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異世界料理道  作者: EDA
第八十四章 藍の鷹の事変(前)
1446/1686

序 ファの家長の生誕の日~紅蓮の狭間~

2024.1/22 更新分 1/1

・今回は全8話です。

 大変な賑わいの中で幕がおろされた大試食会の、翌日――赤の月の10日である。

 その日は、我が最愛なる家長殿の20回目の生誕の日であった。


 俺と出会った頃は17歳であったアイ=ファも、ついに20歳になってしまうのだ。

 そして、アイ=ファと同じ世代である俺も、あと2ヶ月半ほどで追いつくことになる。かえすがえすも、自分やアイ=ファがそれほどに齢を重ねるというのが信じられないところであった。


 20歳というのは、やはりひとつの大きな節目であるだろう。俺の故郷でも、20歳といえば立派な大人の仲間入りであるのだ。そんな風に考えると、自分の至らなさに身の縮むような思いであった。


 もちろん俺も、それなりに成長はしているつもりでいる。この3年間というのは決して平坦な道ではなかったし、こんな環境であれば成長せざるを得ないだろうと思うのだ。少なくとも、俺の故郷とは比較にならないほどの変転と波乱に満ちた日々であるはずであった。


 もしも俺が、あのまま故郷で過ごしていたならば――一年半ほどをかけて高校を卒業し、あとはひたすら《つるみ屋》で働き続けていたことだろう。親父は広い世界を見てから進むべき道を選べしという教育方針であったが、俺は大学に進学する気も他の業種につくつもりもさらさらなかったのだ。本音を言えば、高校にも行かずに調理の腕を磨きたいぐらいであったのだった。


 いっぽう、実際の俺はというと――森辺のかまど番として、日々の仕事に明け暮れている。

 こんな未来を、いったい誰に予測できただろうか。というか、俺はあの日に焼け死んだはずなのだから、これは決して津留見明日太としての正しい未来ではないはずだった。


 俺はおそらく天上の神々のはからいで、第二の人生を送ることになったのだ。

 それがこれほどに幸福で満ち足りた人生であったことを、いつまでも忘れずに感謝し続けるべきであるのだろう。俺はいまだに心の奥底に、家族や幼馴染を置き去りにしてしまった苦悶と申し訳なさを隠し持っていたが――それでもこの世に絶望することなく、希望にあふれた日々を生きることがかなったのだった。


 俺にそのような幸福をもたらしてくれたのは、アイ=ファを筆頭とするこの世界のすべての人々である。

 もちろんその中には、俺にとって災厄そのものでしかない面々も含まれていたが――楽しいだけの人生などはありえない。それらの悪しき存在も、より正しい運命を迎えるための試練だったのだと思えば、憎悪や敵意とは異なる思いで心の片隅に置くことができた。


 ともあれ、俺はこの世界そのものに救われたようなものであるが、その最初のきっかけとなったのは、アイ=ファだ。アイ=ファがいなければ、俺は森辺にやってきた最初の夜にあえなく息絶えていたはずであった。


 そんなアイ=ファと3年近い日々を過ごし、そしてアイ=ファは20歳となる。

 アイ=ファの20回目の生誕の日――それは、俺にとってかげがえのない、大切な一日であったのだった。


                  ◇


 そうして迎えた、赤の月の10日であるが、どれだけ大切な日であろうとも、俺たちの日常に変わりはなかった。その前日が城下町における祝宴であったため、俺には屋台の商売が、アイ=ファには狩人の仕事が待ち受けていたのだ。どれだけ多忙であっても日々の仕事をおろそかにしないというのは、森辺における不文律であった。


 というわけで、日中は常と変わらぬ慌ただしさである。相変わらず、休業日明けの営業初日は普段以上の勢いでお客が押し寄せるものであった。

 それに、ジェノスは間もなく雨季を迎える。雨季の間は行商も苦労を増すため、さしもの交易の都たるジェノスも閑散期に突入するのだ。今はロウソクの火が消える前の最後に賑わいであるのかもしれなかった。


