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異世界料理道  作者: EDA
第七章 母なる森のもとに
146/1702

⑥青の月16日~来訪~

2014.12/27 更新分 1/2

2014.12/28 誤字修正

 そうして俺たちは、大幅に遅延しながらも、屋台の商売を敢行することになった。


 テイ=スンの一件さえなければ、きっと引き返していただろう。やっぱりジェノスの人たちには、気持ちを落ち着ける時間が必要なのだ。


 だが、そうであるからこそ、テイ=スンは一刻も早く捕らえられなければならなかった。

 森辺の民と、宿場町の民の、心の安息のため――そして、彼自身の安息のためにも。


 テイ=スンは、破滅を望んでいるのかもしれない。

 だけど俺は、テイ=スンに破滅してほしいとは思えない。


 もしも死罪さえ免れれば、彼にも新しい生を生きる資格が与えられるかもしれないのだ。

 しかし、このまま逃げ回っていたら、重い手傷を癒すこともできないまま、森に朽ちるだけだろう。


 たとえどんなに小さな可能性でも、やり直せる可能性が残っているならば、あきらめないでほしい。

 偽善に聞こえるかもしれないが、それが俺の本心だった。


             ◇


「まったく西の民というやつはどうにもならんな! 今度という今度は愛想が尽きた! 生まれたてのキミュスであっても、勇敢さで西の民に劣ることはないだろう!」


 バランのおやっさんが、ぷりぷりと怒りながら『ミャームー焼き』を頬張っている。

 アルダスのほうは珍しく『ギバ・バーガー』を口にしながら、「やめておけよ、おやっさん」と、少し元気のない声で言った。


「俺たちが騒げば騒ぐほどアスタの迷惑になるってことは、今日の一件ではっきりわかっただろう。今にして思えば、騒ぎたてる西の連中なんて放っておけば良かったんだ」


「何だと!? それで美味い飯が食えなくなったら、誰が責任を取ると言うのだ! ……だいたい、今日に限って言えば、俺よりもお前のほうがよほどいきりたっていたではないか、アルダスよ?」


「だから反省してるんだよ。どうして俺たちはこうも気が短いんだろうな」


 アルダスは、彼らしくもなく、がっくりと肩を落としてしまっている。


「けっきょくこうして美味い飯にありつけてるんだから、俺たちが騒ぐ必要なんてまったくなかったんだ。最初から城の人間が出てきてくれていれば、あれほどの騒ぎにはならなかったのにな」


「まったくだな! 城の人間などというものは町の人間よりも臆病で怠惰だというのが相場だが、今日のところはほめておいてやろう」


 南の民にしてみれば、それが素直な感想なのだろう。

 だけどそれでは、スン家の人間が擁護されていた図式と大差がない。城の人間がどのような意図で俺たちの商売を許しているのかはわからないが、町の人々にとって今日の裁決は「やっぱり森辺の民は優遇されている」と見なされてしまうはずだ。


