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異世界料理道  作者: EDA
第八十九章 雨季の終わり
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祝宴の下準備①~朝~

2024.8/22 更新分 1/1

 翌朝――ルウの本家で一夜を明かした俺は、鼻先をくすぐるやわらかな感触で目を覚ますことになった。


 俺はときどき、こういう幸せな心地とともに起床することがある。眠っている間にアイ=ファが身を寄せた際のことである。

 ただし本日、アイ=ファは寝床を別にしている。アイ=ファは今ごろジバ婆さんの寝所で、リミ=ルウやターラとともにすこやかな眠りを授かっているはずであった。


 いっぽう俺はルド=ルウの寝所にお邪魔しており、そして昨晩はスペシャルゲストを招いていた。俺の鼻先をくすぐっているのは、そのスペシャルゲスト――すなわち、コタ=ルウのやわらかな髪に他ならなかった。


(……ジザ=ルウやサティ・レイ=ルウは、毎朝こんな幸せな気分で目を覚ましてるのかな)


 寝起きの放埓な頭で、俺はそんな風に考えた。

 現在は雨季で気温が低いため、温かい毛布をかぶって就寝している。その毛布の下で、コタ=ルウは俺の胸もとに取りすがりながら安らかな寝息をもらしていた。


 コタ=ルウはなかなか聡明な一面を持っているが、それでもまだ4歳の幼子である。俺の鼻先に触れる頭も、胸もとの生地をつかんだ指も、とても小さい。俺が寝釈迦の姿勢を取って上から覗き込むと、その寝顔は年齢相応のあどけなさをあらわにしていた。


 アイ=ファに身を寄せられたときとは似て異なる温かな気持ちが、俺の胸中を満たしていく。

 いつか俺に子供にできて、寝ている間に抱きつかれたら、もっと幸せな心地なのだろうか。それはあまりに、想像を絶していた。


(……まあ、子供ができるとかいう時点で想像を絶するし、幸せすぎて卒倒しそうだけどな)


 俺がそんな想念に身をゆだねていると、コタ=ルウが「んー」と可愛くうなりながら小さな身をよじった。俺が体勢を変えたために毛布に隙間ができて、わずかばりに冷気が入り込んでしまったようだ。


 俺が腕をのばして毛布を引っ張りあげるべきかと思案していると、それより先にコタ=ルウのまぶたがゆっくりと持ち上げられた。

 この薄暗がりでは黒く見えるぐらい深い色合いをした青色の瞳が、間近から俺を見返してくる。コタ=ルウはまだまだ夢うつつであったが、それでも幸せそうに微笑んでくれた。


「アスタ、おはよう……きのうは、たのしかった」


「おはよう、コタ=ルウ。昨日はたくさん、おしゃべりできたね」


「うん……もっとおしゃべりしたかったけど……いつのまにか、ねちゃってた」


「あはは。それでも、ずいぶん頑張ったんじゃないかな。ルド=ルウよりは、夜ふかししちゃったもんね」


 そのルド=ルウはコタ=ルウの向こう側で、すやすやと眠っている。そちらはそちらで、年齢以上に幼い愛くるしさであった。


「アスタは、きょうもおしごと……?」


「うん。これからファの家に戻って、朝の仕事と屋台の下ごしらえだね。コタ=ルウはもっと眠ってなよ」


「うん……アスタがおやすみだったら、もっとおしゃべりしたかったけど……」


「またその内、ルウ家にお邪魔させていただくよ。そのときにはまた同じ場所で眠れるように、ジザ=ルウたちにお願いしようね」


 コタ=ルウはいっそう幸せそうな面持ちで「うん……」と応じて、最後に俺の胸もとをきゅっと握り込んでから、手を離した。


「おしごと、がんばってね……アスタのぶじを、もりにいのってるから……」


「ありがとう。コタ=ルウも、水たまりで転ばないように気をつけてね」


 俺が頭を撫でてあげると、コタ=ルウは「うん……」とうなずきながらまぶたを閉ざした。

 その小さな口がまた安らかな寝息をたてるのを待ってから、俺は毛布に隙間をつくらないように苦心つつ寝床を這い出る。すると、どこからともなく、黒猫のサチもしゅるりと這い出てきた。


