変転の日④~段取り~
2024.3/28 更新分 1/1
「どうしてこのような折に、またアスタが余計な仕事を抱え込まなくてはならんのだ」
アイ=ファは、ぷりぷりと怒っていた。
場所は、白鳥宮の控えの間だ。本日の会談はいちおう終了したのだが、ガズラン=ルティムとラウ=レイの両名がフェルメスに連れ出されてしまったため、その帰りを待っているのである。
ガズラン=ルティムたちが向かったのは獄舎であり、その目的は賊たる老人の真情を見極めることであった。また各陣営の責任者が見守る中で尋問が執り行われて、ガズラン=ルティムたちもそれを検分することになったのだ。
そこにラウ=レイを同行させたのは、ジザ=ルウの判断であった。
意外と言っては失礼かもしれないが、ジザ=ルウはラウ=レイの人を見る目というものをかなり評価しているようなのである。他者とのコミュニケーションに関しては多少ながら難のあるラウ=レイであるが、その眼力に関してはルウの血族でも屈指であろうという話であったのだ。
残された俺たちはダン=ルティムやディム=ルティムと合流して、控えの間でお茶をすすっている。そして、アイ=ファがひとり不満の思いをあらわにしているのだった。
「確かに余計な手間ではあろうが、城下町であればそうそう危険が及ぶこともあるまい。……もう1日の猶予があれば、賊を捕らえる算段も立とうからな」
ジザ=ルウがそのように応じると、アイ=ファはじっとりとした眼差しをそちらに向けた。
「やはりジザ=ルウも、フェルメスやガズラン=ルティムと同様の心情であるのだな」
「いや。ガズラン=ルティムたちが何を思ってポワディーノの足止めをしようとしているのかは、俺にもわからない。ただ、シムに戻るのはすべての賊を捕らえた後でも遅くはなかろうと考えたまでだ」
「それは俺も、同じように思うぞ。賊を生かしたまま捕らえるのは難しかろうが、手の甲の紋章とやらが無事であれば、いっそう確かな証になるのであろうからな」
ジィ=マァムがそのように声をあげると、シュミラル=リリンも静かにうなずいた。
「私、賛同します。それに……ポワディーノ、いささか、冷静さ、失っている、見受けられます。焦燥、失敗、招きますので、沈着、努めるべきでしょう」
「ふん。東の王都まで20日がかりならば、その間にいくらでも心を落ち着けることができようよ」
そんな風に言ってから、アイ=ファは思案顔で腕を組んだ。
「それに私も、最後の賊を捕らえるまでは大人しくしておくべきであるように思う。賊たる老人が虚言を吐いているならば、この先にもポワディーノを陥れるための罠が待ちかまえている恐れがあるのであろうからな」
「なんだ。それなら、怒る必要もないじゃないか」
「だから私は、お前が余計な仕事を負わされたことに腹を立てているのだ」
「痛い痛い。わかったよ。心配してくれて、ありがとう。でも俺も、もうちょっとポワディーノ王子と語っておきたい心持ちなんだよ」
ポワディーノ王子とは、けっきょく事件にまつわる話しかしていない。このままお別れしてしまったら、俺たちはいったい何のために出会ったのだろうという気持ちに陥ってしまいそうなのだ。
「それにやっぱり、ポワディーノ王子には万全の状態でシムに戻ってほしいからな。あの賊がポワディーノ王子を何かの罠にはめるために虚言を吐いたんだとしたら、とんでもない逆襲を受けちゃうだろうし……」
「うむ。現時点では、なんとも言えんな。ガズラン=ルティムたちが、どう見るかだ」
アイ=ファがそのように答えたとき、控えの間の扉がノックされた。
ガズラン=ルティムたちが戻ったのかと思いきや、ひょっこり顔を覗かせたのはティカトラスである。アイ=ファはたちまち、眉を吊り上げてしまった。
「……そちらは捜索の仕事に戻ったのではないのか?」
「いやいや! 貧民窟ならまだしも、山野の捜索では大した力にもなれないだろうからね! ……アイ=ファはずいぶん不機嫌そうだけど、アスタと喧嘩でもしてしまったのかな?」
「アスタと諍いを起こすいわれはない。ただ、アスタが余計な仕事を負ってしまったことを不満に思っているだけだ」
