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異世界料理道  作者: EDA
第八十四章 藍の鷹の事変(前)
1454/1686

三日目①~朝~

2024,2/12 更新分 1/1

・今回は全7話の予定です。

「まさか本当に、賊が侵入してくるとはねぇ」


 赤の月の13日――ポワディーノ王子の一行がジェノスにやってきて、3日目である。

 その朝方、あくびまじりにそんな言葉をもらしたのはティカトラスであった。


 ここは俺やアイ=ファがお世話になっているルウの集落の空き家で、ティカトラスとデギオンとヴィケッツォの3名が土間に立ち並んでいる。ブレイブとラムと3頭の子犬たちは広間の端にあげられており、土間でくつろぐのはギルルとジルベとドゥルムアのみであったので、かろうじてティカトラスたちが立ち並ぶスペースが確保されていた。


 それと相対するのは、俺とアイ=ファとガズラン=ルティムの3名である。本日も、この顔ぶれが早起きすることになったのだ。他なる護衛役の面々は、広間の奥で安らかな寝息をたてていた。


「それで、ガーデルが死ぬような目にあってしまったんだって? とりあえず、魂を返すことにはならなかったのかな?」


「ええ。なんとか一命は取り留めたようですが……でも、しばらくは絶対安静だそうです」


 俺が力なく答えると、アイ=ファが横から肩を小突いてきた。


「ガーデルは他なる者たちの言葉にも耳を貸さず、賊を追ってしまったのだ。お前が責任を感じる必要はない」


「うん。でもガーデルだって、俺のために集まってくれたわけだから……」


「でも、夜の暗がりで東の賊を追いかけるなんて、あまりに無謀だよ。それはやっぱり、自業自得というものさ」


 ティカトラスは呑気たらしく言ってから、土間でくつろぐジルベの姿を見下ろした。


「ところで、昨晩はなかなかの騒ぎであったけれど、こちらの獅子犬の声は聞こえなかったようだね。彼が護衛犬として活躍できるように、アイ=ファはこのようなものをわたしたちに配ったのだろう?」


 と、ティカトラスは懐からグリギの実の腕飾りを引っ張り出した。ジルベはもともとグリギの実の香りがしない人間を警戒するようにしつけてあったため、集落に泊まり込む客人や近衛兵たちにも同じものを配っていたのだ。


「うむ。しかし賊は、集落に足を踏み入れる前に逃げ去ったようであるからな。しかも気配を殺していたというのなら、家にこもっていたジルベや我々にも察知することはできない」


「なるほどなるほど。しかし、獅子犬というのはこれほど巨大な身体でありながら、なかなかの俊敏さであるからねぇ。彼が賊を追いかけていたならば、きっと逃がすこともなかっただろう。そんな優秀な護衛犬を家に閉じ込めておくというのは、いささかならず惜しい話なのではないかな?」


 ティカトラスの言葉に、アイ=ファは険しく眉を寄せた。


「それはジルベであれば闇の中でも賊に追いつくことがかなおうが、毒の吹き矢から身を守るすべがない。そんな危険な真似を、ジルベにさせられるわけがなかろう」


「いやいや。それも獅子犬の使い方しだいなんじゃないのかな」


 ティカトラスは眠そうに目を細めたまま、にんまりと笑った。


「それじゃあ、わたしが段取りを整えようじゃないか。わたしの屋敷にも護衛犬を置いているから、扱いには手馴れているのだよ」


「……よもや、ジルベに危険な役目を負わせようという心づもりではなかろうな?」


 アイ=ファが怖い顔をすると、ヴィケッツォがすぐさまティカトラスを庇おうとする。その肩越しに、ティカトラスは「いやいや」と手を振った。


「わたしは一刻も早く、みんなに安楽な生活をもたらしたいだけだよ。そのためには、まず凶悪な賊を捕縛するのが最大の近道だろうからね。……君だって、大切なアイ=ファたちのお役に立てたら嬉しいだろう?」