「おい、今日も晩餐の仕事を休むことはないだろうな?」


 おやっさんにじろりとにらまれ、「はい、ナウディスからも休まないでほしいと言われています」と俺は応じる。


「うむ。それなら何も文句はない。……この先も何か厄介なことがあったら、おかしな遠慮をせず南の民を頼るのだぞ、アスタ」


「はい、ありがとうございます」


 軽はずみにそのような真似はできないが、おやっさんたちの気遣いは嬉しかった。


 そうしておやっさんたちと入れ替えでやってきたのは、《銀の壺》のメンバーである。


「アスタ、無事、嬉しいです」


 シュミラルは、やはりとても物思わしげな目つきをしていた。

『ミャームー焼き』の作製はシーラ=ルウに一任しつつ、俺は「ありがとうございます」と銅貨を受け取る。


「シュミラルも、さっきのあの場所にいたんですか?」


「はい。だけど、私たち、無力でした」


「いやあ、あれは森辺とジェノスの問題ですから、自分たちで解決していく他ありませんよ」


「……アスタ、森辺の民、東の王国、相応しい、思います」


「え?」


「西の王国、森辺の民、大事しません。同胞、大事しない、おかしいです」


「……だけど、森辺の民もジェノスの民を同胞とは思っていないでしょうからね。それはどちらかの一方が完全に悪い、という話ではないように思えます」


 そんな風に答えると、シュミラルは力なく目を伏せてしまった。


「私、考え、足りていません。恥ずかしいです」


「そ、そんなことはないですよ! シュミラルにそこまで心配していただけて俺は嬉しいです。それは本心です」


 だけど、そうそう簡単に東の王国に移り住むことなどはできないだろう。 ガズラン=ルティムが示唆していた通り、『ギバ狩り』の仕事を放棄してそのような真似に及んだら、今度は本当に西の王国に敵として追われる身になってしまうかもしれない。この世界の出自ではない俺でさえ、それがどれほど危うい行為であるかは、痛いぐらいに理解できる気がした。


「……凶星、去りました。安寧、衰退、どちらなのでしょう。私、心配です」


「そうですね。でも、俺たちも全力を振り絞って、いい方向に運命をねじ曲げたいと思います」


「……安寧、訪れたら、《玄翁亭》主人、話、お願いします」


 そうしてシュミラルも立ち去っていくと、客足はぱったり途絶えてしまった。


 もう中天まで1時間もないのだから、そこそこ人通りは増えてきているのだが、やはり完全に腫れ物扱いの様子である。

 森辺の民を擁護していた西の民も、さすがに屋台に近づくのは自重しているのかもしれない。自分たちが客として近づいたら、また朝方のような騒ぎになってしまうのではないか、と。


「アスタ、お待たせしました」と、そこにリィ=スドラがやってきた。

 テイ=スンと同時に来訪する羽目になってしまったら厄介なので、今日は早めの到着をお願いしたのである。代価は、赤銅貨1枚増しだ。


 いつもの通りに奥方につきそってきたスドラの家長は、陰気な眼差しを街道のほうに向ける。


「何だか今日はいつも以上に空気がざらついているな。町の連中の目つきも気に食わん」


「さすがに昨日の今日ですからね。できるだけ刺激しないほうが賢明だと思います」


「ふん。言われずとも、あのような連中を相手にするつもりはない。どうせあいつらは腰抜けの集まりだ」


 その言葉は、少し俺を気落ちさせた。

 ファの家の商売に賛同してくれた友好的な氏族でも、やはりジェノスの民に対してはそのていどの認識しかないのだ。


 ギバの肉を売れば、豊かな生活を得ることができる。そのために尽力を約束してくれた彼らだが、そこにジェノスの民との相互理解が不可欠である、という意識はまだまだ希薄なのである。


 たぶん、ルウ家の人々だって、そこまで意識が進んでいるわけではないだろう。森辺の民にとっての基本スタンスは、やっぱり「好かれようが嫌われようが、どうでもかまわない」なのだ。


 誇りを持って生きているゆえに、他者の目などは怖れない。どのような評価を下されてもかまわない。自分たちは、自分たちの信ずる道を進めばよい、という――それは森辺の民の最大と言ってもいいぐらいの特性であり、強烈な美点にも強烈な欠点にもなりうるだろう。


 森辺の民の清廉な生き様を、俺はかけがえのないものだと思っている。

 しかし、自分と異なるものを寄せつけず、穢れたものとして排他してしまうその気性こそが、スン家の堕落やジェノスとの不和を招いたのではないか、とも思っている。


 だからこそ、大罪を犯したスン家の人々をただ切り捨てるのではなく、その罪は全員で分かち合うべきと唱えたドンダ=ルウの言葉は、俺にとって意想外であり、そして、新しい時代の訪れを告げる福音のように聞こえたのだった。


(そんな矢先にこの騒ぎだもんな。ザッツ=スンさえ逃がしていなければ――なんて、今さら言っても仕方のないことだけど)