(その雨季も、これで3回目なんだよな。家長会議や復活祭なんかは、もう3回経験してるわけだし……本当に、俺はこの地で3年間も過ごしたんだ)


 実際に3年が経過するのは2ヶ月半後のことであるが、それまでに控えた大きなイベントといえばアイ=ファやジバ婆さんやリミ=ルウの誕生日、そして雨季ぐらいのものである。それで俺も、いささかならず勇み足で感慨深くなってしまうのかもしれなかった。


 この雨季に、ジェノスは大きな混乱に見舞われるだろうと、アリシュナはそのように予言している。

 しかし俺に、臆するところはなかった。もしもそれが大地震や飛蝗の襲撃に匹敵するほどの大事件であったとしても、みんなで手を携えて乗り越える他ないのだ。そして、俺の周囲にはこれだけ頼もしい面々が居揃っているのだから、俺も俺なりに力を尽くすしかなかった。


 そうしてその日も無事に商売をやりとげたならば、森辺の集落に帰還して、いよいよ晩餐の支度である。本日ばかりは勉強会を休みにして、祝いの晩餐に注力する心づもりであった。


「さー! アイ=ファのために、頑張ろうねー!」


 ファの家のかまど小屋にて、そんな声を張り上げたのは、リミ=ルウである。本年も、アイ=ファにとって大切な友であるリミ=ルウとジバ婆さんとサリス・ラン=フォウをお招きすることになったのだ。


 そうしてルウの家人を招待するとなると護衛役としてルド=ルウが同行し、サリス・ラン=フォウも愛息たるアイム=フォウを同行させている。そこまでは去年と同じ顔ぶれであったが、今回は特別ゲストがもう1名加えられていた。リミ=ルウたちにとっては可愛い甥子にあたる、コタ=ルウである。ここ最近になってコタ=ルウはアイム=フォウとご縁を結ぶ機会を得たので、せっかくならば招待してしまおうという運びになったのだ。


「ま、コタはアイ=ファじゃなくって、アスタに会いたいだけなんだろうけどなー」


 ルド=ルウがそのように茶化すと、聡明なる4歳児のコタ=ルウは「ううん」とぷるぷる頭を振った。


「コタ、アイ=ファもすきだよ。すごくやさしくて、つよいから」


「ふーん。でも、アスタのほうが、もっと好きなんだろー?」


「コタ、すきなひとにじゅんばんつけない」


 意地の悪い叔父を相手に、一歩も引かないコタ=ルウである。そんなコタ=ルウの姿を、アイム=フォウは感心しきった眼差しで見守っていた。


「もー、ルドって意地悪だよねー! まあ、コタのほうが大人だから、どうってことないけどさ!」


「だったら、この中で一番ガキなのはお前ってことだなー」


「リミだって、ルドより大人だもん! もうすぐ11歳だしねー!」


 リミ=ルウはうきうきとした声で応じながら、素晴らしい手並みで食材を切り分けていった。

 俺とリミ=ルウとサリス・ラン=フォウが調理に励み、ルド=ルウとジバ婆さん、コタ=ルウとアイム=フォウがそれを見守っている格好だ。なおかつ、入り口のすぐ外に置かれた木箱では3頭の子犬たちがたわむれており、母親たるラムと番犬のジルベがそのさまを見守っていた。


「そーいえば、ファの家には猫が一匹増えたんだろ? 二匹そろって、家でくつろいでんのか?」


「新入りのラピは家だけど、サチはたぶん屋根の上だね。相変わらず、なかなか一緒に過ごそうとしないんだよ」


 俺がそのように答えると、サリス・ラン=フォウも微笑まじりに「そうですね」と声をあげた。


「フォウの家で預かる際にも、サチとラピはおおよそ別々に過ごしています。なんというか……きかん気の姉に甘えん坊の弟という風情ですね」


「ふーん。そんなんで、つがいになれるのかねー」


「どうでしょう。でもきっと、時間をかければ確かな絆を育むことができるでしょう。サチもラピも、ファの家の家人であるのですからね」


「うんうん! 最後は、みーんな仲良くなれるよー!」


 どのような話題になっても、最後には和やかに締めくくられる。それもみんながアイ=ファの生誕の日に心を浮き立たせているためだろう。かまどの間には、とてもやわらかな空気があふれかえっていた。


