④13歳の祝いの日(中)
2015/01/02 更新分 1/1
翌日、青の月の25日。
予定の通り、宿場町から直接ルウの集落へと向かった俺は、そこで奇妙な光景を発見することになった。
「うわ、何だい、ありゃ?」
7戸の家屋に囲まれた、ルウの集落の大広場。
その片隅に、異様な肉塊が転がっていたのである。
渦巻き模様の布地で包まれた、小山のような肉塊。
その肉塊に、小さな子どもたちが群がって、はしゃいでいる。
呆然と立ちつくす俺に、「ミダ以外の何かに見える?」と、女衆を代表してララ=ルウが応じてくれる。
いや、それがミダであるということは一目にして瞭然であるのだが。何をしているのかが、理解できなかったのだ。
鉄鍋を抱えたララ=ルウらと一緒にそのまま前進して、いっそう間近で視認することがかなっても、やっぱり意味がわからない。
ミダは、地面の上で大の字になっていた。
その巨体はあまねく汗だくで、ぶはーっ、ぶはーっと荒い息をついている。
その呼吸に合わせて、ほぼ円形の腹部も激しく上下しているわけだが。幼子たちはその蠢く肉塊の頂点に立ってバランスを取ろうと試みたり、ただへばりついたまま楽しげな声をあげていたり、よいしょよいしょと懸命によじ登っていたりと、それはもうアスレチックの遊具のごとき有り様でであったのだ。
人数は5名ほど。3名が男子で2名は女子。いずれも子ども用の装束を纏っているから、みんな10歳未満の幼子なのだろう。1番小さな女の子などは、せいぜい3歳ぐらいにしか見えない。
「えーと……これは虐待してるわけじゃないんだよね?」
「そんな風に見えるの?」
「いやあ、どうなんだろう」
少なくとも、子どもたちの笑顔には悪意のかけらも見当たらなかった。
ミダのほうはどうかというと、砂浜に打ち上げられたマッコウクジラさながらで、意識があるのかも判然としない。
と――そこに、家屋の陰からひとりの男衆が近づいてきた。
「家人ミダよ。もう十分に休んだであろう。仕事の続きに取りかかるぞ」
あまり見覚えのない男衆だった。
年齢は四十路の手前ぐらいであろうか。すらりと背が高く、口髭をたくわえており、黒褐色の長い髪を首の後ろで束ねている。少しシム人ぽい切れ長の目は濃い青色で、面長の顔は鋭く引き締まっており、なかなか渋めの男前である。
「水……ミダは、水が飲みたいんだよ……?」
「ならば、自分で汲んでこい。水瓶の水はお前が飲み干してしまったのだからな」
容赦も遠慮もない、厳しい声音である。
ミダはのろのろと上体をあげ始め、腹の上に乗っていた子どもたちは「きゃー」と楽しげな悲鳴をあげてそこから跳びおりた。
そこで俺も、「うわあっ!」と、ちっとも楽しくなさそうな悲鳴をあげてしまう。
いきなり背後から、くにゃりとした柔らかい物体にしなだれかかられたのである。
「ごめんなさぁい……わざとじゃないのよぉ……? 何だか、気分が悪くなってきちゃってぇ……」
危険な感触に背中を圧迫され、俺は迅速に異議の申し立てを行おうと試みたが、肩ごしに見たヴィナ=ルウの顔は、本当に真っ青になってしまっていた。
「……ああ、シーラ、帰ったのか。本家の女衆も、ご苦労だった」
壮年の男衆が、ミダからこちらに視線を移してくる。
それでわかった。彼はシーラ=ルウやシン=ルウの父親である、先代家長のリャダ=ルウであったのだ。
よく見れば、右の足を不自由そうに引きずってもいる。
男衆は森に入っている頃合いであるのに、狩人の衣も纏わず、大刀も下げていない。
足の筋を切ってしまい、狩人としての仕事が果たせなくなり、家長の座を若き長兄シン=ルウに譲った、分家の先代家長にして、ドンダ=ルウの末弟――それが、このリャダ=ルウなのだった。
「お前は――」と、その鋭い碧眼が俺を見すえる。
