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異世界料理道  作者: EDA
第八十五章 藍の鷹の事変(後)
1478/1686

騒擾の祝宴⑤~黒き災厄~

2024.4/2 更新分 1/1

「其方は……ジの占星師、アリシュナ=ジ=マフラルーダであるな?」


 ポワディーノ王子の厳粛な声に、アリシュナは「はい」と一礼する。

 ふわりとたなびく絹の長衣に数々の装飾品をさげた、東の女性としてもきわめて優美な姿だ。まあ、彼女は普段からそういった装いであるのだが、もともと持っている神秘的な雰囲気と相まって、宴衣装を纏った貴婦人にも負けない優雅さなのである。


 そしてその黒い瞳は、夜の湖のように静謐だ。その静かにきらめく瞳に見つめられながら、ポワディーノ王子は毅然と胸をそらした。


「なるほど……そのたたずまいだけで、其方が凡庸ならぬ占星師であることはうかがえる。其方がジではなく王都に生まれついていたならば、必ずや王宮に召し抱えられていたことであろう」


「過分、言葉、恐縮です。……ただし、私、生まれ落ちた、ジならぬ、西の地です」


「ああ。其方はマフラルーダの一族がシムを追放されたのちに、生を受けたのだという話であったな。しかし、ジの氏を捨てていないということは、いまだに東の民なのであろう?」


「はい。私たち、シムの地、追われましたが、魂、返すまで、東方神の子として、生きる、誓いました」


「うむ……其方の祖父に不吉な運命を読み解かれたジの藩主は、その星の通りに魂を返してしまった。それで新たな藩主となった人間も、マフラルーダの一族をいまだ忌避しているのだ。そうでなければ、我も其方を王都に連れ帰りたいほどであるぞ」


「恐縮です」と応じてから、アリシュナは静謐なる眼差しで俺とアイ=ファとマルスタインの姿を見回してきた。


「実は、お伝えしたい話、あります。しばし、時間、いただけますか?」


「ふむ? 何か、星読みにまつわる話であろうかな?」


 マルスタインの問いかけに、アリシュナは「はい」とうなずいた。

 マルスタインは「ふむ……」と思案しながら、ポワディーノ王子のほうを振り返る。


「アリシュナは、このように申しております。如何様に取り計らうべきでしょうか?」


「是非もない。アリシュナが何か新たな運命を読み解いたというのなら、それは余さず聞いておくべきであろう」


「左様ですか。では、こちらにどうぞ」


 マルスタインの案内で、俺たちは料理の卓を離れることになった。

 ただし、広間はどこも賑わっているし、壁に沿って設置された衝立の向こう側には警護役の兵士たちがひしめいている。どこに出向いても、人の耳を遠ざけることは難しかった。


 そこでマルスタインが目指したのは広間のもっとも奥まった場所、西方神の神像の足もとである。そこには衝立も立てられておらず、声さえひそめれば密談も可能であったのだ。

 その場に追従したのは俺とアイ=ファ、ジザ=ルウとガズラン=ルティム、ポワディーノ王子と6名の臣下および黒豹のみであり、マルスタインのもとには最初から付き従っている若い武官だけが控えている。アリシュナを案内したプラティカは、トゥール=ディンたちのもとに留まっていた。


