幕間 ~最長老の生誕の日~
2024.7/29 更新分 1/1
・今回は全7話の予定です。
東の王都の使節団を歓待する晩餐会から、2日後――朱の月の29日である。
その日はルウ家の最長老たるジバ婆さんの生誕の日であったため、俺とアイ=ファは祝いの晩餐に招かれることに相成った。
屋台の商売を終えた後、俺とアイ=ファはそのままルウ家に直行する。アイ=ファも現在は休息の期間であるため、屋台の商売に毎日同行してくれているのだ。ファの家の人間ならぬ家人たちは朝の行きがけにルウ本家に預けておいたので、そちらで再会することができた。
本日はひさびさに、ルウ家で夜を明かすことになる。
とはいえ、東の賊を警戒していた折には、ずっとルウの集落に滞在していたわけであるが――あの頃は護衛役の兵士や狩人に囲まれつつ、空き家のひとつを拝借していたのだ。ジバ婆さんやリミ=ルウと同じ寝所で眠るのはひさびさのことであったので、アイ=ファも内心では存分に喜びを噛みしめているはずであった。
そうしてルウ家に到着したのち、アイ=ファはずっとジバ婆さんのもとで過ごしていた。
いっぽう俺は晩餐の支度を開始するまで、ひたすら新たな食材の研究である。試食の祝宴はもう4日後に迫っていたので、1日も無駄にはできなかったのだった。
しかしまた、優先すべきはジバ婆さんのための祝いの晩餐である。
食材の研究は一刻半ほどで切り上げて、残りの時間はすべて晩餐の準備にあてがうことにした。
「レビたちは、もうひと通りの食材を味わった頃かな」
調理のかたわらで俺がそのように告げると、レイナ=ルウはきりりと引き締まった面持ちで「そうですね」とうなずいた。
本日は宿場町のサトゥラス伯爵家のお屋敷で、新たな食材のお披露目会が敢行されることになったのだ。そちらでも、東の王都の料理人たるセルフォマがじきじきに出向いて説明役を担うのだという話であった。
「宿場町や城下町では新しい食材がどんな風に使われるのか、楽しみなところだね。……まあその前に、俺が一番槍で手際を披露することになっちゃったけどさ」
「はい。やっぱりアスタの手際は、わたしたちにとっても何より参考になります。明日からも、どうぞよろしくお願いいたします」
と、レイナ=ルウはますます凛々しい顔つきになってしまう。
そのさまに、リミ=ルウが「あはは!」と無邪気に笑った。
「レイナ姉、また眉のところがきゅーってなっちゃってるよー! 新しい食材が増えると、いっつもそうだよねー!」
「うん。新しい食材をどんな風に使いこなすかで、どうしても頭がいっぱいになっちゃうからね。本当は、一日中かまど小屋にこもりたいぐらいだよ」
「それじゃあまるで、ヴァルカスじゃん。いくらヴァルカスの手際に感心してるからって、そんなところまで見習わなくていいんじゃない?」
と、ララ=ルウはすました顔で肩をすくめる。ルウ本家の晩餐を手掛けるのは、毎度お馴染みこの頼もしい姉妹たちであった。
「そのヴァルカスだって新しい食材を使いこなすのに何ヶ月もかかるんだから、レイナ姉もそんなに焦ることないでしょ。それよりも、目の前の仕事に集中しないとね」
「うん、わかってるよ。もう雨季が明けるまで日がないから、城下町で売りに出す屋台の料理をしっかり仕上げないとね」
「だからそれも、先の話でしょ。もー、アスタからも何とか言ってくれない?」
「あはは。でも、その情熱がレイナ=ルウの持ち味だからね。無理に手綱を絞るよりは、正しい方向に首を向けさせるように気をつけてあげればいいんじゃないのかな」
「わ、わたしはトトスですか?」と、レイナ=ルウは頬を赤らめる。
リミ=ルウとララ=ルウは楽しげに笑い声をあげて、その場の空気はいっそう和んだ。
