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異世界料理道  作者: EDA
第八十七章 甘雨の時節
1506/1703

ファの家の晩餐会②~試食~

2024.6/21 更新分 1/1

「それじゃあ次は、乳脂をたっぷり使った焼きポイタンに関してだね」


 俺がそのように声をあげると、アウロの女衆が不思議そうに小首を傾げた。


「それもまた、宿場町のランディという御方からもたらされた手法ですよね。ただそれは、菓子の具材なのかと考えていたのですが……こちらの考え違いであったのでしょうか?」


「うん。ランディは、菓子にも料理にも使っていたっていう話なんだよ。菓子はトゥール=ディンにおまかせするとして、俺は料理のほうを試してみようと思ってさ」


 そのトゥール=ディンも同席しているので、この場では同時進行で進めることができる。トゥール=ディンにはユン=スドラとレイ=マトゥアとクルア=スンをおあずけして、俺はそれ以外の3名と肉や野菜を刻むことにした。


 とりあえず、最初に選んだ野菜はアリアとマ・プラだ。この際は、具材よりも味付けに留意するべきだろう。あれこれ思案した結果、俺はタウ油と砂糖の和風、マロマロのチット漬けと貝醬の中華風、干しキキとミャンの梅じそ風という3種の味付けに決定する。それらのすべてを海草の出汁で溶き、みじん切りにした具材に添加して、饅頭の餡に仕上げた。


 さらに、ランディから習い覚えた手法で乳脂たっぷりの焼きポイタンを仕上げて、それも小さく切り分ける。そのひとかけらを3種の餡とともにフワノの皮でくるんで、蒸し饅頭に仕上げることにした。


「これでよし、と。トゥール=ディンのほうは、どうかな?」


「はい。こちらも、蒸しまんじゅうにすることにしました」


 石窯を使うにはいったん外に出なければならないため、トゥール=ディンも俺と同じような手順で試作の菓子を作りあげていた。

 すると、しばらく無言でいたポワディーノ王子が「ふむ」と声をあげる。


「『王子の耳(ゼル=ツォン)』からは何度となく聞き及んでいた話であるが……本当に作業の場にあっては、誰もがアスタと遜色なく動けるのであるな」


「ええ。みんなもう、年単位で修練を重ねていますからね。どこに出しても恥ずかしくない手腕だと思いますよ」


「うむ。であれば、そこでアスタやトゥール=ディンが突出しているのは……やはり、発想力や指導力の差ということになるのであろうか?」


 すると、ユン=スドラが恐縮しながら「いえ」と声をあげた。


「もちろんアスタやトゥール=ディンは、そういったものに関しても秀でています。ただ、単純な作業の手早さや正確さなども、おふたりの力は際立っていますし……あとはやっぱり、料理の出来栄えを見定めるための鋭い舌や、知識や……それに、感性の豊かさというものにも差があるのだろうと思います」


「ふむ。感性とは、おもに芸術の分野に求められる能力であるかと考えていたのだが、料理にもそういったものが必要になるのであろうか?」


「わたしもあまり、感性の何たるかをわきまえていないのかもしれません。ただ、知識だけでは補えない何かがあるのだろうと考えています」


 すると、長らく無言であったアイ=ファも声をあげた。


「私もまた感性などという言葉に馴染みはないが、ひとつだけ思うところがある。狩人にとっての力量というものにも、腕力や知識とは別に必要な力があるのだろうと思うのだ。その場その場でもっとも正しい手段を選び取るには、知識ばかりでなく瞬時の心の動きが重要であるのだろうからな。そういった心の動きこそが、感性というものに関わってくるのではないだろうか?」


「なるほど……知識とは異なる、心の動きであるか。確かにそれこそが、感性の本質なのであろうな。芸術家にせよ料理人にせよ狩人にせよ、感性なくして大成はないということか」