 しばらくすると、ジルベが「わふっ」と嬉しそうな声をあげる。まだ日は高かったが、アイ=ファが森から戻ったのだ。それを出迎えたルド=ルウは、「おー」と感心した声をあげた。


「今日も大物をとっつかまえたなー。今日の収獲は、それで十分なんじゃねーの?」


「いや。森にもう1頭残しているので、それも持ち帰らねばならん」


「今日も2頭も仕留めたのかよー。じゃ、俺がこいつの始末をつけておくから、アイ=ファはとっととそいつを運んでこいよ」


 アイ=ファの仕事が遅れると、晩餐の開始も遅れてしまうのだ。ルド=ルウのこういった提案ももはやお馴染みであったため、アイ=ファもすぐに「うむ」と了承した。


「それでは、ルド=ルウに任せるとしよう。感謝の気持ちとして、牙と角を1本ずつ持ち帰ってもらいたい」


「堅苦しいなー。ま、アイ=ファがそれで納得するんなら、いただいておくよ」


 アイ=ファは「うむ」と応じてから、かまどの間を覗き込んできた。

 俺とサリス・ラン=フォウ、リミ=ルウとジバ婆さん、コタ=ルウとアイム=フォウが笑顔で出迎えると、アイ=ファはまぶしいものでも見るように目を細める。


「では、もうひとたび森に入ってくる。客人らは、くつろいでもらいたい。……アスタ、任せたぞ」


「うん。アイ=ファも、気をつけてな」


 アイ=ファは「うむ」とひとつうなずき、立ち去っていった。


「じゃ、隣の部屋を借りるからなー。ジルベ、こいつらのことは任せたぜー?」


「わふっ!」


 巨大なギバを抱えたルド=ルウは解体部屋に向かい、ジルベは尻尾をぱたぱたと振りながらかまどの間を覗き込んでくる。そのさまに、サリス・ラン=フォウがまた微笑まじりの声をあげた。


「族長筋のルウ家の方々に対して、失礼な物言いかもしれませんけれど……なんだか、誰もがファの家人であるかのようです」


「あはは! アイ=ファとアスタは、家族と同じぐらい大切な友だからねー!」


「うん……こうして毎年アイ=ファの生誕の日を一緒に祝えるのは、ありがたい限りだねぇ……」


 敷物に座したジバ婆さんも、顔をくしゃくしゃにして笑っている。

 俺としては、いっそう心を和ませるばかりであった。


 そうして時間はゆったりと過ぎていき、あたりはだんだん暗くなっていく。

 アイ=ファが2頭目のギバの始末も終えたならば、客人たちを母屋に案内してもらい、あとは3名のかまど番のみで調理の仕事を果たすことになった。


 そして、日没――晩餐の開始である。

 上座に座したアイ=ファは厳粛な表情を保ちつつ、慈愛の光がこぼれる眼差しで客人たちを見回していった。


「今日もこれだけの客人を迎えることがかない、心から喜ばしく思っている。……では、アスタよ」


「はい。……ファの家長アイ=ファの、20回目の生誕の日を祝福します。これからもファの氏に恥じない家長として生き、家人を導いてくれることを願います」


 かつてルウの家で習い覚えた祝辞を述べて、俺は手もとに準備していた青いミゾラの花を取り上げた。


「家長に祝福の花を捧げます。……アイ=ファ、おめでとう」


 祝宴では透明の花の髪飾りがつけられる右のこめかみに、俺はそっとミゾラの花を差し込んだ。

 アイ=ファは無言のまま、俺の顔を見つめ返してくる。その青い瞳に浮かべられる輝きが、俺の心を深く満たしてくれた。


「では、客人がたもお願いいたします」


 ジバ婆さんは膝を動かしてアイ=ファのもとまでにじり寄り、その胸もとに赤いミゾラを飾った。

 ルド=ルウは青いミゾラをリミ=ルウに手渡し、リミ=ルウは自分の準備した黄色いミゾラとともにそれを胸もとに飾りつける。そして、幼子のコタ=ルウは自らの手で白いミゾラをアイ=ファの腰あてにさした。

