三日目②~問答~
2014.2/13 更新分 1/1
下りの二の刻の少し前、俺たちは三たび城下町を目指すことになった。
俺とアイ=ファに、15名の狩人と10名の近衛兵。多少の人員は入れ替わっていたが、布陣に変更はない。そして本日も、護衛役の中にはジザ=ルウとガズラン=ルティムとダン=ルティムの姿があった。
道中では、あまり口を開く人間もいない。ダン=ルティムなどは深刻ぶっている様子もなかったが、かといって笑う気分でもないのだろう。多かれ少なかれ、昨晩のガーデルの一件で狩人たちもいっそう気を張っているはずであった。
そうしてギリ・グゥの神殿に到着すると、ジェノスの武官と何台かのトトス車が待ちかまえている。それで俺たちが車を降りると、別の車から思わぬ人々が姿を現した。
「アスタにアイ=ファ、それに森辺のみなさんも、どうもお疲れ様。ご挨拶だけでもさせていただこうと思って、つい参じてしまったわ」
それはトゥラン伯爵家の若き当主、リフレイアであった。
侍女のシフォン=チェルに、従者のサンジュラ、武官のムスル――さらに、アラウトとサイまで同行している。リフレイアは、黄色で綺麗な紋様が描かれた雨具を纏っていた。
「リフレイア……わざわざ駆けつけてくれたのですか?」
「ええ、そうよ。だから、その堅苦しい言葉は引っ込めていただけるかしら?」
と、リフレイアは俺を励ますように、彼女らしい笑顔を覗かせた。
「どうせわたしなんて力にはなれないから、大人しく引っ込んでいようと考えていたのだけれど……昨日の夜の騒ぎを聞いて、居ても立っても居られなくなってしまったのよ。みなさん、どうかアスタをお守りちょうだいね?」
「うむ。この場においても森辺においても、アスタに危険は近づけないと誓おう」
アイ=ファが凛々しい面持ちで応じると、リフレイアは「ありがとう」とまた微笑んだ。
「その頼もしい言葉を聞きたくて、わたしたちはわざわざ足を運んでしまったのよ。ね、アラウト殿?」
「はい。僕もお役に立てないのは、無念な限りですが……アスタ殿と森辺のみなさんの力を信じています。どうかみなさんで力を合わせて、この苦境を乗り越えてください」
「ありがとうございます。でも、俺は森辺の同胞ばかりでなく、こうしてみなさんからもかけがえのない力を与えられていますよ。それを支えに、乗り切ってみせます」
俺がそのように答えると、アラウトもリフレイアも嬉しそうに微笑んでくれた。
「アスタを励ましに来たつもりが、こちらが励まされたような心地だわ。……城下町の貴婦人がたは、いつ『麗風の会』を開けるかとうずうずしているからね。この苦境を乗り越えたあかつきには、またわたしたちに幸せなひとときを授けてちょうだい」
「うん、ありがとう。俺もそのときを楽しみにしているよ」
すると、別の車から別なる面々も姿を現した。
武官に囲まれた、マルスタインとフェルメスである。その姿に、「うむ?」とジザ=ルウが反応した。
「そちらもまだ、車に控えていたのか。……会談の前に、何か内密の話であろうか?」
「察しが早くて助かるよ。実はアスタに、相談があるのだ」
マルスタインは落ち着いた眼差しで、俺を見つめてきた。
「昨晩の、ガーデルが深手を負った件だがね。やはり王子殿下は、自分には関わりのないことだと仰っていた。それが果たして真実であるのか、アスタの口からもうひとたび問い質してほしいのだ」
「何故に、アスタが?」と、アイ=ファが鋭く反問する。
マルスタインは同じ眼差しで、アイ=ファに向きなおった。
「わたしやフェルメス殿は、すでに朝方に問い質しているからさ。しかし、王子殿下は動揺する気配すらなかった。……まあ、間に『王子の口』を介しているから、王子殿下の内心をうかがうことはきわめて難しいのだがね」
「ええ。それに、僕たちはどうしても駆け引きというものを考えてしまいます。あまり強硬的な物言いをすると、アスタとの会談の場から締め出されてしまう恐れもありますし……そこで、アスタのお力をお借りしたいのです」
