②トトスのギルル(下)
2014.12/31 更新分 1/1
2015.1/3 一部、文章を修正
「お帰りなさいませ、我が家長」
その日も無事に宿場町での商売を終えて、せっせと仕込みの作業に励んでいると、60キロ級のギバを抱えたアイ=ファが単身で戻ってきた。
アイ=ファは、ついに昨日から、狩人としての仕事を再開させたのである。
左肘の脱臼をしてから、およそ20日。
いつでも仏頂面のアイ=ファであるが、やはり昨日からはその瞳には今まで以上の充足した光が蘇っているように思えてならない。
俺の挨拶に「うむ」と、うなずきかけてから、アイ=ファは不審げに目を細めた。
家の裏に設置されたかまどの前にて。俺は商売用のアリアを炒めており、近所の女衆がその手さばきを観察している。そこまでは珍しくもない光景であるのだが、闖入者が2名ほどまぎれこんでいることに、目ざといアイ=ファは即座に気づいたのだろう。
すなわち、リミ=ルウとレイト少年である。
「うわあ、すごい! それ、アイ=ファがひとりで仕留めたの? 怪我が治ったばかりなのに、すごいねー!」
にこにこと笑っているリミ=ルウのほうは、まあそれほど気にもならぬはずだ。家の仕事さえなければ、毎日だってファの家に遊びに来たがるリミ=ルウであるのだから。
が、問題は、その隣りで静かに微笑む少年のほうである。
西の民が森辺の集落に足を踏み入れるというのは、禁則事項ではないものの、いまだに椿事であるはずだった。
「お前はあのカミュア=ヨシュの弟子だと名乗っていた子どもだな。どうしてお前がこのような場所にいるのだ?」
「はい。僕はトトスの乗り方の手ほどきをするためにやってきました」
アイ=ファは口をつぐみ、かまどから少し離れた木の枝にギバの巨体を吊るし上げてから、物騒な目つきで俺に近づいてきた。
「どういうことか説明してもらおう、アスタ」
「はい。説明させていただきます」
炒め終わった大量のアリアを木皿に移してから、俺はカミュアと取り交わされた会話の内容を報告した。
「――ということで、家長の意見を聞きたいのだけれども、いかがだろう?」
「どうして意見を聞く前に西の民などを森辺に招き入れるのだ?」
「いや、俺も最初にアイ=ファの許可を得ようとは思ったんだけど……」
「すみません。カミュアがアスタに僕を押し付けたんです。カミュアは今ちょっと色々と仕事がたてこんでいるので、代わりに僕がトトスの乗り方を手ほどきしてあげればよい、と」
親の仇であるザッツ=スンの破滅を経て――レイト少年に、これといった変化は見られなかった。少なくとも、表面上は。
亜麻色の髪と淡い茶色の瞳を持つ、齢10歳の利発そうな少年。その朗らかな顔をじっとにらみつけてから、アイ=ファは再び俺のほうに向きなおった。
「あのとぼけた男は、族長たちとも一応の和解は果たした。が、それとこれとは別の話であろう。ドンダ=ルウは、あのトトスを肉にすべしと言いつけてきたのではないのか?」
そのトトスは、ギバよりもさらに離れた場所につながれて、呑気に木の枝の葉をついばんでいる。
「肉にするよりも有効な使い道があるなら、それを族長たちに提示しようと思ったんだ。その上でまだドンダ=ルウが自分の意見を曲げなかったら、俺もその言葉には従うよ。……でも、ドンダ=ルウだって一方的に面倒事をファの家に押し付けてきたんだから、愚直にその言葉に従う必要はないとも思ってる」
アイ=ファは、むっつりと黙りこんでしまった。
アイ=ファ自身も、昨日はドンダ=ルウの横暴な処置に腹を立てたりもしていたのだ。こんな不味そうな獣が食えるか、と。
すると――今まで無言で俺たちのやりとりを見守っていたリミ=ルウがちょこちょこと歩み寄ってきて、アイ=ファの腰あての布を引っ張った。
