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異世界料理道  作者: EDA
第八十七章 甘雨の時節
1495/1686

城下町の勉強会①~穏やかな朝~

2024.5/27 更新分 1/1

・今回は全7話の予定です。

・5/17に書籍版第33巻が刊行されました。そちらもお楽しみいただけたら幸いです。

 その日の朝、俺が薄暗がりの中で目を覚ますと――目の前に、アイ=ファの安らかな寝顔があった。

 ただし本日は、アイ=ファも俺に抱きついたりはしていない。ただ雨季用の温かい毛布の中で、その指先は俺の右手をしっかり握りしめていた。


 俺が最後に悪夢に見舞われたのはアイ=ファの生誕の日の夜であるから、もうひと月以上が過ぎている。

 それからアイ=ファは毎晩こうして俺の手を握りながら、眠りに落ちることになったのだ。そして、朝になってもその手が離れていることは1度としてなかったのだった。


(それだけアイ=ファは、俺のことを心配してくれてるってことだよな)


 寝起きの頭でそんな風に考えながら、俺はアイ=ファの寝顔を見守った。俺がアイ=ファより先に目覚める機会は少なかったので、これは希少なチャンスであったのだ。


 今はいったいどれぐらいの刻限であるのか。雨季のせいで、まったく判然としない。ただ、どれだけ薄暗かろうとも、窓に帳をおろした状態でこれだけ視界がきいているのだから、夜が明けたことに間違いはないだろう。そして、こんな薄暗がりでもアイ=ファの美しさと輝かしさには何の変わりもなかった。それは、俺が知っている通りの――出会った頃から何も変わらない、愛しいアイ=ファの寝顔であった。


 もちろん出会ってから間もなく3年が経とうというのだから、アイ=ファだってしっかり成長していることだろう。きっと出会った頃よりは大人びた容姿になっているし、それに出会った頃よりもうんと表情はやわらかくなったはずだ。しかしそれでも、俺がアイ=ファから受ける根幹の印象は、何ひとつ変わっていなかったのだった。


 アイ=ファはただ容姿が整っているというだけではなく、その内面が美しい。美しい内面が、アイ=ファをいっそう魅力的に見せているのだ。たしかティカトラスも似たようなことを言っていたように思うが、そんな話は俺がアイ=ファと出会った頃から瞭然としていたのだった。


 アイ=ファには、誰よりも強靭な心と誰よりも優しい心が備わっている。その強靭さが凛々しさを、その優しさが優美さを生み出すのだ。アイ=ファならではの魅力というのは、その二面性の奇跡みたいな混在にあった。


 それでこうして眠っているアイ=ファというものは凛々しさが抜け落ちて、たおやかでやわらかで愛くるしい一面がめいっぱい発露される。俺が愛するのは凛々しくて優しいアイ=ファに他ならなかったが、かといってアイ=ファの可愛らしい寝顔に胸を満たされない理由にはなりえなかった。


 そうして俺が5分ばかりも幸福な時間を堪能していると、ついにアイ=ファのまぶたがゆっくりと持ち上げられていく。

 その青い瞳が俺の姿をとらえると、アイ=ファの口もとに無防備な微笑がたたえられた。ふたりきりの場ではアイ=ファも内心を隠すことはなかったが、やはり寝起きの際にはもっとも無垢なる表情を覗かせることが多かった。