フェルメスも優美に微笑みながら、言葉を添えた。
「何も言葉を取りつくろう必要はありません。あくまでアスタの視点から、王子殿下に疑念をぶつけていただきたいのです。危ういものを感じたら僕たちが割り込みますので、それまでは好きにお語らいください」
「ならば、私もアスタとともに――」
と、アイ=ファが口をはさみかけると、フェルメスは「いえ」と首を横に振った。
「アイ=ファも我々と同様に、不興を買うと会談の場から締め出される恐れがあります。あの場で自由に語れるのは、締め出されようのないアスタだけであるのですよ」
「……わかりました。感情的にならないように気をつけながら、自分なりに語ってみようと思います」
俺の返答に、フェルメスは「ええ」と眩しげに目を細めた。
「アスタはとても理性的ですけれど、その内には森辺の民に相応しい熱情をひそめていますからね。その熱情で、王子殿下を揺さぶってほしいのですよ」
「うむ。さすれば、我々にもつけいる隙を見いだせるやもしれん。決して危険な事態には陥らないように我々が配慮するので、どうかよろしく願いたい」
そんな密談を経て、ついに俺たちは三度目の会談に臨むことになった。
アイ=ファはいくぶん不服そうな面持ちであったが、俺は奮起するばかりだ。これまでの会談では、俺もほとんど発言の機会がなかったし――昨晩の一件と宿場町での騒ぎによって、俺の内にはやるかたない熱情がわきおこっていたのである。それをそのままポワディーノ王子にぶつけることは許されまいが、何か打開の糸口をつかみたいところであった。
リフレイアたちに別れを告げて、ジザ=ルウたちに付き添われながら、石段をのぼって扉をくぐる。扉の前にもその内側にも、そして回廊の至るところにも、フードつきマントと不気味な面布で正体を隠した武官たちの変わらぬ姿があった。
これまでよりも遠慮のない視線でそれらの姿を検分した俺は、ひとつの発見をする。警護を担う武官たちも、面布の紋様は2種に分かれていたのだ。おおよその武官は同じ紋様であったので、そちらが『王子の盾』なのではないかと思われた。
(昨晩の賊が、ポワディーノ王子の配下であったとして……それはやっぱり、諜報部隊の『王子の耳』なのかな。それとも武官の、『王子の剣』なのかな)
そのように考えかけた俺は、雑念を打ち払う。どれだけあやしい状況であろうとも、まだポワディーノ王子の配下が犯人だと決まったわけではないのだ。証拠もなしに犯人を決めつけるのは、森辺の流儀ではないはずであった。
そうして2枚目の扉をくぐった俺たちは、薄暗い大広間に足を踏み入れる。
そちらにも大勢の武官が立ち並んでおり、帳の前に控えるのはやはり6名のみであった。
「大儀である。今日こそ、この不毛な問答を終わらせたく願っている」
まずは『王子の口』から、そのように語られる。
俺は昨日までのフェルメスたちを見習って、「恐れながら」と声をあげた。
「ぶしつけに声をあげることを、お許しください。まずは、昨晩の一件についてお聞かせ願いたく思います。昨晩、森辺の集落に現れた賊について、王子殿下は何の心当たりもないのでしょうか?」
さっそく長きの沈黙が流れて、その奥底に獣の不機嫌そうなうなり声が響いた。
「アスタまでもが非礼な物言いをするのは、きわめて遺憾に思う。其方も我が、そのような賊をけしかけたと疑っているのであろうか?」
「いえ。決して王子殿下の手によるものと決めつけているわけではありません。しかし、この時期に東の毒を使う賊が集落に忍び込むというのは、決して偶然ではありえないでしょう。ですから、王子殿下に何か心当たりはおありでないか、うかがいたいのです」
「……つまり、我を疑っているわけであるな」
澄みわたった声で、『王子の口』はそう言った。
「しかし、我々が城門を出ていないことは、明白である。なおかつ我々は、アスタが集落のどの家に住まっているかもわきまえていない。さらに言うならば……そのような賊をけしかけて、いったい何になるというのであろうか? まさか、我が力ずくでアスタを連れ去ろうとでも? そのような真似が許されるのであれば、このような問答も無用であろう」