そしてその言いだしっぺは、このティカトラスなのである。
ティカトラスは長羽織のごとき装束の袖をぱたぱたとそよがせながら「あはは!」と笑った。
「それは申し訳なかったね! ただ、フェルメス殿やガズラン=ルティムはポワディーノ殿下を足止めさせたい様子であったし、わたしもアイ=ファの美しい宴衣装が恋しくなってしまったのだよ!」
「このような騒ぎの折に、宴衣装などを着込む気にはなれん。私は武官の礼服というものを借り受けるつもりでいる」
「それは困るなぁ。武官の礼服に、この品は似合わないだろう?」
ティカトラスはにまにまと笑いながら、デギオンに目配せをした。
デギオンは、その手に抱えていた包みを卓上に広げる。そこから現れたのは、実に豪奢な刀剣であった。
刀身20センチていどの大振りな短剣で、幅の広い刀身は大きく湾曲している。そして剥き出しの刀身も柄も鍔もすべてが白銀にきらめいており、そこかしこに宝石の装飾が埋め込まれていた。
「……なんだ、これは? およそ刀としては使い物にならなそうだな」
「うんうん! そもそも刃をつけていないから、これでは糸を切ることもできないよ! ただこれは、海の外から仕入れた品でね! 純銀と見まごう美しさだが鋼のように強靭だから、森辺の狩人の膂力で扱っても折れることはないと思うよ!」
ティカトラスのそんな言葉に、アイ=ファは鋭く目を細めた。
「明日の祝宴で、これを携えよという話であろうか? ……何故?」
「だって、祝宴の参席者は武具を携えることができないだろう? まあ、アイ=ファは武具なんてなくってもとんでもない強さなのだろうけどさ! でも、武具があるに越したことはないじゃないか!」
「だからどうして、武具などが必要であるのだ? まさか、祝宴の場に賊が押しかけてくるとでも?」
「そんなことは、わからないよ! ただ……どうもわたしも、今日の朝方から落ち着かない気分なのだよね」
と、明るい笑みを浮かべたまま、ティカトラスは語調を静めた。
「つまりは、新たな賊が捕縛されたと聞いてから、何だか落ち着かない気分なのだよ。何か、たちの悪い冗談でも聞かされたような……甘い菓子をかじったら、チットの実がまぎれこんでいたような気分なのだよね」
「つまり、不穏な気配を察知したということであろうか?」
ジザ=ルウが問いかけると、ティカトラスは「いやいや」と手を振った。
「わたしは武芸の達人でも占星師でもないからね。そんな気配を察知する能力は持ち合わせていないよ。……君たちこそ、何か感ずるものはないのかな?」
「……俺個人は、敵の姿をまったく見定められずにいる。これまでに捕らえた賊は、いずれも傀儡なのであろうからな。それを裏から操っているのは、どのような人間であるのか……まったく想像が及ばないのだ」
「うんうん。わたしも同じような心境かな。この騒動の首謀者は、よほど悪知恵が働くのか、あるいは呆れるほどに愚かであるのか……もしかしたら、その両方なのかもしれないね」
そう言って、ティカトラスはのほほんと笑った。
「だからまあ、この刀剣は安心を得るための護符のようなものだよ! 同じものが三振りあるから、アイ=ファとレム=ドムとヴィケッツォが持つといい! これも、着付けの当番に渡しておくからね!」
「……あなたはあなたなりに、我々の心情を慮っているのであろうな」
アイ=ファは苦笑まじりに、そう言った。
「承知した。では、宴衣装の選別はあなたに任せる。……まさか、そのためにこのようなものを準備したのではなかろうな?」
「あはは! どっちの気持ちが先であったかは、もう失念してしまったね! 何にせよ、アイ=ファの美しい宴衣装を期待しているよ!」
そうして最後は元来の騒がしさを取り戻して、ティカトラスは退室していった。
それと入れ替わりで、ガズラン=ルティムとラウ=レイが帰還する。そしてこちらが何を問うまでもなく、ラウ=レイは「駄目だ、あれは!」と言い放った。
「あの老人には、およそ人間らしい心というものが備わっておらん! あれでは善人か悪人かも判断はつかんな!」
