初日③~会談~
2024.1/25 更新分 1/1
「お……お待ちください、王子殿下」
さしものマルスタインがいくぶん上ずった声をあげると、『王子の口』が帳に耳を寄せてから、また立ち上がった。
「我は、アスタと語らっている。横から口をはさむのは、非礼であろう」
「申し訳ございません。ですが、こちらのアスタはジェノスの領民であり、わたしはジェノスの領主となります。であれば、黙って見過ごすことはかなわない立場であるとご理解をいただきたく思います」
マルスタインはすみやかに動揺を押し隠し、普段通りのなめらかな弁舌を発揮した。
「其方の差し出口を理解するのは、難しい。シムの王子たる我が、アスタの身柄を所望しているのだ。たかだか辺境区域の領主風情が、我の意向に逆らう心づもりであろうか?」
『王子の口』のほうは感情のこもらない澄みわたった声音であるため、それが逆に威圧感を帯びている。
しかしマルスタインも、そこで恐れ入ることはなかった。
「無論、アスタ自身が了承するのであれば、わたしが口をはさむ理由はございません。もちろんこのアスタはジェノスにとってもかけがえのない人材でありますため、無念の思いは尽きないところでございますが……」
「であれば、黙って無念の思いを呑み込むがいい」
「ええ。アスタが了承するのであれば、そうする他ありませんでしょう。どうかアスタに、返答をお求めくださいますようお願い申しあげます」
『王子の口』はいちいち膝をついて王子殿下の言葉をうかがうので、こうしたやりとりにもタイムラグが生じる。
その間、周囲の臣下たちはマネキン人形さながらの静謐さであったし、アイ=ファやフェルメスもそれぞれ完璧に内なる思いを押し隠していた。
「我は、シムの第七王子である。その我からの申し出を、アスタが拒む道理はない。よって、問答はここまでである」
「恐れながら、それでは道理が通りませんでしょう。もしもアスタが王子殿下の申し出をお断りするようであれば、わたしもジェノスの領主としてともに解決の道を探したく思います」
「くどい。やはり其方は、非礼である。其方は西と東の絆を足蹴にしようという心づもりであろうか?」
「恐れながら」と、ついにフェルメスが発言した。
「ジェノス侯爵マルスタイン殿は、西と東の絆を何より重んじておられます。それゆえに、非礼を承知で声をあげておられるのでしょう」
「其方の言葉も、理解が難しい。我の苛立ちは、つのるばかりである」
「言葉が足りずに、申し訳ございません。マルスタイン殿はアスタがこの申し出をお断りすると確信しているがために、斯様に言葉を重ねておられるのです」
ここで、しばしの沈黙が落ちた。
帳のかたわらに膝をついた『王子の口』は、身じろぎもしない。王子が長広舌をふるっているのか、あるいは黙り込んでいるのか――それは、次の言葉を待つしかなかった。
「……そのような話は、ありえない。王子専属の料理番という栄誉ある地位を足蹴にする理由が、どこにあろうか?」
やがて放たれた言葉は、そんな内容であった。
であれば、しばらく黙りこくっていたのだろう。怒りのあまり、言葉を失っていたのかもしれなかった。
「それはアスタが、故郷たるジェノスを愛しているからに他なりません。この世には、絶大なる栄誉よりもちっぽけな愛郷心を重んずる人間も存在するということです」
「そのような話は、ありえない。そもそもアスタはジェノスの生まれならぬ、異郷の民であろう?」
「ですがアスタは、このジェノスを第二の故郷として愛しているのです。わずか3年足らずの時間でありましたが、アスタにとっては十分な時間であったのでしょう」
俺本人がここにいるというのに、フェルメスが俺の内心を代弁してくれている。それもひとえに、王子殿下が俺に答えを求めないからである。
それで俺は、ずっとうずうずしていたわけであるが――ついに、その時がやってきた。
「其方たちは、間違っている。では、アスタ本人に問い質すとしよう。アスタよ、よもや其方は我からの申し出を拒むまいな?」
「……申し訳ありません。自分はこのジェノスに骨をうずめようと心を決めています。王子殿下からのありがたいお申し出をお断りすることを、どうかご容赦ください」