「はい。ですからこちらも、不思議に思っているのです。それに……昨晩は、宿場町でも常ならぬ事態が起きていました。自分たちが懇意にしている宿屋の扉に、東の文字で『罪』と書かれていたのです」
『王子の口』は帳に耳を寄せたまま、動かない。
それをいいことに、俺はさらに言いつのった。
「自分が過ごしていた集落に賊が忍び入り、それを追いかけた客人が東の毒で倒れました。そして同じ頃、宿場町ではそのように非道な真似がされていたのです。これはまるで、王子殿下の申し出を拒んだ自分に脅しをかけているかのようではありませんか?」
「……やはり、我を疑っているわけであるな」
「いえ。重ねて言いますが、証拠もなしに王子殿下を犯人呼ばわりする気持ちは毛頭ありません。ですが、まったく無関係であるとは考え難いのです。それに自分たちは、王子殿下を始めとする王都のご一行について、何も知らないのに等しいのです。ですから、無礼を承知で声をあげずにはいられないのです」
そこで俺は、胸に秘めていた仮説のひとつを口にすることにした。
「たとえば……王子殿下からのありがたい申し出を無下にした自分に怒りを覚えた臣下のどなたかが、独断でこのような真似に及んだという可能性はないでしょうか? 王子殿下に絶対の忠誠を誓っておられるなら、そういう怒りにとらわれても不思議はないように思うのですが」
「論外である。この旅に同行させたのは、すべて我の直属部隊たる『王子の分かれ身』である。この者たちが、我の意向もうかがわずに動くことはありえない」
「自分たちには、それを信じる根拠がありません。それは絶対に信頼の置ける話なのでしょうか?」
「くどい。この者たちは、我が身の一部も同然である。そのために、顔と名前を捨てたのである」
「……顔と名前を捨てた? とは、どういう意味でしょう?」
「言葉のままの意味である。……いま語っているその者は、『王子の口』の一番である。そちらに控えているのは、『王子の眼』の右、『王子の耳』の左、『王子の口』の二番、『王子の腕』の一番と三番である。その者たちは我の分かれ身として働くために、顔と名前を捨てたのである」
思わぬ言葉を聞かされて、俺は口をつぐむことになった。
その間に、『王子の口』の一番たる女性は新たな言葉を授かって、それを口にする。
「そちらに並ぶ『王子の剣』や『王子の盾』も、それは同様である。剣や盾が勝手に動いて、敵と戦うことはあるまい? 『王子の盾』は我を守るためだけに戦い、『王子の剣』は我の命じた敵だけを斬り伏せる。それらの者どもが勝手に動くというのは、我の手足が意思と関わりなく動くのと同義である」
「そう……ですか。でしたら、先刻の言葉は取り消させていただきます。臣下の方々にあらぬ疑いをかけてしまったことを、心よりお詫びします」
俺はそのように答えたが、『王子の口』が動く前にさらに言いつのった。
「ですが、それでは謎が深まるばかりです。いったい誰が、このように悪辣な真似に及んだのでしょう?」
「それは、我と関わりのない話である。そのような話は脇に置いて、其方との問答を始めたく思う」
「それはつまり、自分のことも道具としてしか見ていないということでしょうか? それでは、自分の心は王子殿下から離れるいっぽうです」
マルスタインとフェルメスを信じて、俺は好きに語ってみせた。
「大恩あるルウ家に襲撃者を呼び込んでしまったことも、大切な客人であるガーデルが深手を負ってしまったことも、これまでさんざんお世話になってきた宿屋の方々にご迷惑をかけてしまったことも、自分には決して看過できません。そして、王子殿下がそれを取るに足らない些末な雑事であるとお考えなのでしたら……もはや、問答する余地もありません。自分はこのように悪辣な真似に及んだ犯人を捕まえるために、すべての力を傾けたく思います」
帳の向こうにひそむ獣が、雷鳴のような咆哮を轟かせた。
しかし俺も、怯みはしない。頭の中身は冷静であったが、胸の奥は熱く燃えていた。
