祭祀堂の晩餐会②~始まりの地~
2024.5/7 更新分 1/1
四半刻ほどをかけて昼の軽食をいただいた後は、調理の再開である。
そこで俺たちとともに、何名かの客人たちが腰を上げた。祭祀堂での語らいではなく、調理の見学を希望する面々だ。それは、エウリフィアとオディフィアとメリム、プラティカとピリヴィシュロと副団長、デルシェア姫とカルス――それに、ダレイム伯爵家の侍女として参じていたニコラという顔ぶれであった。
(女性陣がごっそり抜けて、ますます厳めしい顔ぶれになっちゃうな)
俺はそのように考えたが、べつだん心配になったりはしなかった。彼らはあくまで、交流を深めるために森辺までやってきたのだ。騒乱が終息したのちは何も話がこじれたりはしていないのだから、このような場で諍いを起こすいわれはないはずであった。
そうして空になった食器を運びつつ祭祀堂の外に出てみると、そこにも見学希望の面々が待ちかまえている。ポワディーノ王子から調理の習得を命じられている、『王子の腕』の三番と『王子の耳』の七番だ。彼らは雨よけのフードつきマントを纏った姿で、人形のように立ち尽くしていた。
「アスタ。お手数ですが、本日もよろしくお願いいたします」
「承知しました。おふたりは、本日もこちらの厨にいらっしゃいますか?」
「はい。この身はあくまで、アスタから調理を学ぶように命じられていますので」
「そうですか。菓子に関してはトゥール=ディンやリミ=ルウから学ぶべきですので、機会があったらそのようにお伝えください」
「はい。必ずや、お伝えいたします」
そうして俺たちが本家のかまど小屋を目指すと、武官をどっさりと引き連れたデルシェア姫とカルスが追いかけてきた。
「アスタ様! 最初はわたしたちが、そちらの厨を見学させていただくからねー!」
「はい。こちらのおふたりも見学をされるので、ご了承くださいね」
俺がそのように答えると、武官のロデが鋭い目つきで『王子の腕』と『王子の耳』の姿を見比べた。
「……そちらの者たちは、武具を携えていないのですな?」
「うむ。もとよりこちらの両名は、武具を扱うすべも学んではおるまい。それぐらいは、気配で察することがかなおう?」
アイ=ファが厳粛なる面持ちで応じると、ロデは「承知しました」と仏頂面でうなずいた。
そんな面々を引き連れて、俺たちは本家のかまど小屋に舞い戻る。スン家の4名は途中で離脱して、食器の洗浄を受け持ってくれた。
6名のかまど番に、4名の見学者、デルシェア姫を警護するロデ、そしてアイ=ファがかまどの間に足を踏み入れる。他の武官たちは外で待機であり、なおかつこの時間からはスンの男衆も参じていた。本日は狩人の仕事を休息して、家人の全員が集落に居揃っているのだという話であった。
「いやー、本当は朝からお邪魔したかったんだけどさー! そうすると警護のお人らが夜まで出ずっぱりになって大変だから、遠慮することになったんだよー! そのぶん、気合を入れて見学させていただくからねー!」
デルシェア姫はにこにこと笑いながら、そんな風に言っていた。どうせまた移動するのだからと、雨具を着込んだままの姿だ。俺は他の女衆とともに脱いだ雨具を壁に掛けつつ、「そうですか」と笑顔を返した。
「まあ、これまでは簡単な下ごしらえと軽食の準備に取り組んでいましたからね。ここからの見学でも、特に支障はないように思いますよ」
「うん! 城下町でも、あちこち見学させてもらったんだけどさ! アスタ様たちがトライプやレギィをどんな風に扱うのか、すっごく楽しみにしてたよー!」
「うーん。でも、それほど凝った使い方は考案していませんからね。とりわけトライプは、トゥール=ディンの菓子作りが一番重要なんじゃないかと思いますよ」
「そっちもしっかり見学させてもらうから、大丈夫さ! 足りなかったら、また城下町にお招きさせてもらうしね!」