そのタイミングで、表がいくぶん騒がしくなってくる。
男衆が森から帰ったのかと、俺たちは外の様子を気にしながら調理を続けていたが――やがて戸板から顔を覗かせたのは、仏頂面のアイ=ファであった。
「あれ? どうしたんだ? 何か、騒がしかったみたいだけど……」
「うむ。思わぬ客人がやってきたのでな」
どうやら雨はやんでいるらしく、アイ=ファは雨具を装着していない。そんなアイ=ファがぶすっとした面持ちで腕を組むと、戸板の陰から高らかな笑い声が響きわたった。
「いやあ、最長老との語らいをお邪魔してしまって、申し訳なかったね! 今日はこのまま城下町に引っ込むつもりだから、晩餐の場では思うぞんぶん親睦を深めておくれよ!」
その物言いと甲高い声音だけで、もう正体は明らかである。
俺は苦笑を浮かべつつ、戸板のほうに近づいていった。
「おひさしぶりです、ティカトラス。ついにジェノスに戻られたのですね」
「うん! あれこれ雑用を片付けていたら、すっかり遅くなってしまったよ! アスタも変わりないようで、何よりだね!」
それは西の王都の貴族、ダーム公爵家のティカトラスであった。
俺が戸板から顔を覗かせると、旅用のフードつきマントを纏ったデギオンとヴィケッツォもかたわらに控えている。そしてデギオンは、ティカトラスの分までトトスの手綱を預かっていた。彼らは雨季のさなか、車も使わずにトトスで駆け巡っていたようである。
「さっきアイ=ファに聞いたのだけれども、もう4日ばかりも前に東の王都の使節団が到着しているのだって? そんなこともありえるかと想像はしていたけれど、使節団はたった20日でジェノスまで駆けつけてきたのだね! まあ、それだけあちらも事の重大さをわきまえているということだろう! 今のところは平穏そのもののようだし、ジェノスにとっても何よりであったね!」
「ええ、そうですね。それでティカトラスも、これから城下町に向かわれるのですか?」
「うん! この4日間の遅れを取り返さないとね! そこでアスタに助言を賜りたいのだけれども、東の王都から届けられたという食材の中で優先して買いつけるべき品は、どれだろう?」
その性急な物言いに、俺は思わず目を白黒させてしまった。
「ど、どうしてティカトラスがそんな話に関心をお持ちなのですか? そちらは織物やら宝石やらを買いつけるおつもりなのでしょう?」
「もちろんそちらが主体だけれども、せっかくだから可能な限りは食材も買いつけたいじゃないか! ここしばらくで、それなりの段取りを整えることもできたからさ! それでも西の王都に運べる荷物には限りがあるから、なるべく厳選しておきたいのだよ!」
どうもティカトラスは遊楽を楽しんでいたのではなく、来たるべき交易に備えて駆けずり回っていたようだ。
しかしまあ、遊楽のほうも同時進行で存分に楽しんでいたのだろう。極彩色のフードつきマントを着込んだティカトラスは、ジェノスから出ていった際よりもいっそうの活力をみなぎらせていた。
「ええと、俺もまだ2日前に食材を持ち帰ったばかりで、確たることは言えないのですよね。食材の質に関しては、4日後の祝宴をお待ちいただいたほうがいいかもしれません」
「祝宴! 祝宴とは!? 今度は如何なる祝宴が開かれるのかな!?」
ティカトラスは満面に喜色をほとばしらせて、アイ=ファはいっそうの仏頂面に成り果てる。
しかしティカトラスが戻ってきたからには、試食の祝宴にだって招待されることは確実であろう。ここで隠しても、詮無き話であった。
「以前にゲルドや南の王都の食材が届けられた折にも、試食の祝宴というものが開かれていたでしょう? また俺が、5日ばかりの期間で手際をお披露目することになったというわけです」
