騒擾の祝宴②~開会~
20224.3/30 更新分 1/1
しばらくして、俺たちは本日の会場に案内されることになった。
この紅鳥宮においても、ひときわ大きな広間である。100名の参席者と200名の警護役を詰め込むには、それだけの規模が必要になるわけであった。
(普通だったら、宮殿の出入り口を固めるだけで安心できそうなものだけど……やっぱり今日はどの陣営も、普段以上に警戒してるってことなんだろうな)
何にせよ、俺たちはマルスタインたちの準備したお膳立てに従うのみである。
東の王子を送別する公式の祝宴であるため城下町の習わしに則り、入場の際には2名ずつペアになって、名前を呼ばれつつ足を踏み入れる。女性を同伴していないジザ=ルウとガズラン=ルティムは、それぞれ単独で名前を呼ばれていた。
入場の順番は格式で決められるため、族長筋ならぬ俺とアイ=ファは最後から2番目だ。俺たちの後ろに控えるのは、ガズ本家の兄妹のみであった。
「族長筋ならぬ人間は4人しかいないのに、まさか俺たちがそこに含まれるとはな。このような際だが、誇らしく思うぞ」
家長たる父親よりはやや柔和な印象であるガズの長兄は、笑顔でそんな風に言っていた。その妹にして屋台のメンバーであるガズの女衆は、いくぶん緊張の面持ちだ。参席者の枠にはゆとりがあったし、彼女には初めての班長を担ってもらったので、俺の判断で参席者に推薦させていただいたのだった。
(普段だったら定員いっぱいまで参席者を募るところだけど……今日はそれよりも、警護役に比重を置いたんだろうな)
そんな中、ララ=ルウは自分の意見を押し通して参席の資格を勝ち取ったのである。それはおそらく、彼女の人を見る目や社交の力が重んじられた結果なのだろうと思われた。
賊たる老人はすべてを告白したと申し述べていたが、ジザ=ルウはいまだに敵の姿が見定められないと言っていた。ガズラン=ルティムやフェルメスほどではないにせよ、ジザ=ルウも老人の証言を疑っているのだ。それでドンダ=ルウも、まだこの騒乱は終わっていないと見なしたのだろう。
(俺たちは、どうするべきなんだろうな。最後の賊が捕縛されるまでは動かないように、ポワディーノ王子を説得するべきなのかな)
俺がそんな風に思案している間に、同胞の姿はどんどん減っていく。そしてすぐに、俺とアイ=ファの出番が巡ってきた。
「森辺の民、ファの家長アイ=ファ様、家人のアスタ様」
小姓の澄みわたった声とともに、俺とアイ=ファは大広間に足を踏み入れた。
天井にはシャンデリアが輝き、会場には人々のさんざめきがあふれかえっている。俺にとってもずいぶん見慣れてきた、城下町の祝宴の様相である。
ただ本日は、衝立で区分された壁際のスペースが普段よりも格段に広く取られている。そのスペースに、200名からの警護の人員が立ち並んでいるのだ。ジェノスの武官に、ジャガルの兵士に、森辺の狩人に、藍色の面布を垂らしたシムの武官――それらがずらりと立ち並んでいる姿を想像すると、俺はいっそう張り詰めた心地になってしまった。
それでも参席者の人々は、常と変わらぬ優雅さで手を打ち鳴らしている。これこそ、貴族の気概と称するべきなのだろうか。この異常な環境下で開催される祝宴の場においても、貴族の面々は上品に、和やかに、折り目正しく振る舞うべきだと、自らを律しているのかもしれなかった。
そんな貴族の面々は、まだ半数ていどしか入場していないように見受けられる。それに、俺が見知っている相手はほとんど見当たらなかったので、格式の高い貴族はこの後にやってくるのだろうと察せられた。
俺とアイ=ファは会場中の視線を集めながら、森辺の同胞が集まった右側のスペースへと足を向ける。すると、早い段階で入場していたガズラン=ルティムとジザ=ルウがすぐさま近づいてきた。
「今日は私たちも身軽な立場ですので、アスタのそばに控えようかと思います」
「うむ。それは心強い。ふたりの気づかいに、感謝の言葉を捧げよう」