「なんだ、サチもいたのか。よく俺たちに押しつぶされなかったね」


 サチは「なう」と短く鳴いて、すぐさま俺の膝もとに身をすり寄せてくる。俺は枕もとに置いておいた雨季用の上衣を羽織り、ギバの牙とグリギの実の首飾りを装着してから、そのしなやかな身体を胸もとにすくいあげた。


「……なんだ、かまど番はもう起きる時間かよ。帰り道も気をつけてなー」


 と、薄目を開いたルド=ルウがそんな言葉を飛ばしてくる。狩人の鋭敏な感覚で、こちらの気配を察したのだろう。サチを抱えて立ち上がりながら、俺は「うん」とうなずき返した。


「ルド=ルウも、昨日はお疲れ様。狩人の仕事、頑張ってね」


 ルド=ルウは「おー」と不明瞭な声で応じつつ、毛布をかぶりなおした。

 俺は足音を忍ばせつつ寝所を横断して、戸板を引き開ける。そうして夜のように薄暗い廊下を抜けて広間に出ると、そこではすでにティト・ミン婆さんがくつろいでいた。


「おや、アスタはずいぶん早かったねぇ。ようやく表が薄明るくなってきた頃合いだよ」


「はい、おはようございます。ティト・ミン=ルウも、お早いですね」


「年を食うと、朝が早くなるものなのさ。……きっと最長老は、幸せな心地でリミたちの寝顔を眺めてるんじゃないかねぇ」


 そう言って、ティト・ミン婆さんはゆったりと微笑んだ。

 普段はティト・ミン婆さんがジバ婆さんに付き添っているが、客人を招いた際にはリミ=ルウと交代するのだ。アイ=ファやターラを迎えるジバ婆さんの寝所はもちろん、ティト・ミン婆さんを迎えるレイナ=ルウとララ=ルウの寝所にも普段とは異なる趣が生じるのだろうと思われた。


 そして広間と土間では、我がファの家の人間ならぬ家人たちもくつろいでいる。子犬の外出が許されるようになってからは、また家人総出でお邪魔するようになったのだ。3頭の子犬たちがいずれもジルベの豊かな長毛にうずもれているのが、なんとも微笑ましかった。


「アスタ、あらためて、昨日はありがとうね。リミの幸せそうな顔を見ることができて、あたしも幸せな心地だよ」


「いえいえ、こちらこそです。毎年毎年お招きいただいて、本当に感謝していますよ」


「リミや最長老のあんな幸せそうな顔を見せられたら、ドンダやジザだって文句はつけられないさ。……まあ、今ではドンダたちだってアスタたちのことを好ましく思ってるだろうしさ」


 そのように語りながら、ティト・ミン婆さんはいっそうやわらかく微笑んだ。


「そういえば、アスタも黄の月の生まれ……というか、この黄の月に森辺にやってきたって話だったよねぇ。それじゃあアスタが初めてルウの家に顔を見せてから、もうすぐ3年が経つってわけだねぇ」


「ええ、そういうことになりますね。正確な日付はわかりませんけど、黄の月の終わりか緑の月の始まりぐらいだったんだろうと思います」


「そうかい。あの頃は、あたしなりに厳しい目でアスタたちのことを検分していたつもりだけれど……こうして絆を深めることができて、心から嬉しく思っているよ」


 ティト・ミン婆さんにそんな言葉を聞かされると、俺は胸が詰まってしまいそうだった。

 俺が初めてルウ家を訪れて、ジバ婆さんのためにハンバーグを作りあげたとき、それを手伝ってくれたひとりがこのティト・ミン婆さんであったのだ。そうしてティト・ミン婆さんは、森辺の厳しい習わしについて懇々と語ってくれたのだった。


「……俺はアイ=ファから森辺の掟や習わしについて学びましたけれど、そこに最初の実感をもたらしてくれたのはティト・ミン=ルウだったと思います。俺もティト・ミン=ルウを始めとするルウ家の方々と仲良くなれて、本当に嬉しく思っています」