「……アイ=ファはこのトトスを食べちゃうの?」
かくしてアイ=ファも撃沈することになった。
100の言葉より1粒の涙――などという格言が存在するかどうかは知らないが。とりあえず、うるうると瞳を潤ませるリミ=ルウに対しては、アイ=ファもそれ以上の反論を試みることは不可能になってしまったのだった。
「…………それで、けっきょくどうしようという心づもりなのだ?」
やがてリミ=ルウの涙が引っ込むと、アイ=ファは地獄のように不機嫌な顔つきでまた俺をにらみつけてきた。
「さしあたっては、トトスを乗りこなすのにどれほどの手間が必要かってことを確認してみようと思うんだ。どんなに便利なものだとしても、森辺の民には余計な手間暇に時間を割く風習はないだろうからさ」
「……誰が乗るのだ、このようなものに?」
「まずは俺が」「駄目だ」
「じゃあリミが!」「駄目だ」
返す刀で、リミ=ルウまで両断されてしまった。
アイ=ファは深々と溜息をついてから、やけくそのように金褐色の頭をかきむしった。
「……わかった。私が乗る」
どんどんと不機嫌さを増していくアイ=ファに、レイト少年がにこにこと笑いかける。
「あのトトスは、トトスの中でもずいぶん大人しい気性であるように見えますから、そうそう振り落とされることもないと思います。こちらの側から乱暴な真似をしなければ、何も危険なことにはなりませんよ」
そうして俺たちはしばし仕事を中断し、トトスの試乗会に取り組む段と相成った。
トトスの手綱はレイト少年が持ち、みんなで家の表口に向かう。
手の空いてしまった6名ばかりの女衆も、ちょっと愉快げに目を見交わしながら、ぞろぞろとついてくる。リィ=スドラ、ジャス=ディン、トゥール=ディン、後はまだ名前を覚えきれていないフォウ家とラン家の女衆だ。
「トトスは、眠るときと産卵をするとき以外は、あまりしゃがんだりもしません。無理にしゃがませようとすると機嫌を損ねてしまうこともありますので、普通はこの立ったままの状態で上に乗りますね」
家の前の通りにまで出ると、レイト少年はそんな風に説明を開始した。
「乗る場所は、背中の真ん中から後ろ側にかけてですね。急停止して体勢が崩れたときなどは、トトスの首の側にずり落ちてしまわないよう気をつけてください。トトスが驚いて、それこそ大暴れしてしまうかもしれませんので。……ええと、何か踏み台になるようなものはありますか?」
「そのようなものは、不要だ」と言い捨てるなり、アイ=ファはトトスの背に手をかけて、ひらりとその上に跳び乗ってしまった。
体高は3メートル、その内の半分が首だとしても、背中の高さは150センチほどである。自分の身長とさほど変わらない高さであるのに、やはり森辺の狩人の身体能力はもの凄まじいばかりだ。
「うわあ」とリミ=ルウは歓声をあげて、他の女衆たちも少しどよめく。
背筋を真っ直ぐに伸ばしてトトスの背にまたがったアイ=ファは、嫉妬する気も起きないぐらい、格好が良かった。
「そのまま、トトスが痛がらないていどに、両足の膝でトトスの胴体を締めつけてもらえますか?」
アイ=ファのすらりとした足が、少しだけ動く。
トトスは、まったく動かない。
「はい。今までは僕が手綱を張っていたために動きを止めていましたが、今はあなたが胴体を締めつけていることにより、トトスは動きを止めています。僕は手綱を緩めますので、あなたはその足の力を維持してください」
言いながら、レイト少年はそろそろと手綱を緩め始めた。
トトスもアイ=ファも微動だにしない。
「では次にこの手綱を持ち、左右で均等になるよう、ぴんと張ってもらえますか?」
馬上ならぬ鳥上のアイ=ファに、レイト少年が手綱を差し出す。
アイ=ファは憮然と指示に従い、レイト少年は左右の側から手綱の角度やら張り具合やらを確認した。