 ティカトラスの気安い呼びかけに、ジルベは「わふっ」と元気に答える。そのふさふさの尻尾は、何かを期待するように大きく振られていた。


「では、昼の間に支度を整えておくとしよう。何も心配はいらないから、アイ=ファたちは大船に乗ったつもりでいてくれたまえ」


 そうしてティカトラスたちは退室し、アイ=ファは深々と溜息をついた。


「どうしてあやつは、ああも気ままなのであろうか……あやつにどのような話を持ちかけられても、うかうかと乗るのではないぞ?」


 アイ=ファが優しくたてがみを撫でると、ジルベは甘えるように「くうん」と鳴いた。

 そのタイミングで、背後から「おはようございます」という声が届けられてくる。声の主は、シュミラル=リリンである。彼は毒の吹き矢に倒れたガーデルに付き添って城下町まで出向いていたが、夜が明ける前にドンダ=ルウとともに帰ってきたのだ。


「おはようございます。シュミラル=リリンは睡眠を削って働いていたのですから、どうぞゆっくりしていてください」


「いえ。休息の期間、明けたばかりですので、力、余っています」


 シュミラル=リリンはゆったりと身を起こして、こちらに近づいてきた。背中まで届く白銀の髪を結っておらず、ほんの少しけだるげな表情であるためか、何だか無性に色っぽい。


「昨晩は本当にお疲れ様でした。相手が東の民であれば、シュミラル=リリンの見識を頼らせていただく場面もあるかと考えていたのですが……このような形で頼ることになろうとは、私も考えていませんでした」


 ガズラン=ルティムの言葉に、シュミラル=リリンは「はい」とうなずいた。


「私、驚き、同様です。昨晩、使われた毒、巨大な獣、仕留めるため、調合されたものです。ガーデル、あれほど、身体、大きくなければ、毒消し、間に合わず、その場、魂、返していた、思います」


「こちらにはティカトラスやジェノスの兵士が居揃っていたのに、それほど強い毒が使われるとは……これはまったく、尋常な事態ではないはずです」


 と、ガズラン=ルティムの双眸に猛禽類を思わせる鋭い輝きが一瞬だけ閃いた。


「こちらはこれまで以上に、用心するべきでしょう。アスタもどうか、お気をつけください」


「はい。だけど……俺は本当に、これまで通り過ごしていていいのでしょうか?」


「事ここに至っては、何が最善かも判断は難しいように思います。ルウの集落にこもろうとも、城下町にこもろうとも……相手の思惑が知れないのでは、身のつつしみようがありません」


 そう言って、ガズラン=ルティムはゆったりと力強く笑ってくれた。


「そして、我々が志を曲げる理由はないはずです。アスタはこれまで通り仕事に励み、森辺の狩人がアスタの身を守る。私は、それが最善なのではないかと考えています」


「うむ。用心するべきは、夜のみだ。たとえ雨季であろうとも、日の高い内に毒の吹き矢などをくらう我々ではない」


 アイ=ファもまた、燃えるような眼差しを俺に向けてきた。

 それで俺は、委縮しかけていた気持ちに喝を入れる。そうすると、苦境に対する対抗心というものがむくむくとわきおこってきた。


(まだ今回の犯人がポワディーノ王子と決まったわけじゃない。でも、最大限に用心して……なんとしてでも、平和な日常を取り戻すんだ)


 そうして俺たちは、今日という日に立ち向かうことに相成ったのだった。


               ◇


 その後、ファの家に移動して屋台の下ごしらえに励んでいると、また昨日と同じぐらいの刻限に城下町からの使者がやってきた。その内容もおおよそ昨日と同様で、これまでと同じ刻限にギリ・グゥの神殿まで足を運ぶべしとのことである。