「それも、リミが繋いでくれた縁だねぇ。ルウとファの切れかかっていた縁を何とか離さずにいてくれたリミには、どれだけ感謝しても足りないよ」


「はい。そんなリミ=ルウの生誕の日をお祝いすることができて、昨日も心から幸せな心地でした。来年も、またよろしくお願いします」


「うん。あんたたちも、ジザのへそを曲げさせないように気をつけてね」


 ティト・ミン婆さんが冗談めかして語りながら笑ったとき、ようやく別なる人影が通路のほうからやってきた。誰あろう、我が最愛の家長殿である。雨季用の上衣を羽織ったアイ=ファは、その手に白猫のラピを抱いていた。


「アスタも、もう起きていたか。では、早々に帰らせてもらいたく思うが……ミーア・レイ=ルウに挨拶が必要であろうか?」


「ミーア・レイもそろそろ起きてくるだろうけど、気にすることはないよ。鋼はあたしが返すから、あんたたちは荷車の準備をしておきな」


 ティト・ミン婆さんの言葉に従い、俺たちは帰り支度を整えた。

 ギルルを起こして荷車につなぎ、子犬たちは木箱に詰め込んで、雨に打たれないように布をかぶせつつ荷台に運び込む。そうして4頭の成犬たちも荷車に落ち着いたところで、数々の刀を携えたティト・ミン婆さんが玄関口に現れた。


「鋼は、これで全部だよね? アイ=ファもアスタも、それぞれの仕事を頑張っておくれ」


「うむ。宿場町に向かう際にはまた立ち寄らせていただくが、ティト・ミン=ルウも息災にな。ミーア・レイ=ルウたちにも、よろしくお伝え願いたい」


「うんうん。ターラも、そのときでいいんだよね?」


「はい。それまで、よろしくお願いします」


 アイ=ファは大刀と短刀を腰にさげ、俺はゲルドの短剣を腰にさす。調理刀が詰まった革の鞄は濡らしてしまわないように布でくるんで、荷車に収納した。


「それでは、また」


 ティト・ミン婆さんひとりに見送られて、荷車は出発した。

 前側の帳も閉めているため、御者台のアイ=ファと言葉を交わすこともままならない。俺はジルベたちの頭を撫でながら、四半刻ほどの時間を過ごすことになった。


 やがてファの家に到着したならば、朝方の支度である。

 普段は先に着替えや行水を済ませるが、雨季の期間は先に薪拾いや香草の収集を片付けるようにスケジュールが変更された。そののちに個室にこもって、水瓶の水で身を清めつつ、着替えと洗濯に取りかかる。洗ったTシャツや下帯などを風通しのいい場所に干したら、ひとまず完了であった。


「あらためて、昨日はお疲れ様。ターラのおかげで、盛り上がったかな?」


「うむ。ターラがいるとリミ=ルウやジバ婆もひときわ楽しそうなので、私も安らかな心地だ」


「うんうん。それでアイ=ファの安らかな様子でリミ=ルウたちもいっそう幸せな気分になって、幸福の永久運動だな」


「……わけのわからぬことを言うな」と、アイ=ファは優しい眼差しで苦笑を浮かべながら、俺の頭を小突いてきた。


「それにしても、送別の祝宴とやらの日取りは、いつ決せられるのであろうな。そろそろ私も、休息の終わりを考えるべき時期であるのだが」


「ああ、アイ=ファが休息の期間に入ったのは……使節団が到着する前々日あたりだったっけ。そろそろ半月が経っちゃうわけだな」


「うむ。ここまで来たならば、雨季の終わりを待ってもいいのだが……まあ、それも森の様子を見てからのこととなる。雨季の間に休息の期間を迎えたのは数年ぶりのことなので、想定し難い部分も多いのだ」


