二日目①~朝~
2024.1/27 更新分 1/1
翌日――赤の月の12日である。
俺はかつてディグド・ルウ=シンたちが住まっていた家で、目覚めた。
場所は広間で、護衛役として参じてくれた狩人たちも雨季用の寝具にくるまっている。ダン=ルティムなどはいかにも豪快ないびきをかきそうなイメージであるが、実際は幼子のようにすぴすぴと可愛らしい寝息をたてるばかりであった。
「……おはようございます、アスタ」
と、ガズラン=ルティムも寝具の上で半身を起こす。起き抜けから、ガズラン=ルティムは普段通りの澄みわたった笑顔であった。
「おはようございます、ガズラン=ルティム。そちらはどうか、ゆっくりしていてください」
「しかしアスタも、そうまで早く起きる理由はないでしょう? 屋台の下ごしらえを始めるまで、二刻ぐらいはあるのでしょうからね」
そう、ここはルウの集落であるし、俺は薪や香草を採取する仕事をつつしむように言い渡されていた。森の端に踏み込んでは、どうしたって警護に支障が出るためである。
「ファの家に戻る際には我々が同行する手はずになっていますが、父ダンもまだしばらくは目を覚まさないでしょう。アスタも無理に眠る必要はありませんが、どうかゆっくり身をお休めください」
「ありがとうございます。でも、それならガズラン=ルティムも――」
「ええ。ですが、アスタと語らっていると気持ちが浮き立ってしまい、すっかり眠気も消えてしまいました」
ガズラン=ルティムの温かい冗談口に、俺は思わず「あはは」と笑ってしまった。
「決して笑っていられるような状況ではないんでしょうけれど……こうやってガズラン=ルティムと一緒に朝を迎えられるのは、役得です」
「ええ。昨晩は、なんの異常もなかったようですね」
ガズラン=ルティムは微笑を含んだ目で、ゆっくりと広間を見回した。
雨季の間は冷気を防ぐために、格子つきの窓にも帳が掛けられている。その向こうから聞こえてくるのは、擦過音のような雨音ばかりであった。
昨晩は、いちおう寝ずの番も立てられている。別の家に泊まっている眷族の狩人と、トトス車を拠点にしている近衛兵団の兵士が、それぞれ3名ずつ交代でルウの集落を見回ってくれたのだ。ポワディーノ王子の配下が気配を殺す能力を有しているかは不明であったため、そこまでの用心が為されていたのだった。
それに、ポワディーノ殿下の一団の本隊は、城下町にこもっている。もしもそれが無理を通して夜間に城門を出るようであれば、すぐに使者を遣わすという約束をもらっていたのだ。城下町の外にも別動隊がひそんでいる可能性はフェルメスから示唆されていたが、そちらは最大でも20名ていどという見込みであったので、これだけ警戒していれば危険は生じないはずであった。
「今日はどれぐらいの時間に呼びつけられるのでしょうね。できれば私も、同行させていただきたいのですが……会談の場に同席できないのであれば、あまり甲斐はなさそうです」
「そうですね。それにやっぱりガズラン=ルティムのように立場のある御方は、自重するべきではないでしょうか? 万が一のことがあったら、俺は誰にも顔向けできませんし……」
「いえ。昨日の話を聞く限り、城下町で荒事に発展する可能性はきわめて少ないのでしょう。そのような事態に至れば、マルスタインも兵を動かさざるを得なくなるのですからね。ポワディーノ王子の目的が王座であるのならば、西の王国との国交を二の次にすることはできないはずです」
と、俺たちが朝から重い話に興じていると、寝所に通ずる回廊からアイ=ファが姿を現した。すでにきっちりと髪を結った、凛々しい姿だ。
「やはりすでに起きていたか。……昨晩は、悪夢などに見舞われていなかろうな?」
「うん。夢も見ないでぐっすりだったよ。これも力を添えてくれた、みなさんのおかげだな」
