東の王都の料理番(二)
2024.10/1 更新分 1/1
・本日はコミックス版第11巻の発売日となります。ご興味をお持ちの御方はよろしくお願いいたします。
翌日――父とふたりで王城の厨に向かったセルフォマは、すぐさま料理長に呼び出されることになった。
老齢の料理長は昨日と同じく硝子玉のような目で、セルフォマを見返してくる。そして、いっさいの感情が欠落した声音で語った。
『セルフォマ。あなたは昨日の味比べにおいて、10名中の5名の方々から高い評価をいただき、勝利しました。その事実に関して、どのようにお考えでしょうか?』
『はい。王城の料理番として働く資格を授かったことは心よりありがたく思っていますが、半数の方々にご満足いただけなかったことを口惜しく思います』
セルフォマがそのように答えると、料理長はわずかに目を細めた。
『セルフォマ。私はラオの都で生まれ育ち、ラオの民としての誇りを抱いています。王家の方々が口にされる王城の料理はラオの民が作りあげるべきだと考えており、あなたや父君のようなリムの民に料理番の席が埋められていることを心より無念に思っています。なおかつ、あなたの父君を含めた7名に関しては王命によって招聘された身でありますため、是非もありませんが……あなたはひとり、事情が違っています。あなたが王城の料理番として働くことができるのは、ひたすらその腕を見込まれてのことであるのです』
『……はい』
『よって、あなたよりも優れた料理番を見出したならば、すぐさま首をすげかえる心づもりです。あなたがこの厨に居座るには、他なる料理番たちの倍ほどは力を尽くす必要があるでしょう』
『はい。父もそのようにして副料理長の座を授かったのでしょうから、私も死力を尽くして父の背中を追いかける所存です』
料理長は無言のままに首肯して、セルフォマをその場から追い払った。
そしてその後は、長らく料理長と口をきく機会もなかった。もっとも新参であるセルフォマには下ごしらえの仕事が割り振られて、料理長とも父たち副料理長とも関わることがなかったのだった。
しかしまた、そういった下積みの苦労に関しては、父からさんざん聞き及んでいた。言うまでもなく、セルフォマはこの厨でもっとも未熟な料理番であるのだ。料理人としての心がまえは父から学んでいるつもりであったし、小手先の技術に関してもそれなり以上の自信はあったが、それだけで王城の仕事が務まるとは考えていなかった。
そんなセルフォマの前にまず立ちはだかったのは、量の壁であった。
腕試しの場は10名分の料理であったのでどうということもなかったが、王城の祝宴などでは百名単位の参席者を招くことも珍しくないのだ。それだけ大規模な祝宴であれば、下ごしらえの作業も並大抵ではなかったのだった。
料理番に女人が少ないのは、きっと体力的な問題も大きいのだろう。
ひっきりなしに大量の食材や調理器具を運んでいるだけで、セルフォマの体力は見る見る奪われていった。最初の数日などは全身の節々が痛んで、朝方には身を起こすことさえ困難なほどであった。
そうして肉体が疲弊すると、舌の感覚までもが鈍ってくる。
疲れた人間は塩気や濃い味を求めるものだと聞き及んでいたが、セルフォマはついにその事実を我が身で体感するに至った。
くたびれ果てた日に香草を口にすると、普段よりも風味がぼやけて感じられる。当初のセルフォマは、自分が料理人としての力を失ってしまったのではないかと悪寒を覚えたほどであった。
そんなときに支えてくれたのは、父と――そして、リムの同胞たる6名の料理番たちである。
副料理長たる父とは厨で言葉を交わす機会はなかったが、同胞の中にはまだ下ごしらえやそれに準ずる作業を申しつけられている人間も多く、それらの面々とは仕事場で支え合うこともかなったのだった。
『セルフォマはその才覚を十全に活かせるように、まず体力をつけなければならんな。どれだけ疲弊して食欲を失おうとも、決して食事を二の次にしてはならんぞ』
『うむ。料理番が食事を二の次にするなど、笑い話にもならんからな。料理番として生きるには、料理を楽しむ気持ちを決して失ってはならんのだ』
『細身の女人がもてはやされるなど、トトスにまたがっていた時代の名残にすぎん。もっと食べて、好きなだけ肥え太るがいいぞ』
セルフォマたちが公邸に移り住んだため、他なる面々と顔をあわせることができるのは仕事場のみとなる。それでもセルフォマはこれまでと変わらぬ敬愛の思いを抱いていたし、彼らもまたセルフォマを実の娘のように思いやってくれたのだった。