「あちらはやはり、知らぬ存ぜぬで通すつもりのようですね。まあ、昨日の賊がポワディーノの配下と決まったわけではありませんが」


 ガズラン=ルティムも慎重な口ぶりで、そう言っていた。

 昨晩はドンダ=ルウが自ら注進に及び、ルウの集落で起きたことを余すところなくマルスタインに伝えた。それでも深夜にポワディーノ王子を叩き起こすことはできなかったので、朝一番で事情をうかがうという話であったのだが――その結果が、これであった。


「……事情はよくわからないが、アスタ殿に難がなかったことを心より喜ばしく思う、とのことです」


 と、使者の武官は最後にそんな言葉を付け加えていた。

 これでポワディーノ王子が黒幕であったのなら、まったくもって許し難い物言いであるが――とはいえ、それ以外にこのような真似をする人間の心当たりもなかった。


(たまたまこんな時期に、別の勢力がルウの集落を襲撃するとは思えないし……やっぱり、様子を探りに来たポワディーノ王子の配下がうっかり荒事に及んだっていうのが、一番ありえそうな話だよな)


 それで彼らは護身用に強い毒の武器を保持していたため、やむなくそれをガーデルに使ってしまった――というのが、最大限に好意的に考えた可能性である。まさか最初から、護衛役の人間を殺害して俺の身を奪おうとしていたなどとは、考え難いところであった。


(交渉の2日目でそんな真似に及ぶとしたら、もう問題外だ。なんとかポワディーノ王子の本性ってものを突き止めたいところだな)


 しかしあちらは姿さえ見せようとしないので、それも難しい話である。

 ここはやっぱりティカトラスの言う通り、賊を捕らえるのが一番の近道であるのかもしれなかった。


 そうして俺たちはこれまで以上に気を張りながら、宿場町に下りたわけであるが――そちらにも、許されざるべき事件が起きていた。

 30名の狩人と10名の兵士に警護されながら、まずは屋台を借り受けるために《キミュスの尻尾亭》を目指す。するとそちらでは、雨具をかぶったミラノ=マスが入り口の扉の清掃作業に励んでいたのだった。


「あれ? ミラノ=マス、いったいどうされたのですか?」


 俺がそのように呼びかけると、ミラノ=マスは身体ごとこちらに向きなおり、汚れた扉を背中で隠してしまった。


「何でもない。倉庫の鍵はレビに預けているので、とっとと屋台を持っていけ。行きがけに、鍵は俺に渡すのだぞ」


「はあ……それで、そちらの扉はどうしたのです?」


「汚れていたから、掃除していただけだ。扉というのは、宿屋の顔だからな」


 しかし、このような雨のさなかに屋外で掃除というのは、あまり普通の話ではないだろう。嫌な予感にとらわれた俺がじっと見つめ返すと、ミラノ=マスは観念した様子で溜息をついた。


