初日①~開幕~
2024.1/23 更新分 1/1
「またあの悪夢に見舞われたというのか?」
翌朝である。
俺が覚束ない調子で昨晩の出来事を報告すると、アイ=ファはたちまち眉を吊り上げてしまった。
「う、うん。ただ、記憶が曖昧なんだよな。こうして夜が明けてみると、すべて夢だったんじゃないかと思えてきて……あ、いや、夢は夢なんだけど、悪夢を見たことが夢だったんじゃないかって……うーん、うまく説明できないな」
「何だそれは。そのように頼りないことで、何とする。お前が悪夢に見舞われるたびに、邪神教団が姿を現したのだぞ?」
「そ、それは直近の2回だけだろ? その前は、悪夢を見ても何か事件が起きたわけじゃないし……」
寝ぼけた頭で弁解をしながら、俺はアリシュナの言葉を思い出した。
「それにほら、俺の悪夢と邪神教団の動きが連動していたのは……邪神教団が大きく星図を乱す存在だから、俺も影響を受けているのかもしれないって話だったじゃないか。ジェノスは間もなく『藍の鷹』とかいうよくわからない大混乱を迎えるらしいから……今回は、その影響なんじゃないかなぁ?」
俺に詰め寄っていたアイ=ファはわずかばかりに身を引くと、寝具にあぐらをかいて腕を組んだ。
「それは確かに、その通りなのかもしれんが……お前は悪夢の中で、何を見たのだ? そして、どうしてそれを忘れてしまったのだ?」
「それは俺にも、よくわからないよ。ただ、アイ=ファのおかげで悪夢の苦しさが半減して……それで、いつもは見られなかったものを見られたみたいなんだよな」
「では……今後は毎晩、身を寄せ合って眠るべきであろうか?」
アイ=ファがあまりに真剣な眼差しであったので、俺はつい笑ってしまった。
「それは魅惑的なお誘いだけど、俺が悪夢を見るのなんて数ヶ月に1度のことなんだぞ?」
「しかし、悪夢がいつ訪れるかもわからぬなら、毎晩備える他あるまい」
「でも、それじゃあ俺の理性がもつかどうか……うごわ」
強めに額を小突かれた俺は、はしたない声をあげることになってしまった。
いっぽうアイ=ファは頬を染めつつ、金褐色の髪が流れ落ちた肩をぷるぷると震わせている。
「お前は何を、おどけているのだ。私は、真剣に語っているのだぞ」
「ご、ごめんごめん。昨日はそこまで苦しくなかったから、危機感が薄いっていうか……そもそも、悪夢の内容を大げさに取り扱うっていうのは、星読みの結果に一喜一憂するのと同じようなもんなんじゃないかなぁ?」
「わかっている。だが……それでも私は、お前に苦しんでほしくないのだ」
アイ=ファの眼差しは、真剣そのものだ。
俺は居住まいを正して、「ありがとう」と頭を下げてみせた。
「まだちょっと頭が寝ぼけてるんで、浮ついた返答になっちゃったことは謝るよ。アイ=ファの気持ちには、心から感謝してる」
「わかればよい。では……今宵からは、何とする?」
「み、身を寄せ合って眠るって件か? それはやっぱり、自重したほうが……」
「……それほどに、私と身を寄せ合うのを忌避するのだな」
「忌避じゃなくって! ずっとアイ=ファと身を寄せ合ってたら、たぶん俺は悪夢を見る余地がなくなっちゃうんだよ」
「うむ? そのために、私はこのような提案をしているのだぞ?」
アイ=ファがうろんげに眉をひそめたので、俺も念入りに説明をすることにした。
「アイ=ファの気持ちは嬉しいけど、ピノやナチャラの言葉を思い出してくれ。俺は何かに恐怖しているけど、その正体を忘れてるっていう話だっただろう? あの悪夢っていうのは、恐怖の正体を知るための大事な手がかりだと思うんだよ」
「そのようなものを……無理に思い出す必要があるのであろうか?」
「それは、あると思う。俺が先月いきなり我を失ったのも、その正体の知れない恐怖心ってやつが原因なんだろうからさ。きっと俺はその正体を知った上で、乗り越えないといけないんだよ」
そのように語る俺の心中に、白い靄がふわりと吹きすぎていった。
「それに、俺は……あの白い靄の向こうを見届けたいと思う。あれも何だか、俺にとってはすごく大事なことであるように感じたんだ」