「大丈夫ですね。腕には余計な力を込めず、適度に肘を曲げておく――という注釈も不要でした。あの、今さらになりますが、トトスに乗るのは初めてなのですよね?」
「当たり前だ。森辺の民がこのようなものに乗るものか」
「身体の姿勢も完璧です。トトスが歩きだしてもそのまま背筋は伸ばしておいてください。……そして、歩行停止の合図は、今の状態です。これからトトスを歩かせますが、停まりたいときは自分の側に手綱を引いて、胴体を締めつけてください。急に停まると危険ですので、その所作は柔らかくトトスを驚かせないように心がけてくださいね」
「うむ」
「では、歩かせます。手綱と足の力をゆっくり緩めてください。そのまま手綱を下方向に引くと、歩きだします」
「うわあ」と、リミ=ルウがまた声をあげる。
トトスが、見事に歩き始めたのだ。
てくてくと、実に穏やかな足取りで。
それでも足が長い分、人間の倍ぐらいのスピードは出ているだろう。
俺たちは速足でそれに追従したが、5メートルばかりも進んだところで、トトスはぴたりと立ち止まった。
「うむ。きちんと停まるな」
「はい。それじゃあ方向転換の扶助もやってみましょうか。放っておいてもトトスは道なりに歩きますが、右や左に進路を変えたいときは、その側の手綱を引っ張って、トトスの首の動きを変えるのです。それほど力を入れる必要はないので、最初はとにかくトトスを驚かせないように気をつけてください」
再び、トトスが動き始める。
下界からはあまりアイ=ファの腕の動きなど見て取れないのだが、やがてトトスは3メートルごとに進路を50度ずつ変えて、ジグザグに道を歩き始めた。
「へーえ、トトスってのは実に大人しく言うことをきくものなんだねえ」
俺が感心して声をあげると、レイト少年は「そうですねえ。上出来すぎるぐらいです」と、いくぶん苦笑気味の笑みを浮かべた。
「そのまま上手く手綱を操れば、反対方向を向かせることもできると思いますが、どうですか?」
レイト少年の言葉とともに、トトスが大きく弧を描く形でUターンした。
その後はまたジグザグに歩き始めて、家の前のスタート地点に到達したところで、その歩みはまたぴたりと停まる。
まるで機械で制御されているかのように正確でよどみのない動きだ。
「すごいすごい! いいなあ、リミも乗りたいなあ!」
「……しかしこれでは、自分の足で歩くのと大して変わらん。都の人間は、いったい何が楽しくてこのようなものを乗り回しているのだ? だいたい私は、人間がトトスに乗っている姿など見たことはないぞ?」
「いきなりトトスが走り出したりしたら危険なので、宿場町でトトスに乗ることは禁じられているんです。でも、町から町へと移動するときは、みんなトトスに乗っていますよ。……それじゃあ少しだけ走らせてみましょうか」
走らせるには、かかとで足の付け根を蹴るだけで良い、とのことだった。
「最初はいきなり走らせるのではなく、歩かせながら少しずつ蹴ってあげてください。じょじょに力を入れることによって、じょじょに速度を上げることができます」
「ふん」と、アイ=ファは面白くもなさそうに鼻を鳴らしつつ、トトスを歩かせ始めた。
俺たちは追従せず、道の端に避難する。森辺の道は石の街道の半分ほど、5メートルていどの道幅しかないのだ。
アイ=ファとトトスの後ろ姿がゆっくりと遠ざかっていき、そのスピードがじわじわ上昇し始める。
やがてそのスピードは見ているこちらが心配になるぐらい加速され、アイ=ファたちの姿は道なりにカーブを描きつつ、あっという間に見えなくなってしまった。
そして。
10秒と待たぬ内にその姿はまた樹木の陰から現れて、物凄い勢いで帰還してきた。
時速50キロぐらいは出ているのではないだろうか? ちょっとしたオートバイぐらいのスピードだと思う。