「お前さんが気にかける必要はないというのに……まったく、強情なやつだ」


 ミラノ=マスが身体をずらして、汚れた扉をあらわにした。

 両開きの、大きな扉である。そのど真ん中に、白い塗料で奇怪な紋様のようなものがでかでかと書き殴られていた。


「これは……東の文字だな。森辺の門で、同じものを見た覚えがある」


 と、アイ=ファが鋭い声音でそのように言い放った。森辺に切り開かれた街道から集落に通ずる門には、森辺の集落に関する注意事項が西と東の文字で書き記されているのだ。


「しかし、意味まではわからん。……シュミラル=リリン、ちょっといいだろうか?」


「はい」と、シュミラル=リリンが進み出てきた。本日は、シュミラル=リリンも護衛役として同行していたのだ。

 半分がた消えかかったそちらの文字を見やったシュミラル=リリンは、どこか切なげにも思える様子で目を伏せた。


「そちら……東の文字、『罪』、書かれています」


「『罪』……『罪』か」


 アイ=ファがいよいよ眼光を燃えさからせると、ミラノ=マスが仏頂面で声をあげた。


「こんな嫌がらせは、珍しいことでもない。いいからお前さんがたは、さっさと商売を始めるがいい」


「でも、ミラノ=マス……」


「この話は、もう衛兵どもにも伝えている。俺たちにできるのは、それだけだ。……それともまさか、俺の宿と縁を切ろうなどと言い出すつもりではなかろうな?」


 ミラノ=マスは怖い顔をして、俺の胸もとを小突いてきた。


「だったら、3年前と同じ問答が繰り返されるだけだぞ。お前さんもずいぶん年をくったんだから、少しは成長したところを見せろ」


 3年前――ザッツ=スンがカミュア=ヨシュたちの手によって捕縛された際、大勢の人々が森辺の民に屋台を貸すなと《キミュスの尻尾亭》に押しかけたことがあったのだ。さらにその後には、森辺の民を擁護する人間と非難する人間で、とてつもない騒乱が起きかけたのだった。


 今回は、そのような騒乱が起きたわけではない。

 ただ――何者かが、俺とその周辺の人々に悪意を向けているのだ。

 俺は歯を食いしばりながら、「はい」とうなずいてみせた。


「でも、どうかミラノ=マスもお気をつけて……ミラノ=マスに何かあったら、俺はみんなに顔向けできません」


「ふん。お前さんに心配されるほど、俺は老いぼれておらんぞ。おかしな人間が現れたら、薪で頭を叩き割ってくれるわ」


 俺はミラノ=マスに深く頭を下げて、裏の倉庫へと足を向けた。

 そちらでは、レビとラーズが待ち受けている。昨日は心配げな顔であったレビが、今日は怒りの形相であった。


「よう。あの落書きは、もう見たよな? まったく、ふざけた真似をしてくれるもんだぜ」


「うん。ごめん。レビたちにも、なんて言ったらいいのか――」


「アスタが詫びるような話じゃねえだろ! 俺は、あんな悪さをした連中に腹を立ててるんだよ!」


「でけえ声を出すなよ」と、ラーズがレビをたしなめた。

 レビは「くそっ!」と頭をかきむしってから、強い眼差しを俺に向けてくる。


「アスタ。こんなふざけた連中の言いなりになるんじゃねえぞ? 宿と家族を守るのは、俺の役割だからな。お前もしっかり、自分の役割を果たしてくれ」


「うん、わかったよ。レビも、くれぐれも気をつけて」


 そうして俺たちが屋台を押しながら、《南の大樹亭》に立ち寄ると――そちらには、さらなる騒ぎが巻き起こっていた。やはり扉に忌まわしい落書きが施されており、南の民と衛兵たちがそれを取り囲んでいたのである。


「こんなふざけた真似が、許されるか! とっとと犯人を捕まえろ!」


「そうだ! 東の王子だろうが何だろうが、罪人は罪人だろうが?」


「さ、騒ぐな! これが王子殿下の仕業であるという証拠はあるまい?」


「だったら他に、誰がこんな真似をするというのだ? どうせそいつはアスタの身柄が欲しいばっかりに、懇意にしている宿に嫌がらせをしているのであろうが?」


《南の大樹亭》は南の民の常宿であるために、その宿泊客たちが激怒してしまったのだ。それを諫めるために、衛兵たちが参じたようだった。


「ああ、みなさん。どうぞこちらのことは気にせず、屋台を運んでください」


 こちらに気づいたナウディスが、ぱしゃぱしゃと地面の水を跳ねさせながら小走りで近づいてきた。《キミュスの尻尾亭》の管理する屋台の在庫が尽きてからは、《南の大樹亭》からも屋台を借り受けていたのだ。ここ最近では契約がややこしくならないように、ルウの屋台を《南の大樹亭》で統一させていた。


「《キミュスの尻尾亭》でも、同じ騒ぎになっていました。でも……こちらのほうが、ひどい騒ぎですね」


 レイナ=ルウが緊迫した面持ちで応じると、ナウディスは眉を下げつつ「そうですな」と微笑んだ。


「あれが誰の手によるもので、いかなる意味を持つ言葉であったとしても、ただ東の文字であるというだけで、腹を立ててしまうお客様は多いでしょう。森辺のみなさんは、どうぞお気になさらないでください」