「もう朝か……先に目覚めたのなら、声をかければよかろう」


「うん。でも今日は屋台の休業日だし、何も急ぐ必要はないかと思ってさ」


「こうまで薄暗いと、刻限の見当もつかんな……存外、時間は過ぎているやもしれんぞ」


「そうだとしても、なかなか毛布を出る気にはなれないなぁ」


 俺が軽口を叩くと、アイ=ファはいっそう幸せそうな表情で微笑んだ。

 そして毛布の下では、俺の右手がアイ=ファのもとに引き寄せられる。その末に、恋人つなぎをしたふたりの手の先がアイ=ファの口もとに顔を出した。


「……今日も悪夢は見なかったようだな」


「うん。あんなのは、そうそう見るものじゃないからな」


「そうか……アスタが安らかな眠りを授かったことを、得難く思う」


 そんなつぶやきをもらしてから、アイ=ファはふいに俺の手の甲に唇を触れさせた。

 そのやわらかな感触に、俺は心から慌てふためいてしまう。


「ア、アイ=ファ。いったい、どうしたんだ?」


「何がだ……? 私はまだ目が覚めきっていないので、ややこしい話はつつしむがいい」


 アイ=ファはくすりと笑ってから、寝具の上に身を起こした。


「では、朝の仕事に取りかかるか。私は着替えるので、お前もさっさと別の部屋に移るがいい」


 そうして朝から俺の胸を惑わせつつ、アイ=ファは名残惜しそうに俺の手を解放したのだった。


                  ◇


 本日は、朱の月の15日――城下町で行われた送別の祝宴から、6日目にあたる日取りであった。

 南の王都とゲルドの使節団も、バナーム侯爵家の面々もダーム公爵家の面々も、みんなジェノスを出立したのだ。ティカトラスやアラウトたちは東の王都の使節団の来訪にあわせて舞い戻ってくるという話であったが、ダカルマス殿下やアルヴァッハたちとはこれで長きの別れになるはずであった。


 賑やかなる客人たちがいっせいに旅立ったため、俺たちの生活は平穏そのものである。客人たちの滞在期間の末期にはシムの王家にまつわる騒乱まで勃発していたので、あまりの落差にちょっと落ち着かない気分を覚えるほどであった。


 しかし人生には、こういう時期も必要であるのだろう。

 それに、平穏と言っても、この数日をのんべんだらりと過ごしていたわけではない。たとえ雨季で客足が減っていようとも屋台の商売は継続されていたし、狩人には狩人の仕事があるのだ。言ってみれば、非日常の騒がしさから解放されて、日常の賑やかさに回帰したようなものであった。


 なおかつ本日は屋台の休業日であったが、日常ならぬスケジュールが詰め込まれている。昼からは城下町で料理の勉強会であり、夜はそのままポワディーノ王子とデルシェア姫が参席する晩餐会であったのだ。勉強会の発案者であるロイに対して、俺はしばらく骨休めの期間をいただきたいと告げていたが、けっきょくそれは5日間で終わりを迎えたわけであった。


 しかしまあ、俺としても不満を抱いているわけではない。屋台の休業日に何の予定もなかったら、けっきょく朝から晩まで調理の研鑽に励むことになるのだ。城下町で勉強会を行えるならば、むしろ有意義なぐらいであった。


「それでまた、休業日を迎えるなりポワディーノ殿下やデルシェア姫と顔をあわせることになっちゃったけど……間に5日もはさんでたら、文句をつけるほどではないよな?」


 食器や衣類の洗浄に香草と薪の採取という朝の仕事を片付けて、のんびり広間でくつろいでいるさなか、俺がアイ=ファの心中を確認するべくそのように問いかけると、我が最愛なる家長殿は穏やかな表情を乱すことなく「うむ」と首肯した。


「デルシェアたちはデルシェアたちなりに、最大限に我慢をきかせているのだろうからな。まあ、休みの日に休めぬアスタは不憫でならないが……お前も決して、無理をしているわけではないのだろうしな」


「うん。俺は大丈夫だよ。アイ=ファこそ、狩人の仕事を休む日をすべて護衛の仕事に使っちゃってる形だよな」


「それこそ、大事ない。お前をひとりで城下町に向かわせることはできんからな」


 そのように語るアイ=ファの眼差しは、とてもやわらかい。城下町に出立する刻限まではふたりきりの時間を過ごせるので、その得難さを噛みしめているのだろう。もちろん俺も、気持ちはひとつであった。


 まあふたりきりと言っても、ファの家は人間ならぬ家人であふれかえっているため、とても賑やかだ。本日などは同じ喜びを分かち合うために、トトスのギルルを除く全員が足や腹を清められて広間にあげられていた。


 猟犬のブレイブとドゥルムア、番犬のジルベ、ブレイブの伴侶であるラム、その子であるフランベ、チトゥ、マニエ、黒猫のサチ、白猫のラピ――土間で居眠りをしているギルルを含めて、総勢は10名だ。ファの家は、すっかり動物王国のような有り様に成り果てていた。


 なおかつその様相は、日を重ねるごとに密度を増している。3頭の子犬たちが、どんどん成長しているためである。

 子犬たちが生まれたのは昨年の暮れであったため、あと5日ばかりで生後4ヶ月ということになる。とりわけこのひと月ぐらいは成長が目覚ましく、今ではどの子犬たちもよちよち歩きを卒業して颯爽と歩けるようになっていた。