「……やはり、夢について取り沙汰するのは性に合わんな」
アイ=ファはひとつ溜息をこぼして、まだ結いあげていない頭をがりがりとかきむしった。
「とりあえず、このたびはお前の言葉を重んじるとしよう。……本当に、身を寄せ合わなくともよいのだな?」
「あ、うん。だけど……手を握ってもらうのは、有効かも。たぶん俺はそのおかげで、いつもよりしっかりと悪夢に立ち向かえたように思うんだよな」
俺がそのように答えると、アイ=ファの顔に一瞬だけ満足そうな色がひらめき、そしてすぐさま厳粛な表情に覆い隠された。
「……では、今宵より手を握り合って眠ることとする。むやみに触れ合うのは避けるべきだが、このたびばかりは致し方あるまい」
「うん。理由はどうあれ、嬉しくなっちゃうよな」
アイ=ファは再び頬を染め、座ったまま俺の足をげしげしと蹴ってきた。
「では、朝の仕事に取り掛かるぞ。しかし……これはどうやら、雨具が必要なようだな」
アイ=ファは格子のはまった窓のほうを見やりながら、そう言った。
窓の外には雨が降りそぼち、世界は暗い灰色に閉ざされていたのだ。
気温も、ぐんと下がったように感じられる。雨具どころか、雨季用の装束が必要なぐらいであろう。昨晩までは雨季用の寝具も必要なかったのに、このひと晩ですっかり様相は変わってしまったようであった。
そうしてジェノスは、ついに本格的な雨季に突入し――それと同時に、またとない大混乱に見舞われることに相成ったのだった。
◇
「アスタにアイ=ファ、おはようございます」
屋台の下ごしらえを開始する時間になると、ユン=スドラを筆頭とするさまざまな女衆がファの家にやってきた。
それらの皆々も、のきなみ雨具を纏っている。雨はしとしとと世界を濡らし、やむ気配も見られなかった。
「急に雨季らしくなってしまいましたね。まあ、すでに赤の月の11日なのですから、何も不思議なことはないのですけれど……」
「うん。去年なんかは、とっくに雨季だったもんね。そもそもアイ=ファの生誕の日が雨季じゃなかったのは、これが初めてのことだったしさ」
「ああ。2年前は、閏月のある年であったのですよね。間に金の月があったのですから、あれでも遅すぎるぐらいであったのかもしれません」
そんな世間話を交わしている間に、新たな荷車が続々と到着する。そこから降り立つ女衆も、みんな雨具を纏った姿であった。
森辺で使用される雨具というのは、ギバの毛皮でこしらえたフードつきのポンチョだ。狩人の衣とは異なり毛の生えた面を内側にして、表面には赤や緑で渦巻きの紋様をペイントしている。
そうしてかまど小屋に移動して雨具を脱ぐと、やはり誰もが雨季用の装束を纏っていた。この朝は、それぐらいの冷え込みであったのだ。
雨季用の装束というのは、長袖の上衣だ。前合わせの様式で、木製のボタンで留める形になっている。そして女衆は、通常よりも丈の長い腰あてを巻いていた。
気温が下がると言っても秋口ていどの肌寒さであるので、それらの装束を着込めばどうということもない。膝から下などは濡れ放題であるが、それが苦にならないていどの気温であるのだ。さらにかまどに火を灯せば、いつも通りの熱気があふれかえった。
そうして普段通りの作業に没頭していると、俺の心はますます落ち着いていく。今回は悪夢の影響もほとんど見られなかったので、ともすれば悪夢を見たことすら忘れてしまいそうなほどであった。
(でも、俺が悪夢を見たってことは……今日、大混乱が起きて星図が乱れるってことなのかもしれないんだもんな)
そんな風に考えると心配にならなくもないが、だけどやっぱり現実感は薄い。俺は俺で、夢と現実にそこまで深い相互関係が存在するなどとは、なかなか実感できないのだ。過去に2回の実例があろうとも、数ヶ月も経てば実感は薄れてしまうものであった。
やがて下ごしらえが終わりに近づくと、表のほうが騒がしくなってくる。本日の護衛役を務めてくれる面々が到着したのだ。
「待たせたな! こちらはいつでも、出発できるぞ!」
元気な声が、かまどの間に届けられてくる。入り口の戸板から顔を覗かせたのは、ラッツの若き家長に他ならなかった。