「私も、同じ心情です。あれは、善悪を超越した……人の抜け殻のごとき存在であるように感じました」
そのように語るガズラン=ルティムの双眸には、また鋭い光がちらついている。ガズラン=ルティムがこれほど鷹のごとき眼光を頻発させるのは、これまでになかった話であった。
「よって、その口が語る言葉が真実であるか虚言であるかも見当がつきませんでした。すべての気力をなくした人間が最後の希望にすがって真実を語っているようにも見えますし……逆に、希望も絶望も忘れてしまった人間が罪の意識もなく虚言を並べたてているようにも見えてしまうのです」
「ふむ! それはずいぶんと、難儀な輩であるようだな!」
豪放に言いながら、ダン=ルティムはどこか愛息を気づかっているような眼差しになっている。それに気づいたガズラン=ルティムは、眼光をゆるめて口もとをほころばせた。
「何にせよ、あの老人はすでに抜け殻であるのでしょう。これまでの苛烈な生活で、人間らしい心をすべてすりへらしてしまったような……そんな状態にあるのではないかと思われます」
「不幸だな! たとえこれまで満ち足りた生を送っていようとも、老いさらばえた後にそんな心境に至ってしまうのは不幸としか言えん! 罪人なれども、あわれなやつよ!」
ダン=ルティムがガハハと笑ってガズラン=ルティムの背中を叩くと、ジザ=ルウが音もなく立ち上がった。
「では、我々も帰るとしよう。この刻限ならば、まだトゥール=ディンらも宿場町に留まっているのではなかろうか?」
「あ、そうかもしれません。《ランドルの長耳亭》に立ち寄っていただけますか?」
「あちらにも護衛役の狩人を割り振っているのだから、まだ居残っているならば合流する他ない」
ということで、俺たちはようやく白鳥宮を出た。
表にはもう6名の狩人と、そしてたくさんの兵士たちが待ちかまえている。人員は日ごとに交代されているのであろうが、甲冑に雨具を纏った姿では見分けることもできなかった。
(でも、明後日にはポワディーノ王子も出立することになりそうだから……こんな騒ぎも、それまでってことになるのか)
賊たる老人がどのような思惑であるにせよ、ポワディーノ王子がジェノスを離れたならばもう俺やジャガルの兵士を襲う理由もないだろう。しかし、すべての真実が明かされるのは、ポワディーノ王子がシムに到着する20日後以降――それまで俺たちは、たいそう落ち着かない心地を抱え込むことになるはずであった。
(いや。今日か明日に最後の賊が捕まれば、また状況が変わるかもしれないからな。とにかく俺は、油断しないように心がけよう)
そうして城下町を出て、宿場町の《ランドルの長耳亭》を目指してみると、ちょうどトゥール=ディンたちが帰り支度をしている頃合いであった。
その場に居残っていたのは、トゥール=ディンとリッドの女衆、そしてマルフィラ=ナハムとリミ=ルウだ。護衛役を均等に割り振るために荷車の乗員が再編成されると、同じ荷車になったリミ=ルウが「わーい!」とアイ=ファに抱きついた。
「アイ=ファたちも、お疲れさまー! あぶないことは、なかった?」
「うむ、大事ない。そちらも何事もなかったようで、安心したぞ」
アイ=ファが頭を撫でくり回すと、リミ=ルウはいっそう嬉しそうに「えへへ」と笑った。
「アスタが教えてくれたちょこふぉんでゅも、うまくいきそーだよ! ていうか、トゥール=ディンがもうおうちでほとんど完成させちゃってたみたい!」
「そっか。『麗風の会』が楽しみだね」
リミ=ルウの笑顔に心を癒やされながら、俺は帰路を辿ることになった。
しかし本日は、腰を落ち着けるいとまもない。もう夕刻が迫りつつあったが、明日の祝宴の段取りをつけなくてはならないのだ。ルウの集落でリミ=ルウを降ろしたのちには護衛役を引き連れてファの家まで出向き、明日の下ごしらえに励んでいたユン=スドラたちを驚かせることに相成った。
「えっ! 昼から祝宴を開くのですか? それでは、屋台はどうなるのでしょう?」
「うん。俺もあんまり無理はできないって交渉したから、料理の数はそれほどの量でもないんだ。だから……屋台の当番は取り決め通りで、手の空いている人たちに手伝ってもらおうと考えてるよ」