そして夜には、父とふたりきりで過ごすことができる。
特別居住区で暮らしていた頃は数日にいっぺんしか帰ることもできなかったが、王城で働く人間の公邸というのは王城から遠からぬ位置に存在するため毎晩のように帰宅することがかなったのだ。
まあ、おおよそはおたがいに疲れ果てて、公邸に戻っても寝るだけの日々であったが、そのわずかな交流の時間がセルフォマを孤独から救ってくれた。
また、セルフォマと父の休日が重なることはほとんどなかったが、他なる6名とは誰かしらと休日をともにすることができたので、そういう日には特別居住区の彼らの家で調理の修練に励むのが常であった。
『セルフォマは、見るたびに腕を上げているな。王城の過酷な仕事をやりとげながら、大したものだ。お前なら、必ずや父と同じ道を目指せることだろう』
『いえ。私が力をつけることがかなったのは、みなさんのおかげでもあるのです。みなさんがまだ下ごしらえの当番に甘んじていることが不思議でなりません』
セルフォマがそのように答えると、同胞たる男性は寂寥に似たものを目もとににじませた。
『私とて、自分の腕に自信がないわけではない。しかしけっきょくは、リムの民であるからな。リムの民が王城で出世するのは、並大抵の話ではないのだ』
『そうなのですか? 力さえあれば出自など関係ないと信じて、私はここまで尽力してきたのです。現に父も、ああして副料理長の座を手にしたでしょう?』
『うむ。確かに力のある人間は、評価される。しかしな、おおよそ同じ力であった場合は、やはり出自が重んじられるのだ。リムの人間がラオの人間に打ち勝つには、明確な実力差を示さなければならんのだ』
そう言って、同胞たる男性は微笑むように目を細めた。
『セルフォマの父は、それをやってのけた。そしてセルフォマも、きっと成し遂げるだろう。お前たち父娘は、我々の誇りだ。どうかラオの王城で、リムの底力を見せつけてほしい』
そんな言葉を聞かされたならば、セルフォマの胸にもいっそうの熱い思いが渦巻くばかりであった。
そうしてセルフォマは、一心不乱に仕事を果たして――ちょうど1年が過ぎた頃、下ごしらえの立場から脱することがかなった。
父が副料理長に就任してからは2年が過ぎており、セルフォマは20歳である。本格的な調理が行われる新たな厨において、セルフォマよりも若年の人間はひとりとして存在しなかった。
(やっぱり力のある人間は、きちんと評価されるんだ。他のみんなが評価されないのは……きっと、私のせいなんだ)
同胞たる6名の料理番は、みんな家族を失ってしまった。それで誰もが躍起になって、セルフォマの育成に注力してくれたのである。1年の大半は厨と仮眠室で孤独に過ごし、たまにの休日にはセルフォマの修練に尽力して――自らの修練には、いっさい手間をかけてこなかったのだろう。家族を失った彼らには、目指すべき明るい行く末も存在しないのかもしれなかった。
(どうにかして、みんなの恩義に報いないと……私はもう、私ひとりの体じゃないんだ)
しかし現在は、セルフォマも父も自分のことで手一杯である。
他者に手を差し伸べるには、まず自分の足もとを固めなければならない。セルフォマはそのように信じて、また新たな環境で力を振り絞ることになった。
本格的な調理を受け持つには、いっそうの集中と覚悟が必要になる。むろん、最後の仕上げは立場のある人間に任せることになるわけであるが、セルフォマが失敗を犯せば下ごしらえをした食材が無駄になり、供する料理が不足する恐れもあるのだ。たった一度の失敗が立場を危うくすることは、誰に教えられるまでもなく察することができた。
そうして、時間は粛々と過ぎ去って――また1年ほどが経った頃、さらなる運命の変転がセルフォマに襲いかかってきた。
父が、病魔に倒れてしまったのだ。
幸い一命は取りとめたが、父は数日でげっそりと痩せ細り、杖がなければ歩けないほどに弱り果ててしまった。医術師によると、年齢が年齢なのでもう完全な回復は見込めないだろうという話であった。
しかし父は、いまだ50歳にもなっていない壮年である。
そんな齢で老人のように扱われるほど、父の肉体は過酷な仕事によって衰弱し果てていたのだった。
『ようやくお前の才覚が芽吹いたところであるのに、不甲斐ないことだ……無力な私を、どうか許してほしい……』
