幕間 ~十番目~
2024.1/1 更新分 1/1 ・1/15 誤表記を修正
・新年あけましておめでとうございます。本年も当作をお楽しみいただけたら幸いでございます。
・今回は、全8話の予定です。
ラッツとガズとベイムの合同収穫祭から2日後――赤の月の5日である。
その日、フォウの集落の広場において、リコたちの傀儡の劇がお披露目されることに相成った。
茶の月をまるまる使って修正に取り組んだ傀儡の劇が、ついに完成を迎えたのだ。その出来栄えを確認するために、まずはフォウの集落が最初の舞台に選ばれたわけであった。
族長筋を差し置いて最初に拝見するというのは恐縮の限りであるが、何せ傀儡の劇の主人公は俺であるのだ。劇の内容に問題かないかを確認する作業であれば立場のある面々を優先するべきであろうが、このたびはあくまで細かな部分の修正に過ぎなかったので、ファと近在の氏族に順番が譲られた次第であった。
「どのみち明日からは、森辺中を巡るつもりですので! アスタとアイ=ファには、忌憚なきお言葉をいただきたく思います!」
リコは真剣そのものの面持ちで、そのように宣言していた。
そもそも完成させたばかりであった傀儡の劇をすぐさま修正することになったのは、アイ=ファの感想がきっかけであったのだ。自分の言葉でリコたちに多大な苦労を背負わせてしまったのではないかと、アイ=ファはいささかならず気にかけてしまっていた。
しかしリコたちは、それだけの気概で傀儡の劇に取り組んでいるのだ。俺だって、料理に不備があると気づいたらそれを手直しせずに済ませることはできないだろう。リコたちの気概や熱情は、俺にとって好ましく思えてならなかった。
「しかし、わずかな手直しと言いながら、まさかひと月もかかろうとはな。やはり私は、余計な口をつつしむべきだったのではないだろうか?」
夕暮れ時、フォウの集落に到着するなり、アイ=ファはそんな言葉を俺にぶつけてきた。
「でも、それで理想の劇を完成させられるなら、まったく苦にはならないんじゃないかな。リコだって、アイ=ファに会うたびに感謝の言葉を口にしていたじゃないか」
「うむ。ベルトンのほうは、実に恨めしげな面持ちであったがな」
それはまあ、個々の性格のあらわれであるのだろう。しかしベルトンとて、リコのためであれば力を惜しまないのではないかと思われた。
そうして日没が近づくにつれて、広場はどんどん賑わっていく。本日は、ファの近在の5氏族――フォウ、ラン、スドラ、ディン、リッドから、観劇の希望者を募っているのだ。森辺においてはおおよその人間が傀儡の劇を楽しみにしているため、ほとんどすべての家人が集合してしまったように思われた。
ちなみにティカトラスの一行は現在も森辺の集落で夜を明かしており、昨晩の内に観賞を終えているらしい。リコたちもティカトラスの一行も森辺の空き家で過ごしている身であるため、普段から頻繁に行き来しているようであるのだ。今頃は、宿場町で商談のネタを探しながら飲んだくれているのだろうと思われた。
リコたちは、すでにフォウ本家の母屋の前で舞台の準備に勤しんでいる。最後にひと声かけておこうと考えた俺は、アイ=ファと一緒にそちらへと出向くことにした。
「リコにベルトン、あらためてお疲れ様。もともと素晴らしい出来だった劇がどんな風に仕上がったのか、楽しみにしてるよ」
木箱の中身をあさっていたリコは、「はい!」とおひさまのような笑顔を返してきた。くりくりの巻き毛が可愛らしい、13歳の少女である。彼女とはまだ1年と少しのつきあいであるが、出会ってすぐに年明けであったため、もう2歳も齢を重ねてしまったのだ。いくぶん背丈ものびたようだが、無邪気で愛くるしい立ち居振る舞いに変わりはなかった。
