ファの家の晩餐会①~招待~
2014.6/20 更新分 1/1
サトゥラス伯爵邸の勉強会から、さらに2日後――朱の月の19日である。
その日も俺たちは、粛々と屋台の商売に取り組んでいた。
雨季も終盤に近づいてきたが、客足の物寂しさに変わるところはない。この閑散期を利用して、俺たちはサウティおよびザザの血族の研修というものに力を入れていた。
サウティの血族はフォウの集落に、ザザの血族はディンやリッドの集落に滞在して、血族としての絆を深めている。それと同時進行で、屋台で働くかまど番の研修も進められていたのだ。入れ代わり立ち代わりでやってくる女衆の中から正式に雇用する人間を選出して、ついに最後の総仕上げに取り掛かったわけであった。
最終的に選ばれたのは、ザザとサウティの血族からそれぞれ6名ずつの女衆となる。彼女たちは今後も半月ほど滞在したらひと月ほど実家に戻るというローテーションであるため、それだけの人数を雇用する必要があったのだ。どちらの氏族も2名ずつの組になって、半月ごとに顔ぶれを入れ替えるという手はずになっていた。
ただし現在は早急に研修作業を進めるため、サウティとザザの血族から3名ずつの女衆を招いている。こちらの研修が完了したならば残りの3名ずつを招き、ちょうど雨季が終わるタイミングで正式に雇用しようという手はずになっていた。
ちなみにザザの血族は、1名がファの屋台でもう1名がディンの屋台という配分になっている。やはりあちらにしてみても、血族たるディンの屋台を手伝いたいという気持ちが強かったのだ。それでも毎回2名ずつの人員を受け入れているとディンやリッドの人手が余ってしまうため、1名限りという話に落ち着いたのだった。
いっぽうファの屋台も日に3名もの人員が増加するわけなので、また新たなローテーションの割り振りを考案しなければならない。もともとの人員にも3日に1度は出番を与えないと、不公平になってしまうのだ。あとから参入した族長筋の面々が反感を買わないように、そこは入念に取り決める必要があった。
「まあ、今はトゥランの商売があるし、雨季が明けたら城下町での商売を開始しようって話になってるからね。そうまで人手が余ることにはならないはずだよ」
俺がそのように伝えると、多くの女衆がほっと息をついていた。やはり誰もが、屋台の商売をこれまで通りに続けていきたいという意欲を携えているのだ。俺としては、心強いばかりであった。
「だからあとは、城下町の商売がどんな形に落ち着くかだね。あっちは通行証の問題もあるから、ごく限られた人数で回すしかないからさ」
「ええ。ですが幸いなことに、城下町の商売に固執する人間はいないように見受けられますね。宿場町でも城下町でもトゥランでも、とにかくアスタのもとで働けるのならば満足なのでしょう。……もちろんわたし自身も、同じ気持ちです」
と、ユン=スドラは無垢なる笑顔でそんな風に言ってくれた。
雨季が明けるまで、残すは20日ていどという見込みになっている。その後はユーミやリーハイムの婚儀も控えているし、俺やリミ=ルウの生誕の日も控えているし、黄の月もまた賑やかな日々になりそうなところであった。
そしてその前に、まずは東の王都の使節団を迎えなければならないし――さらに本日は、それに付随するイベントが発生していた。
なんと、ポワディーノ王子をファの家にお迎えすることになったのだ。
使節団が到着する前に1度だけでもファの家を訪れておきたいという、ポワディーノ王子のたっての願いというものを受け入れることになったのである。ポワディーノ王子はずっと厳しく自らを律していたように見受けられたので、俺もアイ=ファもその申し出を快諾したわけであった。
そうして屋台の商売が終わりに近づくと、城下町の方向からポワディーノ王子の一団がやってくる。