「自分は市井で過ごす、しがないかまど番です。自分にとっては、身近な人々を見舞った奇禍が、何より重要な話であるのです。それを二の次にして別の話に興じる器量は持ち合わせていません」
「……では其方は、我が臣下として召し抱えたいという申し出を、取るに足らない些末な話と切り捨てるつもりであろうか?」
「それよりも先に、解決するべき問題があると言っています。……非礼は承知ですが、王子殿下を疑う気持ちも皆無ではないのです。もしも王子殿下がこのような真似に及ぶお人であったなら、どのみち問答は無用です」
「……それはシムの第七王子たる我に対しての、許されざるべき誹謗である」
「ですがこちらには、王子殿下を心から信頼するための材料がないのです。このような疑いを抱いたまま、話を進めることはできません」
すると、『王子の眼』がついに「恐れ多きことながら」と声をあげた。
「『王子の眼』がこの眼で見たものを王子殿下にお伝えしたく願います」
『王子の口』が「許す」と応じて、密談が開始される。
その間に、俺はこちらの陣営の様子をうかがってみた。
アイ=ファは変わらぬ凛々しさで、帳のほうを見据えている。
マルスタインは穏やかな表情、フェルメスは優美な表情で、やはり変わるところはない。しかし誰もが、食い入るように王子たちの動向を見守っていた。
「……では、我もその悪辣なる人間を捕縛するために力を尽くすと約束しよう」
やがて『王子の口』が、そのように発言した。
「しかしその前に、アスタを臣下として迎えたく思う。森辺の民の血筋についてはまだ確証を得られていないので、まずはアイ=ファとともに西の民のまま臣下として迎えよう」
長々と密談して、そんな言葉しかひねり出せないのだろうか。
こちらを怒らせようとしているのかと、思わず疑いたくなるところであった。
「いえ。2日前から申し上げています通り、自分はジェノスの領民として生を全うしたいと願っています。そのお申し出を受けるわけにはまいりません」
「しかし其方は、こちらがどのような条件で迎え入れようとしているかも耳にしていない。それでは、正しき決断を下すこともできまい」
「いえ。たとえどれだけの銀貨を積まれても、どれだけの栄誉が与えられようとも、自分の気持ちに変わりはありません。自分は森辺の民、ジェノスの民として生きながら、西と東の架け橋になれるように尽力したいと願っています。そのためにも、現在ジェノスを見舞っている奇禍を解決しなければなりません」
ここで俺は、宿場町における東と南の対立について語るつもりであった。
それが、おかしな音色によってさえぎられる。それは法螺貝を思わせる重々しい音色で、背後の扉の向こう側から聞こえてきた。
アイ=ファは一気に緊張して、俺のもとに身を寄せてくる。
それもそのはずで、大広間を取り囲む武官たちの半数ていどが、王子殿下のおわす帳の周囲に駆けつけたのだ。そして残りの半数は、回廊につながる扉のほうに殺到したのだった。
何か、異常事態が起きたのだ。
俺は息を詰めながら、扉に押し寄せた武官たちの背中を見守り――そして、その扉が開かれるのを見た。
「会談の最中に、失礼いたしますぞ! どうか我々とも、言葉を交わしていただきたい!」
武官たちが密集しているため、扉の向こう側は見えない。
しかしそこから響きわたったのは、まぎれもなくダカルマス殿下の蛮声であった。
「……我は何者の入室も許した覚えはない。即刻、退室させよ」
『王子の口』がそのように告げると、ダカルマス殿下は勇壮なる笑い声を響かせた。
「しかしそれでわたしの身に毛ひとすじの手傷でも負わせたならば、大変な騒ぎになってしまいましょうな! 西の地において南と東の民が諍いを起こすことは、大きな禁忌であるのです! 東の王子が南の王子を傷つけたとあっては、なおさらですな!」
「南の王子? ……其方はジャガルの第六王子、ダカルマスであろうか?」
「おお! わたしの名をご存じでしたか! それは光栄なことでありますな!」