「それにしても、俺たちが同行すると決めた日から、このように雨季らしい様相になってしまうとはな! もしやこれも、母なる森の思し召しやもしれんぞ!」
「そうですね。でも、せっかくの休息の期間にお手間を取らせてしまって、本当にすみません」
「休息の期間だからこそ、俺たちが護衛役を受け持つことにしたのだ! もののついでで宿場町の連中とも言葉を交わせるし、悪い話ばかりではなかろうよ!」
ラウ=レイに負けないぐらい豪放な気性をしたラッツの家長は、勇ましい顔つきで愉快そうに笑った。
「そして俺たちがついていれば、どのような災厄でも退けてくれるからな! 飛蝗なんぞが襲ってきたら、片っ端から叩き潰してくれるわ!」
「ありがとうございます。アリシュナは、あくまで災厄ではなく混乱だと言っていましたけれど……みなさんに同行していただけたら、心強い限りです」
そうして下ごしらえを終えた俺たちは、荷物を濡らしてしまわないように気をつけながら積み込みの作業を開始した。
護衛役の狩人たちは狩人の衣と頭巾で雨をしのぎつつ、そんな俺たちの姿を見守っている。本日は休息の期間にある6氏族から10名もの狩人が参じてくれていた。
そして、同じ格好をしたアイ=ファも鋭い面持ちで控えている。本来はラッツの家長たちに護衛役を任せる日取りであったが、俺が悪夢を見てしまったために急遽同行することになったのだ。
さらにルウの集落まで出向いてみると、そこにもたくさんの狩人たちが待ちかまえている。その代表として、ジザ=ルウが進み出てきた。
「協議の末、今日はルウの血族からも10名の狩人が同行することになった。こちらはこちらで取り仕切るので、そちらは当初の予定通りに動いてもらいたい」
「ふむ? 俺たちだけでは頼りないと判じたわけか?」
「決して、そういうわけではない。しかしこちらも、まだ森の恵みが回復しきっていないのでな。いきなり雨季らしい様相になったので、手が空いている間は宿場町の様子をうかがっておこうと判じたまでだ」
ルウの血族も、ようやく収穫祭を行ってから半月ていどが過ぎた時分であるのだ。この時期はまだギバの数も少ないので、仕掛けた罠を見回るていどの仕事しかないはずであった。
「では、アイ=ファを含めて狩人の人数は21名か! ずいぶんな人数になってしまったものだな!」
「うむ。しかしこちらの半数ていどは、宿場町を見回る手はずになっている。かまど番の警護に関しては、あくまでそちらに任せる所存だ」
そのように語るジザ=ルウはいつも通りの微笑んでいるような面持ちであったが、やはりいくぶん張り詰めた雰囲気も感じられた。
森辺の民は星読みの結果を重んじない方針であるが、やはり飛蝗に襲撃された経験が大きく影響しているのだろう。さらに言うならば、同胞たるクルア=スンが星見の力に目覚めてしまったことで、占星術の真実味というものが増しているはずであった。
そうして俺たちは、常ならぬ大所帯で宿場町に出発する。
21名の狩人はそれぞれの荷車に配置されて、手綱を握るのも狩人の役割だ。さらに、ルド=ルウとジーダの両名はそれぞれフリーのトトスにまたがって、隊列の前後をはさんでくれた。
宿場町に下りてみると、街道はなかなかの人混みである。普通は雨季になると格段に人出が少なくなるものであるが、本年はずいぶん雨季の到来が遅れていたため、未練がましく滞在を続けていた行商人が多かったようであるのだ。今日を境に、宿場町もどんどん閑散としていくのだろうと思われた。
「すっかり雨季らしくなってしまったな。思わぬ事故などに気をつけるのだぞ」
《キミュスの尻尾亭》では、ミラノ=マスがそんな言葉をかけてくれた。
宿場町には星読みの結果も周知されていないし、このたびは護民兵団が配置されたりもしなかったのだ。往来を行き交う人々も、雨の厄介さにばかり気を取られている様子であった。
(でも、護民兵団が配置されなかったっていうのは……やっぱり、荒事の類いではないって判断されたのかな)
アリシュナも、そうまで具体的に何が起きるかを予言できるわけではない。それでも以前は正体の知れない災厄に備えて、宿場町にも兵団を配置していたわけであるが――このたびは、そういう措置も取られなかったのだった。