「この場所であれば、問題はなかろう。……アリシュナは、いったいどのような運命を読み解いたのであろうかな?」


「はい。本日、分岐の日です。本日、運命、決せられるでしょう」


 なんの前置きもなく、アリシュナはそう言った。


「本日、どのように、終わるかで、運命、大きく変わります。ふたつの藍の鷹、相容れるか……紫の猿、白の山羊、討ち倒せるか……その2点、大いなる分岐です」


「ふたつの藍の鷹? その片方は、我のことであろうな。もう片方の藍の鷹とは、いったい何者のことであろうか?」


「はい。私、たった今、確信しました。……藍の鷹、あなたです」


 アリシュナの黒い瞳が、俺のかたわらに向けられる。

 そこにたたずんでいるのは――ガズラン=ルティムに他ならなかった。


「……私は確かに、藍の月の生まれとなります。私とポワディーノが相容れるかというのは……いったい、どういう意味でしょうか?」


 ガズラン=ルティムが沈着なる声音で問い質すと、アリシュナは「不明です」と言い放った。


「ただし、重要、確かです。そして、黒き災厄、退けられるか……赤の猫、勇躍、かかっています」


 と、今度はアリシュナの目がアイ=ファに向けられる。

 アイ=ファは心から嫌そうに、アリシュナをにらみ返した。


「アリシュナよ、私も繰り言を口にしたくはないのだが――」


「はい。アイ=ファ、星読み、嫌っています。しかし、新たな星図、見えたなら、報告するよう、ジェノス侯爵、申しつけられていました。その言葉、従ったまでです」


「うむ。わたしはジェノスの領主として、そうそう星読みの結果を重んじられる立場ではないのだが……このたびばかりは、そうも言っていられないのでね」


 マルスタインは柔和に微笑みつつ、そう言った。西の王がまじないの類いを嫌っているため、マルスタインも公の場では星読みの技を重んじることが許されないのだ。


「しかし、今日が運命の分かれ目であるというのは、聞き捨てならない話だ。我々は、どのように取り計らうべきであるのかな?」


「不明です。人、正しく動けば、正しい運命、紡がれるでしょう。星、その図、映している、過ぎません」


「ふむ……やはり賊の居場所までは、突き止めることもかなわないのだね?」


「はい。このたびの賊、邪神教団、異なり、ちっぽけな星、過ぎないので……正確な場所、不明です。かろうじて、白の山羊、見て取れたのみです。ただし、西の地、離れていないこと、確かです」


「それがジェノスの近在であるならば、きっとメルフリードたちが捕らえてくれることでしょう。紫の猿なる者にも、期待をかけたいところでありますな」


 マルスタインが微笑を向けると、ポワディーノ王子は両手の拳を握り込みながら「うむ」と応じて、それからガズラン=ルティムに向きなおった。


「ともあれ、我は其方と心を通わせる必要があるようだ。あらためて、祝宴ののちに語らいの場を作ってもらいたい」


「はい。どうぞよろしくお願いいたします」


 ということで、密談はひとまず終了した。

 俺もずいぶん気を張ってしまったが、やはり星読みだけで何もかもを解決することはできないのだ。アイ=ファあたりは、人が正しく振る舞うことなど当然ではないかと言いたげな面持ちであった。


「では、宴料理を楽しみましょう。それとも、しばし休まれますか?」


「否。我は、かなう限りの相手と言葉を交わしたく思う。足労をかけるが、もうしばし同伴を願いたい」


 そうして俺たちは賑わいの場に足を向けたが、アリシュナもしずしずとついてきたものだから、アイ=ファがとげのある視線を突きつけた。


「……お前は、プラティカと行動をともにしていたのではないのか?」


「いえ。王子殿下、不興、買う恐れ、あったため、仲介役、頼んだまでです。私、赤の猫の勇躍、見届けたい、願っています」


「人を猫よばわりするな」と、アイ=ファはそっぽを向いてしまう。

 やがて料理の卓に到着すると、そちらにはポルアースとメリムの夫妻に、トゥラン伯爵家およびバナーム侯爵の面々が集っていた。料理の内容は、最初に口にした3種だ。


「これはこれは、ポワディーノ殿下。マルスタイン殿や森辺のご一行にまかせきりにしてしまって、申し訳ありません」


「大事ない。我が臣下を引き連れているため、斯様な大人数であるからな」


 ポワディーノ王子はアリシュナの言葉から受けた感情を見事に包み隠しつつ、ポルアースからの言葉に答えた。

 リフレイアやアラウトたちの様子に、大きな変わりはない。ただ、ポワディーノ王子に対する態度を決めかねている様子であったリフレイアも、持ち前の取りすました表情を取り戻していた。