俺はおんぶお化けのようなヴィナ=ルウに取り憑かれたまま、可能な限りしっかりと頭を下げてみせた。
「初めまして――でしたよね? 俺はファの家のアスタという者です」
この森辺に生白い肌をした人間など俺ひとりしか住まっていないのだから、そのような自己紹介は不要であったろう。
だけど、シン=ルウの家にはこれまでさんざん世話をかけている。その先代家長たる人物には、最大限の礼儀を払っておきたかった。
「確かに、こうして顔を合わせるのは初めてだな。俺はシン=ルウ家の先代家長、リャダ=ルウだ。いつも娘シーラが世話になっている」
向こうも同じように思ったのか、リャダ=ルウは静かに目礼をしてくれた。
やっぱりどこか――シン=ルウやシーラ=ルウに雰囲気が似ているようだ。
「あの、ミダは何の仕事に従事しているのですか?」
「うむ? こやつは今、森の端から木材を採取する仕事を受け持っている」
そうして首を曲げたリャダ=ルウの視線を追うと、シン=ルウの家の陰に、どっさりと積まれた丸太の山がうかがえた。
ふだん採取している薪よりもずっと太い、切り口も鮮やかな木材の山である。
「狩人の仕事ではなく、木材の採取ですか?」
「そうだ。こやつは力があるくせに、こうしてすぐに動けなくなってしまうのでな。これでは他の狩人の足手まといにもなりかねないということで、しばらくは別の仕事に従事させることになった」
そんな言葉を交わしている内に、ようやくミダは俺たちの存在を知覚できたようだった。
にこにこ顔の幼子たちに取り囲まれ、地面にへたりこんだまま、妙に甲高い声で「あれ……?」と、つぶやく。
「アスタだね……アスタが来てくれたんだね……?」
「はい。ちょっとおひさしぶりですね、ミダ」
とたんに、ララ=ルウが「何でそんな喋り方なの?」と突っ込んできた。
「こいつ、ルドより年下だよ? あたしだって、今日からは1歳しか変わらないし」
「いや、だけど――」と言いかけて、俺は思いなおした。
3歳も年少であるというのならば、確かに敬語や丁寧語というのは他人行儀であるかもしれない。
「――ミダは身体が大きいから、知り合った当初は年長者と勘違いしてたんだよ。それじゃあこれからは普通の喋り方に戻させてもらってもいいかな、ミダ?」
「……うん……?」
ミダは、まったくもって意味を理解していない様子で頬肉を震わせた。
それから、ぶふぁーと盛大に息を吐く。
「ああ……アスタを見ていたら、よけいにお腹が空いてきちゃったんだよ……? ミダは、美味しいものが食べたいんだよ……?」
まったくもって、相変わらずのようだ。
9日ほど前にテイ=スンの亡骸と対面した際は、それはもうこの世の終わりが訪れたかのような悲嘆っぷりで、どれほどアイ=ファやヤミル=レイがたしなめても泣きやもうとしなかったのだが――幸いなことに、そんな陰りも残ってはいない。
「晩餐までにはまだ時間があるわ。美味しく食事が食べられるように、仕事を頑張りなさい?」
と、優しい声音で諭すように言ったのは、シーラ=ルウだった。
俺はびっくりしてそちらを振り返ってしまい、それでシーラ=ルウもびっくりしたように目を丸くしてしまう。
「どうしました? わたしは何かおかしなことを言ってしまったでしょうか?」
「あ、いえ、すみません。俺もあんまりシーラ=ルウのそういう喋り方は耳にしたことがなかったもので。……何だかすごくお姉さんぽいですね」
「……よくわかりませんが、恥ずかしいです」
そう言って、シーラ=ルウは気まずそうにうつむいてしまった。
俺はララ=ルウの冷ややかな視線に頭をかき――それから、リャダ=ルウの視線にも気づいて、どっと冷や汗をかくことになった。
「いや、あの……どうもすみません」
「……何を謝っているのかはわからぬが、我々はそろそろ仕事に戻らせてもらう」