ただし、俺たちが働く露店区域のスペースには、多少ながら衛兵の姿があった。宿場町の出入り口に、不自然でないていどの衛兵たちが立ち尽くしていたのだ。
これはきっと、俺たちの身を案じてのことなのだろう。アリシュナははっきりと、混乱の元凶はアイ=ファを――星なき闇に身を寄せる赤き猫の星を目指していると宣言していたのだ。ジェノスを見舞う混乱の正体は不明なれども、それは森辺の民にまつわる案件である可能性が濃厚であったのだった。
(本当に、アイ=ファ本人がおかしな目にあわないといいんだけど……なんでもいいから、混乱の正体を知りたいもんだよな)
そんな思いを胸に、俺は屋台の商売に勤しんだ。
相変わらず小雨が降りそぼっているというのに、客足は上々だ。屋台に押し寄せた人々は料理が濡れてしまわないように気をつけながら、青空食堂の屋根の下に駆け込んでいた。
「うーん。こんなことなら、復活祭のときみたいに屋根と敷物の席も準備してあげればよかったねー。まさか、こんないきなり雨季に入っちゃうなんてなー」
本日の当番であったララ=ルウが、追加の料理を荷台から運ぶ道中でそんな言葉を伝えてきた。ララ=ルウが当番であったためか、護衛役の中にはシン・ルウ=シンの姿もあったのだ。そちらはジザ=ルウとともに屋台に居残っており、ルド=ルウは別動隊を率いてどこへともなく立ち去っていた。
「ほら、食堂からあぶれちゃった人なんかは、木陰で汁物料理をすすってるよ。明日からは、どうしよう? ちょっと客足の予想がつけにくいよねー」
「うん。商売が終わったら、懇意にしている宿屋のご主人がたに相談してみようか。今日出立するお客が多かったら、明日以降はこっちも客足が落ちるだろうからね」
「あー、それはいいかも! ただ、ジザ兄はさっさと帰りたがるだろうから、うまく説得しないとね」
ララ=ルウは力強い笑みをこぼしつつ、自分の屋台に戻っていった。
女衆のおおよそは、何が起きようとも狩人たちが守ってくれると信じて、いつも通り商売に励んでいるのだ。トゥール=ディンなどはずいぶん不安げな面持ちであったものの、それでも決して屋台を休もうとはしなかったのだった。
(こうなってくると、いよいよ早く起きてくれって気持ちになっちゃうな。正体の知れない何かを警戒するっていうのは、誰にとっても負担のはずだ)
そんな気持ちを心の片隅に抱え込みつつ、俺もひたすら商売に励み――そして、中天である。
まあ、この天候では日時計も役立たずであるが、とにかく商売を開始してから一刻ほどが過ぎて、客足が2度目の隆盛を迎えた頃合いである。
最初に異変を告げてきたのは、俺のすぐ後ろで警護の役目を果たしていたアイ=ファであった。
「……アスタ。警戒せよ」
鋼の刃を思わせる鋭い声音で、アイ=ファはそのように言い放った。
俺はお客に料理を手渡してから、慌てて背後に向きなおる。
「け、警戒って? いったい何が起きたんだ?」
「それは、まだわからん。ただ、かなりの人数がこちらに近づいてきている」
アイ=ファの目は、街道の南側に向けられている。
そして、同じものを感じ取ったらしい他の狩人たちも騒がしくなっていた。
「こんな大人数がまとめて街道を通るのは、常にないことだな」
「うむ。俺が知る限りでは、南の王都の使節団ぐらいのものだ。さすがにそれよりは少ない人数であるようだが……」
「しかし、100名は超えていよう。様子を見に行くべきであろうか?」
「いや。俺たちの役目は、かまど番を守ることだ。宿場町にはルウの狩人も散っているのだから、俺たちはこの場に留まるべきであろう」
そんな言葉が、屋台の裏で交わされている。
それに遅れて、街道のほうも騒がしくなってきた。
「おいおい、なんだよ、ありゃ?」
「すげえ人数だな。しかも何だよ、あの格好は?」
「なんだか、薄気味悪いなぁ。なんであんな連中が、ジェノスに……」
「おい、あれは……シムの連中じゃねえか?」
最後に聞こえた言葉に、俺は息を呑んでしまった。
(東の民が、100名以上も? それはいったい、何なんだ?)
