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異世界料理道  作者: EDA
第八十七章 甘雨の時節
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城下町の勉強会③~探求~

2024.5/29 更新分 1/1

「城下町の方々にはご説明の必要もありませんでしょうが、こちらの中蓋は煮込み料理において具材に均等に味をしみこませるために使用する器具となります。また同時に、蓋をかぶせることで蒸発を制御する効能も存在いたします」


 ヤンがそのように説明すると、物怖じを知らないユーミが「はーい!」と挙手をした。


「質問! 蓋をかぶせりゃあ水気がとぶのを抑えられるだろうけど、味がどうのってのは何の話? 普通の蓋と、何が違うの?」


「はい。こちらの中蓋は鍋の口よりも小さめに作られておりますため、具材の上に直接のせる格好になるのです。そうすると、具材が動くことをおおよそ抑えることができますし、沸騰した煮汁が鍋の中で流れを生み出すため、味が均等にしみこみやすくなるということですね」


「ふーん? そんな道具は初めて見たけど、そんなに小さいかなー? そこの鍋の大きさと、そんなに変わらないように見えるけど」


「はい。こちらの中蓋は、さらに大きな鍋で使用する品となります。今回はこちらを中蓋ではなく通常の蓋として使用するために、本来よりも小さな鍋を準備いたしました」


 ヤンはそのように語っていたが、準備された鉄鍋はかなり大ぶりであった。俺が屋台で使用しているものと遜色なく、口の直径は40センチほどもありそうだ。それで木製の中蓋はそれよりもさらに大きなサイズであるため、これならば鍋の上にかぶせることも可能であるというわけであった。


「ですが、それでどうして熱の通り方が異なってくるのでしょうかな? 鉄であろうと木であろうと、蓋は蓋でありましょう?」


 ティマロが疑念を呈すると、ヤンは穏やかな微笑とともに「ええ」とうなずいた。


「ですが、鉄の蓋では穴を開けるのが難しいため、こちらの中蓋を使用することにした次第です」


「確かに、穴が開けられておりますな。この穴に、何か特別な作用が?」


「はい。火にかけた鍋にこちらの中蓋をかぶせたのち、さらに重りをのせるのです」


 ヤンが目配せをすると、ルイアが別室から運んできた包みを開帳する。そこから現れたのは、灰色をしたいくつもの煉瓦であった。


「この煉瓦を重りとして固定すれば、どれだけ鍋が煮立っても蓋が動くことはありません。それこそが、穴を開けた中蓋を使う眼目となります」


「蓋を固定? それは、危険でありましょう。蒸気の逃げ場をなくしてしまえば、どれだけ重りをのせたところで、いずれは蓋が弾け飛ぶことになりますぞ?」


「そのための、穴であるのです。鉄の蓋でも限界を超えれば大きく揺れ動いて、その隙間から蒸気を逃がします。こちらの中蓋であれば、この小さな穴からわずかばかりに蒸気を逃がすだけで済むというわけです」


 すると今度は、ロイが発言した。


「そこまでは理解しました。でもそれで、どうして熱の通り方が違ってくるんです? そりゃあもちろん蓋を閉めたほうが熱気がこもって、熱が通りやすいもんでしょうけど……そんなもんは、普通の蓋を閉めた状態に毛が生えたていどなんじゃないですか?」


「それが何故だか、ずいぶん仕上がりが変わってくるのです。これはわたしが師たる人物から習い覚えた作法であるのですが……うまくやれば、火にかける時間を半分から4分の1にまで短縮できることでしょう」


「4分の1? 半日を六刻だとすると、一刻半で同じぐらい熱が通るってことですか? そいつは、ちょいと……眉唾ですね」


 ロイは眉をひそめつつ、俺のほうを振り返ってくる。

 しかし俺も圧力鍋の原理などそうまで詳しくわきまえていなかったので、曖昧な笑顔を返すことになった。


「俺の故郷にも、そういう便利な鍋が売られていたように思います。蒸気の逃げ場がなくなると、鍋の内側に大きな圧力がかけられて……圧力があがると沸点もあがるから、通常よりも高い温度を保てるのだとか何だとか……そんな謳い文句を耳にした覚えがありますね」