「そうだな」と応じるアイ=ファは、あまりご機嫌が麗しそうでない。こうして護衛役の人々とともに夜を明かすと、どうしたって男女で寝所が分けられてしまうためである。なおかつ俺たちはつい昨日、今後は手を握り合って眠ろうと決めた矢先であったので――不満の思いもひとしおなのだろうと思われた。
「そっちは、どうだった? ヤミル=レイと、話ははずんだかな?」
「……私とヤミル=レイで、話がはずむとでも思うのか?」
「でも、ヤミル=レイとは前々から寝所をともにしてきた間柄じゃないか。最近は、すっかりご無沙汰だったけどさ」
レイの両名を最後にお招きしたのは、昨年の白の月や灰の月あたりであっただろうか。であれば、すでに半年ぐらいが経過している。あの頃はサウティの血族も迎えて、新たなギバ狩りの作法を模索していたのだった。
「それにしても、昨晩はひどい騒ぎであったな。ティカトラスらは、あれが真なる目論見だったのではないだろうか?」
ぶすっとしたお顔のまま、アイ=ファはそのように言いつのった。昨日の晩餐はアルヴァッハにナナクエム、それにカミュア=ヨシュやティカトラスたちまで迎えて、たいそうな賑やかさであったのだ。それらの面々は、別なる家で健やかな眠りに落ちているはずであった。
「まあ、カミュアやティカトラスはどんな状況でもその場を楽しめる人柄なんだろう。俺たちを思いやってくれていることに、変わりはないと思うよ」
「その真情を疑っているわけではないのだが……ああまで楽しげに騒がれてはな」
そんな風に言ってから、アイ=ファは鋭い視線を玄関のほうに突きつけた。
それと同時に、戸板がノックされる。もともと刀をさげていたアイ=ファは、その柄に手を添えながら玄関のほうに近づいていった。
「朝も早くから失礼する。こちらは、バージとガーデルだ。ファの面々は、息災であろうかな?」
それは、カミュア=ヨシュたちと同じ家で眠っているはずの両名であった。
アイ=ファはひとつ息をついてから、閂に手をかける。俺もガズラン=ルティムとともに、そちらに向かうことにした。
「このような朝方から、何用であろうかな?」
「ああ、ほら見ろ。誰も彼も、息災ではないか」
雨具をかぶったバージが、あくびまじりにそう言った。
そのかたわらでは、ガーデルがもじもじと大きな身体を揺すっている。その色の淡い目は、ちらちらと俺のほうをうかがっていた。
「も、申し訳ありません。アスタ殿が本当にご無事であられるかどうか、どうしても気になってしまって……」
「ご心配くださり、ありがとうございます。ご覧の通り、俺は元気いっぱいでありますよ」
「はあ……」と、ガーデルは気弱そうに口もとをほころばせた。
今はいつも通りのガーデルであるが、昨日の夕刻にお招きした際は、また物騒な気配をみなぎらせていたのだ。それは、飛蝗の襲撃やティカトラスとの出会いの場でも見せていた、彼のもうひとつの顔であった。
「ひ、東の王族がアスタ殿を召し抱えようとしているとうかがいました! それは、真実であるのですか?」
そのようにわめくガーデルは目を血走らせて、その大きな図体から激情の気配をみなぎらせていた。そうすると、別人のように凶暴そうに見えてしまうガーデルなのである。それでカミュア=ヨシュも、彼をルウの集落に招集するべしと提案したわけであった。
しかしその後は俺たちの説得によって、ガーデルは気を静めてくれた。こちらはポワディーノ王子の言葉に従うつもりはなく、領主のマルスタインともども平和的な解決を目指しているので、ガーデルにも力添えをお願いしたいと言葉を重ねると、ガーデルは憑き物が落ちたようにもとの柔和さを取り戻したのだ。