「いえ。気にしないわけにはいきません。族長たる父とも相談して、然るべき対処を考えます。ご迷惑をおかけしますが、今後もよろしくお願いいたします」


「もちろんです。このような騒ぎは早々に終息することを、心より祈っておりますぞ」


 そうして俺たちはいっそうの煩悶を抱えながら、露店区域を目指すことになった。

 すると、宿屋の屋台村の前に差し掛かったところで、ガズラン=ルティムが離脱する。そして、すでに商売を始めていたユーミと短く言葉を交わしてから、すぐに舞い戻ってきた。


「《西風亭》では、あのような悪さもされていなかったそうです。どうやら狙われたのは、《キミュスの尻尾亭》と《南の大樹亭》のみであるようですね」


「はい。そうすると……どういうことになるのでしょう?」


「森辺の民はそちらの2軒から屋台を借り受けているので、懇意にしていることを突き止めるのも容易であるということです」


 そう言って、ガズラン=ルティムは感情を隠したいかのように目を細めた。


「ただし、多少なりとも宿場町の事情に通じていれば、《西風亭》や《玄翁亭》とも同じぐらい懇意にしていることは知れているはずですから……これは、さして事情に通じていない人間の犯行である可能性が高い、ということですね」


 つまり、3日前にジェノスにやってきた一団のように――ということである。

 そんな当たり前の話が、俺の心に重くのしかかってきた。


(それじゃあこれは、俺に対する威嚇の行為なのか? ポワディーノ王子っていうのは、そんなに悪辣な人間なのか?)


 だとしたら、交渉の余地はなくなってしまうかもしれない。

 ポワディーノ王子の一行を、悪党として退治する――そういう展開になってしまうのだろうか?


(でも、まがりなりにも、相手は王子だ。それに、証拠があるわけでもないし……俺たちは、どうすればいいんだろう)


 そこで浮かぶのは、やはり実行犯を捕らえるという案である。ポワディーノ王子の仕業であるにせよそうでないにせよ、まずは悪辣な真似に及んだ張本人を何とかしなければ、話は進まないはずであった。


「……よう。昨日は大変な面倒をかけちまったな」


 と、所定のスペースに到着した俺たちが屋台の準備を進めていると、北の方角からバージがやってきた。ガーデルのお目付け役であった彼は、もちろん城下町の医術師のもとまで付き添っていたのだ。


 バージは雨具のフードの陰で、骨張った顔に苦笑を浮かべている。ただその目もとには、普段の彼が決して見せない悲哀の感情がにじんでいた。


「バージも、お疲れ様でした。ガーデルは一命を取り留めたそうで、本当に何よりでした」


「ああ。だけどしばらくは、寝具から身を起こすこともできないだろう。これでもう、あいつが騒ぎを起こすことはしばらくないだろうさ」


 バージはいくぶんうつむいて、フードで目もとを隠してしまった。


「しかし、俺にしてみりゃあ大失態だよ。こんなことなら、ぶん殴ってでも止めるべきだった。団長殿にも、申し訳が立たねえな」


「しかしガーデルは、いまだ肩の傷が癒えていない身であったのだ。それを殴り飛ばすというのは、ためらって当然であろう」


 と、俺のすぐそばに控えていたアイ=ファが、静かな声でそう答えた。


「この先も、ガーデルにはあなたが必要だ。どうか気落ちせず、役目を全うしてもらいたく思う」


「ああ。団長殿に、愛想を尽かされなきゃな。……そっちもせいぜい、踏ん張ってくれ」


 そうしてバージは屋台の開店を待つことなく、城下町に戻っていった。

 俺はいよいよ張り詰めた気持ちで、屋台の準備に取りかかり――そして商売を開始したならば、また不穏な騒ぎが持ち上がってしまった。青空食堂で、東と南の民が諍いを起こしてしまったのだ。