 サリス・ラン=フォウは青いミゾラで、アイム=フォウは白いミゾラ――申し合わせたように、全員がミゾラの花だ。生誕の日にはどのような花を贈っても自由だが、やっぱりアイ=ファにはハイビスカスに似た豪奢なミゾラの花がとてもよく似合っていた。


 頭も衣服もミゾラの花でいっぱいになったアイ=ファは、いくぶん気恥ずかしそうに微笑をこぼす。


「家人アスタ、そして友たるジバ=ルウ、ルド=ルウ、リミ=ルウ、コタ=ルウ、サリス・ラン=フォウ、アイム=フォウの贈り物を、心から嬉しく思う」


「うん! アイ=ファ、おめでとー!」


 元気に声を返すのはリミ=ルウだけであるが、他のみんなも優しい笑顔だ。ルド=ルウも自分の膝に頬杖をつきつつ、どこか満足そうに口の端をあげていた。


 土間でくつろぐ犬たちは、みんなきょとんとした目でこちらの様相をうかがっている。ギルルはすでに寝入っていたし、サチとラピは広間の対角線上にあたる隅っこで丸くなっていたが――何にせよ、人間ならぬ家人たちもこの喜ばしい瞬間に立ちあってくれていた。


「それでは毎年恒例の、特別な贈り物を捧げさせていただきます」


 俺がそのように告げると、アイ=ファは気恥ずかしそうな微笑を苦笑に転じた。特別な贈り物も、これで3度目――いや、生誕の日と関わりのない贈り物を加えれば4度目のことなので、俺はすっかり開きなおっていた。


「今回は実用品だから、遠慮なく受け取っておくれよ。アイ=ファ、誕生日おめでとう」


 俺は綺麗な織物に包まれたプレゼントを献上する。

 無言でそれを受け取ったアイ=ファは、しなやかな指先で包みを解き――そして、「ほう」と声をもらした。


「これは、刀か。それも……ルド=ルウがバナームで買いつけた、皮剥ぎ用の刀であるようだな」


「うん。ディアルに頼んでいた品が、やっと到着したんだよ」


 それは、カロンの皮を剥ぐために作りあげられた刀であった。かつてウェルハイドの婚儀のためにバナームまで出向いた際、ルド=ルウが同じものを購入したのだ。そうしてディアルに相談してみると、そちらでもやはり同じ品を取り扱っていたため、遠きゼランドから取り寄せていただいたのだった。


「他の連中はみんなバナームから取り寄せたのに、アスタだけはディアルから買いつけたんだよなー」


「うん。ディアルの鉄具は信頼できるし、他の品と一緒に運んでもらえば輸送の手間賃も大した額じゃないからさ。きっとバナームの刀より質が落ちることはないと思うよ」


「そうか」と、アイ=ファはこらえかねたように口もとをほころばせた。


「またこのたびも、飾り物の類いを買いつけているのではないかと考えていたのだが……お前にしては、珍しい判断であったな」


「うん。最近はアイ=ファも宴衣装を贈られまくってるから、いい加減に食傷気味なんじゃないかと思ってさ」


 俺がそのように伝えると、アイ=ファは口もとをごにょごにょさせたが、けっきょく何も言わなかった。


「それじゃあ、祝いの晩餐だねー! いーっぱい作ったから、いーっぱい食べてねー!」


 リミ=ルウの号令で、祝いの晩餐が開始された。

 主菜は、乾酪・イン・ハンバーグカレーである。カレーもシャスカもハンバーグもジバ婆さんにとって食べやすい献立であったため、今日という日にはうってつけであるのだ。もともと辛みは抑え気味であるが、幼いコタ=ルウとアイム=フォウのために甘口のカレーも準備していた。