 そんな風に俺が思い悩んでいるうちに、スドラ家もフォーメーションを完成させていた。

 リィ=スドラと1番若い男衆だけが屋台に居残り、残りの3名は雑木林に引っ込む。昨日や一昨日と変わらぬ動きだが、テイ=スンが現れたらどのような形で包囲するか、それはすでに綿密な打ち合わせが為されていた。


 これで準備は万端だ。

 いつテイ=スンが現れても、こちらは即座に対応することができる。


 心配なのは、町の人々である。


 昨日までは5、6名もいた衛兵たちは、北の端に2名ほどその姿が見えているばかりだ。

 通行人はやや少なめだが、それでも朝方に比べれば格段に多い。


 衛兵は少ないに越したことはないが、通行人のほうはどうだろう。

 彼らは、客に扮して近づいてきたテイ=スン――森辺の大罪人が、森辺の民によって捕らえられる姿を目の当たりにすることになるのだ。


 また森辺の民が騒ぎを起こした、と、いっそうの反感を煽られる結果にはならないだろうか? 荒ぶる狩人たちの姿に恐怖してしまう結果にならないだろうか?


 本当にこれが正しいことであるのかどうか――やっぱり俺には、確信が持てない。


「……アスタ」と、そこでアイ=ファに低く呼ばれた。

 振り返ると、屋台と屋台の間に陣取っていたアイ=ファが、北の方角に目を向けている。


 同じ方向に目をやった俺は、思わず息を飲んでしまった。

 朝方に見たばかりの白装束の一団が、北の果てからこちらに向かってきていたのだ。

 北の果て――ジェノスの城の方角から。


(何だよ、城の中に引っ込んだんじゃないのか?)


 朝と同じ人数、10名ほどだ。

 先頭に立つのは、やはり近衛兵団長殿であろう。


 その白き兵団は石の街道を粛々と進み、宿場町に再来した。

 町の北端に控えていた衛兵たちの敬礼を受け、俺たちの屋台には目もくれず、そのまま賑やかな南側へと進軍していく。


 メルフリードの灰色の瞳も、真っ直ぐ正面に据えられたまま、俺たちのほうを見ることはなかった。


「もしかしたら、あやつらもテイ=スンの襲撃を警戒しているのではないか?」


 スドラの若い衆に自分のポジションを預けてから、アイ=ファが俺に近づいて耳打ちしてきた。


「城の人間があのように町を徘徊することは珍しい。これはいささか厄介なことになってきたな」


「ああ、あいつらとテイ=スンが鉢合わせしたら、最悪だな」


 あの爬虫類のような目をした男だったら、町中でもかまわずテイ=スンを斬り伏せるだろう。


 昨日は殺し損なってしまった凶賊を、だ。


「……あの男からは、ルウの長兄にも通ずる気配を感じるな」


「ん? ジザ=ルウとあいつが似てるってのか?」


「そうは思わんか? 掟こそが唯一絶対であると信じる鉄のような意志を感じる」


「うーん、あれに比べたらまだジザ=ルウのほうが人間がましく感じられるけどな」


 だけど、もしもジザ=ルウがあの糸のような目を開いたとき、あそこまで冷徹な瞳が隠されていたら――などと想像してしまうと、悪寒を禁じ得ない。


 近衛兵団長にして、ジェノス領主の第一子息メルフリード。

 またの名を、《双頭の牙》ダバッグのハーン。


 貴族中の貴族が薄汚れた包帯などで顔を隠し、《守護人》なんかに身をやつしていたなんて、笑えないぐらいのお笑い種だ。


 だけど、間違いはないだろう。その雄渾なる体格と、2本の長剣、象牙色の肌――それに加えて、俺とアイ=ファはダバッグのハーンがザッツ=スンに向けて「下衆め」と吐き捨てる声も聞いていた。


 そして、あの爬虫類のように冷たい灰色の瞳である。

 他の人々がどう考えるかはわからなかったが、俺にはあのような目つきをした人間が同じ町に2人も存在するとは考えられなかったのだった。


(まさか、領主の息子までもがカミュアの片棒を担いでいたなんてな。……いや、それとも逆なのかな? あのメルフリードって男が計画を立てて、カミュアがそれに協力した、とか――何にせよ、ぞっとしない話だ)