「狩人の仕事は、大変だよな。……アイ=ファの無事な帰りを、森に祈っているよ」


「そんな言葉は、休息が明けてからで十分であろう」


 アイ=ファはまた苦笑して、俺の頭を小突いてくる。

 ルウ家で一夜を明かすのは、俺たちにとっても楽しい限りであるのだが――こうして家人だけで過ごす時間も、俺たちにとってはかけがえのないものであったのだった。


 そうして四半刻ばかりくつろいでから、俺たちはかまど小屋に移動する。日時計はほとんど役立たずなので時間の計測は難しかったが、そろそろ下ごしらえの開始時刻であるはずなのだ。俺はアイ=ファとふたりで必要な食材を食料庫から持ち出しつつ、かまど番の到着を待つことになった。


 やがて一番乗りでやってきたのは、ファファの荷車を預けておいたユン=スドラである。

 そしてそちらの荷車には、ディンの家に滞在した4名の客人たちが同乗していた。トゥール=ディンにも下ごしらえの仕事があるため、ユン=スドラがディンの家まで巡って合流してくれたのだ。


「どうも、おはようございます。ディンの晩餐は如何でしたか?」


「は、はい。トゥール=ディンは料理の手腕も見事でしたので、大変参考になりました。……と、仰っています」


 朝から恐縮しきった様子で、カーツァがセルフォマの言葉を通訳してくれた。

 プラティカやニコラは以前にもディンの家にお世話になった経験があるので、落ち着いたものだ。それらの姿を検分してから、アイ=ファが「ふむ」と声をあげた。


「であれば、そのままディンの下ごしらえを検分すればよかろうに。けっきょく今日も、こちらにやってきたのだな」


「は、はい。菓子の下ごしらえは2日前にも拝見していますし、今日は同じ献立であるという話でしたので、ファの家に参上いたしました。……と、仰っています」


「こちらも日替わり献立は1種だけですけどね。そろそろ屋台の下ごしらえは、見物の甲斐がなくなってきたんじゃありませんか?」


「い、いえ。これだけ献立の種類があれば、数日ていどですべてを把握することは困難であるかと思います。お手数をおかけしますが、本日もよろしくお願いいたします。……と、仰っています」


「承知しました。何かあったら、ご遠慮なく声をおかけください」


 そうしてアイ=ファを含む5名の見物人に見守られながら、俺はユン=スドラとともに下準備を進めた。

 しばらくするとと、当番のかまど番が続々とやってくる。本日は、ラッツとベイムの血族を中心にした顔ぶれであった。


 現在はルウ家がトゥランの商売を受け持つ日取りであるため、俺が管理するのはこのファの家のかまど小屋だけだ。ゆくゆくはトゥランの商売の下ごしらえも見学させていただきたいと、セルフォマからは申し渡されていた。


(まあ、下ごしらえは料理の基盤だもんな。セルフォマだったら、それを二の次にすることもないか)


 総勢10名ていどの人数で、俺たちは粛々と作業を進めていく。

 そのさなか、セルフォマの言葉を受けたカーツァがおずおずと声をあげた。


「こ、こちらの下ごしらえは日ごとでずいぶん顔ぶれが入れ替わっているのに、誰もが高い水準に達しているため、毎日同じ質を保つことができるのでしょう。これだけの技量を持つ料理番が何名存在するのかと、感じ入ってしまいます。……と、仰っています」


「あたしらなんて、アスタたちの足もとにも及ばないけどねぇ。でも、そんな風に言ってもらえるのは光栄な限りだよ」


 ラッツ分家の壮年の女衆が陽気な調子で応じると、カーツァはわたわたと慌ててしまう。しかし、カーツァはそういう人間味のあふれる姿によって、森辺で信頼と親愛を勝ち取っているのだった。


 ともあれ、俺たちは作業を進めていく。

『ケル焼き』のタレを調合したり、『玉焼き』のタネを作ったり、『ギバまん』のために肉や野菜を切り分けたり――おおよそは、手慣れた作業である。しかしまあ、10名ばかりのかまど番が二刻がかりで仕上げていくのだから、確かにそのすべてを把握するには長きの時間がかかるのだろう。昨日ぐらいまではそのひとつひとつの作業に質問が飛ばされて、細かい概要を伝えることになったのだった。