森辺における調理の見学はけっこうひさびさであるためか、デルシェア姫は普段以上に浮き立っている様子だ。ひっそりとたたずむ藍色の両名を気にかける素振りもない。俺たちも、いっそう晴れやかな気分で作業を進めることができた。
しばらくすると、洗い物を完了させたクルア=スンたちが戻ってくる。その姿に、デルシェア姫がまた瞳を輝かせた。
「クルア=スン様は、おひさしぶりー! ここ最近は、城下町の祝宴にも顔を出してなかったよねー!」
「はい。本来わたしは、身をつつしむべき末席のかまど番ですので」
クルア=スンが静謐な面持ちで応じると、レイ=マトゥアがデルシェア姫に負けないぐらいの元気さで「そんなことないですよー!」と口をはさんだ。
「クルア=スンは上達が早いですから、もう古参のかまど番にも引けを取らないと思います! 城下町の宴衣装だって、すっごく似合いますしねー!」
「う、宴衣装が似合うかどうかは、関係ないのではないでしょうか?」
と、クルア=スンは静謐な雰囲気を崩して、頬を赤らめる。もともと大人びていた彼女は齢を重ねるごとに神秘的な雰囲気と大輪のような色香が増していったが、やはり根っこの部分は純朴なままであるのだ。ヴィナ・ルウ=リリンやヤミル=レイに通ずる優美な容姿を持ちながら、そうまで純朴な部分を残していることが、俺には一番の魅力に感じられてならなかった。
「クルア=スンもせっかくだったら、トゥール=ディンの班に加わればよかったんじゃないかな? 最近は、一緒に仕事をする機会もなかっただろう?」
俺がそのように声をかけると、クルア=スンは純朴さと静謐さが入り混じった彼女独特の雰囲気で「はい」と微笑んだ。
「でもわたしは屋台の当番で、トゥール=ディンとしょっちゅう顔をあわせていますので……こんな日こそ、他の女衆に席を譲りたく思います」
「ああ、そうか。クルア=スンばかりがトゥール=ディンと仲良くしていたわけじゃないんだもんね」
「はい。……まあ、仲良くすると言っても……あの頃は、誰もが心を曇らせていましたけれど」
そう言って、クルア=スンは銀灰色の瞳にいっそう神秘的な光を灯した。
すると、デルシェア姫がこらえかねた様子で「なるほどねー!」と声を張り上げる。
「そーいえば、トゥール=ディン様はもともとスンの家人だったって話だったっけ! 実はわたしも軽食をいただいてる間、ずっと胸を弾ませちゃってたんだよねー!」
「はい? いったい何に胸を弾ませていたのですか?」
「だってさっきの場所が、傀儡の劇の舞台になってた祭祀堂なんでしょ? まあ、『アムスホルンの寝返り』でもとの建物は潰れちゃったって話だけど! でも、劇の舞台になった場所に足を踏み入れるなんて、自分まで物語の登場人物になった気分だからさー!」
そのように語るデルシェア姫は、白い頬をいっそう紅潮させていた。
その傀儡の劇の主人公として取り上げられていた俺は、何とも面映ゆい心地である。そして、同じ立場であるアイ=ファは苦笑をこらえているような面持ちで前髪をかきあげていた。
「私やアスタとは頻繁に顔をあわせているのだから、まったくもって今さらの話に思えてしまうのだが……しかし、他なる傀儡の劇の舞台となった場所に足を踏み入れたならば、我々も同じような心地になるのやもしれんな」
「うんうん! アスタ様やアイ=ファ様はすっかり見慣れちゃったけど、傀儡の劇に出ていたお人に出会うと、やっぱり胸が弾んじゃうよ! ついこの間も、叙勲の式典でライエルファム=スドラ様とお会いできたしね!」
「ああ、そちらも作りなおした傀儡の劇を目にしたのだという話であったな。しかし、劇の中でライエルファム=スドラの名は語られておるまい?」
「そこはほら、父様も前々からジェノスの情勢を調査してたからさ! スン家の大罪人を処断した立役者の名前ぐらいは――」