トトスの強靭なる足が大地を蹴り、アイ=ファは競馬の選手みたいに身を伏せて、毛皮のマントをなびかせながら疾風のごとく俺たちの目の前を走り抜けていき――そうして少しずつスピードを落としてから、ぐりんとすみやかに首を曲げて、俺たちのもとにてくてくと帰ってきた。
「す……すごいすごい! アイ=ファ、かっこいい!」
再びリミ=ルウが歓声をあげる。
それに、黄色い嬌声がかぶさった。
びっくりして振り返ると、6名の内の若い4名が、リミ=ルウと同じように瞳を輝かせながら、きゃあきゃあと声をあげていた。
ちなみに、スドラの家長の奥方であるリィ=スドラも若い側である。普段は清楚で気品のあるリィ=スドラが、恋する乙女のような表情で隣りの女衆と手を取り合っている姿は、ちょっとばっかり見ものだった。
残りの2名、ジャス=ディンとフォウ家の壮年の女衆も、「ほう……」と感嘆の声をあげている。
「お見事ですね。何から何まで完璧すぎて、僕の手ほどきなどこれ以上は必要ないぐらいです」
そんな中で、レイト少年ははっきりと苦笑いを浮かべていた。
「10回も落ちれば1人前のトトス乗り、という言葉がありますが、あなたは1回も落ちることなくトトスを乗りこなしてしまいましたね。実のところ、町の人間でこれほど巧みにトトスを操れる人間もそうそういないでしょう。森辺の狩人の力とはこれほどのものなのですね」
「……このような芸当ができたところで、何の自慢にもなりはせん」
アイ=ファは仏頂面のまま、ひらりとトトスから飛び降りた。
レイト少年は「あ」と声をあげかけたが、その間もぴんと手綱は張られていたためか、トトスは不動のままである。
レイト少年はもう1度苦笑を浮かべてから、大人びた仕草で肩をすくめた。
「いかがでしたか? これならば森辺の端から端まで移動するのにも、かなり時間を縮めることができるでしょう? それに、森辺の狩人ならば労苦もなくトトスを操れるということも証しだてられました。肉にするよりも有効な使い道はある、というカミュアの言葉はご理解いただけたでしょうか?」
「うむ……」
アイ=ファはまだ難しげな顔をしている。
それを横目に、俺は「俺も乗ってみていいかなあ?」と発言してみた。
とたんに、「やめておけ」「やめておきなよー」「やめたほうがいいと思います」と三重奏で返された。
「このようなことで手傷でも負ったら何とするつもりだ?」
「そうだよ。落ちたら危ないよー?」
「それでも興味があるのでしたら、毎日少しずつ練習していけばいいと思います」
流れるような言葉のコンビネーションだ。
「なるほど。俺の身体能力がどういう評価を受けているのかはよく理解できた。しかし、そんなにキミたちには俺がトトスから落ちる未来しか見えないと言うのかな?」
今度は、沈黙で返された。
この際は、沈黙もつらい。
「……わかりました。それでは毎日少しずつ練習させてください。お願いします」
「どうしてそのように固執するのだ? お前がトトスなどに乗っても無為であろうが?」
「いや、だって、アイ=ファがあんまり気持ちよさそうに乗ってるもんだから、自然に興味をひかれちゃったんだよ」
「…………」
「な? アイ=ファも気持ちよかったんだろ?」
「…………」
「あれ? 気持ちよくなかったのか?」
「やかましい!」
ひさかたぶりに、足を蹴られた。
「だいたい、まだ族長たちにトトスの受け入れを認められたわけでもないだろうが! 族長たちの許しもなく、勝手な真似はできん!」
「あいててて。何を怒ってるんだよ、お前は。……だけどさ、族長たちがあくまでトトスに興味を示さないようなら、俺はこいつをファの家で引き取りたいと思ってるんだよ。もともと肉にしろとか言ってたぐらいなんだから、俺たちが勝手に使う分にはそんなに文句も言われなそうだろ?」