5台のトトス車と、トトスの手綱を引いた10名ばかりの武官という一団だ。もちろん車の中にも、武官がどっさり詰め込まれているのだろう。これまでの貴族を見習って、ポワディーノ王子も30名の武官を同行させるという旨が事前に伝えられていた。
なおかつ、5台の車の内の2台には、ジェノス侯爵家の紋章が掲げられている。見届け人として、メルフリードとポルアースとフェルメスも同行しているのだ。なおかつ、護衛役をポワディーノ王子の臣下だけでまかなうというのもジェノスの流儀にそぐわないため、そちらも十数名の武官を引き連れているのだという話であった。
そして、残る3台の内の1台は、純黒の羽毛を持つトトスに引かれている。
これこそが、ポワディーノ王子のための車であるのだろう。俺がこちらのトトスを拝見するのは、ポワディーノ王子がジェノスにやってきた当日と、スン家の祭祀堂にお招きした際と、本日でようやく3度目のことであった。
それらの面々はいつもの場所で待ち合わせをしているため、特に挨拶もなく屋台の前を通りすぎていく。ひさびさに姿を現した物々しい一団に、往来の人々は少なからず驚かされたようであった。
「なあ、今日は何の騒ぎだい? また何か、おかしな騒ぎが持ち上がったわけじゃないよな?」
お客のひとりがそんな質問を投げかけてきたので、俺は笑顔で「はい」と応じた。
「ポワディーノ殿下が、森辺の集落を視察されるのですよ。まあ視察と言っても堅苦しい話ではありませんので、心配はご無用です」
「ふうん。でも、どうせお前さんがお世話をするんだろう? くれぐれも面倒な話にならないように、気をつけてくれよな」
「ええ、もちろんです。ポワディーノ殿下は信用の置ける御方ですので、俺も今日の来訪は楽しみにしていたのですよ」
と、こういう際には俺もポワディーノ王子のイメージアップのために草の根運動に励むのが常であった。俺もアイ=ファも今では掛け値なしに、ポワディーノ王子を信頼しているのである。
その後も何か騒ぎが起きることはなく、粛々と時間が過ぎていく。
ゲルドおよび南の王都の使節団がジェノスを出立するのと同時に、長らく滞在していたリコたち傀儡使いの一団も、ミソ売りのデルスやワッズなども、それぞれジェノスを離れている。そして先日にはカミュア=ヨシュも、ザッシュマともどもダバッグへと旅立っていた。彼らも東の王都の使節団に備えてジェノスに留まる予定であったため、近場のダバッグまで遊びにおもむくことになったのだ。それでいっそう宿場町も平穏に――そして、いささか物寂しく感じられるのだろうと思われた。
しかし、東の王都の使節団がやってくる頃にはティカトラスやアラウトも再来することが決定しているので、こんな物寂しさも一時的なものだ。そもそも雨季で滞在客そのものが半減しているからこそ、このような物寂しさが生まれるのだろうと思われた。
(黄の月が賑やかになることはもう決まってるし、その次の緑の月にはバランのおやっさんたちだって来てくれるんだからな。それに、《銀の壺》だってそろそろやってくる頃合いだろう。今がたまたま、谷の時期ってだけさ)
そんな思いを噛みしめながら、俺はその日の仕事をやり遂げることになった。
屋台と食堂を片付けて、《キミュスの尻尾亭》に屋台を返却したならば、客人の一団と合流だ。それらの面々は約束通り、森辺に通ずる小道の前の空き地に待ちかまえていた。
「お待たせしました。それでは、ご案内いたします。まずはルウの集落に立ち寄って、それからファの家を目指しますので」
俺がそのように伝えると、手綱を握った『王子の分かれ身』はうっそりとうなずき返してきた。これは護衛役の武官、『王子の盾』である。現在、雨に打たれながら手綱を握っているのは、いずれも『王子の盾』なのだろうと思われた。
そうしてまずは、森辺の一団が小道に踏み込む。こちらも6名の研修生を同行させているため、荷車の数も1台増しであった。