 とはいえ、子犬は子犬である。ちまちましていた手足も長くのびて、ずいぶん立派な体格になってきたものの、まだまだ成犬の半分の質量にも至ってはいない。その顔立ちも存分にあどけなく、乳幼児が小学生ぐらいに育ったような感覚であった。


「……子犬たちを外に出せるようになるまで、あと10日か」


 じゃれあう子犬たちの姿を愛おしそうに眺めながら、アイ=ファはそのようにつぶやいた。今でも荷車で余所の家に運ぶことはあったが、子犬を外で遊ばせるのは生後4ヶ月を過ぎてからという話であったのだ。そういう話を重んじるアイ=ファは、子犬たちの生誕の日をしっかり記憶していた。


「そのひと月後からは、いよいよ成犬と同じように生鮮の肉を食べさせていいって話だったよな。なんだか、あっという間に感じられるよ」


 現在は、細かく挽いた上で煮込んだギバ肉を与えている。それももちろん、猟犬を売ってくれた行商人からの指示である。その人物は騒乱のさなかにジェノスにやってきて、ルウの集落にて子犬たちの成長の具合を確認していた。


「それで来月には、2度目の発情期か。まあ、子を産んだばかりの犬がすぐに子を授かることは少ないって話だったけど……前回の期間で子宝に恵まれなかった氏族の犬たちが子を授かるといいな」


「うむ。それもすべて、母なる森の思し召しであろう。森辺で暮らす以上、犬たちもまぎれもなく森の子であるのだからな」


 アイ=ファが手をのばすと、砂色の毛並みをしたチトゥがとてとてと近づいて、その指先をなめる。さすればアイ=ファもいっそう幸せそうな眼差しになるのが、自然の摂理というものであった。


 ちなみにアイ=ファの膝にはラピが、俺の膝にはサチがそれぞれ鎮座ましましている。子犬たちばかりにかまけさせてなるものかという断固たる意志を感じてやまないが、こちらも愛くるしい限りである。そして、ブレイブとラムは仲睦まじく寄り添っており、アイ=ファのかたわらにはドゥルムアが、俺のかたわらにはジルベが寄り添ってくれていた。


 ジルベは親たちに負けないぐらい子犬たちを慈しんでいる様子であるが、こういう場ではうっかり押し潰してしまわないように身動きを控えるのが常である。そんな優しいジルベの頭を撫でてあげると、「わふっ」という嬉しそうな声がこぼされた。


 そんなジルベが授かった勲章や織物は、アイ=ファの勲章や銀の短剣とともに広間の棚に飾られている。かつてシュミラル=リリンから授かった硝子の酒杯、《銀の壺》から授かった硝子の大皿、サウティ家から授かった森の主の角、ティアから授かったペイフェイの爪、リコから授かった木彫りの人形、ゲルドから授かった手鏡、試食会で授かった俺の勲章、俺がアイ=ファに贈った髪飾りと首飾りのオプションパーツ、自前で買いそろえたアイ=ファの宴衣装や飾り物――母屋の再建にともなって新調した棚も、ずいぶん賑やかになっていた。


「緑の月か青の月には、ついに母屋の増築か。確かに現時点でも、けっこう手狭な感じだもんな」


「うむ。しかし、こういう日には、すべての家人を広間に集める所存だぞ」


「うん。ドゥルムアやジルベに伴侶を与えることができて、そっちにも子犬が産まれたりしたら、さすがに難しくなっちゃうかもしれないけどな」


 緑の月にはバランのおやっさんたちがジェノスにやってくるので、ファの家は人間ならぬ家人たちのために母屋を増築する計画を立てている。そして現在の子犬たちが無事に育ったあかつきには、他なる犬たちにも伴侶を与えることが許されるのだ。