 そしてカレーには、お好みで加えられるように福神漬けのようなものも準備している。以前にも同じようなものを手掛けていたが、今回はバナームから伝えられた酢漬けのアレンジだ。ダイコンに似たシィマとレンコンに似たネルッサを塩や砂糖や酢で漬けて、福神漬けに似た味と食感を目指した品であった。


 汁物料理は最近すっかり隆盛をきわめた豆乳鍋で、ギバのバラ肉とドエマの貝をふんだんに使っている。そして副菜はルド=ルウの要望でチャッチのコロッケと、若い面々には生野菜のサラダ、ジバ婆さんには温野菜のサラダで、どちらにも豆腐に似た凝り豆をトッピングしていた。


 品数はそれのみであるが、十分なボリュームであろう。とりわけアイ=ファには、特大のハンバーグを準備しているのだ。コロッケの消費はルド=ルウにおまかせして、大好物でお腹を満たしてほしかった。


「うーん。ファの家で晩餐をいただくのは、けっこうひさびさだよなー。やっぱアスタの料理は美味いよなー」


「レイナ姉の料理だって、美味しいけどね! でもやっぱり、ちょっぴり違う美味しさだよねー!」


 ルウ家の兄妹が華やかな空気を、ジバ婆さんとサリス・ラン=フォウが落ち着いた空気を、ふたりの幼子が微笑ましい空気を織り成している。それらのすべてが、とても温かであった。


「それにしても、アイ=ファが20歳とはねぇ……アイ=ファのこんな立派な姿を見ることができて、あたしはもう思い残すこともないよ……」


「何を言っているのだ。ジバ婆には、リミ=ルウが立派に育つ姿も見届けてもらわねばな」


「うん! リミが赤ちゃんを生んだら、ジバ婆に名前をつけてもらうから!」


「その頃には、90歳を超えちまうねぇ……そんな長生きをした同胞は、目にした覚えがないけれど……そんな幸福を授かれたら、心から嬉しく思うよ……」


「その前に、まずはアイ=ファとアスタの子だろー。……わっ、あぶねーな。ララじゃねーんだから、そんなもん投げつけんなよ」


 時おりそうした騒ぎが起きても、みんな楽しそうに笑っている。

 本当に、家族団欒であるかのようだ。すべての家族を失ってしまった俺とアイ=ファには、こういった賑わいこそが何よりの贈り物であった。


(昨日が大試食会だったから、ギャップがとてつもないな)


 こうして温かな空気に包まれていると、昨日の騒擾が夢のように遠く感じられてしまう。

 しかしべつだん、それでかまわないのだろう。気の置けない友人たちと過ごすゆるやかな時間も、熱気と活力にあふれかえった祝宴も、それぞれかけがえのない人生のひとときであるのだ。俺たちはそうして目まぐるしい日々を生きながら、3年という日を過ごしてきたのだった。


 そうしてゆっくりと食事を終えたならば、リミ=ルウの準備したデザートで晩餐が締めくくられる。さらに半刻以上も語らって、アイム=フォウが母親の胸で眠りに落ちると、今日という楽しい日も終わりを迎えることになった。