俺が思わず身を乗り出そうとすると、アイ=ファの腕に引きとめられた。
「むやみに顔を出すな。東の民ならば、毒を扱う恐れもあろう」
そのように語るアイ=ファは、もはや狩人の眼光になっていた。
そこに、頭巾をかぶったルド=ルウが駆けつけてくる。
「おい、おかしな連中が来やがったぞ。物騒な気配はしねーけど、いちおう用心だけはしておけ」
「う、うん。いったい、何が起きたんだい?」
「そんなもん、俺にだってわからねーよ。でも、見える連中はみんな手練れだ。あれで毒の武器を使われたら、こっちはこの人数でもやべーぞ」
ルド=ルウもまた、淡い茶色の瞳を鋭く輝かせている。
そして――街道を埋め尽くしていたざわめきが、じょじょに静まっていった。いよいよその一団が、こちらに近づいてきたのだ。
往来の人々は道をあけるため、屋台の向かいに広がる無人のスペースに駆け込んでいる。
俺は屋台の前に立ち並ぶ人々の肩越しに、その一団の姿を見守ることになった。
まず最初に現れたのは、トトスの手綱を引く東の民の姿である。
フードを深くかぶっているために人相はわからないが、手綱を握った手の先が黒い。それに、いかにも東の民らしい長身痩躯のシルエットであった。
ただ、常と異なるのは――その身に纏った、フードつきマントである。おおよその東の民は生成りの革のマントを纏っているものであるが、彼らのマントは限りなく黒に近い藍色に染めあげられていた。
そんな東の民が二列縦隊で、しずしずとトトスの手綱を引いていく。その人数は、きっかり10名であった。
その後に続くのは、トトス車の一団だ。そちらも御者台から降りた東の民が、同じ様相でトトスの手綱を引いていた。
トトス車は、2頭引きの立派な造りだ。それに、城下町で見るものに負けないぐらい、装飾のほうも立派であった。
そして、その左右は手ぶらの東の民たちに守られている。おそらく宿場町に到着するまでは、車に乗車していたのだろう。それがどうして御者とともに降車したのか理由はわからなかったが、とりあえず1台の車につき4名以上の人間が控えているようであった。
そんな荷車が、続々と通りすぎていき――その6台目あたりで、俺はまた息を呑むことになった。そちらのトトスは2頭とも純黒の羽毛を有しており、そして車もひときわ立派な造りをしていたのだ。
こんな真っ黒のトトスを見たのは、初めてのことである。ゲルドのトトスは暗灰色の羽毛をしているものが多かったが、こちらは羽毛からくちばしから足先のひづめから、すべてが墨で塗り潰したように漆黒であった。
そして立派な車のほうは、何から何まで深い藍色に染めあげられている。
そしてそちらは、屋台から見える片側だけで10名もの東の民に警護されていた。逆側にも同じ人数が控えているならば、総勢で20名もの人間に守られているわけであった。
それらの面々も、のきなみ藍色のフードつきマントを纏っている。
藍色のトトス車を、藍色のマント姿の人々が警護しているのだ。
否応なく、俺はアリシュナが予言した『藍の鷹』という言葉を思い出していた。
その後はまた普通のトトス車が何台か続き、そして車を引いていない10組の人とトトスで締めくくられる。
そして――それから何歩か遅れる形で、ふた組の人とトトスが現れた。
その片方はジェノスの衛兵で、もう片方は森辺の狩人である。
森辺の狩人はジェノスの衛兵に何か囁きかけると、屋台の裏手に回り込んできた。
「こちらの取り仕切り役は、誰であろうか?」
頭巾をかぶった精悍な狩人が、緊迫した面持ちでそのように問うてくる。
「俺だ!」と答えたのはラッツの家長で、そこにジザ=ルウも駆け寄ってきた。
「貴方は、サウティの家人だな。あれはいったい、何事であろうか?」
「うむ。本当は、あやつらに先んじたかったのだが……トトスに別の道を駆けさせても、けっきょく追い抜くことがかなわなかった。遅ればせながら、族長ダリ=サウティからの言葉を伝えさせてもらう」
サウティの狩人は、鋭い眼差しで俺たちを見回してきた。
「あれは、東の王族を名乗る一団だ。あやつらは、森辺に切り開かれた道からやってきて……そのまま、森辺へと通ずる門を開くように言い渡してきたのだそうだ」