と、デルシェア姫はそこで自分の口もとをふさぎつつ、大慌てでクルア=スンたちスンの女衆の姿を見回した。
「……あなたたちにしてみれば、その大罪人だったお人も同じ集落で過ごす同胞だったんだよね。こんな話は、不謹慎だったかなぁ?」
「いえ。わたしたちはスン本家の方々を恐れる立場でしたので、大罪人が処断されたと聞かされてもむやみに心を痛めることはありません」
クルア=スンは神秘的な雰囲気を増幅させながら、とても静かな声音でそのように答えた。
「ただし、かつてスン本家であった方々は、まったく異なる心持ちでしょう。とりわけツヴァイ=ルティムやオウラ=ルティム、それにミダ・ルウ=シンなどは、大罪人として処断されたテイ=スンという御方を慕っていたようですので……それだけ心置きいただけたら嬉しく思います」
「わかった。どうもありがとう。やっぱりあんな込み入った話を、気軽にあれこれ語るものじゃないね。反省するから、どうか許してください」
デルシェア姫は両手を胸の前で交差させて、深く頭を垂れた。
その姿に、クルア=スンの母親である女衆が微笑を浮かべる。
「あなたは王族という立場でありながら、わたしたちなどにも礼を尽くしてくださるのですね。心より、得難く思います」
「うん。わたしは森辺のみんなと仲良くさせてもらいたいんだよ。……本当に、気を悪くしていない?」
デルシェア姫が眉を下げると、クルア=スンの母親はいっそう優しく微笑んだ。
「わたしはテイ=スンが真っ当な人間であった時代を少しばかりは知っていますので、その死を悼む気持ちを持ち合わせていますけれど……あなたの物言いに心を痛めることはありませんでした。どうぞ心配はなさらないでください」
「うん、そっか。誰だって、最初から悪人なわけじゃないもんね」
「……いえ。次代の族長と見なされていたミギィ=スンという男衆は、生まれついての悪人であったのかもしれません」
と、クルア=スンの母親はぶるっと身を震わせた。
もうひとりの年配の女衆も、寒気を覚えたかのように首をすくめる。その姿に、デルシェア姫はきょとんと目を丸くした。
「ミギィ=スン……それは、知らない名前だなぁ。そのお人も、きちんと罪を贖ったの?」
「いえ。ミギィ=スンは10年以上も前に、森に魂を返しました。もしもミギィ=スンが魂を返さず、族長の座を受け継いでいたならば……アスタが森辺にやってくる前に、スン家はルウ家と刀を交えて滅んでいたかもしれません」
「うわー、そんなお人がいたんだね! だったらきっと、そのお人が魂を返したのもモルガの森や四大神の思し召しだよ!」
デルシェア姫は指先で空を切ってから、何かを念じるようにまぶたを閉ざした。俺は初めて目にする仕草だが、いかにも神に祈りを捧げているような厳粛さであった。
「そんな苦難を乗り越えて、森辺のみんなはすこやかな生活を手にすることができたんだね! 貴重な話を聞かせてくれて、どうもありがとう! 今日はあなたたちにも会えて、心から嬉しく思ってるよ!」
デルシェア姫がもとの活力を取り戻してそのように言いたてると、スン家の面々も和やかな面持ちで微笑んだ。
すると、俺の隣で作業に励んでいたレイ=マトゥアがこっそり呼びかけてくる。
「ミギィ=スンという名は、わたしも初めて耳にしました。アスタは、ご存じでしたか?」
「うん。こんな風に、時おり名前が耳に飛び込んでくるんだよね。ルウとスンの確執を決定的なものにした、ひどく悪辣な人間だったみたいだよ」
すると、反対側で作業をしていたユン=スドラも顔を寄せてくる。
「わたしも少しだけ、家長から話をうかがいました。飢えたギバが人の皮をかぶっているような、きわめて危険な男衆であったとのことです」
「えー。スン家には、そんな人間もいたんですねぇ」
そうして俺たちがぼしょぼしょ言葉を交わしていると、満面に笑みをたたえたデルシェア姫が近づいてきた。