「うんうん、なるほど! またアスタは、故郷で似たような食材を扱った経験を持ち合わせていたということだね! さすが『星無き民』は、貫禄が違うなあ!」
「……あなたとて、迂闊に『星無き民』の名を喧伝するべきではないと述べていた身ではなかったか?」
アイ=ファの鋭い指摘にも、ティカトラスはにっこり笑うばかりである。
「この場にはわたしたちしかいないのだから、何も言葉を飾る必要はないさ! まあ、ラオの方々は『星無き民』に特別な思い入れを抱いている可能性が高いから、城下町では口をつつしむべきだろうね! それじゃあ、食材の質に関しては試食の祝宴とやらを待つことにするよ! いやあ、楽しみだなあ! こんなにすぐさまアイ=ファの美しい宴衣装を目にできるとは考えていなかったから、喜びもひとしおだね!」
「いや、だから――」
「それでは城門を閉められてしまう前に、城下町に向かおうかな! 今なら使節団の面々と晩餐をともにできるかもしれないからね! それじゃあ、最長老にもよろしく伝えてくれたまえ!」
ということで、ティカトラスの一行は風のように立ち去ってしまった。
アイ=ファは腕を組んだまま、深々と溜息をつく。俺は精一杯の思いを込めて、アイ=ファの苦労をなだめることにした。
「使節団の人たちがみんなつつましいから、ティカトラスがいっそう騒がしく感じられちゃうな。まあ、大人しく城下町に向かってくれたから、よかったじゃないか」
「ふん。たとえこれが晩餐のさなかであっても、ドンダ=ルウが同席など許すまい。今日はルウ家にとって、何より大切な日であるのだからな」
「うん。そんなおめでたい日に、そんな仏頂面をしているのはもったいないよ。晩餐ももうすぐ仕上がるから、ジバ婆さんのもとに戻ってあげな」
アイ=ファは「そうだな」とやわらかな眼差しを取り戻し、俺の頭を優しく小突いてから、母屋のほうに戻っていった。
◇
そして、日没――晩餐の刻限である。
ただし、最長老たるジバ婆さんの生誕の日には、特別な儀式が存在する。分家の家人たちも本家を訪れて、ひとりずつお祝いの言葉と花を捧げるのだ。一昨年の生誕の日は収穫祭と同時開催であったため、俺とアイ=ファがこの儀式を目にするのは去年が初めてのことであった。
ただこの1年で、ルウの分家は7つから4つに減じている。
3つの家が、シンの家として独立したためである。
よって、シン・ルウ=シンやディグド・ルウ=シンの家の人々は姿を現さない。俺がよくよく見知っているのは、ダルム=ルウとシーラ=ルウの若い夫妻に、あとはジーダを家長とする家の面々のみであった。
「最長老ジバ=ルウ、88度目の生誕の日、おめでとうございます」
家長たるダルム=ルウとともに進み出たシーラ=ルウが、ゆったりと微笑みながらミゾラの白い花を捧げる。その腕に抱かれているのは、ようやく生後5ヶ月を過ぎたドンティ=ルウだ。もそもそと身を揺する赤子の姿を、ジバ婆さんは極限まで細めた目で愛おしそうに見つめていた。
「ドンティ=ルウは、ますますダルムに似てきたみたいだねぇ……それでいずれは、ドンダみたいに厳つい顔になっちまうのかねぇ……」
ジバ婆さんのかたわらに座したドンダ=ルウは、「うるせえぞ」と言い捨てる。
いっぽうダルム=ルウは、とても穏やかな眼差しでジバ婆さんを見返した。
「その前に、まずは俺が父ドンダに追いつかなければな。……最長老ジバは1日でも長く生きて、ドンティが健やかに育つ姿を見届けてもらいたく思う」
「うん……これ以上の長生きを望むなんて、強欲に過ぎるだろうけれど……少しでも長く、みんなと同じ幸せにひたりたいと願っているよ……」