祝宴の場に足を踏み入れて、アイ=ファはますます凛々しい面持ちである。それがまた、シム風の宴衣装を纏ったアイ=ファの美しさを際立たせていた。
やがて待つほどもなく、新たな来場者の名が告げられる。それは、伯爵家の面々であった。
トゥラン伯爵家からは、リフレイアとトルスト。ダレイム伯爵家からは、当主のパウド、伴侶のリッティア、第一子息のアディス、伴侶のカーリア、第二子息のポルアース、伴侶のメリム。サトゥラス伯爵家からは、当主のルイドロス、第一子息のリーハイム、婚約者のセランジュ、騎士団のレイリス、そして数名の貴婦人――普段通りの、見慣れた面々である。
それに続くのは、西の王国の客人たる貴族たち、バナーム侯爵家とダーム公爵家、そして王都の外交官の面々だ。アラウト、サイ、カルスに、ティカトラス、デギオン、ヴィケッツォ、そしてフェルメス、ジェムド、オーグという、こちらもお馴染みの顔ぶれであった。
ティカトラスのひときわ豪奢な装いとヴィケッツォの美しい姿は、こんな際でも驚嘆のざわめきを呼んでいる。ヴィケッツォもまたシム風の宴衣装であり、そのくびれた腰に白銀の刀剣を光らせていた。
その次が、領主たるジェノス侯爵家の面々である。マルスタイン、エウリフィア、オディフィアに、何名かの貴公子や貴婦人という顔ぶれに変わりはなかったが、ただメルフリードの姿はない。彼は本日も、捜索活動の指揮を取っているのだ。
そうして西の王国の参席者が勢ぞろいしたならば、いよいよ異国の貴人の順番であった。
その先陣を切るのは、ゲルドの一行である。アルヴァッハ、ナナクエム、ピリヴィシュロ、プラティカに、本日は使節団の副団長も加えられていた。みんな立派な装束でたくさんの飾り物をさげていたが、シム風の宴衣装を纏っているのはプラティカのみとなる。アルヴァッハたちも以前に男性用の宴衣装を贈られていたが、本日は着用を差し控えたようであった。
その次が、南の王都の使節団となる。
ダカルマス殿下、デルシェア姫、団長のロブロス、戦士長のフォルタ、そして書記官――名前を呼ばれたのはその5名のみであるが、武官の礼服を纏ったロデと数名の武官、それに侍女と小姓が数名ずつ付き従っていた。
そうして大トリを飾るのが、東の王都の一団である。
「シムの第七王子、ポワディーノ殿下」の名が響くと、和やかな熱気に包まれた会場に小さからぬ緊張が走り抜けた。
両開きの扉は、完全に開放されて――そこから、四角い帳の輿が出現する。
それを運ぶ4名の人間も、前後をはさむ6名の人間も、全員が藍色のフードつきマントと面布の姿だ。そのマントも革ではなく上等そうな織物であったので、屋内用であることに間違いはないのであろうが――しかし、祝宴の場でフードをかぶる人間などはこれまで存在しなかったし、そもそも面布を垂らしている時点で異様に見えてならなかった。
その一行はロボットのように整然とした足取りで、大広間のもっとも奥まった場所を目指す。そして、マルスタインたちジェノス侯爵家の面々が居並ぶスペースの横手に輿が下ろされると、そこからポワディーノ王子と黒豹たる『王子の牙』が姿を現した。
人々がどよめきをあげたのは、ポワディーノ王子に対してなのか、『王子の牙』に対してなのか――おそらくは、両方に対してであるのだろう。本日もポワディーノ王子は、丸い帽子と面布で素顔を隠していた。
「……それではこれより、シムの第七王子たるポワディーノ殿下を送別する祝宴を執り行いたいと思う」
マルスタインが朗々たる声を響かせると、広間を埋め尽くしていたざわめきがすうっと引いていった。
それでも多くの人々が、息を詰めてポワディーノ王子の姿を見つめている。その視線に対抗するように、ポワディーノ王子は毅然と背筋をのばしていた。
「この数日、ジェノスは数々の騒乱に見舞われて、現在も城下町の外では賊を捜索しているさなかとなるが……ポワディーノ殿下のご助力もあって、この騒乱も終息に向かっている。ポワディーノ殿下に感謝の念を捧げつつ、道中の無事をお祈りしたい」