 何にせよ、これであの商団の一件はカミュアの独断などではなく、城の人間も関与していたということが証しだてられてしまった。


 カミュア=ヨシュは、どこで何をしているのだろう。

 あの、天下御免の大嘘つきは。


(森辺の民は、もう崖っぷちだ。下手をしたら、ジェノスとの縁は最低最悪な形でこじれて、修復不可能になってしまうかもしれない。これはカミュアの本意なのか? それとも、あのおっさんにとっても、これは想定外の事態だったのか?)


 あのすっとぼけた男ともう1度言葉を交わす機会は得られるのだろうか。


 俺はそんなに、あの男が嫌いではなかった。ただ、心の底から信用することができなかったため、距離を置いてつきあうしかなかったのだ。


 しかし、カミュアの森辺の民に対する敬愛の念とやらまでもが嘘っぱちだったとしたら――俺たちは、対立するしかなくなるだろう。


(だけど……カミュアたちが罠にかけなかったら、ミラノ=マスやレイトの無念が晴らされることもなかったかもしれないんだよな……)


 そんな風に考えると、いっそう頭が重くなってしまう。


 願わくば――カミュアは「城」側ではなく「町」側の人間であってほしい。


 そうであれば、たとえ対立の関係に陥っても、俺はカミュアのことを恨んだりはせずに済むと思う。


「アスタ、ぎばばーがーが残り3個だけど、どうするぅ……?」


 と、ヴィナ=ルウがいつもの調子で告げてきた。


「残り3個ですか。意外に早かったですね。中天が近いので、今の内に追加分を作ってしまいましょう」


『ミャームー焼き』の屋台はシーラ=ルウとリィ=スドラにまかせ、俺は『ギバ・バーガー』の屋台に移る。


 それと同時に、背後の雑木林からルド=ルウが近づいてきた。


「あれ? ルド=ルウ、どうし――」


「来たぜ」


 その一言で、十分だった。

 少なくとも、俺以外の人間には。


 ヴィナ=ルウとララ=ルウは無言のまま屋台を離れ、シーラ=ルウたちと合流する。スドラの男衆4名が、『ミャームー焼き』の屋台ごと、その女衆らを取り囲んだ。


 アイ=ファは『ギバ・バーガー』の屋台の前に進み出て、ルド=ルウは俺の左手側から動かない。そして、ラウ=レイとシン=ルウの2名がさらにその左側に足を進めた。


 中天には、まだ数十分の時間がある。

 しかし、来訪してきたのだ――テイ=スンが。


(あれか……)