 そう言って、ポワディーノ王子はどこか満足そうに肩を揺らした。


「突き詰めれば、一個の人間としても感性は重要なのであろう。こちらのポルアースなどは、その手本であろうな」


「いえいえ。僕などは、この数年でようやく働き場を得た若輩者にすぎませんよ」


「其方がわずか数年でそれほどの立場を確立したのも、卓越した感性あってのことなのであろう。不遜な物言いに聞こえたならば恐縮であるが、シムの王子の付添人に任命されるというのは、其方がジェノスで指折りの人材であると見なされている証拠なのであろうからな」


「僕は外務官の補佐官であると同時に、森辺の民の調停官の補佐官でもありますからね。ここが森辺でなかったなら、きっと僕の上官殿がこの栄誉あるお役目を賜っていたことでしょう」


 謙虚な言葉を返しつつ、ポルアースはやはり屈託のない笑顔だ。俺としては、大切な友たるポルアースがポワディーノ王子に賞賛されるというのは誇らしい心地であった。


「確かにかまど番には、言葉で言い表しがたい何らかの力も重要であるのでしょうね。仕事をやりとげるための身の力や、正しい味を判ずるための鋭い舌の他に、心の強さや豊かさというものが重要なのではないかと、わたしもかねがね考えていました」


 と、ラッツの女衆もにこやかな面持ちでそう言った。屋台のメンバーとして活躍している年長の女衆ではなく、下ごしらえのみ参加している若い女衆だ。


「アスタに取り立てられたユン=スドラやレイ=マトゥアやマルフィラ=ナハムなどは、そういった部分でも際立っているのだと思います。だからこそ、アスタも安心して大きな仕事を任せることができるのでしょう」


「ええ? ユン=スドラやマルフィラ=ナハムはともかく、わたしはそんな大した人間ではないですよ!」


 レイ=マトゥアが慌てた声をあげると、ラッツの女衆は笑顔で「いえ」と首を横に振った。


「わたしはあなたこそが、その筆頭なのではないかと考えていました。ユン=スドラは誰よりも古くからアスタを手伝っていた身ですし、マルフィラ=ナハムはアスタが感服するぐらい鋭い舌をお持ちですが、あなたはそのような若年でどんどん力をつけていったでしょう? それこそが、何か目に見えない力を持っている証であるように感じられるのです」


「ええ。ラッツの血族の間では、たびたびそういった言葉が交わされていたのですよ」


 アウロの女衆も言葉を重ねると、レイ=マトゥアはちょっぴり心配そうに眉を下げた。


「そんな話がたびたびあがるというのは……やっぱり若年で経験の浅いわたしがアスタに取り立てられたことで、みなさんを不快にさせてしまったのでしょうか?」


「不快になったのではなく、心から感心していたのです。あなたはラッツの血族ばかりでなく、先にアスタのもとに参じていた親筋たるガズの女衆をも追い抜いて、今の立場を手にされたのですからね。わたしたちはレイ=マトゥアを見習いたくて、あれこれ話を重ねていたのですよ」


 すると、ポワディーノ王子も「なるほど」と声をあげた。


「そういえば、ラッツとガズは好敵手の関係……と言っては言いすぎなのであろうが、とにかく何かと腕を競うような間柄であったという話であったな」


「え? あなたはそのような話までわきまえておられたのですか?」


 ラッツの女衆がびっくりまなこになると、ポワディーノ王子は悠揚せまらず「うむ」と応じた。


「先日には収穫祭という場においても、狩人たちが大いに腕を競ったのだと聞き及んでいる。森辺においても対抗意識というものが存在するのかと、我も感銘にとらわれたのだ」


「すごいですね。僕は調停官の補佐官であるのに、そのような話はまったくわきまえておりませんでした」


 ポルアースも感心したように声をあげると、ポワディーノ王子は「左様か」と肩を揺らした。


「まあ、我には十を超える耳があるのでな。……ともあれ、レイ=マトゥアには何か数値化できない力というものが備わっているのであろう」


「ええ。知識や味覚の鋭さなんていうものも数値化することは難しいですけれど、レイ=マトゥアは感性だとか熱情だとかいう部分に秀でているように思いますよ」


 そのように答えながら、俺はその場にいるすべてのかまど番に笑いかけた。


「ただ、経験豊かなユン=スドラや舌が鋭いマルフィラ=ナハムが感性や熱情で劣っているという意味ではないから、誤解のないようにね。それで最終的には総合的な力量を見定めているつもりだから、みんなには迷わず修練を積んでほしいかな」