 それらはいずれも月単位や年単位で未来の話であったが、しかしいずれは必ずやってくる未来であるのだ。

 そしてこれは、俺たちにとってまぎれもなく日常生活の範疇である。騒乱のさなかには、こういう思いをしみじみと噛みしめることもなかなかままならなかったのだった。


 そんな俺たちの感慨も知らぬげに、フランベとマニエは楽しそうにじゃれあっている。それに気づいたチトゥも参戦すると、敷物の上で3色の毛並みがもつれあった。


 そうしてその日の朝は、びっくりするほどゆったりと時間が過ぎていき――あまりの安楽さに俺がわずかな睡魔を覚えたとき、玄関の戸板がノックされた。


「ユン=スドラです。そろそろ出立の時間かと思うのですが、如何でしょう?」


「うむ。閂は掛けていないので、ひとまず土間に入ってもらいたい」


 アイ=ファの返答に、戸板が開かれる。そうして広間の様相を見て取ったユン=スドラは、「まあ」と楽しそうに微笑んだ。


「すっかりおくつろぎのご様子ですね。雨季とは思えない温もりがあふれかえっています」


 そのように語るユン=スドラは、赤と緑のペイントが施された雨具を羽織っている。ただ、それほど濡れている様子はなかった。


「ごめんね。ひさびさにくつろいじゃったよ。今、荷車の準備をするからさ」


「いえ、お詫びには及びません。この天気では日時計も使えませんが、まだ約束の刻限にはゆとりがあるかと思われます」


 そんな風に言ってから、ユン=スドラはいっそう無邪気に微笑んだ。


「実はわたしも朝からずっと、子供たちの面倒を見ていたのです。面倒を見ながら、わたしのほうこそが心を癒やされているような心地でした」


 ユン=スドラの言う子供たちとは、もちろんライエルファム=スドラとリィ=スドラの間に生まれた双子のことである。なんと彼らもあとひと月半ほどで、2歳になってしまうのだ。彼らも子犬たちに負けないぐらいすくすくと育って、スドラの人々にまたとない喜びをもたらしているのだった。


「この時間までゆっくりできるのは、みんなひさびさだっただろうしね。ユン=スドラには、しょちゅう大変な仕事を頼んじゃってるしさ」


「それでもわたしは『麗風の会』に呼ばれていなかったので、せいぜい半月ていどのことです。アスタなんて、ひと月以上も多忙な日々を過ごしていたのではないですか?」


「うーん。『麗風の会』の前の休業日は、何事もなかったけど……でもまだ東の王都から返書が届けられる前だったからね。ルウの集落で賑やかに過ごしていたと思うよ」


「それはそれで楽しいのでしょうけれど、やっぱり家人だけで過ごす時間とは異なる楽しさですよね」


 ユン=スドラはにこやかな面持ちで、土間の壁に掛けられていた手綱を手に取った。


「ギルルの準備はわたしがお引き受けしますので、アスタたちはごゆっくり準備をどうぞ。さあ、ギルル、行きましょう」


 ユン=スドラの来訪で目覚めていたらしいギルルは、まだ眠そうな目つきでくちばしを差し出した。そこに手綱が装着されるのを見やりながら、俺は膝の上のサチの身を持ち上げる。


「さあ、それじゃあ出発だ。今日は留守番をよろしくな」


「なうう」と、サチは不満げな声をあげる。いっぽうジルベはおまかせあれとばかりに、「ばうっ」と吠えた。ジルベもつい6日前まであちこちに連れ出されていたので、今は番犬としての仕事に意欲を燃やしているのだろう。頼もしいこと、この上なかった。


 そうしてギルルはユン=スドラの手によって外界に連れ出され、俺とアイ=ファは雨具の準備だ。そして人間ならぬ家人たちも、まとめてフォウの家に送り届けなければならなかった。今日は帰りが遅くなるので、ジルベたちはそちらで朝まで留守番の役目を果たすのだった。


 子犬たちは大きな木箱に集められて、上から雨よけの毛皮をかぶせられる。この処置も、あと10日限りのことだ。外で遊ぶことが許されれば、雨に濡れることも許されるはずであった。


「しかし、もっと大きくなるまでは、まだまだ身体も弱かろうからな。今年は雨季が終わるまで、このように取り扱おうかと思うぞ」


「うん、了解。雨季だって、あとひと月足らずのはずだもんな。それぐらいの期間なら、木箱に収まらないぐらい大きくなることもないだろうさ」


 そんな言葉を交わしながら、俺たちはユン=スドラが準備してくれた荷車に家人たちを運び入れた。子犬はアイ=ファ、サチとラピは俺という分担だ。他なる家人たちは、自らの足で荷台に乗り込んでいった。


 これでユン=スドラもご一緒するだけで成人が6名という定員はオーバーしそうなところであったので、ギルルに負担をかけないようにアイ=ファはゆっくりと荷車を走らせる。そうしてフォウの家に家人たちを預けたならば、ルウの集落に出立だ。