「なに? このようなものを引き取ってどうしようというのだ?」
「いやあ、カミュアに言われるまでもなく、こいつは便利だろ。これで荷車でも買ってくれば、食材や調理器具の運搬もうんと楽になるじゃないか? 荷物を引かせて歩かせるだけなら、俺にだってすぐできるだろうし」
それでようやく、アイ=ファの顔にも前向きな思慮の表情が浮かび始めた。
「そうか……そういう使い道もあるのだな」
「ああ。ただし、ふだん使ってる道だと吊り橋があるから、遠回りの道を使う必要があるけどな。でもたしか、町では荷物だけじゃなく人間も乗れるような荷車もあったはずだよね、レイト?」
「ええ。普通はだいたい2頭立ての大きな荷車になってしまいますが。探せば小さなものもあるでしょう。それならば振り落とされる心配もありませんね」
アイ=ファは真剣に考えこみ始める。
そこでリミ=ルウが「あれえ!?」と素っ頓狂な声をあげた。
妙に嬉しそうな響きを持つその声に若干の不安感をかきたてられつつ、振り返ってみると――空前絶後の情景が、見えた。
すなわち、2名の森辺の女衆と、その手に引かれた3羽だか3頭だかのトトスが、南の果てからひたひたと歩いてくる姿が、である。
手綱を引いているのは、アマ・ミン=ルティムとモルン=ルティムであった。
2頭ものトトスの手綱を受け持ったアマ・ミン=ルティムが、その巨大なる従者とともにしずしずと近づいてきて、心の底から申し訳なさそうに、俺たちへと頭を下げてくる。
「申し訳ありません。サウティの男衆が、またこれだけのトトスを森の中で見つけてしまいました……」
リミ=ルウは「わーい!」とはしゃいだ声をあげ、俺は深々と嘆息し、そしてアイ=ファは怒りに眉を吊り上げることになった。
そんな人間どもの感慨などは知らぬげに、トトスたちはきわめてのんびりと森の端の葉をついばみ始めたのだった。
◇
だが、結論として、4頭のトトスは森辺で受け入れられることになった。
何のことはない。4頭ものトトスを押しつけられて頭に来てしまったアイ=ファがルウの集落にまでおもむき、その身をもってトトスの利便性を示してみせると、三族長のひとりでもあるダリ=サウティが熱烈なまでに賛同の意を表明してきたのである。
「これなら確かに、北の集落までの行き来も容易くなる! その上、北や南の集落からでも、ジェノスの宿場町へ買い出しにおもむくことも容易になるではないか!」
聞いてみると、北や南の集落では、大きな祝宴でもない限り、宿場町まで買い出しに出向くことはなかったのだという。
それは何故かと問うならば。ただ単純に「遠い」からである。
森辺の集落は、南北に長く伸びている。
その中央あたりに居をかまえるルウやファの家からならば、宿場町まで1時間ていどの道のりであるが。北端のザザ家、南端のサウティ家からでは、4時間近くの道のりになってしまうらしい。
だから普段は、もっと近場の農村や農園の管理者から直接アリアやポイタンを購入しており、岩塩や果実酒などが必要なときは、あらかじめそこの住人たちに手間賃を払って買いだめをしておいてもらうのだそうだ。
それにやっぱり、森辺の端から端までを、わずか90分ていどで踏破できるというのも、強い魅力であっただろう。これまでのように、遠い家の家長たちが顔を合わせるのは、年に1度の家長会議のみ――というわけにはいかないのだから。
カミュアに指摘されるまでもなく、族長たちがどれほど交流を密にできるか、というのは森辺の行く末を左右する大事であったのだ。
「自分たちで発見しておきながら、トトスの力に気づくことのできなかった己の不明を恥じ入るばかりだ。これは我々に必要なものだ。ザザの家長もきっと俺の言葉に賛同するだろう」
俺はアイ=ファから伝え聞くばかりであったが、ダリ=サウティは心底からトトスの力に感服していたらしい。