「お前らの主君は、屋台の商売に難癖をつけたのであろうが? 恥を知る気持ちがあるならば、とっとと出ていくがいい!」


「いえ。犯人、不明です。また、たとえ、王子殿下、関わっていても……我々、関わり、ありません」


 東の民たちはこんな際にも沈着であるが、それがまた南の民の神経を逆なでしまうのだろう。俺がその場に駆けつけたときには、それぞれ10名近い南と東の民が卓をはさんで相対しており、西のお客が逃げ惑っている状態であった。


「みなさん、どうか落ち着いてください! 西の地で諍いを起こすのは、法で禁じられているでしょう?」


 俺がそのように声を張り上げると、南の一団が怒りの形相で振り返ってきた。


「しかし、こんな連中と同じ場所で腹を満たす気にはなれん!」


「そうだ! こんな連中は、追い出しちまえ! その分は、俺たちが料理を買ってやるさ!」


 南の民には感情的な人間が多いものの、決して道理をわきまえていないわけではない。しかし今は《南の大樹亭》を見舞った奇禍によって、自制心を失ってしまっているのだ。そしてそこには、俺の身を東の王子などに奪われてなるものかという思いも入り混じっているのかもしれなかった。


「でも、この方々に責任があるわけではありません! たとえ東の民が犯人であったとしても、ひとくくりにはできないでしょう? かつてはジェノスにだって悪辣な貴族がいましたが、領民である俺たちが責められた覚えはないし、責められるいわれもありません!」


「そうだな」と鋼のような声をあげたのは、アイ=ファに他ならなかった。


「それどころか、かつては森辺の族長が旅人を襲うという大罪を犯していたのだ。しかし我々は罪に問われることなく、この地で生きることを許された。……仮に主君が罪を犯したならば、誰よりも心を痛めているのはその同胞なのではないだろうか?」


 南の人々の大半は仏頂面で黙り込んだが、まだ数名ばかりは激情を消せずにいた。


「しかし、森辺の民は自らの手で悪辣な同胞を裁いたのだろうが? それならば、こやつらも悪辣なる主君を諫めるべきであろうよ!」


「そうだ! それに、こいつらこそが王子の手下かもしれないではないか! 俺たちには、王都の民か草原の民かも区別はつかないのだからな!」


 すると、無言でたたずんでいた東の民のひとりが、「いいでしょうか?」と声をあげた。その手が外套の内側に差し込まれるのを見て、南の面々は用心深く後ずさる。


「私、東の王都、商売しています。よって、王子殿下、直属部隊……『王子の分かれ身(ゼル=ドゥフェルム)』、仔細、わきまえています」


 そのように語りながら、東の民が外套の内側から取り出したのは――携帯用の、小さな燭台であった。

 東の民はその蓋を開けて芯をのばし、ラナの葉で手早く火を灯す。そして何を思ったか、自らの右の手の甲を炎の先端で炙った。


「お、お前は、何をしておるのだ?」


「身の潔白、証明です」


 東の民は無表情のまま、手の甲を俺たちにかざした。

 炭を塗ったように黒い肌が、わずかに赤らんでいる。火傷を負ってはいないようだが、いかにも痛々しい有り様であった。


「『王子の分かれ身(ゼル=ドゥフェルム)』、絶対の忠誠、示すため、手の甲、刺青、入れています。第七王子殿下、配下ならば、鷹と冠、紋章でしょう。そちら、火、かざすことで、浮かびあがります」


「て、手の甲に刺青だと? ふん! まるで、邪神教団だな!」


 そのように言い返す南のお客は、きっと去年の今頃にもジェノスに滞在していたのだろう。邪神教団の一派は手の甲の刺青を目印として、宿場町でも大々的に捜索されていたのだ。