「そいつは本当に、料理の話なんですかね」と、ロイは溜息をこぼした。


 何はともあれ、実践である。ランディの手によって大振りに切り分けられた食材が鍋に投じられて、たっぷりの水とともに火にかけられることになった。


 その鉄鍋に中蓋がかぶせられて、さらに煉瓦が積み上げられていく。これは確かにどんな現場でも見たことのない光景であった。


「そしてさらに、こちらを穴のあいている箇所に設置いたします」


 ヤンが取り出したのは、貴族が従者を呼びつける際などに使用する小さな呼び鈴である。その呼び鈴が、中蓋の穴をふさぐ格好で設置された。


 かまどでは、強火の炎がごうごうと景気よく燃えている。みんなでそれを見守っていると、やがて呼び鈴がりんりんと鳴り始めた。小さな穴から噴き出す蒸気によって、呼び鈴がカタカタと振動しているのだ。


「これで、鍋の中身が沸騰しました。あまり強火のまま放置すると、それこそ煉瓦ごと中蓋が持ち上げられる恐れがありますため、かまどの火を弱めます」


 ヤンの指示でニコラが燃える薪の一部を取り分けると、呼び鈴の振動がわずかに収まって、りん……りん……と、間遠に鳴り始めた。


「この呼び鈴が完全に止まってしまうと、熱が足らずに十分な効果が見込めません。さしあたっては、今ぐらいの火力を保つことにいたしましょう」


「ですが、現時点でもずいぶん火力は抑えられておりますな。これでも強火にかけるほどの熱が保たれて、しかも弱火で半日をかけるような効果が望めるというのでしょうか?」


 そのように問いかけるティマロは、疑わしさと期待の念が半分ずつといった面持ちであった。やはり誰にとっても、これは興味深い実験であるのだろう。ヤンは悠揚せまらず、「ええ」と微笑んだ。


「わたしも近年ではさほど活用していない手法となりますが、その効果は何度となくこの身で味わわされております。結果は、一刻半の後となりますね」


「ではその間に、別の調理に取り掛かるといたしましょう」


 ということで、火の番はルイアに一任されて、料理人の一同は作業台に舞い戻ることになった。


「せっかくですので、ランディ殿にもう何点か議題を提出していただきたく思います。他に何か、再現に困っているアブーフ料理などはございますでしょうか?」


「そうですね……再現できても評判の悪い料理というものがあるのですが、そちらに関してみなさんのご意見をいただけますでしょうか?」


「ほほう。それもまた、興味深い料理でありますな。いったい、どのような料理であるのでしょう?」


「簡単に言えば、焼きフワノです。アブーフにおいては焼きフワノに大量の乳脂を使うことが多いのですが、どうもそれは北の地ならではの作法であるようなのですよね」


 その言葉に反応したのは、ジェノス城の料理長ダイアであった。


「そういえば、あなた様は昨年の試食会において、とても濃厚な味わいの菓子を供しておられましたねぇ。焼きフワノにも、ああいった細工を施すということでしょうか?」


「はい。繰り言になりますが、アブーフは寒冷が厳しいため、濃厚な味わいが求められているのです。それにおそらく、温暖な地の人間よりもたくさんの滋養が必要になるのでしょうな」


 柔和な微笑をたたえたまま、ランディはそのように言いつのった。


「かくいうわたしも、こちらの焼きフワノを食すると途中で胸が焼けてしまうのです。アブーフでは決してそのようなこともなかったので、きっとこの温暖なジェノスではそれほどの滋養が必要なく、身体が拒んでしまうのでしょう。味わいそのものは申し分ないのに食べきれないというのは、ひどく無念なものでありまして……もしも可能であるならば、こちらの料理を食べやすいように改良したいのです」


「ではまず、そちらの焼きフワノを作りあげていただきましょうか」


 ティマロの言葉に従って、新たな調理がスタートされた。

 フワノは雨季の期間に収穫できないので、この時期は倍の値段に跳ねあがる。しかし、デルシェア姫が費用を受け持つ本日の勉強会では、ポイタンではなくフワノが惜しみなく使用された。