『父さんが無力だなんて、そんなことあるわけがないよ! これからは、私が父さんの分まで頑張るから!』
別人のように痩せ細った父の前で、セルフォマは涙ながらに誓うことになった。
そうしてその日もくじけそうになる心に鞭を打って、仕事場に向かうと――老齢の料理長がすべての料理番を一堂に集めて、驚くべき言葉を言い放ったのだった。
「先日病魔で倒れた副料理長は回復の見込みがないため、こちらの仕事場から去ることになりました。よって、この中から新たな副料理長を選出したく思います」
料理長は淡々と、その候補となる5名の料理番の名前を読み上げた。
その中に、セルフォマの名が含まれていたのである。
「ただいま名を呼ばれた5名には、こちらの鍋三杯分の汁物料理を作りあげていただきます。手伝いの人間は、こちらの厨で働く人間の中から自由にお選びください。刻限は、明日の下りの五の刻までとなります。各自、王城の料理番の名に恥じない品をよろしくお願いいたします」
その言いようからして、また何らかの味比べを計画していることは明白であった。でなければ、大きな鍋三杯分の料理を作らせる道理もないのだ。
然して、セルフォマの他に名前を呼ばれた4名は、いずれも熟練の料理番である。どうしてその中に新参で若年たるセルフォマが含まれているのかと、あちこちから猜疑の視線を向けられていたが――セルフォマに、そのようなものを気にしているいとまはなかった。
(父さんの代わりに、私が副料理長になるんだ。絶対に、その座を他人に渡すもんか)
このままいけば、セルフォマは父ともども城下町の特別居住区に戻されることになる。病身の父をひとり家に置いて、セルフォマはひとりで王城に通うことになるのだ。そうしてセルフォマは数日にいっぺんしか家に戻ることもできなくなるのであろうから、そんな運命を享受する気にはなれなかった。
『お願いします。どうか、みなさんの力をお貸しください』
セルフォマがそのように告げたのは、もちろん同胞たる6名の料理番たちであった。
その内の4名は快く引き受けてくれたが、残る2名は力なく首を振っていた。そちらの両名は、いまだ下ごしらえの当番に甘んじている身であったのだ。
『下ごしらえなど、どちらかひとりで十分だろう。いっそそれも、別なる料理番に頼むべきではないか?』
『うむ。少なくとも、我々より腕の落ちる人間は他にあるまい』
『下ごしらえもその後の調理も、この7名全員で行いたいのです。どうか、力をお貸しください』
セルフォマがそのように言いつのると、両名はぎょっとしたように目を見開いた。
『下ごしらえばかりでなく、その後の調理まで? 我々は、そちらの厨で作業をしたこともないのだぞ』
『こちらの厨だって、何か特別な造りをしているわけではありません。物珍しい食材に関しては、かつて父の家でともに扱ったでしょう? 私には、みなさんの力が必要なんです。私はまだまだ未熟ですので、気心の知れたみなさんでなければ十全に力を振るうこともできそうにないんです』
セルフォマの言葉に、最年長である人物がゆったりと口をはさんだ。
『他なる料理番たちは、内心でリムの民を見下している。そんな者たちに、セルフォマの手伝いを任せられるのか? これまでさんざん世話を焼きながら、最後の最後で期待を裏切るというのは、あまりに不義理であろうよ』
『しかし、我々は――』
と、言いかけたひとりが苦笑するように目を細めた。
『……そうだな。そんな逃げ腰でいるから、我々はいつまでも下働きの身に甘んじていたのだ。倒れてしまった父親の分まで、力を尽くすと約束しよう』
セルフォマはこぼれそうになる涙をこらえながら、『ありがとうございます』と一礼した。
そこにまた、料理長から招集がかけられる。腕試しの場は明日であったが、王城の料理番はそれと同時に本日と明日の食事も仕上げなければならないのだ。
『審査の対象となる5名は、それらのお役目から外れていただきます。それ以外の手伝いの人間は、あくまで本来の業務を優先するようにお願いいたします』
そうして本日の献立とその作業の割り振りが発表されて、一時解散となった折、最年長の男性がセルフォマに語りかけてきた。
『私は本来の業務でも、けっこうな仕事を任されてしまった。この分だと、そちらを手伝えるのは今日の夜間と明日の朝方ぐらいであろうな』
『ええ。きっとそういう人手のやりくりも、副料理長に必要な資質であるということでしょう。私は必ず、乗り越えてみせます』