「……東の王族? あの一団が、そう名乗ったのであろうか?」
「うむ。最初は何も名乗らぬままに、門を守る衛兵たちに開門を迫ったらしい。それを拒まれると、『こちらはシムの第七王子殿下を擁する王都の一行である。衛兵風情が王子殿下のご来場を妨げる心づもりであろうか?』と告げてきたのだそうだ」
俺は三たび、息を呑むことになった。
シムの王子のご一行――ジェノスを見舞う混乱の正体がそのようなものであったとは、さすがに想定の外であったのだ。
「そ、それでいったい、どうなったのですか?」
「うむ。衛兵にも、頭の回る人間がいたようでな。森辺の集落は自治領区であり、どのような身分の人間が相手でも来場を拒む権利があるし、うかうかと森辺の掟を破れば手ひどい罰を受けることにもなりかねない。ことは国交に関わる話であるので、まずは領主マルスタインに来訪の旨を告げていただきたい……と、そのように諭したというのだ」
「それで大人しく、引き下がったのだな?」
「うむ。しかるのちに、衛兵がサウティの集落まで危急を伝えてくれたのだが……南に下る道は、あやつらで埋め尽くされていたのでな。ルウの集落のそばの道までトトスを走らせて、衛兵のひとりとともに駆けつけてきたのだ」
「しかし」と声をあげたのは、アイ=ファであった。
「南の道を下ったのならば、ダレイムの最南部に出るのであろう? そこから宿場町までは、数刻がかりの道ではなかったか?」
「うむ。あやつらのトトスは、車を引かせていても恐ろしい速さで動けるのであろうな。そうでなくては、トトスにまたがった俺たちより先んじられるわけがないのだ」
「つまり……それだけあの一団は、取り急ぎマルスタインのもとを目指したというわけか」
ジザ=ルウは穏やかな面持ちのまま、不可視の圧力をゆらりと漂わせた。
「相分かった。こちらからも、城下町に人をやるべきであろうな」
「うむ。俺もこのまま城下町に向かうつもりだが、ルウの人間に同行してもらえればありがたく思う」
「承知した。……ルドよ、城下町には、俺が向かう。こちらの取り仕切りは、任せたぞ」
そのように告げてから、ジザ=ルウはラッツの家長に向きなおった。
ラッツの家長は、勇猛なる笑顔でそれを迎え撃つ。
「俺の役目はかまど番たちを守ることなのだから、城下町はそちらに任せる。……それとも、俺たちまでルウの命令に従えという話であろうか?」
「否。そちらはそちらで、任せよう。ルド、ルウの血族はお前に任せたぞ」
「おう。商売が終わったら、そのまま帰っちまっていいんだな?」
ジザ=ルウが「うむ」とうなずいたとき、どこからともなく「やあやあ」という声が聞こえてきた。
俺がぎょっとして振り返ると、ねぼけまなこのカミュア=ヨシュと柔和に微笑むレイトが立っている。しかし、驚いているのは俺ひとりであった。
「カミュア=ヨシュ。貴方が気配を殺さずに姿を現すのは、珍しいな」
「はいはい。ずいぶん空気が殺気だっていたので、うっかり斬り伏せられてしまわないように取り計らった次第です。昨日はちょっと酒が過ぎてしまって、面白い見世物を見逃してしまったようですね」
あくびを噛み殺しながら、カミュア=ヨシュはにんまりと笑った。
「で、今度の相手はシムの王族ですか。城下町に向かうなら、俺もお供いたしましょうか? 僭越ながら、俺と一緒であればかなり自由に動けると思いますよ」
「……貴方の心づかいに、感謝を捧げよう」
あのジザ=ルウが、あっさりとカミュア=ヨシュの提案を受け入れていた。
つまりそれぐらい、ジザ=ルウもこの出来事を重く見ているのだ。彼らが真っ直ぐ森辺の集落に踏み入ろうとしていたというのなら、それも当然の話であった。
(もうこの時点で、大混乱だけど……シムの王子様は、なんの目的で森辺を訪れようとしたんだ?)
俺はそのように考えたが、どれだけ頭を悩まそうともそんな疑問に気のきいた答えを見つけ出すことはかなわなかった。
かくして、後世に『藍の鷹の事変』として語り継がれる大騒動は、ここに幕を切って落とされたのだった。