 それで、その作り方というのは――まず、500グラムはあろうかという大量の乳脂が鉄鍋で温められた。

 ものすごい芳香とともに乳脂がとろけると、白いフワノ粉がダマにならないように少量ずつ加えられていく。フワノの投入はロイ、鍋の攪拌はランディが受け持つことになった。


 もとの乳脂が大量であるため、鍋の中身はいつまで経っても半液状である。

 そして、その状態のまま、ランディが「けっこうです」と声をあげた。


「あとは軽く塩を振ってかきまぜたのち、こちらを皿に移していきます」


 ランディはレードルですくいあげた具材を一杯ずつ皿に移していく。

 何せ半液状であるため、具材はべちゃっと潰れてしまい、実に不格好な姿である。そしてその姿に、トゥール=ディンが「あ……」と声をあげた。


「トゥール=ディン殿、如何いたしましたか?」


「あ、いえ……以前にプラティカがお作りになった菓子と、形が似ているように思って……もしかして、あちらの菓子もこのように作りあげたのかと……」


 トゥール=ディンの遠慮がちな言葉に、プラティカは毅然と「はい」と応じた。


「その菓子、『冬の終わり』ですね? あちら、卵白ですが、確かに、似ている部分、あります。『冬の終わり』、この状態で、窯焼きにします」


「ああ、あちらの菓子は、そのように作られているのですね。ですが、こちらの焼きフワノを窯というもので火にかけたら、たちまち溶け崩れてしまうことでしょう。こちらはこのまま、冷え固まるのを待つのです」


 そう言って、ランディはまたにこやかに笑った。


「本来はこの生地の中に刻んだ肉や野菜などを加えますが、味見のために余計な細工はいたしませんでした。これがわたしの知るアブーフの焼きフワノの、もっとも基本的な仕上がりであるのです」


「なるほど。ですが、乳脂の量はこちらの想像を絶しておりましたな。フワノなどは、乳脂の半分も使われていないのではないでしょうか?」


「はい。生地が固まるぎりぎりの加減です。アブーフなどは気温が低いので、もっとフワノ粉を減らすこともできるでしょう」


「ふむ……これではほとんど、乳脂そのものを食するようなものでありますな。カロンの乳や卵などを加えることもないのでしょうか?」


「ええ。他の水気を加えると、乳脂の量を減らすことになってしまいますので。こちらの焼きフワノを煮汁や溶かした乾酪などにひたして食するのが、アブーフの作法でありました」


 そうしてランディたちが語らっている間に、フワノの生地が固まったようであった。

 串でつついてそれを確かめたランディが、もともとレードル一杯分であった生地を4つずつに切り分けていく。その際にも生地が糸を引くようなことはなかったが、調理刀はすぐに油分でてらてらと照り輝いていた。


「この量でしたら、胸が焼けることもございませんでしょう。とりあえず、味をお確かめください」


 料理人たちの数多くは、不審げに眉をひそめていた。何せ、乳脂とフワノと塩しか使っていないのだ。それで美味なる料理に仕上がる道理はないと、そんな風に見なしているようであった。


 かくいう俺も、期待と不安が半々といった心境であったのだが――これはなかなかに、愉快な味わいであった。それこそ、香り豊かなバターの塊をそのままかじっているような、背徳的な味わいであったのだ。そして、少量のフワノがわずかな食感と香ばしさを添えて、意想外の調和を為していたのだった。


「これはまあ……確かに、美味でないことはないのでしょう。他なる具材や煮汁や乾酪などを使えば、ひとつの料理として成立させることも難しくはないかと思われます」


 そんな風に語りながら、ティマロは渋い顔をこしらえた。

 そして何故だか、俺たち森辺のかまど番のほうをちらちらとうかがってくる。


「ですが、このように油分が強烈ですと、ふた口かそこらが限度でありましょうな。それ以上の量を口にしたならば、すぐさま胸が焼けてしまいそうです。……森辺の方々であれば、余計そのように思われるのではないでしょうか?」


「うん! なんか、ティマロのお肉の料理を思い出しちゃった!」


 リミ=ルウが元気な声で応じると、ティマロは渋い顔のまま眉を下げてしまう。


「お言葉を返すようですが、あちらの肉料理は貴き方々にも好評を博しておりましたし、ひと皿を食しても胸が焼けることはございません。上質なるカロンの脂は、そのまま食しても身体に害を及ばすことはないのですからな」


 そのやりとりで、俺も古い記憶を引っ張り出されることになった。俺たちが初めてティマロの料理を食した際、カロンの肉に細かく穴を穿って脂肪分を注入したと思しき料理が出されていたのだ。あの肉料理は溶けるような食感で、美味と言えば美味であったが、森辺の民にはのきなみ不評であったのだった。


(で、あんな料理を作っていたティマロでも苦言を呈するぐらい、この焼きフワノは脂肪分が過多ってことだよな)


 確かに俺も、この焼きフワノを腹いっぱい食するという蛮勇は振り絞れそうになかった。これはやっぱり、寒冷の地に住まう人々が手っ取り早くカロリーを摂取するために考案された料理であるのだ。それこそ、カロリーの塊である乳脂を食べやすくするためにわずかなフワノ粉が投じられた結果であるのかもしれなかった。