『うむ。セルフォマであれば、きっと望みを達することができよう』
セルフォマは大いなる意欲を胸に、厨から退室した。
まずは、献立の考案である。この人数で不足なく調理できて、なおかつ万人に認められる献立を選ばなくてはならなかった。
(何も奇をてらう必要はない。みんなに喜んでもらえるような料理を準備するんだ)
セルフォマは、この王城の厨の他に働いた経験がない。
しかしその代わりに、幼少の頃から厨に立っていた。父に手ほどきを受けながら、家族のために食事をこしらえていたのだ。その頃は両親ばかりでなく、母方の祖父母とも同居していたのだった。
幼い自分と、両親と、そして祖父母が同じように楽しめるような料理を、セルフォマはずっと手掛けていたのだ。
なおかつ当時から、父はリム城の料理番であった。貴族を相手に食事を作りあげていた父から、セルフォマは手ほどきを受けていたのだ。ラオの王城の人間ほどではないにせよ、リムの貴族だってそれなりに舌は肥えているはずであった。
(そういう経験が、私の持っている強みなんだ。それでラオに移り住んでからも、父さんやみんなに手ほどきされてたんだから……たとえ一番の若輩者でも、後れを取ってたまるもんか)
そうして短からぬ時間をかけて献立を考案したセルフォマは、下ごしらえを受け持つ厨へと足を向けた。
そちらでは、本日の夜の食事に向けた下ごしらえが進められている。同胞たる2名もその作業に勤しんでいたが、セルフォマの入室に気づくとその片方が駆けつけてきた。
『どうしたのだ、セルフォマよ? さすがに明日の下ごしらえを始めるには、早かろう? 我々も、しばらくは手が空きそうにないからな』
『はい。今は私ひとりで十分です。あちらのかまどは、夜まで空いているでしょうか?』
『それはまあ、火を使う下ごしらえなど、限られているからな。しかし、こんな刻限から何をしようというのだ? セルフォマが準備するのは、明日の夜に食される料理なのだぞ?』
『今から夜まで、ギャマの骨を煮込みます。不要の骨は、あちらでしたね』
セルフォマが勝手知ったる厨を横断すると、その人物も大慌てで追従してきた。
『まさか、ギャマの骨の出汁を使おうというのか? あれはさすがに臭みが強すぎるし……臭みを取るには、大変な手間がかかろう』
『はい。リムで暮らしていた頃は、しょっちゅうギャマの骨から出汁を取っていたのです。母方の祖父の、好物でしたので』
セルフォマは微笑みそうになるのをこらえながら、そのように答えた。
『でも、私の母は、ギャマの骨の臭みを苦手にしていました。それで父が、絶妙なる臭み取りの手段を編み出したのです。ギャマの旨みを十全に残しながら臭みだけを除去するという、素晴らしい手法なのですよ。私はそれを駆使した料理で、勝負をかけようと思います』
『……そうか。その気骨は、確かに父親ゆずりなのだろうな』
その人物もまた、微笑みをこらえるように口もとを引き締めた。
『ならば、好きにするがいい。夜までに、私が受け持つ仕事の内容を考えておいてくれ』
『承知いたしました。そちらもどうか、手抜かりのないように』
『うむ。セルフォマを手伝う前に首を刎ねられたら、死んでも死にきれぬからな』
そうしてセルフォマは、ひとりギャマの骨を煮込む作業に従事することになったのだった。
◇
翌朝である。
外が明るくなる前から起床したセルフォマは、寝所で眠る父の姿を見届けてから王城の厨に向かった。
早朝の王城に出入りできるのは、料理番の特権であろう。貴き方々のために食事を作りあげるには早朝からの下ごしらえも必要になるので、無条件で入城を許されるのだ。ただしもちろん出入りできるのは厨だけで、他の通路は衛兵たちに固く守られていた。
そうして下ごしらえの厨に向かうと、そちらはすでに熱気がたちこめている。
他なる候補者の4名も、下ごしらえを開始しているのだ。この後はまた手伝いの人間も本来の業務に忙殺されるため、この早朝こそが働きどきであったのだった。
『遅かったな。公邸通いというのも、なかなか不便なものではないか』
そのように告げてきたのは、最年長の同胞である。彼らは仮眠室で一夜を明かしたため、すでに6名全員が顔をそろえていた。
『はい。できれば私も仮眠室をお借りしたかったのですけれど、昨晩は空きがないと断られてしまいました』
『仮眠室は四人部屋なので、セルフォマを男と同衾させるわけにはいかなかったのだろう。そうでなくとも、昨日はひときわ大勢の人間が泊まり込んでいたしな』