俺やアイ=ファはリミ=ルウたちと一緒に広間の脇に控えて、それらの光景を横から見守っていた。
ダルム=ルウの一家が退くと、次に血の近い分家の面々が進み出る。ただし、ドンダ=ルウの甥にあたるシン・ルウ=シンやディグド・ルウ=シンが独立したため、他の分家の人々が如何なる血の縁を持っているのかは把握しきれていなかった。
(でも、この人たちとだってもう3年近いつきあいなんだからな)
こまかな素性や名前などをわきまえていなくとも、もはや顔すら見知っていない相手などというものはルウの集落に存在しない。数々の祝宴や勉強会などをともにすることで、俺はおおよその相手と縁を繋いできたつもりであった。
さらにもうひとつの分家をはさんで、最後にジーダ家の面々が進み出る。
家長のジーダ、母親のバルシャ、家人のミケルにマイムという顔ぶれだ。彼らがルウの家人となってからは、すでに1年と4ヶ月ぐらいが過ぎていた。
言うまでもなく、ルウ家においては彼らがもっとも新参の家人だ。
しかしまた、彼らは森辺の家人として生きることを許された喜びを胸に、日々を過ごしている。そんな彼らであれば、他の家人たちにも負けない思いで、ジバ婆さんの生誕の日をお祝いできるはずであった。
「88歳なんて、森辺の外でもそうそう見かけない年齢だよ。でも、最長老はまだまだ元気だから、どうかその調子で百まで生きておくれよ」
こちらの家でもっとも闊達な気性をしたバルシャが、一同を代表する形でそのように告げた。
ジバ婆さんは「ありがとうねぇ……」と、また目を細める。
「シンの家が分けられて、ルウの集落もすっかり物寂しくなっちまったけど……あんたたちのおかげで、ずいぶん賑やかになっているよ……どうかこれからもルウの家人として、家を盛り立てておくれ……」
「うむ。決して力は惜しまないと、母なる森の前で誓おう」
バルシャと異なり生真面目な気性をしたジーダは、精悍な面持ちでそのように応じた。
ミケルは静かにジバ婆さんの姿を見つめており、マイムは嬉しそうに微笑んでいる。そんな面々からも一輪ずつの花が贈られて、ついに分家の儀式は終了した。
お次は、本家の家人たちからの祝福だ。
家長のドンダ=ルウ、その伴侶のミーア・レイ母さん、ドンダ=ルウの母であるティト・ミン婆さん、長兄のジザ=ルウ、その伴侶のサティ・レイ=ルウ、その子のコタ=ルウ――まだ1歳になったばかりのルディ=ルウは飛ばされて、末弟のルド=ルウ、次姉のレイナ=ルウ、三姉のララ=ルウ、末妹のリミ=ルウという順番で、祝福の言葉と花が贈られていく。そして最後が、客人たる俺とアイ=ファであった。
「この年も祝いの日に招いてもらうことがかない、心から嬉しく思っている。私は血族ならぬ身だが、家人の面々と同じようにジバ婆が1日でも長くともにあれることを願っている」
アイ=ファは凛々しい表情で、ただその青い瞳に限りなく優しい光をたたえて、ジバ婆さんに白いミゾラの花を贈った。
これまでに贈られた花に埋もれるようにして座したジバ婆さんは、アイ=ファから受け取った花を大切そうに胸もとにかき抱く。
「ありがとうねぇ……あたしもアイ=ファの行く末を、1日でも長く見届けたいと願っているよ……」
アイ=ファは「うむ」と応じてから、俺のために場所を空けてくれた。
俺は膝で移動して、ジバ婆さんと相対する。枯れ枝のように痩せ細ったジバ婆さんは、子供のように小さかったが――ただその小さな身体には、他の森辺の民と変わらない生命力が宿されているように思えてならなかった。
「88度目の生誕の日、おめでとうございます。俺もジバ=ルウがいつまでもお元気に過ごせることを願っています」