「予想以上に時間がかかってしまいましたが、そのぶん納得のいく仕上がりを目指すことがかないました! 今度こそ、みなさんにご満足いただけるように頑張ります!」
「うむ。お前たちの苦労が報われるように、私も祈っている。……くどいようだが、いらぬ口を叩いてしまって申し訳なかったな」
「何を仰るのですか! アイ=ファのおかげでより完成度の高い劇を目指すことができたのですから、わたしには感謝の気持ちしかありません!」
そんな風に言ってから、リコはにこりと微笑んだ。
「それに、手直しにひと月ばかりもかかってしまったのは、新たな傀儡を作りあげるのに手間取っていたためでもあるのです。ほら、これまではそれぞれの幕の間で傀儡の衣装を交換する手間があったので、みなさんをお待たせすることになっていたでしょう? そういう煩わしさをなくすために、合計で10体近くも新たな傀儡を準備することになったのです」
「なるほど。あのような細工物を10体もこしらえるというのは、たいそうな手間なのであろうな」
「はい。ですが、町で劇を披露する際にも、幕間の時間に野次を飛ばされることが多かったのです。それはきっと次の幕を早く観たいという思いのあらわれなのでしょうから、わたしは誇らしいばかりでしたけれどね」
と、今度は力強い笑顔を見せるリコである。彼女はこのような若年で、自分の才覚ひとつで勝負しているのだ。見た目は幼げで無邪気であるが、その内には強い意志の力が秘められているはずであった。
「では、そろそろ開始しようかと思います! フォウのみなさんも、よろしいでしょうか?」
「うむ。ひとつの幕で、四半刻ほどであったな? では、最初の幕が終わったところで、かがり火を灯すことにしよう」
すぐそばでこちらのやりとりを見守っていたバードゥ=フォウは、ゆったりとした笑顔でそのように応じた。
また、愛息のアイム=フォウを抱えたサリス・ラン=フォウが、笑顔でこちらに手を振ってくる。これは祝宴ではないので、5歳未満の幼子ものきなみ連れ出されているのだ。アイム=フォウはきらきらと瞳を輝かせながら、傀儡の劇の開始を待ち受けていた。
「では、劇を開始するそうだ! 男衆はなるべく後ろに下がって、幼子や女衆に場所を譲ってやるがいい!」
バードゥ=フォウの言葉に従って、広場の人々は移動を開始する。森辺の狩人は尋常ならざる視力を持っているので、人垣の最後尾からでも劇の内容を見て取ることができるのだろう。何せこの場には80名に及ぼうかという人間が集結しているため、大変な人混みであったのだった。
「それでは、始めさせていただきます。第一幕と第二幕にはそれほど大きな手直しも施していませんが、何か不備がありましたらのちのちお聞かせください」
リコはぺこりと頭を下げてから、舞台の裏手に回り込んだ。
あらためて、リコの澄みわたった声が響きわたる。バードゥ=フォウに居場所を指定された俺とアイ=ファは、最前列でその声を聞くことになった。
「森辺のかまど番アスタ。第一幕、スン家の章。……始めさせていただきます」
そんな宣言とともに、俺の姿をした傀儡がひょこりと舞台に登場する。
ひと月と少し前、ナハムとベイムの婚儀の場で披露されたのは新たに作りあげられた第三幕のみであったので、俺が第一幕を拝見するのはずいぶんひさかたぶりのことだ。そして俺はアイ=ファとの出会いを追体験させられて、またひそかに胸を高鳴らせることに相成ったのだった。
やはり回数をこなすごとに、リコとベルトンの手腕は磨きがかけられている。リコのナレーションに合わせてぴょこぴょこと動く傀儡たちは、本当に生あるもののような躍動感であった。
そこで最初に大きな変化があらわれたのは、宿場町における屋台のシーンである。