 3度目の見学でようやく質問のネタが尽きたのか、セルフォマは静かな眼差しでじっと俺たちの姿を検分している。

 これまでに得た情報と、宿場町で食した料理の味わいと、現在目にしている調理の内容を、頭の中で組み合わせているのだろうか。内心はまったくうかがえないものの、セルフォマが真剣であることだけは疑いがなかった。


「あんたもシムのお城では、アスタみたいにこういう場を取り仕切ってるのかい?」


 と、さきほどの女衆がセルフォマに気安く問いかけた。

 カーツァがそれを通訳して、セルフォマの言葉をまた通訳する。こんな何気ない会話でも、カーツァの苦労に変わりはなかった。


「わ、私はあくまで副料理長という立場ですので、料理長の補佐が本分です。ただし、小さな祝宴や晩餐会などでは管理を任される機会もありますので、こうした見学は大変参考になっています。……と、仰っています」


「なるほど。それじゃあ、ユン=スドラみたいなもんなのかな。あんたはアスタの右腕っていう風格だもんねぇ」


「と、とんでもありません。わたしなんて……せいぜい、指の1本ぐらいです」


「ははは。指1本じゃ、留守を任せることもできないだろうさ。右腕1本でも足りないぐらいだろうね」


 俺も心から同意したかったが、赤い顔をしたユン=スドラに牽制の眼差しを向けられたので口をつつしんでおくことにした。


「それで、もうすぐ送別の祝宴ってやつが開かれるんだろう? あんたはまた、料理をお披露目するのかい?」


「い、いえ。ジェノスには扱える食材が少ないので、満足な宴料理を仕上げるのは困難です。私はアスタや他の方々の手並みを拝見して、今後の参考にさせていただく所存です。……と、仰っています」


「そうかい。まあ、城下町の仕事は若い女衆に譲ってるんで、どっちみちあたしが出向く機会はないんだけどさ。いつかあんたがラッツの家に来るようだったら、その手並みを拝見したいもんだねぇ」


「は、はい。今はみなさんの手腕を見学するので手一杯ですが、引き続きジェノスに滞在することが許された折には、そういった機会をもうけて御恩を返したく思っています。……と、仰っています」


 そんな風に答えてから、カーツァはこっそり溜息をついていた。セルフォマの居残りが許されたならば彼女も一蓮托生となる可能性が大であるので、不安でならないのだろう。俺はセルフォマの居残りが許されることを期待する身であったが、カーツァの心情だけは思いやらずにいられなかった。


 そうして下ごしらえの目処がついたタイミングで、今度は屋台のみ当番であった面々がやってくる。ユン=スドラなどはかなりの頻度で下ごしらえから参加していたが、他の氏族はなるべく数多くの家人が商売に関われるように、人手を分けているのだ。裏を返すと、スドラは家人が少なくて人手に限りがあるため、そのぶんまでユン=スドラが奮闘しているわけであった。


 そんなわけで、屋台の常勤たるレイ=マトゥアとマルフィラ=ナハムもこの刻限から姿を現したわけだが――そんなレイ=マトゥアが、普段以上に明るい面持ちで俺に呼びかけてきた。


「アスタ、聞いてください! あの竜の玉子という食材を使った料理が、もう完成間近であるそうです!」


「あ、い、いえ、決してそういうわけでは……」


 と、マルフィラ=ナハムは慌てた顔で、レイ=マトゥアの腕を引っ張る。

 おおよその女衆は、わけがわからずきょとんとしており――そして、セルフォマはわずかに目を細めて、プラティカは鋭く目を光らせていた。


「マルフィラ=ナハム、研究、着手した、昨日です。それで、完成、近づいたのですか?」


「い、い、いえ、決して完成に近づいたわけではなく……あ、一歩は前進しましたので、完成に近づいたことは確かですけれど……で、でも、まだまだ完成したわけでは……」


「でも、昨日の時点で素晴らしい出来栄えでしたからね! あそこから一歩進んだのなら、もう完成は間近なのではないかと思います!」


 もともと元気なレイ=マトゥアが、リミ=ルウのようにはしゃいでしまっている。彼女はマルフィラ=ナハムと仲良しであるため、その勇躍を喜んでいるのだろう。俺としては、感心するばかりであった。