ルウの集落に到着したならば、こちらに同乗させていたルウの血族のかまど番を下ろす。そして、本日の見届け人たるガズラン=ルティムが近づいてきた。
「アスタ、お疲れ様です。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
「ええ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ガズラン=ルティムは先日の晩餐会に参席していなかったため、およそ10日ぶりの再会だ。つまり、ダカルマス殿下やアルヴァッハたちがジェノスを離れてから、それだけの日が過ぎたわけであった。
空いた荷車にガズラン=ルティムを乗せることになったが、雨季では荷車と御者台の間に帳をおろしているため、会話もままならない。俺は黙って、ギルルの手綱を操るしかなかった。
そうしてファの家に到着すると、母屋の前で雨具をかぶったアイ=ファとジルベが待ち受けていた。きっと荷車の接近を察知して、母屋から出てきたのだろう。俺は荷車を停止させながら、「やあ」とアイ=ファに笑いかけてみせた。
「アイ=ファももう帰ってたんだな。お疲れ様」
アイ=ファもポワディーノ王子の来訪に合わせて、本日を半休の日にしたのだ。アイ=ファは凛々しい面持ちで俺のことを見上げながら、「うむ」とうなずいた。
「罠には1頭のギバも掛かっていなかったが、帰りがけに1頭だけ仕留めることがかなった。しかし……森の恵みもずいぶん食い尽くされてしまったので、あと数日ばかりで休息の期間とするしかあるまいな」
「そっか。収穫祭を開けないのは残念だけど、こればかりはしかたないな」
前回の収穫祭から半年ほどの日が過ぎて、ファの近在の氏族には休息の期間が巡ってきたのだ。雨季にぶつかると収穫祭を開けないという悲しみを、今回は俺たちが担うわけであった。
「これもまた、母なる森の思し召しであろう。……どうせならば、休息の期間の間に使節団というものを迎えたいものだな」
そのように語りながら、アイ=ファは後方に詰めかけたトトス車および騎兵の姿を見回した。
するとそれに応じるように、トトス車から見慣れた面々が姿を現す。メルフリード、ポルアース、フェルメス、ジェムドの4名と、2名の武官だ。
「やあやあ、アスタ殿にアイ=ファ殿も、お疲れ様。お世話をかけるけれど、今日はどうぞよろしくね」
雨具をかぶったポルアースに、アイ=ファは厳粛に「うむ」と応じる。続いて、メルフリードが冷徹なる声をあげた。
「では、武官の配置に取り掛かっても問題はなかろうか?」
「うむ。自由に取り計らってもらいたい」
メルフリードはひとつうなずき、うっそりと立ち尽くす『王子の盾』のほうに歩み寄っていく。それを尻目に、こちらも準備を進めることにした。
ギルルの荷車は母屋の脇につけ、同乗者たちに降りていただく。見届け人のガズラン=ルティムに、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハム、レイ=マトゥア、クルア=スンという顔ぶれだ。そして同行していたディンの荷車からはトゥール=ディンだけが降り立って、ファの家を離れていった。もともとトゥール=ディンは勉強会に参加する予定であったが、その後にはユン=スドラともども晩餐までつきあっていただくのだ。
「こちらは、どうしましょう? ポワディーノ殿下をお待ちするべきでしょうか?」
「いや、警護の配置にもそれなりの時間がかかるだろうからね。アスタ殿たちは、かまわず準備を進めておくれよ」
ポワディーノ王子は、あくまで平常通りのファの様相を拝見したいと申し出ていたのだ。ポルアースの言葉に従って、俺たちはかまど小屋に向かうことにした。
「ああ、アスタ、お疲れ様です。お迎えにあがれなくて、申し訳ありません」