「普段は昼の軽食なんてつまむていどで済ませてしまいますけれど、今日は見事な料理や菓子がそろっているのでなかなか手を止められませんわ。ポワディーノ殿下にも、ご満足いただけていますかしら?」


「うむ。森辺の料理人の手腕には、驚かされるばかりである。また、ジェノスの食材の豊富さも同様であるな」


 こちらの卓には貴族しかいなかったためか、とても折り目正しい空気がすみやかに形成された。

 俺もひと息つきがてら、自分で手掛けた宴料理を口にする。そちらの卓の料理も、すでに半分以上が参席者の胃袋に消えていた。


(それじゃあ、この祝宴も折り返しかな。さすがに今日は、舞踏や余興の時間も作られていないだろう)


 と、俺がそんな風に考えたとき――広間の人々が、わずかにざわめいた。

 たちまちアイ=ファが俺の腕をつかみ、身を寄せてくる。しかし、広場の人々をざわめかせたのは、ジェノスの武官に他ならなかった。礼装ではなく実用的なお仕着せを纏った武官が、ほとんど駆け足でこちらに近づいてきたのだ。


「ジェノス侯! 内密に、お話があるのですが!」


「そのように声を張り上げたら、内密に言葉を交わすことも難しかろう。いったい何があったのだ?」


 マルスタインが鷹揚に応じると、その武官は俺たちの姿をひとしきり見回してから、マルスタインの耳もとに口を寄せた。

 その言葉を聞く内に、マルスタインの顔から微笑が消えていく。そしてその口から、「馬鹿な……」という言葉がもらされた。


「マルスタイン、いったい何事であろうか?」


 ポワディーノ王子が鋭く問いかけると、マルスタインは焦燥の面持ちで唇を噛む。マルスタインがそんな表情を俺たちに見せるのは、これが初めてのことであった。


「……貴官は、フェルメス殿にも報告を。先刻から姿が見えないが、この広間のどこかにいらっしゃるはずだ」


 武官は「はっ!」と敬礼をして駆け去っていく。

 そしてマルスタインは、ポワディーノ王子と森辺の4名を招き寄せた。


「場所を移すのも手間ですので、こちらでお伝えさせていただきます。どうかくれぐれも、周囲の者たちに気取られないように。……獄舎の賊が、魂を返したとのことです」


「なに?」と、ポワディーノ王子が身を震わせた。


「獄舎の賊とは……よもや、老人たる賊ではあるまいな?」


「その、よもやです。ロルガムトのほうは変わりないようですが、老人の賊は……獄舎で、息絶えていたようです。理由は、不明であるとのことです」


「理由が不明とは、どういうことであろうか? 理由もなく、人が魂を返すことはあるまい」


「はい。賊はおのれの胸をかきむしり、泡をふいて倒れていたとのことですので、毒を使われたように見受けられますが……ですが、こちらも厳重に獄舎を見張っていたのです。侵入者など、近づけるわけもありません」


「しかし、賊は魂を返した。我々は……第二王子を糾弾する唯一の手立てを失ってしまったのだ」


 ポワディーノ王子は声をひそめたまま、それでも火のような激情をみなぎらせた。


「我は其方たちを信用して、賊の身柄を預けていた。そして、すぐにでも出立したいという思いをこらえて、このような祝宴を開くことを許したのだ。我は……我は、道を誤ってしまったのか? 其方たちと手を携えようと決したのが、そもそもの間違いであったのか?」