城下町においてもさまざまな事実が伏せられているため、マルスタインの言葉も表面を撫でるような内容になっている。会場の人々がそれをどのような心持ちで聞いているのかは、なんとも判然としなかった。
「また、ポワディーノ殿下は明日の出立に備えてご準備があられるため、本日は日の高い内から祝宴を執り行うことに相成った。普段とは異なる趣を楽しみながら、皆も旅の無事を祈ってもらいたい。そして、宴料理を準備してくれた森辺の料理人たちにも、深く感謝を捧げよう」
人々の視線がこちらに向いて、折り目正しい拍手が打ち鳴らされた。
マルスタインは悠然と微笑みつつ、ポワディーノ王子のほうを振り返る。
「では最後に、ポワディーノ殿下からもご挨拶の言葉を賜りたく思います」
マルスタインの呼びかけに、臣下のひとりが進み出た。長身痩躯の女性、『王子の口』の一番である。
「まず最初に、『王子の口』の口を借りて挨拶する非礼に容赦を願いたい。これは、我が広間の隅々に行き渡らせるほどの声を持ち合わせていないためであり、決してこの場に集った面々を軽んじてのことではないと釈明させていただく」
澄みわたった女性の声が、それこそ広場の隅々にまで響きわたる。さほど声を張り上げているようではないのに、やたらと響きのいい声音であるのだ。それは俺に、傀儡使いのリコを思い出させてやまなかった。
「そして、先刻のマルスタインの言葉であるが……確かに我は、このたびの騒乱をおさめるために力を尽くした。しかし逆に言うならば、これは我の来訪がもたらした騒乱であるのだろう。我がジェノスを訪れたがために、このような騒乱を招いてしまったのだ。そのような厄介者のためにこれほど立派な祝宴を開いてもらい、心から感謝している」
『王子の口』の声はとても優美で心地好いが、人間らしい感情はまったく感じられない。しかしそれでも高圧的な気配は皆無であるし、言葉の内容も至極穏当であるように思えた。会場の人々も、いくぶん気持ちが安らいだようである。
「また、東の民たる賊がジェノスを騒がせてしまったことを、シムの王族の人間として深く陳謝する。我がジェノスを出立したのちはこの騒乱も終息しようから、今後とも東の王国と変わらぬ友誼を紡いでもらいたい。とりわけ、ゲルドやジギの者たちには何ら責任のない話であるので、誤解や偏見を抱かぬよう重ねて願いたい。……すべては、王子たる身でうかうかと異国に足をのばしてしまった、我の責任である」
それだけ言って、『王子の口』はしずしずと引き下がった。
すると――今度は、ポワディーノ王子が進み出る。そして彼は背筋をのばしたまま、深く頭を垂れたのだった。
「このたびの騒乱で心を痛めたすべての人間に、陳謝する。どうか容赦を願いたい」
その言葉は、王子自身の口から発せられた。
『王子の口』ほどではないが、透明感があって澄みわたった声音である。広間の多くの人々が、それを聞き取れたはずであった。
一瞬の間を置いて、広間は盛大な拍手に包まれる。
きっと何割かの人間は、本当に心を打たれたのだろう。そして俺も、そのひとりであった。まさかポワディーノ王子が不特定多数の相手に向かって頭を下げるなどとは、俺も想像していなかったのだ。それにこの場には、敵対国たるジャガルの面々も立ち並んでいるのだった。
(ポワディーノ王子は本当に、心を入れ替えてくれたんだな)
俺もまた、心を込めて手を打ち鳴らした。
面を上げたポワディーノ王子は、そのままもとの位置まで引き下がる。
とても温かな心地を得た俺は、思わずアイ=ファのほうを振り返ったが――そこで、息を呑むことになった。
アイ=ファもいくぶん鋭さを減じた目で、ポワディーノ王子のほうを見やっている。しかし、その向こう側にたたずむガズラン=ルティムが――鷹のように光る目で、いくぶん苦しげにポワディーノ王子の姿を見据えていたのだった。
(どうして……ガズラン=ルティムが、こんな目でポワディーノ王子のことを見てるんだ?)