呆然とする俺の耳に、ダカルマス殿下の声が朗々と響きわたる。
そしてついには武官の人垣が割れて、ダカルマス殿下の姿があらわにされた。
ダカルマス殿下は、たったふたりの武官しか連れていない。その片方は戦士長のフォルタであり、厳つい顔と巨体から鬼のような気迫があらわにされていた。
もう片方の武官は身長160センチていどの小兵であるが、フォルタに負けないぐらい殺気だっている。ただし、フォルタもそちらの武官も簡易的な甲冑を纏っているのみで、腰には何もさげていなかった。
たちまち東の武官たちが進路をふさごうとしたが、ダカルマス殿下たちが歩を止めないために、けっきょく引き下がってしまう。主君の命令もなしに、南の王子に手を触れてはならないと判じている様子であった。
ただ――帳を固めた武官たちのほうが、俺には不気味に感じられてしまう。
そちらも面布をかぶっているので内心はうかがえないが、何かちりちりとした物騒な気配を発散しているように思えてならないのである。そしてそちらの一団でもっとも外側に陣取っている面々は、みんな同じ紋様の面布を垂らしていた。
(……あの外側に陣取っているのが、きっと『王子の剣』なんだ)
さきほどポワディーノ王子は、『王子の盾』が王子を守るために戦い、『王子の剣』が王子の命令で敵を討つと語っていた。だから彼らは、王子の命令を待っているのではないかと思われた。
「それではあらためて、名乗りをあげさせていただきましょう! すでにお察しの通り、わたしはジャガルの第六王子ダカルマスと申します!」
ダカルマス殿下は俺たちの真横に立ち並んで、そんな声を響かせた。
「まず最初に宣誓いたしますが、わたしは禁忌を破って諍いを起こすつもりはありません! ですからそちらの方々も、わたしたちに手をかけることができなかったのでしょう! その理性的な振る舞いには、心よりの敬意を捧げますぞ!」
「……ジャガルの王子がこのような真似に及ぶとは、あまりに常軌を逸していよう。其方は、どういった心づもりであろうか?」
『王子の口』がそのように告げると、ダカルマス殿下は「ふふふ」と笑った。その笑顔は、大きな戦に臨む将軍のような雄々しさである。
「わたしの思いは、ただひとつ! アスタ殿を筆頭とするジェノスの方々に安息をもたらすことです! 西と南は友でありますし、アスタ殿とはひとかたならぬご縁を紡がせていただきましたからな!」
「……我には、関わりなき話である。即刻、退室を要求する」
「では、本日の会談はここまでということでありましょうかな? であれば、アスタ殿らとともに退室いたしましょう!」
「……アスタは、我との対話のさなかである」
「であれば、わたしも会談に加わらせていただきたい! 東と南は決して友となりえない間柄でありますが、ここは友たる西の方々をお救いするために手を携えるべきでありましょう!」
ダカルマス殿下の豪放な物言いに、ポワディーノ王子は長きの沈黙を守った。
「どうなさいました? ご返答は如何に?」
「……其方の言葉は、理解し難い。何故に仇敵たる我々が、手を携えなければならないのであろうか?」
「ですからそれは、ジェノスを覆う暗雲を晴らすためでありますな! たとえ雨季であろうとも、このような暗雲を見過ごすことはできますまい!」
そのように言ってから、ダカルマス殿下は炯々と光るエメラルドグリーンの目で俺を見下ろしてきた。
「もしや、宿場町の騒動については、まだ取り沙汰されていなかったのでありましょうかな?」
「え? あ、はい……ちょうどこれから語ろうとしていたところであったのですが……」
「であれば、わたしから語らせていただきましょう! 森辺の方々が懇意にされている宿屋の方々にまで奇禍が及び、宿場町には大変な騒ぎが巻き起こってしまっているのです!」
ダカルマス殿下の声は、まるで砲弾のように大広間の冷えびえとした空気を打ち砕いた。