俺は精一杯の思いを込めて、そのように答えてみせた。
すると今度は、先刻とは比較にならないほどの長さで沈黙が落ちる。俺としては、その間にめいっぱい覚悟を固めておくしかなかった。
「……アスタよ。其方は何か、ジェノス侯爵に弱みでも握られているのであろうか? であれば、我が力を尽くして其方を救い出してみせよう」
やがて放たれたのは、そんな言葉である。
ずいぶん斜め方向からの返答であったが、俺は心を乱すことなく答えることができた。
「いえ。決してそういうわけではありません。自分は自分の意思で、ジェノスに留まりたいと願っています。自分のような人間にそこまでの言葉をかけてくださることには感謝しますが、どうかご了承ください」
「了承は、できぬ。また、理解も難しい。何故に異郷の民たる其方が、そうまでジェノスに執着しているのであろうか?」
「それは、ジェノスで出会ったすべての人たちが、自分に生きる意味を与えてくれたからです。確かに自分はジェノスの生まれではありませんが、今の自分にとってはジェノスこそが唯一の故郷であるのです」
俺がそのように言いつのると、またしばらくの沈黙が落ちた。
そののちに、『王子の口』から新たな問いかけが発せられる。
「其方にとっては、そちらに控えたアイ=ファという娘がただひとりの家族であるそうだな。其方たちは、それほどに強き絆で結ばれているのであろうか?」
いったい誰が、ポワディーノ王子にそんな情報をもたらしたのだろうか。
俺は小さからぬ警戒心を胸に、ただ短く「はい」とだけ答えてみせた。
「では、そのアイ=ファも其方の家族として我に仕えることを許そう。これが、最後の譲歩である」
『王子の口』を間に介しているために、ポワディーノ王子の内心はまったくうかがえない。
しかし、俺の返す言葉に変わりはなかった。
「申し訳ありません。王子殿下のご配慮は、心からありがたく思うのですが……それでも自分は、アイ=ファとともに魂を返すまでジェノスの民として生きたいと願っています」
その瞬間――薄暗い神殿の広間に、雷鳴のような咆哮が響きわたった。
俺が思わず身をすくめると、隣のアイ=ファが低い声音で「案ずるな」という言葉を届けてくる。
「あの帳の向こうには、王子の他に1頭の獣もひそんでいるのだ。しかし何にせよ、決してお前に危害は加えさせん」
アイ=ファは狩人の力でもって、そんな気配を察知していたのである。
俺は無言でひとつうなずき、暴れる心臓をなだめながら王子の次の言葉を待った。
すると――『王子の口』とは異なる臣下が口を開いた。
「恐れ多きことながら、『王子の眼』がこの眼で見たものを王子殿下にお伝えしたく願います」
それは帳の付近に並んだ臣下の中で、もっとも長身の人物であった。印象としては《銀の壺》のラダジッドと同程度であるので、190センチぐらいはあるだろう。そしてその人物も、実になめらかな言葉づかいであった。
帳に耳を寄せていた『王子の口』が「許す」という言葉を発すると、『王子の眼』が彼女とは反対側の側面に回り込み、恭しく一礼してから膝をつき、帳に口を寄せた。
ずいぶん声をひそめているようで、俺の耳では内容を聞き取ることもできない。
それに、かすかに伝わってくる言葉の抑揚は、呪文の詠唱のような節回しだ。であれば、東の言葉で語っているのだろうと思われた。
それなりの時間を費やしてから、『王子の眼』はまた恭しく一礼して、もとの位置にまで歩を進める。
しかるのちに、ポワディーノ王子の言葉を授かった『王子の口』が立ち上がり、その内容を伝えてきた。
「では、ジェノス侯爵マルスタインに申し渡そう。そちらの領民たるアスタの身柄を、すみやかに受け渡してもらいたい」
マルスタインはわずかに身じろいでから、「恐れながら」と答えた。
「わたしはジェノスの領主でありますが、領民の身柄を自由に扱えるわけではないということをご理解いただきたく思います」
「しかし其方は、アスタがこの申し出を拒むようなら解決の道を示したいと申し述べていた。あれは、虚言であったのであろうか?」