「どうしたのー? 楽しい話なら、わたしもご一緒させてほしいなー!」
「あ、いえ。そろそろかまどに火を入れますので、存分に見学をお楽しみください」
そんな感じに作業を進めていると、半刻ていどが経った頃合いで別なる客人たちが押し寄せてきた。エウリフィアとオディフィアとメリム、ピリヴィシュロと副団長という5名連れだ。
「あれー? もうこっちに来ちゃったの? それじゃあ今度は、わたしがトゥール=ディン様の手腕を見学させてもらおうかな!」
エウリフィアたちに席を譲って、デルシェア姫とロデとカルスはかまど小屋を後にする。それを見送ってから、エウリフィアが俺たちに微笑みかけてきた。
「大人数で、ごめんなさいね。お邪魔ではなかったかしら?」
「ええ。こちらは問題ありませんよ」
きっとオディフィアとピリヴィシュロのために、このような人数になったのだろう。であれば俺も、文句をつける気にはなれなかった。
まあ、アイ=ファと藍色の両名も居揃っているのでなかなかに窮屈な感じではあるものの、作業に支障が出るほどではない。オディフィアたちこそ、かまどの火で火傷をしないように気をつけていただきたいところであった。
「オディフィアも楽しそうで何よりです。ひさびさのトライプの菓子が楽しみでしょう?」
俺の言葉に、オディフィアは灰色の瞳をきらめかせながら「うん」とうなずいた。
「それに、トゥール=ディンのうまれたばしょにこられて、すごくうれしい。オディフィアは、リフレイアとアラウトさまがすごくうらやましかったの」
「リフレイアとアラウト? ……ああ、そうか。おふたりは、以前に挨拶に来てたんでしたっけ」
それは北の集落において、ディガ=ドムが氏と狩人の衣を授かった際のことである。その場に参じた両名はスンの集落の人々とも確かな絆を結びなおすべきだと判じて、のちのち挨拶に出向くことになったのだ。
「トゥール=ディンのおうちは、もうなくなっちゃったみたいだけど……トゥール=ディンがここでうまれたってかんがえると、すごくきもちがぽかぽかするの」
「ええ。トゥール=ディンが赤ちゃんだった時代なんかを想像すると、いっそう温かい気持ちになりますね」
「そう」とうなずくオディフィアが無意識の様子で身を乗り出したので、エウリフィアがくすくすと笑いながらその小さな肩を押さえた。
「アスタはとてもトゥール=ディンのことを思いやっているから、オディフィアもこんな風にはしゃいでしまうのでしょうね」
「あはは。お恥ずかしい限りです。まあ、トゥール=ディンは俺にとっても特別な存在ですからね」
俺自身、オディフィアがトゥール=ディンのことをこれほど大切してくれていることを、とても嬉しく思っている。オディフィアの側も同じように思ってくれているなら、感無量であった。
いっぽうピリヴィシュロは、オディフィアが喜んでいることを喜んでいる様子である。なんというか、とてつもなく心のなごむ喜びの連鎖であった。
「わたくしも何度か森辺にお招きされているけれど、今日は何だかとりわけ厳粛な心地だわ。……言ってみれば、こちらは始まりの地ですものね」
「始まりの地で、ですか?」
「ええ。族長筋であるスン家が大きく道を踏み外したからこそ、今のわたくしたちがあるのでしょう? それは不幸な出来事であったのでしょうけれど……もしもザッツ=スンという御方がひたすら耐え忍ぶだけの人柄であったなら、大きく道を踏み外すこともなく……今でも森辺の民と町の人間は、手を取り合うこともできずにいたのかもしれないわ」
そう言って、エウリフィアはかまどの間に集った人間を順番に見回した。
「そして、スン家に道を踏み外させてしまったのは、わたくしたちジェノスの貴族です。森辺の民をジェノスの領民として受け入れながら、まったく手を差し伸べようともせず、すべての面倒をサイクレウスに押しつけて……それでわたくしたちは、間違った道を進むことになってしまったのです。その間違いを正して、こうして手を携えることがかなったことを、わたくしは心から得難く思っているわ」