静かで厳しい表情のまま、リャダ=ルウはミダを取り巻く子どもたちのほうを見やった。
「お前たちも、仕事がないのならば向こうで遊んでいろ。仕事中はミダに近づいてはいかんぞ?」
「はーい」
「ばいばい、ミダ!」
「また遊ぼうね、ミダ!」
「うん……」と、ミダはまた頬肉を震わせる。
相変わらず表情は読み取れないが、その子豚のように小さく見える瞳には、とても残念そうな光が浮かんでいるように感じられた。
ならば――きっと大丈夫だろう。
俺も少し安心して、ミダに別れを告げることができた。
「それじゃあね、ミダ。おたがい仕事を頑張ろう」
「え……アスタはもう帰っちゃうのかな……?」
「いや、今日は本家で晩餐をご馳走になるんだ。時間があったら、また後で話そうよ」
「うん……わかったんだよ……?」
そうして、のろのろと起き上がろうとするミダを尻目に、俺たちは進軍を再開させることにした。
といっても、シーラ=ルウとララ=ルウが抱えていた鉄鍋はシン=ルウ家のものなので、ふたりはそちらの家に向かっていき、俺は千鳥足のヴィナ=ルウとのみルウの本家に向かうことになる。
「ミダがルウの集落にやってきて、もう10日以上は経ちますよね。……それでもやっぱり、苦手意識は克服できませんか」
「わたしには、どうしてみんなが普通に振る舞えるのかが、わからないわよぉ……ううう、気持ち悪ぅい……」
「でも、ああして毎日しっかり働いていれば、ミダも人並み――は難しいとしても、ダン=ルティムぐらいの体型にはなれるんじゃないですかね?」
「……それまでわたしの心がもつかしらぁ……」
そんな会話をしている間に、ルウの本家に到着した。
留守番をしていたサティ・レイ=ルウに挨拶をしてから、裏のかまどの間に向かう。
そうして壁にそって角を曲がろうとしたところで、今度はリミ=ルウと出くわした。
より正確に表現するならば、トトスに乗ったリミ=ルウと、だ。
「あ、アスタだ! いらっしゃーい! ようこそルウの家に!」
ギルルとの共同生活により多少の免疫力を得た俺は、そのいきなりの登場にも慌てふためかずに済んだ。
まあ、内心ではかなり驚かされたが。
「やあ、リミ=ルウ。もうひとりでトトスに乗れるようになったのかい?」
「うん! まだ走らせるのは難しいけどねー」
とても楽しそうに手綱を操りつつ、リミ=ルウは俺たちと同じ方向にトトスの頭を巡らせた。
大きさは同じぐらいだが、我が家のギルルよりは羽毛の色がやや濃い目で、胴体や首のあたりにはさらに濃い色の羽が混じり、少し虎縞模様になっている。意識して観察してみれば、トトスにもけっこう個体差が存在するようだ。
「ね、ファの家のトトスは何て名前にしたの? この子は、ルウルウだよ!」
「へえ、ルウルウか。可愛いね」
「うん! ルウの家のトトスだからルウルウなの!」
ザザ家やサウティ家でもトトスに名前は与えられたのだろうかと考えながら、「うちのは、ギルルだよ」と答えてみせた。
「ギルルとルウルウかあ。ちょっと似ちゃったね?」などと言いながら、リミ=ルウはご満悦の様子である。
「ああ、ヴィナ、ご苦労さま。アスタ、ルウの家にようこそ。今日はわざわざありがとうね」
かまどの間では、ミーア・レイ母さんとレイナ=ルウが待ち受けていた。
「ほら、リミ、アスタが来たんだから、あたしらも休憩は終わりだよ。トトスを繋いできな」
「はーい」と、リミ=ルウはそのままかまどの間の前を通過していった。
ヴィナ=ルウも荷を下ろし、まだちょっとぐったりした様子で退散していく。
「ありがとうございます、アスタ。……あの、ララには気づかれませんでしたか?」
母さんの隣りから小声で呼びかけてくるレイナ=ルウに、俺は「うん」と、うなずき返した。
「ていうか、俺が晩餐を作るのかもしれないって考えたところで、そのこと自体に驚きはないだろうしね。これといって、話題にも出なかったよ」