「ポワディーノ、どうか落ち着いてください。まだすべての希望が断たれたわけではありません」


 ガズラン=ルティムが、静かだが鋭い声音でそう言った。


「賊はもう1名、残されているのです。それを捕縛すれば、また新たな道が開けましょう」


「しかし……」と、ポワディーノ王子はうつむいてしまう。


 そのとき――アイ=ファとジザ=ルウが、頭上を振り仰いだ。


「なんだ、この気配は?」


 ふたりの口から、同じ言葉が同時に放たれる。

 次の瞬間、広間に絹を裂くような悲鳴が響きわたった。


 頭上に目をやった俺は、驚愕のあまりに硬直してしまう。

 そこに、悪夢のごとき光景が広がっていた。


 帳の引かれた窓の向こうから、無数の黒い影が突入してきたのだ。

 それは――漆黒の羽毛を持つ、鴉の大群であった。

 無数の鴉が、広大なる天井を埋め尽くしたのである。


 その内の1羽が天井のシャンデリアに激突して、派手な音を響かせた。

 透明な硝子で作られたシャンデリアであるが、その光源は油脂だ。粉々に砕けた硝子とともにオレンジ色の炎も落下して、床の上で弾け散った。


 おそらくは、こぼれた油脂に炎が広がったのだろう。それが床の絨毯に燃え移り、ぶすぶすと黒い煙があがると、さらなる悲鳴や怒号が空気を引き裂いた。


 あとのことは、夢の中の出来事のようにぼんやりと知覚することしかできなかった。

 ただ、地獄のような阿鼻叫喚の中で、俺はアイ=ファが躍動する美しい姿を目にとらえていた。


 アイ=ファが舞を踊るように身をひるがえすたびに、黒い鴉が床に落ちる。

 アイ=ファは腰にさげていた刀剣でもって、無数の鴉を相手取っていたのだ。


 そしてときおり、その姿が黒い人影に隠された。

 人影の正体は、ジザ=ルウとガズラン=ルティムである。どうやら彼らは卓に置かれていた金属の皿をつかみとり、その不自由な武器で鴉を撃退しているようであった。


 黒い煙の向こう側でも、数多くの人影が躍動している。

 この広間は、200名の人間に守られているのだ。そちらはきちんと刀を携えているため、然るべき対処をしてくれているはずであった。


 どこかで、聞き覚えのある声が響きわたっている。あれは、ルド=ルウか――それとも、シン・ルウ=シンか――しかし、こちらに近づいてこようとする人間はいない。鴉の大群はとりわけ俺たちの周囲に寄り集まっており、黒い帳のように進路をふさいでしまっていた。