森辺の女衆は――とりわけスン家の女衆は、静かに感じ入っている面持ちでエウリフィアの言葉を聞いている。
すると、オディフィアが小首を傾げながら母親の腕をくいくい引っ張った。
「かあさまのことば、むずかしい。かあさまは、かなしんでいるの? よろこんでいるの?」
「悲しみを乗り越えて、喜んでいるのよ。こうしてオディフィアも、森辺のみなさんと仲良くなれたのですからね」
エウリフィアがやわらかく微笑みながら頭を撫でると、オディフィアは灰色の瞳を嬉しそうにきらめかせながら、「うん」とうなずいた。
そうして半刻ほどすると、今度はプラティカとニコラの仲良しコンビがやってくる。それでエウリフィアたちが出ていくと、ユン=スドラがしみじみと息をついた。
「エウリフィアがあのような言葉を口にするのを、初めて耳にしました。やっぱりエウリフィアも、ご立派なお人なのですね」
「うん。何せ、ジェノス侯爵家の第一子息婦人だからね。普段は軽妙に振る舞ってるけど、マルスタインやメルフリードに負けないぐらいジェノスの行く末を案じているんじゃないのかな」
そしてエウリフィアは、オディフィアの母親であるのだ。愛娘の幸福な行く末を願うならば、それはすなわち故郷たるジェノスの安寧と繁栄を一番に考えるのではないかと思われた。
(でも確かに、エウリフィアがそんな一面を人前でさらすのは珍しいよな)
それがやはり、スンの集落を訪れた影響であるのだろう。俺もスン家を再訪した折には、さまざまな感慨に見舞われたものであるし――リフレイアやアラウトも、それでスンの集落におもむこうという気持ちに至ったのだ。
善きにつけ悪しきにつけ、すべてはここから始まったのだ。
あるいは本当の起点は、シルエルが兄や父親を害した30余年前なのかもしれないが――まずはサイクレウスがその毒に侵されて、さらにザッツ=スンにまで伝播した。そうして運命の歯車が、間違った方向に回り始めたのである。
しかしエウリフィアの言う通り、その運命を乗り越えたからこそ、今があるのだ。スン家とトゥラン伯爵家の罪を正したことで、ジェノスの民と森辺の民は手を取り合うことができた。さらに、被害者であったバナーム侯爵家とも絆を結びなおすことができた。
そして、復讐の鬼と化したシルエルを退けることで、俺たちはゲルドの面々と手を取り合うことになり、邪神教団を退けることでチル=リムやディアと手を取り合うことになり――そして今、東の王家の陰謀を退けたことで、ポワディーノ王子と手を取り合おうとしているのだった。
(それで、南の王都の使節団なんかは……もともとトゥランで働かされていた北の民たちを引き取ってもらうために、コンタクトを取ったんだもんな。間接的ながら、やっぱりサイクレウスを失脚させた余波から生まれた話なんだ)
期せずして、そんな立場にある人々がこのスンの集落に集結しているのである。
5日前の『麗風の会』でもひそかに噛みしめていた感慨を、俺は再び胸に抱くことになったのだった。
◇
そうして着々と準備が進められて、ついに下りの五の刻である。
帰宅があまりに遅くなるのは不用心であったため、本日は日没の一刻前であるその刻限が晩餐会の開始と決められていた。まあ、日時計が使えないので正確に時間を計ることはできなかったが、俺たちはおおよその見当で規定の刻限にすべての料理を作りあげることがかなったのだった。
雨季であるために、完成した料理や菓子は鍋や木箱に詰め込んだ状態で祭祀堂に運び込む。ファとルウから持ち込んだ食器類も、それは同様だ。森辺の民にしてみても、雨季のさなかにこれほど盛大な晩餐会を開くのは初めてのことであった。