「わーい! アイ=ファ、待ってたよー! そっちの荷車が空いてたら、リミも乗せてねー!」


 ルウの集落に到着すると、幌の向こうからリミ=ルウの元気な声が聞こえてくる。本日ルウ家から参加するのはリミ=ルウ、レイナ=ルウ、マイムと護衛役の1名のみなので、そちらの荷車にもゆとりがあるはずであったが、貪欲にアイ=ファとの交流を求めているのだろう。アイ=ファの答える声は聞き取れず、リミ=ルウの「いーのいーの!」という元気な声とともに、前側の帳が開かれた。雨季の間は雨が吹き込まないように、御者台との間にも帳がおろされていたのだ。


「今は雨もほとんど降ってないからさ! あけたままで、だいじょーぶだよ!」


「うむ。しかし、雨が強まったならば、すぐに閉めるのだぞ」


 そのように答えるアイ=ファの声は苦笑の響きをはらんでいたが、横顔からうかがえる眼差しはとても優しかった。


「じゃ、リミも乗っけてもらうねー! あ、アスタにユン=スドラも、おつかれさまー!」


「うん、お疲れ様。マルフィラ=ナハムたちは、もう来てるのかな?」


「うん! いつでも出発できるってよー!」


 そんな風に答えながら、リミ=ルウは御者台の背部にへばりついた。そうしてアイ=ファとおしゃべりを楽しみながら城下町に向かおうという算段なのだろう。もちろん俺は、微笑ましく思うばかりであった。


「よー。こっちの荷車も、リミを入れて4人だけかー。どれもこれも、すっかすかだなー」


 と、御者台の脇からルド=ルウも顔を覗かせた。


「やあ。やっぱり今日も、ルド=ルウが同行してくれるんだね」


「おー。そんで、宿場町では何人ひろうんだっけ?」


「そっちは、6人のはずだよ」


「じゃ、適当に2人ずつ分かれてもらうか。どっちみち、6人全員は同じ荷車に乗せられねーからなー」


 ルウの荷車はリミ=ルウを除いて3名、マルフィラ=ナハムに預けておいたファファの荷車にはトゥール=ディンとレイ=マトゥアと護衛の1名しか乗っていないはずだ。それで宿場町の6名を相乗りさせることは、事前に取り決められていた。


「そんじゃ、出発するかー。《キミュスの尻尾亭》に行けばいいんだよな?」


「うむ。宿屋の関係者は、そちらに集まっているとのことだ」


 かくして、3台の荷車が宿場町を目指して出立した。

 リミ=ルウはご機嫌の様子で、しきりにアイ=ファに語りかけている。俺は朝からアイ=ファを独り占めにしていたので、この時間はユン=スドラと語らうことにした。


「城下町での勉強会は、ひさびさだよね。まあ、例の騒ぎが起きる前も、何かと慌ただしかったからさ」


「ええ。アスタは試食の祝宴や大試食会に備えて、新たな食材を使った献立を考案しなければなりませんでしたものね。その合間にも、シンの家が分けられたり、ガズやラッツの収穫祭に招かれたり……ああ、ルウの収穫祭もあったのでしたっけ?」


「うん。その日に、シンの家が分けられたわけだからね。だけどまあ、新たな食材のお披露目会も勉強会みたいなものだから、それはせいぜい2ヶ月ぐらい前のことなのかな」


「でもやっぱり、今日のような勉強会とは趣が異なりますよね。今回はどのような知識を授かることができるのか、とても楽しみです」


 そのように語るユン=スドラは、ごく純然たる喜びをあらわにしている。この近年で森辺のかまど番も、これほど城下町や宿場町の作法というものに強い関心を抱くようになったのだ。これもまた、ダカルマス殿下が開催した試食会の恩恵であるはずであった。


「今回注目されてるのは、ランディなんだよね。何かアブーフならではの作法をわきまえてるんじゃないかって、ロイやティマロが興味津々なんだ」


「アブーフという名は、この近年で耳にする機会が増えましたね。ゲルドの近在にある、北方の地なのでしょう?」


「うん。マヒュドラとの戦の要の地だって話だね。あと、メルフリードの母親がそちらのお生まれだったらしいよ」


「ああ、メルフリードやオディフィアの灰色の瞳は、そちらの血筋から受け継がれたのだという話でしたね。ゲルドと同じぐらい遠い地であるのなら、きっと独自の作法が存在するのでしょうし……とても楽しみです」