俺がそんな思いにとらわれていると、ガズラン=ルティムがこちらに向きなおってきた。
その瞳はすぐに鋭い光を消して、口もとには微笑がたたえられる。ただその微笑も、いくぶん切なげな感情をにじませていた。
(……わかりましたよ。すべてが終わったら、きちんと聞かせてくださいね)
俺がそのような思いを込めて見つめ返すと、ガズラン=ルティムはひとつうなずいてからポワディーノ王子のほうに向きなおった。
ポワディーノ王子は、毅然と立っている。そして、そのかたわらのマルスタインが声をあげた。
「では、送別の祝宴を開始する。まずは、森辺の料理人の心尽くしを楽しんでもらいたい」
今度は上品な風情で拍手が鳴らされて、祝宴が開始された。
ジザ=ルウはひとつ息をつき、俺とアイ=ファのほうに向きなおってくる。
「まずは、ポワディーノと言葉を交わすべきであろう。そちらも、異存はなかろうか?」
「うむ。今日はポワディーノの存在を第一に考えるべきであろうからな」
俺とアイ=ファ、ジザ=ルウとガズラン=ルティムの4名は、真っ直ぐポワディーノ王子のもとを目指した。
ポワディーノ王子は、広間の奥に準備されていた敷物に座している。その右側には『王子の牙』が控えて、左側にはマルスタインとエウリフィアとオディフィア、そして背後には6名の臣下が立ち並んでいた。帳の輿を運んだ4名の『王子の足』は、衝立の向こうに引っ込んだようだ。
「失礼する。今日はこちらの敷物で過ごす心づもりであろうか?」
ジザ=ルウがそのように呼びかけると、ポワディーノ王子は「否」と答えた。
「ジェノスの祝宴において、高貴な立場にある人間はまず参席者の挨拶を受ける習わしであると聞いた。その時間はシムの習わしとして敷物に控えさせていただくが、その後はジェノスの習わしに従って広間を巡る心づもりである」
「なるほど。では、広間を巡る時間となったら、我々も同行を願えようか?」
ジザ=ルウの言葉に、ポワディーノ王子はわずかに肩を揺らした。
「それは、願ってもない話であるが……もしよければ、この時間もアスタに同席を願えまいか?」
「ふむ? そちらのマルスタインたちと同じように、敷物に座すべしという話であろうか?」
「うむ。もちろん我は、アスタに命令を下せる立場ではない。あくまで、要望である。迷惑であれば、広間を巡る時間を待とう」
王子たる身にそうまで言われては、こちらもなかなか拒めるものではなかった。
ただアイ=ファは、鋭い眼差しを背後の6名に向けている。
「こちらは、まったくかまわぬが……ただ、そちらの両名に背後を取られるのは、いささか落ち着かぬ心地だな」
「ふむ。やはり森辺の狩人には、武官と文官の違いが気配で察せられるのであろうか?」
「この気配を見まごう狩人はおるまい。しかもそちらの両名は、ずいぶんな手練れであるようだ」
「うむ。『王子の剣』の三番と『王子の盾』の四番である。徒手でもっとも手練れであるそちらの両名を、そばに置くことにした。……其方たちは、逆の側に寄るがよい」
2名の臣下が無言のまま頭を垂れて、マルスタインたちが座している側に移動した。
ただ、王子の右側には黒豹が控えている。その頭を撫でながら、ポワディーノ王子はアイ=ファを見上げた。
「『王子の牙』も、逆の側に移すべきであろうか?」
「それでは、マルスタインたちが落ち着くまい。背後でなければ、こちらはかまわん。……ただし、アスタとの間には私が座らせていただくぞ」
「ああ、其方は――」と、ポワディーノ王子はそこで言葉を呑み込んだ。おそらくアイ=ファが素手で黒豹を制圧した一件を思い浮かべたのであろうが、城下町でそれを知るのは会談に参席するメンバーと一部の武官のみであるのだ。エウリフィアたちの前では、言葉を選ぶ必要があるはずであった。
「では、失礼する」と、アイ=ファが率先して『王子の牙』の隣に腰を下ろした。
王子も黒豹も、そんなアイ=ファの姿をじっと見やっている。そして、王子は面布を揺らして息をついた。
「森辺の民は、むやみに異性の容姿を褒めそやしてはならないという習わしに身を置いているそうであるな。よって我も、言葉をつつしみたく思うが……我は、きわめて大きな驚きにとらわれている」
「うむ。森辺の習わしを重んじてくれることは、ありがたく思う。とりわけ私などは、狩人の身であるのだからな」