「でも、アスタのことだから、きっとララが驚くような料理を準備してくれるんだろうね?」とは、ミーア・レイ母さんである。
「いやあ、いろいろ考えたんですけど、馴染みのない料理で不興を買うのも怖いので、ちょっとした添え物をつけ加えるだけにしました。基本的にはタラパのソースの焼肉料理なので、あまり期待せずお待ちください」
と、言っているにもかかわらず、ミーア・レイ母さんとレイナ=ルウはとても期待のこもった眼差しでおたがいの顔を見交わした。
本当に、ちょっとしたトッピングを付け加えるだけなので、あまりハードルを上げてほしくないのだが……
ともあれ、調理の開始である。
晩餐のための肉料理だけではなく、明日のための仕込み作業まで仕上げてしまいたいので、実のところ、時間はけっこういっぱいいっぱいだ。
「お待たせー! それじゃあ、リミはアスタのほうを……あ、手伝っちゃいけないんだっけ?」
「うん。これは俺の仕事だからね。――だけど今日は、さすがにきついかなあ」
普通に考えたら、晩餐の前にすべてを仕上げるのは難しい作業量だ。宿場町での仕事が定時で終わった日は、晩餐の後にまでもつれこむのが通例なのである。
しかし、本日はルウの集落に宿泊する予定でもないので、できることなら今の内にすべてを仕上げてしまいたい。
「あの、ミーア・レイ=ルウ。申し訳ないんですが、今日は人手を貸してもらえますか? 商売と同じだけの代価を支払いますので」
「ふうん? だったら、ヴィナを呼び戻そうか? 最近はそんなに薪も不足してないんだろう?」
そうだった。ファの家に立ち寄らない日は、ヴィナ=ルウも1時間だけ薪採取の仕事が発生するのである。
「いや、でも、どうせだったら晩餐が始まるまでずっと手伝ってほしいのですよね。分家で誰か手の空いている人はいませんか?」
「それなら、あたしらのひとりが手伝うよ。ポイタンはもう焼いちまったから、こっちはふたりでも十分なのさ」
「あ、それじゃあお願いします」と、俺は安堵の息をついた。
「よーし、それじゃあ頑張ろー! 最初は何をしたらいいかなー?」
リミ=ルウが笑顔で俺の足もとにまとわりついてくる。
すると、レイナ=ルウが「あ、えっと、その……」と、慌て気味に声をあげた。
「わ、わたしがアスタを手伝う! ……のは、駄目でしょうか……?」
リミ=ルウはきょとんと振り返り、ミーア・レイ母さんはたくましい肩をすくめる。
「あたしはどっちでもかまわないよ。でも、代価と引き換えの仕事だったら、腕の確かなレイナを貸すべきかねえ」
「えー! リミだってきちんとお仕事できるよ!」
リミ=ルウは、ぷうっと頬をふくらませた。
「宿場町のお仕事だって、リミが手伝いたかったのにさ! 家長会議も連れていってくれなかったし! どうしていっつもリミは置いてけぼりなのー!?」
「そりゃああんたがまだ小さな子どもだからさ。鉄鍋を運べるようになれば、ララじゃなくてリミでもかまわないんだけどねえ」
俺は、ふっと閃いた。
「それなら、ファの家でトトス用の荷車を手に入れたら、リミ=ルウでも可能になるかもしれませんね。そうしたら俺がルウの集落に立ち寄って、荷物を全部引き受ける予定でしたから」
「ええ? だけど、わざわざここに寄ってたら遠回りになっちまうだろう?」
「いえ。どのみちファの家で使っている道は吊り橋があるので、トトスが通るのは無理なんですよ。それならルウの集落で合流して、みんなで南側の道から宿場町に向かうのが合理的かと思いまして」
リミ=ルウは、「やったー!」と、飛び上がった。
その姿を見て、レイナ=ルウはもじもじとし始める。
「ねえ、ミーア・レイ母さん。ヴィナ姉に宿場町の仕事をまかせていたのは、スン家の人間を用心して、だったんだよね? だったら、あの……」