最年長の同胞は、穏やかな眼差しで厨を見回した。
『自分が手伝った人間が副料理長に選出されれば、のちのちの出世に有利だと考えているのだろう。誰もが眠い目をこすって、必死に働いているようだぞ』
『はい。みなさんも、どうぞ期待していてください』
セルフォマが冗談めかして言うと、6名全員が優しく目を細めてくれた。
『それでは、作業を始めよう。取り仕切りを頼むぞ、未来の副料理長殿』
◇
そうしてその日は早朝から夕刻まで、セルフォマたちは休むいとまもなく働くことになった。
セルフォマは自らの料理に没頭し、他なる6名は本来の業務との同時進行である。それはきわめて複雑な進行であり、いっそう目の回るような忙しさであったが、この夜の腕試しに関わる人間はおおよそ同じ苦労を背負っているのだろうと思われた。
そんな苦労とも無縁であるのは、誰からもお呼びがかからなかったごく一部の人間と、あとは料理長および4名の副料理長のみであった。もちろん料理長たちは腕試しの調理にいっさい関わることなく、ただ本来の業務の狭間に候補者たちの働きっぷりを鋭く検分している様子であった。
普段以上に過酷な労働に従事しているセルフォマは、疲労困憊である。
しかし昨晩は可能な限り、睡眠の時間を確保した。余人よりも体力で劣るセルフォマはきちんと体調を管理して、舌の鋭敏さを保たなければならなかったのだ。気合や信念だけでどうにかできるほど、調理の仕事は甘いものではなかったのだった。
そうして約束の刻限であった、下りの五の刻――セルフォマの料理は、完成した。
ギャマの骨を出汁に使った、汁物料理である。
数々の香草に、ゲルドやドゥラの産物である貝醬にマロマロのチット漬け、マヒュドラのドルーという野菜も使っている。ドルーを使った汁物料理は真っ赤に染まってしまうし、そこにマロマロのチット漬けまで加えられて、沸騰する溶岩のような趣であった。
しかし、出汁の臭み取りは完璧であったし、ギャマの肉と魚介の食材の調和にも不備はない。セルフォマは理想に思い描いた料理を作りあげることがかなったため、あとは天命に託するしかなかった。
『私は、またとなく美味であると思うぞ。こんな言葉を告げても、セルフォマを怒らせるだけかもしれんが……もはやセルフォマは、父をも超えているのかもしれんな』
最年長の同胞は、そんな風に言ってくれた。
『怒ったりはしませんが、過分なお言葉ですね。私なんて、父に比べればまだまだ未熟者です』
『ふむ。そのような弱腰で、副料理長の座を手中にできるのであろうかな?』
『はい。父は、料理長の器ですので』
疲れ果てた状態における、放埓なやりとりである。セルフォマのもとに集った6名は、今にも表情を崩してしまいそうなほど弛緩していた。
そしてそれは、他なる料理番の面々も同様である。候補者の手伝いに加わった者たちは、誰もがぐったりとした姿をさらしていた。
『今日の仕事は、これまでです。副料理長の候補者たる5名は控えの間にて待機して、残る人間は明日に備えて帰宅なさい』
厳粛なる料理長に一喝されて、料理番たちは重い腰を上げることになった。
『それではな。吉報を待っているぞ』
セルフォマの同胞たる6名も、順次帰宅していった。
きっと今日は誰かの家に集って酒盛りをしたあげく、同じ場所で眠るのだろう。彼らのそんな姿を想像しただけで、セルフォマは胸が詰まってしまった。
(やれることは、やりきった。あとは……神々に祈るだけだ)
他なる4名の候補者とともに控えの間に移されたセルフォマは、自制もきかずに椅子で眠りこけることになった。
その眠りを破ったのは、やはり料理長の声である。
『起きなさい。こちらは恐れ多くも王陛下のおわす王城であり、あなたがたはいまだ仕事のさなかなのですよ』
何かぼんやりと夢を見ていたセルフォマは、慌てて背筋をのばすことになった。
控えの間には、料理長と4名の副料理長が立ち並んでいる。父の姿がないことを除けば、2年前と同じ様相だ。そしてセルフォマもあの夜と同じぐらい、胸を騒がせることになった。
『あなたがたが準備した料理は、本日王城にて開かれた祝宴にて供されました。そちらで百名にも及ぶ方々によって、厳正なる味比べの勝負が行われました。……また、その結果を踏まえて王陛下からも副料理長の決定にお許しをいただけたことを、事前にお伝えしておきます』
『お……王陛下も、我々の料理を口にされたのでしょうか?』