冷静を装っていたが、その目はリミ=ルウのように輝いていた、などとアイ=ファは人の悪いことを言っていた。
「……しかし、あのカミュア=ヨシュという男に借りを作るのは、いささかならず腹が煮える。このトトスには相応の代価を支払いたいと告げてくれ」
俺はそのような伝言を承ることになった。
が、もちろんのこと、カミュアにはやんわりと固辞された。
「もうじきに森辺とジェノスの会談が行われるだろう? それが平和裏に終わった際は、貸しや借りなどという心情は捨てて、トトスをそのまま引き取っていただきたい。だけど、もしも平和裏に終わらなかったら――そのときは、銅貨を叩きつけるなり、トトスを突き返すなりしてくれればいいのじゃないかな」
いくぶん荒っぽいそんな提案が、森辺の民のお気には召したらしい。
かくして、自らがトトスに乗って北の集落にまで急報を告げに出向いたダリ=サウティがグラフ=ザザの了解をも取りつけて、森辺の民は4頭のトトスを集落に迎えることになったのだった。
この間、わずか3日。
閉鎖的な気性である森辺の民とは思えぬスピード裁決である。
ドンダ=ルウも、三族長の2名が賛同するならば異存はない、とのことだった。
その陰でリミ=ルウの涙の訴えが存在したかどうか、俺は知らない。
ちなみに、その所有者に定められたのは、三族長の家と、ファの家である。
ファの家ならば自力でトトスを買うことも可能なので、必要であれば族長筋で管理していただきたいと願い出たのだが。トトスの利便性を森辺にもたらした功労が認められ、1番最初に発見されたトトスがそのままファの家に居残ることになった。
◇
「明日、どこで荷車を調達できるのかを調べてくるよ」
青の月の23日。カミュアからの提案を受け入れ、トトスが正式に森辺の所有物と認められたその日の夜、俺はアイ=ファにそう告げた。
滞りなく晩餐を終えたのちのことである。
俺は仕込みの作業に励み、アイ=ファは少し離れた場所で座りこんでいる。
アイ=ファが陣取ったのは、玄関口にうずくまったトトスのすぐそばだ。
トトスはすでに眠っているらしく、巨大な足を折りたたみ、長い首をアイ=ファのほうにだらりと伸ばしていた。
そんなトトスの寝顔を見下ろしながら、アイ=ファは「そうか」と低くつぶやく。
「まあ、銅貨の使い道もなかったところだし、ちょうどいいと言えばちょうどよかったんじゃないかな? 町の人たちに聞いたところでは、そこまで値の張るものではないらしいけど」
宿場町で商売を始めて、今日で26日目。
ファの家の資産は、赤銅貨3000枚を突破してしまっているのである。
銀貨にしてしまえばわずか3枚だが。森辺においては規格外の資産であることに間違いはない。
「好きにしろ。……ただし、修練を積むまでは決して無茶をするのではないぞ?」
「ああ。宿場町に向かう道は、けっこう細くて坂も多いからなあ。しばらくは平坦な道で練習に励むことにするよ」
「うむ」
「えーと……別に怒ったりしているわけではないんだよな?」
今ひとつ反応の鈍いアイ=ファを心配してそのように問うてみると、アイ=ファは「どうして私が怒らねばならぬのだ?」と首を傾げた。
「族長たちに異存がないのであれば、それでいい。私はもとより、ジェノスとの関係が今以上にこじれることを危惧していただけだ」
それじゃあやっぱり、アイ=ファ自身はトトスに乗ることを心地好いとも感じていたのだろう。
それぐらい、トトスを走らせるアイ=ファは充足した様子を見せていたし、今のトトスの寝顔を見守る表情も穏やかだった。
それに――トトスと森辺の民というのは、最初から相性が良かったのではないだろうか。