 ユン=スドラを筆頭に、誰もが明るい表情で「はい」とうなずいてくれた。

 そこでマルフィラ=ナハムが、「あ、あ、あの」と声をあげる。


「す、砂時計の砂が落ちきりました。ま、まんじゅうが仕上がったようです」


「ありがとう。その集中力も、マルフィラ=ナハムの大きな長所だね」


「と、と、とんでもありません」


 マルフィラ=ナハムは目を泳がせながら、蒸し籠を鉄鍋の上から移動させた。

 あとは全員で手分けをして、3種の饅頭を皿に並べていく。ピンポン玉ていどのサイズである饅頭をさらにふたつに切り分けて、試食の開始だ。


「ふむふむ! これはやはり、濃厚な仕上がりだね! 僕はとても好ましく思うよ!」


 まずは真っ先に、ポルアースがそのように述べたてた。

 乳脂をたっぷり使った焼きポイタンというのは、バターの塊のように濃厚な味わいをしている。ただ、いったんポイタンと合わせて焼いているために、香ばしい風味とわずかにさくさくとした食感がとても魅力的であった。


 そちらに合わせて、具材のほうは油分を使わずにすっきりと味をまとめた次第であるが――それが口内でひとつに溶けあうさまは、なかなかに心地好かった。タウ油と砂糖の味付けは申し分ないし、マロマロのチット漬けと貝醬も悪くない仕上がりだ。ただ、干しキキとミャンだけは今ひとつであった。


「うーん。これだけは、ちょっと相性がよくないみたいだね。同じ油分なら、ホボイの油が欲しくなっちゃうかな」


「そうですね。では、ホボイの油で焼きポイタンを仕上げるべきなのでしょうか?」


「でも、ホボイの油はもともと香ばしいので、ちょっと風味が強くなりすぎる気が……それに、ホボイの油を大量に口にすると、乳脂よりも胸が悪くなってしまいそうです」


 そうして議論を重ねていると、トゥール=ディンたちの饅頭も完成した。

 そちらは、ブレの実のあんこ、チョコレートクリーム、リンゴのごときラマムのクリームという3種である。こちらもなかなかに、評価の分かれる出来栄えであった。


「ブレの実のあんこは、文句なく美味しいね。もっと細工の余地はありそうだけど、土台としては申し分ないように思えるよ」


「ラマムも、悪くはないのですが……少々、風味がぶつかっているように感じられますね」


「ちょこれーとは、ちょっと油がきついかもしれません。あまり食べると、胸が悪くなってしまいそうです」


 それらの意見を聞いて、トゥール=ディンはとても真剣な面持ちで「そうですね」と首肯した。


「くりーむにはもともと乳脂が使われているので、相性は悪くないかと考えたのですが……そのせいで、油分が過剰になっているように感じられます。これでしたら、ラマムもくりーむではなくじゃむに仕上げるべきでしたね」


「ラマムのじゃむですか。きっと悪くはないのでしょうけれど……なんだか、想像がつきませんね」


「はい。その場合は、蒸しまんじゅうではなくくれーぷなどのほうが相性はいいかもしれません。そこに、ちょこれーとのそーすを掛けるという形にすれば……さらなる調和を目指せるかもしれません」


 やはりトゥール=ディンは、俺たちよりも遥かに先を見据えているようである。これこそ、感性やセンスの賜物であろう。こと菓子作りにおいて、森辺でトゥール=ディンに並び立てるのはリミ=ルウぐらいしか思いつかなかった。