バランのおやっさんを模した南の民と、シュミラル=リリンを模した東の民が、屋台の前で口論を繰り広げるシーンであるが――そこに、追加の傀儡が登場した。南の民にも東の民にも、そのお仲間として2名ずつの傀儡がひっついていたのだった。
これは、アイ=ファの指摘とは関係のない修正である。新たな傀儡を作製するにあたって、リコたちはこのシーンにも新たな演出を施すことになったのだ。
2名ずつのお供の傀儡は、通常のものよりも簡素な作りをしている。というか、メインの傀儡の両脇に木の棒で繋げられた、かかしのようなものであったのだ。手足には糸も繋げられていないため、指先で操作することもできない作りであった。
ただし、手足の関節は通常の傀儡と同じような仕組みになっていたため、中心の傀儡の動作に合わせてカタカタと手足が動く。南の民の傀儡は南の民らしさを強調するために激しく動き回るので、それに連動して一緒に大騒ぎをしているような風情であった。
そして、それと相対する東の民の傀儡は、じっと静かにしているが――その中心の傀儡にも、新たな細工が施されていた。以前は東の民らしく黒髪であったその傀儡が、白銀の髪にされていたのだ。
(ってことは、これもアイ=ファの指摘から派生した修正ってことになるのかな)
アイ=ファがリコに指摘したのは、2点。シュミラル=リリンの言葉をアイ=ファが語っていた点と、ライエルファム=スドラの言葉をドンダ=ルウが語っていた点である。それを是正するために、リコはシュミラル=リリンとライエルファム=スドラの人物像を掘り下げるつもりだと宣言していたのだった。
なおかつ、左右に配置された東の民の傀儡は、どちらもフードから黒髪をこぼしている。そもそもは、東の民といえば黒髪のイメージであったため、シュミラル=リリンを模した傀儡も黒髪に仕立てられていたのだ。そちらを本来の髪色に修正したため、お供の2体を加えることで東の民のイメージを保持した――というか、そのためにお供の傀儡を追加しようという発想に至ったのかもしれなかった。
何にせよ、この修正によってまた劇のクオリティが高くなったようである。
3人でわちゃわちゃと騒ぐ南の民はとても舞台映えしたし、3人もいるのに静かに立ち尽くしているだけの東の民との対比がとても楽しかった。そして俺は当時の思い出をいっそう強く喚起させられて、思わず涙ぐんでしまいそうだった。
そうして次の修正ポイントは、家長会議のシーンである。
そこにライエルファム=スドラを模した傀儡が登場して、ファの家の主張に賛同を示したのだ。
名前は、明かされていない。ただ、通常の傀儡よりも小ぶりで、褐色の髪をざんばらに垂らしたその傀儡は、どこからどう見てもライエルファム=スドラであった。情感豊かなリコのナレーションが、暴虐なるスン家に対する反抗心と、ファの家の提案に対する希望の思いをくっきりと描き出していたのだった。
そうしてスン家の罪を暴きたてて、第一幕は終了する。
あたりはすっかり薄暗くなっていたので、バードゥ=フォウの指示でかがり火が焚かれたのち、すぐさま第二幕が開始された。この転換をスムーズにするために、リコたちは新たな傀儡を10体も準備することになったのだ。
第二幕も、しばらくは大きな修正もなく進行されていく。
最初の修正は、テイ=スンが討伐されるシーンだ。そこでも、新たに作られたライエルファム=スドラの傀儡が使用されていた。
しかしやっぱり、名前が明かされたりはしない。たとえ相手が大罪人であろうとも人を殺める役割であったため、ライエルファム=スドラの名は秘されているのである。そもそもはそのために、テイ=スンを斬り伏せる傀儡にはライエルファム=スドラの特徴を付与させず、名もなき森辺の狩人として扱われていたのだった。