「そうですか……わかりました。わたしは、アスタの留守をお預かりいたします」
ユン=スドラは奮起した面持ちで、そう言ってくれた。
お次は、フォウの集落である。そちらではトゥランの商売の下ごしらえをお願いしていたが、もう明日の取り仕切り役であるラッツの女衆は帰宅した後であった。
「へえ、こんなさなかに祝宴かい! まったく貴族ってのは、呑気なものだね!」
事情を打ち明けられたバードゥ=フォウの伴侶は、存分に呆れた顔をしていた。雨季の間もこちらに滞在していたサウティの血族の面々も、それは同様である。
「本当に、予想外のことばかり起きますね。騒ぎが収まる前触れと考えてもいいのでしょうか?」
「うーん。俺もそうなることを祈ってるよ。とにかく明日もトゥランの商売に影響はないので、引き続きよろしくお願いします」
「はい。そちらはどうかおまかせください。わたしたちも、だいぶん手馴れてきましたので」
サウティの血族の面々も、おもにトゥランの商売の下ごしらえを手伝ってくれているのだ。さすがに家人を貸し合う行いもずいぶん規模が縮小されたようだが、俺にとっては頼もしい戦力であった。
次に向かうは、ガズの集落だ。大勢の兵士を引き連れているものだから、ガズの家長は心底から驚いた顔で出迎えてくれた。
「アスタは常に、これほどの人間に囲まれているのか。なんというか……気の毒な限りだな」
「いえいえ。ガズの方々にもさんざんお世話になっていたのに、挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」
ガズも休息の期間であるため、昨日までは護衛役の狩人を出してくれていたし、今日からは捜索活動に従事しているのだ。さすがに護衛役で本家の家長が参ずることはなかったので、この騒ぎが勃発してから顔をあわせるのは初めてのことであった。
「それでですね、今日はまたお願いがあってお訪ねしたのですが……」
ユン=スドラを筆頭とする常勤メンバーは屋台の商売があるし、ラッツの女衆はトゥランの商売の取り仕切り役である。そして、ガズの女衆はどちらの当番からも外れている日取りであったので、祝宴の支度で班長を受け持ってもらいたかったのだった。
「なに? 俺の娘に、取り仕切り役を任せようというのか? いや、ちょっと待て! 本人を呼びに行かせる!」
まだ幼い末弟がかまど小屋まで飛んでいき、姉を連れてきた。ラッツの女衆と同じ時代から屋台を手伝ってくれていた、古株のメンバーだ。その女衆も、父親に負けないぐらい驚愕の表情になっていた。
「わ、わたしが、班長を? 班長というのは、アスタとは別の場を取り仕切る役目のことですよね? それはいつも、レイ=マトゥアたちが受け持っていたはずでは……?」
「あまりに急な話だから、屋台の当番を動かすのは控えたんだよ。君だって、班長を務めるのに不足はないからね」
彼女は決して、不出来なかまど番ではない。ただ、ユン=スドラやレイ=マトゥア、マルフィラ=ナハムやフェイ・ベイム=ナハム、それにラッツの女衆といったメンバーが優秀すぎるだけであるのだ。
「そろそろ君にも、トゥランの商売の取り仕切り役をお願いしようかと考えてた時期だし……いきなりの話だけど、どうだろう? お願いできるかな?」
「も、もちろんです! ただ、わたしにそのような大役が務まるかどうか……」
「そこは心配いらないよ。食材の手配はこっちでするから、調理の取り仕切り役を担ってほしいんだ。そっちにおまかせする献立は3種で、すっかりお馴染みの内容だしさ」
「わ、わかりました!」と、ガズの女衆は先刻のユン=スドラに負けないほどの奮起をあらわにした。
俺は「ありがとう」と頭を下げてから、ガズの家長に向きなおる。
「それでですね、もうひとつご相談があるのですが……もう何名か、女衆をお借りすることはできますか?」
「な、なに? 今度は、どういう話なのだ?」