「うん……アスタと出会って、もうすぐ3年も経つんだねぇ……あたしはアスタのおかげで、ここまで生き永らえることができたんだから……その感謝の思いは、1日だって忘れたことはないよ……」
「とんでもありません。みんなの存在があってこその、今ですよ。……でも、自分もそのひとりになれたことを、心から嬉しく思っています」
俺は薪拾いのさなかに摘んだ黄色いミゾラの花を、ジバ婆さんに手渡した。
それを受け取るジバ婆さんの指先は、リミ=ルウよりも細くて骨張っている。だけどやっぱり、弱々しく感じることはまったくなかった。
「では、祝いの晩餐を開始する」
ドンダ=ルウの厳粛なる声を聞きながら、俺は下座に着席した。
ルディ=ルウが草籠から身を乗り出していたので、サティ・レイ=ルウは笑顔でその小さな身体をすくいあげる。そのさまを見届けてから、ドンダ=ルウは食前の文言を詠唱した。
俺とアイ=ファも、家族の人々とともにそれを復唱する。
今日という日にルウ家の人々と同じ喜びを分かち合えるのは、本当に得難い話であった。
「さー、メシだメシだ。生誕の日は段取りがなげーから、すっかり腹が減っちまったぜ」
感傷とは無縁なルド=ルウが、いつもの調子で大皿に手をのばす。
本日のメインディッシュは、ハンバーグである。その献立を選んだのは、レイナ=ルウであり――もしかして、このハンバーグこそがジバ婆さんに生きる喜びを思い出させたという意識があっての選択であったのかもしれなかった。
ただしハンバーグは、オーソドックスなものとギバ・タンの角切り入りの2種が準備されている。前者は歯の弱いジバ婆さんのため、後者は強い噛みごたえを好むドンダ=ルウのための献立だ。ドンダ=ルウもすっかりハンバーグに食べ慣れたと言い張っていたが、やはりギバ・タンの角切りが入っているに越したことはないというのが実情であるようであった。
あとは、ルド=ルウのためにチャッチ・サラダ、サティ・レイ=ルウのために炊き込みシャスカ等々、なるべく家族の好物を詰め込んだ献立になっている。こんなおめでたい日にはかなう限り喜びを上乗せさせたいという、これはリミ=ルウの提案による結果であった。
そんなさまざまな思いに支えられて、その場にはとても温かな空気が満ちている。
そんな中、ルド=ルウがまた気安く声をあげた。
「今は平和でよかったよなー。この前の騒ぎがまだ収まってなかったら、生誕の日を祝うのもひと苦労だったろ」
「ああ、本当にねぇ。逆に、あの騒ぎが前の月に始まってたら、どうしたって誰かの生誕の日にぶつかってたんじゃないのかい?」
ミーア・レイ母さんもまた、軽妙な調子で言葉を返す。
東の王家にまつわる騒乱が勃発したのは赤の月で、その前月たる茶の月にはルウ本家の家人の生誕の日が4つばかりも固まっていたのだ。さらには、家を出たヴィナ・ルウ=リリンも同じ茶の月の生まれであるはずであった。
「それどころか、東の王子ってのがジェノスにやってきたのは、アイ=ファの生誕の日の次の日だったんだろう……? それが1日ずれていたらと思うと、ぞっとしちまうねぇ……」
「あー、そーだったそーだった。そこはやっぱり、森か西方神が気をきかせてくれたんじゃねーの?」
「だったらあんな騒ぎになる前に、東方神にどうにかしてほしかったもんだけどね」
と、ララ=ルウまでもが軽口に加わる。それはきっと、あの騒乱の記憶が過去のものになったという証であるのだろう。
しかし、純真なるアイ=ファはとても申し訳なさそうに眉を下げてしまった。
「あの時期はルウの血族に多大な迷惑をかけてしまい、心から申し訳なく思っている。ただ、もしも騒乱のさなかにルウの祝いの日がやってくるようであれば、我々もその日だけは別なる氏族に助力を願っていたことだろう」