「いえ、決して虚言ではございません。しかしそれは領主の権限でアスタの身柄を受け渡すという意味ではなく、なんとか王子殿下のご不満をなだめる方法を模索したいと願っての言葉でありました」
「我が欲するのは、アスタの身柄のみである。それ以外に、我の不満をなだめる方法は存在しない」
「では――」と、フェルメスが横から口をはさんだ。
「何故に王子殿下は、そうまでアスタの身柄を欲しておられるのでしょう? それをおうかがいすれば、解決の道を探せるやもしれません」
「……其方の発言は、求めていない。横から口をはさむのは、あまりに非礼であろう」
ポワディーノ王子はそのように言っていたが、間に『王子の口』を介しており、しかも他の臣下が人形のように動かないものだから、横から口をはさまれても途中でさえぎることができないのだ。
フェルメスは優美な表情で内心を隠しつつ、「どうか非礼をお許しください」と頭を下げた。
「ですが僕は、ジェノスの動向を監査する外交官という立場にあります。ジェノスが隣国シムと正しい形で交わっているかを監査し、そこに間違いがあれば正しき道に導くという役割も担っているのです。西の王たるカイロス陛下に外交官の職務を賜った身として、この場で口をつぐんでいることは許されないのだとご理解をいただきたく存じます」
「では、其方が西の王の代理人として、ジェノス侯爵マルスタインに命ずるがよい。すみやかに、アスタの身柄を我に受け渡すように、とな」
「それが正しき道であれば、そうする他ありませんでしょう。しかし、どうして王子殿下がそうまでアスタの身柄を欲しているかが不明でありますため、僕にもまだ正しき道が見えていないのです」
何度目かの、長い沈黙が落ちた。
その後に告げられたのは、実にありきたりの言葉である。
「アスタは名うての料理番であると聞き及ぶ。それを臣下として迎えたいと願うのに、なんの不思議があろうか?」
「確かにアスタは、ジェノスで一番と認められた料理人です。ですがそれは、シムにとって敵対国たるジャガルの王子ダカルマス殿下のご意向で開かれた試食会の結果と相成ります」
ここでダカルマス殿下の名前を出すのかと、俺は思わず息を呑んでしまう。
しかし『王子の口』の口を介しているために、やっぱりポワディーノ王子の内心は知れなかった。
「それが、何だというのだ? どのような身分の人間が開いた会でも、関わりはあるまい」
「いえ。アスタの供する料理というものは、シムよりもジャガルの作法に近い様式と相成ります。それゆえに、ダカルマス殿下からも高く評価されているわけですが……こと香草の扱いに関しては、アスタはジェノスでもっとも優れているとは言い難い力量でありましょう。シムのお生まれたる王子殿下にご満足いただける力量には至っていないかと思われます」
「……そのように力の足りていない人間が、ジェノスで一番の料理人であるという称号を授かったというのであろうか?」
「香草の料理に関して言えば、仰る通りです。こと香草の料理に限るならば、試食会で第二位の座を授かったヴァルカスなる料理人のほうが……いえ、第四位であったレイナ=ルウ、第五位であったマルフィラ=ナハムなる者たちでも、アスタと互角以上の才覚を有しているかと思われます」
そう言って、フェルメスはゆったりと微笑んだ。
貴婦人のように優美でありながら、どこか性悪な精霊めいた気配もにじんだ微笑である。彼は彼のやりかたで、俺を守ろうとしているのだった。
「もしも王子殿下が優秀な料理番を求めておいででしたら、そちらの者たちも検分なさるべきではないでしょうか? きっとその中には、王子殿下のありがたいお申し出に絶大なる感謝を捧げる者もおりますでしょう。お許しをいただけるのでしたら、僕がそれらの料理人の腕を吟味する場を整えて差し上げます。それとも――」
ポワディーノ王子が言葉をさえぎれないことを逆手にとって、フェルメスはさらに言いつのった。
「――王子殿下は料理の腕以外にも、アスタの身柄を欲する理由がおありなのでしょうか? もしもそうでしたら、こちらもすべてをうかがうまでは正しき解決の道をお示しすることも難しくなってしまいましょう」