「ううん、だけど今度は城の連中とややこしい関係になっちまったからねえ。ちょうどルドたちの護衛も引き払っちまったところだし、例の会談ってやつが無事に終わるまではヴィナのままでいるべきだと思うよ」
「……うん、そうだよね」と、レイナ=ルウは肩を落とす。
「リミ、あんたもだよ? 城の人間は敵じゃないって思えるまでは、あんたみたいに小さな子を宿場町にやるわけにはいかないからね」
「大丈夫だよ! きっとドンダ父さんが城の人間なんてやっつけちゃうから!」
いや、やっつけられても困ってしまうと思うのだが。
何にせよ、こうして喋っている間にも、貴重な時間は刻一刻と過ぎ去っていく。
「それじゃあ、始めようかね。リミ、あんたはこっちを手伝っておくれ」
ミーア・レイ母さんの声を合図に、俺たちは仕事を開始した。
「こちらは商売用の仕込みをあるていど片付けてしまおう。まずはハンバーグのパテから始めようかな」
「はい。では、アリアのみじん切りと肉挽きですね」
とたんに、レイナ=ルウの顔つきが変わった。
妙に真剣な面持ちだ。
仕事には真摯な姿勢を崩さない森辺の民ではあるが。何をそのように意気込んでいるのだろう。
「わたしはどちらを受け持ちましょう? それとも、ふたりでひとつの作業を仕上げてしまいますか?」
「う、うん。まずはふたりでアリアを刻んで、それが終わったらアリアを炒める役と肉を挽く役に分かれようか」
「なるほど……炒めたアリアはいったん熱を冷まさないといけないので、その手順が1番効率的なのですね」
何なのだろう。
レイナ=ルウの豹変っぷりにいくぶん怯みつつ、俺はシム産の調理刀でアリアを刻む。
「……その刀は白銅貨18枚もするのでしたっけ?」
「うん。そうだよ」
「信じられないような値段ですが、確かに素晴らしい切れ味ですね。アスタが扱っているから、余計そのように感じられるのでしょうが」
そんな風に、ちらちらと俺の手もとを観察しつつ、レイナ=ルウは自身も手際よくアリアを切り刻んでいった。
「……どうしたの? こんなのはもう、なれっこの作業だろう?」
「いえ。その慢心がいけなかったのだと思います。……家長会議で気づいたのですが、ヴィナ姉もララも、すごくかまど番の手際がよくなっているんです」
「ふ、ふーん? だけど宿場町で刀を扱っているのは、俺とシーラ=ルウだけなんだよ?」
「はい。ですから、作業の進め方だとか、空いた時間を何に使うかとか、そういう部分の話ですね。シーラ=ルウは――その上で、さらに刀や火の扱いが上達している感じでした」
喋りながらも、レイナ=ルウの指先は的確にアリアを刻んでいく。
「たぶん、今ではもうわたしなどはシーラ=ルウの足もとにも及ばないのでしょう。ひと月近くもアスタに指南されていれば、それは当然の話です」
「そ、そんなことはないと思うけどなあ」
「そんなことは、ありますよ。……わたしはまだ根が子どもなので、それを少し悔しく感じたりもしてしまうんです」
と――レイナ=ルウは、今まで俺が見たことのない顔つきで、笑った。
自分で言っている通り、ちょっと幼げなところのあるレイナ=ルウである。とても真面目で性根は優しいが、直情的な面もちょいちょいのぞかせるし、反面、思いつめることも多い。
ひたすら無邪気なリミ=ルウや、喜怒哀楽のはっきりしているララ=ルウよりも扱いの難しい、女の子らしい女の子――それが俺の、レイナ=ルウに対する印象だった。
だけど、そのときに見せたレイナ=ルウの表情は――何と表現したらいいのだろう。敵愾心や嫉妬心とも似て異なる、強い意志に満ちた笑顔。決戦に挑む戦士のような、それでいて妙に楽しげでもあるような、とにかく毅然とした笑顔である。
シーラ=ルウを、ライバル視しているのだろうか?