「お、雨がぱらついてきやがったなー。ジバ婆は、身体を冷やさないようになー」


 心優しいルド=ルウが、ジバ婆さんの小さな身体を抱きあげて荷台へと移動させる。サリス・ラン=フォウたちも家まで送ってもらうため、同じルウルウの荷車に乗り込んだ。


「それじゃあ、また明日ねー! アイ=ファもアスタも、おやすみー!」


 ぱらつく小雨の中、6名の客人を乗せた荷車が闇の向こうに消えていく。

 それが完全に見えなくなってから、アイ=ファは戸板を閉めて閂を掛けた。


 7頭の犬たちも、すっかり寝入ってしまっている。それらの姿を愛おしげに見回しつつ広間に上がったアイ=ファは、やおら真剣な眼差しで俺を見つめてきた。


「アスタよ。眠りの準備をする前に、ひとつ告げておきたいのだが」


「え? なんの話だろう?」


「うむ。それは……」と、アイ=ファは口もとをごにょごにょとさせる。晩餐の直前にも見せていた、愛くるしい姿だ。花にまみれた姿であるため、愛くるしさも倍増であった。


「お前が準備する飾り物と、ティカトラスが準備する宴衣装というものは、決して同列の存在ではない……ということを、お前にもわきまえておいてもらいたい」


 俺はしばし目をぱちくりとさせてから、ようやく理解した。


「みんなが帰るまで、それを言うのを我慢してたんだな。わかったよ、ありがとう。変な気をつかわせちゃって、ごめんな」


「……お前は本当に、私の真意を汲み取っているのか?」


「うん。ティカトラスの準備する宴衣装はべつだん嬉しくもないけど、俺の贈り物はそうじゃないって話だろう?」


 アイ=ファはいくぶん頬を染めながら、俺の頭を小突いてきた。


「わかればよい。では、眠るぞ」


「うん。今日も充実した1日だったな。あらためて、誕生日おめでとう」


「祝福の言葉は、一度で十分だ」


 そのように語りながら、今度は嬉しそうに微笑みながら俺の頭を小突くアイ=ファであった。

 食器はすでに片付けられているので、眠りの準備は歯を磨くぐらいだ。しかるのちに寝所まで移動したアイ=ファは、7つの花を大切そうにひとつずつ外して壁際に並べていった。


「いくぶん冷えるな。そろそろ雨季用の寝具を準備するべきであろうか?」


「うん。明日ぐらいに引っ張り出そうか。いよいよ、雨季も目の前だな」


 就寝前のおしゃべりは晩餐の場で済ませていたので、俺たちはそれぞれ寝具に横たわった。薄手の毛布を腹の上に引っ掛けると、たちまち俺のもとにはサチが、アイ=ファのもとにはラピがもぐりこんでくる。


 そうして燭台の火を消すと、寝所は闇に包まれた。

 しばらくすると目が慣れて、闇の中にアイ=ファの姿が浮かびあがる。窓から差し込む月明りが、髪をほどいたアイ=ファの姿をぼんやり照らしていた。


「明日からは、ラッツなどの狩人たちが宿場町まで同行してくれるのだったな。……くれぐれも油断するのではないぞ、アスタよ」


「うん。何が起きても無事に戻ると約束するよ」


「うむ。手の空いた日には、私も同行するからな」


 星読みの結果を重んじないアイ=ファでも、やはりアリシュナの予言には相応の警戒心を抱いているのだ。過去の例を見れば、それも当然の話であった。


 闇の中でアイ=ファが身じろぎ、俺のほうに手をのばしてくる。

 俺はその手をつかみとり、その温もりに心を満たされながら、まぶたを閉ざした。


 そして、俺は――灼熱の業火に包まれた。

 どこから悪夢に踏み込んだのか、まったく判然としない。俺は睡魔に身をゆだねるなり、悪夢の底に突き落とされてしまったようであった。


 漆黒の闇の中で、俺は真紅に渦巻く炎に焼かれている。

 そうして俺が苦悶にあえいでいると、四方八方から不可視の圧力が押し寄せてきて、俺の五体を粉々に砕くのだ。そしてその圧力が消え去ると、俺の肉体はまた業火に包まれており――いつも通りの無限地獄が繰り返された。


 だが――今日は何だか、いつもと様子が違っている。

 これほどの痛苦にさらされながら、俺はどこかで正気を保っていた。


 普段以上に、これは悪夢なのだという意識が残されている。全身を焼かれて圧死させられる苦悶を味わわされつつ、それを他人事のように俯瞰しているもうひとりの自分が存在した。


(なんだろう……何がいつもと違うんだ?)