「何にせよ、乳脂をたっぷり使った焼きポイタンというのは魅力的な食材です。できれば近日中に、くれーぷの具材として取り入れたいと考えています」


「それじゃあ、今のクレープの具材との相性をのきなみ考えないといけないわけだね。それはなかなか大変そうだ」


「はい。でも、雨季の間は屋台の下ごしらえも仕事が少ないので、あとはディンの家で進めようかと思います」


 トゥール=ディンは感性ばかりでなく、熱情のほうも人一倍である。俺は安心して、トゥール=ディンの勇躍を見守ることができた。


 そしてその頃には、ギバの角煮の下茹でも完了する。圧力鍋にかけたのは半刻で、呼び鈴がおさまるのを待ってから蓋を開けると、どっしりとしたバラ肉はとてつもなくやわらかく仕上げられていた。


 それをしっかり水で洗って余計な脂肪分を除去したならば、今度は調味液で煮込みの作業である。

 調味液は具材がぎりぎりひたるていどの分量であるため、圧力鍋は使えない。普段通り弱火で煮込んで、水気が減ったら具材の上に回しかけていく必要があるのだ。その作業はレイ=マトゥアにおまかせして、次なる料理の試作であった。


「ランディがらみの試作は終了したから、次の議題に移ろうか。次は……トライプとノ・ギーゴの置き換えにしようかな」


 カボチャのごときトライプとサツモイモのごときノ・ギーゴは、どこまで置換が可能であるかという案件である。ノ・ギーゴの扱いに長けたデルシェア姫とディスカッションしたことで、こちらにも新たな道筋が見えていた。


「城下町での勉強会は有意義だったけど、時間が足りなくてすべての試作品を作りあげることはできなかったんだよね。だから今日は、あの日に作りそびれた料理に挑戦してみようと思うよ」


 デルシェア姫が公開してくれた、ノ・ギーゴ料理のレシピのひとつである。俺たちはその料理も口にした経験がないので、ノ・ギーゴとトライプの両方で作りあげることにした。


 まずは、ノ・ギーゴとトライプをそれぞれ煮込んでやわらかく仕上げる。甘さをめいっぱい引き出すにはそれなりの時間が必要となるが、このたびは甘さを重視した料理ではないので、ほどほどの加減だ。よってここでも、圧力鍋を活用させていただくことにした。

 先刻の肉チャッチと同じ加減で熱を通したならば、ボウルに引きあげてすりこぎですりつぶす。そして、塩とタウ油を少々に、すりつぶしたホボイをたっぷり加え、水かカロン乳か豆乳で練り合わせるというのが基本のレシピであった。


「とりあえず、今日は水と豆乳の2種だけにしておこうか。ノ・ギーゴもトライプも、けっこうおなかにたまるからね」


 そうしてノ・ギーゴおよびトライプの生地が仕上がったならば、お好み焼きのように焼きあげるのだ。使う油は、ホボイ油であった。


 レイ=マトゥアも角煮の面倒を見つつ、しきりにこちらの様子をうかがっている。きっと彼女なら、作業に参加しなくともこちらのレシピを体得できるだろう。もちろんユン=スドラやマルフィラ=ナハムもそれは同様であったが、若いレイ=マトゥアを鍛える意味もあって、俺は彼女にその役目を負ってもらったのだった。


 ノ・ギーゴもトライプも事前に熱を通しているため、両面に焼き目がついたならばもう完成である。

 ノ・ギーゴのほうは黄白色であるので具材のないお好み焼きそのままであるが、濃厚な朱色をしたトライプはなかなかの鮮烈さだ。とりわけ水で練ったほうはトライプそのものの色合いであったので、いっそう顕著であった。


「南の王都では色々な具材を加えた上で焼きあげて、調味液を掛けて食べるそうだよ。具材がたっぷりなら主菜、ひかえめなら副菜という扱いみたいだね。あとは、これを小さく切り分けて、汁物料理の具材にするっていう手法もあるんだってさ」