もちろん、恋の鞘当てなどではなく、かまど番を得意とする女衆として。
「……あ、すいません! その、別にわたしはシーラ=ルウに悪い気持ちを抱いているわけではないのですよ?」
と、レイナ=ルウはまた子どもっぽい顔に戻って、背後の母親たちのほうを見た。
ミーア・レイ母さんたちは、何も気づかぬまま、チャッチの皮を剥いている。
「ただ、今まで以上に、かまど番の仕事に励みたいと思っただけなのです。シーラ=ルウは大事な眷族です。たとえ少しぐらい悔しくても、そんなことで眷族をないがしろにするような真似は絶対に――!」
「いや、そんなことは考えてなかったよ。向上心を持つのは大切なことなんじゃないのかな」
そんな風に答えると、レイナ=ルウはしばらく俺の顔を見つめてから、ようやく安心したように柔らかく微笑んだ。
いささかならず、情緒不安定ではあるのかもしれない。
だけど、何だか――俺としては、レイナ=ルウの心境の変化を、少しばかり応援したいような気持ちをかきたてられてもいた。
シーラ=ルウが真剣に調理の研鑽に励んでいるのは、たぶん、そこに自分の価値を見出したからである。
自分の技術が富を得る手段となりえて、家族の生活を助けている。また、家族が自分の料理を食べて幸福そうな顔をしてくれている。だから、もっともっと頑張りたい――彼女は、そんな風に考えているのだと思えるのだ。
だけど、レイナ=ルウからは、そういう森辺の民らしい真っ直ぐな情感をあまり感じない。
レイナ=ルウが抱いているのは、もっとモヤモヤとしたもの……漠然とした向上心、はっきりしない目的、正体の知れない焦燥感、なのではないだろうか。
それはもしかしたら、承認欲求、とかいうやつなのかもしれない。
それを不純だと思えるほど、俺も聖人君子ではないつもりだった。
俺のいた世界では、そんなものは珍しくもなかった。
誰だって、多かれ少なかれ持っていたと思う。
当然のことながら、俺の中にだってそういうものははっきり根付いているとも思う。
早い話が、俺はレイナ=ルウの中に、自分と似た匂いを感じてしまったのだ。
料理の出来に自分の尊厳やら何やらをおっかぶせて、それに一喜一憂してしまう、半人前の料理人の匂いを――である。
「……どうしたのですか? 手が止まっていますよ、アスタ?」
と、今度は悪戯っぽい笑みを浮かべたレイナ=ルウに指摘されてしまう。
その表情もまた、今まであまり見たことのないものだ。
もしかしたら、レイナ=ルウは、大きく変わる途上であるのかもしれない。
だから、いささかならず不安定に見えてしまうのだろうか。
だけど、その変化の予兆を漂わせる立ち居振る舞いは――俺にはとても刺激的で、とても魅力的に感じられてしまった。
くどいようだが、色恋がどうのという話ではなく。
大げさな物言いが許されるならば、それは未来のライバルの登場の予感に、心が打ち震えたのかもしれなかった。