 そこに、男性の悲鳴が響きわたる。

 ぼんやりとそちらを振り返った俺は、藍色の人影が倒れ込む姿を見た。ポワディーノ王子をかばった臣下のひとりが、鴉から何らかの痛撃を受けたのだ。


「毒だ! この鴉は、爪に毒が塗られている!」


 妙に透明感のある声で、誰かがそんな風に叫んでいる。

 おそらくそれは、ポワディーノ王子の声であった。


 そして――まるでその声に導かれたかのように、無数の鴉がこちらに舞い降りてきた。

 誰かの手に突き飛ばされて、俺はその場にへたりこむ。


 無数の鴉が、俺たちのもとに飛来してきた。

 アイ=ファは竜巻のように旋回して、何羽もの鴉をいっぺんに叩き伏せる。

 ジザ=ルウやガズラン=ルティムも、不自由な武器で1羽ずつ的確に鴉を撃退した。


 それらの攻撃からまぬがれた鴉の1羽が、ポワディーノ王子に躍りかかる。

 料理の卓にもたれたポワディーノ王子は凍りついてしまったかのように、一歩も動けず――そこに、藍色の人影が覆いかぶさった。


 その人影の背中が、鴉の鉤爪に引き裂かれる。

 その人影は苦悶の声をあげることもなく、王子もろとも床に倒れ込んだ。


 そこから離脱しようとした鴉は、アイ=ファの刀剣によって叩き落とされる。

 そして――悪夢のような騒乱は、まるで糸を切られたように終息したのだった。


「まだ息のある鴉に、とどめを刺すのだ! 爪に傷つけられないように、注意せよ!」


 アイ=ファは裂帛の声音を響かせてから、俺のもとに屈みこんできた。


「大事ないな? なんと……なんと忌まわしき賊どもだ!」


 アイ=ファは有無を言わさぬ勢いで、俺の身を抱きすくめた。

 しかし、ほんの数秒で身を離すと、まだ火のように燃えている青い目で俺の横合いをねめつける。


「そちらも大事ないな? 我々のそばに身を置いていたのは、僥倖であったな」


「……はい。黒き災厄、このようなものとは、想定、不可能でした」


 いっかな心を乱した様子もなく、アリシュナがそんな風に答えた。彼女もまた、俺の隣にぺたりと座り込んでいたのだ。


 その他にも、ポルアースやアラウトたちが弱々しく声をかけあっている。リフレイアのもとにはいつの間にかサンジュラが寄り添っており、その肩をしっかりと抱いていた。

 とりあえず、俺たちのそばにいた面々は無事であるようだ。それで俺が安堵の息をつきかけたとき、悲痛な声が響きわたった。


「『王子の舌(ゼル=ヴィレ)』! 解毒を! まだ間に合うはずだ!」


 声の主は、ポワディーノ王子である。ポワディーノ王子は帽子も面布も外れてしまい、その素顔をあらわにしながらその手に家臣の身をかき抱いていた。


 その家臣は――『王子の眼(ゼル=カーン)』である。

 鴉の鉤爪から王子を守ったのは、彼であったのだ。彼は背中に小さな手傷をこしらえているばかりであったが、その長身は死んだようにぴくりとも動かなかった。


 さらに、王子たちの足もとにはもう1名の臣下も倒れ伏している。『王子の眼(ゼル=カーン)』より前に、手傷を負った者だ。その人物は、肩の辺りから血を流していた。


 どこからともなく現れた女性の臣下、『王子の舌(ゼル=ヴィレ)』が、まずはその人物の傷口に鼻を寄せる。その際に、顔の面布がめくられて、秀麗なる横顔が覗いていた。

 さらに『王子の舌(ゼル=ヴィレ)』は小指の先端で傷口の血をすくいあげ、舌の先を触れさせたのち、織布でぬぐい取った。


「これは……ヅラッツェとブママの毒の混合であるようです」


王子の舌(ゼル=ヴィレ)』はマントの内側から2種の小瓶を取り出すと、その片方を同胞の傷口に塗り、もう片方を口に含ませた。


「そちらも、失礼いたします」


王子の舌(ゼル=ヴィレ)』は、『王子の眼(ゼル=カーン)』に対しても同じ措置を取った。

 その間も、ポワディーノ王子のほっそりとした指先は『王子の眼(ゼル=カーン)』のマントをつかんでいる。そしてその身に、心配げな眼差しをした『王子の牙(ゼル=ルァイ)』がそっと寄り添っていた。


 その間も、周囲は大変な騒ぎである。床に落ちた鴉にとどめが刺されつつ、その遺骸が回収されているのだ。どこかの貴婦人の泣きわめく声や、壮年の男性のわめき散らす声も重なり、祝宴の場が一瞬で戦場に化したかのようであった。


 しかし俺の目は、ポワディーノ王子の姿に釘付けにされている。

 ポワディーノ王子はほつれた黒髪をはりつかせた顔を、激しく引き歪めていたのだった。


「我を守るのは、『王子の盾(ゼル=バムレ)』の役割だ。『王子の盾(ゼル=バムレ)』の四番は、見事にその役目を果たしてくれた。しかし……しかし其方は、我の目だ! 目が盾になることはできぬ!」


 ポワディーノ王子がそんな悲痛な声をあげると、死んだように横たわっていた『王子の眼(ゼル=カーン)』がぴくりと肩を震わせた。


「確かに……この身は、王子殿下の目に過ぎません……ですが……生命を守るためでしたら、目を捨てるお覚悟も必要となりましょう……」


「よい! もう喋るな! それもまた、目の役割ではないはずだ!」


「はい……不出来な目で、申し訳ございません……」


 そんな言葉を最後に、『王子の眼(ゼル=カーン)』はまた動かなくなった。

 すると、王子のそばに控えていた『王子の舌(ゼル=ヴィレ)』が静かに声をあげる。


「幸いなことに、『王子の盾(ゼル=バムレ)』の四番も『王子の眼(ゼル=カーン)』の右も、体格に恵まれています。毒が心臓に達する前に、措置することができましたので……魂を返すことにはならないかと思われます」