かまど小屋で待っていたのは、ラッツとアウロの女衆である。屋台のメンバーではなく、下ごしらえを受け持ってくれる一団のメンバーだ。彼女たちも勉強会に参加するため、下ごしらえの作業後も居残っていたのだった。
「わざわざ雨の中を出迎えに出る必要はないと、私が言い置いたのだ。いちいち雨具の水気を払うのも手間であろうからな」
「うん、もっともな話だな。それじゃあ俺たちも、お邪魔するね」
かまど番の一行は雨具を脱いで、水気を払ってから壁に掛けていく。アイ=ファとガズラン=ルティム、それに客人の一行は、表でポワディーノ王子の到着を待っていた。
「さて。この後はどっさりお客さんを招くことになるけど、いつも通りの姿を見せてほしいっていう話だから、みんなもそのつもりでお願いするよ」
「はい。さすがに王族の御方をお招きするというのは、いささか気を張ってしまいますね」
そんな風に応じつつ、ラッツとアウロの女衆もにこやかな面持ちだ。森辺においてはポワディーノ王子に対する疑念は解消されたので、臆するところはないだろう。それに、祭祀堂の晩餐会もつつがなく終えられたことは、すべての氏族に通達されているはずであった。
そうして俺たちが勉強会の準備を進めていると、表のほうが騒がしくなってくる。それから、アイ=ファの手によって戸板が開かれた。
「この人数では狭苦しかろうということで、半数ずつ招くことになった。私を含めて、4名が邪魔をするぞ」
「うん、了解」と、俺も手を止めて客人たちの入室を見守った。
まずは雨具を脱いだアイ=ファが入室し、その後にポルアースとポワディーノ王子、さらに体格のいい『王子の盾』が踏み込んでくる。さすがにその瞬間だけは、ラッツとアウロの女衆も目を見張っていた。
入り口で雨具を脱がされたポワディーノ王子は、比較的簡素な装束に綺麗な肩掛けを羽織った姿だ。もちろんつばのない丸い帽子と面布で素顔を隠しており、『王子の盾』のほうは革の外套の下に織物のフードつきマントを着込んでいた。そしてどちらも、全身が藍色の姿である。
「ポワディーノ殿下、お疲れ様です。ようこそ、ファの家に」
「うむ。このように面倒な申し出に了承をもらい、心より感謝している」
ポワディーノ王子は、落ち着いた声音でそのように応じた。
こういった広からぬ場所で間近に接すると、ポワディーノ王子の小さな体格がいっそう実感できる。王子の背丈は150センチていどで、手足も胴体も年齢相応にほっそりしているのだ。体格のいい『王子の盾』の存在が、その印象をさらに強めていた。
「あ、今日も『王子の牙』を連れておられないのですね。そういえば、先日の晩餐会でも姿が見えませんでしたけど……どこか調子でも崩してしまったのでしょうか?」
「否。『王子の牙』とは、抜き身の刀そのものの存在であるからな。不特定多数の人間が集まる祝宴ならばまだしも、晩餐会や森辺においてはそちらの習わしに従うべきと考えたまでである」
では、こちらの『王子の盾』もいっさい武具を身につけていないということなのだろう。俺はまたひとつ、ポワディーノ王子を信頼する材料を手中にすることになった。
「他の面々も、我のことは気にせず仕事に励んでもらいたい。……今日は、見慣れぬ人間もいるようだな」
「はい。こちらはラッツとアウロの女衆で、普段から下ごしらえのほうを手伝ってもらっています」
「なるほど。……勉強会では常に十名以上の人間を集めていると聞き及ぶが、今日はその人数に至っていないようであるな」
「はい。あまり人数を集めると窮屈になってしまうので、今日のところはこの人数に留めておきました」
「では、我の存在が悪しき影響をもたらしたということであるな。心よりの謝罪を申し述べさせてもらいたく思う」
「いえいえ。あくまでこちらの判断ですので、どうぞお気になさらないでください」