「はい。味の想像がつくようなつかないような……ちょっと難しいところですね」


 ユン=スドラの言う通り、シンプルなレシピで食材の種類も限られているため、そうまで突飛な味わいに仕上がる道理はないだろう。ただ、ノ・ギーゴやトライプをすりつぶすというのは菓子やポタージュの他に試したことのない手法であったため、なかなかの期待をかきたてられることになった。


 そうして、いざ試食に挑んでみると――これはなかなか、心地好い味わいである。

 事前に煮込んですりつぶしているため、もともとのノ・ギーゴやトライプよりもさらにやわらかいのは、当然の結果だ。ただ、ほくほくとした食感はまったく損なわれておらず、ホボイとホボイ油の風味も好ましい形で調和していた。


 塩やタウ油はごく少量なので、隠し味にしかなっていない。まあ、これはあくまでプレーンの生地であるので、物足りないのが当然であろう。しかしまた、食材そのものの風味が豊かであるため、ただの焼きポイタンなどに比べれば味気なさすぎるということもなかった。


「これは、優しい味わいですね。美味に仕上げるには、さまざまな細工が必要なのでしょうが……これを煮汁にひたすだけでも、晩餐の料理には相応しいように思います」


「うん。これに肉や野菜を盛り込んだら、いったいどういう味わいになるんだろうね。なかなか創作意欲を刺激されるよ」


 すると、ポワディーノ王子もひかえめに「うむ」と声をあげた。


「門外漢の身として語らせてもらうならば……こちらはいったんすりつぶしたことで、ただ煮込んだだけのノ・ギーゴやトライプよりも繊細で気品のある食感に仕上がっているように見受けられる。さすがは王族のデルシェアといったところであろうかな」


「はい。すりつぶしたことで繊維も崩れますので、いっそう口当たりがよくなっているようですね。これは貴族の方々にも喜ばれそうですが……ポルアースは、如何でしょうか?」


「うん! 確かに好ましい口当たりだね! これにどのような味付けが施されるのか、期待をかきたてられてならないよ!」


 ポルアースも、ご満悦の面持ちである。

 そして俺は、トゥール=ディンが深い沈思の眼差しを浮かべていることに気がついた。


「トゥール=ディンは、どうだい? 何だか、考え込んでいるみたいだね」


「あ、はい。……わたしはまた、菓子の転用に気が向いてしまいました。ノ・ギーゴやトライプをもっとゆっくり煮込んで甘みを引き出して、果実などを具材にしたら、立派な菓子に仕上げられるのではないかと……今は料理としての扱いを学んでいる最中なのに、申し訳ありません」


「何も謝る必要はないさ。菓子としても料理としても活用できれば、それに越したことはないからね」


「はい。それに……あの場では語られませんでしたが、デルシェアもすでに菓子に転用しているような気がしてなりません。このようなものを口にしたら、菓子のことを考えずにはいられないでしょうから」


「なるほど。あえて語らなかったのは、トゥール=ディンの反応をうかがっているのかな。立派な菓子を作りあげて、デルシェア姫の期待に応えてあげるといいよ」


 トゥール=ディンは「はい」とあどけなく微笑んだ。

 そこでレイ=マトゥアから、「完成しました!」という声が告げられてくる。ついに、ギバの角煮が完成したのだ。


 ただしこちらも熱を冷まして、味がしみこむのを待たなくてはならない。ちょうどいいタイミングであったので中休みの時間にすると、ほどなくして戸板がノックされた。


「失礼いたします。およそ一刻が経過しましたが、ポワディーノ殿下は如何いたしますでしょうか?」


 そのように告げてきたのは、雨具をかぶった西の武官である。

 ギバの角煮を圧力鍋にかけて半刻、調味液で煮込んで半刻で、確かに一刻は経過しているのだろう。ポワディーノ王子は何やら感じ入っている様子で「左様か」と応じた。


「あっという間に一刻が過ぎ去ったように感じられるが……その反面、きわめて濃密な時間であったようにも思う。この時間で、アスタたちは何種もの試作品を作りあげたわけであるしな」