祭祀堂には、日中と同じ面々が顔をそろえている。かまど小屋の見学に勤しんでいた面々も、全員がもとの席に着席していた。城下町からの客人は40名ていど、森辺の民は男女が19名ずつで38名。クルア=スンを除くスンの女衆は、運搬の作業を終えると一礼して退室していった。
「長きにわたって、ご苦労であったな。大きな仕事を果たしたアスタたちも、この後はどうか存分にくつろいでもらいたい」
マルスタインは日中と同じく鷹揚な笑顔で、そのように告げてきた。
彼らはまるまる五刻近くも対話に励んでいたわけであるが、大きな問題などは生じていないのだろう。ダカルマス殿下は無邪気な面持ちであるし、ポルアースも心労を抱えている様子はないし、アルヴァッハたちも落ち着いた眼差しであった。
ちなみにティカトラスの一行は、作業の折り返しぐらいのタイミングでかまど小屋にひょっこり姿を現していた。彼も彼でポワディーノ王子を相手に商談に励んでいたようだが、それも一段落したようであるのだ。彼は東の王都から宝石や銀細工や織物などを買いつけたいとかねがね語らっていたし、何か目新しい食材があるのなら自分とも交易を願いたいと主張していたのだった。
「西の王都と東の王都なんて、大陸アムスホルンの端と端だからね! これで交易を発展させられたら、こんなに画期的なことはないよ!」
かまど小屋にやってきた際、ティカトラスはほくほく顔でそのように語っていた。それはまったく比喩ではなく、東西の王都はまさしく大陸の端に存在するようであるのだ。だからこそ、どちらも海辺に港を持っているわけであった。
「でも、北回りだとマヒュドラが、南回りだとジャガルがあるからさ! セルヴァやシムの船団が北氷海や南陽海を越えて商売に励むというのは、事実上不可能なのだよ!」
セルヴァの船団であれば南陽海、シムの船団であれば北氷海に繰り出すことは可能である。しかし、それを越えてシムやセルヴァを目指そうとすると、敵対国に繁栄をもたらしてなるものかと躍起になる勢力が存在するのだという話であった。
「それに、局所的だろうけれど、海戦を繰り広げている海域だって存在するわけだからね! ジャガルとシムの軍船がしのぎを削っているかたわらを通り過ぎてシムと商売に励むことなど、許されるわけもないさ! だから東の王都の恵みというものは、どうあっても陸路で手中にするしかないわけだよ!」
ティカトラスの本領は海路を駆使した商売であるが、陸路においてもささやかならぬ販路を築いているのだ。彼は貪欲に、東の王都とも太い販路を構築しようと奮起しているわけであった。
ともあれ――俺は人々の幸いなる行く末を願いながら、かまど番として働くのみである。
料理の搬入を終えたならば、俺とレイナ=ルウとトゥール=ディンがかまど番の責任者として挨拶をさせられることに相成った。
「えー、前々からお約束していた雨季の食材を使った料理を供することになりました。城下町の料理よりも細工は少ないかと思いますが、雨季の食材の素晴らしさをお伝えできたら嬉しく思います」
「はい。アスタの仰る通り、雨季の食材であるトライプやレギィにはそれほど細工を凝らす余地がありません。ですが、それぞれ独自の魅力を持つ食材であるはずですので、それをお伝えできるように力を尽くしたつもりです」
「え、えーと……さ、最近はますます素晴らしい食材が増えてきましたけれど……トライプも菓子の材料としては、それらの食材に負けていないと思います。たった2ヶ月しか味わえない食材ですので、お楽しみいただけたら幸いです」
俺たちがそのように述べたてると、マルスタインは満足そうにうなずいた。
「では、さっそくその心づくしを味わわさせていただこう。配膳をよろしくお願いする」
マルスタインの言葉に応じて、他のかまど番たちが配膳に取りかかる。
かくして、森辺でも初めての試みとなる雨季の晩餐会が開始されたのだった。