そうして俺たちが言葉を重ねるごとに、ラッツとアウロの女衆の表情もいっそう安らいでいく。たとえ顔は見えなくとも、ポワディーノ王子の誠実さというものがじわじわ浸透していくのだろう。ユン=スドラたちなどは、最初からずっと穏やかな面持ちであった。
「そういえば、他の方々は何をされているのですか?」
「メルフリード殿とフェルメス殿は、母屋をお借りしてガズラン=ルティム殿と語らっておられるよ。一刻ていどで、僕はどなたかと交代させていただくからね」
「では、ポワディーノ殿下は、ずっとこちらに?」
「それは、場の情勢で判断しようと考えている。……アイ=ファと心ゆくまで語らうというのも、魅惑的な話であるからな」
ポワディーノ王子がそのように告げると、アイ=ファも落ち着いた眼差しで「うむ」と応じた。
「日没まで、まだ三刻ほどはあろうからな。そちらの好きなように過ごしてもらいたい」
「アイ=ファの温情に、感謝する。……では、アスタたちにも平常の仕事を進めてもらいたい」
「はい。何かありましたら、いつでもご遠慮なく声をおかけください」
そうして俺は、かまど番の面々に向きなおった。
「それじゃあ、勉強会を開始するね。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」と、ユン=スドラたちもそれぞれ頭を垂れた。
「それで、今日の議題だけど……まだ城下町での勉強会の内容を吟味し尽くしていないから、それを中心に進めていこうかと思うよ」
「はい。ずいぶん風変わりな手法がもたらされたと聞き及び、わたしたちも楽しみにしていました」
城下町の勉強会に参加していなかったラッツとアウロの女衆が、瞳を輝かせている。伝聞で、あるていどの情報は伝わっているのだろう。下ごしらえの作業中にも、その話題は大きく取り沙汰されているはずであった。
「やっぱり優先して取り組みたいのは、宿屋のご主人であるランディからもたらされた手法かな。ファの家でも、こういうものを準備してみたんだよ」
俺は、壁に立てかけておいたものを取り上げる。それは、真ん中にぽつんと小さな穴が開けられた木の板であった。
「呼び名をつけないと色々と面倒だから、俺はこれを圧力鍋の蓋と呼ばせていただくね。これを使うと短い時間で具材に熱を通すことができるっていう手法だよ」
「はい。圧力……鍋ですか。いかにも風変わりな名前ですね」
その返答に、俺は「おや?」と思った。
「確かに、風変わりだよね。でも……料理の名前なんかに比べると、受け入れやすいのかな?」
「え? それは、どういう意味でしょう?」
「いや、みんなは今でも料理の発音がたどたどしいように感じられるけど、圧力鍋は普通に発音できるみたいだからさ」
「はあ……料理とは、かれーやはんばーぐなどのことでしょうか? それらの名前は耳にも舌にも馴染みませんが、圧力や鍋でしたら見知った言葉ですので。……圧力とは、要するに押す力ということでしょう?」
「うん、そうそう。圧迫だとか圧巻だとか、ぐいぐい差し迫ってくる印象かな」
「はあ……」と、アウロの女衆は頼りなげに眉を下げた。俺の説明が下手だったのか、無駄に混乱させてしまったようだ。
そしてその間に、アイ=ファが俺のもとに忍び寄って囁きかけてきた。
「アスタよ。そういった話題は、フェルメスの前ではつつしんでおくのだぞ」
「え? 何故だい?」
「……あやつはアスタの使う言葉に対して、やたらと過敏であるからな」
俺は「なるほど」と納得した。フェルメスは俺がふとしたはずみに使ってしまう外来語ばかりでなく、「和風」といった言葉にも何やら思うところがあるような様子を見せていたのだ。とにかく彼は、『星無き民』にまつわる謎や秘密にきわめて過敏であるのだった。
(そういえば、俺がこの世界で不自由なく会話できてること自体、大きな謎なんだもんな。……まあ、今さらそんな話にこだわるつもりはないけどさ)