「うーん。こいつを食べやすく仕上げるというのは、ちょいと難題かもしれませんね。乳脂を減らしたらただの焼きフワノになっちまいますし、乳脂を減らさない限りはこの風味を保つこともできないのでしょうし……ちょっと、解決の糸口が見えません」


 ロイがそのように発言すると、俺のそばからレイナ=ルウが身を乗り出した。


「ですが《銀星堂》の方々は送別の祝宴にて、ギラ=イラの味わいを別なる食材で再現するという手腕をお見せになっておられましたよね。それと同じように、乳脂の風味を再現することは可能なのではないでしょうか?」


「いや、まあ、それは不可能ではないのかもしれませんけど……師匠、如何ですか?」


 ロイが水を向けると、ヴァルカスはぼんやりとした顔と声で「論外です」と応じた。


「乳脂の風味の再現などどれだけ手間がかかるかもわかりませんし、そうまでして完成させてもさらなる発展は見込めません。いっそ、溶かした乳脂を鼻の穴に塗り込みながら焼きフワノをかじったほうが、話は早いのではないでしょうか? さすれば、嫌というほど乳脂の風味を満喫することがかなうでしょう」


「手厳しいですな。ヴァルカス殿は、よほどこちらの焼きフワノがお気に召さなかったのでしょうか?」


 ティマロが非友好的な目つきで問い質すと、ヴァルカスは「はい」と首肯した。


「こちらは乳脂をそのまま食しているも同然でありますから、わたしには何の価値も見出すことはかないません。胸が焼けるというのでしたら焼きフワノそのものの分量を抑えて、あとは具材や調味液で細工を凝らすしかないでしょう」


「やはり、そうですか。こちらの焼きフワノは、ジェノスにおいて不要であるということでありますね」


 ランディは、ちょっぴり切なげに微笑んだ。 

 すると、トゥール=ディンがもじもじしながら「あ、あの……」と声をあげる。


「で、でも、こちらの焼きフワノはとても美味であるように思いました。それでしたら、こちらの焼きフワノも具材のひとつして扱ってみては如何でしょうか?」


「こちらの焼きフワノを、具材のひとつに? とは、どういう意味でありましょうか?」


「で、ですから、その……こちらの焼きフワノを少量に切り分けて、普通の焼きフワノで包み込むとか……」


「ほう」と声をあげたのは、ヤンであった。


「それは、思いつきませんでした。いささかならず、興味をかきたてられるご提案ですな」


「そう……かもしれませんな」と、ティマロも目を光らせた。


「まずは、試してみるべきでしょう。ランディ殿、もうひとたびさきほどの焼きフワノをお願いいたします。こちらは、通常の焼きフワノの準備を進めますので」


 ということで、再び調理の開始であった。

 ランディのもとにはロイがつき、ティマロのもとにはヤンとトゥール=ディンが集められる。そうして2種の焼きフワノの準備が同時に進行された。


 ティマロの班は通常通り、フワノ粉に水気を加えて練りあげていく。使用された水気はカロンの乳であり、ほんの少しだけアールの花蜜も加えられていた。

 やがてランディの焼きフワノが完成しならば、冷え固まるのを待って、先刻と同じサイズに切り分けられていく。そしてその焼きフワノの一片を別なるフワノの生地の内側に封入して、窯で焼きあげるのだ。


 やがて完成した焼きフワノが、作業台の上にずらりと並べられる。

 ほんのりと焼き目がついた、ごく尋常な焼きフワノだ。大きさはひと口大で、平たい饅頭のような形状であった。


 それを食してみると、半分溶けかかった乳脂の風味が口の中に広がっていく。味わいとしては、ほどほどの加減で乳脂を使った焼きフワノと同様なのであろうが――ただ、趣はずいぶん異なっていた。


「なるほど。同じ量の乳脂を外側の焼きフワノに加えても、この味わいは再現できないのでしょうな」


「ええ。中央に封入された乳脂が少しずつ周囲に広がっていくさまが、とても好ましく思います。これはまさしく、乳脂そのものを具材としているかのようですな」


「ですが、乳脂そのものであれば焼きあげる過程で完全に溶け崩れて、周りの生地にしみこんでいたことでしょう。最初に少量のフワノで焼き固めたからこそ、こうまで形が残されているのです」