修正の後でも名前は秘されたままだが、しかし家長会議でファの家に賛同していた森辺の狩人であることは一目瞭然である。
そして――『お前などに、飢えに苦しむ人間の思いがわかってなるものか』という台詞が加えられていた。
この狩人は、飢えに苦しんでいたからこそファの家の主張に賛同し、大きな希望を抱いた。その希望を守るために、手を汚してでもファの家のアスタを守り抜いた――リコたちは、またひとつの重要な事実を劇中に織り込んだのだった。
その後、《銀の壺》や建築屋との別れのシーンでは、また3体セットの傀儡が持ち出される。第二幕の修正は、それのみであった。
劇の開始から半刻ほどが過ぎ去って、ついに第三幕の開始である。
こちらでは、序盤から修正の跡がうかがえた。プロローグの「あるときには、森辺に婿入りを願う東の民によって、森辺に猟犬がもたらされることになりました」というところで、白銀の髪をした東の民の傀儡が登場したのだ。やはり名前が明かされることはなかったが、それが屋台でファの家のアスタと交流を結んだ人物であることは明白であった。
そうしてティアの傀儡が登場した際には、俺もまた目もとを潤ませてしまう。
第三幕を目にするのはこれでようやく4度目ぐらいであったし、そうでなくとも俺はティアの生き生きとした姿を目にするたびに涙をにじませてしまうのかもしれなかった。
やがて物語がクライマックスに差し掛かり、大罪人シルエルとの対決シーンに至って、ついにアイ=ファが指摘した修正ポイントがやってくる。
『……すべての森辺の民が家族の情愛に恵まれているとでも思っているのか、貴様は?』
かつてドンダ=ルウの傀儡が語っていたその台詞を、ライエルファム=スドラの傀儡が語っていた。
『自分が家族の情愛に恵まれなかったからこそ、それを自分の子に与えてやりたいと願う人間もいる。それとは逆に、どれだけの情愛に恵まれても、それをありがたいと思えなければ、意味はない。人間の情愛とは、他者と自分がそれぞれ手を差しのべ合わない限り、育まれることもないのだ』
家族と確かな絆を結べないまま失ってしまったのはライエルファム=スドラであるから、その台詞はライエルファム=スドラが語るからこそ重く響くのではないか――アイ=ファは、そのように指摘したのである。
俺とアイ=ファがその事実を知ったのは、ティカトラスの主導で開催された鎮魂祭のさなかとなる。スドラの次兄として生まれたライエルファム=スドラは、家長たる父や兄と心を通じ合わせる前に失ってしまった――と、ライエルファム=スドラはそんな風に語っていたのだった。
劇の内容が修正されたことで、俺はアイ=ファの指摘が正しかったことをまざまざと痛感させられた。リコはなるべく劇の内容をすっきりさせるために、登場キャラクターの数をしぼり、ライエルファム=スドラを登場させず、その言葉をドンダ=ルウに語らせたわけであったが――やはり、こんなに重要な言葉を他者に語らせてはいけないのだ。
(というか……ライエルファム=スドラこそ、物語の主人公に相応しい劇的な人生を送ってるんじゃないかなぁ)
俺がそんな感慨を噛みしめている間に、最後の修正ポイントに到達した。ファの家で、傷ついたティアを介抱しているシーンである。以前は俺とアイ=ファだけでティアの面倒を見ていたことになっていたが、そこにシュミラル=リリンを模した傀儡も同席していた。そして、薬草の扱いに長けたこの人物のおかげで一命を取りとめたことがナレーションで説明されたのである。
そして、以前はアイ=ファの傀儡が語っていた台詞が、シュミラル=リリンの傀儡から語られることになった。
『《アムスホルンの寝返り》によって、3名の大罪人、それぞれ異なる末路、辿ることになりました。サイクレウス、魂を返し、スンの家長、我が身を顧みずに大勢の人間を救い……そして、シルエル、再び大罪に手を染めました。私、人の意思こそ、運命を紡ぐと信じていますが、このたびは、神の意思、感じてやみません』