ということで、俺は本筋に立ち返ることにした。
「まあとにかく、圧力鍋の検証から始めようかと思うよ。こいつは時間がかかるから、今の内に下準備を始めておかないとね」
「はい。ヤンのやり方を見習えば、通常の4分の1の時間で熱を通すことができるというお話でしたよね。ただ……灰汁を取る必要のない料理に限られる、ということですか」
ユン=スドラの言葉に、俺は「そうだね」とうなずき返す。
「だから、頻繁に灰汁を取らないといけないギバ骨スープなんかでは、色々と試行錯誤が必要になるだろうけど……ちょっとした煮込みの料理なんかでは、ずいぶん活用できるんじゃないかな。試しに、ギバの角煮でも作ってみようか」
ギバのバラ肉のブロックを鉄鍋に投じて、まずは表面を軽く焼いておく。その間にわかした湯にブロック肉を沈めて、あるていどの灰汁を取ったら、中蓋の代わりとして臭み取りの効能を持つリーロの葉を敷きつめる。そして鍋には板と煉瓦をのせ、小さな穴には呼び鈴を設置だ。この呼び鈴は、ヤンにお願いして城下町から取り寄せたものであった。
「肉の下茹でで、もう圧力鍋を使うのですね。わたしはてっきり、下茹での後の煮込みで使うのかと思っていました」
「うん。もともと俺たちは、下茹でのほうに長い時間をかけてたからね。それに、最後の煮込み作業では、どうしても具材が煮汁の外に顔を出しちゃうから、圧力鍋を使うのは難しいと思うよ」
やがて呼び鈴の合図で沸騰を確認したら、かまどの火を弱火に落とす。あとは、半刻の経過を待つばかりだ。
「その間に、応用編にも挑戦してみよう。献立は……ちょっと角煮とかぶっちゃうけど、肉チャッチにしてみようか」
「肉チャッチですか? 肉チャッチは、そもそもそれほど長い時間を必要としませんよね?」
「うん。だからきっと、あっという間に作りあげることができるんじゃないかな」
バラ肉は薄めに切り分けて、ジャガイモのごときチャッチは四等分、タマネギのごときアリアはくし切りだ。それを水や各種の調味料とともに鍋に投じて、また同じ手順で圧力鍋の細工を施す。そうしてかまどに火をかけながら、俺は壁際にたたずむ客人たちを振り返った。
「あの、いつもこういう場では見学の方々にも味見の料理をお配りしているのですよね。もしよろしければ、ポワディーノ殿下もいかがですか?」
「うむ? しかしそれには、『王子の舌』と『王子の腕』が必要となってしまうし……そうまで人間を増やすのは、迷惑であろう?」
「迷惑なことはありません。あと2名様ぐらいは、問題ありませんよ」
すると、ポワディーノ王子はいくぶんもじもじしながらポルアースのほうを振り返った。
「アスタはあのように申しているが……我は、どのように取り計らうべきであろうか?」
「それはもちろん、ポワディーノ殿下のご随意に。……ポワディーノ殿下が味見をご遠慮なさるのでしたら、僕もご遠慮いたしますよ」
「うむ? 臣下ならぬ其方までもが、我と行動をともにする必要はあるまい?」
「いえいえ。国賓たるポワディーノ殿下を脇に置いて、自分だけが味見を楽しむわけにはまいりません。アスタ殿の料理の味見というのは、それだけの楽しさを持っているわけですからね」
と、ポルアースは屈託なく微笑んだ。
ポワディーノ王子は毅然と背筋をのばしつつ、それでもどこか恐縮した様子で「左様であるか」と応じる。
「其方にまで我慢を強いるのも、心苦しい限りである。それならば、余計な人間を増やす心苦しさを選ぶとしよう」
「承知いたしました。では、こちらの武官に臣下の方々を呼んでいただきましょう」
ポルアースは同じ笑顔のまま、扉の外に待機していた自前の武官に呼びかけた。
こういう場だと、ポルアースの気安さがいっそう際立つようだ。やはりポルアースも、ポワディーノ王子とそれだけの絆を深めることができていたのだった。