『王子の口』は帳に耳を寄せたまま、微動だにしない。
すると再び、『王子の眼』が「恐れ多きことながら」と発言した。
「『王子の眼』がこの眼で見たものを王子殿下にお伝えしたく願います」
先刻と、まったく同じ言葉である。察するに、それが発言に許しを得るための常套句であるのだろう。
『王子の口』が「許す」と答えて、『王子の眼』は再び帳に忍び寄る。相変わらず言葉の内容は聞こえてこなかったが、ポワディーノ王子の不満を代弁するかのように、帳の向こうからグルル……という獣のうなり声がこぼされていた。
「……外交官フェルメスの言い分は、理解した」
やがて『王子の口』から、そのように告げられた。
「では、こちらの内情を明かすとしよう。西の民たる其方たちには理解も及ぶまいが、心して聞くがいい。これは、王国の繁栄に関わる重要な案件である」
そうして『王子の口』は、驚くべき言葉を発した。
「我は、森辺の民アスタを聖人と認定した。ゆえに、臣下に迎えたく思っている。すみやかに、その身柄を受け渡してもらいたい」
「聖人……聖人と仰いましたか?」
フェルメスが、感情を隠した声音で問い質した。
面倒なやりとりを経て、『王子の口』が「左様である」と答える。
「其方たちも承知している通り、聖人とは四大王国の礎となった存在である。そして現在もなお、聖人は100年に1度の割合で大陸アムスホルンを訪れている。我がシムにおいて、それらの聖人は『星無き民』と呼ばれている。そちらのアスタこそが王国に繁栄をもたらす現代の聖人、『星無き民』なのである」
「恐れながら、王子殿下。そういった俗説は、僕も聞き及んでいます。しかし、俗説は俗説に過ぎないのではないでしょうか?」
誰よりもその俗説を信じているであろうフェルメスが、そのように発言した。
『王子の口』の返答は、「否」である。
「『星無き民』は、確かに存在する。そしてそれは、聖人に他ならない。それは、シムの繁栄が証し立てている。王国としてのシムはひとたび滅んでしまったが、『星無き民』たる白き賢人ミーシャの尽力によってラオの第二王朝が打ち立てられたのである」
「それは……正史ならぬ俗説、いやさ御伽噺でありましょう。まことに恐れ多きことながら、吟遊詩人の語る夢物語に過ぎないかと存じあげます」
「それが、西の民の限界であろう。ゆえに其方たちは、アスタの存在価値を見いだせずにいるのだ」
あのフェルメスが、反論することもできずに口をつぐむことになった。
フェルメスはその夢物語を信じたからこそ、俺に執着しているのである。フェルメスは優美な表情を保ったまま、その不思議な色合いをしたヘーゼルアイにさまざまな感情を渦巻かせていた。
「『星無き民』の存在を信じない其方たちでは、アスタを使いこなすこともかなわないのだ。よって、アスタの身柄は我がもらい受ける。アスタは我の臣下となって、シムに新たな繁栄をもたらすのだ」
『王子の口』の口調は変わらないが、ポワディーノ王子は帳の向こうで勝ち誇っているのだろうか。
こちらの陣営が何も答えられずにいると、『王子の口』はさらに新たな言葉を告げてきた。
「納得できたのなら、出立の準備を整えるがいい。特別に、アイ=ファもアスタとともに臣下になることを許す。其方が噂通りの力量を持つ剣士であるのなら、『王子の剣』として取り立てることも考えなくはない」
「……お待ちください、王子殿下。恐れながら、それとこれとはまったく異なる話であるかと思われます」
と――言葉を失ってしまったフェルメスに代わって、マルスタインが声をあげた。
「確かにわたしは『星無き民』というものの知識も持ち合わせておりません。ですが、現在のアスタはまぎれもなくジェノスの領民であるのです。アスタ自身が拒む限り、その身柄を差し出すわけにはまいりません」
「くどい。其方たちは、アスタの存在価値を理解していない。王国に繁栄を約束する『星無き民』を、一介の料理番として使い潰そうという算段であろうか?」