「……左様であるか」とうつむきかけたポワディーノ王子は、ぐっと頭をもたげて広間の惨状を見回した。

 その黒い瞳には、森辺の狩人にも匹敵する熾烈な眼光がたたえられている。そして、その秀麗な眉はきつく寄せられて、鼻の上に深い皺が刻まれて――ポワディーノ王子は、獰猛な黒豹のように瞋恚の形相となっていた。


「しかし……決してこのような所業を許すことはできん! 鴉とは冥神ギリ・グゥの化身であり、東方神の愛児である! その鴉に毒を仕込んで、武具のように扱うなど……邪神教団さながらの、卑劣にして穢らわしき悪行である! このような悪行に手を染めた人間は、必ずや東方神に魂を打ち砕かれることになろう!」


 ポワディーノ王子の怒号は、まだ我を取り戻しきっていない俺の心を激しく揺さぶった。

 そして――俺の目の前を通りすぎたガズラン=ルティムが、そんな王子の眼前で膝を折った。


「ポワディーノ。私は……私はあなたに謝罪を申し上げなければなりません」


「……それはいったい、何の話であろうか? よもや、ガズラン=ルティムがこのような悪行を仕掛けたわけではあるまい?」


「無論です。ですが、私は……ポワディーノの潔白を疑っていました。これまで真情を隠していたことを、どうかお許しください」


 そのように語るガズラン=ルティムの横顔は厳しく引き締まっており、その瞳には鷹のごとき眼光が灯されていた。

 いっぽうポワディーノ王子のほうは、鷹というよりも黒豹である。しかし何にせよ、その眼光の鋭さはガズラン=ルティムにも負けていなかった。


「やはり、意味がわからぬぞ。我の潔白を疑っていたとは、いったい如何なる話であるのだ?」


「はい。私は……ポワディーノこそがこの騒乱の首謀者ではないかという疑いを、最後まで捨て去ることがかなわなかったのです」


 その言葉には、俺が愕然とすることになった。

 ポワディーノ王子は射るような眼光で、ガズラン=ルティムをにらみ据えている。


「我がこの騒乱の首謀者? 我がこのような騒ぎを起こして、いったい何になるというのだ?」


「はい。あなたは第二王子こそが、この騒乱の首謀者だと断じていました。しかし、事実はその逆で……あなたこそが第二王子を失脚させるために被害者を装っているのではないかと考えていたのです」


「……まだその可能性が、完全に消え去ったわけではありませんけれどね」


 と――新たな声が、そこに重ねられた。

 ジェムドに肩を貸されたフェルメスが、こちらに近づいてきたのだ。彼は鴉に掻きむしられた様子もなかったが、右足を引きずっていた。


「鴉を使った襲撃によって、ポワディーノ殿下は2名もの臣下を傷つけられました。おおよその人間は、ポワディーノ殿下こそが被害者であると確信したことでしょう。それを武器にして、第二王子を失脚させようという目論見であるのかもしれません」


「其方は……本気でそのような妄言を吐いているのであろうか?」


 ポワディーノ王子が激情に震える声で問い質すと、フェルメスは優美なる面持ちで「ええ」と微笑んだ。


「ただその可能性は、およそ一割と踏んでいます。ガズラン=ルティムは、もっと低く見積もっていたのでしょうね」


「……私は、百にひとつにも満たないと考えていました。ですが、疑いを捨てきれなかったことは事実ですし……今は、ポワディーノを疑ってしまったことを恥じています」


「何も恥じることはないでしょう。いかに鋭い眼力を有する森辺の狩人でも、面布で顔を隠した相手の真情を見抜くことは難しいのでしょうからね」


「……そうかもしれません」と、ガズラン=ルティムも微笑んだ。

 その瞳にはまだ鋭い眼光がたたえられたままであるが、その微笑みはガズラン=ルティムらしい温もりに満ちている。


「私はようやく、ポワディーノの真情に触れることがかないました。ポワディーノの怒りと悲しみに嘘はありません。これはやはり、ポワディーノを失脚させるための策謀であったのです」