 世界は漆黒であるはずなのに、あちこちに金色のきらめきが感じられる。炎が邪魔でうまく見て取れないのだが、薄曇りの夜空のようにぼんやりと星々が瞬いているような風情であるのだ。


 そのほのかなきらめきが、俺に勇気を与えてくれた。

 それで俺は何度となく繰り返される死の記憶に苛まれながら、何とか目を凝らすことができた。


 闇の帳の向こう側に、何か別のものが透けているようであるのだ。

 もしかしたら、そこにはあの正体不明の何者かがたたずんでいるのかもしれない。そのように思うと、俺はたちまちぞっとしてしまったが――それでも、目を凝らさずにはいられなかった。


 俺の深層心理だか何だかには、得体の知れない恐怖心がひそんでいる。

 それがその、正体不明の何者かに対する恐怖心であるのだ。顔に大きな火傷を負って、いつも微笑をたたえている、その人物――まったく正体はわからないのに、どこか懐かしいようにも感じられる、その人物こそが、俺が乗り越えなければならない最後の試練であるのだった。


(今日こそ、正体を突き止めてやる……お前は、誰なんだ?)


 それは俺が、過去に出会っている人間であるという。

 しかし俺には、それが誰だかわからない。故郷でもこちらの世界でも、俺は顔に火傷を負った人間などまるで心当たりがないのだ。


 であれば俺は、何か大切な記憶を失っているのかもしれない。

 だから、無意識下の恐怖心などというものから脱することができないのかもしれないのだ。


 俺は炎に包まれながら、ぼんやりと霞む一画のほうに這いずっていた。

 見えない何かに押し潰されて粉々にされても、また肉体は復元される。そのたびに、俺は少しずつ、ナメクジが這うような速度でそちらを目指した。


 そして俺は、白い靄の中を覗き込み――

(ああ……)と満足の吐息をこぼした。


(そうか……そういうことだったのか……)


 得も言われぬ安堵の思いが、炎とは別に俺の身をくるんでくる。

 そのとき、暗黒の中にきらめく星々のきらめきが輝きを増した。


 あっという間に、それらの輝きが暗黒を退けて――気づくと俺は、目を覚ましていた。

 しかし目を覚ましても、そこは闇の中だ。ただし悪夢の中で準備される漆黒の世界ではなく、月明かりにぼんやりと照らされる現実の世界の夜の只中であった。


 そして俺の身は、温もりに包まれている。

 寝具の上で横たわったまま、アイ=ファが俺の身を横から抱きすくめていたのだ。


 俺が顔を傾けると、アイ=ファの安らかな寝顔がうっすらとうかがえる。

 アイ=ファは俺の肩に頭をのせて、子供のように健やかな寝息をたてていた。


(ああ……アイ=ファはいつも、俺を悪夢から呼び覚ましてくれたっけ)


 暗黒を跳ね返した、金色のきらめき。あれは、アイ=ファであったのだ。アイ=ファはいつもあの美しい輝きで、俺を現世に引き戻してくれるのだった。


(もしかして……今日は手をつないだまま眠ったから、ちょっと違う心持ちで悪夢に立ち向かうことができたのかな)


 そんな思いを噛みしめながら、俺はそっとアイ=ファの頭に頬ずりをした。

 アイ=ファの甘い香りが、俺の心をいっそう満たしてくれる。いつも悪夢から目覚める際には冷や汗でびっしょりであったのに、今回はアイ=ファの温もりで守られていた。


 ただ――その分、悪夢の記憶が曖昧である。

 俺は白い靄の中に、いったい何を見たのか――俺はずいぶん満ち足りた心地であったのに、その理由を忘れてしまっていた。


(なかなかうまくいかないもんだな……でも、今日もアイ=ファのおかげで助かったよ)


 俺がもういっぺんアイ=ファの頭に頬ずりをすると、アイ=ファは「ううん……」と甘えたような声を発し、いっそうきつく俺の身を抱きすくめてきた。

 俺は幸せな心地でまぶたを閉ざし――その夜は、もう悪夢に見舞われることもなかったのだった。

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