「それは、どのような立場の人間でも同じことではないでしょうか? たとえば我が子息メルフリードはジェノスの闘技会で剣王となった随一の剣士でありますが……たとえ王子殿下が『王子の剣』として取り立てようとお考えになられても、メルフリードは承服しますまい。メルフリードにとっては、『王子の剣』という栄誉ある職務よりも、しがない辺境区域の一剣士として生きることこそが正しき道であるのです」
「……『星無き民』と剣士を同列に語ることはできまい」
「ですが、アスタもメルフリードも同じ人間です。人間には、おのれの望む地で生きる資格が存在するはずです。それが許されないのは、奴隷として扱われる人間のみでありましょう」
「……奴隷制度など、西と北のみに存在する忌まわしき悪習であろう」
「左様です。誇り高き東の王国には、そのように無体な悪習が存在しないものとわたしは信じております」
西の王国において奴隷制度に異を唱えるのは、西の王政に叛意ありと受け取られかねない危険な行いである。
そんな危険を犯してまで、マルスタインは俺の存在を擁護してくれているのだ。俺は拳を握りしめながら、自分の発言の順番を待つことになった。
そこに――りんりんと、場違いなぐらいに軽妙な鈴の音色が響きわたる。俺がぎょっとして背後を振り返ると、扉を守る東の民のひとりが銀色の鈴を打ち鳴らしていた。
帳の近くに控えていたひとりがしずしずとそちらに近づいていき、短く言葉を交わしてから、またこちらに戻ってくる。そしてその人物が何事かを告げると、『王子の眼』も加わって帳ごしの密談が開始された。
「……きわめて不本意であるが、今日の会談はここまでとする。アスタとは、また後日に対話を願いたい」
そのいきなりの宣告に、俺は思わず眉をひそめてしまう。
しかし、決定権はあちらにあるのだろう。マルスタインが「承知しました」と腰を上げたので、俺たちもそれに続くしかなかった。
(でも、時間をもらえるなら、こっちにとっても幸いか。相手の思惑が知れたんだから、しっかり対策を練らないと)
しかしまさか、あちらが『星無き民』を持ち出してくるなどとは想定外である。果たしてこちらはどのように手を打つべきなのか――俺にはさっぱり道筋が見えなかった。
そうして俺たちは、細く開かれた扉をくぐって回廊に出る。
するとそこには、アルヴァッハとナナクエムが立ちはだかっていた。
「あ、あれ? おふたりとも、どうされたのですか?」
アルヴァッハは2メートルの高みからちらりと俺を見下ろしてきただけで、何も答えぬままナナクエムとともに扉の向こうへと消えていった。
いかにも不穏な態度であるが、しかし俺を見たアルヴァッハの眼差しには、いつも通りの力強い輝きが灯されていた。
そしてそちらには、ジザ=ルウたち森辺の同胞とジェムドおよびジェノスの武官も待ち受けている。だが、周囲にたたずむ東の武官たちの目をはばかって、誰も口を開こうとはしなかった。
「まずは、外に出るとしよう」
マルスタインの号令で、俺たちは回廊を逆戻りした。
その道中で雨具や刀を返されたが、やはり誰もが無言のままだ。出口までの道のりにも、要所に東の武官――『王子の剣』だか『王子の盾』だかが控えているのだった。
「やあやあ、お疲れ様。無事に戻れて何よりだったねぇ」
小雨のそぼ降る神殿の外には、カミュア=ヨシュやジェノスの武官たちが待ちかまえている。
そして、神殿の周囲に散っていた5名の狩人もすみやかに集結した。
「ジザ=ルウよ。我々は、しっかり意思疎通しておくべきだろう。このまま其方たちをジェノス城に迎えたいのだが、如何であろうかな?」
マルスタインがそのように呼びかけると、頭巾をかぶったジザ=ルウは「うむ」とうなずいた。
「面倒ごとが終わらなかったのならば、そのように取り計る他あるまい。アイ=ファたちも、異存はなかろうか?」
「うむ。これは、領主や外交官の助力なくして乗り越えることは難しい話であろうからな」
アイ=ファは凛然とした面持ちのまま、マルスタインとフェルメスに目礼をした。
「ふたりの尽力には、心から感謝している。どうか今後も、力を添えてもらいたい」
「領民のために尽力するのが、領主の役目だからね。では、ジェノス城で待っているよ」