「ルドたちの軽口に、そんな真剣になることはないよ。森辺の同胞に力を添えるのは、当然の話さ」
そんな風にアイ=ファをなだめてくれたのは、ティト・ミン婆さんだ。そしてティト・ミン婆さんはやわらかく微笑みながら、まだサティ・レイ=ルウの腕の中でじたばたともがいているルディ=ルウの頭を優しく撫でた。
「それよりあたしが気にかかってたのは、このルディの生誕の日だね。初めての生誕の日の祝いに家長がいなかったら、あまりに可哀想だったからさ」
ルディ=ルウの生誕の日は、今から4日前――つまりは、東の王都の使節団が到着した当日であったのだ。もしも城下町まで招集されたドンダ=ルウが夜まで家に戻れなかったら、一大事であったわけであった。
「ルディ=ルウも、もう1歳なんですもんね。何だかあっという間で、ちょっと信じられないぐらいです」
元気なルディ=ルウの姿を見やりながら、俺はそのように発言した。
ルディ=ルウはまだ言葉を発することも歩くこともままならないが、すくすくと大きく育って、日中は元気に広間や寝所を這い回っているそうなのだ。褐色の髪もすっかり生えそろい、色の淡い瞳はきらきらと明るく輝いていた。
「ルディは、どんどんやんちゃになってくよねー。サティ・レイも、おなかが空いたでしょ。あたしがちょっと代わってあげるよ」
「ありがとう、ララ。でも、どうせもうすぐ乳をせがむ頃合いだろうから、それが済んでからゆっくり晩餐をいただくわ」
そのように応じるサティ・レイ=ルウも、我が子に負けないぐらい元気な様子だ。思えば1年前の今日という日には、ルディ=ルウを生んだばかりのサティ・レイ=ルウも憔悴し果てており、コタ=ルウをとても心配させていたのだった。
(あれから、もう1年が過ぎたんだもんな。本当に感慨深いや)
ルディ=ルウは1歳に、コタ=ルウは4歳になっている。数日後にはリミ=ルウが11歳で、その後は俺が20歳だ。まったく当たり前の話だが、誰でも平等に齢を重ねているのだった。
「そういえば、俺が出会った頃のコタ=ルウは、きっと今のルディ=ルウぐらいだったんだろうね」
俺がそのように呼びかけると、ひとりで上手に食事を進めていたコタ=ルウが嬉しそうに口もとをほころばせた。
「コタ、あんまりおぼえてないけど……ルディとおなじぐらい、ちっちゃかった?」
「うん。でも、こんな風に暴れる姿は見た覚えがないね。泣き声だって、ほとんど聞いたことがないぐらいだしさ」
「コタは本当に、手がかからなかったからねぇ。そういうところは、ジザによく似ているよ」
ミーア・レイ母さんの言葉に、コタ=ルウはいっそう嬉しそうな顔をした。
「コタ、あんまりおぼえてないけど……とうににてるなら、うれしい」
「うんうん。いっぽうルディは、ルドにそっくりだねぇ。やっぱり名前が性格を育むのかねぇ」
「へん。だったらルディも、狩人になりてーとか言い出すんじゃねーの? ジザ兄は、ひと苦労だなー」
「……ルドよ。たとえ軽口でも、あまり不吉なことを言うものではない」
「……ジザ=ルウにとって、私はそうまで不吉な存在なのであろうか?」
ジザ=ルウやアイ=ファの真面目くさった発言に、たくさんの人々が笑い声をあげる。もちろん俺も、そのひとりであった。
「こんなに安らかな心地で今日という日を過ごせるのも、東の王子と確かな絆を結べたためですね。尽力してくださったジザたちには、心から感謝しています」
サティ・レイ=ルウがそのように語りながら、伴侶のほうを振り返る。
しかしジザ=ルウは沈着冷静に、「いや」と応じた。