「ともあれ、こちら、身の潔白、証明です。少なくとも、私、『王子の分かれ身(ゼル=ドゥフェルム)』、ありません」


「私たち、証明、必要ですか?」と、別の東の面々も燭台に近づこうとすると、南のお客の誰かが「やめろやめろ!」と声をあげた。


「そんな真似をしたって、どうにもならん! 悪いのは、あんな真似をさせた張本人なのだからな!」


「うむ。相手が王子ならば、下っ端連中には逆らうこともできんのだろうしな」


 そんな声もあげられたが、ずいぶんトーンダウンしていた。

 すると俺のもとに、大小の人影が近づいてくる。ミソ売りの行商人、デルスとワッズだ。ダカルマス殿下とタイミングを合わせてジェノスにやってきた彼らも、いまだ《南の大樹亭》に滞在中であったのだった。


「よう。何だか、馬鹿げた騒ぎになっちまったな。こんなことなら、さっさとコルネリアに帰っておくべきだったぜ」


 そのように語るデルスは普段よりも厳しい面持ちであり、いっぽうワッズは苦々しげな面持ちであった。


「まあ、俺たちは東の王子なんざに関わる気もないが、こうも騒がれては落ち着いて食事もできん。……お前さんも騒ぎをおさめたいんだったら、席を分けるべきだと思うぞ」


「……席を分ける、ですか?」


「ああ。この騒ぎを完全におさめるには、悪さをしでかした張本人をとっつかまえるしかない。それまではこの屋台でも、東と南で席を分けるべきだろうな」


「でも、それは――」


 俺が反論しかけると、デルスは片手で押し留めるような仕草を見せた。そしてもう片方の手は、並外れて大きな鼻をせわしなく撫でさすっている。


「お前さんにしてみれば、腹の煮える話だろう。しかし、このジェノスで保たれてきた東と南の均衡が、今まさに音をたてて崩れそうになってるんだ。たとえ小さな火種でも、放っておいたら大火事になるかもしれん。お前さんも、腹を据えて考えることだ」


「ああ。俺だって、東の連中なんざすっかり見慣れちまったけどよお。今はこいつらに後ろを取られると、落ち着かなくてたまらねえんだよお。馬鹿な真似をしたやつが捕まらない限り、どうしたって安心はできねえだろうなあ」


 ワッズはぶすっとした顔で、そう言った。

 俺は唇を噛みながら、東と南のお客たちに視線を戻す。その場にたちこめた激情の渦は、ひとまずおさまったかに思えたが――しかしそれは決して消えたわけではなく、行き場を求めてぐらぐらと煮えたっているように感じられてならなかった。


「……わかりました。ご忠告に従います」


 俺はレイナ=ルウやトゥール=ディンとも相談して、座席の割り振りを考案することになった。南のお客は手前側から、東のお客は奥側から座ってもらい、その中間に西のお客に座ってもらうのだ。あとは新規のお客が来るたびに誘導すれば、何も難しい話ではなかった。


 しかし俺は、重い感覚を胸の内に抱えてしまっている。

 この3年弱で積み上げてきたものが、呆気なく踏みにじられてしまったような心地であったのだ。それを察したアイ=ファが、俺の肩に手を置きながら囁きかけてきた。


「このたびの騒乱が収まれば、またもとの姿を取り戻すことができよう。我々は、目前の問題に尽力するのだ」


「……うん。わかってる」


 この後には、またポワディーノ王子との会談が控えているのだ。

 俺は心を乱すことなく、冷静に、解決の道を探さなければならなかった。

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― 新着の感想 ―
[一言] なんか過去一姑息な手段に出てる気がするなぁ。 早く解決しないものか。 ていうか、ジェノスを拠点とする東の民の足も引っ張ってるぞポワディーノ傘下の犯人さん。
[気になる点]  今までの流れから推察するに、ポワディーノ王子自身はそこまでの悪人ではない可能性が高いとは思いますが……  色々と追い詰められていて、一部の側近が暴走していると言う所なのではと思われま…
[一言] これはアスタへの精神攻撃来たな… いくら周りがアスタのせいじゃないと言ってもアスタは辛いだろうし。 このまま誰か身近な領民に直接的な被害があったらどうなるのか… 第七王子か側近の誰が主導して…
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