候補者のひとりが上ずった声をあげると、料理長は硝子玉のような瞳でそちらを見据えた。
『王陛下を始めとする王家の方々も、一杯ずつ味見をしてくださいました。無論、王家の方々が味比べの判定に加わることなどはありえませんが、結果にはご満足いただけたというお言葉を頂戴しております』
そうして料理長は、その結果を口にした。
『味比べの勝負に勝利したのは、六十二名の方々から高い評価をいただいたセルフォマとなります。本日この瞬間から、セルフォマを王城の副料理長に任命いたします』
控えの間は、水を打ったように静まりかえった。
事前に王の御意を得ていると宣言されたので、文句をつけることもできないのだろう。他なる候補者たちは、いずれも固く押し黙っている。
そして、セルフォマは――涙を止めることができなかった。
どれだけ心を律しても、次から次へと涙があふれかえってしまうのだ。その脳裏には、やつれ果てた父や6名の同胞や魂を返した母の面影が何重にも重なり合っていた。
『……セルフォマが副料理長に任命されたため、引き続き公邸に住まうことを許されました。使用人の追加などに必要があれば、後日に申請をお願いいたします』
それだけ言って、料理長は身をひるがえそうとした。
セルフォマは頬を濡らす涙を打ち払って、『お待ちください』と呼び止める。
『その件について、ご相談があります。使用人の追加は必要ありませんので、その代わりに同胞たる6名の方々を同じ場所に住まわせてくださいませんでしょうか?』
『……同胞たる6名? それは、こちらで働くあのリムの方々のことでしょうか?』
『はい。そちらの方々です。使用人などは父の面倒を見てくださるおひとりで十分ですので、空いている部屋を片付ければ6名の方々をお招きするのに不自由はないかと思われます』
料理長は硝子玉のような目を半分だけまぶたに隠した。
『あなたは、何を言っておられるのでしょうか? 公邸に住まうのは、料理長および副料理長のみに与えられる特別な権利です。一介の料理番に、そのような恩恵を分け与える理由は存在いたしません』
『ですが、公邸の住人に雇用される使用人も、同じ公邸で暮らすことを許されています。それらの使用人と同じように身をつつしんで過ごしていれば、どなたの迷惑になることもないのではないでしょうか?』
『……ですが、そのように取り計らう理由がありません』
『理由は、あります。そのように取り計らうことによって、あの方々は料理番としてさらなる力をつけることができるはずです。身寄りのない特別居住区では心が休まりませんし、仮眠室で眠るのも小さからぬ負担でしょう? 私と父を含めた8名が同じ場所で暮らすことによって、誰もが力づけられるでしょうし……私たちが手を携えればどれだけの力を発揮できるかは、本日証明されたかと思います』
それは昨日の段階から、セルフォマの胸中に満ちていた思いである。
それらの思いを、セルフォマは言葉として吐き出した。
『そうして王城の料理番が力をつければ、貴き身分にあられる方々により立派な料理をお出しすることがかないます。それを国益と称するのは、あまりに尊大な物言いでしょうか?』
『料理人が料理の価値を否定したならば、立ち行かない。……よって、私も反論できないだろうと考えてのお言葉でありましょうか?』
『そのように不埒なことは、考えていません。私はただ、王城の料理番たる者は何にかえても腕を上げることを第一に考えるべきだと思っているまでです。それに――』
『もうけっこうです』と、料理長は言葉と手ぶりの両方でセルフォマの言葉をさえぎった。
『何にせよ、私にそのようなことを決定する裁量は存在いたしません。あなたの要望は然るべき機関に申告しますので、追って沙汰をお待ちなさい』
『……承知いたしました。このような場で性急に懇願してしまった非礼をお詫びいたします』
『まったくです。あなたはまず、王城の副料理長に相応しいたしなみを身につけなければなりませんね』
そうして料理長は4名の副料理長とともに、退室していった。
そして4名の候補者たちも、無言のままに退室していく。後に残されたセルフォマは、半ば呆然と天井を見上げることになった。
(勢いまかせで、口にしちゃった……でも、かまうもんか。私たちばかりが、理不尽な運命に屈する必要はないはずだ)
そうしてセルフォマは、疲れ果てた身体に鞭を打って、父が待つ公邸に帰り――その翌日、自分の申し出が然るべき機関に了承されたことを告げられたのだった。




