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異世界料理道  作者: EDA
第八十九章 雨季の終わり
1539/1690

箸休め ~ナハムの家の朝~

2024.9/19 更新分 1/1

・書籍版第34巻発売記念のショートストーリーです。本日が第34巻の発売日となりますので、ご興味をお持ちの御方はよろしくお願いいたします。


 その日の朝、マルフィラ=ナハムは誰よりも早く目を覚ました。

 いそいそと身を起こしたマルフィラ=ナハムは、隣の寝具で眠る妹の姿に視線を落とす。現在は雨季であるために、妹は温かな毛布にすっぽりとくるまりながら、至極すこやかな寝顔をさらしていた。


 マルフィラ=ナハムはその可愛らしい寝顔をしばらく眺めてから、足音を忍ばせて寝所を出る。

 薄暗い通路を越えて広間に出てみたが、まだ誰もいない。マルフィラ=ナハムは落胆の息をつきつつ髪を結い、壁に掛かっていた雨具を胸もとにかき抱きながら、広間の端にひっそりと控えた。


 窓に掛けられた帳の向こうからは、擦過音のような雨の音が聞こえてくる。

 土間にうずくまった猟犬も、まだ眠りのさなかであるようだ。

 そうしてマルフィラ=ナハムが逸る気持ちを抑えながら、ひたすら座り込んでいると――やがて、通路のほうから出てきた母親が「わっ」と驚きの声をあげた。


「なんだ、マルフィラかい。そんな薄暗がりで、何をぼうっとしてるのさ?」


「お、お、おはよう。み、みんなが起きるのを待ってたんだよ」


「だったら、妹を起こしておいたらいいじゃないのさ。雨季だから暗いけど、もう夜は明けてるはずだよ」


「う、う、うん。で、でも、気持ちよさそうに眠ってたから、むやみに起こすのが可哀想で……か、母さんが起きたから、妹も起こしてくるね」


「いや、フェイ・ベイムもまだ眠ってるから、そんな急ぐことはないけどさ。……あんたは朝から、何を慌ててるのさ?」


 母親に真正面から問い質されて、マルフィラ=ナハムは目を泳がせることになった。


「じ、じ、実はね、朝の仕事が終わったら、かまどの仕事をさせてほしいんだけど……ゆ、許してもらえるかなぁ?」


「かまどの仕事? こんな朝っぱらから、なんの仕事さ?」


「き、き、昨日も話したでしょう? あ、あの竜の玉子っていう不思議な食材を使った、料理の考案だよ」


 本日は、送別の祝宴の2日前。今日中に竜の玉子を使った料理が完成したならば、宴料理として供しようという話になっているのだ。

 母親はけげんそうに小首を傾げながら、マルフィラ=ナハムの慌てた顔を見返した。


「あんたは昨日、自分なんかの料理が城下町の祝宴に供されるのは恐れ多いって言ってたじゃないか。その割には、ずいぶん熱心なことだね」


「う、う、うん。そ、それは今でも恐れ多いと思ってるけど……で、でも、アスタたちも期待してくれてるし……た、たとえ間に合わないとしても、すべての力を尽くさなきゃって思って……」


「そうかい」と、母親はやわらかく笑った。


「だったら、好きなだけ励むといいよ。他の仕事は、あたしたちが片付けておくからさ」


「そ、そ、それは悪いよ。か、かまど仕事にばかりうつつを抜かしていたら、父さんたちに叱られちゃうだろうし……」


「束ね役であるあたしがいいって言うんだから、いいんだよ。あんたは、束ね役の決定に逆らうつもりかい?」


 やわらかな笑みをたたえたまま、母親はそのように言いつのった。


「フェイ・ベイムが嫁入りして以来、人手にゆとりはあるからね。さあ、さっさと仕事を始めな。あたしは下の子を起こしてくるからね」


 そうして母親が通路の向こうに姿を消してしまったので、マルフィラ=ナハムも腰を上げるしかなかった。

 雨具をかぶって土間の履物に足を通すと、猟犬がぱちりとまぶたを上げてマルフィラ=ナハムを見上げてくる。そちらに「お、おはよう」と声をかけてから、マルフィラ=ナハムは玄関の外に出た。


 灰色の天空から、細い雨がしとしとと降っている。

 マルフィラ=ナハムは水たまりを避けながら、ひとりかまどの間に向かった。


 かまどの間は、もちろん無人である。

 マルフィラ=ナハムは食料庫から必要な食材を持ち運び、役目を終えた雨具を壁に引っ掛けたのち、ひとつ息をついた。


 雨季の間は薪を乾燥させるのが難しいため、決して無駄遣いは許されない。それでも母親は、朝から研究に取り組むことを許してくれたのだ。であれば、この時間を無駄にすることは許されなかった。