「明日の仕事にはあと10名ほどの人員が必要になるのですが、もうあまりあちこちの家を巡る時間もありませんので、休息の期間にある6氏族の方々から人手をお借りしたいのです。城下町で初めて仕事をする方々は、気が引けてしまう面もあるでしょうけれど……なんとか、ご了承をいただけませんか?」
いつも沈着なガズの家長が視線をさまよわせると、無言で様子をうかがっていたジザ=ルウが進み出た。
「護衛役には、ルウの血族から十分な人手を出すと約束しよう。あとは、そちらの判断に任せる」
「う、うむ……しかし、族長らは了承しているのか?」
「族長ドンダ=ルウはまだ森から帰っていないので、話を取りつけるのはこの後になる。しかしこれは、シムの王族にまつわる案件であるし……おそらく族長らも、断ることはできなかろう。そして、了承するからには同胞の安全を一番に考えるはずだ」
ガズの家長は「そうか」と深くうなずいた。
「あまりに急な話であったので、俺もつい心を乱してしまったが……相分かった。女衆も好きなだけ、アスタに託そう。このような時期に休息の期間であったのも、母なる森の思し召しであろうからな」
「ありがとうございます。言うのが遅くなりましたが、褒賞はきちんと配分しますので」
「ふん。俺たちは、褒賞のために力を尽くすわけではないがな」
「ですが、重要な仕事には代価が必要でしょう? みなさんの誇りのためにも、そうかお受け取りください」
そうしてその後はラッツとベイムの家も巡り、ようやく段取りは整った。
それからルウの集落を目指す頃には、もう雨季の空もずいぶん暗くなっている。大がかりな捜索活動が開始されたことで、副次的に森辺の集落の安全は保証されていたが、もちろんアイ=ファはずっと油断なく青い瞳を光らせていた。
「……うむ? 何やら、騒がしいな」
と、ルウの集落が間近に迫った頃合いで、アイ=ファがいっそう眼光を鋭くする。
しかし、何も案じる必要はなかった。捜索活動に加わっていた狩人の一団が帰還したのだ。そちらはまとめてルウの集落に送られて、そこからは自分たちの荷車で帰る段取りになっていたのだった。
本来であれば夜を徹して作業を続けたいところなのであろうが、相手は毒を扱う東の民である上に、別なる黒豹を従えている可能性もなくはない。それでは危険に過ぎるため、夜間の作業は断念されたのだ。ただし、日中の成果を無駄にしないように、捜索活動を終えた区域には大勢の見張りを立てて監視の目を光らせるのだという話であった。
「おお、アスタにアイ=ファ。そちらも無事であったようだな」
俺が広場で荷台から降り立つと、ライエルファム=スドラがひたひたと近づいてくる。その無事な姿に、俺は大きく安堵の息をついた。
「ライエルファム=スドラも、お疲れ様です。ご無事で何よりでした」
「うむ。危険に見舞われるいわれは、いっさい存在しなかったぞ。それがちょっと、うろんに思えるほどだ」
ライエルファム=スドラのそんな言葉に、アイ=ファが鋭く反応した。
「うろんとは? ライエルファム=スドラは、何を疑問に思っているのであろうか?」
「うむ。俺たちは、宿場町に近い位置から山野を捜索していたのだが……賊の痕跡が、いっさい見当たらないのだ。黒豹なる獣とともにひそんでいた場所は事前に通達されていたが、それ以外に賊の痕跡というものはいっさい見当たらなかった」
「ふむ。しかし、山野というものに果てはあるまい? わずか1日で痕跡を見つけるほうが難しいのではないか?」
「俺も最初は、そのように考えていた。ジェノスに面した森の端だけでも、けっこうな広さであるからな。だが……町の人間はモルガの森を恐れているためか、森の端はまったく踏み荒らされた気配がないのだ。年単位で人が踏み込んでいない森の様相というものは、アイ=ファも想像がつくであろう? そういった場所に賊が足を踏み入れたならば、俺たちが見落とすことはない」
そう言って、ライエルファム=スドラは茶色い瞳を静かに光らせた。
「よって、森の端の捜索というものは、きわめて順調に進められていた。中天を過ぎる頃には宿場町に面した場所も作業を終えて、今日の帰り際にはダレイムやトゥランの先にまで足をのばすことになったのだ。俺などは北方に進んでいく組であったため、最後には闘技場という場所にまで達してしまったな」