 そんな言葉を交わしている間に、宿場町に到着した。

 それでこちらに同乗を求めてきたのは、レビとユーミだ。彼らも雨具を羽織っていたが、フードはかぶっていなかった。


「やー、どーもありがとねー! 雨はやんでるけど、歩くのは手間だから助かるよー!」


「うん。6人全員、集まってたのかな?」


「うん! ナウディスとネイルはルド=ルウの荷車で、ランディともうひとりはトゥール=ディンの乗ってる荷車に乗り込んだよー!」


 もうひとり――それは、《アロウのつぼみ亭》の厨番であった。彼もまた、デルシェア姫じきじきに参加を求められたのだ。


「今回の話を断ったのは、《ラムリアのとぐろ亭》だけみたいだねー! あっちは人手が少なくて、雨季の間も手が空いてないみたい!」


「うん。ジーゼも香草の扱いが巧みだから、残念だったよ。そのぶんは、ネイルに期待をかけるしかないかな」


「あたしなんて、大した腕でもないのにねー! 自由気ままなお姫さんに感謝だなー!」


 と、ユーミもリミ=ルウに負けないぐらいご機嫌な様子である。まあ彼女は調理に対する意欲に加えて、こういうイベントに熱心であるのだろう。それでも以前は城下町に対する敬遠の思いもあったように感じられたが、それもすっかり払拭された様子であった。


「……実はジョウ=ランも同行を希望していたのですが、ランの家長の判断でラヴィッツの長兄に譲られたのです」


 ユン=スドラがそのように告げると、ユーミは「あ、そーなの?」と小首を傾げた。


「まあ、いちいちあいつを引っ張り出す必要はないと思うけど……それで? あたしが残念がるとでも思ったの?」


「あ、いえ。ジョウ=ランは決して自らの意思で退いたわけではないと、ユーミに伝えてほしいと言われていたので……」


「もー、しょーもないやつだなー! あたしはそんなちっちゃいことで、いちいち眉を吊り上げるような人間じゃないっての!」


 ユーミは照れ隠しのように、ユン=スドラの背中をぺしぺしと引っぱたいた。あとひと月足らずで雨季が明けたら、いよいよユーミとジョウ=ランの婚儀も実現に向かって進められることになるのだ。さらに城下町では、サトゥラス伯爵家のリーハイムと婚約者のセランジュも雨季が明ける日を心待ちにしているはずであった。


「城下町でも、雨季には婚儀をつつしむ習わしがあるみたいだね。あっちは屋内だから、祝宴を開くことに問題はないはずだけど……でもやっぱり、雨だと移動も大変だから、祝宴そのものが控えられてるみたいなんだ」


「そりゃーそーでしょ! 森辺のみんなは現場で着替えるけど、貴族の人らは宴衣装で会場に向かうんだろうからさ! あんなひらひらした格好で雨の中を動くのは、そりゃーひと苦労さ! ……それにやっぱり、雨季が明けたら黄の月も目の前っていう関係もあるんじゃない?」


「ああ、そうそう。やっぱり宿場町も、黄の月に婚儀を挙げようって考える人間が多いのかな?」


「そりゃーまあそれなりにね! 黄色は婚儀を司る月神エイラの色なんだからさ! べつにあたしは、そんなもんを狙ってるわけじゃないけどね!」


 こんな話をする際にも、ユーミはそうそう顔を赤らめなくなった。いよいよ婚儀の瞬間が間近に迫ってきて、覚悟が据わってきたのだろう。それにやっぱり婚儀ともなると、照れるより先にさまざまな感情がわきおこるのだろうと思われた。


(婚儀なんてのは、日常なのか非日常なのか難しいところだけど……でもやっぱり、平和ならではのイベントだよな)


 朝からひときわ穏やかな時間を味わうことになった俺は、そんな想念にひたることになった。

 騒乱の記憶が本格的に遠ざかって、そういった物事にしんみり思いを馳せられるようになったということなのだろう。そして本日の勉強会も、平和な日々が蘇ったという証拠のひとつであるはずなのだ。


 ポワディーノ王子の来訪からひと月と少しが過ぎ、さまざまな客人たちと別れを告げて、俺たちはついに平穏な日常に回帰した。客人たちとの別れには一抹以上の物寂しさがあったものの、俺たちはそれ以上の喜びに身をひたしていたのだった。

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