 茶色いフードつきの皮マントを着た体格のいい男が、機械のように正確な足取りでこちらに近づいてくる。


 シム人のように深々とフードを下ろし、人相はわからない。

 が、その陰からのぞく下顎の皮膚は、漆黒ではなく濃い褐色だった。


 重傷を負っているとは思えない、確かな足取りである。

 これといって通行人に不審がられることもないままに、その男は賑やかな南の通りからやってきて、『ギバ・バーガー』の屋台の前に立った。


 アイ=ファとの距離は、2メートルもない。

 そして、ラウ=レイはアイ=ファの差し向かい、テイ=スンの右手側に立ち、シン=ルウは背後に回り込む。

 俺は2歩ほど後退し、その空いたスペースにルド=ルウが割り込んだ。


 これで、屋台をはさんで立つルド=ルウも含めて、前後左右からテイ=スンを囲む格好になった。

 全員が、小刀の柄に手をかけている。

 1歩踏み込めば、斬りつけられる間合いである。


 テイ=スンは、伏せていた面を上げて、ルド=ルウの肩ごしに俺を見た。

 どろりと濁った、死んだ魚のような瞳で。


「少し早い到着になってしまいました。思いの他、見張りの衛兵が少なかったもので」


「その代わり、城の兵士たちが町を巡回していますよ。いつこちら側に戻ってきてもおかしくないと思います」


「そうですか。……銅貨の持ち合わせはないのですが、あなたの料理を食べさせていただくことは可能ですか?」


「条件がある」と、ルド=ルウのほうが応じた。


「あんたの持ってる刀を渡せ。そうしたら、アスタの料理を食べさせてやるよ。ルウ本家の末弟ルド=ルウの名にかけて誓う」


 そのとき、北の方角から「おい!」と抑制を欠いた声があがった。


「お前たちはさっきから何をやっているのだ!? あまり不審な行動をとるな!」


 北の端に立った衛兵たちである。

 アイ=ファは油断なくテイ=スンをにらみすえたまま、鋭い声でそちらに答えた。


「この男は、大罪人として追われていたスン家の人間だ! そちらに引き渡したいので、準備をお願いしたい!」


「た、大罪人だと!? 馬鹿を抜かすな! 大罪人は刀で斬られて、生きていたとしても身動きもできぬ状態であるはずだろうが!?」


「そのようなことは、私は知らん! 現にこの男はこうして自分の足で立っている! できれば生かしたままジェノスに引き渡したい!」


「……お、応援を呼んでくる! お前たち、絶対に逃がすなよ!?」


 衛兵のひとりが南側の通りに飛んでいき、もうひとりはこちらに近づこうともしないまま立ちすくんでいる。


 そして――道を歩いていた人々もまた、恐怖と惑乱の表情で足を止めてしまっていた。


「さ、どうするんだ? 衛兵がぞろぞろやってくるまで、そんなに時間はかからないと思うぜ? 残された時間をどんな風に使うかは、あんたに決めさせてやるよ」


 ルド=ルウの言葉に、テイ=スンはゆっくり両腕をあげた。

 アイ=ファ、ラウ=レイ、シン=ルウは、狩人の眼光でそれを見守っている。


 テイ=スンは、首もとの留め具を外して、長マントを地面に落とした。

 瞬間――俺は、息を飲む。


 テイ=スンは、渦巻き模様の美しい、森辺の装束を纏っていた。

 しかし、右肩から左脇腹にかけてその衣服は断ち切られており、そして――無残というも愚かしいほどの傷口をのぞかせていたのである。


 フィバッハの蔓草で無茶苦茶に縫い合わされた、巨大な傷口を。


「……あんた、どうしてそんな身体で立っていられるんだ?」


「わたしには、まだ死ぬことが許されていないからです」


 感情の欠落した声で言い、テイ=スンは腰の小刀に手をかける。

 いよいよ鋭さを増す幾対もの眼光に見守られながら、テイ=スンはそれを革鞘に収めたまま、アイ=ファの足もとに落とした。


 アイ=ファは、かかとで、それをスドラの男衆のほうに蹴り飛ばす。

 もはやテイ=スンは丸腰である。

 アイ=ファとラウ=レイとシン=ルウは、さらに1歩、テイ=スンに近づいた。

 もうそれ以上は踏み込む必要はない。小刀を抜いたら、そのまま斬りつけられる距離だ。


「これであなたの料理を食べさせていただけるのでしょうか?」


「……はい」


 ルド=ルウに目で確認してから、俺は屋台の前に足を進めた。

 大きな鉄鍋をはさんで、テイ=スンとの距離は1メートルていど。

 しかし、テイ=スンが妙な動きを見せれば、4名の狩人がすかさず刀を奮うだろう。


 そんな事態にはならないでくれ、と強く祈りながら、俺はポイタンの生地をつかみとった。

 刻んだティノとアリアを乗せて、鉄鍋からすくったパテを、たっぷりとからめたタラパのソースとともに重ね、さらにポイタンの生地で蓋をする。


「お待たせしました」


 俺の手からルド=ルウに、ルド=ルウの手からテイ=スンにと、『ギバ・バーガー』が渡されていく。


 テイ=スンは、何の感情も見せぬままに、ごくあっさりとそれを口にした。


 ファの家は、屋台の商売を起点として、森辺に恵みをもたらし、ジェノスとの縁を正しい方向に導こうと考えている。そのようなことが本当に可能であるか、それをこの身に刻みこんでから、自分は死にたいのだ、と――テイ=スンは、そんな風に言っていた。