本物のシュミラル=リリンよりも、わずかばかりに流暢な喋り方だ。あまりにたどたどしい喋り方だと、劇の進行に支障が出てしまうためだろう。
ともあれ、こちらの台詞に関しては、先刻ほど大きな影響はないように思えたが――だけどやっぱりアイ=ファとシュミラル=リリンの両方をよく知る俺にとっては、とても自然に感じられる。やはりアイ=ファに「神の意思」という言葉は不自然に思えてならないのだ。
そうして第三幕が終わりを告げると、広場から大きな歓声と拍手が爆発した。
つい先日の合同収穫祭にも劣らない熱気が、一気に噴出したかのようである。ティアとの思い出にひたっていた俺は、その熱気と活力によっておもいきり現世に引きずり戻されたような心地であった。
舞台の前側に出てきたリコとベルトンは、それぞれ頬を火照らせながら一礼する。そして、老剣士のヴァン=デイロが少し離れたところからその姿を見守っているのも、普段通りの光景だ。バードゥ=フォウはひとしきり手を叩いてから、広場の面々へと呼びかけた。
「では、傀儡の劇の見物はここまでとする! 何か手直しの要求がある人間以外は、家に戻るがいい! すっかり暗くなっているので、帰り道には気をつけるようにな!」
人々は名残惜しそうな顔をしながら、端から順番に広場を出ていく。きっとこの後は各自の晩餐の場で、傀儡の劇の感想をぶつけあうことになるのだろう。俺とアイ=ファもそれは同様であったが、やはりリコたちに何の感想も伝えないまま帰ることはできなかった。
「リコにベルトン、お疲れ様。手直しをしたおかげでいっそう素晴らしい内容になったと思うし、他の部分もいっそう見事な出来栄えになっていたよ。ふたりは、本当にすごいね」
「ありがとうございます! アイ=ファは、いかがでしたか?」
「うむ。申し分のない出来栄えであったように思う。私もようやく、余計な口を叩いたという後悔から解放されたようだ」
アイ=ファはとても穏やかな眼差しで、そのように答えた。
すると――大きく手を打ち鳴らしながら、ひょろりとした人影が近づいてくる。その姿に、俺は心から驚かされることになった。
「カ、カミュア? いつジェノスに戻られたのですか?」
「たった今だよ。いやあ、リコたちの劇は素晴らしかったねぇ。こんな素晴らしい劇に登場できるなんて、俺も光栄でならないよ」
カミュア=ヨシュは何事もなかったかのように、のほほんと笑っていた。
リコはぽかんとしており、アイ=ファは顔をしかめている。
「お前はいつの間にフォウの集落にまぎれこんだのだ? 集落に踏み入るには、家長たるバードゥ=フォウの許しがいるはずだぞ」
「俺はちょうど第三幕の始まる頃合いに到着したのだよ。観劇の邪魔をするのは申し訳なかったので、こっそり息を殺していたのさ」
それで数十名に及ぶ森辺の狩人たちに気配を悟られないというのが、カミュア=ヨシュの恐ろしさであるのだ。まだ俺たちのそばにいたバードゥ=フォウは、面長の顔に苦笑を浮かべていた。
「まあ、何も悪さをするつもりはないのであろうから、いちいち咎めようとは思わんが……そもそもそちらは何のために、フォウの集落を訪れたのだ? どこかで傀儡の劇について聞き及んだのであろうか?」
「いえいえ。俺はアイ=ファたちに用事があっただけなのですけれどね。まさか傀儡の劇の新作まで目にすることができるとは、まったくもって嬉しい誤算でした」
カミュア=ヨシュの一行はリコたちが第三幕の作製に取りかかってすぐの頃、ジェノスを出立していたのである。俺たちにしてみれば、ほとんど2ヶ月ぶりの再会であった。