「であれば、フワノを焼きあげたあとに乳脂を加えたほうが、まだしも近い仕上がりになるのでしょう。ですが……それでも、趣は異なるのでしょうな」


「ええ。具材として扱う焼きフワノは乳脂そのものの味わいでありながら、やはりいったんフワノとともに焼きあげられたことで別種の風味が生まれています。これは、この手順でこそ成し得る味わいであるのでしょう」


 と、気づけばサトゥラス伯爵家の料理長や《四翼堂》のご主人なども論議に加わっている。森辺のかまど番はつつましく口を閉ざしていたが、おおよそは満足そうな面持ちで焼きフワノを食していた。


「これにさらなる味付けを施せば、より理想的な料理を目指すこともかなうでしょう。我々にとっては、非常に有意義な発見でありましたが……ランディ殿は、如何でしょうかな?」


「はい。乳脂の量を減らすよりは、こちらの食べ方のほうがわたしの心を満たしてくれるようです。内側の焼きフワノを噛んだ瞬間には、アブーフで暮らしていた頃と同じ濃厚な味わいを楽しむことがかないますからな」


 ランディは普段以上にやわらかく微笑んで、トゥール=ディンのほうに向きなおった。


「ありがとうございます、トゥール=ディン。わたしはまたあなたのおかげで、故郷の味を理想的な形で再現できそうです」


「い、いえ。わたしは、ちょっとした思いつきを口にしただけですので……」


 トゥール=ディンは、恐縮しきった様子で頭を下げる。そしてその口もとにも、可憐な花のような微笑が広げられた。


「そ、それに、この味わいは菓子にも活用できると思います。乳脂の新しい扱い方を教えていただけて、わたしのほうこそ感謝してします」


 フォンデュの菓子をアレンジしていた際にも、トゥール=ディンとランディはこうしておたがいを高め合っていたのだ。これもひとつの理想的な切磋琢磨なのではないかと、俺はそのように考えていた。


「やはりランディ殿の手腕には、我々も大いに刺激を受けてやみません。他に何か、アブーフならではの作法というものはございませんでしょうか?」


 ティマロがさらに追及すると、ランディは「うーん」と思い悩んだ。


「わたしはどちらかというと、料理よりも菓子に関心があったため、他にはそれほど目ぼしいものもないかもしれません」


「菓子でも、まったくかまいません。この場で菓子に関心の薄い人間などは、ほんのひと握りでしょうからな」


 と、ティマロは横目でヴァルカスを見やったが、俺のかたわらではレイナ=ルウも首をすくめていた。そういえば、菓子までは手が回らないと言ってすっぱり見切りをつけた点において、ヴァルカスとレイナ=ルウは共通していたのだった。


「菓子もこれまでの試食会でおおよそ披露してしまいましたため、あまり目ぼしいものはないのですが……そういえば、わたしが作り方を知らない菓子というものが存在したのです。それにあれは、菓子ばかりでなく料理にも使われていたはずですな」


「ほう、それは興味深い。いったいどのような品であるのでしょう?」


「おそらくはカロンの乳を原料にしているのですが、果実のように酸味があるのです。とても清涼な味わいで、わたしは幼子の頃より好んでおりました」


 ランディの返答に、ティマロは難しい顔をした。


「酸味ですか。でしたらそれは、発酵をもちいた品であるのやもしれませんな。どうもこのジェノスにおいては、発酵の研究が遅れているようなのです」


「はっこうですか。わたしはその名も存じあげませんな」


「そうでしょう。たとえば果実酒や乾酪なども、発酵の技術で作りあげられた品であるのです。ギャマの乾酪にも、酸味が存在するでしょう? ランディ殿が味わったその品も、乾酪に類する品なのでは?」


「ギャマの乾酪ですか……うーん……まあ、似ていないことはないのかもしれませんが……ギャマの乾酪は酸味よりも、香ばしい風味が印象に残されています。それに、カロンの乾酪には酸味もありませんでしょう?」


「左様ですな。ランディ殿が口にされたのも、ギャマの乳を使った品なのでは?」


「いえいえ。確かにアブーフにはギャマも存在いたしますが、あれはカロンの乳を使った品であるはずです。乾酪とは違う作法で、はっこうという技術が使われたのやもしれませんな」