 しかし、テイ=スンの様子に変化は見られない。

 ただ事務的に口を動かし、『ギバ・バーガー』を食していく。


 こんなことで、本当に納得がいくのだろうか。

 たったの1回――正確には2回目だが――俺の料理を食べただけで、そのような確信を得られるならば世話はない、と思う。


 そうしてテイ=スンは、あっという間に『ギバ・バーガー』をたいらげてしまった。


 その間に、じわじわと野次馬の数が増えていく。

 衛兵や近衛兵団の姿は、まだ見えない。


「これで満足なのか、あんたは?」


 ルド=ルウの問いに、テイ=スンは「満足です」と、まぶたを閉ざした。


「とても美味でした。ミダ=スンがあれほどまでに執着したのも納得です。そして、西の民までもが銅貨を払って食べたがるというのも、きっと虚言ではないのでしょう」


「満足したなら、そのまま腕を後ろに回してくれ。衛兵に引き渡す前に、手を縛らせてもらう」


「了解しました。だけどわたしは、ファの家のアスタに謝罪の言葉を述べさせてもらわねばなりません。あなたの料理を食べてあなたの力を確信したかったなどと言ってしまいましたが、実はあれは、虚言だったのです」


「え?」


 どきりと、おかしな具合に俺の心臓がはねあがる。

 しかし、テイ=スンは――まぶたを閉ざしたまま、その厳つい顔に柔らかい微笑をひろげ始めた。


「本当は、死ぬ前にもう1度だけ、あなたの料理を食べてみたかっただけなのです。家長会議の夜に食べた料理が、あまりに素晴らしいものであったので……あなたをあざむき、このような面倒をかけてしまったことを、心よりおわびいたします」


「いや、そんな……」と、俺は返事をしようとした。

 しかし、そうすることはかなわなかった。


 俺がほっと息をつきかけた瞬間に、世界が、暗転してしまったのだ。


 何が起きたのかはわからない。


 ただ、「貴様!」というアイ=ファの怒号や、ものの壊れる音、誰かの悲鳴、金属的な硬い音色など、実にさまざまな音がほとんど同時に響きわたり、何か異変が生じたのだ――と、頭で理解したときには、すでに俺の自由は奪われてしまっていた。


 一瞬の暗黒の後、視力が回復すると、そこにはさきほまでとはまったく異なる情景が広がっていた。


 とても穏やかに、満足そうに微笑んでいたテイ=スンの姿はなく、小刀をかまえたアイ=ファの姿が見える。


 ルド=ルウも、ラウ=レイも、シン=ルウもいる。

 みんなの目が、抑えようもない怒りに燃え上がっている。


 ルド=ルウの足もとには、鉄鍋が転がっていた。

 俺たちが使っていた鉄鍋なのだろうか。地面にタラパのソースがぶちまけられてしまっている。


 そして、狩人たちの背後に見えるのは、恐怖に引きつった町の人々の顔、顔、顔――


 西の民ばかりではない。南の民も、東の民もいる。常連さんの姿も見える。視界の左端で泣きべそをかいているのはターラであり、その小さな両肩をおさえつけながら真っ青な顔をしているのは、ドーラの親父さんだ。


 俺はもっとよくその姿を確認したかったが、顔を動かすことができなかった。


 何者かに、背後から咽喉もとをわしづかみにされてしまっていたのだ。


 俺の頚骨など一瞬でへし折ることも可能でありそうな力強い指が、ぎりぎり窒息させないような力加減で、俺の咽喉もとをつかんでいる。


 そして――


 憎悪に狂った男の声が、俺の耳もとで爆発した。


「許されざる裏切り者どもめ! スン家を滅ぼした貴様たちに、最後の報いを与えてやる!」


 それはまるで別人のようにひび割れてしまっていたが、間違いなくテイ=スンの声だった。

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