おそらくは、「力添え」という言葉が効いたのだろう。俺のために尽力することができるならばと、激情のはけ口ができあがったのだ。それで当初は寝ずの番をしたいと申し出ていたわけであるが、そこは森辺の狩人と近衛兵団の精鋭に一任してほしいとまた説得することになったのだった。
「まったく。これだけ手練れの狩人が集まっていれば、何が起きようとも俺たちの出番などあるまいよ。このような朝方から起こされて、迷惑な限りだ」
バージが皮肉っぽい言葉を投げつけると、ガーデルはたちまち縮こまった。
「も、申し訳ありません。バージ殿を起こすつもりはなかったのですが……」
「お前がその図体でもそもそ動いていたら、嫌でも目が覚めてしまうものだ。隣の寝所では、カミュア=ヨシュ殿たちだって眠りを妨げられていただろうさ」
そうしてガーデルをやりこめてから、バージはあらためて俺たちに向きなおってきた。
「で、今日は俺たちも宿場町まで同行させてもらえるのだな?」
「うむ。そちらがそのように望むのであればな」
「そうしないと、こいつはまたひとりで悶々としちまうからな。シムのお客が来るたびに気を張る姿が、今から目に浮かびそうだ」
俺たちがそのように語らっていると、背後から「うむ!」と大きな声が聞こえてきた。
「騒がしいと思ったら、アスタたちはもう目覚めておったのか! アスタの姿を見たら、とたんに腹が減ってきてしまったぞ! 宿場町に下りる前に、何か食うものを分けてもらいたいものだな!」
ついに、ダン=ルティムまでもが目覚めてしまったのだ。
本当に、朝から騒がしい限りである。しかしその騒がしさこそが、俺にとっては心強くてならなかったのだった。
◇
その後もさまざまな相手と朝の挨拶を交わし、水瓶の水で身を清めたならば、ファの家に移動であった。
夜は厳戒態勢であったが、日中はこれまで通り過ごすことが許されたのだ。ただ、いつまた城下町に招集されるかもわからなかったので、俺がいつ抜けても支障が出ないように代役の準備をしておく必要があった。
それでも屋台の商売が許されたのは、僥倖であろう。ポワディーノ王子の目的が俺ひとりであるということが判明したため、そちらは平常通りに進めることが許されたのだった。
「あちらが強引な手に出る危険があるとしても、それは隠密裏に行う必要があるわけだからね。こちらが賑やかにしているだけで、あちらはなかなか荒っぽい真似に出られないはずさ」
カミュア=ヨシュのそんな言葉に従って、こちらは警護の体勢を整えることに相成った。ファの家までは近衛兵団の精鋭部隊とルウの血族の狩人がどっさり同行してくれたし、しばらくするとラッツを筆頭とする氏族からも同じだけの狩人がやってきてくれたのだ。
ちなみにそのカミュア=ヨシュとは、ルウの集落でお別れしている。ファの家に移動する前にザッシュマがやってきたので、そちらと合流して町に下りたのだ。
「お前さんの指示通り、昨晩は宿場町の宿屋を転々としてみたけどな。シムの間諜らしき人間は見当たらなかったぞ。まあ、行商人のなりをされたら、なかなか見分けなどつくもんではないが……少なくとも、あからさまにあやしい人間はいなかった」
ザッシュマは、そのように語っていた。
「ただし、城下町のほうは、お前さん――というか、外交官殿の言っていた通りだ。ゲルドの面々を送り出したのち、10名ばかりの人間が神殿を出て城下町の宿泊区域に繰り出したらしい。目的は、もちろん情報収集だろう」
「なるほどなるほど。そちらの面々も、城門は出ていないのだね?」
「ああ。あいつらには特別な通行証を配ったから、城門を出たら確実に足がつくそうだ。ま、たった10名じゃ城下町を巡るだけで手一杯だろうさ」
それだけの会話を繰り広げたのち、カミュア=ヨシュたちは立ち去ったわけであった。
そして同時刻に、アルヴァッハとナナクエムも城下町に戻っている。俺の説得に失敗したと、ポワディーノ王子に報告に出向くのだ。斯様にして、さまざまな人々が俺なんかのために力を尽くしてくれているのだった。