マルスタインとフェルメスは大勢の武官とともに、立派なトトス車に乗り込んだ。
小雨のぱらつく中、俺たちは別なるトトス車に誘導される。その道行きで、ジザ=ルウがアイ=ファに語りかけた。
「ともあれ、短慮を起こすことはなかったようだな。ふたりが無事に戻ったことを、俺も得難く思っている」
「うむ。実のところ、短慮を起こす隙もなかった。けっきょく私は、王子に対してひと言も発する機会がなかったからな」
「そうか。それは何よりの僥倖であったな」
「……私はそうまで、ジザ=ルウから信用されていないのであろうか?」
アイ=ファがきゅっと眉をひそめると、ジザ=ルウはもともと微笑んでいるように見える顔に本当の微笑をたたえた。
「ふたりが無事に戻った喜びで、つい軽口を叩いてしまったのだ。本心からの言葉ではないので、許してもらいたい」
「……ジザ=ルウも私と同様に冗談口は苦手にしているのであろうから、口をつつしむべきだと思うぞ」
アイ=ファはどこか、子供がすねたような目つきになっている。
こんなやりとりを交わせるのも、無事に戻れたおかげである。そのありがたさを噛みしめつつ、俺も参加させていただいた。
「でも、アルヴァッハたちは何をしに来たんでしょう? こちらの会談がいきなり取りやめられたことと、無関係ではないですよね?」
「さて。あの場にはシムの王子の配下の目があったので、俺も事情は聞いていないのだ」
ジザ=ルウが糸のように細い目で視線をパスすると、カミュア=ヨシュがにっこり微笑んだ。
「ゲルドのおふたりは、森辺の民と関わりの深い自分たちが仲介役になろうと申し出たそうだよ。あちらも事情はさっぱりわかっていないようだったけど、アスタのことが心配でならなかったのだろうね」
「なるほど。それで王子は我々との対話を取りやめて、アルヴァッハたちを招き入れたわけだな」
アイ=ファの鋭い返答に、カミュア=ヨシュは「うんうん」とうなずく。
「ちなみにジェノス城では、ゲルドの使節団の団長殿が待ちかまえているそうだよ。アスタたちに力を添えるようにと、アルヴァッハ殿が申しつけてくれたのだってさ」
「そうか……アルヴァッハたちとて王子には従わなければならぬ立場であろうに、そうまで心を砕いてくれているのだな」
「うんうん。まったく、得難い限りだねぇ」
カミュア=ヨシュは呑気に笑っていたが、俺としては胸の詰まるような思いであった。さきほどアルヴァッハから投げかけられた力強い眼差しが、俺にいっそうの勇気をもたらしてくれたのだ。
そして、ジェノス城ではさらなる驚きが待ち受けていた。
武官の案内で城の一室に通されると、そこにはゲルドの団長ばかりでなく、ダカルマス殿下とロブロス、ティカトラスの一行、そしてアラウトとサイまでもが着席していたのである。
「おお、アスタ殿! ご無事で何よりです! いったい何が起きているのか、事情を聞かせていただきたく思いますぞ!」
「東の王都の面々はギリ・グゥの神殿に引きこもってしまったので、情報の集めようがなかったのだよ。だからわたしたちも、この場で話を聞かせていただくね」
「僕などでは何のお役にも立てないでしょうが、居ても立っても居られなかったので参じてしまいました。どうか同席をお許しください」
俺がぽかんとしていると、末席に控えていたポルアースがそそくさと近づいてきた。
「なるべく話が広がらないように気をつけていたのだけれども、けっきょくこのような騒ぎになってしまったのだよ。まあ、誰もがアスタ殿の身を案じていたということで……どうか了承してもらえるかな?」
「ええ……ええ、もちろんです」
ポワディーノ王子は俺本人にしか語る気はないと言っていたので、こまかい事情は誰もわきまえていないはずだ。つまりこの場の面々は、俺がポワディーノ王子に呼び出されたというだけで、このように集結してしまったわけであった。
そのありがたさで、俺は思わず涙ぐみそうになってしまう。
しかし、泣いているひまはなかった。俺は後日に待ちかまえている再びの会談に備えて、十全に準備を整えなければならなかったのだった。