「まったくですね」と、笑顔のポルアースが合いの手を入れた。


「それでは、どういたしましょう? 殿下が厨の見学を続けられるのでしたら、僕はメルフリード殿やフェルメス殿と交代させていただきます」


「うむ……このままアスタたちの手腕を見届けたいという思いも、確かに存在するのだが……しかし、残る一刻で同じだけ試作品を口にしたならば、晩餐の前に腹が満たされてしまおうな」


「では、試食を取りやめて見学を続けられては? ……ああでも、それでは見学の楽しさも半減してしまいそうですね」


「うむ。であれば我は、母屋にてアイ=ファと語らいたく思う。それもまた、厨の見学に劣らぬ有意義な時間であろうからな」


「私はともかく、ガズラン=ルティムと語らうのは有意義であろうな」


 アイ=ファがやわらかな眼差しでそのように答えると、ポワディーノ王子は「うむ」とうなずきつつもじもじとした。


「ただ、一刻もの時間をかけた料理の味見をせずに立ち去るのは、あまりに心残りである。母屋に向かうのは、そちらを所望してからでかまわないであろうか?」


「もちろんです。僕も、同様の心情でありますよ。……では、そのようにね」


 武官は恭しげに一礼して、立ち去っていった。

 それからしばらくして、角煮は手でさわれるぐらいの熱に落ち着く。それを温めなおしてから人数分に切り分けて、試食の皿を回していくと、まずはレイ=マトゥアが「わあ」と感嘆の声をあげた。


「これは普段のかくにより、さらにやわらかいです! やっぱり圧力鍋の効能というのは、確かですね!」


「うん。普段は下茹でに一刻ぐらいかけてるけど、これは半刻で二刻の効果が出てるわけだからね。それでも茹ですぎっていう感じもしないし、かなり理想的な仕上がりかな」


 他の面々も、いっさい不満な様子は見られない。そして、毒見の後に料理を食したポワディーノ王子も、満足そうに「うむ」と首肯した。


「こちらも、素晴らしき味わいである。ギバ肉の力強さはそのままに、とろけるようなやわらかさであるな。……これほど脂身が豊かでありながら、まったく油分を余計に感じないというのも、我としては驚嘆を禁じ得ない」


「それは調理法ばかりでなく、ギバ肉そのものの特性でもありますからね。どれほど上等なカロンと比べても、ギバほど脂身が食べやすいことはないのではないかと思います」


「うむ。それがさらに入念な下ごしらえによって、いっそう好ましく仕上げられているわけであるな。こちらの料理が《南の大樹亭》で人気を博しているというのも、納得である」


「ああ、その件もご存じでしたか。ナウディスには明日さっそく、この成果をお伝えしようかと思います」


「うむ。薪の量を減らせる上に味の向上まで求められるならば、ナウディスも感無量であろうな」


 おそらくポワディーノ王子はナウディスとほとんど言葉を交わしたこともないのであろうが、『王子の耳(ゼル=ツォン)』の活躍によってそれなり以上の知識を携えているのだろう。

 そして、それをただの知識だけに留まらせず、ナウディスの心情にまで思いを馳せている。ポワディーノ王子のそういう部分に、俺は心をひかれているのだった。


「では、馳走になった。晩餐の仕上がりも楽しみにしている」


「はい。ポワディーノ殿下の期待にお応えできるように、励みます」


 そうしてポワディーノ王子は臣下の手によって雨具を纏い、かまどの間から退室していった。

 アイ=ファとポルアースもそれに続き、この場にはかまど番だけが残される。ポワディーノ王子が退室したからには、メルフリードたちがこちらにやってくることもないだろう。あとは晩餐までの二刻ほどを、母屋で過ごすのだろうと思われた。


「……ポワディーノというのは、噂で聞いていた通りのお人柄であるようですね」


 やがて、次なる料理の支度に励みながら、ラッツの女衆がそう言った。

 ラッツの集落では、ポワディーノ王子の存在がどのように取り沙汰されているのか――彼女の屈託ない笑顔を見れば、そんなことを問い質す必要もなかった。

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