そんなわけで、ファの家まで同行した外来の客人は、ガーデルにバージにティカトラスの一行のみである。ティカトラスはひさびさにファの仕事場の見物にいそしみ、ご満悦の面持ちであった。
「いやあ、下ごしらえの段階でも胃袋を刺激する香りがたちこめているね! 町に下りるまで我慢がきくか、心配になってしまうなぁ!」
「……そちらは本日、どのように過ごす算段なのであろうか?」
アイ=ファがそのように問いかけると、ティカトラスは「うーん?」と小首を傾げた。
「諜報部隊に関してはマルスタイン殿やカミュア=ヨシュたちが気を張っているようだし、アスタの護衛役などは狩人の面々だけで十分以上だろうから、わたしもいささか手持ち無沙汰なのだよねぇ。まずは、ポワディーノ殿下の出方しだいかな」
そのポワディーノ王子の動向は、下ごしらえを始めてから一刻ていどで知れることになった。ジェノス城からの使者が、ファの家にやってきたのだ。
「アスタ殿はまた昨日と同じ刻限に、ギリ・グゥの神殿までご足労を願いたいとのことです。付添人に関しても、昨日と同様でかまわないとのことです」
昨日と同様――屋台の商売が終わる頃に、城下町を目指せということだ。
同じ場でその言葉を聞いたティカトラスは、「なるほど」とにんまり笑った。
「あちらも諜報部隊が城下町で収集した情報を吟味する時間が必要だということだね。それで今度は、どのような話を突きつけてくるか……まずは、そこからかな」
「しかし……あちらの役に立つような情報が、城下町に存在するのであろうか?」
「うん。だってあのご一行は、初めてジェノスに足を踏み入れたのだろうからね。これまではシム本国で、ジェノスを訪れた行商人たちから情報を集めていたのだろう。それよりも、城下町で生の声を拾うほうが、何かと考えは巡らせやすくなるのだろうと思うよ」
すると、まだその場にたたずんでいた使者の武官が「あの」と声をあげた。
「実は、傀儡使いの一行にも言葉を伝えなければならないのですが……あの者たちの滞在場所をご存じでしょうか?」
「……リコたちならば、スドラからほど近い空き家で夜を明かしたはずだ」
と、進み出てきたのは、ライエルファム=スドラである。近在の氏族からも、俺の身を案じて様子をうかがいに来た人間が少なくなかったのだった。
「よければ、こちらの家人に案内をさせよう。……それがどのような伝言であるかを、この場でうかがうことはかなおうか?」
「はい。隠し立てするような内容ではありません。王子殿下は、傀儡使いの芸をご所望であるそうです」
「傀儡使いの劇を? ……なるほど。『森辺のかまど番アスタ』を自らの目で見届けようというのだな」
ライエルファム=スドラが独白をこぼしたが、使者の武官もその言葉には答えなかった。そこまでの思惑は、使者にも伝えられていないのだろう。
そうして使者がスドラの狩人とともに立ち去ると、ティカトラスがまた声をあげた。
「リコたちを責めないであげてほしいのだけれど、今回の一件はきっと彼女たちの劇が大きく関わっているのだろうね」
「うむ? それは、どういう意味であろうか?」
「きっとアスタの名声はシムでも轟いているのだろうけれども、それだけで『星無き民』にまで行き着くことはできないだろう? アスタの不可思議な出自を知るには、リコたちの劇が必須であるということさ。あの劇の評判を聞き及んだからこそ、アスタが『星無き民』であろうという察しをつけることがかなったんじゃないのかな」
「ああ……だから、私がアスタにとって唯一の家族であるということも知り得たわけだな」
「うんうん。それでアスタにとってアイ=ファがきわめて重要な存在であると察して、ともに召し抱えようという考えに至ったのだろうね」