(たぶん、ギバの骨の出汁を使ったら、うまく味がまとまると思うんだけど……薪をいっぱい使っちゃって、ごめんなさい)


 マルフィラ=ナハムはギバの足肉と胸肉から骨を外して、それを臭み取りのリーロの葉とともにたっぷりの水で煮込んだ。


 湯が沸き立ったならば、小さな穴のあいた板をかぶせて、穴の上に呼び鈴という器具をのせる。最近になって城下町の料理人ヤンから習い覚えた、圧力鍋という作法である。父たる家長が呼び鈴の購入を許してくれたので、ナハムの家でも圧力鍋を活用することがかなったのだった。


(でも、圧力鍋っていうのは、アスタが教えてくれた言葉だったっけ)


 ともあれ、こちらの作法を活用したならば、通常よりも早く熱を通すことができるため、薪を節約することができる。雨季には何よりありがたい効能であった。


 やがて呼び鈴の鳴る頻度が安定したならば、他なる食材の準備を進める。

 まずは肝心の、竜の玉子(フェルノ=マルテ)である。

 使いかけの竜の玉子(フェルノ=マルテ)は、濡れた布にくるまれている。こうしておけば、2、3日は保存できるという話であったのだ。マルフィラ=ナハムがその布を取り去ってみると、肉のように赤い断面から複雑きわまりない香りが放出された。


(……うん、大丈夫。腐ったりは、してないみたいだ)


 香りも外見も、昨日のままである。香りなどは複雑きわまりないので、他の食材に比べると判別が難しかったものの、それでもマルフィラ=ナハムには腐っていないと断言することができた。


 この竜の玉子(フェルノ=マルテ)というのは、実に不思議な食材である。

 ただの果実であるはずなのに、ヴァルカスが作りあげた料理のように複雑で美味なる味わいであるのだ。なんの細工もされていない果実がこのような味わいをしているなど、最初は冗談にしか思えないほどであった。


 しかしマルフィラ=ナハムは日が経つにつれ、別なる思いも抱くようになった。

 この竜の玉子(フェルノ=マルテ)は実に不可思議な味わいであるが、それでもやっぱりヴァルカスの料理に比べれば物足りないように思えたのだ。


 甘さも、辛さも、苦さも、酸味も、筋張った肉のような食感も、複数の香草を混ぜ合わせたような香りも――何もかもが、少しだけ物足りない。その物足りなさが、マルフィラ=ナハムに進むべき道を指し示したのだった。


(ラマムやミンミだってそのまま食べても美味しいけど、菓子とは言えないもんな。この竜の玉子(フェルノ=マルテ)も美味しいけど、このままじゃ料理とは言えないんだ)


 マルフィラ=ナハムは肉切り刀で竜の玉子(フェルノ=マルテ)の身を切り出し、木皿に移して、入念にすり潰した。

 そしてそこに、ごく少量の塩とギラ=イラとギギを加える。それを混ぜ合わせたところで、何回目かの砂時計の砂が落ちきった。


 マルフィラ=ナハムはかまどの火をいったん消して、鉄鍋を地面に下ろす。

 やがて完全に呼び鈴が収まったならば、ギバの骨はいったん大皿に取り出して、湯は排水の瓶に捨てた。これは下茹でで、これから本格的に煮込むのだ。


 そうして作業に取り組んでいると、あっという間に時間は過ぎていく。

 今日も屋台の商売であるので、上りの五の刻までにはファの家に出向かなければならない。マルフィラ=ナハムは、一心に調理に取り組んだ。


 ギバの骨は新しい水で煮込み、必要な食材を取り分けていく。どの食材を使うかはおおよそ決まってきたので、肝要なのはその分量と熱の通し方である。この朝で準備できるギバの骨の出汁で、可能な限りのさまざまな組み合わせを試す所存であった。


「マルフィラ姉、頑張ってるー? 美味しい料理はできたかなー?」


 と、いきなりそんな声を投げかけられて、マルフィラ=ナハムは心から仰天してしまう。かまどの間の入り口に目を向けるといつの間にか戸板が開かれており、そこから妹とフェイ・ベイム=ナハムの姿が覗いていた。