そうしてポルアースがもとの位置に戻った頃には、肉チャッチの鍋も呼び鈴の音を鳴らし始めている。こちらは水気も少ないので、あっという間に沸騰したのだ。
「よし。それじゃあこの鍋を、隣のかまどに移しちゃおう」
「え? 火を弱めるのではなく、火から離してしまうのですか?」
「うん。だって、圧力鍋は4倍の効果で熱を通せるわけだからね。この後は呼び鈴がおさまるまで蓋を開けられないんだから、あとはその余熱で十分なんじゃないのかな」
驚いた顔をしているレイ=マトゥアの手を借りて、俺は肉チャッチの鍋を火のついていないかまどに移した。
そうして呼び鈴がおさまったタイミングで、『王子の舌』と『王子の腕』がやってくる。そちらの両名が雨具を脱いでいる間に蓋を開けると、真っ白な蒸気がわきたった。
「うん。いい感じに煮詰まってるね。味をしみこませるために、このまま冷まそう。……みなさん、もう少々お待ちくださいね」
その間に別の料理の下準備を進めつつ、気づけば粗熱も取れている。
俺が菜箸でチャッチを割ってみると、申し分なくやわらかくなっていた。
それを小皿に取り分けていき、肉もひと切れずつ添えていく。7名のかまど番に6名の見物人で、合計は13皿だ。その数に気づいたポワディーノ王子が、いくぶん申し訳なさそうに声をあげた。
「アスタよ。もしや、我の臣下の分まで準備させてしまったのであろうか? であれば、不要と言い置くのを伝えそびれていた」
「いえいえ。こういう際には従者や護衛役の方々にも味見をお願いしていますので、どうぞお気になさらないでください」
「しかし、こちらは3名もの臣下を呼んでいる身であるし……」
「ほんのひと口の量ですので、お気遣いは無用ですよ。こちらとしては、なるべくたくさんの方々に食べていただいたほうがありがたいぐらいなのです」
ということで、俺は臣下の方々にも小皿を配らせていただいた。
まずは『王子の舌』が、その内のひとつを自前の銀の皿に移し替える。そこでしばらく動きを止めるのが常であるので、どうやら意味があっての行動であるようだ。もしかしたら、ある種の毒物は銀の皿にのせることで何らかの反応を見せるのかもしれなかった。
もちろん何の異変も生じなかったため、銀の皿の料理は『王子の舌』の口に運ばれる。それからまたしばらくして、『王子の舌』は「問題ありません」と静かに告げた。
その報告を待って、俺たちも小皿を取り上げる。ポワディーノ王子の口に料理を運ぶのは、『王子の腕』の役割だ。たとえこんな場であっても、シムの王子が自分の手で料理を口にすることは許されないようであった。
そしてこちらでは、レイ=マトゥアが「わあ!」と声を張り上げる。
「これは本当に、いつも通りのやわらかさです! あんな短い時間しか火にかけていなかったのに……なんだか、信じられません!」
「うんうん。圧力鍋の恩恵はあらたかだね」
ギバのバラ肉はしっとりとやわらかいし、チャッチもほくほくである。しっかり火にかけた肉チャッチと、なんら変わらない食感であった。
「ただ、ちょっぴり薄味になっちゃったね。たぶん蒸気が逃げない分、水気が多くなって味が薄まったんだ。圧力鍋を活用するには、味付けにも多少の配慮が必要になるね」
「うむ……しかし、純朴ながらも美味なる味わいである」
と、ポワディーノ王子がそんな言葉を届けてきた。
「デルシェアが口にしていたならば、また大きな声を響かせていたところであろうな。今日は我の都合で参席を遠慮してもらうしかなかったので、心苦しい限りである」
そんな風に言いながら、ポワディーノ王子の声は明らかに弾んでいた。
ポルアースも楽しげな笑顔であるし、アイ=ファも満足そうに目を細めている。『王子の腕』や『王子の盾』は無言で肉チャッチを食するばかりであったが――その場には、とても和やかな空気が満ちみちていた。