「俺などは、なんの力にもなっていない。東の王子ポワディーノに関しては、三族長と、ファの両名と……そして、ガズラン=ルティムの尽力こそが大きかったのだろうと思う」
「あー、ガズラン=ルティムは妙にあいつと気が合うみてーだもんなー。ガズラン=ルティムって、変わった連中をひきつける才能でもあるんじゃねーの?」
「変わった連中って、俺も含まれるのかな?」
「アスタは逆に、ガズラン=ルティムをひきつけた側だろー。それよりも、フェルメスとかだよ。この前の城下町でも、ずいぶん盛り上がってたみたいじゃねーか」
「ああ、同じ席になれて、フェルメスは嬉しそうだったね。ポワディーノ殿下やリクウェルドなんかとは別の席だったから、けっこう気軽に過ごせたんじゃないかな」
「そう考えると、ガズラン=ルティムってでっかい苦労を背負ってるよねー。ま、本人もまんざらじゃないみたいだけどさ」
ララ=ルウの言う通り、ガズラン=ルティムは決して義務感でフェルメスやポワディーノ王子を相手取っているわけではないのだろう。しかしまた、純然たる友誼だけとも思えない。フェルメスや、当時のポワディーノ王子には、どこか危うい部分も備わっており――ガズラン=ルティムは、そういう人々を放っておけない気質なのかもしれなかった。
(おかげでポワディーノ王子は、すっかり復調したもんな。フェルメスは……最近じっくり話し込む機会もなかったけど、どうなんだろう。任期の話もあるし、ちょっと心配だな)
俺がそのように考えていると、ジバ婆さんの手伝いをしていたレイナ=ルウが「どうしたの?」と声をあげた。
「なんだか、ぼんやりしてるみたいだけど……眠くなっちゃった?」
「いや……この1年のことを、噛みしめていたんだよ……本当に、色んなことがあったよねぇ……」
ジバ婆さんは、皺くちゃの顔をいっそう皺くちゃにして笑った。
「あの頃はサティ・レイも大変そうだったけど、すっかり元気になったし……モルン・ルティム=ドムは、ドムに嫁入りすることができたし……ダルムやヴィナも、元気な子を授かることができたし……シンっていう新たな家が分けられることになったし……南の王子や東の王子なんてもんがやってきたり、飛蝗なんてもんに森を荒らされたり、大変なこともいっぱいあったけど……楽しいことのほうが多かったって思えるのは……本当に、幸せなことだねぇ……」
「あー、ダカルマスたちがジェノスに来たのも飛蝗の騒ぎも、みんなこの1年の話なんだっけ? そー考えると、慌ただしいこったなー」
「うん……でも、その前の1年だって、それに負けないぐらい慌ただしかったんだから……きっとこの先も、同じぐらい慌ただしいんだろうねぇ……」
そう言って、ジバ婆さんはその場の全員を見回した。
垂れ下がったまぶたの下で、その瞳はいつしか透徹した光をたたえている。
「あたしはもう、その慌ただしさを眺めることしかできないけど……あんたたちは、どうか頑張っておくれよ……あたしもできるだけ長く生きて、そいつを見届けたいと思ってるからさ……」
ルウ家の面々はそれぞれの気性に見合った面持ちで、ジバ婆さんにうなずき返した。
そしてもちろん俺とアイ=ファも、その輪の中に加わっている。今さら言葉で確認するまでもなく、俺たちはジバ婆さんのように立派な人間に見守られているからこそ、どんな苦境でもめげずに尽力できるのだった。
(試食の祝宴なんて、邪神教団や東の賊の騒ぎに比べたら、苦労とも呼べないほどのことだけど……これこそ、かまど番にしか務まらない役割なんだ。少しでも森辺やジェノスやラオリムのためになれるように、俺も頑張ろう)
俺は、そんな思いを新たにして――そしてその後も、ルウ家の温かい空気によって存分に英気を養われたのだった。




