に、感服いたしました』
『……過分なお言葉、光栄な限りでございます』
副料理長たるセルフォマは祝宴や晩餐会の場で挨拶をさせられる機会もなくはなかったが、高名なる貴族とこうまで間近から言葉を交わすのは初めてのこととなる。それでもセルフォマは決して気圧されてなるものかと、懸命に背筋をのばしていた。
いっぽうリクウェルドなる人物は沈着そのものであったが――そのかたわらに控える少女のほうは、最初から気弱げに目を泳がせていた。
侍女にしてはしつけがなっていないし、身に纏っているのも貴族の平服といった趣である。年の頃は14、5歳で、なかなか端整な面立ちをしていたが、いかにも小心らしく縮こまっていた。
『ちょうどいいので、紹介しておきましょう。こちらは私の養い子である、カーツァ=リム=エスクトゥと申します』
リクウェルドのそんな言葉に、セルフォマは内心で仰天した。
『今、養い子と仰いましたか? ラオの都の重臣であられる御方が……リムの人間を、養い子に?』
『ええ。いささかご縁がありましたもので。……そういえば、我々には共通の友人が存在するようですね』
それでまた、セルフォマは驚くことになった。カーツァなる少女は、リムの武官の娘であり――その父親が、ラオの公邸で暮らすリムの武将のかつての部下であったのだそうだ。
『ジャガルとの戦いにより、カーツァはすべての家族を失いました。それでかつての上官であったその御仁が、私を頼ってきたというわけです』
そのように語ってから、リクウェルドは澄みわたった目でセルフォマを見つめてきた。
『ラオの貴族がリムの民を養い子としたのが、そんなにも不可思議に感じられますでしょうか?』
『あ、いえ……決して、そのようなことは……』
『確かにラオの都には、リムの民を見下す人間も少なくありません。ですが私は外務官という立場にありますため、異国の人間とも接する機会が多いのです。そうして異国の民と接していれば、同じ東の民を分け隔てる気持ちも薄らいでいくものであるのでしょう』
まるで他人の分析をしているかのような調子で、リクウェルドはそのように言いつのった。
『また、そうでなくともラオの民のすべてがリムの民を見下しているわけではありません。かの武将たる御仁のように、リムの民がどれだけ素晴らしい力を有しているか身をもって示している方々は少なくありませんし……あなたや父君とて、その一翼を担っていることに疑いはないでしょう』
『……リクウェルド様は、私の父のことまでご存じなのですか?』
『ジェノスまで同行していただくあなたのことは、ひと通り調査させていただきました。……それで判明したことですが、私とカーツァはずいぶん早くからあなたの手掛けた料理を口にしていたようですね』
セルフォマが眉を寄せるのをこらえていると、リクウェルドはなめらかなる声音で言葉を重ねた。
『副料理長の座を決定する味比べの勝負の一件です。それは祝宴の余興として執り行われていましたが、私とカーツァも参席していたのです。あのギャマの骨を出汁に使った汁物料理は、素晴らしい出来栄えでありました』
セルフォマは三たび愕然としたが、やはりリクウェルドは平静そのものの眼差しである。そしてその手が、カーツァのほうを指し示した。
『それはともかくとして、カーツァはあなたの通訳係として同行させることになりました。同郷の人間であれば、おたがい気が安らぐ部分もあるでしょう。長きの旅となりますが、何卒よろしくお願いいたします』
まだ心の定まらないセルフォマは、覚束ない調子で『はい』と応じる。
そしてカーツァなる少女は、セルフォマよりも覚束ない様子でずっと目を泳がせていたのだった。