「ま、ま、まだ食材を取り分けてるところだけど……そ、そっちはどうしたの?」


「森の端から戻ってきて、ひと休みだよー! 雨がやまないから、ピコの葉も干せないしねー!」


 すると、フェイ・ベイム=ナハムも真剣な面持ちで声をあげた。


「しばらくは手が空くので、必要があればマルフィラを手伝うようにと申しつけられました。わたしたちでも、何かお役に立てるでしょうか?」


「そ、そ、それはもちろん、フェイ・ベイムに手伝っていただけたら心強い限りですけれど……」


「えー? わたしはー?」


「も、もちろんあなたもだよ。た、ただ……しょ、食材を細かく分けてるから、動かさないように気をつけてね?」


「わかってるってばー! もー、信用ないんだなー!」


 と、妹は無邪気に笑った。

 彼女も決して、粗忽な人間ではないのだ。ただ、義姉となったフェイ・ベイム=ナハムがあまりに落ち着き払っているために、その賑やかさが際立ってしまうのだった。


 そこからはふたりにも手を借りて、作業を進めていく。

 マルフィラ=ナハムの指示でマトラをすり潰しながら、フェイ・ベイム=ナハムが厳粛なる声をあげた。


「マルフィラ。今日の夕刻までに新たな料理を作りあげるというのは、あまりに難題であるように思うのですが……完成の目処は立っているのでしょうか?」


「は、は、はい。きょ、今日も朝からかまどを使わせてもらえたので、どうにかできるようには思うのですけれど……」


「そうですか。マルフィラの料理も祝宴に供することができたら、誇らしい限りですね」


 すると、妹も「ほんとだよー!」と元気に声をあげた。


「あの試食会っていうやつ以来、マルフィラ姉の料理が城下町で出される機会はなかったもんねー! わたしもめいっぱい手伝うから、頑張ってねー!」


「う、う、うん。ど、どうもありがとう。た、ただ……じょ、城下町の人たちに喜んでもらえるかは、わからないけれど……」


「えー? マルフィラ姉は、そのために頑張ってるんじゃないのー?」


「う、う、うん。わ、わたしも食べる人みんなに喜んでほしいと思ってるけど……じょ、城下町の人たちは何を美味しいと思うのか、まだわからない部分もあるから……」


「ですが、マルフィラの料理はかねがねヴァルカスの料理に似たところがあるという評判でしたし、わたしも同じ思いを抱いています。マルフィラが納得のいく料理を作りあげれば、きっと城下町の方々にも喜んでいただけるのではないでしょうか?」


「そうだよー! だからこそ、アスタもマルフィラ=姉にまかせようって考えたんだろうしねー!」


 妹のそんな言葉に、フェイ・ベイム=ナハムもふっと微笑んだ。


「そうです。アスタはとても柔和な人柄ですが、こと料理に関しては妥協を許しません。そのアスタが任せてくれたからには、心配も無用でしょう」


「そ、そ、そうですね。さ、最後には、アスタが味見をして判断してくださるでしょうから……わ、わたしはとにかく、自分の思い描いた味を形にできるように、力を尽くします」


 すると、妹が妙にしみじみと息をついた。


「マルフィラ姉もフェイ・ベイムも、すごいなー。わたしももっと頑張りたいけど……これ以上は、あんまり人手も出せないもんねー」


「わたしは古くからアスタの商売を手伝っているだけで、何もすごくはありませんよ」


「そんなことないよー。試食会のときは、フェイ・ベイムがアスタの手伝いに選ばれてたじゃん」


 妹のそんな言葉に、フェイ・ベイム=ナハムは「ああ」と目を細めた。


「そうですね……まあ、あれもマルフィラやユン=スドラたちがそれぞれ別の料理を受け持っていたため、やむなくわたしを選ぶしかなかったのでしょうが……わたしにとっては、何よりの誇りです」


「うん。ガズやラッツの女衆はもっと古くからアスタの商売を手伝ってたのに、選ばれたのはフェイ・ベイムだったんだからね。やっぱり、フェイ・ベイムもすごいんだよ」


 そう言って、妹はにっこり微笑んだ。


「だから、マルフィラ姉もフェイ・ベイムも、わたしにとっては自慢の姉さんなの! わたしは家の仕事を頑張るから、ふたりはこれからもアスタの手伝いを頑張ってね!」


「……アスタよりも年長で、すでに婚儀を挙げているわたしは、遠からず屋台の商売から身を引くことになるでしょう。わたしたちよりも若いあなたには、これからいくらでも好機が巡ってくるはずですよ」