「それは、最後の賊の正体次第でしょうね」


 と――フェルメスは内心の知れないきらめきをたたえたヘーゼル・アイで、横合いを振り返った。

 そちらを目で追った俺は、思わず息を呑んでしまう。広間に満ちた騒擾の気配を踏み越えるようにして近づいてきたのは、雨具を羽織ったメルフリードに他ならなかった。


「まさか、これほどの事態に至っていたとは……ジェノス侯、ご無事でしょうか?」


「うん。アイ=ファたちの勇躍で、わたしも生命を拾うことになったよ」


 ポワディーノ王子の向こう側では、マルスタインもへたりこんでいたのだ。そしてマルスタインは織布でこめかみを押さえており、そこに赤い血をにじませていた。


「これは卓にぶつけただけなので、何も心配はいらないよ。メルフリードがこの場に駆けつけたということは……吉報を期待していいのかな?」


「はい。最後の賊を、捕縛しました。賊は……こともあろうに、城下町にひそんでいたのです」


 父親の正面に膝をついたメルフリードは、凍てついた眼差しをポワディーノ王子に突きつけた。

 ポワディーノ王子は、激情の消えない目でメルフリードをにらみ返す。


「賊を捕縛できたのなら、何よりの僥倖である。して、手の甲の紋章も確認できたのであろうか?」


「はい。第二王子の紋章は、鴉と草の葉で間違いありませんでしょうか?」


「うむ。それで相違ない」


「左様ですか。……賊の手には、それと異なる紋章が刻まれておりました」


 ポワディーノ王子は、「馬鹿な!」と声を張り上げた。


「其方までもが、我をたばかろうというのか? まさか……第二王子の紋章ではなく、我の紋章たる鷹と冠が刻まれていたなどとは申すまいな?」


「はい。賊の手に刻まれていたのは……蛇と刀剣の紋章と相成ります」


 その返答に、ポワディーノ王子は激情も吹き飛んだ様子できょとんとした。


「其方は……何を言っておるのだ? それは……第二王子ではなく、第五王子の紋章である」


 すると、フェルメスがくすくすと笑い声をあげた。


「やはり、そうでしたか。僕も六割がたは、そうであろうと推察していました」


 フェルメスは身を支えるジェムドを引っ張るようにして歩を進めて、ガズラン=ルティムの隣に膝を折った。


「それでは僕もガズラン=ルティムとともに、謝罪を申し上げます。ポワディーノ殿下は、清廉潔白の身であられました。これは、ポワディーノ殿下と第二王子をまとめて失脚させようという、第五王子の謀略であったようです」


「いや、しかし……第五王子も第二王子の謀略によって、正気を失うほどの病魔に……」


「それもまた、第二王子を失脚させるための狂言であったのでしょう。第五王子はすべての罪を第二王子になすりつけた上で、最後に失脚させて、自分が玉座を得ようという目論見であったのでしょうね」


 俺はまだまったく頭が回らないため、フェルメスの言葉を正しく理解することもままならなかった。

 だが――最後の賊は捕縛されて、ガズラン=ルティムはポワディーノ王子のかたわらに寄り添っている。そうしてアイ=ファも勇躍して、黒き災厄を退けたのだから――きっと運命は正しく回っているのだろうと、そんな想念に身をゆだねることに相成ったのだった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 貴重な料理の数々が・・・
[良い点] 全く当てることができませんでしたw
[一言]  次回で謎解き編になりますか……  長いような短いような藍の鷹事変も解決しそうで何よりです。  ポワディーノ王子の今後も含めた次回の展開が楽しみです。
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