「それもひとえに、南の旅人が常宿とする《南の大樹亭》に奇禍が及んだためでありましょう! 宿の顔たる入り口の扉に東の文字で『罪』などと書き記されては、我がジャガルの領民たちも黙ってはおられますまい! 宿場町においては南と東の民が対立し、いつ諍いを起こしてもおかしくはない緊迫した空気が蔓延しているとのことでありますぞ!」
ダカルマス殿下もまた市井の情報を集める何某かの部隊を備えているので、そんな話を早々に聞きつけることになったのだろう。
しかし、それに対する『王子の口』の声に変わりはなかった。
「それもまた、我には関わりのなき話である。東の民も南の民も、おのれの良識のもとに王国の法を守るべきであろう」
「そう! それが、領民のつとめでありますな! そして、領民を統べる我々には、その原因を究明して排除する責務が存在するということです!」
と、ダカルマス殿下はその双眸をいっそう強烈に輝かせた。
「森辺に侵入した者と、宿場町で悪さをした者! その犯人を捕らえて、すべての罪を白日のもとにさらさなければなりますまい! あなたとて無関係ではありませんぞ、シムの第七王子殿!」
「……我には、関わりなき話である」
「いやいや! それでは、道理が通りますまい! 王家に生まれついた我々には、最初から大きな責務が背負わされているのです! 我々はただ存在するだけで、周囲に大きな影響を与えてしまうのですからな! そのような身で異国に足を踏み入れたからには、知らぬ存ぜぬは通用しませんぞ!」
ダカルマス殿下は、満面に笑みをたたえた。
食事の場で見せる、いつもの無邪気な笑顔ではない。ドンダ=ルウにも匹敵するような、迫力のある笑顔である。
「あなたがジェノスに押しかけて2日目の夜に、このような凶事が勃発いたしました! かたやシムの毒が使われ、かたやシムの文字が使われたのですから、これは確実にシムがらみの案件でありましょう! どのような形であるかは不明でありますが、あなたの存在がこれらの事件を招いたことは、火を見るよりも明らかであります!」
「……其方もまた、我にあらぬ疑いをかけるわけであるな」
「それがあらぬ疑いであるならば、疑いを晴らす必要があるということです! それを面倒と判ずるのでしたら、即刻ジェノスを出ていかれるがよろしい! 後の始末は、我々が承りましょう!」
そう言って、ダカルマス殿下はまた俺のことを見下ろしてきた。
笑顔の勇猛さに変わりはないが、ただ瞳にはダカルマス殿下らしい明るさも宿されている。
「さしあたって、本日からは我がジャガルの精鋭部隊もアスタ殿の警護に加わらせていただきますぞ!」
「ええ? そ、それはどういうお話ですか?」
「東の賊が西の地において南の王子の配下を傷つけたならば、天下の一大事ということです! これ以上に強固な盾は、なかなか他に存在しないことでしょう! ティカトラス殿のように即断できなかった柔弱さを、どうかご容赦ください!」
そうしてダカルマス殿下は、また大勢の武官に取り囲まれた帳のほうに向きなおった。
「あなたも、そのように思し召しください! まあ、ジャガルの精鋭部隊がむざむざとシムの毒に倒れることはありえませんでしょうがな!」
「……甲冑を纏った鈍重な姿で、東の賊を追うことなどは決してかなうまいな」
『王子の口』は、澄みわたった声音でそのように告げた。
「ともあれ、我はきわめて不愉快である。このような心地のまま、アスタとの問答を進めることはかなわぬ。アスタともども、さっさと立ち去るがいい」
「では、そのようにさせていただきましょう! さあ、アスタ殿、まいりますぞ!」
「いや、だけど……」と俺が言いかけると、すかさずマルスタインが囁きかけてきた。
「ここは素直に退くとしよう。ポワディーノ殿下の心を揺さぶるという命題は、これ以上もなく果たされたであろうからな」
そのように語るマルスタインは、いつも通りのゆったりとした笑顔であった。
こんな状況で笑っていられるというのは、大した心臓である。そしてアイ=ファも俺を急き立てるように、背中を小突いてきた。
かくして、ポワディーノ王子との3度目の会談は、思わぬ形で幕を閉じることに相成ったのだった。