 フェイ・ベイム=ナハムが穏やかな眼差しでそのように告げると、妹はいっそう無邪気に笑った。


「フェイ・ベイムに赤ちゃんができたら、さすがにアスタの手伝いはできないもんね! そのときは、わたしが頑張るよー!」


「はい。そうしてなるべく数多くの人間が、アスタから学ぶべきだと思います」


 嫁入りの前には固い態度を見せることも少なくなかったフェイ・ベイム=ナハムであるが、今ではすっかりナハムの家に溶け込んでいる。マルフィラ=ナハムは、それを何より嬉しく思っていた。


「……朝からずいぶん騒がしいことだな」


 と、いきなり重々しい声が響きわたり、マルフィラ=ナハムをぎょっとさせた。

 次に登場したのは、父たる家長である。家長は底光りする目で、マルフィラ=ナハムたちを見回してきた。


「と、と、父さん。こ、こんな早くから、どうしたの?」


「たまさか、目が覚めただけのことだ。……そちらこそ、このような早くからかまど仕事とはな」


 父たる家長は、きわめて厳格なる気質であるのだ。マルフィラ=ナハムは作業の手を止めて、ぺこぺこと頭を下げることになった。


「た、た、大切な薪をたくさん使っちゃって、ごめんなさい。ふ、ふたりはわたしを手伝ってくれているだけだから……」


「……何をそのように慌てているのだ? お前は束ね役たる母の言いつけで、かまど仕事に取り組んでいるのであろうが?」


「う、うん。だ、だけど母さんも、わたしの気持ちを汲んでくれただけだから……」


「それで最後に決断を下すのが、束ね役の役割であろう。その責任を横取りするのは、決してほめられた行いではないぞ」


「そ、そ、そうだね……ど、どうもごめんなさい」


 マルフィラ=ナハムがしゅんと肩を落とすと、家長は厳つい顔に苦笑を浮かべた。


「お前はずいぶんな仕事を果たしているのに、気弱なところはまるで変わらんな。……今日も大きな仕事に取り組んでいるのだから、堂々と胸を張るがいい」


「は、は、はい。で、でも……う、うまくいくかどうかは、まだわからないし……」


「俺たちとて、ギバを取り逃がすことはある。ひとつの失敗もなしに、成功をつかめるものか」


 家長としての威厳に父としての優しさをにじませながら、父たる家長はそう言った。

 そしてその目が、作業台に置かれた竜の玉子(フェルノ=マルテ)を捕らえる。


「その不気味な果実を山ほど持ち帰ってきたときには、いったい何事かと思ったものだが……森辺のすべてのかまど番が、お前に希望をかけて託したというのであろう? お前は、それほどの力を見込まれているということだ。お前は失敗など恐れずに、力を尽くすがいい。……たとえ失敗しようとも、お前がこれまで成してきた仕事の価値に、変わりはないのだからな」


 そうして家長はかまどの間に足を踏み入れることなく、立ち去っていく。

 妹は、「あはは」と屈託のない笑い声をあげた。


「マルフィラ姉がひさびさに大きな仕事を受け持ったから、きっと父さんも喜んでるんだよ!」


「う、う、うん。そ、そうだといいんだけど……」


「ぜーったいに、そうだって! 昨日から、なんか嬉しそうにしてたもん!」


 父たる家長はあまり感情をさらす人間ではないので、鈍感なマルフィラ=ナハムには真情を汲むことも難しい。

 ただ、先刻の優しい眼差しは、マルフィラ=ナハムに大きな力を与えてくれたのだった。


(この料理……父さんにも、喜んでもらえるといいなぁ)


 マルフィラ=ナハムが一番に考えているのは、血族の喜びである。だからこそ、自分がどれだけ力を尽くそうとも、城下町の人々に喜んでもらえるかどうか自信が持てないのだ。


 しかしまた、どれだけ城下町の人々に喜んでもらえたとしても、森辺の同胞に喜んでもらえなければ意味はない。

 もちろん、城下町の人々との絆も二の次にすることは許されないのであろうが――同じ喜びを分かち合えなければ、意味はないはずであった。


(とにかくわたしは、父さんたちに喜んでもらえるように頑張ろう。あとは……母なる森の思し召しだよ)


 そうしてマルフィラ=ナハムは、澄みわたった気持ちで目の前の仕事に没頭することになったのだった。

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― 新着の感想 ―
うーん、まだまだ自己評価が低いねぇ。 今回の料理で、もう少し自分を認めてやっても良いのに。
[一言] 第34巻の発売おめでとうございます。 第34巻も続けて発売出来る事が素晴らしいです。 それだけ他作品と一味違う小説であると実感しております。 メインは純粋な人情と生き方でサブに少しの癒しと…
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