そうでなければ、ここまですんなりと異文化の存在を受け入れられたとも思えないし。とにかく、トトスにまたがるアイ=ファの姿は、絵に描いたように格好がよく、実に自然であったのだ。
森辺の民の出自は、あまり明確にされていないのだが。もしかしたら、その祖先は森に籠もる前、平原でトトスを駆っていた種族だったのではなかろうか――とか、そんな妄想をかきたてられるぐらい、アイ=ファにはトトスが似合っていた。
だから、こんな風に穏やかな感じでトトスの寝顔を見下ろしているアイ=ファの姿に、俺はとても満足していた。
「それじゃあさ、そいつの名前はどうしようか?」
「名前? トトスはトトスであろうが」
「だけど森辺には4頭もトトスがいるんだからさ。名前ぐらいつけないと呼び方に困るときもあるだろう」
「獣に、人間のような名前を与えるというのか」
びっくりまなこで、アイ=ファがこちらを振り返る。
タラパのソースの味を確かめつつ、「そんなに驚くようなことかな?」と俺は首を傾げてみせた。
「生活をともにするんだから、そいつだって家人みたいなものだろう? 名前をつけたほうが愛着もわくし、心だって通じやすいんじゃないか?」
「心……」と、アイ=ファはまたトトスの寝顔に目線を落とした。
「獣にも、やはり心など存在するのかな。確かにこやつは私が手綱を引いたり腹を蹴ったりするだけで、人間よりも素直に動いてくれた」
「うん。そうじゃなきゃ人間の友なんて呼ばれたりもしないだろう」
「私にとっては、人間よりも扱いやすい相手であるかもしれない」
「それはちょっと問題発言だな」
「いっそお前の首にも手綱をつけてやりたいほどだ」
「俺は人間だから言葉で指示してくれ!」
「……トトスとは、不思議な獣だな」
問題発言を連発しながら、それでもアイ=ファは妙にもの思わしげな様子だった。
完成したソースの鉄鍋に蓋を乗せ、かまどの火を消し、手を洗ってから、俺はそちらに歩み寄る。
「で、名前はどうする? 俺はどういう名前が無難かもわからないから、できればアイ=ファにつけてほしいんだけど」
アイ=ファはしばらく黙りこくったのち――やがて、静かに「ギルア」と、つぶやいた。
「ギルアか。いい名前だな」と答えてから、俺は少しハッとしてしまった。
2年前に他界したアイ=ファの父親は、たしかギル=ファという名であったのだ。
「……親父さんの名前にあやかったのか?」
「うむ。もしも私が子どもを授かり、その子が男であったのなら、その名を与えようと思っていたのだ」
俺は無言のまま、アイ=ファの隣りに腰を下ろす。
「しかし、私は狩人として生きていくことを決めた。私が子どもを授かることは、もはやありえない。ならば、こやつにその名を与えてやるかと考えたのだが――どうであろう?」
俺は目を閉ざし、納得のいく答えを心の中に探し求めた。
だが――そこまで必死にならずとも、俺の答えはすぐに見つけることができた。
「だったら、別の名前のほうがいいかな。この世に絶対なんてありえないんだから、アイ=ファだっていつか自分の子が欲しいっていう気持ちになることがあるかもしれないだろう?」
殴られるかもしれない――ぐらいの覚悟は固めておいた。
しかし。
アイ=ファは静かな表情のまま、「そうか」とつぶやくばかりだった。
「ならば、ギルルにしよう。ギルル=ファでは響きが美しくないが、こやつには氏を与えるわけではないので、まあよかろう」
「…………」
「それも気に食わぬか?」
アイ=ファが、ゆっくりと俺を振り返る。
その、ひどく澄みわたった青い瞳を見つめ返しながら、俺は「いや――」と応じてみせる。
「それもいい名前だと思う。愛嬌もあるし、こいつにはぴったりだな」
「そうか」とアイ=ファはもう1度言い、それから――嬉しそうに、にこりと微笑んだ。
こうしてファの家には、ギルルという名の新しい同居人が増えたのだった。