アイ=ファがじろりとにらみつけると、たちまちヴィケッツォが怖い顔をしてティカトラスをかばおうとする。その肩ごしに、ティカトラスはアイ=ファに笑いかけた。
「わたしに対して怒っても、リコたちに怒っている様子はないようだね。やっぱりアイ=ファは、私が見込んだ通りの清らかなる人間だ」
「ふん。アスタの出自を気にかける人間など、そうそう現れまいという見込みであったのだ。責めるべきはリコではなく、そのようなものに着目するあの王子であろう」
「うんうん。昨日からも話題にあがっている通り、『星無き民』なんてしょせんは御伽噺の存在だからねぇ。その力にすがろうなどというのは、ポワディーノ殿下がかなり追い込まれている証なのだと思うよ」
「……追い詰められれば、ギーズさえもがギバを噛む。こちらは、いっそうの用心が必要なようだな」
そんな風に言ってから、アイ=ファはライエルファム=スドラに向きなおった。
「ところで、ライエルファム=スドラに頼みたい儀があるのだが……」
「うむ。もしや、ファの狩り場についてであろうか?」
「うむ。私は今日も、城下町まで出向かねばならん。しかし、昨日も3日前も狩人の仕事を休んでいるので……これ以上は、放置しておけないのだ」
「相分かった。今日は俺たちが、ファの狩り場で仕事に励むことにしよう。ファの狩り場の恵みが食い尽くされてしまったら、ともに収穫祭を楽しむこともできなくなってしまうからな」
ライエルファム=スドラはくしゃっと笑ってから、真剣な眼差しでアイ=ファを見つめた。
「今のところ、俺たちが尽力できるのはそれぐらいのことだ。城下町では、くれぐれも用心してほしい。そして、他に何か助力できることがあれば、何でも遠慮なく伝えてもらいたい」
「うむ。ライエルファム=スドラの温情に、心からの感謝を捧げる。そして、必ずアスタとともに無事に戻ってくると、誓おう」
そのようにして、下ごしらえの時間も緊迫した空気の中で過ぎていくことになった。
そうして小雨のぱらつく中、いざ宿場町に出立したわけであるが――その道中こそ、大変な賑わいであった。休息の期間にある6氏族とルウの血族で、30名にも及ぶ狩人が同行することになったのだ。
しかしこれでも、手加減された人数であった。もしもポワディーノ王子の本隊が城門を出たならば、この人数でも太刀打ちできないのだ。そのような事態に至ったならば、俺もいよいよ身の振り方を考えなければならないはずであった。
(でも、勝手のわからない城下町にこもるっていうのは、ちょっと心配なところだし……俺が城下町にこもったら、王子の一行だってまた城下町に腰を据えるだろうからな。いくら安全だって言われても、こっちを誘拐しようとするかもしれない相手とそんなすぐそばで過ごすのは、気苦労がつのるよな)
それに、30名もの狩人を動員しているだけで、すでに大ごとであるのだ。俺は一刻も早くポワディーノ王子を説得して、シムにお帰り願うように努めなければならなかった。
「……アスタ。どうか今日も、無事にお帰りください。わたしも母なる森に祈りながら、無事なお帰りをお待ちしています」
と、宿場町までの行き道で、同じ荷車に乗ったユン=スドラがそのように告げてきた。
その真剣な顔を見返しながら、俺は「うん」とうなずいてみせる。
「心配してくれて、ありがとう。必ず無事に戻ると、約束するよ。それに、今日も屋台の後片付けを、どうぞよろしくね」
「はい。アスタの身を守るお役には立てませんが、留守をお預かりすることができるのは誇らしくてなりません」
そう言って、ユン=スドラは無垢なる笑みをたたえてくれた。
俺やアイ=ファや森辺の同胞や、それにおそらくはカミュア=ヨシュやマルスタインらのことも信用してくれているのだ。俺もこれだけ頼もしい面々に支えられているからこそ、こんなに落ち着いた心持ちでいられるのだろう思われた。