「マルフィラ=ナハムは、この朝方の時間も研究にあてていたんだね。でも、昨日と今日だけであんな奇妙な食材の使い道を考案できたなんて、本当にすごい話じゃないか」


「い、い、いえ、本当にそんな、大した話ではなくて……ま、まだ具材の吟味もできていませんし……」


「もう具材の吟味に取り掛かるぐらい進んでるんだね。さすがマルフィラ=ナハムだなぁ」


 そこまで伝えてから、俺はレイ=マトゥアの熱情にストップをかけることにした。


「じゃあ、その話は商売に後にゆっくり聞かせていただくね。遅刻したらまずいから、今は宿場町に出発しよう」


「そうですね! 今日の勉強会も、楽しみです!」


 ということで、俺たちは出発の準備を整えることにした。

 マルフィラ=ナハムはほっとした面持ちで、積み込みの仕事を手伝ってくれている。その間も、プラティカとセルフォマはそれぞれ異なる眼差しでその姿を追っていた。


(やっぱりここぞという場面では、マルフィラ=ナハムが力を見せてくれるなぁ。レイナ=ルウが聞いたら、また大変そうだ)


 そんな思いをひそかに抱えつつ、俺は荷台に乗り込んだ。アイ=ファが同行する際は、決して手綱を譲ってくれないのだ。

 そうして俺たちは、再びルウ家に向かったわけだが――そちらにも、ちょっとしたサプライズが待ち受けていた。この朝方に、ジェノス城から使者がやってきたのだそうだ。


「送別の祝宴は、黄の月の10日に決定したそうです。アスタにもくれぐれもよろしくお伝え願いたいと、使者の御方がそのように仰っていました」


 レイナ=ルウはきりりとした面持ちで、そんな風に告げてきた。

 黄の月の10日――つまり、3日後ということだ。まあ、送別の祝宴は雨季が明ける前にと伝えられていたので、こちらも心の準備はできていた。


「屋台の休業日から1日ずれているので、使者の御方はたいそう恐縮していましたが、こちらは問題ないとお伝えしておきました」


「うん。それならいっそ、前日から連休ということにさせてもらおうか。下準備にも、ちょっと時間を割きたいところだしね」


「そうですね。では、トゥール=ディンにも了承をいただいて……今日はわたしが集落に居残る日取りですので、宿屋の方々への伝達はよろしくお願いいたします」


 森辺の屋台の休業日は宿屋の屋台村にお客が流れるため、普段以上の料理が必要になるのだ。

 俺はレイナ=ルウに「了解したよ」と答えてから、プラティカが手綱を預かる客人のトトス車を目指すことにした。


 そうして俺が送別会の旨を伝えると、カーツァはひとりであわあわとしてしまう。いっぽうセルフォマの人形めいた無表情に変わりはなかった。


「送別会の日取りが決定したということは、交易にまつわる会談もひと区切りついたということですよね。今日から祝宴の日まで、セルフォマはどのように過ごすことになるのでしょうか?」


「そ、それは、リクウェルド様におうかがいしないとわかりません。屋台の終業時間までには事情をお伝えできるかと思いますので、それまでお待ちいただけますでしょうか? ……と、仰っています」


「ええ、もちろんです。ただ、これから3日間は勉強会ではなく、献立の考案と作業手順の確認などに終始するかと思いますので、ご了承ください」


「は、はい。それもまた、私にとっては得難い経験になるかと思われます。……と、仰っています」


 そんな風に語るカーツァは、ひとり不安げな面持ちだ。

 ともあれ、祝宴の日取りは決定された。東の王都の使節団がジェノスに滞在するのも、あと4日限りである。


 雨季の終わりと同時に、ポワディーノ王子やリクウェルドとのお別れが目の前に迫っている。そのように考えると、俺の胸中にはさまざまな感情が渦巻いたのだった。

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