「左様ですか……聞けば、タウ油やミソというものも、発酵を利用した品であるようなのです。発酵に関しては、ジャガルのほうが先を行っているものと判じられております」


 そんな風に語りながら、ティマロはずっと静かにしているデルシェア姫に向かって恭しく一礼した。


「恐れ多くも、デルシェア姫にお尋ね申し上げたく存じます。ジャガルにおいて、カロンの乳を発酵させる研究などは進められているのでありましょうか?」


「あはは! そんなかしこまることないってば! でもそれだったら、それこそ酪ぐらいしか思い当たらないかなー! ……酪だったら、ヴァルカス様も使ってるでしょう?」


「はい。わたしはダバッグの商人からカロンの乳の酪を買いつけています。ですが、あちらは液状でありますし、さほど酸味は強くないように思います」


「うんうん、確かに! ランディ様がアブーフで口にしたのは、どんな品だったの?」


「どんな品……そうですな……外見は白く、アスタ殿が開発した生くりーむというものを、もう少し固くしたような食感でありました。ただ固いとは言ってもなめらかな口ざわりで、なかなか他には存在しない趣でありましたな」


 であればそれは、ヨーグルトに近い食材なのではないだろうか。

 俺もヴァルカスの料理で酪が使われていたことを記憶しているが、あれもヨーグルトと似て異なる食材であったような印象である。酪とは異なる様式の発酵食品であるのか、あるいは酪に何らかの手を加えた品であるのか――そのあたりが妥当な答えであるように思えた。


 俺がヨーグルトという言葉を使わずにそんな意見を申し述べると、ヴァルカスが「なるほど」と反応した。


「でしたらそれは、低い気温を利用して酪に何らかの加工を施した品であるのかもしれません。それが正解であるとしたら、温暖なるジェノスで再現は不可能ということになりましょう」


「そうですか。確かにこの地でも再現が可能でしたら、ダバッグあたりで作りあげられていたのではないかと思います。あのように素晴らしい品であれば、誰かしらが興味を抱くでしょうからな」


 ランディはにこやな面持ちのまま、残念そうに息をついた。

 発酵食品というのは、確かに難しいジャンルであるのだ。ジェノスのように温暖な地では腐敗の心配もつのるため、なおさらであるのかもしれなかった。


「でしたら、ごく表面的な再現に取り組んでみては如何でしょう? 生クリームに酸味を加えたら、少しは近づくかもしれませんよ」


 俺がそのように提案して、自ら手掛けることになった。

 何も難しい話ではない。カロンの乳で生クリームを作りあげて、レモンのように酸っぱいシールの果汁を加えるだけのことである。数々のフルーツクリームを手掛けたトゥール=ディンでも、隠し味の他にシールの果汁を使ったことはないはずであった。


 液状の生クリームにシールの果汁をたっぷり加えて、持参した泡立て器で入念に攪拌する。果汁で水気が増したためかホイップ状態にはならず、とろとろの状態に仕上がった。これはこれで、ゆるめのヨーグルトであるかのようだ。


「ほう、これは……わたしの知る品とは、いささか趣が異なるようですが……しかし、非常に好ましい味わいでありますな」


 ランディはそんな風に言ってくれたし、ティマロや他の料理人たちも「ほほう」と声をあげていた。

 俺も味見をしてみたが、ヨーグルトというよりはサワークリームのような味わいだ。生クリームの濃厚な風味にシールの清涼な酸味がいきわたり、悪くないお味であった。


「……アスタ殿。こちらの品は、きわめて汎用性が高いように思います」


 と、ヴァルカスに至っては、いきなり俺の両肩をわしづかみにする始末であった。


「シールの果汁というのはママリアの酢と並んでもっとも基本的な酸味をつかさどる食材でありますが、カロンの乳の脂肪分と融合することで新たな魅力を引き出されています。これは、数々の料理に転用することがかなうでしょう」


「そ、そうですか。お気に召したのなら、幸いです」


「はい。また研究の素材が増えてしまいました。手つかずの食材が山のように残されているというのに、困ったものです」


 と、ヴァルカスは憂いげに溜息をつく。その間も、俺の両肩をつかんだままである。

 こっそり視線を飛ばしてみると、やはり扉のそばに待機しているアイ=ファが仏頂面で腕を組んでいる。アイ=ファは俺と他者の肉体的接触を好んでいないので、それも致し方のないことであった。


 ともあれ、俺も少しばかりは勉強会に貢献できたようで、何よりである。ランディたちの作法からは学ぶことも多かったので、俺も少しはお役に立ちたかったのだった。

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― 新着の感想 ―
乳酸菌って環境の問題ないような……作ろうと思えばできるかな?
[気になる点] 圧力とか沸点の概念は共通認識として存在してるらしい。
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