「そもそもそちらは、ティカトラスたちの来訪に合わせてジェノスに戻ってくると言っていたはずだな。ずいぶん遅い帰りだったではないか」
「ええ。実は旅先で、思わぬ騒動に巻き込まれてしまったのですよ。でも、何とか無事に切り抜けることができました。レイトもザッシュマも《キミュスの尻尾亭》でくつろいでいますので、どうぞご心配なく」
バードゥ=フォウと語らいながら、カミュア=ヨシュはあくまでのんびりと微笑んでいる。
すると、アイ=ファがいくぶんおっかない面持ちで口をはさんだ。
「それで、我々に用事とは? その背中に隠しているものと、何か関係があるのであろうか?」
「おやおや。やっぱりアイ=ファは、鋭いね。実は、そうなんだよ」
カミュア=ヨシュが長いマントの中から左腕を出すと、そこには手品のように手提げの四角い箱がさげられていた。ただし上から布を掛けられていたため、正体はまったく知れなかったのだが――その布の向こう側から、「なあう」という可愛らしい声が聞こえてきた。
「実は旅先で、思わぬ出会いを果たしてしまってね」
カミュア=ヨシュが布を取り去ると、四角い箱の正体は小さな檻であり――その内側で、真っ白の猫が水色の瞳をきらめかせていたのだった。
「わあ、綺麗な猫ですね!」と、リコがはしゃいだ声をあげる。
「そうなんだよ」と、カミュア=ヨシュはチェシャ猫のように笑った。
「……猫とは、シムの獣であろう? よもやシムまで足をのばしていたのか?」
「たとえトトスの早駆けでも、こんな短期間でシムと行き来するのは大変な苦労だろうね」
カミュア=ヨシュは同じ笑顔のまま、仏頂面のアイ=ファに向きなおった。
「この猫くんはどうやら東の商人の売り物であったようなのだけれども、それが盗賊団に強奪されることになってしまったのだよ。で、俺たちがその盗賊団をひっとらえることになったのだけれども、東の商人はすでに魂を返してしまっているし、辺境警備隊も猫の扱いなんてまるでわからないから、彼には帰るべき場所もなくなってしまったというわけさ」
「……どこかで聞いたような話だな」
「うんうん。ファの家のサチ嬢も、盗賊団の戦利品であったそうだね。同じような奇禍にあったもの同士、気が合うんじゃないのかな」
アイ=ファはまぶたを半分下げながら、カミュア=ヨシュと白猫の姿を見比べた。
「……どうして誰もが彼もが、行き場を失った猫をファの家に押しつけようとするのだ?」
「それは順番が逆かもしれないね。すでにファの家にサチという可愛らしい家人が存在するからこそ、俺もアイ=ファたちを頼らせていただこうかなと思いついたわけだよ。猫が西の地で同胞に巡りあうことなど、普通はなかなか考えられない僥倖だしねぇ。そしてさらに伴侶を娶ることができるだなんて、これはもう四大神の思し召しなのじゃないかなぁ」
「待て。その猫は、男児であるのか?」
「うんうん。サチの伴侶に相応しい美男子だろう?」
カミュア=ヨシュがそのように述べると、白猫はどこか甘えるように「なあ」と鳴いた。
「しかしサチは、気性が荒い。そのように優しげな顔をした猫とうまくやっていけるかどうかは心もとないし、ファの家はただでさえ3名もの子犬を抱える身であるし……」
「それで子犬の成長にあわせて、ちかぢか家を増築する予定なんだろう? そこに可愛らしい子猫たちまでくつろでいる図を想像してみたら、なかなか胸が躍るじゃないか」
「何を馬鹿な――」と言いかけて、アイ=ファは口をつぐんでしまった。きっとカミュア=ヨシュが言った通りのものを想像してしまったのだろう。子猫を見たことがないアイ=ファでも、それがどれだけ可愛らしい存在であるかは容易に想像がつくはずであった。
かくして――ファの家は、10番目の人間ならぬ家人を迎え入れることになってしまったようであった。