アイ=ファはすました顔であるが、横座りの姿勢を取ったその姿も美しい限りだ。ティカトラスでなくとも肖像画に仕立てたいという衝動に見舞われそうな、優雅にして鮮烈な美しさであった。
「きっと森辺においても、其方のような存在は稀なのであろうな。ところで、その腰にさげている刀剣であるが――」
と、ポワディーノ王子の声がいくぶん不明瞭な響きを帯びた。
「――その刀剣を、しばしあらためさせてもらってもかまわぬだろうか?」
「うむ。かまわんぞ」
アイ=ファは眉筋ひとつ動かすことなく、腰の刀剣をポワディーノ王子に差し出した。
ポワディーノ王子は小さな手の平に刀剣をのせて、面布に隠された顔を近づける。そしてそののちに、また感じ入ったように息をついた。
「これは、見事な細工である。しかし、この輝きにこの重さは……シムから買いつけた品ではあるまいな」
「うむ。そちらは海の外から買いつけた品であると、ティカトラスが申し述べていた」
「なるほど。渡来の民がもたらした品であるか。納得である。西と東では、港にやってくる渡来の民もまったく異なる一族であるのだろうな」
ポワディーノ王子はいくぶん名残惜しそうに、白銀の刀剣をアイ=ファに返した。
俺はこっそり息をつきながら、アイ=ファの隣に腰を落ち着ける。さらにガズラン=ルティムとジザ=ルウも俺の隣に腰を下ろすと、ずっともじもじしてたオディフィアがくいくいと母親の腕を引っ張った。
「ねえ。オディフィアもアスタたちにあいさつしていい?」
「どうかしら。まずは王子殿下におうかがいしてみないとね」
そのやりとりに、ポワディーノ王子がすぐさま反応した。
「そちらのオディフィアは、とりわけ森辺の民と懇意にしているという話であったな。この数日はアスタとの交流を邪魔立てしてしまい、申し訳なく思っている。我にかまう必要はないので、存分に言葉を交わしてもらいたい」
オディフィアはたちまちかしこまり、生けるフランス人形のごとき風情で小さな頭を下げた。
「ぶしつけなことばをきかせてしまい、もうしわけありません。ポワディーノでんかのごおんじょうに、こころよりのかんしゃをささげます」
「うむ。いまだ10歳にもならぬ身で、オディフィアの礼儀作法は完璧であるぞ」
そのように語るポワディーノ王子の声は、とても穏やかであった。
オディフィアはもういっぺんお辞儀をしてから立ち上がり、楚々とした足取りで俺の正面に回り込んでくる。そしてその灰色の瞳が明るくきらめきながら、俺を見つめてきた。
「アスタ。ひさしぶりにあえて、すごくうれしい」
「ありがとうございます。オディフィアもお元気そうで、安心しました。先日の食事会では、俺の料理もご満足いただけましたか?」
「うん。すごくおいしかった」
オディフィアは2日前の食事会で、トゥール=ディンやユン=スドラたちと席をともにしている。それでも俺のことまで気にかけてくれるのは、嬉しい限りであった。
「今日もトゥール=ディンが、立派な菓子を準備してくれましたからね。俺の料理ともども、お楽しみください」
「うん。すごくたのしみ。……れいふうのかい、もうすぐひらける?」
「はい。そちらもトゥール=ディンとランディが準備を進めてくれていますよ。俺も明日から本腰を入れて取りかかるつもりです」
「ありがとう。すごくたのしみ」
オディフィアの瞳は、ますます星のようにきらめいていく。
すると、ポワディーノ王子がまたひとつ息をついた。
「其方はゲルドのピリヴィシュロなる者とも懇意にしているそうだが、それも納得である。静謐さの中に確かな慈愛と熱情を宿らせる其方は、多くの東の民を魅了することであろう」
「あ、えーと……かぶんなおことば、きょうしゅくです」
オディフィアはいくぶん慌てた様子で、今度はぺこりと頭を下げる。先刻の優雅な振る舞いとは別人のようだが、これこそがオディフィア本来の愛くるしさであった。
「それじゃあそろそろ、こちらにお戻りなさい。たくさんの方々がポワディーノ殿下にご挨拶をしようとお待ちしていますからね」
エウリフィアにうながされて、オディフィアは渋々の様子で腰を上げる。そうしてオディフィアがもとの位置に戻ると、さっそく最初の一団――トゥラン伯爵家とバナーム侯爵家の混成部隊が接近してきた。