そうして、いざ宿場町に下りてみると――そちらは、なかなかの騒ぎになっていた。マルスタインとの協議の末、ポワディーノ王子が俺の身柄を欲しているという一件が非公式に開示されることになったのである。その役目を担ったのは、昨晩あちこちの宿屋をうろつき回ったというザッシュマに他ならなかった。
もちろん『星無き民』に関しては慎重に取り扱うべきであろうし、市井の人々には理解しがたい領分であろう。よって、シムの王子が料理番として俺の身を欲しているらしいという内容に留められたわけであるが――その効果は、絶大であった。
「おい。今回の騒ぎも、けっきょくお前さんが原因であったそうだな。人を騒がせるのも、いい加減にするがいい」
と、《キミュスの尻尾亭》ではミラノ=マスから怖い顔でそのような言葉をかけられることになった。まるで怒っているかのような形相と態度であるが、それがミラノ=マスの思いやりのあらわれなのである。
「はい。また心配をおかけしてしまって、申し訳ありません。何とか穏便に片付くように力を尽くしますので、今後ともよろしくお願いいたします」
「ふん! 変に名が売れると、苦労がつのるばかりだな。なんの取り柄もない人間に生まれついたことを、神に感謝するとしよう」
そんな風に言いながら、ミラノ=マスはぷいっとそっぽを向いてしまった。
態度が横柄になればなるほどミラノ=マスの真情が浮き彫りになるようで、俺は胸を詰まらせてしまう。そんな中、他なる面々――レビやラーズやテリア=マスは、至極純然と心配そうな顔をしてくれていた。
「南の王子に続いて、今度は東の王子だもんな。まったくアスタは、大したもんだけど……まさか、アスタを王宮に召し抱えようなんてよ。そんなもん、ありがた迷惑のきわみだぜ」
「ええ、本当に……アスタもどうか、ご不興を買わないようにお気をつけください」
「はい。穏便にお帰り願えるように、力を尽くします」
そうして露店区域まで出向いて屋台の商売を開始すると、そちらの騒ぎは《キミュスの尻尾亭》の比ではなかった。やってくるお客の大半が、俺の身を案じてくれたのである。
「昨日のあいつらは、お前さんが目的だったんだってな! まさか、ジェノスを出ていっちまうことはないだろうな?」
「そうだよ。他の娘さんたちだって立派なもんだけど、それだってお前さんあってのことなんだろうからな」
「シムなんて行っても、つまらねえぞ! 言葉は通じねえし、あいつらは何を食ったってにこりともしねえからよ!」
ザッシュマは何軒かの宿屋で噂話を吹聴したのみであるのに、この騒ぎである。いまや宿場町でその話を知らない者はいないのではないかと思えるぐらい、誰も彼もが顔色を変えていた。
「布屋の親父から、話は聞いたよ。つくづくアスタは、色んな人間をひきつけちまうみたいだな」
そんな言葉をかけてくれたのは、野菜売りたるドーラの親父さんである。てるてる坊主のように可愛らしいターラを連れた親父さんは、いかにも同情にたえないといった面持ちで眉を下げつつ笑っていた。
「まあ、森辺のみんながいる限り、アスタがおかしな目にあうことはないって信じてるけどさ。油断しないで、しっかり乗り越えてくれよ?」
「はい、ありがとうございます。俺も、そのつもりです」
同じ話を聞かされても、人々の反応はそれぞれだ。
しかし誰もが、俺の身を慮ってくれている。そのありがたさが、俺にいっそうの力をもたらしてくれた。
(俺なんて、理屈をこねる頭もないけど……それなら誠心誠意、ポワディーノ王子と理解し合えるように頑張るだけだ)
そのようにして、東の王都の一団がやってきた2日目の朝は、普段以上の熱気と騒擾とともに過ぎ去っていったのだった。