「闘技場? あの場所までは、荷車で半刻ばかりもかかるはずだな」
「うむ。そして賊どもは、一昨日の朝方にトトスと荷車を手放したという話なのであろう? それでそうまで遠方にまで逃げのびたならば、ジェノスの様子をうかがうこともできまい。であれば、シムに逃げ帰っても同じことではなかろうか?」
「ふむ……向かいの荒野なども、もちろん同時に捜索していたのであろうな」
「うむ。そちらは見通しのいい岩場が多いので、余計に面倒が少なかったようだ。そしてそちらにも、賊の痕跡はいっさいなかったと聞いている。少なくとも、荷車で半刻かかる場所まで、賊はひそんでいないということだ」
荷車で半刻ということは、人の足だとその3倍である。人の足で一刻半かかる場所まで、賊の痕跡がいっさい残されていないというのは――確かに、おかしな話であった。
「であれば、宿場町を疑いたいところだが……そちらは、カミュア=ヨシュらが受け持っていたのだったな」
「うむ。あのカミュア=ヨシュが痕跡はないと断じたならば、それは信じることができよう。ダレイムやトゥランに関しては衛兵たちがくまなく捜索したという話であるし、そちらはいっそう隠れる場所もないようだな」
「うむ……それは確かに、うろんな話であるようだ」
「そうであろう? トトスや荷車の一件がなければ、もうシムに逃げ帰ったと断じたいところだ」
そんな風に言ってから、ライエルファム=スドラはふっと表情をやわらげた。
「ともあれ、人間が煙のように消え失せることはなかろうからな。必ずや、どこかに隠れ潜んでいるのだ。明日からは城下町の西側にまで手を広げるという話であったので、俺も惜しみなく力を尽くすつもりだぞ」
「やっぱり明日も、ライエルファム=スドラが出向くのですか?」
「うむ。ギバの痕跡を辿るのは俺がもっとも得手にしているし、弓の腕もチムに次ぐ力量であると自負しているからな」
「弓の腕?」とアイ=ファが反問すると、ライエルファム=スドラは「うむ」とうなずいた。
「そちらには、話が回されていなかったか。弓の得意な狩人には、麻痺の毒というものが仕込まれた矢が配られたのだ。賊を生かしたまま捕らえるための細工だな」
「ああ、シムの毒を頼るという話は聞いていた。それが、森辺の狩人にも配られたのだな」
アイ=ファが難しい顔をすると、ライエルファム=スドラはくしゃっと微笑んだ。
「ギバ狩りで毒を使うのは禁忌だが、森の外ならば問題はあるまい。まさかアイ=ファも、俺の罪を問おうというつもりではあるまい?」
「ライエルファム=スドラを責めるいわれはない。むしろ、毒などを使わなければならない心情を慮っていたのだ」
「俺はべつだん、苦にしておらんぞ。目の前で自害されるよりは、よほど安楽な心地だ。シュミラル=リリンとて、森辺を離れている間は毒の武具を扱うのだろうしな」
そのシュミラル=リリンも護衛役として、俺のそばに控えていたのだ。シュミラル=リリンは「ええ」とやわらかく微笑んだ。
「麻痺の毒、相手、生命、守るための、救済です。……このたび、救済、あたるか、不明ですが」
「うむ。こちらは自害を邪魔立てしようという心づもりなのだから、賊にしてみれば余計な世話であろう。しかし、罪を犯した人間を楽に死なせるいわれはない。賊どもには、生きて罪を贖ってもらおう」
そんな言葉を最後に、ライエルファム=スドラは立ち去っていった。
ライエルファム=スドラは、明日も捜索活動に従事するのだ。その裏で祝宴の準備を進めるというのは、やはり奇妙な心地であったが――かまど番たる俺には、それ以外に為すべき仕事も見当たらなかった。
(まあ、これでポワディーノ王子を足止めすることができて……それがいい結果を招いたなら、俺も少しは貢献できたって思えるのかな)
そんな思いを噛みしめながら、俺はリミ=ルウたちが待ち受けるかまど小屋まで出向くことにした。
そうしてさまざまな変転に満ちた赤の月の16日は、不気味なぐらいの静けさの中で終わりを迎え――俺たちは、時ならぬ祝宴に臨むことになったのだった。