「お初にお目にかかります、ポワディーノ殿下。わたしはトゥラン伯爵家の当主リフレイア、こちらは後見人のトルストと申しますわ」
「僕は、バナーム侯爵家の末席に名を連ねるアラウトと申します。シムの第七王子殿下にお目通りがかない、心より光栄に思っています」
リフレイアはいつも通りの取りすました面持ち、トルストは怯えきったパグ犬のような面持ち、アラウトは厳しく引き締まった面持ちで、それぞれ敷物に膝をつく。従者の立場であるシフォン=チェルやムスル、サイやカルスは、その背後で床に膝をついていた。
「うむ。わざわざ足を運んでもらい、感謝する。……そうか、其方がトゥラン伯爵家の当主であるか」
「ええ。王子殿下は、『森辺のかまど番アスタ』をご覧になったそうですわね」
リフレイアの色の淡い瞳に、やや挑むような光が灯される。
しかし、面布で顔を隠したポワディーノ王子の内心はまったくわからなかった。
「其方はもっと稚気にあふれた人柄であるかと想像していたが……しかしあの傀儡の劇で語られた時代から、もう長きの時間が過ぎているのであろうな」
「ええ。白の月を迎えたら、丸3年が過ぎてしまいますわね」
「3年か……人が成長するのに、それは十分な時間であろう。其方も我よりは年長なのであろうが、まだまだ若年の部類であろうしな」
「そうですわね。ちょうどあの劇で語られていた頃が、殿下と同程度の齢であったかと思われますわ」
「左様であるか。我も若年であるがゆえに、このたびはジェノスの者たちに多大な迷惑をかけてしまった。其方を見習って、さらなる成長を目指す所存である」
そう言って、ポワディーノ王子はアラウトのほうに目を向けた。
「そして、其方は……森辺の大罪人に父親を害された、バナーム侯爵家の子息であるな」
「はい。僕のこともご存じでありましたか」
「ジェノスを巡った『王子の耳』が、さまざまな話をもたらしてくれた。其方が恩讐を乗り越えて森辺の民やトゥラン伯爵家と手を携えることかなったのは、得難き話である。今後も健やかな絆を深められるように、我も陰ながら祈らせていただこう」
ポワディーノ王子は滞在7日目で、ジェノスの情勢についてもずいぶん把握している様子である。アラウトは驚嘆の思いをにじませており、いっぽうリフレイアは探るような眼差しになっていた。
「そちらのトルストもリフレイアの後見人として、辣腕を振るっているようであるな。其方のような存在があってこそ、トゥラン伯爵家も復興がかなったのであろう。陰ながら家を支える其方の尽力は、もっと報われるべきであろうな」
「い、いえ、とんでもございません。わ、わたくしなどは、雑務に追われるばかりですので……」
「その雑務こそが、何より肝要であるのだ。そして……そちらが北から南に神を移した、侍女のシフォン=チェルであるな?」
ポワディーノ王子の言葉がシフォン=チェルにまで向けられて、リフレイアはいっそう眼光を強くする。しかし、ポワディーノ王子の声音は穏やかなままであった。
「森辺の族長グラフ=ザザが申していたトゥラン伯爵家の毒見役とは、其方であったのだな。北の友にして南の敵たる我としては、其方の行いを祝福することもままならぬが……しかしおそらく、其方にとってはそれが正しき運命であったのであろう。シムの王子としてではなく、同じ四大神の子として、其方が健やかな生を勝ち取ったことを喜ばしく思う」
「……王子殿下のご温情に、心よりの感謝をお捧げいたします……」
シフォン=チェルはゆったりとした面持ちのまま、蜂蜜色の頭を下げた。
リフレイアは気持ちを持て余している様子で、そんなシフォン=チェルとポワディーノ王子の姿を見比べている。俺としても、ポワディーノ王子の言葉には驚かされるばかりであった。
(本当に、10歳とは思えない物言いだな。もしかしたら……これがポワディーノ王子の、本来の姿なのかな)
そんな風に考えながら、俺は森辺の面々の様子をうかがってみた。
アイ=ファはやはり凛々しい面持ちの中でいくぶん眼光をやわらげており、ジザ=ルウは相変わらずの内心が読めない柔和な面持ち、そしてガズラン=ルティムは――鷹のごとき眼光はひそめていたものの、真剣きわまりない眼差しでポワディーノ王子の姿を見つめていたのだった。




